童話『うさぎとかめ』をもとにした後日談を含めた作品です。
いつだっただろうか。
ワタシがこうして足を運ぶことになったのは。
―そうか、あの時―
「やあ、キミはそんなに足が遅いのかい?」
ワタシに調子のいい、身勝手な声がかかった。
「見ての通り、ワタシはこうして生きてこられたからね」
彼、ウサギは平静を装ったつもりだったのだろうが血相を変えた。
「そんなに足が遅いんじゃあ何処にだって行けないね。きっとつまらない生き方をしているんだ、そうに違いない!お笑い草だ。カメの周囲の時間が止まってしまうよ」
小動物の甲高い、森中に響くような嘲笑が続いた。ワタシは少しムッとしたが「そこまで気にすることじゃない、無駄なことだ」と受け流していた。そうしていると他の獣たちが耳を傾けやってくる。野次馬めいた獣たちだ。何やら面白いことが起きそうだぞ、ジッと見てやろうじゃないか、と物語る視線だ。そんな光の反射が突き刺さる。
「やあやあ、聞いてくれるかい皆。このカメってやつに近づくとまるで止まってしまうぞ。食い物も食えたもんじゃないな。何せこんなに歩みが遅いんだからね!」
周囲の獣たちは「そんなはずはない、冗談だ」と思っていても退屈な森とその向こうの丘……そんな偏狭な地には他の楽しみもなく、何かの退屈しのぎになるだろうと無言の同調が始まった。
「おいおい、それならカメには近づくわけにはいかねぇな……」
「食い扶持すらありつけないんじゃたまったものじゃないね?」
「見てなさい、今に私たちも凍りつく!」
ワタシはとてもじゃないがいても立ってもいられなくなった。このままじゃ森中の笑いの種として一生を終えることになる。このまま引きさがる訳にはいかない、とそんな心情が湧いてきた。
「じゃあ証明して見せようか。どちらが足が速いかを競ってみよう」
ワタシのその発言を聞いたとき、全ての獣たちの笑い声が炸裂した。
「いいじゃないか、やってみせろよ」
「何処がいいか、いい場所を知らないかい?」
「ああ、向こうの山の麓がいいんじゃないか。決着がわかりやすい」
周囲の環境がルールを作っていく。それは誂えたような、ウサギとカメ以外の獣たちがモノの見たさの都合で段取りが進行して決まった。
「じゃあ、この森の一番太陽があたる日向からあの山の麓までだ」
ウサギもさっきの表情を取り戻して、上から目線でこう言った。
「この勝負、のらない訳はずはないよね」
木々と共に包む獣たちの声に興されて威力を増した言葉がワタシの胸を突き破った。
「……いいだろう。では明日の、太陽が昇り始めた時間で待っていよう」
そう口火を切った。敵うはずはない。だけれども、ここで逃げてしまえば負ける以上の屈辱を受けるに違いない、と察知した結果だったのだ。
「じゃあ、その頃にやってくるよ。しっかり時間を守ってね。ああ、でもその足じゃ今から向かっても難しいんだろうさ。ここでこのまま待っているといいよ」
大風が吹いたように森中が獣たちが声に震わされ、さざめきが止むまでは日が落ちるまでかかった。
ーーー
約束の場所と時間にウサギとカメの両者がやってきた。獣たちはおらず二人きり。両者共に視線を交わして言葉を使うことなくその場所に佇んだ。静寂に引き金をひいたのはウサギの方だった。
「あそこに咲いている花が見えるだろう?あの花が揺れたら、スタートだ。いいね」
「わかったよ」
まだ薄暗い森の中には暫し風は吹かず、渡り鳥の声だけが遠くから伝わるのみだった。時間が止まっているようだった。
葉の間から光が差す瞬間、花が頭を擡げた。
「ごめんね」
言葉がカメの耳を通り過ぎた。カメは出足を挫いてしまったが、一羽と一頭の約束と獣たちの輪の中で取り決められた誓言に従って競争は始まった。
ワタシの眼からしたら結果が決まっているようなものだった。だが一度行われたからには歩みをとめるわけには行かない。その足はウサギのそれよりも遅いだろうが、明らかに普段よりも早く働いているのだ。ワタシのできる精一杯をするのだ。
