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蛇王ザッハーク
砂漠の国の悪虐非道な王様は、やがて現れる勇者に打ち倒され、国民に蔑まれながら孤独に命を落とした。
そしていつか訪れる世界終末の日に、邪竜『アジダハーカ』となり蘇るとされている。
「……………………」
ナナはベッドルームで物思いに耽っていた。
この世で最も美しい女であり、その実、この世で最も醜い肉塊である矛盾。
サハラでザッハークを殺害し、オアシスにて楽園創生を決意してはや千年。
疎まれ、憎まれ、蔑まれ、そんなケッソン達を第五区で受け入れ続け、彼らの居場所を用意してきた。
他の開発都市とは異なる。他の災害とは違う。
ナナであるからこそ、天然痘を患い、孤独に死んだからこそ、持たざる者達の痛みに寄り添える。
そして善良な精神が集い、善良な国が生まれ、彼女の恋するただ一人の男の楽園が誕生する。
…………理想論だった。
差別された者は、また新しい差別を生む。
統治者となり、教祖と崇められ、次第にヒトとの距離が遠くなり、彼らの思考に寄り添えなくなっていく。
心の繋がりが面倒で、身体だけの会話を続ける。
何人の男と、何人の女と一夜を共にしただろうか。
汚れてなお、気高さだけは忘れずにいた筈なのに。
神となったことで、人間と共に歩む未来が失われていったのだ。
やがて訪れるエックスデイ。
『ヴェルバー』により、桃源郷は崩壊し、築き上げた全てが無に帰す。
そしてナナの中で確信していること。
ラグナロクの最中に、ナナの肉体を媒介に、アジダハーカが誕生する。
今思えば、ザッハークが蛇の烙印を植え付けた意味がわかる。
これは、世界を救う王による、保険だ。
自身が命を失ったとしても、終末に対抗できるように。
ナナはアジダハーカ覚醒の『ネクストプラン』であったのだ。
そんな未来に至るわけにはいかない。
自由気ままに、愛欲の限りを尽くし、世界を謳歌する。
まだ、ナナの恋は成就していないのだから。
「おいで、エマ。」
彼女は部屋の奥から現れた赤褐色の髪の少女を手招きする。
エマと呼ばれた少女は拙い足取りでナナの元へ向かい、膝の上にちょこんと乗っかった。
ナナは愛おしそうに彼女を抱きしめる。
「ナナ?」
エマは心配そうに彼女を見上げた。
真の理解者だからこそ、災害の苦悩を察知できる。
だが、言語の習得に時間を有しているエマは、ナナを慰めることができない。
もどかしいものだと思う。
今日も、ナナは知らぬ男と、知らぬ女と、乱れ狂うのだろう。
エマはそれが憎い。
ナナの痛みに気づけるのは、エマただ一人なのだ。
何故ならばエマは○○○だから。
「エマ、今日もお利口にしていてね。今からお客さんが来るから、奥の部屋で遊んでいてね。」
「オキャク?」
「ええ。都信華さん。凄い研究者なのよ。ぶっちゃけまだ顔は覚えていないけどね。」
いつものことだ。
ナナは言葉巧みに相手の心を掴むが、自身は相手のことを露にも思っていない。
正直なところ、未だにヴェノムサーヴァントの皆も、顔と名前が一致していない。
エマはそんなナナの姿に、呆れる他なかった。
※
開発都市オアシスにて発見された未知なるエクストラクラス『イーター』。
七騎のどのクラスにも属さず、それでいて、全てのクラスに通ずる性質を宿す。
無から始まり、戦いの果てに英霊のクラスを、歴史を、志すらも喰らい尽くし、己の糧とする。
非常に強力なオールラウンダーの資質を有するが、反面、何かに通ずる個性を持たない霊基と言えるだろう。
ヴェノム研究においてこのクラスの役割が持つ意味は大きかった。
通常、適正者テストでは、セイバーの適正を図る場合、百パーセントの純度で剣士のアンプルを投与される。
そして血中ヴェノムの活性、適合を数値化し、分析。七十点の成績が出れば、適正者として認められた。
だがヴェノムイーターは異なる論理から展開される。
例えば、剣士を五十、暗殺者を五十の分量で投与した場合、合わせて七十点の成績が出れば、過食者としての評価が得られる。
無論、純粋なヴェノムサーヴァントに比べれば、その力は中途半端にしか開花しない分、大きく見劣るだろう。
