海に出掛けていた全員が、揃ってキャンプへ帰還。
戻ってすぐに、池と俺で貝を調理し始めた。
池を救う時の口実にした『採れた貝を食べよう』の実践だ。
心が壊れそうな時は、手を動かして気を紛らわせた方がいい。
そんな俺からの配慮でもある。
「こっちのサザエ持ってくな」
「うん。アワビもそろそろ出来上がるよ」
幸いというべきか、池に変わった様子は見られない。俺だったら柴田にグーを出していたかもしれないのに。
「ほい、サザエの壺焼き。熱いから気をつけてな」
「やったぁ!」
「あたし、初めて食べるかも」
「アワビは?」
「今、浅村が焼いてる。そこまで数ないから切り身になるけど」
「おい寛治、こっちにも寄越せ!」
「待てって!こういうのはレディーファーストなんだよ!」
「浅村みてぇなこと抜かしてんじゃねぇぞ!」
須藤の分は無くても良さそうだ。堀北に上げよう。
そんなことを考えながら、切り分けたアワビに手製の爪楊枝を刺していると。
「器用だな。砂袋の処理なんて直に見たのは初めてだ」
隣で調理を見ていた綾小路が声を掛けてきた。
「学校にいる間は、ほとんど毎日料理してたからね」
「木を削るのが手慣れているのも同じ理由か?」
「それは別。サバイバル番組とか見るのが好きなんだよ。エド・スタッフォードは?」
サバイバルと言えばご存じエド。
秘境での原始的な生活は、見ていて飽きない。そして、絶対に真似したくない。
彼の経験した環境と比べれば、今の状況は天国だろう。
いや、ハクナマタタと唱えながらムシを食べる境遇になろうと、堀北がそばにいる時点で天国確定なんだけど。
つまり、この世界は天国。前世で徳を積んだ甲斐があった。
「知らないな」
「ベア・グリルスなら見たことある?」
「それもない」
「どっちもサバイバル系のドキュメンタリーに出てるんだけど、オススメだから暇な時に見てみるといいよ。‥‥‥はい、出来上がり。みんなに配ってくれる?」
「わかった。そっちは?」
「先生にお裾分け」
そう言って、教師用テントへ足を運んだ。
「気が利くな。酒があればなお良かったが」
「準備できる材料だとワインかウィスキーですけど、イチから作ることになるのでとんでもない時間がかかりますね。そもそもここの気候で作れるかどうか」
「冗談だ。いちいち真に受けると面倒な類を引きつけるぞ」
「俺も冗談です。面倒な類については、お互い心あたりがあるのでは?」
「どうだろうな」
茶柱先生は口の端を微かに釣り上げて笑うと、貝を載せたトレイを受け取った。
「で、お前がわざわざ来たということは、他にも何か用があるのだろう?」
「はい。2点ほどお聞きしたいことが」
「言ってみろ」
「まず1つ目。他クラスのリタイアした生徒を確認する方法はありますか?」
「ない」
「島に残ってる他クラス生徒の所在も?」
問いかけと共に、右腕の多機能時計を指差す。
「それもなかなか難しい。私も含めた各クラスの教師がGPSで把握できるのは、自らが担当している生徒に限られる。生徒のバイタリティに異常が発生した場合など、いくつかの例外はあるがな」
「わかりました。それではもう1つ、最終日の流れについて確認させてください。試験は7日目午前8時の点呼を以って終了し、その後に各クラスの指名したいリーダーを茶柱先生へ伝える。この認識で相違ないですか?」
「用紙を渡すので、指名するリーダーはそれに記載しろ。他はそちらの言う通りだ」
サザエの身を手際よく取り出しながら、茶柱先生が返事を寄越す。
「その用紙はいつ提出すればいいのでしょう?」
「書き終えたらすぐに。普通に考えれば5分もいらないだろう」
「では違う聞き方を。どれくらい待ってもらえますか?」
「なんだ。遅れる予定でもあるのか?」
「場合によっては」
「‥‥‥ま、いいだろう。試験完了後、島に残っている全生徒を一箇所に集めて結果発表を行うことになっている。それが9時。ここから集合場所まで、この人数だから30分かかるとしよう。つまり、20分程度なら大目に見てやれんこともない。言うまでもないことだが、点呼を欠席すればペナルティーは発生するからな」
猶予は20分。
間に合う気もしなくはないけど、相手の動き次第な部分がある以上は楽観できない。
「もし結果発表に遅れたら?」
