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マリアは頭の良い少女だった。
四歳にしてアインツベルン邸宅の書庫に入り浸り、あらゆる書物を読破した。
とりわけ、人類史学を好み、人間の進化について持論を展開できる程になっていた。
サヘラントロプス等の初期猿人より始まり、現代のホモ・サピエンスに至る過程。
人類学者はヒト進化のプロセスを、争いではなく、共存性に依るものと説き、論理的思考を獲得した現生人類こそ到達点であると定義した。
否である。
マリアは幼い身でありながら、ホモ・サピエンスの抱える矛盾を理解している。
何故、人類は論理的思考を有し、かつ協調性を獲得していながら、戦争を行うのだろうと。
生存と殺人は真逆の概念である。
三十万年滅亡脱却に成功したサピエンス種は、今なお核戦争等の人類単位での自傷行為に感けている。
マリアはここで、ヒト種を矛盾だらけの下等生物と吐き捨ず、見捨てることもしなかった。
サピエンス種の繁栄は、論理的思考を以て、他者と知識を共有し、文明を開花させた賜物。
猿人、原人、その他動植物は、自身らの精神、肉体を環境に適応させる。
逆に現生人類は、自身らの精神、肉体が適応する環境を作り上げる。
もし人類学者がこれを進化と説くならば、それはマリアにとって大いなる過ちだ。
サピエンス種は生物としての進化を停滞させたに過ぎない。
個としての成長を諦め、他者との共存が前提となる社会を組み上げ、殻に閉じこもった。
そして進化のメカニズム、理、或いは輪の中から抜け出したのだ。
マリアの定義する進化とは、他者へ縋ることではなく、むしろ真逆。
『淘汰』である。
戦争こそが、正しい進化の過程であると認識した。
ヒト種目は愚かではない。他者を蹴落とし、他者を殺し、強き精神、肉体を獲得することで人類は成熟する。
言わば戦争は、正常な道程なのだ。
弱肉強食こそ真理。選定された強き者だけが過酷な環境に適応し、サピエンス種を次のステージへ導く。
マリアは『ホモ・ケルサス』と名付け、父母や姉に自身の考えを共有した。
だが、彼らはマリアの理解者足り得なかった。
ダリアは彼女の思考を理解し得ず、ままごとに興じる。
父母はマリアを天才だと褒め称えるが、そこまで。
マリアは何も賞賛の拍手を得たかったのではない。サピエンス種同士のディベートを求めたのだ。
唯一祖母サンスイのみが、マリアの思考を理解し、否定した。
戦争が人間の進化の裏付けである筈がないと。
誰もが武器を取る時代が訪れた際には、絶滅し、進化も何もないのだと、優しく教え諭すように。
サンスイの意見は一見正しいようで、その実、間違っていると思う。
サピエンス種の絶滅という意味ではサンスイの言う通り。
たとえ誰もが殺しあう時代が訪れようとも、数多の淘汰の先に生存する強者が現れる。
強者は敗北をしないから強者なのである。
強者は殺されないから強者なのである。
サピエンス種を遥かに凌駕する脳の発達、身体の発育、マリアの提唱するホモ・ケルサスは滅亡の運命を乗り越える。
マリアにも到達不可能な、ヒトの臨界、即ち最上は、彼女の空想の箱に閉じ込められたままだった。
ある日の夜。
月の眩しさに目を覚ましたマリアは、暇を持て余し、いつもの書庫へ訪れた。
自らの手の届く範囲での資料は読了した筈だった。
だが愛読書たちの隙間に、何やら巻物のような古びた図面を発見した。
それは『宮子曼荼羅』と呼ばれる、一枚の曼荼羅図だった。
描かれた球体は透明化した地球のよう。
そのマントル部分に鎮座するのは神的概念である『オウバ』
そして点在する者共は『パンバ』と表記されていた。
マリアは数々の言語を習得していたが、そのどれにも該当しない言の葉であった。
オウバからの脱却、パンバが球体外を目指す運動を生物の進化と評する。
ならば、オウバへの回帰運動は?
曼荼羅図から読み取れることは何もない。
だがマリアは数時間にわたり、巻物との睨めっこを続けていた。
この世に神は存在しない。神がヒトを創造したのではない。ヒトが自然現象、災禍を言語化する目的で、神を生み出したのだ。
超常とはヒトが理解しえぬ理を、神概念へ責任転嫁した事象に過ぎない。
ならばオウバとはもっと最奥の、神ですらない何か。
その別離を人間の進化と解くならば、神と同居するサピエンス種は進化過程に過ぎないのではないか。
ケルサスに求められるのは、信仰の終焉?
この曼荼羅図を作成した者もまたサピエンス種である以上、答えなど用意される筈もない。
そしてマリアもまた、ホモ・サピエンスである。
ならば、何が正しいのか。何が間違っているのか。
生物の進化とは何なのか。
マリアは頭を悩ませながら、夜を明かした。
だが、彼女はとうの昔に気付いている。
幼子という立場を利用して、知らぬ存ぜぬを突き通している。
彼女は胸の内で、ある祈りを抱いていた。
ホモ・サピエンス種として生まれた、一人の女性として、その生涯を終えたいと。
それは人間としての当たり前の願い。これが彼女の成長と発達と目的を阻害してきた。
桃源郷オアシスに産み落とされた彼女、マリア=インヴェルディアに与えられた使命は、真逆。
大いなる大地の意思か?
はたまた、ヒトの紡ぐ集合意識の総意か?
