みんな話の筋覚えてますか?(不安)
感想誤字等ありましたら連絡ください!
〈巧一朗さん、倉谷さん、対象の女サーヴァントは三番通りの方面にロストしました〉
「マジかよ!」
「ちょっともう、早すぎだって!」
オペレーターである充幸の声に、がっくりと項垂れる巧一朗と美頼。
災害のキャスターより先に違法触媒産の英霊を始末しなければ、保管先の博物館へと疑いの目が向けられる。
二時間あまりの追いかけっこの末、敵を見失ってしまった。
無理もないことではある。キャスターは兎も角、美頼のサーヴァントであるロウヒことバーサーカーも不在。
アインツベルン製ではない、ガラクタオートマタと言えど、相手はサーヴァントなのだ。追跡力は上だとしても、単純な馬力の差ではるかに上回られるのは致し方ない。
「コーイチロー、どうすんの?」
「どうすんのって、お前、いや、もう無理だろ。」
「探偵は何で来てないのよ。」
「キャスターは気紛れだからな。俺が聞きたいところだ。」
息を切らして走ってきた二人は、無人の駐車場でゴロリと倒れ込んだ。
地面が冷たくて気持ちいい。僅かばかりの休息を得る。
だが鬼教官はそんな二人に鞭を打つ。
〈四番通り監視カメラにて発見しました。お二人とも、がんば〉
「鬼頭教官…………」
「みさっちゃん………………」
〈休んでいる暇はありませんよ?館長から減給処分を受けたくなければ、ファイト♪〉
「鬼!!!!!」
巧一朗と美頼の声がシンクロする。
そうだ、忘れていた。第四区博物館はとんでもないブラック企業だった!
二人はフラフラと立ち上がり、何とか気合を入れ直す。
その時だった。
突如、充幸の通信から、任務完了の報告が伝えられる。
女サーヴァントは遠方から飛んでいた一本の矢に撃ち抜かれたのだと。
それが誰の仕業か、彼らはすぐに理解した。
二人の背後から現れる、もう一人の仲間、青い髪の青年がバツの悪そうな顔を浮かべていた。
「鶯谷」
「ちゅんちゅん、またひとり澄まし顔でいいとこ取りしたな!」
「むしろ救世主と呼んでくれ。実質お前らの尻拭いしたんだから。」
巧一朗と美頼はこぞって、鶯谷鉄心へと飛びつき、小学生のように全身をくすぐり始めた。
彼らなりの、茶目っ気のある抗議なのだろう。
笑いが止まらなくなる鉄心、悪戯な笑みを浮かべている巧一朗と美頼。
これが彼らの、博物館の日常だった。
ひとしきり戯れあった後、真冬の空から雪が降り始める。
開発都市オアシスで気候変動は大変珍しい。
基本的には災害の気まぐれだ。
聖夜が近いから、このような演出がなされるのだろうか?
「わぁ、綺麗」
「珍しいな、雪なんて」
空を見上げ、目を輝かせる二人。
対象的に、鉄心は何とも言えない表情を浮かべている。
怒りか、悲しみか、きっと本人すら感情の行方を理解し得ないだろう。
「雪匣……………………………」
鉄心は寒空に、大切な一人の少女のことを思い出していた。
【信奏編⑤『入谷雪匣』】
鶯谷鉄心という男の話をしよう。
彼の生まれは開発都市第六区、遠坂組と接点を持つ、とある大手メーカーの御曹司であった。
幼少期は遠坂龍寿の良き兄貴分として彼を外の世界へと連れ出していた。
順風満帆、約束された未来へと進んでいた筈だった。
だが父が病に伏し、経営は悪化の一途を辿る。
加えて社員たちからの裏切りに遭い、廃業へと追い込まれることになった。
鉄心はやがて父を失い、母と共に第五区の貧民街へと至ることとなる。
かつての栄光、心の彩りを失い鬱病を患った母の代わりに、何でも屋『鶯谷本舗』を開業し、第五区のとある高校へと入学。
学業とアルバイトを並行しながら、慎ましい青春を送っていた。
「どうした?薫」
「テツ!学祭の予定決めた?」
「…………学祭?」
「ほら、一週間後の」
「忘れてたな…………」
高校三年の秋、今年の卒業生にとっては最後の晴れ舞台。
にも関わらず、鉄心は鶯谷本舗の仕事に追われていた。
猫探し、人探し、高校生対象の浮気調査、やっていることはほぼ探偵だ。
小遣い稼ぎなら丁度いいが、毎年の授業料の足しにはならない。
当然、生活費も必要だ。学校には内緒で、現場作業に従事することもある。
精神病がほぼ完治し、キャリアウーマンとして日々戦っている母に迷惑はかけたくない。
無論、勉強は疎かにするつもりも無いが、イベントはどうしようもない。
これまでクラスの出し物に何の協力もしてこなかった。
演劇か、出店か、展示か、一体何をするのかさえ彼は知らなかった。
一年生のときに入った陸上部も、幽霊部員になってしまった。
「テツとユキバコは頭数に入ってないからよ。一日学祭デートしたらどうなん?」
薫の提案は他のクラスメイトにも聞こえていたらしく、ヒューヒューと茶化す声が届く。
鉄心と同じく、入谷雪匣もまた忙しい身であった。
帰宅後はアヘル教団のセントラルへと出向き、特殊な訓練を行う、らしい。
鉄心は彼女の恋人でありながら、雪匣のことを深くは理解していない。
…………そもそも、最後にデートしたのはいつの話だったか?