しかしながら、腐っても適正者。第五区という箱庭において、それが成す意味は大きい。
軍事転用できれば、大幅な戦力増強も夢ではない。
都信華の研究は、世界を大きく揺るがすものである。
「マウス実験では、投与後の異常反応が見られた個体はゼロでした。」
「なら次はいよいよ本番かしらね?」
「…………いえ、あと少なくとも三回は実験を重ねなければ……」
「でもネズミにサーヴァントの力を流しても、所詮ネズミはネズミだわ。人体実験じゃ無ければ得られない結果もある。」
「それはその通りですが、研究者が最も守るべきは発展より人命ですので。」
ベッドに腰掛けた災害のアサシンは、ぷくっと頬を膨らませた。
隣に座る信華は、目と鼻の先の女神をマジマジと見つめる。
初めて彼女の寝室に招かれてはや一週間。非適性者が足を踏み入れることなど前代未聞である筈なのに、信華は毎日訪れている。
災害のアサシンに気に入られたのだと、杏寿とショーンは認めた。
何故凡庸なる存在の自分が、と疑問は尽きない。
その思考すら傲りそのものであるかも。アサシンが求めているのは、信華という人間ではなく、実験の成果。
そう結論付けた方が、何かと辻褄が合った。
だが、だからとって不貞腐れるようなことはない。むしろ研究者冥利に尽きるというものだ。
今の彼女に出来ることは、恵まれた環境を理解し、災害の期待に応え続けることのみ。
そのために、一刻も早く『ヴェノムイーター』を覚醒させる。
信華はプレッシャーに追われる日々を過ごしていた。
「あら、信華。目の下のクマが酷いわ。」
「あ……あぁ、すみません。数日徹夜していたもので。」
「ダメじゃない、綺麗な女の子なんだから。」
アサシンは信華の頬に手を当てた。
ほんのりと温かい掌に、信華は思わず顔を赤らめる。
恋人がいる身でありながら、災害の魅力に心を奪われそうになる。
開発都市第五区を無数の信者が埋め尽くすのは、自明の理と言えよう。
蛇王ザッハーク、その圧倒的なまでの造形美は、他の追随を許さない。
日々、彼女によって性を弄ばれるヴェノムたちが羨ましく感じられる。
魔性の女とは彼女のためだけに存在する言葉なのだと思えるほどだ。
「えっと、報告は以上です。早急に実験のステージを次段階へ引き上げられるよう努力します。」
信華は覆い被さろうとするアサシンからひらりと逃れ、立ち上がる。
誘いを受けることはしばしば。だが全てを断り逃げおおせている。
堕落することは楽だ。だが誇りある研究者にとって道筋が遠回りになりかねない。
そもそも信華には連也がいる。当然、それを弁えている。
「つれない人」
アサシンは信華の予想に反して、不気味な笑みを浮かべている。
彼女は意図の読めない災害に恐怖し、そそくさと部屋を後にした。
信華がセントラルタワーを離れる直前、彼女は何者かに呼び止められた。
背後から現れたのはアヘル教団左大臣の『ムブニル』であった。
彼女はザッハークには及ばないものの、別次元の美貌を有している。
絵本のお姫様を彷彿とさせるような美しさと優雅さだ。
だが、信華がうっとりと見惚れるようなことはない。
この一週間で深く理解したことがある。ムブニルは、非適正者をこの上なく差別している。
跪く愚民を高いヒールで蹴飛ばし、踏みつけ、蔑んだ眼差しを送る。
信華はそんな姿を嫌というほどに見せつけられた。
そして自身が今、最も彼女に嫌われていると認めている。
信華がアサシンの部屋に招かれる時間、ムブニルは災害とお茶を楽しむことが出来ない。
左大臣の席に堂々と居座る彼女から、幸福な時間を奪ってしまったのだ。
それがムブニルの逆鱗に触れた。
いつ消されてもおかしくはないと信華は肩を震わせる。
「ねぇ、教祖様は今お部屋にいらっしゃるの?」
「…………ええ、はい。」
「そう。過食者の実験のゴーサインは出たのかしら?」
「そうですね。ヴェノムの未来のために、いち早く完成させろ、と。」
「ヴェノムの未来、非適正者がそれを担うなんて、お笑い事ね。」
「…………」
そう、こんなものだ。
非適正者の扱いなど、この程度でしかない。
研究を重ねて、第五区の為に命をかけて、それで得られる対価はなんなのだ。
連也は、松岱は、門下生たちは救われる?
