不定期投稿となり本当に申し訳ございません。
変わらず応援いただけると非常に助かります。
誤字、感想等ございましたらご連絡お待ちしております。
開発都市オアシスは、六人の『災害』と一つの聖杯によって誕生した。
その成立目的は定かでは無いが、外世界にてこれより起こるラグナロクから人々を救済する為だとされている。
この桃源郷は新たなる約束の地であり、全ての区民が救済される運命にあるのだ。
そう、全ての区民が。
開発都市第一区、災害のライダーが統治するその場所は、古都京都をモチーフとする中流階級から上流階級の町。
開発都市第二区、災害のアーチャーが統治するその場所は、違法カジノや風俗営業施設を有する退廃の歓楽都市。
開発都市第三区、災害のバーサーカーが統治するその場所は、ならず者や革命軍組織が犇き合う工業地帯。
開発都市第四区、災害のキャスターが統治するその場所は、中流階級の暮らすベッドタウン。
開発都市第六区、災害のランサーが統治するその場所は、特権階級のみに許された豪華絢爛なシェルター。
それぞれに特色があり、住まう人間たちがいる。
では、開発都市第五区は?
何者が、この土地に足を踏み入れるのだろう。
その答えを、アヘルは知っている。
当然、第五区に住まう全ての区民が知っている。
開発都市第五区、災害のアサシンが統治するその場所は、『ケッソン』の集うスラム街だ。
第一区の名門校、静まり返った一室にて教鞭を振るう女は、ホワイトボードに大きくその単語を書き出した。
中にはその意味が理解できないという幸せ者もいる。故に、女は淡々とその説明を開始した。
ケッソン
それは身体障碍者、精神障碍者、難病を患う者たちの蔑称。
オアシスは桃源郷と謳われているが、その実、大きな差別を孕んだ歴史を歩んでいる。
貧困層から上流階級を問わず、何らかの重篤な病を持つもの、私生活を個人では送れないもの達は、生まれてすぐに、または一定の期間を経て、第五区へと住民票を移される。
これは災害の考案したルールだ。
彼らに差別的思考があった訳では無い。主目的として、各地区からの『天還の儀』でケッソンが選出されないようにする配慮である。
英霊の歴史を上書きする者が、病や大きなハンデを抱えている訳にはいかない。特に人間に関心が無いキャスターやバーサーカーのいる地区で起こり得る選抜のエラーだった。
故に、第五区へと集め、管理する。災害のアサシンが受け皿となり、ケッソンを治療、リハビリ、社会復帰へと繋げていくのだ。
災害の編み出した法令であるが、当然、ヒトの手に委ねられたとき、階級差別が発生する。
上流、中流、貧民、そしてその下に、ケッソン。
第五区へと送られることを『島流し』と呼称し、ケッソンという蔑称を与えたのも人間たちだ。
ある種の部落差別は千の時を超えても受け継がれ、第五区そのものが、足を踏み入れてはならない土地として教育される。
たとえケッソンの子が健常者であったとしても、第五区で生きる以上は差別の対象でしかない。
だからこそ、若者は第五区の外へ思いを馳せる。そして第五区民は大いなる器で道標たる災害のアサシンを信じるのだ。
女は赤色のマーカーで、ホワイトボードの文字を強調した。
この説明が試験に出ると公言した途端に、だらしなく座っていた生徒の数々が、ノートを取り始める。
第一区の上流区民には果てしなく興味の湧かない講義だろう。
遠く離れた国の戦争がどれだけ悲惨なものであっても、安全圏にいる自分たちには絵空事。
女にはそれを糾弾する義務もやる気も存在しない。
「(幸せですね)」
少しばかり外へ出れば、その先は地獄。
第四区は要となる災害のキャスターを失い、第三区と第六区では人々が血を流している。
女はつい数日前まで、第三区へと出向き、その拳を振るい続けていた。
だが第一区へと戻れば、そこは危機感のない人間たちが束の間の平穏を享受している。
対岸の火事なのだろう。
だからこそ、幸せ者だ。
女は『そちら側』に居座るものたちを、羨望の眼差しで捉えていた。
「ミヤコせんせ?」
急に押し黙った女を訝しんだ生徒の一人が、彼女の名前を呼ぶ。
女はふと我に返り、説明を続けた。
本来、オアシス歴の授業は、彼女の担当では無い。
初老の専任講師は、世界情勢を鑑み、逃げるように第一区を後にした。
彼の所在は不明、無断欠勤が一週間続いたのち、無情にも解雇された。
故に、女は代わりとなって教壇に立っている。
女の専任分野は『哲学』と『心理学』だ。過去の事実をただ淡々と語り継ぐだけの『歴史分野』に思い入れは無い。
だから、退屈。
「失礼しました、話を続けます。」
女は乾いている。
つい数日前の刺激を忘れないでいる。
『彼』を思い出すと、マーカーを握る指先に力が入った。
久々に、潤ったのだ。そして満たされたのだ。
感情などとうの昔に失った筈であるのに。
何かを、取り戻しつつある。
それは愛でも、情欲でも無い。
清々しい、晴天のような殺意。
臓器に至るまで解体し、完膚なきまで犯し尽くしたいという想い。
「(指が……踊っている)」
不思議な高揚感が、女を支配し続けていた。
そしていつの間にか授業は終了し、生徒たちは教室を後にする。
女が教科書の類を片付けている最中、室内に残るもの達がいた。
一人の少女と、学生とは思えない身形の男。
年齢は釣り合っていないように見える。少女の保護者であるのだろうか。
女の方をただ静かに見つめていた。
問うべき、だろう。
女は少女の素性を確認する。
「授業は終わりましたよ。」
「はい、分かっています。信華様。」
ミヤコ先生、ではなく、信華様。
そう呼ぶのは、きっと第一区の人間では無い。