薫は鉄心に耳打ちする。
文化祭をきっかけに付き合うカップル、恋仲が深まるカップル、そして朝を迎えるカップルは多いのだと。
鉄心もアオハルに踊る青少年の一人。
卒業はおろか、キスをしたこともない。
机に伏して眠る雪匣を見て、思わず唾を飲み込んでしまったのは、仕方のないことである。
「(雪匣と…………文化祭…………!)」
はや付き合い始めて半年。
健全高校生男児、鶯谷鉄心の覚悟が決まった瞬間であった。
※
朝。
教祖様の『有難いお言葉』がラジオ越しに流れてくる。
入谷家では、清き毒をコップ一杯分体内に取り込むことから一日が始まるのだった。
雪匣が眠たい目を擦りながら自室を出ると、リビングから母親の鼻歌が聞こえてきた。
早朝から機嫌の良いものだ、と彼女は思う。
入谷春風(はるかぜ)、彼女は慈愛に満ちた母親であり、雪匣を心の底より愛している。
セントラルにおいて春風の支持者は多い。高校生の母とは思えない若々しさと美しさであるからだ。
災害のアサシンを崇拝し、彼女の言の葉を人一倍語り継ぐのである。
「あら雪匣、おはよう。ご飯出来てるわよ。」
雪匣は小さく頷くと、テーブルに置かれた液体を口に運んだ。
毎日摂取し、血中ヴェノムの活性化を促す。
歴史に名を刻む英霊をその身に宿すには、必要不可欠なルーティーン。
彼女は普段右から左のラジオ音源に耳を傾けてみた。
釈迦に説法、ヴェノムに聖書。
セントラルに属するものにとっては、第五区の歴史も思想も常識そのもの。幼少期より頭に叩き込まれている。
人が平家物語の冒頭を、空を見ながら唱えられるように、蛇王ザッハークの思想理念は歌うように口から漏れ出てくる。
あらゆる都市から弾き出されたケッソンを一身に受け入れ、認め、育て、旅立たせる。
アヘル教団は人種、性別を超え、凡ゆる人間に幸福を齎すのだ。そのためにこそ存在している。
「『アヘルには叡智があり、英霊があり、心と肉体があり、方舟がある』」
雪匣はラジオから流れる経典の一部を抜粋し、呟いた。
方舟とは、アヘルのみに許された救いの手。
いつか来る世界終末の日を乗り越える権利を有する。
たとえそれが明日だとしても、或いは人生を終えるまで来なかったとしても。
教えは、その家族の、或いは子孫の幸福を保障する。
英霊にはなれない教団員たちも、これから生まれ、繁栄する子らを救う担い手となれる。
だから片時も信仰を忘れない。
そうして、自己のアイデンティティを保つものも、ことのほか多い。
雪匣も、もしかすると、そうなのかもしれない。
「朝からエッグベネディクト。洒落てる。」
「今日は雪匣の頑張る日だからね。ママも腕にヨリをかけたわよ?」
頑張る日とは?
雪匣の頭上にクエスチョンマークが浮かび上がる。
セントラルにて催事が行われる日であっただろうか?
「何そんなキョトンとしているのよ。今日は高校の文化祭じゃない。」
「あぁ」
「あぁ、って貴方、今日は鉄心くんのハートを射止めに行く日でしょう?アーチャーだけにね♪」
春風は両手を頬に当て、クネクネと気持ち悪い動きを見せた。
そういえば、今日は文化祭だった。
ヴェノムアーチャー見習いの仕事に明け暮れ、自身のクラスの出し物も知らない雪匣である。
稽古の時間が深夜をまわり、昼の学校では大半の時間を睡眠に費やしていた。
言われてみれば、同級生たちが気もそぞろな雰囲気だった。
それは鉄心も同じ。
一緒に見て回らないかと、誘われていた。
とりあえず二つ返事で了承したが、当日になってもすっかり忘れていた。
一般的にいえば、ガールフレンドとして失格なのかもしれない。
「お母さんは、来るの?」
「…………ごめんね、今日も忙しくて。」
「いや、うん、分かってる。」
「写真でしか見たことないけれど、鉄心くん、とてもイケメンだった。二人のツーショット写真、またデバイスに送ってね?」
「うん、分かったよ。」
春風はヴェノムサーヴァントとして忙しい日々を送っている、らしい。
セントラル支部へ赴くことの少ない雪匣は、戦う母の背中を知らなかった。
いつか見てみたいと思う。
アヘル教団を牽引するヴェノムとしての母を、彼女は尊敬している。
「じゃあ、ママはもう行ってくるからね。雪匣も、楽しんできてね!ビバ青春!」
春風は慌ただしく家を出て行った。
一人残された雪匣は、サラダにドレッシングをかけ、フォークでくるくるとかき混ぜる。
青春という言葉。
生まれてから今日までアヘルのために生きてきた雪匣に突如与えられた難題と言える。
鉄心との恋愛こそが道標であり、正義なのか?
彼と過ごすことが幸福であり、理想なのか?
そもそも、入谷雪匣は鶯谷鉄心を好きなのか?