どちらでも良い。だが、サピエンス種が彼女の背中を後押しすることは無い。
彼女の役割、それは、やがて誕生する新人類ホモ・ケルサスの守護者である。
サピエンス種を脱却する人間を肯定する存在こそが、彼女。
故に、サピエンス種でありながら、その人生を歩むことが否定された。
彼女がそんなくだらない事実を再認識したのは、僅か一年後、五歳になる年のことである。
禁止区域の防人として役目を与えられたその当日。
彼女は自身の親、そして姉をいとも容易く虐殺した。
※
それは瞬く間の出来事だった。
人々の悲鳴を聞きつけたショーンと松岱連也は、胸騒ぎと共に、信華たちのいるベンチへと向かった。
そして彼らはその光景を目の当たりにした。
ヴェノムアンプルを注入した杏寿が血塗れとなり横たわっている。
そして覆い被さる都信華の手には、杏寿の力の一端と思われる、武将の刀が握られている。
何度も何度も、その小さな身体を刃物で突き刺したのだろう。
連也は視線の先の悪夢を受け入れることが出来ず、ただその場で立ち尽くす。
対して軍人としての教育を受けたショーンは、まず杏寿の救出へと走り出した。
「何をしているの!?」
ショーンは勢いのまま信華を弾き飛ばし、杏寿の生死を確かめる。
虫の息ではあるが、まだ生存している。
彼のヴェノムキャスター『アスクレピオス』の力であれば、その命を救うことが出来る。
戸惑いはあれど、迷いはない。
彼はすぐさま自身の肉体へアンプルを注入し、杏寿の治療を開始する。
「ニョッカちゃん……っ!死なないで!お願い!」
ショーンにタックルされた信華はゆっくりと起き上がる。
そして、親友の無惨な姿に、悲しみを覚えた。
どうして、こんなことに。
誰が、杏寿に酷いことをしたのか。
彼女は所持した刀に目を向けることなく、返り血の匂いを嗅ぐこともなく、姿の見えない犯人に憤慨する。
いつも通りのこと。
彼女は客観的事実を理解しない。あり得ざる妄想と幼稚な嘘で己を欺き続ける。
一人の女として、幸せになるために。
だから彼女は、愛しい恋人の元へ向かい、助けを求めた。
ホラームービーの怪人のように歩み寄る。
「ひっ……!」
連也は恐怖のあまり腰を抜かし、その場へと倒れ込んだ。
そして他人の血液の匂いが染み付いた恋人に畏怖と嫌悪の感情を表す。
ショーンへ助けを求めるが、彼はいま杏寿を救うことで手一杯だった。
信華は倒れた連也の上に跨ると、その胸板に自身の顔を擦り付ける。
「連也、助けて…………」
「信華…………?」
「お願い、助けて。やっと手に入れたの。やっと、やっと、ずっと待ち焦がれていたものが、やっと」
「何を言って……………?」
ショーンの手際の良さと、アスクレピオスの権能により、杏寿は口が開けるようになるまで回復した。
彼女はショーンの袖を掴み、必死に訴えかける。
未だ状況を理解できない彼に、事の重大さを認識させるために。
「逃げろ」
杏寿だけが理解した。
都信華という、最大脅威。
命を奪われるその直前で、ようやく親友である女の在り方、器を知ったのだ。
『解離性同一性障害』
彼女の中に、二人の人間が存在する。
そしてその片割れは、人類という単位で、明確な敵である。
「ニョッカちゃん!何が、どうなって!?」
ショーンは杏寿の小さな身体を抱き上げた。
そして信華たちのいる方角を向く。
彼の目前で、新たなる被害者が生まれようとしていた。
連也に覆い被さった信華は、両手で彼の首を締め上げた。
彼の目鼻から水が流れ落ち、苦しみ喘ぐか細い声が聞こえてくる。
ショーンは本来、彼を救う為に走り出すべきだった。
だがそれが出来なかった。
心が、この状況を現実と認識することを拒んでいる。
都信華という研究者を、一人の女性を、友として愛していたからこそ。
ものの数秒、だが、彼にとってはとてつもなく長い時間。
一歩を踏み出せないその間に、松岱連也はこの世を去った。
信華の両手は首を絞めるに留まらず、指は凶器のように彼の肉を貫き、最終、引きちぎってしまっていた。
ゴロンと音を立て、青年の頭は地面に転がる。
「あ…………」
信華は涙した。
愛するヒトを失った悲しみに、その身が耐えられなかった。
矛盾する感情、行動。
人間の理解の範疇を超えた怪物の姿がこれだ。
信華は人間だ。
人間でいたいと願う、ただの人間だ。
愛する人と結ばれることを祈る、ただの━━━━━━━━
「信華ちゃん、なんで?」
ショーンもまた、訳もわからず泣いていた。
やがて民衆に通報され、セントラルのヴェノムたちが到着するだろう。
そして彼女の身柄は確保されるだろう。
そこで初めて、都信華の意思が理解できるかもしれない。
今の彼には、何もできない。
友に寄り添う覚悟が出来ない。
だから、理解することは辞めた。
花嫁衣装を身に纏う、笑顔の彼女こそが本物で
血に塗れながら泣き笑う、バケモノの女は夢なのだ。
きっと━━━━━━そうだ。
【信奏編⑩『臨愁』】
マリアは生まれて間もなく、人間の可能性の極地、進化の終着駅を理解した。