同業か、取るに足らないケッソンか。
女は少女の顔をまじまじと見つめてみる。
どこかで会ったことはあるだろうか。
思い出せない。
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「私は探偵、彼女はその助手です。」
聞いてもいないのに、隣の男が身分を明かす。
黒髪をワックスでテカテカに固めた、何とも胡散臭い男だ。
探偵、というならば、女の居場所を特定した理由も定かだろう。
彼と彼女は明確な意図で『都信華』に会いに来たのだ。
「やはり、覚えてはいないですか、信華様。」
「ええ。申し訳ございません。」
「失礼しました。彼は『霧峰龍二』、そして私は『室伏ネム』と申します。」
室伏ネム。
女は、信華は、その名前に聞き覚えがあった。
たしか〇年前に、彼女を指導したことがあった。
だが記憶へのアクセスを繰り返すたび、信華の脳には黒いノイズがかかる。
「信華様の…………松岱(まつだい)道場の門下生でした。適正者では無い私に、生きる術を教えてくれたのは信華様です。」
室伏ネムは、過去に信華と関わりがあった。
アヘル教団の末端構成員として働く彼女は、専属従者として『メスメル(オルタナティブ)』を召喚し、博物館のように聖遺物奪取の任務に徴兵される。
そして怪盗ルパンの起こした事件をきっかけに、アヘルとは袂を分かち、今は霧峰探偵事務所で雇われることとなったのだった。
「松岱……懐かしい響きですね。」
「あの頃の信華様は、笑顔がとても素敵な方でした。今は、ロボットのような、人形のような……」
「変わりませんよ、きっと昔から。」
かつての恋人『松岱連也(まつだいれんや)』の名は思い出せても、室伏ネムは一ピースたりとも記憶に刻まれていなかった。
長い年月をかけて、多くのモノを徐々に忘却した。
そのことを申し訳なく思うくらいには、人間らしさを有している。
様という敬称を用いるネムは、きっと信華を慕っていたのだろう。
頭痛が止まない。
「信華様…………」
「アヘルを、辞めたのですか、ネム。」
「はい。私は新しい人生を歩んでいます。末端構成員の誰か、ではなく、室伏ネムとして。」
ネムはそう言い放つ。
隣に座る龍二は、彼女の啖呵に動揺を隠せなかった。
アヘル教団の闇を、遠坂組所属の船坂優樹から嫌という程に聞かされていた。
裏切者には死を。
左大臣である信華が殺意を向ければ、ネムや龍二では歯が立たない。
きっと影から見守っている、ジムやメスメルでさえ。
だが、信華はぎこちない笑みで応答した。
それは感情を失った女の精一杯の賛辞だった。
「それは、とても良かったですね。」
龍二はほっと溜息をついたが、ネムはその場で固まっていた。
気付いてしまったのだ。
ネムは都信華を良く知っている。
故に、かつて信華とは別の『何か』になり果てたことを悟った。
門下生と共に笑い、キッズムービーで泣きじゃくり、常に誰かの幸せを願う『信華せんせい』はもういない。
ネムはそのことが、心の底から寂しかった。
「では、さようなら、ネム。またどこかで会いましょう。」
信華は教室を離れ、デバイスに映し出された、ある場所へと足を向ける。
最期の授業に、かつての門下生と会えたのは幸運だった、かもしれない。
蛇王ザッハークの命令ではなく、己の意志でそこへ向かう。
また、あの逞しい青年に出会う為に。
『右腕は預かった。真実を求めるならば、第一区の〇〇へと向かえ。』
自ら切り落とした右腕は、ナナだけが持つべきもの。
もしも奪われたなら、命に代えても取り戻す。
都信華が何者であろうと関係ない。彼女は彼女の目的のために生きる。
「さて、戦場(いばしょ)に戻りましょうか。」
不意に、お守りのように忍ばせていたロケットペンダントが床に落ちた。
中から飛び出たのは、とても懐かしい写真。
白衣を着た三人組が、ピースサインで笑っている。
一人は、黒い肌に虹色のサングラスをかけた大男。
一人は、目を輝かせる、幼い桃色髪の少女。
そしてもう一人は、満面の笑みの自分自身。
アンヘル研究所の、昔馴染みたち。
いつかの、幸せな思い出。
もしあの日に戻るなら────
断片的な記憶の引き出しを開け、そんなくだらないことを想像してみた。
【信奏編③『都信華Ⅰ』】
『ヴェノムセイバー適正マイナス1、直ちに実験を終了してください』
無機質なアナウンスがこだまする。
全身から汗を噴出した信華は、その場で意識を失った。
急ぎ駆けつけたのは、この実験施設の所長を務める男、セバスチャン・ディロマレンガー。
またの名を、ヴェノムキャスター『ショーン』。
彼は信華に取り付けられたチューブとコネクタを取り外し、緊急処置を施す。
命に別状はないが、小一時間は目を覚まさないだろう。
疲労が溜まっている状況での適正者テストは危険だと、あれ程告げた筈なのに。
セバスチャンは大きく溜息をついた。
「本当、頑張り屋さんなんだから。」
セバスチャンに遅れて、もう一人の施設管理者が姿を見せた。
その幼き容姿とはかけ離れて、頭脳明晰な女である。
「セバス、寝ている女の子の身体に触れるなんて、いかがわしい奴だナ!」
「んもう、緊急オペよ、緊急オペ!というか女の子同士だし、許して欲しいわ!」
「確かにナ。失礼しました」
淡い桃色の髪をふわりとたなびかせ、女はお茶目な顔を浮かべる。
彼女は遠坂杏寿、コードネームはヴェノムランサー『ニョッカ』。
開発都市オアシスが誇る名医で、かつ冒険家だ。
遠坂の血筋を継ぐ正統後継者でありながら、今はアンヘル研究所に身を置いている。
彼女を疎ましく思う研究員は多数存在するが、少なくともセバスチャンや信華は、杏寿の味方となってくれるだろう。