教祖から与えられる愛、ヴェノムが分け隔てなく区民に与える愛。
一個人の青年に向けられる愛は、それらと同じか、それ以上の価値があるのだろうか?
これ以上の問いは哲学だ。
雪匣は脳をリセットする。
「ケイローン先生なら、理解るのだろうか?」
彼女は懐から取り出したケイローンのアンプルを空に掲げてみる。
英霊が言葉を告げることはなかった。
時間は過ぎ、小さな花火と共に文化祭は開幕する。
「よ、ヨォ、雪匣!」
「なんでそんなに汗かいてるの?」
校門前にて待ち合わせをしていた雪匣と鉄心。
年中涼しい気候のここオアシスで、鉄心は滝のような汗をかいている。
雪匣はとりあえず、ハンカチを取り出し拭ってあげた。
鉄心はというと、雪匣とのあれやこれやを想像して酷く緊張している。
文化祭でステージが一つ進む生徒も多い。
鉄心同様に、雪匣も友人からそんなことを聞かされていた。
恋愛の先にあるもの、朴念仁な彼女も流石に理解している。
鉄心が赤面しているように感じるのも、おそらくそれが原因だろう。
下らないことだとは決して思わない。
求められれば、それを返す度量は持ち合わせている。
だが、雪匣にとってそれはあくまで受け身によるもの。
求愛行動に対するアンサーであり、己から望むものではない。
冷たい、と評されるならその通りだろう。
正しくは実感が湧かない、と言うべきか。
無表情で考え込む雪匣に鉄心は戸惑った。
リードする側、される側、どちらにしてもつまらなそうな顔は良くない。
雪匣なりに楽しそうな笑みを浮かべて見せる。
「今日はそう、暑いな。うん、みんなの熱量を直に感じて、とても暑い。」
「もう始まっているみたいだね。」
「俺たちのクラスは今年劇をやるみたいだ。題目は『アヘル物語』らしい。歴代のヴェノムサーヴァントを演じるみたいだ。」
「そう。災害のアサシン役は誰が?」
「城ヶ崎だよ。ミスコン1位の。」
「城ヶ崎さん、大役だね。頑張らないと。」
鉄心は心の中で思う。
確かに城ヶ崎は可愛い。街中で歩いていたらアイドルだと勘違いする程には。
だが、美しさで言うならば、間違いなく雪匣がトップだ。
透明な肌に、整った顔立ち、カーキ色の手入れされた髪、すらっとした体型ながら、制服越しにも分かる胸の大きさ。
クラスの端で常に眠りこけている姿が無ければ、彼女こそが真のミスコントップだろう。
母がヴェノムの功労者であり、本人もロボットのように感情の起伏に乏しい、数多の告白を退けてきたと噂される撃墜王。
何故、鶯谷鉄心は彼女に認められたのか。自身が最も理解していなかった。
ノリかな?
その場の空気感?
現実に、雪匣は引き攣った酷い笑みを浮かべている。無理しているのが丸わかりだ。
「他は誰が出るの?」
「あんまり詳しくは知らんな…………一応台本は貰っているけど?」
鉄心は雪匣に劇の台本を手渡した。
そこには役の名前と演じる生徒たちが一覧となり記載されている。
雪匣が知るヴェノムたちも数多く存在した。
その中の一人に、自然と目が留まる。
「アングイス…………出るんだ。桂馬さんが演じるんだね。結構意外かも。」
「そうか?ま、確かに桂馬は、ザ・ギャルって感じだからな。」
「というか、そもそも身内を誰かに演じられるのって、こそばゆさがあるよね。」
「こういうとアレだけど、大抵美化されるからな。」
雪匣の最も尊敬する彼女の名がそこにあり、俄然劇への期待感が高まる。
桃太郎の童話より広く知られたアヘルの歴史、内容よりも配役、そして演技を楽しむことが目的だ。
「と、とりあえず、どうする?演目は三時過ぎからだし、一先ず色々と見て回るか?」
「そうだね。」
鉄心ははやる気持ちを押し殺し、ブレザーで手汗を拭った。
そして雪匣へ向けて手を差し出す。
まずは、ここから。
手を繋ぐことぐらいは、過去にも行なっている。
恋人繋ぎですらなく、ただの握手に近いものだが。
だが他の生徒がいる環境では、恥ずかしい気持ちもあった。
雪匣側が冷やかしを受ける可能性もある。
「繋ぐ?」
「俺は、繋ぎたい。」
雪匣は鉄心の手を取った。
彼はひんやりとした彼女の手にドギマギする。
揶揄い甲斐のある表情だ。
だが雪匣は茶化さない。彼女自身も不思議な高揚感を抱いているからだろう。
※
「お呼びでしょうか、ムブニル様。」
「待っていましたわ、アングイス。」
解体予定の雑居ビルにて、アヘル教団左大臣のムブニルは、ヴェノムアーチャーであるアングイスの到着を待っていた。
こんな寂れた場所であろうが、ムブニルは優雅な貴族の姿勢を崩さない。
四つん這いとなった従者の背に腰掛け、アフタヌーンティーと洒落込んでいた。
「アングイス、先日貴方がヴェノム会議で通そうとした『非適正者雇用安定法』、とても素晴らしいと感じました。持たざる者へと慈悲の心で満ち溢れていましたわ。見事多数決で可決されたのでしたわね。」
「はい。ですが慈悲ではありません。第五区に住む全ての人間が平等であることは、当然であるべきです。」
「あら、わたくしとしたことが、失言でしたわね。今わたくしの下にいる彼も、非適正者ながら立派に仕事をこなしてくれていますわ。座椅子としてね。」
ムブニルは尻に敷いた男の頭をそっと撫でる。
アングイスから見て、男は屈辱に塗れた顔を浮かべていた。
とてもじゃないが、望んで就いた仕事とは思えない。
「それで、その法案が何か?」
「あぁ、残念ながら却下されましたのよ。」