ヴェノムになることが、幸福の第一歩なのだろうか。
疑問は尽きない。
だが、今は与えられた責務に手一杯だ。
少なくとも信華が紡ぐ成果は、杏寿やセバスチャンを、より高みへ導くものである。
友のために、やり続けるしかない。
「まぁ、精々足掻いてみなさいな。貴方が第五区に名を残すことは、未来永劫あり得ないけどね。」
ムブニルは手をひらひらと振り、去っていった。
信華はやるせなくその背中を眺めることしかできなかった。
【信奏編④『都信華Ⅱ』】
いつぶりかも忘れてしまう休日。
ヴェノムイーターテスト最終段階、ついに非適正者にアンプルが実験投与されることが決まった。
三度のサンプルケースでオールクリアの成績を収めている。致命的な見落としでもない限り、まずもって失敗することはあり得ないだろう。
だが人体実験には当然、多くの認可が必要となる。セントラルのヴェノムサーヴァント三人分の押印が必要だ。
本日はその手続きが行われる日。つまり研究が一時的にストップされる1日である。
信華は松岱道場にて、一人練習を重ねていた。
自身が編み出した独自拳法、相手に適した三つのバトルスタイルを使い分ける特訓。
「モード『博哀』。多人数の相手を想定し、対処する。」
その拳が、誰かを傷つけるために振われることはない。
あくまで己を高めるための技術。自身の健康を保つために訓練しているに過ぎない。
もし本当に対人戦闘するならば、こんなものは何の役にも立たないだろう。
目を瞑ると現れる、無数の白い影。
彼女は己の拳と足蹴りを彼らに突き入れていく。
五人を道場に叩き伏せたのち、六人目の影が揺らいだ。
徐々に霧のようなベールが剥がれ、姿が露わになる。
美しき令嬢、ヴェノムバーサーカーのムブニル。
信華が苦手とする存在が妄想の中に現出する。
━━━━いかんいかん。
彼女の拳法は、鬱憤を晴らすためのものではない。
妄想といえど、誰かを痛めつけるものであっていい筈がない。
どこまでも純真に、孤独に技を極める、ただそれだけ。
自身の感情にブレーキをかける。この時間だけは、空のように澄んでいなければ意味がないだろう?