ヴェノムアンプルが齎す、輝かしき未来。
ザッハークによって選ばれた者たちが、方舟に乗ることが出来る。
開発都市第五区の常識だ。
この研究施設は、一人でも多くの区民を方舟に乗せる為にこそ、存在していると言える。
「ニョッカちゃん、今回のこの結果を見て、どう思う?」
「信華のこと?」
「勿論そう。彼女は……」
「七騎の適正テスト、全てがゼロ数値でなくマイナスに振り切っている。明確な英霊の拒絶反応、まぁ間違いなく信華は適正者にはなれないだろうネ。」
「ゼロならば、後天的な覚醒も視野に入れる、でもマイナスは、そうよね。」
「残念だけれど。」
都信華の肉体は、ヴェノムを受け入れなかった。
典型的な非適正者の波長。こればかりは仕方が無いとしか言えない。
セバスチャンはがっくりと項垂れた。まるで自分事であるかのようだ。
同じ研究員として、信華のことを誰よりも認めていた彼だからこその反応だ。
対して杏寿は、どこか冷めた眼差しで信華を見つめている。
「まぁ、方舟の件は、大丈夫じゃないかナ?エックスデイが差し迫っている訳でもないだろうし。」
「漠然としているわよね。でも、問題はきっとそこじゃない。」
そう、問題はそこじゃない。
差別を受けてきたケッソンが集うこの都市は、決して新たなる楽園では無い。
『適正者』と『非適正者』という大きな溝が、新たなる人種差別を生み出してしまったのだ。
信華がこの研究所でどれだけの成果を生み出そうにも、非適正者であるが故に、組織の中枢へ登り詰めることは無い。
無限に広がる可能性、その九割が絶たれてしまうのが、この適正者テストの実情だった。
「とりあえず、信華はアンジュ様の部屋に寝かせておくヨ。セバス、悪いけど運んでくれない?」
「うん、そうね。一先ず温かいベッドで眠ってもらいましょうか。」
二人は信華を抱え、研究室を後にする。
セバスチャンが途中ぶつぶつと独り言を唱えていたが、杏寿は敢えてそれを聞かないようにした。
彼は自分の正義を決して疑わない男だ。杏寿には計り知れない闇を抱えているかもしれない。
だが、それを受け止めてあげることだけが、友の条件では無い。そう彼女は考えていたのだった。
※
「あれ…………ここは?」
信華が目覚めた場所は、マッドサイエンティストの研究所、ではなく、杏寿のみが使用するのを許されているラボだった。
怪しげな薬品が机の上に散乱している。一つでも触れてしまったなら大火傷してしまいそうだ。
信華はゆっくりと体を起こし、周囲を見渡してみる。
その際、寝違えたのか首に激しい痛みを覚えた。
何時間眠っていたのだろう。
実験は成功だったのか、それともまた────
「起きたナ、信華。」
「あ……」
奥からコーヒーカップ片手に現れた杏寿は、白衣こそ纏っているものの、内側はあられもない下着姿であった。
信華は咄嗟に目を伏せる。たとえ同性と言えども、気を使う間柄ではある筈だ。
だが杏寿本人は能天気だ。気にする素振りも無く、信華のいるベッドに腰かける。
そしてデバイスの操作を開始し、先の実験結果を信華へと詳らかにした。
「ニョッカ様……」
「様はいらないヨ、アンジュ様は親友にまで尊敬されたくない性分でネ。アンジュと呼べばいいと、いつも言っている筈。」
「すみません……」
仕方の無い話なのかもしれない。
非適正者は、適正者を尊ぶべき、それが第五区に根付いた暗黙の了解だ。
仕事となれば猶更。たとえ自身が年上でも、相応のキャリアを積んでいたとしても、新入社員の若年層が適正者ならば敬語で話す。
それが当たり前だと、そう学んできた。
友と呼べる存在であったとしても、だ。
「信華、単刀直入に、実験は失敗。七騎オールエラーだネ。」
「そう……ですか。」
信華は薄々理解できていたが、それでも分かりやすく項垂れた。
期待していたのかもしれない。
大切な恋人と創り上げていく未来、それが輝かしいものである筈だと、ただ信じていた。
そこに非適正者の烙印が影を差す。
どれだけ出世を重ねようと、給料は頭打ち。
アヘル教団のセントラル支部、その配属への夢は絶たれた。
「ヴェノムに、拒絶されてしまったのですね。」
「そうだネ、こればかりは仕方の無いことさ。」
杏寿は途方もない数の実験失敗、そして非適正者の絶望を見てきた。
だが実の友人の哀しみは、自分のことのように深く突き刺さる。
気休めの言葉をかけるつもりはない。
何故ならば、杏寿は信華の目指す『持つ者』であるからだ。
恵まれた立場から、どんな思いを伝えられようか、いや、何も伝えられまい。
彼女に出来ることは、ただありのままの事実を突きつけることだけ。
「信華は凄く特殊な波形をしているネ。非適正者でも、クラスによっては波長が乱れることもあるんだけど(それでも基準値は下回るけれど)君の場合は七騎全てが全く同一のグラフを描いている。寸分違わず、同じだヨ。世にも奇妙な事例だ。」
「と言いますと?」
「軸がぶれない、ということは、そもそも英霊という存在を受け入れる以前の問題なんだ。血中ヴェノムが暴走するとか、それによって命を落とすだとか、その次元の話じゃないのサ。まず、一切合切全てをはじく。筋肉がしっかりしすぎて、注射針が刺さらないのと同じ。」
「……?」
「人間と英霊の調和、それがヴェノムの基本思想だが、信華の場合は、人間であるかが怪しい段階なのヨ。」
「…………私は人間ですよ?」
「ヒトの皮を被った妖怪の可能性がある……なんてネ!」
杏寿は舌を出し、恍けてみせる。
長い付き合いだ。杏寿は信華の身体を隅々まで把握している。ただの人間であることは明確な事実だ。
いっそ特別な力でもあれば、セントラルへと招かれただろうか?