「何ですって?」
「ヴェノムが立案した法令は右大臣、左大臣、そして教祖様、三人の目を通して初めて成立するのはご存じでしてよね?残念ながら右大臣の沼御前がこれを拒否したのです。わたくしはとてもイイと思ったのですが。」
ムブニルはヨヨヨと泣く演技をする。
アングイスは当然、それが沼御前の仕業でないことに気付いていた。
権力による押し潰しは、嫌がらせの専門家、ムブニルの専売特許だ。
こうして、これまでも、第五区の未来を閉ざし、己の欲に対し忠実に生きてきた。
だがアングイスは口を噤む。
どれだけムブニルに嫌悪感を抱こうとも、それを口にしたが最期。
己の未来ではなく、愛する子の未来まで奪われてしまう。
アヘルへの愛、偉大なる災害への愛、それを遥かに超える愛を彼女は知っていた。
「それを伝えてくださる為に、わざわざ?」
「ふふ、ええ、わざわざ」
ムブニルは指を鳴らし、何者かに合図を送る。
するとアングイスの目前に、突如人影が現れ、殴りかかった。
彼女は背後に飛び退き、攻撃を避けることに成功する。敵の位置の把握に努めるが、そこに立っていたのは顔馴染みであった。
ヴェノムセイバー『ヴィボラド』。接続した英霊は『ランスロット』。
彼は紫の鎧に身を包み、聖剣アロンダイトを片手に、彼女へと狙いを定めた。
「ヴィボラド…………」
「悪く思うなよ、活動家。俺も非適正者の地位向上には否定的でね。」
ムブニル、ヴィボラド、どちらも非適正者差別の代表格と言える。
ヴィボラドに関しては、立場を利用した非適正者への加害がいくつも報告されていた。
被害者の女性たちは泣き寝入りを強いられる。何とも忌々しい話である。
「ヴィボラド、貴方はこの法案に反対していましたね。ニョッカのヴェノムイータープロジェクトについても同様に。」
「金、名誉、暴力、全てを手に入れた環境で、みすみすそれを手放しかねない選択をする馬鹿どもだ。一つ言っておくぞ、てめえのやり方じゃ差別は無くならない。機会均等?実力者が脳みそ足りねぇ奴らをまた差別するだけだろ?」
ヴィボラドは仲間である筈のアングイスに容赦なく剣を振るう。
命の危険を感じた彼女は懐に忍ばせていたアンプルを取り出した。
〈データローディングは正常でした。サーヴァントタイプ『ヴェノムアーチャー』:『ケイローン』現界します。〉
彼女はケイローンの力を借り、肉体を変化させる。
通常、ギリシャ神話の英雄をその身に宿した者は、圧倒的なまでのパワーに振り回されることが多い。
だがアングイスはこの賢人と二十年近く向き合ってきた。その乗りこなし方は、誰よりも理解している。
彼女はまず、地面を蹴り飛ばしてさらに後方へと跳躍した。
円卓の騎士が敵ならば、接近戦ではどう考えても不利。
遠方より的確な狙撃を行い、消耗させるしかない。
だがアングイスはこの場所が廃墟ビルの一角であると失念していた。
広大な土地で行われる鬼ごっことは訳が違う。柱というオブジェクトが乱立した狭い空間で、距離を詰めるのは造作もないことだ。
事実、ヴィボラドはアングイスの狙いを察知して、走り高跳びのように助走して宙を舞った。
そして剣を構えると竜巻のように回転し、アングイスのレンジへと突入する。
彼女は鋭い刃で全身を切り裂かれた。
脚力を以て、全力で蹴り飛ばし応戦。だがヴィボラドの鋼鉄の鎧に傷一つついていない。
実力の差は明白だ。
アングイスは白い肌から血を吹き出しつつ、地面に転がる。
一方のヴィボラドは攻撃の手を緩めない。
容赦のない斬撃でアングイスを追い詰める。
彼女は必死に矢を番えるも、ヴェノム最強の座を縦とする彼に悉く弾かれた。
ものの数十秒で決着はつく。
血中ヴェノムが沈静化し、アングイスの身からケイローンの力は消失した。
変身を解かれた彼女は、完全なる敗北を悟る。
「なぁ、左大臣サマ、こいつはぶち殺してもかまわねぇのかい?」
「事故で片付けられるように調整してくださいね。聖剣で首を落とすのはナンセンスですわ。」
ムブニルは悪魔のような笑みで答える。
彼女のような人間がいるから、第五区は腐り果てる。
アングイスは命の危機に瀕しながら、それでも己の正義と気高さを忘れなかった。
「ムブニル様、そしてヴィボラド、時代は必ず変わります。適正者と非適正者が平等になる未来は必ず来る。すぐそこにある。」
若者たちが、第五区を変える。
例えば、雪匣。新たなるヴェノムの境地へ至る少女。賢人の魂を受け継ぎし者。
他にも、杏寿やるる子、若い世代は実りつつある。
セントラルの癌は治癒され、偉大なる災害のアサシンの帝国は、真に開かれたものになるだろう。
アングイスはそう信じて疑わない。
「我が身に宿した英霊、ケイローンの誇り高さもまた、第五区を救う礎となりましょう。」
アングイスの曇りなき眼差しに、ムブニルは舌打ちをした。
どこまでも、人を不快にさせる女だと思う。
ムブニルは非適正者の星であるアングイスが疎ましくて仕方がない。
平等が齎すものは混沌、自明の理である。
「ヴィボラド、やはり喉を切り裂いて構いませんわ。とても不快な音ですもの。」
「承知♪」
ヴィボラドはアロンダイトをアングイスへと振り下ろした。
だが、肉の断たれる音ではなく、金属音が廃墟ビルにこだまする。
彼の一撃は、何者かによって阻まれた。
それはアングイスによる抵抗ではない。彼女は戦意を喪失している。
では一体何者が?