言葉を繰り返し繰り返し、木々が代わる代わる太陽が昇り落ちようとするまでカメは自分に言い聞かせた。太陽が一番高く上る頃、汗ではなく涙を流し始めた。落ちようとする頃には頬は乾いた。空が橙色になる頃にようやくゴールが彼の眼に入った。
「ようやく終わる。一番酷い屈辱からは解放されるのだ」
そう思った途端に心が軽くなり、重くなった四肢も全く問題とは感じなくなった。だが、なんだろう。待っていた森中の獣たちが不自然な喚声を上げていたのを感じた。嘲笑った訳でもなく論った訳でもなく、雲が雲を飲み飲まれるような声だ。ゴールに手をついた瞬間に息を取り戻しつつ、絞るように周りに聞いた。
「ウサギは、もう着いたかい?」
獣の一匹がもごもごと近づきこう言った。
「勝負に勝ったのはあんただよ」
更にもう一匹、甲羅を叩きながら劈く声をあげた。
「あのウサギに勝つとは魂消たもんだぜぇ!俺でも梃子摺ってたのによお!」
周りの声が信じられずカメは背を向けた。
彼の眼に映ったのは夕陽に焼かれた丸焦げのウサギだった。
ーーー
それから周囲の眼が変わった。獣たちが褒章と言わんばかりにスタート地点だった場所にありとあらゆる草が集まった。カメは食に困らなくなったのだ。更に今まで眼もくれなかった動物にまで声をかけられ様々な話を聞けたのだ。それはとりとめもなかったが、何よりも満たされた気持ちになった。
そんなある時、獣たちがいなくなった日暮れに木陰の裏からあの時のウサギが現れた。
「あの時の、ワタシより遅いウサギじゃないか。その鼻声は聞けるとは思わなかったが」
カメは獣たちの話もあってか増徴したのか、口も達者になって言葉が続いていく。
「キミとはもう口も利きたくなかったのだけれどね」
「少しだけ、キミに言わなきゃいけないことがあったんだ」
「へえ……毛がある分の話は聞かないつもりだよ」
「……あの時は、ごめんね」
ワタシは一瞬憮然とした。耳にしたような言葉だったからだ。だけれど、そんな一言で気分も変わる筈がない。あの時の決着はついて、互いの立ち位置はもう違っていたのだ。
「毛が三本しかなくて助かったよ。さあ、何処へなりともその足で遠くへ行くといいさ」
「それだけじゃないんだ!お願い、話を聞いて!」
「煩いね。じゃあ、星が満ちるまで時間をあげよう。草はたっぷりあるからね」
「……ありがとう」
陽が落ちながら、枝葉も揺れていく。影が伸びて消えそうな頃に漸く声を出した。
「ボクは、ああしなければ生きていけなかったんだ」
カメは漫然とした。どういうことだろうかと興味が湧いたのだ。
「キミは食べられることは少ないだろう。キミは硬い甲羅があって強い鱗もある。でも、ボクは違うんだ。いつも鳥や狼に狙われて、それでも走って逃げてきたんだ」
「……それで、どうしてワタシを愚弄したのだい?」
「ボクの足の速さを森中に知ってもらって、狙われないようにするためだった。そんなことのためにキミを巻き込んでしまったんだ。だから、お詫びにきたんだ」
そういうと、ウサギは先の木陰の中から草の束を持ち出してきた。
「言葉だけじゃたりないよね。だから、ボクの知ってる一等の草を持ってきた。よかったら、夕食にたべてみてくれないかい?」
ワタシは侮蔑と憐憫の秤にかけられたようで、どうもこうも言いようがなかった。時間が経って星が満ちそうな頃、ウサギが持ってきた草を口にした。するとどうだろう、今まで獣たちが持ってきた草よりもはるかに透き通った瑞々しさを持った、いつまでも長く味わえるような歯ごたえのあるものだった。これには表情を変えざるを得なかったようだ。
「気に入ってくれたようでとても嬉しいよ。よかったら、これから足りなくなりそうだったら持ってくるし生えてる場所も教えるね」
「こんな草は食べたことがなかった。今まで獣たちが持ってきたものとは大違いだ」