考えてもキリが無い。
「とりあえず、付き合って頂きありがとうございました。ベッドも貸していただいて。」
「構わないサ。今日はもう帰って温かいベッドで休みなさい。エクストラクラスの血中ヴェノム分泌過程の研究論文は、また来週までに提出してくれればいいヨ。」
「あぁ、有難うございます。ですが、このあとは……」
「まさか、道場?」
「……今日も門下生たちが練習に励んでいますから。」
信華は疲れを見せず微笑んで見せる。
松岱道場の師範である彼女を待つ子ども達がいるからこそ。
教育熱心なことだと、杏寿は呆れるしか無かった。
時刻は既に十九時をまわっていた。
信華は外套の少ない夜道を急ぐ。
非適正者が住まうベッドタウンの一角に、彼女の恋人の家がある。
血の繋がった両親がいない信華にとっての、唯一の居場所がそこにあった。
急がなければ。
はやる気持ちで進む彼女は、周りを良く見渡せていなかった。
途中、暗がりで向かって来る一人の男に肩をぶつける。
彼女は押し負け、尻餅をついた。
彼女にも、そして男にも非は無い。偶発的な事故だ。
そして幸いにも、両者怪我はしていなかった。
男は謝りながら、信華へと手を伸ばす。
身体つきはえらくしっかりしているが、学生服を着ていることから、未成年であることが窺い知れる。
もし彼が門下生ならば、鍛え甲斐がありそうだ、と彼女は何となく感じた。
「すみません、前方不注意でした。大丈夫ですか?」
「あ、いえ、すみません、こちらこそ。」
信華は男の手を取り、立ち上がる。
その時、得も言われぬ違和感が彼女の脳内を走り抜けた。
不快感、と言うべきだろうか。
青年が邪な気持ちを抱いていた、などという話では無い。
絶対に相容れない存在、交わってはいけない強烈な拒絶心。
信華はその感情の詳細を理解することは出来なかった。
故に、研究者として興味を抱く。
学生服の青年に、ただの子どもに、何があるというのだろうか。
「あの、この辺りの学生さん、でしょうか?」
「あ、いや、家はこの辺りだけど、学校はもっと遠くて。部活を手伝っていたら遅くなってしまって。」
「そう……ですか。」
「あの、何か?」
「いえ、何でもありません。失礼しました。」
知り合いでも無い若者に突如話しかけるのは不審者そのものだ。
信華はそそくさと退散する。
一人残された青年は、彼女の揺れるポニーテールを茫然と眺めていた。
「一体何だったんだ?」
信華が抱いた違和感を、青年もまた同様に感じていた。
非適正者の町に来る人間の多くは、当然ながら非適正者。
ならば彼女も、自身と同じくそうだろう。
だが、簡単には結論付けることの出来ない、何か大きな力の流れのようなものを感じ取った。
青年は、『鶯谷鉄心』は、その正体を決して知らない。
※
信華は松岱道場へと辿り着き、先にその二階へと駆けあがる。
その場所は彼女の恋人『連也』とその両親の居住地であり、同棲している信華の実家とも言える。
彼女はまず先に居間へと向かい、寛いでいる女性に声をかけた。
「ただいま!おかあさん!おとうさん!」
「あら、信華ちゃん。遅くまでご苦労様。」
「おう、信華、お疲れ!」
ウェーブのかかった白髪の高齢女性と、髪の薄い痩せ型の高齢男性が同時に振り向く。
連也の母であり、信華にとっては義母にあたる、『松岱夕子』、そして義父である『松岱文也』だ。
道場は文也が開業し、今は息子の連也へと引き継がれている。
かつての師範であることから、文也は骨ばっているが、筋肉の衰えが無い。
対して夕子は少々メタボリックである。甘い菓子を食べ過ぎているようだ。
二人の屈託なき笑みに、信華も釣られて笑うのだった。
「どうだったの、セイバー適正は。」
話を切り出したのは夕子だ。
信華の研究者としての仕事と、適正者試験を受け続ける姿を、夕子はこれまで応援し続けていた。
だからこそ、気にかけていたのだろう。
信華はなかなか言葉を紡ぐことが出来ずにいた。
また、期待に沿えなかった。
きっと松岱一家は温かく受け入れてくれるだろうけど。
それでも、非適正者の烙印は重い。
「すみません、おかあさん。」
「そっか……仕方ないわよ!私たちも皆、適正ナシだし!落ち込まないで、ね!」
夕子は信華の背中に手を回し、抱き留める。
その優しさに、堪えていたものが溢れ出してしまう。
杏寿には決して見せなかった涙。
恩人である松岱に、何か返せるものがあればよかった。
連也に、夕子に、文也に、セントラルの給料で楽をさせてあげたかった。
才能という文字が、今は憎い。
だが、それでも。
夕子は信華を抱き続け、文也は信華の髪を撫で、いつまでも慰め続けたのだった。