ヴィボラドは聖剣が、落ちていた鉄パイプによって弾かれたことを理解した。
その持ち主の方へ恐る恐る目を移す。
白い髪、作務衣に下駄、そして首から下げた一眼レフ。
痩せ細った体型だが、傷や皺と共に刻まれた筋肉が見え隠れしている。
ヴィボラドにとって最も嫌悪する存在がそこにいた。
アングイスはポカンとした表情で、彼のコードネームを口にする。
「『ニシキ』さん…………?」
「お久だな。元気か?嬢ちゃん。」
ヴィボラドに座を明け渡し、隠居した元ヴェノムセイバーの老人。
彼の名は『五百旗頭 洞門(いおきべ どうもん)』、そのヴェノムネームは『ニシキ』。
趣味である工場や廃墟の写真撮影で、偶然にも通りすがり、アングイスの救世主となった。
「ニシキ……………テメェ、今更何を」
「小僧もお久だな。ヴェノムという一個の家族で巻き起こった喧嘩なら、それを止めるのは爺の役割だろ?」
「隠居ジジイが、出しゃばるんじゃねぇよ。」
「あとな、二人とも『ニシキ』は辞めてくれ。今はただの五百旗頭だ。」
怒りに震えるヴィボラドは、洞門へと刃を向けた。
ムブニルにとっては計算外。アングイスの息の根を止める算段が崩壊してしまう。
だが、左大臣の席と言えど、こと戦闘において、ヴィボラドやニシキを止めるスキルは有さない。
故に、悔しそうに爪を噛みながら、この場を後にするのみである。
「おら、とっとと刀を抜きやがれ。ぶち殺してやる。」
「……思えば、小僧に剣を教えたのはワシだったな。どれくらい成長したか見てやろう。」
洞門は懐からアンプルを取り出し、古びたコネクタへと注入した。
〈データローディングは正常でした。サーヴァントタイプ『ヴェノムセイバー』:『柳生十兵衛三厳』現界します。〉
洞門は一本の刀を手にする。
久々の感触に、期待で胸が躍った。前線から退いてなお、得物を振るう感覚はどこか心地良いものである。
飛びかかるヴィボラドに応戦し、二人は刃を交えた。
本気で命を奪いに行くヴィボラドと、どこか遊び半分の洞門。
実力者同士の白熱した戦闘に、アングイスは息を呑む他ない。
ヴィボラドの力任せの剣は、洞門に軽くいなされる。
ヴェノム最強の男の攻撃は、一つ一つが必殺級であるはずだ。だがここまで手応えがないのは、洞門の身技によるものだろう。
負荷のかかる力点をずらし、敵のペースを狂わせる。
洞門は齢七十を越える男であるが、戦闘面においては他の追随を許さぬ計算高さがある。
考えなしの攻撃では、あらゆる武術を極めしこの男に敵うべくもない。
単純な剣技で老いた達人を超えるのは不可能。
ならばと距離と置き、聖剣に魔力を集中させる。
高火力による一撃で鍔迫り合いに終止符を打つしかない。
「おいおい小僧、それじゃあ廃墟ビルごと吹き飛んじまうぞ。」
「取り壊し予定だ、かまわねぇさ。」
「男のロマンに溢れているってのに、ったく…………!」
ヴィボラドは宝具の起動に一切の躊躇がない。
否、人やモノを壊すことに躊躇がないというべきか。
何故ヴェノムの中で頂点の実力を得られたか。それは勝ちへの貪欲さに他ならない。
殺すと決めた敵は、何がなんでも殺害する。
それが仲間であろうと、家族であろうと関係ない。
地の果てまで追って、己の任務を完了させる。
軽い見た目に反して、その執念深さは随一だった。
勿体ぶる性分なムブニルと、出し惜しみのないヴィボラド。
相反するモノ同士が、非適正者の地位向上に待ったをかけているのだ。
「嬢ちゃん、舌を噛まないように食いしばっておきな!」
実力の半分も出していない洞門は、彼女を腕に抱え、窓の外へと飛び出した。
直後、ヴィボラドの宝具が発動され、ビルそのものが跡形もなく消し飛んだ。
被害がこの一棟で済んだのは、ヴィボラドにも少しばかりの良心があったからである。
街行く適正者が巻き込まれでもしたら、ヴィボラドの責任問題になってしまうとも言えよう。
ギリギリで戦線離脱した洞門は、アングイスを抱え、遠方へと走り逃げていく。
流石の達人も、守るべき命がある手前、戦う選択は出来なかった。
もし彼女という存在が無く、タイマンでの勝負だったら━━━━
「ま、負ける未来は想像できんな。」
「ニシキさん?」
「すまん、こっちの話だ。」