再び白い光に包まれるムブニルの幻影。
信華はヒト型のソレを回し蹴りで倒してみせた。
これで全員。ふと息を吐き、畳に座り込む。
松岱家族は外出し、道場は休業日。今この空間は彼女だけのものだ。
い草の香りを胸一杯に吸い込み、休憩を取る。
気付けば練習を開始して二時間経っている。
熱中すると時を忘れるのが、彼女の悪い癖だ。
暫く目を瞑り、連続する意識を途切れさせる。
まるで眠るかのように、身体と思考が短時間で休息した。
そして三分後、ふと覚醒した際に、彼女は道場に立つもう一人の存在に気付いた。
扉は施錠されていた筈なのに、どのようにして入ってきたのか。
松岱一家でも、門下生でもない。
赤褐色の髪をした、齢七歳前後の少女。
体格にそぐわない大人用のシャツを身につけ、泥に汚れた生足で道場に侵入する。
信華は少女の正体を知らなかった。
下半身に何も身につけていないこと、靴を履かずに外を出歩いていた形跡があること、その他にも不可解な要素がてんこ盛りである。
だが、信華は少女を保護すべき対象と認識した。
非適正者の半分は貧しい家系である。纏う服さえも与えられていない子がいてもおかしくはない。
どこかの家出少女が迷い込んだのかもしれない。まずは話を聞くべきだと思った。
「どうしたの?貴方は誰かな?」
「…………」
「お名前、教えてくれる?」
信華は道着の姿で、少女へと近付いていく。
幸い怯えている様子はない。何故か少女の方も不思議と首を傾げていた。
信華は小さい子どもでも理解できるような言葉遣いでコミュニケーションを図るが、少女は無口なままだ。
言葉を知らないのか?流石に貧しいといえど、そこまでのことがあるのだろうか。
「パパとママは?」
「……………………」
「おうちは分かる?」
「……………………」
「うーん、どうしましょうかね、これは…」
信華は少女の対応に頭を悩ませる。
第五区の自警組織はセントラルのヴェノムたちだ。届ければ、対処してくれるかもしれない。
だが、もし少女が非適正者ならば。もしヴィボラドやムブニルが表に出てきたならば。
あまり良いことにはならなそうだ、と結論づけた。
幸い信華は丸一日空いている。ならば非適正者たちの街へと繰り出し、親を探すのがベストかもしれない。
「一緒に出かけようか。」
「………………」
「うーん、でも流石にこの格好はまずいですよね。丁度私も汗臭いだろうし、一緒にシャワーを浴びてキレイにしよう。」
「!」
少女は初めて反応を示す。
喜んでいるのか嫌がっているのか微妙なところだ。
だが信華が道場の備え付けのシャワールームに向かう際には、拙い足取りでしっかりと付いてきた。
連也が帰ってくる前に、畳に付着した泥を掃除せねば、と信華は意気込んだのであった。
そして女子二人のシャワータイム。
信華は普段よりもぬるめのお湯で、少女の身体を洗い流す。
通常、貧民街の子は極度に痩せ細っていたり、虐待を受けていたり、肌艶が乗らない子の方が多い。
痛ましい様を覚悟していたが、少女は透き通った白い肌の持ち主だった。
一安心しつつも、疑問ばかりが増えていく。
髪も手入れされているように思えるが、ならばどうしてシャツ一枚で外を練り歩いていたのだろう。
信華は泡をふんだんに使用し、少女の足の汚れを落としていく。
少女はくすぐったそうに笑っていた。人形のように無表情だったからか、人間的な感情を見せられると安堵する。
信華は自身の身体も同時に清めると、風呂場にいるまま、再度少女へと会話を試みた。
今ならば、心を開いてくれるかもしれない。
「貴方の名前は、分かるかな?」
「……………」
「うーん、やっぱり難しいですかね…」
「…………………………まとう」
少女はぽつりと言の葉を紡ぐ。
『まとう』と、そういった。
それが苗字なのか名前なのかは、信華には分からない。
だが親を探す意味では大きな一歩になる。
信華は大きくガッツポーズする。
この調子で質問すれば、徐々に色々なことが分かるかもしれない。
だが信華が次の問いを紡ぎ出す前に、少女が口を開いた。
「しんか」
「…………え?」
あろうことか、少女が口にしたのは、信華の名前だった。
少女にまだ教えていない事実から、彼女は目的を持って道場にやってきたと推測できる。
ならば考えられるのは一つしかない。門下生の誰か、その妹が遊びにきたのだろう。
そもそも何故その可能性を考慮していなかったのか。
もしそうならば、親を発見するのは容易いだろう。
「私のことを知ってくれているのね。」
「うん」
「家族から聞いたのかな?」
「うん……………………なながいってた。」
「ナナ?」
聞き慣れない響きだ。
門下生にも、その母親にも、そのような名前の者はいなかった気がする。
信華はどうやら、そのナナという人物に紹介されていたらしい。
「私のこと、ナナ……さんは何て言ってた?」
「…………………………ぶきよう」
「ぶ、不器用?!」
「うん」
確かに器用な方では無いが、と信華は項垂れる。
だがもし門下生の妹ならば、信華の教育は不器用なのだと広まっているのだろうか。
それは少しばかり悲しい。
連也の方が立派な教育者であるのは信華も承知してるが、それでも。
「と、とりあえず、キレイになったし、身体を拭いて着替えましょうか。確か門下生の子のお着替え用に何着か予備の服があった筈……」
信華は瞬間的に、まとうを名乗る少女から背を向け、服の在処を探ろうとした。
その時である。
背後から迫る脅威に、信華は気づくことができなかった。
突如、下腹部に言葉にならない程の鈍痛を与えられる。
股下が大きく裂けてしまうかのような激しい痛み。
太腿に流れ出した血液が、尋常ならざる事態を物語っていた。
「な……………に……………?」
信華はその場で崩れ落ちてなお、状況判断に努めた。
まず心配したのは、自身ではなく、後ろに立っている少女である。
だが咄嗟に振り返るも、少女の姿は影も形も存在しなかった。
まるで夢幻を見ていたかのよう。
どこに行った?どこに消えた?