信華は暫く感情を爆発させた後、一階の道場へと向かった。
そこでは数名の子ども達が拳法を学んでいる。
中心には連也がいて、厳しくも優しく指導している。
普段は大人しい眼鏡姿の彼だが、先生を臨む際は、コンタクトレンズへと変わり、師範の顔つきとなる。
そのギャップが、信華の恋心をくすぐった。
彼女は更衣室で胴着に着替える前に、暫く連也の様子を眺めている。
彼がバンドマンとして路上ライブをしていたときも、こんな風に見つめていた。
決して才能があるとは思えない歌声を、小一時間にわたり聞き続ける。
見物客は彼女一人だけ、ただ一人のファンの為に、彼は声枯れるまで歌った。
道場の跡取り息子と研究者の女、属性の合わない二人が結ばれるまでに、そう時間は掛からなかっただろう。
「あれ、信華せんせい?」
呆然とする信華に声をかけたのは門下生の一人だった。
この汗くさい道場には似合わない、今風の小学生。
「ネムちゃん、こんばんは。」
「いま、連也師範のこと見つめていましたよね?」
「えー、そうかなぁ?」
「アツアツですね~せんせい!」
ネムは容赦なく揶揄ってくる。
距離感の近い少女であるが、信華は不快に思わなかった。
むしろ言葉数が少ないことを自覚しているので、誰問わず話しかけてくれるのは嬉しい。
門下生の紅一点ともなれば猶更だ。
「でも、ネムちゃんだって、相浦くんのこと穴が開くぐらい見つめているでしょう?」
「え、ど、どうしてそれを?」
「せんせいを舐めてはいけません。門下生のことならば何でもお見通しなのですよ。」
「ゼッタイ相浦君には内緒だからね!」
「ええ、勿論。女の子の約束。」
信華は小指を差し出し、ネムと指切りをする。
すると、その様子を不思議に思った門下生たちがわらわらと集い始めた。
その中には先程まで真剣な表情だった連也も含まれる。
「信華、おかえり。」
「連也……ごめんね、練習中だったのに。」
「いや、もう終わりだよ。時間見てみ?」
信華が腕時計を確認すると、既に八時前。
こんなに時間が経っていたのかと驚愕する。
道場も終了する時間だ。
ネムと仲良く話している子ども達も、連也と信華に挨拶しながら更衣室へと向かって行く。
時間が経つのは早いものだ、と信華は思った。
生徒たち、そして最後にネムを見送り、二人だけになった道場。
しんとした畳の間、信華はこの静けさが好きだった。
「信華はご飯まだでしょ。お袋が用意しているから、先に戻ってな。」
「え、連也は?」
「俺はもう食べた。空腹のままだと集中できないからな。」
「それはそうだね。」
信華はその場を去る直前、胴着姿の連也の傍に寄った。
筋肉質な背に、両手を回す。
そしてゆっくりと胸元に顔を埋めた。
「信華?」
「…………」
「俺いま汗くさいよ?」
「……………………くさくない。」
その口調は、駄々をこねる子どものよう。
門下生がいれば決して出ない甘い声。
ヴェノム研究者でありながら、拒絶された哀しみ。
それを払う為に、ひと時身を預ける。
連也は黙ってそれを受け入れた。
大丈夫
何度も、言い聞かせるように。
非適正者の家族として、十二分な幸せを享受できる。
これまでも、そして、これからも。
※
開発都市オアシス第五区は、大きく分けて三つの町で構成されている。
一つが適正者の居住区、一つが非適正者の居住区、そして最後の一つがアヘル教団の軍事施設だ。
教団の中枢、シンボルたる巨大なタワーの最上階に、彼らの『神』は存在する。
謁見が許されるのは、アヘルでも選りすぐりの戦闘集団『ヴェノムサーヴァント』たち。
一研究者の信華には、扉の前に立つ権利すら存在しないだろう。
そう、本来ならば。
彼女はアヘルのタワー、通称『セントラル』へと立ち入る権利を有する。
理由は、ヴェノム研究を飛躍的に発展させた経歴を有する為、そして、ショーンやニョッカが特別な許可を出している為。
無論、職員として滞在するには数多くの書類の山を乗り越えなければならないが。
彼女は、ザッハークの姿を知っている。
言葉を交わしたことは無いが、誰もが認める圧倒的なまでの美しさをフロントで捉えていた。
そしてそれでいて、彼女は信仰心を抱かなかった。
ヴェノムであれば、彼女を知ることが出来る。
だが、信華はそうなれない。
研究者は届かぬものに手を伸ばさず、いま届く範囲で創造を繰り返す生き物だ。
夢を語るのは良い。だが、夢よりも数値的な目標こそ必要だ。
愛や心では医学は発展しない。それが彼女のモットーである。
非適正者ならば、それ相応の振る舞いを続けるべきだ、と本気で考えている。
幼少期に根付いた『隔たり』を拭い去れないのは、勉学熱心故だろうか?