「と、ところで、もう大丈夫です。下ろしてください。お姫様抱っこをされるような年齢でもありませんので!」
「そういや嬢ちゃん、一児の母だったな。すまんすまん。」
洞門は人気のない裏路地で彼女を離した。
ここまで来れば安心だろう。
「ありがとうございました。助かりました。」
「イイってことよ。本当に偶然だしな。」
「開発都市を旅しているんでしたっけ?」
「あぁ。また第五区を離れて、第三区の工業地帯へ行く予定だ。あそこはワシにとって宝の山みたいなモノだからな。」
ニシキは、ヴェノムにとって歴戦の英雄そのものだった。
その彼が、今はただの洞門として、趣味のカメラに生きている。
ヴィボラドでは無く、もし彼が現役だったら、アングイスの思い描く未来は実現していたかもしれない。
「ニシキさん、お願いがあります━━━━」
不躾な願いだった。
第五区の英雄たる彼に、この地区の淀みを祓ってほしい。
アングイスは必死に訴える。
だが
「すまん、嬢ちゃん。それは無理な話だ。ワシはとうの昔に第五区に見切りをつけた。」
「どうして…………」
「ワシは右大臣『沼御前』の下で働く気はない。アレは妖怪だ。ヒトの心が理解できない物怪。第五区の闇は、彼奴が死なない限り続くだろう。」
「そんな…………」
「そして嬢ちゃんは一つ大きな勘違いをしている。セントラルの癌は、非適正者を差別するムブニルやヴィボラドじゃない。」
洞門はアングイスから目線を逸らし、虚空を見つめた。
彼の言葉は彼女に届かないだろう、その未来を予知して。
「本当の癌は『災害のアサシン』だ。」
何を言っている?
アングイスは目でそう訴えかける。
開発都市第五区を生み、数々のケッソンの居場所を用意し、救いを与えてくれるお方。
洞門はそれを明確に否定した。
第五区でその言葉を発する意味を、理解していながら。
「だから、力になれない。すまん。」
「ニシキさん………………」
洞門は周囲を確認したのち、アングイスに背を向け、その場を立ち去った。
蛇王ザッハークと沼御前
二人の邪悪を前に逃げ出した男が、今更この地で何を成そうというのか?
彼はもう、ファインダー越しにしかセカイを見ることが出来ないというのに。
※
時刻は十五時。
鉄心と雪匣は演劇の会場である体育館へと明日を運ぶ。
既に用意された座席は埋まっており、立ち見客に混ざる他なかった。
鉄心は逸れてしまわないように、しっかりと雪匣の手を握っている。
アヘル物語の演目が開始する。
見知ったクラスメイトが、ヴェノムサーヴァントの役で次々と現れる。
城ヶ崎扮する災害のアサシンは、意外にも好評だった。
アヘル教団の歴史、アンヘル研究所と宗教団体の密接な関わり、そして今。
他の地区に対し、明確な懲悪ものとして描かれている。
これが教団の教育で、第五区に広く浸透したモノの見方。
鉄心は受け入れることに時間を要したが、父を失った母は、すんなりと入信した。
母にとって欲しかったものがそこにあったのだろう。
家族が幸福なのは、良いことだと思う。
「私」
雪匣はクライマックスの直前で、呟いた。
鉄心は目の前の華やかな舞台ではなく、雪匣を注視する。
彼女は少し寂しそうな顔をしていた。
「頑張って、セントラルの一員になれたら、災害のアサシンからご褒美が貰えるの。」
「ご褒美?」
「一つ、願いを叶えてくれるんだって。もちろん、叶えられる範囲で、だけど。」
「それは凄いな。」
「私の願い、まだ見つからなくて。何がしたいんだろう、何が欲しいんだろう。考えてたら眠れなくなった。」
「?学校で爆睡してるだろ?」
雪匣はジト目で睨みつける。
真面目な雰囲気に水を差した鉄心はしっかりと謝罪した。
「鉄心は、欲しいものある?」
「俺は………………」
彼はこれまでの人生で、多くを手放した。
第六区での裕福な暮らし、御曹司としての誇り、龍寿という親友、愛する父。
だがそれを不幸だったと片付けるものがいたならば、殴り飛ばしていただろう。
開発都市第五区で、鶯谷本舗を立ち上げ、必死に高校生活を生き抜く日々は、真に充実していると言える。
そして、いつも窓際で眠りこけている不思議な女の子。
感情がないように見えて、実は涙脆く、笑うと可愛らしい、絵本好きな少女。