「正当な理由も無しに結果発表を欠席した前例はないから断言できん。が、下手をすれば試験結果にペナルティーを課されることもあり得る。遅れた時間などを加味して試験ポイントをマイナス、あたりは誰かしらが言い出すかもな」
「プライベートポイントを支払ってもいいので、そのあたりにもう少し融通を利かせてもらえませんか?」
切り身を口へ運んでいた茶柱先生の手が止まり、視線がこちらへ突き刺さる。
「20分で間に合うかどうかわからないので、それ以上遅れた場合は時間の猶予を購入していたという処理にして頂けないかと」
あちらの出した20分という時間は、他の教師へエコ贔屓でないと言い張れるギリギリのラインなのだろう。
口実があればもう一段上を通せるというのが俺の見解。
茶柱先生は直前で止めた一切れを口に放り込むとテントへ戻り、紙とペンを持ってから出てきた。
「それで、いくら払うつもりだ?」
「10万までなら俺1人でどうにか」
相場を知らない以上、こういう言い方しかできない。
クラスメイトに頭を下げて工面することも考えたけど、大した額にはならないだろうし。
「現時点なら、1分あたり1万のレートが妥当だろう。遅れが確定してからの取引であれば、さらに跳ね上がるがな」
言いながら、茶柱先生がペンを走らせる。
いろいろ言葉を並べているけど、要約すると10万ポイントで10分買いますという内容だ。
「全額つぎ込むかどうか、まだ決めかねているのですが」
「全額なら15万は出せるはずだ」
当たり前のようにこちらの残高を把握されている。
そうだろうとは思っていたけど、気持ちのいいものではない。
「いくら持ってるにせよ、定期収入の月1万と比べたらはるかに大きな額です」
「授業中のボーナスポイントをほとんど独占してるお前が言うことではないな。職員室でも話の種になっているくらいだぞ」
口と手を同時に動かしていた茶柱先生が、文書を書き終えて紙とペンを手渡してきた。
「それに、この試験が終われば月1万ではなくなるだろう?」
「‥‥‥ええ、そのつもりです」
諦めの返事と共に、自分の名前と日付を書き込む。
最後に全体を見直して、瑕疵がないことを確認してから用紙を差し出した。
茶柱先生は、受け取ったそれをヒラヒラさせながら口を開く。
「これの処理は進めておくが、現在試験中のお前は端末を保持していない。よって、ポイントの徴収は船に戻ってからだ。かわりに、結果発表の場にDクラスが遅れても10分以内ならば不問にして見せよう。それ以上は約束できん」
「遅刻しなかった場合も支払いは発生しますか?」
なんとなく無駄な予感がするけど、ネゴシエーション開始。
試験の度にこんな出費があってはたまらない。堀北とデートできなくなってしまう。
そもそもこの話自体、クラス昇格という茶柱先生の目的に沿ったものなのだから、『支払ったことにしておいてやる』くらいの言葉があってもいいだろうという気持ちも強い。貧乏学生を舐めているのだろうか。
「発生するに決まっているだろう。でなければ、毎日遅刻申請を投げてくるような愚か者が出てくる。もう1つ言っておくと、支払い処理の握りつぶしは私の裁量では不可能だ」
そう言って、目の前の教師は口を閉じる。
面倒な雰囲気を感じ取ったので俺も押し黙ったまま。
結果、沈黙を破ったのは茶柱先生だった。
「だが、10万がお前にとってそれなりの額であるということはわかっている。前にも言ったな。この学校は実力至上主義を謳っており、秀でた者には私の裁量である程度の便宜を図れると。これには、プライベートポイントの付与も含まれる」
「実質的に肩代わりしていただける、と受け取っていいですか?」
「早まるな、この試験の結果次第だ」
ほらきた。
‥‥‥ほらきた、と堀北ってめちゃくちゃ似てる。道理で語感がいいわけだ。
「そうですか。あまり期待しないでおきます」
「早まるなと言っている。10万以上の一括付与はそれなりに前例があるが、何かしらの物言いが入ることも多い。私にとってもそれなりに面倒だということを理解しろ」
わずかに口の端を吊り上げながら、茶柱先生は続ける。
「だからこうしよう。この試験でDクラスを1位で終えたら10万付与する。お前ならそこまで難しくはないはずだ」
提示された条件自体は妥当なものだけど、このまま承諾するのは面白くない。
発言の裏に、俺を手懐けようという魂胆が透けて見えている。
半端な結果を出そうものなら、『今回は多めに見てやる。次は期待してるぞ』みたいな論調で恩に着せてくる姿が目に浮かぶくらいに。