「信華ちゃん!」
セントラル支部一階の廊下で、信華は友人に呼び止められる。
彼が歩く道で、出会う者は皆、頭を垂れる。中には跪く者も存在する。
それは彼が災害のアサシンに認められし存在であることを意味していた。
「ショーン様。」
「あらやだ、様なんて結構よ!フレンドリー頂戴!ふれんどりー!」
「そういう訳には……」
「お堅いところも好きよ。それで、頼んでいたモノなんだけど……」
信華はショーンにお使いを頼まれていた。
それは人間の服用できない特殊な英霊のアンプルだ。
ヒトの形をしていない英雄、確かに存在し、世界の敵役として認知された記憶の粒子。
この世ならざる毒を、彼らは『妖怪アンプル』と呼んでいた。
災害のアサシン直属の幹部には、その力を余さず飲み込める者がいるらしい。
信華が出会うことは一生無いだろうけれども。
彼女はショーンにそれを手渡した。
態々彼が信華に会いに降りてきたのは、非適正者の彼女には、ヴェノムサーヴァント三人以上の認可が無ければ、二階以上へ昇る資格が無いからだ。
あくまで、ショーンの客人として現れ、用事が済めば直ぐに退散する。
そのつもりであった。
だが、豪運、ないし悪運にも、事は起こってしまう。
災害会議で第五区を離れていた災害のアサシンが、お付きのヴェノム数名と共に、フロントロビーの入り口から入って来たのだ。
ショーンは当然アサシンのスケジュールを知り得ていたが、想定より一時間早い帰還であった。
すぐさま信華の手を取り、神の通る道を開ける。
決して無礼があってはならない。非適正者は彼女の機嫌一つで殺処分にされ得る。
「おお、ショーン。余の不在時に何か事は起こらなかったか?」
「いいえ、教祖様。くたびれるくらい平和でしたのよ。」
「そうか、ならばよい。何も無いのが一番だ。」
「ええ、本当に。」
「ヴェノム最弱の貴様でも守れるくらいには、平和だったのだろう?」
アサシンはショーンのスキンヘッドをぺちぺちと叩きながら笑う。
その間、彼は眉一つ動かさなかった。
信華はこれまで見たことの無い友人の姿に内心動揺している。
災害が無邪気に放つ『圧』は、これほどまでに空間を歪ませるものなのか。
額から零れ落ちた汗がタイルを濡らし続ける。
永遠のように長い数秒間が流れた。
「アサシン、こんなハゲ放っておいて、さっさと行こうぜ。」
声を上げたのは、災害の付き人をしていた一人、ヴェノムセイバーの『ヴィボラド』だ。
ハワイアンなシャツに日焼けした肌、ドレッドヘアーにピアスだらけの耳。陽気な性格を前面に押し出した若者である。
だが侮る勿れ、彼こそは円卓の騎士『ランスロット』のアンプルと適合した、現代最強のヴェノムサーヴァント。
ショーンでは決して届かない領域に立つ者である。
災害のアサシンに敬語を使用しないのも、彼だから許されているのだ。
「いいや、ヴィボラドよ。部下と交流を図るのも、上司の務めだろうて。」
「はぁ、ったく、俺のお楽しみの時間まで減らしてくれるなよ?…………って、ん?」
突如、ヴィボラドは信華の方へと向いた。
ショーンの隣で跪く彼女を、ヴィボラドは見たことが無かった。
セントラルを隈なく把握している彼だからこそ、信華が非適正者の部外者だと即座に判断することが出来た。
「んだよ、何で『ゴミ』が落ちてるんだ?清掃係は何をしてやがる。」
そう吐き捨てると、ヴィボラドはサンダルを履いた足で信華の顔面を蹴り飛ばす。
咄嗟の一撃に反応できぬまま、彼女は後方へと吹き飛ばされた。
柱へとぶつかり項垂れる彼女に、ヴィボラドは近付いていく。
「信華ちゃん!」
「あ、もしかしてショーン、てめぇのツレかよ?どっちもイケる口だったのか?」
彼はショーンを茶化しながら、倒れ込んだ信華の上に跨る。
興味の対象では無いが、ショーンの女ならば、虐める価値はある。
ヴィボラドは片腕を伸ばすと、彼女の胸部を遠慮なく揉みしだいた。
性的興奮からの突発的行動では無く、あくまでショーンへの嫌がらせである。
痛めつける為の指先は、信華に苦悶の表情を齎した。
友人の心の嘆きに、ショーンは唇を震わせる。
だが、彼は動かない。
正確に言えば、動けない。ヴィボラドには逆らえないことを知っているから。
そして、ショーンが何も出来ないことを、ヴィボラド自身も知っている。
故にこそ、加虐心に火が付いた。『いつものように』ゴミ箱を漁ってみるのも悪くない。
ヴィボラドは立ち上がり、彼女の腹部を踏みつけねじる。
格闘技を嗜む彼女にとって痛みを覚えることは無かったが、精神的に削られるものはあった。
いついかなるときも、適正者は敬われるべき存在。
ヴェノムサーヴァントともなれば、全てを受け入れなければならない。
もし彼がいま、信華を犯したいと思ったら、信華を殺したいと願ったら、
彼女はそれを温かく受け入れる。
それが非適正者の定めであるからこそ。
彼女は目を瞑り、判決の時を待った。
だがこの騒動は、意外なる救世主によって幕を下ろすこととなる。
「ヴィボラド、そこまでにしておこうネ。」
突如脇から現れた小さな身体が、成人男性を大きく突き放した。
尻餅をついた彼は状況を把握できていない様子である。
ヴェノム最強の称号を持つ彼に楯突くことの出来る者、それは『彼女』において他ならない。
ザッハークにとってのお気に入りで、かつ、ヴェノム研究の第一人者、第五区が誇る医神。
遠坂杏寿こと『ニョッカ』が堂々と駆けつけたのである。
「てめぇ、クソチビ、何しやが……」
怒り狂うヴィボラドの口にカプセルを放り込むニョッカ。すると、彼はその場ですやすやと眠り始めた。
「チョー強力な睡眠薬だヨ!熊用に開発していたけど、ヴィボラドにも効くんだネ!」
「熊用……」
それは果たして人体に害の無いものなのか?と信華は疑問を抱いた。
なんにせよ、杏寿の到来は信華を元気づけた。