彼を受け入れようとしてくれた彼女。
「俺は雪匣が欲しい。」
それは一世一代の告白のつもりのない一言。
心の底から溢れ出た、雪匣への恋心。
そこにはただ純粋な想いだけが乗せられていた。
もっと、多くのことを経験したい。
もっと幸福を分かち合いたい。
もっと彼女のことを知りたい。
だから、どこの誰よりも、入谷雪匣というヒトが欲しい。
鉄心は言った側から茹蛸のように顔を真っ赤に染める。
そんなつもりじゃない言の葉。
焦りからか、思わず雪匣から手を離してしまう。
「あ、ごめ、今のは…………」
雪匣は、意表をつかれたのか、ほんの少しばかり放心状態だった。
鉄心はいつだってストレートだ。
直球にも程があると思う。
だが、気難しい彼女には、これくらいの豪速球が望ましい、かもしれない。
雪匣は再度、鉄心の手を取った。
これまでは握手のような繋ぎ方。
でも今は違う。
指と指を絡ませる、所謂恋人繋ぎというものだ。
鉄心の手汗は止まらない。だがもはや離れる選択肢はない。
「もう、手に入れてるじゃん。」
きっと始まりは、高校生らしい、恋愛そのものへの渇望。
でも、もしかしたら、それは変わりつつあるかもしれない。
雪匣にはまだ分からないものかもしれない。
だが、鉄心ならば、それを学べると思う。
彼が彼女を変えてくれる。
そして彼女が彼を幸福にする。
この関係は、多分、おそらく、『青春』と呼べるものだろう。
彼女はその言葉の魔法を信じてみることにした。
文化祭でステージが進むものは多い。
きっとこの二人もそう。
亀の歩みだとしても、着実に一歩ずつ、一歩ずつ、進んでいく。
高校生活が終わろうと、きっと、ずっと。
【信奏編⑤『入谷雪匣』 おわり】
【信奏編⑤『ウラルン』】
それは、余りにも唐突に訪れた。
開発都市第五区に伝播するニュース。
報道陣がセントラルへと押し寄せ、半ばパニック状態となっている。
ヴェノムイーター覚醒実験の被験者が、一人を除き、全員死亡した。
雪匣は非適正者病棟へと向かう。
隔離された病室へ、息を切らして走り続ける。
あらゆる人たちを跳ね除け、『彼』の元へと急いだ。
そして彼女は動かなくなった青年に出会う。
彼女が上の命令で第五区を離れていた際の出来事だった。
その被験者リストを見た時、彼女は数分間固まり、動けなくなった。
まさかそんな、と。
そして彼女は今、夢であって欲しいと願う現実に直面する。
イーター実験唯一の生還者、鶯谷鉄心。
彼は日銭稼ぎの一環で、高校生ながらこの実験に参加した。
そしてヴェノムアンプル『八岐大蛇』により、全身を蝕まれ、脳機能の一部を喪失した。
いつ目を覚ますかも分からない、植物人間となってしまったのだ。
「どうして……………………………………………………………」
雪匣は冷たくなった彼の手を握る…
生きている、生きているはずだが、生気を感じない。
文化祭のあの日、彼女が握りしめた手と同じものとは到底思えない。
彼女はその場に崩れ落ちた。
そして、雪匣は毎日、鉄心のいる病室へと通うようになった。
返事をしない彼に、その日あった出来事を絵本のように語り聞かせる。
災害のアサシンから、ヴェノムアーチャーとしての力を褒められたこと。
シールダーとしての才能が開花しそうなこと。
セントラルへの道も近いこと。
今の彼女には明確な願いがある。
災害のアサシンであれば、鉄心の眠りを覚ましてくれるかもしれない。
そのためなら、彼女はどんな努力も惜しまない。
高校を卒業しても、彼とずっといられる道を探す。
酷く疲弊した精神に鞭を打ち、戦い続ける。
ある日、彼女はイーター実験の顛末を知った。
全ての原因は、ヴェノムアーチャー『アングイス』の認可によるものだったと。
全責任を負い、彼女は第五区から追放される運命にあると。
でも実際は、ヴェノム左大臣の席のものが裏で手引きしていたことも。
雪匣は鉄心の自宅へと足を運んだ。
貧乏を語る彼の家にしては、普通の一軒家である。
鉄心は色々と背負いこむタイプの人間だ。
学費も生活費も、何とか自分自身で捻出しようとしていたのだろう。
そう、彼は母親によく似ているのだ。
雪匣は何度もチャイムを鳴らす。
誰も、何も、反応しない。
虫の知らせだろうか?