新人類創世、並びに『熟成』こそが彼女の生まれた意味であった。
だが、彼女は神ではなく、人間である。彼女には決して創造することは出来ない。
だからこそ、己の役割を『サピエンス種の滅却』に固定した。
「でも、そんなことが叶うはずもありませんでした。」
マリアは当然、理解していた。
人間には社会が、環境が決めたルールに従う義務が生じる。マリアはマリアとして生まれた役割を全うしなければならない。
核弾頭のスイッチを押す立場にはなれないし、己が核弾頭となることもない。
生涯の全てを賭して、殺すことのできる人間の数などたかが知れている。
だから、早々にその生き方を諦めた。
彼女は自らの姉ダリアを参考に、社会に適応するための人格を生み出し、己は殻に篭ったのだ。
インヴェルディアは捨て、楽園で孤独な鬼から与えられた『シンカ』を名乗り始めた。
そして第五区の研究者として、ヴェノムアンプルによる人間の可能性の開拓に使命を費やした。
新人類への夢を追い求めるのでは無く、現生人類の延命措置を探す方向にシフトする。
「虚行回路が備わった適正者にアンプルを注入することで、人間は過去の英霊を宿し、強大な力を振るうことができる。ただこれは新人類へのアプローチでは無い。現生人類のいち生存戦略です。いつか滅びゆく定めに争う有効な手段ではありませんから、私にはままごと同然の研究でした。」
やがて彼女は自らの手で、ヴェノムイーター研究のステージを進めてしまう。
非適正者もまた、適正者同様の権能を手にし、強者として人生を歩むことが出来る技術。
ダリアの模倣人格は、ただの研究者としてこれを礼賛する。
だが奥底に眠るマリアはこれを拒絶した。
サピエンス種の生存の介助に何の意味もない。
元の思想として、マリアは絶滅を願っているにも関わらず。
偶然に見つかったイーターへの足がかりが、彼女を苦しめることとなった。
「矛盾してはいますが、私はイーター実験を止めなければならなかったのです。」
人間には、社会的立場がある。
もはや彼女の一存で止められる研究ではなかった。
何故ならば、彼女の肩には第五区の夢が乗せられていたから。
彼女は不慮の事故を装い、実験を白紙にするしかなかったのだ。
信華がこの社会に適応するために。
極めて自然な方法で、被験者を虐殺した。
あと、やることと言えば、簡単な口封じだ。
実験の真相に辿り着く可能性のあるものを徹底的に殺す。
都信華の『真相』に辿り着くものを殺す。
そうして彼女は、元の人生へと戻れる。
「もしあんたが合理的に行動していたなら、まず遠坂杏寿やショーンを殺すべきだった。でも、信華、あんたはそれをしなかった。出来なかったんだ。きっとそれは、本当に友達だと、仲間だと思っていたから。」
『深層界曼荼羅』内部。
彼女の物語を聞いた巧一朗はそう結論づけた。
都信華は、巧一朗と同じだ。
非情であるべきなのに、大切なものを失う覚悟が出来ていなかった。
だから信華は失敗したのだ。
「そうかもしれませんね。ダリアはきっと、そう考えていた。」
「ダリアもマリアも一緒だ。あんたは都信華という一人の人間なんだから。分ける必要は無い。」
「無茶を言いますね。でも、確かにそうだ。私は、信華。どれだけ記憶が欠落しても、『彼』のくれた名前は忘れない。」
信華は傷ひとつない身体で、誇らしそうに胸を張った。
逆に全身から血を噴き出した巧一朗は、苦しそうにその場で蹲る。
「あなたの過去を聞き、私の過去を話した。もうこれ以上は、語ることはありませんね。」
「いや、一つ気になっていることがある。その後のあんただ。今の状態から、どうやって左大臣の席まで登り詰めた?力が強いから、なんてのは理由にならないだろう?」
「適正者と非適正者の垣根を越えるべく、沼御前により選出されたのが非適正者の私だった、ただそれだけです。最も私には荷が重かったので、早々に職を辞しましたが。」
嘘だ。
都信華は今なお、左大臣の席だ。
確かに戦いからは退いているものの、緊急時は彼女が前線に立つのは今も変わらない。
何故、彼女がアヘル幹部の席に着任したのか。
それは『エマ』のお陰であるが、真実を巧一朗に語るには、時期尚早である。
彼がそれを知れば、この心踊る戦いを放りかねない。
それは嫌だ。
これほどまでに壊し甲斐のある敵は久々なのだ。
戦いの愉悦に浸ることくらい、許されても良いだろう。
「でも、不思議だ。ここまでの話を経て、何故信華は、災害のアサシンを信仰したんだ?あんたの理想に、災害は邪魔な存在だろう?」
「ええ。」
信華は沼御前に連れてこられ、ナナと再会した日を思い出した。
ナナは信華の右袖を捲り、浮かび上がった無数の痣に驚愕した。
信華にはそれが何か理解できなかったが、ナナはその場で崩れ落ち、涙を流した。
きっとナナは、それが彼の『令呪』であると信じていたのだと思う。
それから、信華は彼女から寵愛を受けるようになった。
「洗脳されたのか?」
「違うとは言い切れませんね。私が彼女に魅了されたのは事実だ。」