前からそんな雰囲気はあったけど、これはあからさまだ。
今後も、ことあるごとに主導権を握ろうとしてくるかもしれない。
だから、ここである程度絞っておく。
「レートを上げてもいいですか?」
こちらの問いかけに、茶柱先生が目を細めた。
「この試験で、Dクラスの獲得ポイントを他3クラスの合計以上にするか。または、Cクラスへ昇格するか。どちらかは果たして見せます。代わりにそちらは、付与ポイントを倍の20万にしてください」
「‥‥‥大きく出たな」
Aの戸塚とCの龍園、2クラスへのリーダー指名が的中して、俺がリーダーであることはバレない前提での提案。
それでもBクラスの占有ポイントや消費ポイントまで考慮すると、他3クラスの合計を上回れるかは微妙なラインだ。
いや、おそらくは20か30足りない。高円寺がリタイアしたせいで。
ただ、金田を抱えている一之瀬達がすんなり占有ポイントを獲得できるだろうか。
龍園達がAかBのリーダーを片方でも指名してくれれば、前者の条件は叶う見込み。夜間と最終日に俺1人でスポット占拠して、ある程度上乗せできれば確実に上回る。
8割方こうなるというのが俺の予想。
もう1つの条件は2割を引いた時の保険だ。
「‥‥‥一括で20万の付与となると、私がかなり攻撃されるだろう。以降も同じ様に話が通るとは思うなよ」
「その発言。受けて頂ける、と取ってよろしいですか?」
「ああ、構わん。試験中にも関わらず差し入れを持ってくる、その殊勝な心がけには応えねばな。それに、お前が言った通りの展開になるのなら安いものだ」
茶柱先生はそう言うと、空いたトレイを手渡してきた。
もう少しゴネる必要があるかと思っていたのに、やたら素直だ。
俺が知らない裏でもあるのだろうか。
「なんなら、もう少しレートを上げても構いませんよ」
「前のめりはほどほどにしておけ。お前は勝つ自信があるのだろうが、無茶はしないに限る」
「他クラスの試験ポイントは把握されていないのですか?」
「試験が終わるまではわからん。今私が知っているのは、Dクラスの未使用試験ポイントだけだ。スポット占有で加算されるポイントすら把握していない」
「なるほど。教師の過度な肩入れを警戒しての措置でしょうか?」
「おそらくは。クラスの順位は我々の評価、ひいては給料に影響してくる。となれば、良からぬことを考える教師への対策は必要だろうな。それでも抜け道はあるわけだが」
自分は金のために色々やっている。
暗にそう言いたいのだろうだけど、絶対に嘘だ。
もし本気で言ってるのなら転職した方がいい。
「さて、もういいか?私は試験終了までに20万付与の建前を考えておく。残りの試験、せいぜい楽しめよ」
そう言って、茶柱先生は自分のテントへと戻っていった。
***
4日目の夜は何事もなく過ぎ去り、5日目の朝を迎えた。
不眠の警備2日目と言うこともあって、若干の気怠さが薄い膜のように体を包んでいる。
でも、それだけだ。
やたらハイテンションになったり吐き気を覚えたりするかと思ったけど、今のところその様子はない。
その点で言えば、目の前の赤髪ヤンキーの方が症状的に当てはまっている。
吐き気じゃなくて、ハイテンションの方で。
「あ〜、俺も行きてぇんだけどなぁ」
昼過ぎに計画しているBクラスへの訪問中、イノシシとかに注意してほしいと話してからこの様子。
例のニヤニヤ顔で、とても楽しそうだ。
‥‥‥いや、邪推は良くない。
きっと新しい友人でも作って、そいつと遊びたいだけだろう。Cクラスにキャンプで楽しそうに遊んでた柴田とか、そのあたりで。
俺が須藤を信じないでどうする。
信頼こそ、人が生きる上で最も大事なことだというのに。
「よそのクラスに行きたがるなんて珍しい。新しい友達でもできた?」
須藤は圧が強いから連れて行く気はなかったけど、理由次第では。
「お前とせんせーのコントが見たいからに決まってんだろ」
はい留守番決定。やっぱり人間なんて信用するもんじゃない。
まあ、今回は話題提供のつもりで話したから、多めに見てあげよう。
須藤用の夏休み問題集が10ページ増えるだけだ。
「お生憎様。今回は一之瀬さんにお願いして星乃宮先生は外してもらってるから、須藤が言ってるようなことにはならないよ」
「フラグって知ってるか?」
「もちろん知ってるさ。勝利が確定してる状況のことでしょ?」
──ピコーン!