「そりゃ、あいつらは草じゃなくても別のものも食べられるからね」
「これは、何処に生えているのかな?」
「あの山の麓があっただろう?それとは真逆に行くと泉が二つあってね。こことは少し離れているけど、ちょうどこことは三角形になる位置なんだ。キミが許すなら、案内したいけれど……どうだろう」
草に夢中で気づかなかったがウサギが俯いている。暗がりのせいかよくわからなかったが、どうしてだろうと、ワタシが気になってふと顔を覗いてみた。瞼が潤っていたのだ。
「……明日の夜明けに出向いてもよろしいかな?」
ウサギは表情を輝かせた。
「ああ!もちろん、請け負ったよ!」
一羽と一頭は、和やかに星の下で眠りを迎えた。
ーーー
鳥たちが鳴きだした頃に、ウサギとカメは目を覚ました。
「さて、じゃあ案内するよ。ゆっくりついて来てね」
「ああ、お願いしよう」
そうして森の中を進み始めた。道は平坦でもあってカメはある疑問を思いついた。
「そういえば、どうしてキミはあの勝負に負けてしまったんだい?」
「実は、思い切り走りすぎて……疲れ始めた頃に転んでしまって足を怪我してしまったんだ」
ウサギを見遣ると、その通りらしい。歩みがぎこちなくなっていた。
「あの勝負に負けた後は怖かったよ。何せボクを狙っていたあいつらが眼の色を変えて襲いかかって来たんだから。それよりも、キミに謝らないことがボクにとって痛かったんだ」
「そうだったのか。その怪我は治りそうなのかい?」
「どうだろう。今まで怪我をしなかったからわからないや」
太陽が真ん中に上がった頃に一つの泉に辿り着いた。
「ここが一つ目の場所さ。キミに持ってきた草はここからとってきたんだ」
「どれ、昼食がてら食べてみよう」
「ボクもそうするよ」
泉の水の音と日差しの心地よさもあってか、昨夜より以上に豊かに感じられた。
「本当に、キミの言っている通りのものだ。こんなところはいつもじゃ足を運ぼうともしないよ」
「皆は見栄えのいい山の麓にばかり行くからね。退屈そうなところには行かないだろう?」
「それもその通りかもしれないな。ワタシもそちらの方が風通しもよく感じられるからね」
「もう一つの泉はまた別なのさ。食べ終わったら向かおうか」
一羽と一頭はまた進み始めた。次の道は少し叢の高い茂った通りだった。
「わかりにくいかもしれないけれど、影を頼りに進めば着くからね」
太陽から受ける光が影を作って、それが方向を示してくれている。
「流石に、ワタシの身体では動きづらいな」
「そうかもしれないけれど、キミがこの道を進み続けるときっと道もできてくるよ。もう少しだけゆっくり進もうか。ここではボクも多少は安心して道を進めるからね」
そうしていくと漸く開けた、先のよりも広い泉が現れた。土は泥濘を帯び水面は広く、泉の底が窺えるほど澄んでいた。
「今いる泉の向かい側に生えているんだ。足を踏み外さないように気をつけて」
「ワタシが沈んでしまうことはないのかね?」
「少しだけ離れれば足が汚れる程度さ」
泉に沿って向かい側に着くと、少し背の低い樹が幾つか立っていた。それにはとても小さな黄色を帯びた白い花たちが淑やかに咲いていた。その木から半歩ほど離れたところに、先のよりも深く青々とした小さい草が生えていた。影を意識しなくなるほど日が傾いていた。
「これらだよ。もう夜に近いから、これらを夕食にしようか」
「そうするとしようか。暫くこうして動くことはなかったから少し疲れたよ」
そうしてワタシたちは草を食んだ。口の中は、滋味を感じさせる柔らかな香りに満たされた。深みのあるそれでいて落ち着いた気分にさせる味だった。
「これは、先のとは違うけれどうまいものだ」
「うん、そうだろう。ここには風が広く渡ってくるから、今の時期にはちょうどいいんだ」
「季節は夏に近い。それにそこの樹が木蔭がみえる」
「暑くなったらそこで一眠りするといいんだ。風が涼やかに覆ってくれるから」