「意外だな。人間を超越したみたいな奴だろう、あんたは。」
「魅了されている方が、私にとっては『得』です。偶然にも利害は一致していましたので。」
「利害の一致?」
「世界を滅ぼす、という点で。」
信華は小癪にも会話で時間を稼ごうとする彼を許さない。
反撃の隙など、与える筈もないのだ。
言葉を交えながらも、膝をついた彼を蹴り飛ばし、転がせる。
巧一朗の『縫合』は限界を迎えていた。
輪廻の用意した固有結界には、凡ゆる物が、可変事象が存在する。
プラトン哲学におけるイデア界に似て非なる空間。
虚行虫という本質が確固たるものである限り、巧一朗が望めば、手足含め代替品は用意できる。
だが、そこまで。
彼の吐き出す糸は、都信華を超える可能性へと繋がらない。
手繰り寄せた釣り針には、どんな未来もかかっていない。
彼はこの空間に閉じ込められた間に、自らの運命を悟った。
彼では、都信華には勝利できないと。
定められた運命なのだと。
「(信華を、仲間にしても、倒しても良い。輪廻の曖昧な回答の意味は、どの選択をしても変わらないという意味だ。なら、それが意図することはひとつ。どちらの道を選んでも、最終的に俺が死ぬということ。)」
意地悪なことを言ってくれる。
彼に与えられた役目はきっと、彼女の足止めなのだろう。
途方もない年月が過ぎた気がするが、外の世界では輪廻やクロノが世界終末の日に向けて、対策を練っているに違いない。
ディートリヒ・ヴェルバーを倒す、或いは開発都市オアシスという舟を浮上させ、地球を脱出する。
元サーヴァントのクロノと異なり、巧一朗はただの虫。出来ることは限られているだろう。
だが、ここで死ぬのは御免被る。
彼にはまだ、やりたいことがある。
まず、キャスターに会いたい。
彼女が彼の恋した少女ならば、話したいことは山積みだ。
次に、仲間たちに会いたい。
美頼に会いたい。あわよくば、ナース服を身に纏った彼女の姿を見たい。
鶯谷に会いたい。くだらないジョークで盛り上がりたい。
鬼頭教官に会いたい。あの落ち着いた声を聞きたい。
彼から自然と笑みが溢れた。
今にも殺される状況で、大切なものたちを思い浮かべて。
『生きていて良かったと、心の底から言えるその日まで、貴方の旅を続けること』
ダストの最期の令呪は、今もなお彼の心に留まり続けている。
運命に争い、事態を悪化させたもう一人の巧一朗。
蟲蔵で亜弥の命を奪った巧一朗。
博物館で、仲間と裏稼業に勤しんでいた巧一朗。
そして今、この場で足掻いている巧一朗。
全てが同じ彼なのだ。
彼は彼の罪を背負い、向き合い、そして生き残る。
対災害テロ組織『第四区博物館』のエージェントが、ただの人間に敗北してはならない。
負けたらきっと、お笑い種だ。
「笑っているのですか?巧一朗。」
「あぁ。笑いたくもなるさ。圧倒的にこちらがピンチだからな。」
「嘘つき。」
信華は何度目か分からぬ、トドメの一撃を打ち込んだ。
だがまたもや彼には届かない。
彼の腕に、無数の光線が走る。
刻まれた幾何学模様は、彼女が初めて観測するもの、けれど、不思議にも懐かしさを感じていた。
信華の記憶ではない。彼女と一体化した、エマに刻まれているもの。
力の本質は理解できる。流れ、溢れ出る魔力は、拳を通じて伝播する。
巧一朗の髪は赤く染まり、彼の背から漏れ出たアゲハ蝶の羽が宙へと描かれる。
これが、彼の全力。
それを理解した信華は余りの幸福から満面の笑みを溢した。
彼はいま『進化』した。
ヒトの紡ぐ最新の可能性を目撃する。
『隣人召喚』
全てを殺し、前に進む都信華。
数少ない仲間を想い、立ち上がる間桐巧一朗。
ここでついに、決戦の火蓋が切って落とされたのだ。
※
「いいか、俺の臣下よ。ただ拳を振るえば勝てるほど、喧嘩は甘くねぇ。相手の数、性別、筋肉量、武器の種類、見るところは沢山あるが、それに合わせて有効打を狙い続けなきゃいけねぇ。強い相手なら全身を使って、弱い相手には右手で事足りる。消費するカロリーは少ないほど良いからな。」
「阿久良王のおじさんは、型を使い分けているの?」
「あぁ。俺には『叛喜』『焦怒』『博哀』っつう三種類の戦闘スタイルがある。個人戦、集団戦で変えているんだ。まぁ、本当はもう一つあるんだけどな?」
「幻の型なのね。喜怒哀楽、だから楽?」
「いや。喜怒哀愁の、愁うという字から取った、第四のモード『臨愁』だ。これは最後の講義まで取っておこう。」
「何故?」
「これは特別な技だからだ。」
信華が師と仰いだ鬼は、やがて最期の拳法を伝授し、命を落とした。
彼女自らの手で葬ったのだ。
それは彼自身が望んだことでもある。
今の信華は、阿久良王の心を読み解くことが出来た。
「さて、ではセカンドラウンドを始めましょうか。」
彼女も既に、三つの型を披露した。
そして際限なく進化を繰り返すモード『崩楽』へと移行し、人間の臨界を脱した。
彼女はサーヴァントすら凌駕し、今や災害へと届くほどの戦闘技術を有している。