そんな感じで話しているうちにスポット周回の時間がやってきて、平田から指名されたメンバーでキャンプを出発。
その移動中に、堀北が声をかけてきた。
「今日、Bクラスのキャンプへ行くそうね」
「耳が早いね」
「須藤君があれだけ大声で話していたら、いやでも聞こえるもの。いつ決めたのかしら?」
「Cクラスのキャンプで一之瀬さん達と会った時、あっちから誘われて」
「目的は協力関係の構築?」
「そう。堀北さんに任せっきりだったけど、少しは俺も動かないと。動機も材料も増えたし」
「それなら、私も一緒に行くわ」
さて、困った。
浅村3原則の第2条には『浅村は堀北の意向を可能な限り尊重しなければならない』とある。
対して、現在の堀北の健康状態はお世辞にも良いと言えない。
その疲弊具合は、表情へ出さずに済んでいるのが不思議なほど。
つまるところ現状でのさらなる外出は、浅村3原則の第1条『浅村は堀北の安全を確保しなければならない』に反するのだ。
だから、キャンプに残って休んでもらう方向で説得する。
心苦しいとしても、それが堀北のためなのだから。
周囲のスポット占有その他の午前の日課も済ませて、現在の時刻は13時30分。
一之瀬と約束した時間 までにBクラスのキャンプ へ到着するべく、移動している最中。
「どうやらあなたも一之瀬さんも、他人へ配慮しすぎるきらいがあるようね」
隣を歩く同行者、堀北と会話をしながら足を動かす。
Bクラスキャンプへ向かうと平田に伝え、カードを預けて抜け出したのが20分前。
堀北の体調も考慮して移動速度はかなり遅めだけど、それを踏まえても時間にはかなりの余裕があった。
まあ、あれだ。
好きな人には勝てない。
それが世界の法則。
「それに付き合ってくれてるんだから、堀北さんには感謝しかないよ」
感謝はもちろんある。
堀北と2人きりで過ごす時間は常に需要過多なのだから。
ただ、体調への影響を考えると、どうしてもやるせなさの方が大きくなってしまう。
「‥‥‥一之瀬さんに借りがあることは、私も理解しているもの」
「それ。結構大きいから、早く返し切らないと利子がすごいことになりそう」
「そのために訪問要請を承諾したのかしら?」
「借りのことは念頭にあったよ。それが無かったら話を蹴ってたかもね」
「受けてたでしょうね。Bクラスとの協調自体に乗り気だったことと、あなたの性格を考慮すれば」
理由はともかくとして、読み自体は当たっている。
一之瀬の提案に乗った最大の理由が、堀北とBクラスの接触を減らすことだったとは口が裂けても言えない。
堀北の同行を許したことにより、その目論みが崩れようとしていることも言えない。
我ながら脊髄反射が過ぎると思う。『ゼロ男子政策』完遂の道程は果てしないようだ。
それはそれとして。
「性格云々についてはよくわからないかな」
「己の性分を理解しないと、いつか痛い目を見るわよ。浅村君を騙せる人なんてそうはいないと思うけれど」
脊髄反射での会話についてはまさに反省しているところ。
ただ、後悔はしていない。
結果的にはこうして堀北と2人でお話できているのだから。これであと1000年頑張れる。
「心配無用。信用する相手は厳選に厳選を重ねてるし」
「それは重畳。つまり、今回は相手を選んだ結果ということかしら?」
「クラス全体に関わることへ、個人の事情を介在させない程度の良識はあるさ」
なんだか堀北に変な目で見られたけど、別に嘘ではない。
確かに昨日まではバリバリ介在させていた。
それを反省して今から改めるので、嘘ではない。
これから先も同じような過ちを繰り返すという確信に似た何かがあるけど、その時までは『個人の事情を介在させない良識』を持ち続けているのだから、嘘ではない。
『2時間禁煙した』のと似て非なる理屈だ。
「‥‥‥着いたら、私と一之瀬さんは少し離れるわ。その方が彼女の目的にかなうでしょうし、話しておきたいこともあるから」
Bクラスを訪問することになった経緯は、一之瀬の個人的な事情も含めて共有済み。
その甲斐あってか、なんだかんだ言いつつ堀北も協力してくれるようだ。
『潜在的反対派』をどうにかする役割は俺なのだから当然の提案と言える。でも寂しい。