そうして星が空を動き始めた頃に、カメが口を開いた。
「キミには、多くのことを教えてもらった。今日来た道とは今まで縁のなかったよ」
「お気に召したかい?春と秋には向こう側の泉、夏にはここの泉に来るといいよ。秋には向こうの草も葉も変わっているし、キミに気に入ってもらえたならそれなら溜飲が下がったようなもんだね」
「ああ、これには礼を言わねばならない」
「そんな、礼なんてとんでもない!ボクは謝りたかっただけなんだ。そのお詫びとしてそのまま受け取ってくれればいいんだ……それと、ボクを許してくれるかい?」
「キミの事情は知らなかったし、こうして新天地を拓いてくれたのだ。こちらとしても例の一つとは言わないが、キミを許そう」
「……ありがとう」
ウサギは空を見上げた。星たちが意地の悪いことをした。頬を撫でる涙が煌かせた。暫しして、いかにも毛づくろいするように耳や顔を擦って、改めてカメに向かって彼はにこやかに言った。
「さあ、もう眠ろうか。今日は疲れただろうからね」
「……ああ、そうするとしよう」
冷たい風が被さるようにして、一羽と一頭は眠りについた。
ーーー
目覚めたときにはもう朝を通り越して昼近くになっていた。きっと昨日の疲れと食事で満足した腹のお陰なのだろう。ウサギはとうに目を覚まして木蔭に佇んでいた。
「やあ、おはよう。漸く目覚めたのかい?」
「そうだね、快い気分だ」
「へへ、それはよかった」
そうしてウサギは腰を上げた。
「ボクはそろそろ森に向かうよ。穴倉など見て廻らないといけないから」
「ワタシは森に戻る気分すらなくしてしまったようだ。冬眠する頃合には戻るつもりだがね」
「じゃあ、ボクはキミの様子を伺いに来るよ。気分が変わり次第、先の泉のどちらかを選べばいいからね」
「あいわかった、それではまたいずれ」
「ああ、じゃあね」
そう言うと叢に飛び込んで森に向かって跳ねて行った。
ーーー
しばしばウサギはカメのもとに顔を出してきた。その話の中では獣たちがどのようにして生きているか、渡り鳥たちが世界を巡って季節を追いかけるようにして旅をして土産話をしてくれることなど話を届けてくれるのだった。一方カメは、ずっと長く生きてきたけれども不満はなかったこと、今まで孤独というものを味わうことはなかった事など年の功とも言うべき話を持ち出して、互いに夏と秋を過ごしていった。前の獣たちと同じような話具合だったが、それとは別の感情が芽生えていった。足しげくいつも変わらぬようだが、ぬくもりを感じさせるものだった。
ふと思い出したかのように、カメはウサギに尋ねた。
「あの日向、獣たちが草を持ち寄ってきた場所はどうなっているのだい?」
「あそこかい?獣たちは草を持ってきたけれど、キミが現れなくなって暫くはもう誰も持ってきてはいないよ。種種雑多なものばかりだったから、入り交わって腐り始めたんだ。そのせいか誰も近寄ろうとはしないんだよ」
「なるほどね、でも、ワタシは冬眠するまでは戻るつもりはないよ。キミの教えてくれた居場所があまりにも心地いいものだからね」
「ボクは森の中を転々としているから、何か気になることがあれば見てくるよ」
「ああ、頼んだよ」
そうして秋が過ぎる頃、冬眠をするためにカメは森の中に戻った。その頃にはウサギが言っていてように泉二つの間に獣道が生まれていたのだ。
「そういえばあのウサギはぱたりと来なくなってしまったな」
気になり始めて、あの日向に足を運んでいった。
獣たちが今までに集めた草の上に見なれた毛皮が散らばっていた。その上は赤黒く滲んで、残った血肉には蛆が湧いて蠅たちが飛び回り、その影が無残な姿をを掻き乱し、その有様をやたら滅多に蹂躙していた。カメはまさかと思ってたまたま通り過ぎた鳥に尋ねた。
「なあなあ、このウサギはどうしてこうなってしまったのだい?」
「ああ、そこの屍かい?ある獣に襲われて逃げられなくなったところ喰われちまったのさ。その声は空に届くような高い声でね。その後の声は聞けたものでは無かったよ」