思考が纏まらないまま、今度は自分の身体に視線を送る。
一瞬の出来事で、すぐには気付かなかった。
女性器からポタポタと流れ落ちる血。
それは見慣れたものであるし、また別のものであるかの錯覚も受ける。
得体の知れないものが自身の胎内に侵入した感覚。
何が、どうして、どうなって?
指で血液を拭い、彼女は放心する。
今現在、痛みはない。得も言われぬ不快さだけが内側に残っている。
そして感覚的に、それは掻き出せぬ所まで進んでしまったことが理解る。
心臓が飛び跳ねるように鳴った。
異常なほどに汗が滲み出、徐々に呼吸は荒くなる。
それでも、信華の優しさは、少女の安否へと向けられた。
風呂場の窓から飛び出したのか、脱衣所を走り抜けたのか、それとも訓練の時に現れる、白い影の妄想だったのか。
彼女は倦怠感と激しい吐き気に悩まされながら、それでも、実在した筈の少女を探し続けたのだった。
※
来たるヴェノムイーターテスト当日。
体調の回復した信華は、白衣と眼鏡を着用し、研究者然とした姿で杏寿の前に現れる。
研究員数名が機材やアンプルの準備、接続コネクタの最終調整に奔走する中、杏寿はどうにも浮かない表情を浮かべていた。
医療班のトップである彼女に気の休まる時間はないらしい。実験が失敗したときは、彼女の腕が必要となる。
「ほれ、信華。ヴェノム三人分の印鑑、もう押されているヨ。」
「ありがとうございます。」
「アンジュ様は野暮用でこの実験には付き合えない。あとは任せるヨ、信華。」
「え?でも監督役のヴェノムが必要じゃ…………」
「ほら、よくある非適正者連中の暴動でヴェノム全員が駆り出されているのサ、よりにもよって今日とはネ。監督役はわざわざ左大臣様がやってくださるそうだ。と言っても、今頃優雅にティーパーティーしているだろうけどネ。」
「左大臣…………ムブニル様…………」
「どうにもきな臭さはある。だから何らかの事故が発生した際は、すぐさまこの薬を投与すると良い。」
杏寿が手渡したアタッシュケースには実験に参加する六人分の薬剤が収納されていた。
開発段階の中和剤ではなく、血中ヴェノムの流動を一時的に十パーセント未満まで抑える薬だ。
毒の周りが劇的に遅くなる為、医療班の治療が余裕で間に合う効果が期待できる。
そして杏寿はどんな戦況でも、コールすれば直ちに舞い戻ることを約束した。
ヴェノムランサーであるニョッカに治療できぬ者はいない。
絶対的な安心感。友であるからこそ、全幅の信頼を寄せていた。
「そんじゃ、後のことはよろしくネ!」
杏寿は手をブンブン振りまわし、信華との別れを告げた。
責任者が実質的に不在の今、信華は彼女にできることをするだけである。
彼女は意を決し、六人の被験者の元へ向かい、イーター実験を開始した。
『これよりヴェノムイーター適正試験を開始します。各担当者は所定の位置についてください。』
無機質なアナウンスとともに、信華は各研究員に合図する。
安眠椅子にゆったりと腰掛けた被験者達に、コネクタが装着され、セイバーのヴェノムアンプルとアサシンのヴェノムアンプルが混在した注射器を挿入した。
七騎の試験の際と同じ手順であるが、不足の事態に備え、万全の体制を整えている。
この場にいる全ての研究者達が固唾を飲んで見守った。
心拍数正常、血中ヴェノム安定。