「わかった。ただ、お互い目の届く範囲にいよう」
「当然ね。遊びにきたわけではないもの」
堀北はそう言いながら、前へ向き直った
身体の動きから見て取れる消耗は日に日に増しているのに、その凛々しさは少しも損なわれていない。
いつもそうだった。
いつも泰然とした印象を崩さないのが、堀北という女の子で。
例外は、中間前の勉強会が頓挫しそうになった時と一昨日2人で話した時だけ。
だから、というのも変だけど。
今まで一度も笑っているところを見たことが無い。
堀北は、どういう時に楽しいと感じるのだろうか。
「堀北さんは、どういう時に楽しいって感じる?」
そのまま言葉に出てしまった。
今日の俺は、脊髄と口が直に繋がっているらしい。
脈絡が無さすぎて、流石の堀北も見たことがない表情をしている。
困ったような、そんな表情を。
‥‥‥何をやってるんだろう、俺は。
「‥‥‥ごめんなさい、意図がわからないわ」
「ごめん、今のナシ。意図なんてないから」
ほんの少しだけため息まじりに返すと、堀北が足を止めてジッと見つめてくる。
わずかに眉を寄せて、何やら考え込んでいる様子だ。
そのまましばらく沈黙が続いて。
この微妙な空気をどうしたものかと悩んでいたら、堀北から口を開いてくれた。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥小説を、読んでいる時かしら」
「‥‥‥確かに堀北さん、休み時間は読書してることが多かったよね。『罪と罰』とか」
「よく、そんなところまで見ているものね」
「読んだことのあるタイトルだから、目についたんだ。ドストエフスキーが好きなのかな?」
「彼の著書は読み始めたばかりよ。手始めに選んだのが、あれだっただけ」
「なら同じだね。俺も最初に読んだのは『罪と罰』だから。終わりの方が好きで、そこばっかり何度も読み返してたな」
「私は正直、途中までの方が好みだったわ。後半は拍子抜けというか、緊迫感に欠けていたもの」
「中盤の醍醐味はまさにそれだよね。物語がどんな終わりを迎えるのだろうっていう興奮は、一度しか味わえない」
「今読んでいる本が、丁度その段階ね」
「『白痴』?それとも『悪霊』?」
「ドストエフスキーではないわ。『誰がために鐘は鳴る』よ」
「いいチョイスだ」
「読んだことが?」
「あるよ。俺のヘミングウェイ入門書」
「私が最初に読んだのは『武器よさらば』だったかしら」
怪我の功名、思わぬところで会話に花が咲いた。
堀北の好きな話題は小説。最近のトレンドはヘミングウェイとドストエフスキー。記憶に刻みこんだ。
そうして口を動かしながら、堀北が好みそうな話題のストックを頭の片隅に積み上げていく。
この幸福で幸せなウルトラハッピータイムを少しでも長く楽しんでいたい。
ただ、その一心で。
‥‥‥なんか忘れてる気がするけど、この時間以上に重要なことなんて存在するわけないから別にいいか。
「さて、次は浅村君の番よ」
15分ほど話し込んだあたりで、堀北が流れを変えてきた。
「俺?」
「私だけが答えるのは不公平だもの。あなたも同じ問いに答えるのが筋でしょう?」
どんな時に楽しいと感じるか、という質問のことを指しているのだろう。
よくわからないけど、堀北的な公平とはそういうものらしい。
どんな時に俺が楽しいと感じるかなんて、そんなの決まっている。
「今みたいな時」
「‥‥‥からかおうとして言ってるのなら、容赦しないわよ」
「10割本心だよ。もう少し言うと、俺の場合は何をしてる時かじゃなくて、誰といる時かだと思う」
「‥‥‥‥‥‥だとしたら、大層な物好きね」
「ありがとう。厳選に厳選を重ねてるから、そこらへんにはかなりの自信があるんだ」
「どう受け止めたらそのセリフが出てくるのかしら」
呆れながらも応じてくれる堀北との会話は、それからもしばらく続いた。
そして、楽しい時間とはあっという間に過ぎ去ってしまうもので。
かなり多めに見積もっていたはずの時間は、Bクラスのキャンプへ到着した時にはなぜかオーバーしていて。
平たく言うと、堀北と俺はちょっとだけ遅刻した。