とても嫌な予感がした。
彼女はドアノブを捻ってみる。
すると鍵が掛かっていなかったのか、不用心にもそれは開かれた。
玄関からすでに、散らかっている。
何かがあったとしか思えない。
雪匣は恐怖を感じながら、居間へと立ち入った。
こういう悪い予感は、往々にして当たるもの。
それも、きっと最悪な方面で。
「え」
雪匣は声にならない声をあげた。
天井からぶら下がった縄がミシミシと音を立てている。
ヒトの体重を支えるには貧弱とも思えるそれは、今にも千切れてしまいそうだった。
ああ。最初から千切れてしまえば良かったのに。
垂れ下がる、透き通った白い手足。
首吊り自殺
雪匣は初めて、人間の死を間近にした。
「あぁ」
悲鳴をあげることはない。
きっともう、何もかもが手遅れだ。
雪匣は何とか縄を解き、冷たくなった身体を受け留める。
彼女の知る人物は、もうこの世にはいない。
理解する。
理解するほどに、目の前が淀む。
あらゆる全てが腐っていく感覚。
鉄心の母。
彼女と出会ったのは、鉄心と付き合う前の話だ。
雪匣にヴェノムアンプルの使い方を教え、適正者と非適正者の溝を語り、平和の道を模索することの苦労を説いた。
本当の母のように、愛していた。
だから鉄心との出会いもまた、一つの運命だと思っていた。
こんな形で、終わっていいモノではなかったのに。
彼女のコードネームは『アングイス』。
愛する夫を失い、その心を埋めるためにアヘルへと入信し、ヴェノムアーチャーへと覚醒した。
だが息子である鉄心は非適正者のまま、故に、彼のために非適正者の地位向上を目指した。
しかし自身が判を押したイーター実験で、息子が植物人間となり、災害のアサシンにも見放された。
彼女は命を断つ未来を選んだ。
選ばざるを得なかったのだ。
「アングイス…………」
雪匣は第一発見者の責務として、治安支部へと連絡を入れる。
部隊が到着するまで、彼女は尊敬するもう一人の母の傍に座り続けた。
そして事情聴取を受け、帰宅は真夜中になる。
当然食欲も、睡眠欲も無い。
どうすればいい?
答えのない問いは繰り返される。
只の高校生には重すぎる代償。
鉄心がいつか目を覚ました時、彼はこの現実に耐えうるだろうか。
きっと、不可能だ。
鍵を開け、リビングへと向かう。
ラジオから流れる『有難いお言葉』。
教団への愛で満ち溢れた家。
高価なソファに彼女の母がいて、うっとりと自らの爪を眺めていた。
災害のアサシンの手によって施されたネイル。
母は娘に、誇らしげに教祖様との出来事を語る。
「ママ、今日は最高のおめかしで、教祖様のお部屋に誘われたのよ?雪匣も早く『そう』なれるといいわね?」
アングイスが第五区から追放される故に、次代のセントラル支部、ヴェノムアーチャーの席は譲り渡されることとなる。
母は己の権力を用いて、娘をここまで押し上げてきた。
才能ある適正者である彼女が、ヴェノムを率いていく。
その未来に、非適正者の汚らわしいイーターたちがいてはならない。
入谷春風、ヴェノムバーサーカー『アキレウス』をその身に宿す、ヴェノム左大臣の席の女。
またの名を『ムブニル』。
自らと、愛する娘が幸福であるために、今のセントラルの体制を崩されるわけにはいかなかった。
故に、自らが危険を冒してでも、イーター実験を終わらせたのだ。
そしてその罪は都合よく、活動家のアングイスに被せることができた。
故に彼女は今日最も機嫌がいい。
「お母さん………………」
「あ、それと雪匣、今日も非適正者の街に行っていたでしょう?あそこはスラム街で、女の子が一人行く場所じゃない。たとえ貴方が最強のヴェノムアーチャーだとしても、危ないことは辞めなさい。」
病院に行っていた。
鉄心は非適正者で、彼はイーター実験の被害者だ。
ムブニルはそんなことも知らない。
一切興味がない。
非適正者の誰が死のうと眼中にない。
彼女の目に映るのは、災害のアサシンと、愛する雪匣のみである。
「ははは、はは、ははははははは━━━━」
雪匣の目から光が消える。
乾いた笑みが溢れ出した。
どうして、こうなんだろう。
何で、こうなってしまったのだろう。
あぁ
教団も、母も、そして『自分自身』も
全部消えて無くなってしまえばいいのに。
あぁ
こんなくだらない世界
『生まれてこなければ良かった』
※
今日、セントラル支部にて新たなヴェノムが誕生する。
式典にて、拍手の中、一人の少女がレッドカーペットを歩いた。
傍には涙ぐむ母親と、少女を歓迎する同僚たちの姿がある。
彼女は笑うことも、泣くこともなく、神の席にて佇む災害のアサシンの前に跪いた。
「これより貴様の名はヴェノムアーチャー『ウラルン』だ。余の元で存分に励め。」
新たなる才能が芽吹く。
少女はウラルンという名を与えられた。
その仮面は、今の彼女にとっては心地いいものかもしれない。
もう、何もかもがうんざりだった。
「約束だ、貴様の願いを叶えてやろう」
離席したザッハークは、ウラルンへと近寄り、彼女のカーキ色の髪を撫でた。
彼女は誰にも聞こえぬ声で、災害へと願いを告げる。
それは災害が想像していたよりも、細やかなものだった。
『いつか目を覚ました鶯谷鉄心の記憶から、開発都市第五区やヴェノムのこと、実母のこと、そして入谷雪匣のことを消してください』
それは傲慢な願いだ。
彼はきっと、そんなことは望まない。
だが、それでも。
第五区を離れても、彼は鶯谷本舗を開業し、必死に今を生きていくだろう。
そして素敵な出会いを経て、必ず幸福になる。
その幸せに、入谷雪匣が介在する余地はない。
存在しては、ならない。
雪匣は想う。
全てを忘れて、貴方だけは笑顔で生きてください。
私にはもう、笑顔も涙も必要ありません。
これより先は、入谷雪匣じゃない。
『ケイローン』と『アキレウス』、二つのヴェノムアンプルを使う、セントラル支部のサーヴァント。
ヴェノムアーチャー『ウラルン』
それこそが、私の居場所だ。
【信奏編⑤『ウラルン』 おわり】