人間程度であれば、殺害するのに一秒とかからないだろう。
だが、崩楽は進化の上限を撤廃した暴走機関。
いずれ肉体が完成されていく技能に耐えきれなくなり、内側から砕け散る。
そのため、どこかで進化のベクトルを替え、リセットをする必要がある。
だが深層界曼荼羅が味方するのは巧一朗だけ。
彼女に用意されているのは、地平線の見える果てなき海だ。
空っぽの世界で、彼女は愛すべき宿敵に勝たなければならない。
そして彼女の推測だが、自身が命を落とすその時まで、結界が解かれることはないだろう。
遠坂輪廻、始まりの聖杯によって、勝負はつけられたのだ。
だが、信華はハンデを背負いつつも、高揚感を隠せなかった。
彼女からすれば、遮蔽物のない、邪魔者も存在しない世界は、とても心地いい。
松岱道場を思い出す。
「信華、やろう。仲間になってはくれなさそうだからな。あんたはそれを望んでいない。」
「ええ。良くお分かりですね。」
「お眼鏡に適えるといいがな!」
先に仕掛けたのは巧一朗だ。
彼は地面を勢いよく蹴り、拳一つで殴り込んだ。
得物も持たぬ、正真正銘、筋肉のぶつかり合い。
巧一朗に出来るのはそれだけ。
信華も同じことを望んでいる。
彼は全身全霊をかけて最強の人類へ挑む。
災害のキャスターのときと何ら変わらない。
「おらああああ!」
「ふん」
渾身の右ストレートを横に流しながら回避し、信華は胸部めがけて膝蹴りをする。
だが海の底から這い出た糸が、彼女の右足へ巻きつき、静止させた。
そしてその隙に彼は突き出した腕を引く形で、彼女の顔面に肘打ちを食らわせた。
衝撃で、水面へと叩きつけられる信華。
武器を有さない、とは言ったが、彼は彼自身の飛び道具を用意している。
「糸……」
信華は彼女の足に絡みついた糸を引きちぎる。
所謂、凧糸のような柔らかいものでもなく、ピアノ線のような肉を切り裂くものでもない。
粘り気と共にどこまでも伸びる奇妙な材質だ。
蜘蛛の巣に近い概念だが、ヒトを縛る立派な道具である。
彼が垂らしたものなのか。
きっとそうだろう。
彼が紡ぎ、繋ぐものだ。
「まだまだ!」
信華が立ち上がる直前に、彼は追撃へと出る。
今度はバネのように飛び上がり、左足で蹴りを入れる。
信華からすれば、余りにも出遅れた一撃。
だが、彼女はまたもや彼の攻撃をその身で浴びることとなる。
有り得ざることだが、彼女の両足はいま、海の水と縫合されていた。
腹部に突き刺さる左足。
その衝撃により彼女は込み上げた胃液を口から撒き散らした。
手品師の如き妙な小技、だがそれ以上に、彼の身体能力は明らかに向上している。
これが巧一朗の言う、隣人の力なのか?
彼女は至って冷静に、状況を分析していた。
巧一朗は追撃の手を緩めるつもりはなかったが、足を開放した彼女が後方に飛び退いたため、リズムよく攻めることが出来なかった。
信華の適応力を舐めていたかもしれない。
縫合魔術の理を暴き、戦闘データとして収集し始めている。
「縫合魔術は、貴方の肉体を繋ぎめるもの以上の価値だったのですね。否、隣人との接続により、その練度が増したのでしょうか?」
「隣人のことを、理解しているのか?」
「いいえさっぱり。ですが、何か強大なエネルギーの集積体ということは想像に難くない。」
「ほぼ正解だよ。」
今の巧一朗は、あらゆるものを、事象を、概念を、無茶に、無理やりに縫合する。
都信華の足を止めるため、固有結界そのものと繋いだのだ。
彼にとってもこれはテストだ。より高度な魔術行使の足がかりとしている。
隣人と共に、どこまでのものを繋げるのか。
やがては、都信華その存在そのものを曼荼羅へと結びつけるかもしれない。
「(あとは精度と、言うなれば想像力、でしょうかね)」
信華はこの瞬く間のやり取りで、巧一朗の技量を見切る。
そして今度は、とばかりに巧一朗へと急接近した。
繰り出される拳は、何度目かの暗殺拳法。
当然彼は回避行動の一環として、彼女の両腕を結びつける。
まるで手錠のようだが、この判断はとんでもない過ちだった。
信華は両腕はそのままに、彼の首元へ弱攻撃を打ち込むと、勢いに任せて跳び膝蹴りをお見舞いする。
鋭利な刃物のような右膝が巧一朗の腹部を押し上げ、肌を、筋肉を破いた。
そして行手を阻む骨さえも砕き、露出した肝臓部位を飛び散らせる。
「くは……っ…………………」
衝撃で彼の肉体はゴム鞠のように飛び跳ねた。
宙に散らばる肉片と骨片。
彼は吐血しながら、大地へと落ちていった。
刹那の気の迷い、判断の誤りが、致命的なものとなる。
ファフロツキーズとの戦闘で嫌と言うほどに理解した筈だが、未熟な精神や肉体が即座に適応できるものでも無かった。
彼はポッカリと空いた穴に手を当て、直ちに修復を試みる。
だが信華はここぞとばかりに走り出した。
一秒に満たない間に彼へ急接近し、彼の首に手をかける。
「ぐ………………」
「死ね」
直情的な言葉だ。
冷静な彼女らしくない。
いや、まどろっこしくない分、彼女らしいと言われればそう。