一つ一つ項目がクリアされていく。
大丈夫、大丈夫、きっと上手くいく。
信華ははやる心を落ち着かせる。
「都さん、被験者のバイタルは安定しています。後は適合率ですが…………」
研究者の一人が六人のデータを照合する。
パーセンテージが五十、六十と徐々に上昇していく。
もうすぐで…………
信華は拳を握りしめた。
他の研究者達は皆、ガッツポーズの用意をしていたかもしれない。
六十五、六十六、六十七………………
だがここで事態は急変した。
突如、被験者達の適合パーセンテージは下降、一斉に苦しみ始める。
実験停止のアラートがけたたましく鳴り響く。
バイタル値は乱れ狂い、全ての研究者がパニックへと陥った。
その時、信華だけは冷静さを保っていた。
すぐさま、杏寿の用意した六つの薬剤を被験者に投与する。
そして杏寿のデバイスへとコールし、緊急オペの手筈を整えた。
「都さん、凄い…………」
研究者も感心するほどの手際の良さ。
だが、被験者の激しい苦しみは抑えられない。
全身が青ざめ、頬や胸板を掻き毟り、蹲る。
嘔吐を繰り返す者、眼球から血の涙を流し意識を失う者。
症状は様々であるが、一律に言えるのは、杏寿の薬が効果を成していないということだ。
「都さん、ど、どうすれば!?」
「…………っ」
そして数秒後、一人の被験者の心拍グラフが平行線となる。
緊急で心臓マッサージに取り掛かるも、時すでに遅し。
絶望が研究室を支配した。
そして続いて、また一人、また一人と、力尽き伏せていく。
信華は目を見開きながら、立ち尽くすのみだった。
「み、みやこさ………………」
ものの数分の出来事であった。
杏寿が辿り着く以前に、六人の被験者は死亡した。
視界が歪み、倒れる研究者達。
何故、どうして?
疑問を投げかけながら、皆が嗚咽、慟哭する。
ヴェノムイーター試験、それはセントラルが起こした前代未聞のスキャンダル。
杏寿が十分後辿り着いたその時には、全てが終わっていたのだった。
※
後日、信華はセントラルタワー最上階へと呼び出された。
彼女はこれまでに無いほどに、ひどくやつれた顔をしている。
あの日、彼女の人生の何もかもが終わったのだ。
杏寿にもショーンにも連也にも顔向けができない。
身体の震えは止まる気配を知らなかった。
「いらっしゃい、あなたを待っていたわ。」
信華の目前に現れたのは、アヘル教団右大臣『沼御前』である。
彼女ははだけた着物姿で信華へと接近し、唇が触れる距離まで顔を近付けた。
「沼御前様」
「どう?あなたの所為で人が六人も死んだ気分は?」
沼御前は不快な笑みを絶やさない。
心の底から、信華の現状を嘲笑している。
俯く信華の顎に指を這わせ、その表情の機微を見逃さぬように覗き込む。
沼御前が心底見たいと思っていた顔がそこにはあった。
「非適正者が良い気味だと笑うでしょうか?」
「わらわに人間を区別する気はないわ。みんな平等にゴミクズだもの。」
「…………」
どうして、このような女がアヘルを、第五区を牽引する立場にいるのか。
子どもでも理解できる邪悪さの塊、誰かの不幸を味わい、愉悦する妖怪だ。
だが、信華は沼御前に対し何も言葉を紡げない。
その資格はない。
教団及び第五区の追放、それだけなら生温い。
どんな処罰が待っていようか?