「だ、誰に喰われてしまったのだ?」
「知らないね。きっと食ったやつしか知らないよ。俺も知ったこっちゃないからね。因果応報というだろう。キミを馬鹿にした報いなのさ」
そういうと、鳥は飛び去った。
カメは静寂を保ったあと、慟哭した。声を荒げて川のように流れる涙を抑えきれなかったのだ。その響に周りの獣たちがやってきて、カメから距離を保ってこう言った。
「おっと、カメのやつが久しぶりに戻ってきたぜ」
「あんな場所には誰も来やしなくなったってのに」
「きっと嘲笑ったあのウサギが死んで喜んでいるのさ」
そう言い合った後に獣たちは去って行ったが、カメは三日三晩泣くのを止めなかった。ウサギの足の怪我が治っていなかったこと、獣たちがどう生きていっているかという話を思い出せば自明の理だった。日が過ぎるにつれて、今まで味わってきたのとのなかった深い暗闇がカメの心の奥底を埋め始めた。
「もうここには戻ってくることはできない。こんな記憶を持ってここにいたら死ぬよりも辛い呪いに囚われてしまいそうだ」
そうして、カメは悲哀を抱えつつずっと居座っていた冬眠の場所へと戻った。
ーーー
幾年月季節が代わる代わる、カメはウサギの教えてくれた泉の二つを往復していった。冬眠をする度に森の中に戻って行ったがあの日向へは絶対に近づこうとはしなかった。季節が顔を出す度に渡り鳥たちがカメのもとにやってきて土産話を持ちだしてきた。それはカメ自身の知らない世界の話ばかりでとても刺激に満ちていた。それでもウサギのことを忘れられはできなかった。またカメに疑問が浮かび渡り鳥たちに尋ねた。
「今までワタシにこんなに楽しい話を持っては来なかったが、どうして話してくれるのだい?」
「ああ、もういなくなったウサギに頼まれてたんだよ」
「自分よりも寿命が短いだろうからってさ」
「だから、お前が寂しい思いをしない様にって頼まれて……あいつは色んな木の実を持ってきたんだよ」
「不思議なことだったがいい思いをさせてもらったからね。その義理ってやつよ」
ワタシは久しく心を突き刺された。こんなに新愛を与えてくれたウサギの姿がより鮮明に戻ってきたのだ。奥底を蠢いていた暗闇がすうと落ちていった。ウサギのことを思うといてもたってもいられなくなったが、あの場所に戻る勇気には届かなかった。
「……答えてくれて礼を言う」
渡り鳥が飛び去った後に一つの泉が波立った。星の移った水面が揺れて光を躍らせ、風が叢を靡かせざわめかせた。その中にしくしくと声が密やかに細々とした声が通った。
ーーー
またずっと幾年月の間にカメは衰えていった。少しも不満も無い生をおくったことだろう。そうして熟成されていった時間の中で心の凝が解れていったカメは何を思い立ったかは自覚しなかったが、あの日向を避けながら山の麓まで足をゆっくり動かし始めた。
―豊かで数奇なものだったな―
ワタシは思い出す。ウサギの挑発、獣たちからの一瞬の栄光、短い期間にウサギの与えてくれたずっと長く続く贈り物、彼の惨い最期、今まで感じられなかった孤独とそれを埋めるかのようなウサギと渡り鳥との残していった約束。一泊二日ずっと思い返してながら、空に頭を擡げて胸がすく気持ちになって空に向かって微笑んだ。
カメはその二日かけて山の麓と森を往復した。
―ようやく、ここにこれた―
森の中で一番温かい場所。あの時のスタート地点だ。もはや死臭はなく肥やしとなった草だった土の上に、一つきりの骨の中、花が咲いていた。
「あの時と同じような花が揺れた時、お互いに出発したな」
ワタシはその花に近づいて身体を落とし、目を閉じた。
―今度は先に着いちゃったね。待っていたよ―
―ワタシもようやくキミとまた会えた―
―さあ、今度はゆっくり進んでいこう―
カメはもう目覚めることはなく日向に柔らかな光が広がった。
一羽と一頭の間の花が、密やかに風で揺れた。