信華は、心から巧一朗を壊したいと願った。
恋焦がれるほどに、死んでほしいと祈っている。
ダリアではなく、マリアが、彼へ余りにも重い感情を抱いていた。
性的衝動に近い感情だ。
いち研究者として、一人の女として、マリアは巧一朗を愛している。
「負ける………………かよ!」
信華が見つめているのは、彼だけだ。
だが彼の瞳には、都信華は写っていない。
その先にあるもの。
彼の帰りを待ってくれている『誰か』を捉えていた。
巧一朗もまた、彼女の首に手をかける。
互いに渾身の力で首を絞め合った。
そして巧一朗は、空から垂らした糸で、彼女を吊り上げていく。
非道なやり方であることは承知の上、
だが戦場において作法などない。
どんな手段を用いても、殺せば勝ち、ただそれだけ。
「(あぁ、くそ…………言峰クロノとかダイダロスなら、上手くやるんだろうな!)」
信華の食い込む指が喉仏あたりへと突き刺さり、巧一朗は痛みに喘いだ。
だが信華もまた、巧一朗の手と首元へかかった糸により、呼吸を失う。
彼女は不意に、アングイスを殺害したその時を思い出した。
自殺に見せかけるためにロープへと吊るしたその際。
妖怪アンプルで絶命した筈の彼女が足をばたつかせた。
最後の力を振り絞って、何か言葉を発したのだ。
信華には最初の『て』の文字しか聞き取れなかった。
彼女も今の信華のように苦しかっただろうか。
贖罪の気持ちが湧き出てくる。
もっと楽に殺してやるべきだった、と。
「しん…………かぁ………!」
「こう……いちろう……………!」
互いの名を叫ぶ。
この勝負、先に根を上げたのは信華だった。
彼女は巧一朗から手を離し、自身に巻き付いた糸を解いた。
水面に転がりながら、何とか呼吸を取り戻す。
巧一朗も同様。信華から再び距離を取り、自身の肉体の修復作業へと入った。
巧一朗は生死の境目に立たされていたように思う。
走馬灯のように、記憶が駆け巡った気がする。
セイバーとの冒険、ヴェルバーとの邂逅、キャスター、そして博物館との出会い。
だが最後に出てきたのは、倉谷美頼の姿だった。
彼は自身のパーツを結界内の物質で補いながら、ぼんやりとそのことを考える。
恋をしているのは、ディートリヒ・ヴェルバーただ一人。
そう、その筈だ。
だが、この一ヶ月、何故か美頼の顔が何度も出てくる。
「(まぁ、強烈な女の子だしな。)」
キャラの濃さで言えば、彼の出会ってきた人間たちの中で随一だと思う。
可愛いと思うことはあれど、恋愛感情を抱いたことはかつて一度もない。
…………多分。
巧一朗は自身の修繕をし、立ち上がる。
まだまだ戦える。心が折れない限り、何度でも。
彼は起き上がる様子のない信華を遠くから見つめていた。
死んだ、とは到底思わない。
彼女はやがて起き上がり、再び拳を構えるだろう。
全速力で殺しに行くべきだが、もしこれこそが信華の用意した罠ならば、不用意な行動は避けるべきだ。
彼女の得意分野は暗殺。油断は禁物である。
警戒する巧一朗を他所に、信華は物思いに耽っていた。
彼に話したこと、彼から聞いたこと、あらゆる情報を精査し、エマへと語りかける。
無論、返答はない。エマは既に都信華の中に溶け込んでいる。
ナナがお腹を痛めて産んだ命の一つ、巧一朗と同等の虚行虫が、信華の胎内へと侵入した。
それが意味すること。恐らくはナナも、沼御前も、巧一朗も、誰も理解し得ないだろう。
だが信華はそれを知っている。
彼女は赤色にも紺色にも見える広大な空を仰いだ。
切断された右肩を動かし、存在しない右手を宙へ伸ばしてみる。
━━━━━━━━あそぼう?しんか
エマの声が聞こえた気がした。
信華は小さく微笑むと、ようやく立ち上がる。
巧一朗は拳を構えるが、信華は空を見上げたままだ。
彼女はどこか気の晴れた表情を浮かべていた。
「お待たせしました、巧一朗。さぁ、続きをやりましょう。」
信華にとって、何も存在しない筈の深層界。
だが彼女が左手を天に向けると、突如、衣服が切り替わった。
戦闘用のバトルスーツは消え、神聖なる巫女服のような衣装を纏う。
神々しさすら感じる立ち姿だ。
巧一朗は全方位から虫の知らせを感じ取る。
空気の流れが変わった。
何かが、始まろうとしている。
「信華………………………?」
「戦闘モード『臨愁』へ移行。さぁ、サードラウンド…………いや、ファイナルラウンドです。」
※
モード『臨愁』
都信華、最期の切り札。
だが、その拳は、これまでと異なり━━━━
「(軽い………?)」
巧一朗と信華の殴り合い。
だがこれまでとはまるで様相が異なる。
巧一朗の攻撃一つ一つが的確に入っていくのに対し、信華の拳はかつてない程に軽い。
目にも止まらぬ速度は消え、角度から何から、いとも容易く観測できるようになる。
打撃力も、これまでの三つの型を遥かに下回る。
人間離れした技の数々はどこへやら。
これでは、巧一朗でも真似ができてしまうだろう。
「(弱っているのか?信華…………)」
何か策を弄しているのか?