想像しただけで吐き気を催した。
「全ては私の責任です。あらゆる処罰を受け入れます。」
「あら?監督役だったムブニルを責めないの?」
「それは違います。責任転嫁もいいところです。研究者は私で、イーターの運用を心から願っていたのも私。ムブニル様は名前を貸してくださったに過ぎませんから。」
「まぁ、そうなのね。でも責任を追求されるのはあなたじゃ無いみたいよ?」
沼御前は一枚の紙を信華へと手渡した。
そこには、実験を承認した三人のヴェノムサーヴァントの名と、監督役の名がある。
だが、信華の知る事実とは異なっていた。
監督役の登録は現行のヴェノムアーチャーのコードネームがサインされていたのである。
「どうして…………?」
「ムブニルが監督役を務めるというのは伝達ミスだったようね。実際は印を押してゴーサインを出した、ヴェノムアーチャー、ヴェノムランサー、ヴェノムキャスターの三人のうち、代表で選ばれていたみたい。」
「そんな…………」
「彼らは、あなたの代わりに責任を負うわ。非適正者が現場指揮を取っていたなんて、世間様に公表できないもの。よくてクビ、悪ければ痛みを伴う処罰を受けるかもねぇ。」
信華のせいで、杏寿やセバスチャンが犠牲となる。
それだけは、それだけは避けねばならない。
だが、いくら信華が自身の腹を切り裂こうとも、それで杏寿とセバスチャンが許されるようなことはない。
詰み、の状態だった。
「どうすればいいと思う?」
「……………………」
「ふふ、その絶望に染まった顔、堪らないわね。」
沼御前はウキウキとその場で舞ってみせた。
信華の視界は徐々に黒く染まり、そんな沼御前も見えなくなっていった。
自分が六人を殺し、そして杏寿やセバスチャンさえも地獄に陥れてしまったのだ。
その罪はあまりにも重い。
「ねぇ、助けてあげようか?」
今にも心を失いそうなその時、沼御前は悪魔の囁きを実行する。
彼女が信華を呼び出した目的こそ、ここにあった。
「わらわはこう見えてもアヘル最高幹部の一人、部下の懲戒権限も有している。貴方がわらわに直談判し、真実を告げたことにすればいい。」
「真実…………?」
「ええ。三人のヴェノムサーヴァントは責任を追求され、裁きを受ける。でも、本当は、ランサーのニョッカや、キャスターのショーンは、半ば強制的にゴーサインを出していたのだと。」
「それは、どういう…………?」
「監督役はヴェノムアーチャーの『アングイス』。全ては彼女の指示であり、彼女の思惑であり、全責任は彼女にあると。」
「……………………………え?」
アングイス。
信華はヴェノムアーチャーであること以外、どこの誰かも知らない。
むしろ杏寿やセバスチャンこそが信華の上司であり、アングイスは数合わせに印を押してくれただけ。
監督役を押し付けられた、損な役回りのヒト。
ただ、それだけ。
信華には何の接点もない。
「簡単な二択よぉ。三人とも処罰されるか、一人に責任をなすりつけて、二人のお友達を救うか。あなたはどちらがお好み?」
「ちが…………全ての責任は私が……」
「自惚れないでね、貴方は世間的に言えば非適正者の下っ端研究員。貴方の土下座や切腹には、一切の価値がないの。ヴェノムが表向きに処罰を受けるから、第五区民は納得するのよ。」
それは、あまりにも…………
だが信華には言い返す根拠も資格も存在しなかった。
究極の二択などではない。これは実質的に一択である。
友を守るために、誰かも分からない一人を犠牲にする。
沼御前は嫌らしくも、それを信華に決めさせようとしているのだ。
多量の汗が零れ落ちる。
信華の手によって、もう一人の人生が奪われてしまう。
その重みを正しく味わえと、沼御前はそう言っているのだ。
迷いはなかった。
杏寿やセバスチャンの夢を、ここで絶たせる訳にはいかない。
「アングイス様が、やりました。」
信華はありとあらゆる思いを込めて、そう言い放った。