たとえ相手が災害であろうとも、躊躇する素振りも見せない。
「ニョッカ、久しいな。元気だったか?」
「あ、災害様じゃん。もち元気!」
「エクストラクラスの培養実験、成果を期待しているぞ?」
災害のアサシンは我が子のように杏寿を可愛がる。
それもその筈、遠坂杏寿はヴェノムサーヴァント研究を飛躍的に向上させた一人だ。
戦闘力は並より上程度であるが、次代の左右大臣の席を期待されている存在である。
アヘルは完全なる実力至上主義、アサシンの寵愛を受ける者は限られていると言えよう。
だがそれも、あくまで適正者であることがベースとなる。
信華の研究での成功は全て、上司である杏寿の手柄となるのは必定。
無論、信華と杏寿にとっては名誉も賞賛も等しく無価値なものである。
「あとで余の部屋に来い。特別に時間をくれてやる。」
「え!本当ですか!あざす!…………あー、でも待って、今日中に纏めなきゃいけない資料があるんだよナ、どうしよう」
杏寿はどこか白々しい演技をしながら、断る理由を考えている。
彼女はいつだって、災害のアサシンの寝室に招かれないよう努めていた。
「先日、未知なるエクストラクラス『過食者(イーター)』に関する提出書類に目を通してな。その辺りの見解を貴様の口から聞けると期待したのだが。」
「あ、本当に?災害様に見て頂けたなんて恐悦至極!あ、じゃあ丁度いいや、適任者がいますヨ!」
杏寿は何を思ったのか、信華の方へと向かい、彼女を突き出した。
『過食者』の研究は確かに、信華の専門分野ではあった。
杏寿より知識も豊富である自覚はある。
だが非適正者が災害のアサシンに招かれることなど言語道断、天地がひっくり返ってもあり得ない。
当然、杏寿もそれを知る筈であるのに。
信華はアサシンの前で目を見開き、微動だにしない。
手足の先まで氷のように固まっている。
ヴィボラドに弄ばれた時とは比べ物にならない動揺を露わにした。
目の前に、世界一の美貌がある。
三十センチの距離で『神』を目の当たりにした愚民は彼女以外におるまい。
整ったまつ毛と、吸い込まれそうな赤い眼と、艶やかな唇。
同じ性である筈なのに、既に虜にされそうだ。
信華は思わず目を瞑り、顔を逸らした。
それが『神』に対する非礼であることは弁えた上で。
「ニョッカ、この女が適任と、そう申すか?」
「そうだネ、アンジュ様どころか、この第五区で彼女ほどの研究者はいまい。非適正者の星だヨ。」
「非適正者を、余の部屋に招けと、貴様はそう言っているのか?」
「うん。研究に必要なのは差別では無く豊かな知性だ。下らない垣根を越えてこそ、ヴェノムは発展すると考えています。」
杏寿はいつになく真面目に回答する。
絶対的な存在に唯一噛み付ける者、それがニョッカだ。
フロントロビーにいる全ての人間に緊張が走った。
「ほう、面白い。貴様がそう言うなら、認めてやる。」
災害のアサシンはケラケラと笑った。
そして信華の手を取り、引っ張っていく。
信華はこの状況を一切理解できない。
歴史的に見ても、異常すぎることが起こっている。
これには膝をついたショーンも一切の反応を示せなかった。
信華が杏寿を恨めし気に見つめると、彼女は口笛を吹き誤魔化している。
どうして、こんなことに……
信華は災害のアサシンに手を取られ、初めてセントラルタワー最上階へと至ったのだった。
「ほら、いつまでも座りこけていないで、行こうネ、ショーン。」
「ニョッカちゃん、アナタなんてことを!」
ショーンの怒りはもっともだ。
非適正者が災害のアサシンと時間を過ごす。
それが齎す意味をまるで理解していない。
そのような前例が生まれた暁には、この社会のシステムすら覆る可能性がある。
信華は第五区民の嫉妬の渦に揉まれ、何らかの被害に遭う可能性もある。
友を売りつける行為に、ショーンは納得が出来なかった。
だが、杏寿はまともに彼に取り合わない。
ただ寡黙に、その場を離れるのみだ。
いま、彼女が災害のアサシンに『魅了』される訳にはいかない。
狂った民、狂った社会を覚まさせる存在こそ必要だ。
たとえ友が堕ちたとしても、必ず救い出せるという確証がある。
非適正者なら猶更だ。
ニョッカでは無く、遠坂杏寿としてあり続けるという覚悟と信念。
たとえ友が犠牲になろうとも、命さえあれば、医療の力で必ず救う。
「待ちなさいよ、ニョッカちゃん!」
だがショーンはそんなことは知る由もない。
ヴェノムとして誇りを持ち、適正者と非適正者分け隔てなく接する彼には、杏寿の行動が鬼の所業に思えた。
災害のアサシンは偉大なる教祖である。事実、性同一性障害に悩まされた彼も、彼女の言葉によって救われた一人だ。
それでも、今起きている部落差別へ、神として何のアプローチも無いことに憤りを覚えている。
ヴィボラドのような血も涙もない実力者が評価され、力なき者は永遠に搾取される世界。
そんなものは間違っている。
しかしながら、ショーンには何かを変える力が無い。
故に、今は涙を呑んで過ごしている。
友人である信華を守ることが出来ない、そんな自分を責め続けながら。
※
セントラルタワー最上階、通称『災害の間』。
その怪しげかつ絢爛たる部屋に、信華は招かれる。
結婚式のパーティー会場のような広々とした室内にて、二人の女性が災害の帰還を待っていた。
信華はその二人の正体を知り得ていた。
一人は、ドレス姿でアフタヌーンティーを楽しむ貴族風の優雅な女性。
王族か疑う様な派手さが特徴の彼女は、アヘル教団左大臣の席、ヴェノムバーサーカーこと『ムブニル』。
一人は、ソファーでだらしなく寝転がる、はだけた着物姿の女性。
ヒトでは無く、サーヴァントであるらしい彼女は、アヘル教団右大臣の席、『沼御前』。
信華とは異なり、災害のアサシンに匹敵する程の美貌を有する彼女らが、各々の時間を楽しんでいた。