彼女の目的がわからない。
対する信華は、巧一朗の攻勢に対し、満身創痍である。
当初とは比べ物にならないほど、弱り果て、今にも膝をついてしまいそうだ。
肩透かしである。
彼女の言う、ファイナルラウンドに、どのような意味が宿っているのか。
巧一朗は真意が読み取れないまま、信華の頬に渾身の一撃を叩き込んだ。
唇が切れ、白い肌には青痣ができ、痛々しい姿だ。
巧一朗は信華であるから容赦しない。同情で攻撃の手を緩めるのは、相対する彼女にも礼を欠く行為だ。
己の全てを賭して、彼女を看取る。
それが巧一朗の覚悟。
だが、今の彼女では、張り合いがないのも事実だ。
「信華…………」
「今のはとてもいいパンチです。右肩が上がりすぎておらず、角度も申し分ない。」
「あんたの真似をしただけだ。今の信華の攻撃は、簡単に見切れるからな。」
「ええ。そうでしょうね。」
応答する信華の拳の速度が上がる。
ほんの気持ち、早くなった一撃。
巧一朗は油断せず、冷静に受け流す。
臨愁の型になって、これまでの全ての型の戦闘方法を理解できるようになった。
言わば、あらゆる戦闘技法の総決算こそが、この臨愁だ。
だが詰め込みすぎた分、練度は下がっているように感じる。
暗殺拳法が素人の目で理解できては、何の意味も無いだろう。
「悪いが、俺はあんたを殺す。そうして、仲間たちの元へ帰る。」
「ええ。」
「受けてみろ、俺の拳。」
巧一朗は彼女の心臓に右ストレートを突き刺した。
メリメリと音を立て、彼女の胸骨が砕け散る。
あと少し、もう少しで心臓を穿つ。
当然、信華はそれを許さないだろう。
そう思っていた。
だが信華はあろうことか、巧一朗を受け入れた。
肉を破り、その指が心臓に触れようとも、彼女は逃げることも、払い除けることもしない。
ただハツラツとした顔である。
巧一朗にはそれが非常に不気味に思えた。
故に、彼女を殺す直前で、彼はその手を引き抜いてしまった。
信華は吐血し、胸部から多量の液体を溢しながら、今も生きている。
どこまでも優勢であるはずの巧一朗は、信華に恐怖した。
「何のつもりだ?…………信華………………?」
「殺さないのですか?」
「今の一撃であんた死ぬんだぞ!?何故、避けない?」
「そちらこそ、敵を屠る絶好の機会を自ら手放すとは、実に情けない。」
信華は油断した巧一朗に蹴り飛ばし、自らの胸に手を当てた。
そして深く息を吸い込み、己に意識を集中させる。
巧一朗の目前、彼女は自らの『進化』を見せつける。
抑える手の指先から、髪の毛よりも細い一筋の光が溢れた。
そして彼女はそれを自らの手足のように、巧みに動かしてみせる。
大きく開いた傷口へ浸透し、波縫いの要領でそれを塞いでいく。
止血するための、糸。
彼女はそれを、自らの細胞から編み出した。
「まさか………………」
巧一朗は驚愕する。
魔力を持たない人間が、いま、人智を越える術を見せつけた。
『縫合魔術』、彼の領域へ、彼女は一歩踏み込んだ。
「……あなたのようには、上手くいきませんね、巧一朗。時間もかかるし、体力も要する。」
「信華……………………あんたは………………」
「糸が手繰り寄せる運命、さぁ、雌雄を決しましょう?」
彼女は高らかに宣言する。
巧一朗がこれより相対するのは、都信華という一人の人間ではない。
サピエンスでも、ケルサスでもない。
学名『ホモ・インセクタム』
開発都市オアシスに誕生した、新たなる人類の通称である。
【信奏編⑩『臨愁』 おわり】
【信奏編⑩『墓標』】
時を同じくして
開発都市第六区。
災害のバーサーカー『后羿』の消滅から、二週間が経過した。
いま第六区では急ピッチで、災害復興措置が敢行されている。
開発都市第四区の力を借りつつ、遠坂組が主導となり、再開発を行なっていた。
富裕層の皆々は、すっかりパークオブエルドラードでの生活に慣れたようだ。
彼らが自らの新たな家に居住する日は、そう遠くはないのだろう。
倉谷美頼は、関係者各所への挨拶回りに勤しんでいた。
と言うのも、彼女は明日、第六区を離れ、第四区へと戻る予定なのだ。
災害の攻撃で破壊され、封鎖された道路はようやく開通。
傷ついた人々の救護のため奔走していた日々から解放される。
短いようで、とても長い冒険だったように思える。
彼女は第六区で、最も明るく元気に振る舞っていた。
多くの人間が、美頼の優しさに救われたことだろう。
彼女が遠坂組本部司令室を訪れた際、龍寿やエラルの姿は無かった。
リカリー一人が、円卓の拭き掃除を行なっている。
「リカリーさん、お疲れ様です!」
「あ、お疲れ様です。明日もう出ちゃうんですね。寂しくなるなぁ。」
「またいつでも呼んでください。こう見えて、フッ軽ですから!」
「はは、頼りになりますよ。」
リカリーはそう言い笑いつつも、どこか気を遣っている印象だ。
思えば二人には大きな接点がない。間には龍寿、または禮士がいた気がする。
「そういえば、龍寿さんは?」
「あぁ、また例の連中の対応に追われています。あの人たち、本当にしつこいんだから。」
「確か『災害被害者の会』でしたっけ?」
「ええ。どこで聞きつけたのか、対災害共同戦線ルラシオンを神聖視しているようで。あろうことか、自分たちも一員になりたいと言い出す始末ですよ。そもそも、もう瓦解、というか、解散しているんですけどね。」
「ルラシオン、奇跡のようなチームだったな。またいつか、みんなが手を取り合う日は来るんでしょうか?」
「難しいでしょうね。アヘル教団然り、利権を狙う被害者の会然り、不安要素は付きものですから。ドリームチームは、まさに夢なのです。僕らはきっと、壮絶な夢を見ていたのだと思います。」
リカリーは遠い目をしていた。
彼は未だ、アマゾニアや禮士の死を受け入れられないでいる。
それはロウヒを失った美頼もそうだ。