沼御前は「はぁい」と不敵な笑みを浮かべる。
彼女にとってアングイスが嫌悪の対象であったとか、そういう話はない。
ただ自身の加虐性を理解した上でそれを楽しむために、誰かの心をへし折るのだ。
このような絶望は、実に甘美。
沼御前は信華を豊満な胸に引き寄せ、頭をゆっくりと撫で回した。
親が子を慈しむように。
愉悦という極上の美酒を味わい続ける。
そして信華は帰路についた。
研究室は一ヶ月間閉鎖する。もはや何もやることはない。
じきに信華の起こした事件はニュースとして流れ、その犯人として無関係の『アングイス』の名が知れ渡るだろう。
どうすればよかったのだろうか。
何が正しかったのだろうか。
今はもう、考える気も失せていた。
「おかえり、信華。」
松岱の道場前で、最愛の彼が待っていた。
連也は信華の数日間を何も知らない。
だが日々やつれていく姿を心配していた。
だから、何も言わず、何も聞かず、信華をひしと抱きしめる。
帰る場所は、ちゃんと存在していた。
信華は訳も分からずに泣いた。
ただ泣いた。
子どものように、泣き喚いた。
それが意味のないことなど理解していても。
今は、泣かずにはいられなかった。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
これから、どうなるのだろう。
先行きが不透明どころか、コールタールのように漆黒に染まっていながら。
それでも信華には、守りたいと思える、守って貰えると確信できる、家族がいた。
ならば、まだ生きていける。
きっと大丈夫なのだと、必死に言い聞かせたのだった。
※
アヘル教団セントラルタワー最上階。
災害の間にて、ムブニルは優雅に紅茶を含みつつ、彩り豊かなマカロンを味わっている。
第六区から取り寄せたものは須く上等だ。災害のアサシンがいなければ、彼女も第六区に移住を考えていただろう。
アフタヌーンティーの席に、沼御前は堂々と腰掛ける。
そして世間話と洒落込むこともなく、いきなり本題を突きつけた。
「貴方が犯人でしょう?」
「何のことでしょう?」
「ふふ、しらばくれても無駄よん。わらわのコレクションアンプルのうち、バーサーカーだけ何者かに持ち出されていた形跡があるの。」
「コレクション?」
「そう、妖怪アンプル。人間に注入したら忽ちドボン!」
「あら、そんな汚らわしいものを集めていらっしゃるの?お願いだから教祖様の前に持ち込まないでね。」
ムブニルは目を瞑り、口の汚れを紙ナプキンで拭い去る。
ポーカーフェイスの彼女から真意を読み解くのは難しそうだ、と沼御前は思った。
「ちなみに言いがかりも良いところよ。わたくしはドブネズミのお祭り会場に足を踏み入れていないもの。ずっと、こうしてお紅茶を嗜んでいたわ。」
「貴方は、でしょう?金で雇ったのか、それともその肢体で手懐けたのか。」
「ふん、わたくしのこの身は教祖様だけのものでしてよ。残念ね。」
金で雇ったことは否定しないムブニル。
大方、研究員の誰かを自身の配下にすげ替えたのだろう。
沼御前は欠伸をしながら立ち上がる。
話は終わりだ。沼御前にとってムブニルは退屈そのもの。興味の対象ではない。
「あら、一杯くらい馳走したのに。」
「わらわは人の血と涙とぬかるんだ泥水にしか興味がないの。ざぁんねん。」
沼御前はムブニルに背を向け、災害の間を後にする。
扉を開ける直前、彼女は不意に笑顔のまま振り返った。
「言い忘れていたわ!」
「何でしょう?」
「妾をコケにした代償、高くつくぞ、人風情。」
その怒りを孕んだ鋭い眼差しは、一瞬にしてムブニルの全身を凍りつかせる。
ヴェノム如きでは到底敵わないと思える百獣の王が如き威圧。
一歩でも動けば殺される、そう思わせるものがあった。
ムブニルは固まり、言葉を発せなくなる。
今自身が生きているのが、沼御前の慈悲であると、無理矢理にでも認識させられたのだった。
【信奏編④『都信華Ⅱ』 おわり】