単純な戦闘力ではヴィボラドが上だと聞くが、ムブニルは財閥のお嬢様という事で、アヘル教団に莫大な資金提供をしており、沼御前は災害自らが呼び出した英霊であることから、ヴェノムを超える最高幹部として君臨しているのだ。
災害のアサシンにお伺いを立てるべく、ムブニルは立ち上がるが、沼御前は眠ったまま動かない。
ムブニルはその態度に思わず舌打ちをした。
彼女ほど災害のアサシンを崇拝している者はいないのだ。
「教祖様、お帰りなさいませ。」
ムブニルはスカートを両手で持ち上げ、頭を下げた。
その気品に満ちた振る舞いに、信華はただただ驚くばかり。
アサシンのご機嫌取りをするムブニルは、やがて信華の存在に気付いた。
すると女神のような微笑みが一転、ドブネズミを見かけたかのように不機嫌さを露わにする。
「あら、こちらの方は?」
「エクストラクラス『過食者』研究の第一人者のようでな。ヴィボラドが昼寝をしている間、余の部屋でゆっくりと話そうと考えている。」
「ふぅん、そうですの。」
汚いものを見る反応に、信華は非常に居心地が悪かった。
彼女も望んでここへ来た訳では無い。
全ては杏寿の所為だ。
自分の程度を理解しているのは、何より信華自身である。
「ムブニル、不満か?」
「いえ、とんでもございませんわ。教祖様の認めた女性ならば、さぞや素晴らしい見識を持つ科学者なのでしょう。ええ、そうに違いありませんもの。それか余程世渡りに長けていらっしゃるか。でもごめんあそばせ、わたくし、今日は失礼いたします。美しい空気を吸いたいもので、ええ。」
ムブニルは貴族が持つような派手な扇子で自身を仰ぎながら、部屋を後にする。
信華はそのキャラの濃さに圧倒されているばかりだった。
「ほら、最奥が余の部屋だ。来るがいい。」
「あ、えっと、はい。」
災害のアサシンは一人進んでいく。
信華はその後をついて走るが、途中、彼女だけが呼び止められた。
ソファーからゆっくりと起き上がった沼御前が、興味深そうに彼女を捉えている。
「えっと」
「ふぅん、へぇ、アナタ、サーヴァントかしら?」
「いえ、只の人間です。ヴェノムサーヴァントにもなれませんでした。」
「そうなのね…………でも、わらわと一緒。」
いつの間にか信華のすぐ傍まで近付いていた沼御前は、背後からゆっくりと抱き締める。
優しい抱擁だが、異常なまでの不快感。
信華は動物的な嫌悪感を抱き、すぐさま沼御前から距離を取った。
「いきなり何を!」
「アハハ、腐った血液の香り、残酷なまでの破壊衝動、ムブニルより百倍は良い女ね。」
「血液?破壊衝動?」
「まだよ、まだ熟成させなさい。食べごろはまだだから。蓋を開けるのが楽しみね、アハハ!」
沼御前は珍妙なことを言い残し、酒瓶を片手に去っていった。
ヴェノムといい、彼女といい、上層部は個性豊かである。
特権階級は昼間から酒や紅茶を飲んで優雅に自堕落に過ごしてもいいのだと思うと、信華はやるせなさを感じた。
稼ぐために、どれだけ努力を重ねても、きっとああいう風にはなれない。
きっと自分にとっては、見なければ良かった世界なのだ。
信華は気を取り直して、災害のアサシンの部屋へと向かう。
開かれた戸の先で、カーテン付きのキングサイズベッドに座る彼女がいた。
薄暗い照明の部屋は、いかがわしい雰囲気を醸し出す。
信華は恐る恐る戸を閉め、災害へと向かって行った。
これから、私はどうなってしまうのだ。
ただ研究成果を報告して終わるならば良い、だが……
信華の脳はもはやパニック状態である。
人生初の事象、憧れの有名人に出会った一般人、小説のような展開。
状況整理が間に合わない。
命の危険さえある今、どのような言葉を紡げばいいのだろうか。
目の前にいる神、彼女が出来ることは、ただ跪くのみだった。
「面を上げよ」
信華はその言葉に、ゆっくりと顔を上げた。
すると、突如、信じられないことが起こる。
立ち上がったアサシンが信華を抱き締めると、ベッドの方へ押し倒したのだ。
口をパクパクさせる信華。
彼女に跨ったアサシンは、耳元に唇を近付けた。
「ごめんね、ヴィボラドの件。」
「え」
「痛かったよね、辛かったよね、守ってあげられなくてごめん。」
凡そ尊大な王から漏れる言の葉とは到底思えないものだ。
信華の混乱状態は加速する。
その間も、災害のアサシンは彼女と指を絡ませ、頬を擦り合わせる。
猫のようにじゃれているのだろうか。
「私には何の力もない。飾りの王政、見せかけの神さま、女の子一人だって救えやしない。」
「あ…………」
「だからごめん。私に出来ることは何でもする。許して、ね。」
「あの……えっと…………」
「貴方の口から、改めて教えてくれる?世界でったった一人の、貴方の名前を。」
「私……ですか……」
都信華。
彼女がその名を告げると、災害のアサシンは嬉しそうに笑った。
可笑しな光景、可笑しな状況、可笑しな物語。
信華はここで初めて、災害のアサシンを知る。
彼女は、神に等しき災害であり、アヘル教団の教祖であり、悪逆非道の王『ザッハーク』であり、
だが、それを全て合わせても足りないぐらいに、か弱い一人の『女の子』だった。
「信華、素敵な名前、お友達になれるかな。」
「いや、それは流石に……」
「なれるよ、なってみせる。私は生前から友達作りだけ得意だったんだから。」
「生前…………」
「そう、私がナ…………っと、これは言っちゃいけないんだった。ザッハークだったころから、ずっと。」
「王なのに、ですか?」
「うん、そうだよ。みんなが私の虜になるんだから!きっと信華もそうなるよ!」
アサシンはそう言い放ち、笑った。
都信華と災害のアサシンはこうして出会った。
そしてこれが、後に起こる、第五区を揺るがす大事件『アングイスの大虐殺』のプロローグとなったのだった。
【信奏編③『都信華Ⅰ』 おわり】