前を向いているようで、一歩も進めていない。
心に開いた穴が塞がるには、より多くの時間が必要だ。
「すみません、いま各企業の代表に挨拶するのは難しいでしょう。明日のお別れの時間なら、また会えると思います。」
「ありがとうございます。じゃあ、他の人からアイサツ済ませちゃおっかな!」
美頼が踵を返したと同時に、リカリーは声をかけた。
呼び止めるつもりは無かったが、これから彼女が向かう先が、どうしても気になってしまったのだ。
「今日も、あそこへ行くのですか?」
「……………………うん」
「…………二週間、毎日通っているんですよね。もはや誰も近づかない遠坂組の牢獄へ。」
「よく知っていますね。」
「噂程度には。…………僕も気になってはいました。『彼女』は元気ですか?」
「どうだろ?私には、さっぱり分からないです!」
美頼は振り返り、笑顔を見せた。
彼女なりの、気遣いだ。
閉じ込められた『彼女』が元気である筈など無いのだ。
リカリーもそれを分かっていながら、美頼のついた嘘に騙されてみせる。
彼は呼び止めたことを謝罪し、彼女を見送った。
※
美頼は、自身が第六区へ漂流した際に収監された場所へ向かった。
小さな監獄であるが、看守はいない。
軽犯罪者ですら、富裕層とは階層を分けられる形で、パークオブエルドラードに移されている。
この場所に住まうのはただ一人。
『彼女』は自ら望み、孤独であろうとした。
美頼が足を止めた牢の中で、両手両足を繋がれた女が、三角座りで俯いていた。
誰が来ようと、その顔を上げることは無いだろう。
「来たよ、『海御前』さん。」
美頼は彼女、第六区を救った英雄『海御前』へと声をかけた。
だが一切の返答はない。いつものことだ。
美頼は差し入れ代わりに、軽い食事を用意するが、二週間分のものが手をつけられず、放置されたままだ。
サーヴァントは食事を行わないが、それでも美頼は毎日届けている。
「今日はあんぱん買ってきた。パークオブエルドラードで1番人気のやつ、並んで買うの苦労したんだから。」
美頼は、今日も今日とて、独り言を繰り返す。
どんな言葉を投げかけようと、海御前が瞳を見せることは無いためだ。
禮士が命を落とし、海御前は自ら命を断つ選択をした。
だが遠坂組が、マキリが、それを許さなかった。
せめて彼女だけでも生きてほしいと願ったのだ。
海御前は英霊として、彼らの願いを聞き入れたが、提示した条件として、二度と監獄から姿を見せない契約をした。
マスターを目前で死なせてしまった哀れな英霊、その罪と永遠に向き合うために。
美頼からして、海御前に生きてほしいと願うのは、彼らのエゴだと思った。
大切な人のいない世界で、生きていくのがどれだけ辛いことか。
ロウヒを失った美頼には、もう巧一朗しかいない。
「餡がね、落ち着いた甘さなんだよね。上品な感じ?さすが第六区産って感じ!」
美頼は海御前に背を向け、檻にもたれかかる。
こうしている間も、中にいる彼女からの反応はない。
死んでいるのかと思う静けさだ。
いや、彼女はもう死んでいるのかもしれない。
美頼は二週間前に購入した腐りかけの菓子を、勿体無いと頬張った。
妙な甘ったるさが口の中に広がり、多幸感より不快感が勝る。
彼女は連想ゲームのように、甘いというワードから、海御前のあだ名を思い出した。
禮士のみが、彼女をそう呼んでいた気がする。落ち着いた雰囲気の男からは到底出てこない、可愛らしいニックネームだ。
「あまたん」
美頼は何となく、その言葉を口にした。
刹那、牢獄から伸びた手が、鉄格子越しに彼女の肩に掴み掛かる。
肉が引き裂かれるほどに、強く握り締められた。
「いだぁあああああ?!」
美頼は焦りと痛みから、牢屋から離れた壁際まで逃亡した。
ドクンと激しく脈打つ心臓を落ち着かせながら、鉄格子の中の景色を見つめた。
これまで指先すら動かさなかった海御前が、息を荒げながら、格子を血が滲むほど握りしめている。
前側に垂れた長い髪の所為で表情は読み取れないが、激しい怒りは定かである。
「海御前…………?」
「その名を呼ぶな、二度と、呼ぶな」
海御前はそう言い、その場で蹲る。
そして声にならない叫びを繰り返しながら、地面に己の額を叩きつけた。
何度も、何度も。
頭蓋が砕け散るまで、彼女は止まらないだろう。
「やめて!海御前!」
美頼は慌てて止めに入った。
彼女にも、龍寿やエラルをとやかく言う権利はないようだ。
海御前が死のうとするのを、止めようとする。
生きてほしいと、そう願ってしまう。
だから、一緒だ。
美頼は格子の間から、海御前に向けて手を伸ばした。
そして何とか、彼女の手を掴むことに成功する。
人間の温もりが感じられない、氷のように冷たい手だ。
美しい顔はどこへやら、額から血が溢れ、痣だらけになっている。
そして美頼が掴んだ左腕もそう。
ここで初めて知る事実だった。
美頼が訪れるその時、海御前は座ったまま微動だにしない。
だが、それ以外の時間、彼女は発狂しながら、自らを傷つけ続けている。
証拠にその腕、否、全身は二週間の間に腫れ上がり、爛れ、美しい白い肌ではなくなっていた。
美頼の目から涙が溢れ出す。
誰もが、前へ進めていない、そう思っていた。
海御前も同じ、いや、きっとそれ以上。
彼女の時間は、あの瞬間に停止したままなのだ。
だから、永遠に後悔し、懺悔し、己を痛ぶり続けている。
教経、アマゾニアたちの、誇りある死。
対照的に、海御前の醜い生。
何故、自分だけが生き残ってしまったのか。
彼女だけは、今も悪夢に苦しみ続けている。
「海御前……お願い……………やめて……………………」
美頼の悲痛な声に、獣のような声を荒げていた海御前はようやく落ち着きを取り戻した。
そして美頼の手を振り払い、再び膝を抱えて座り込む。
彼女は静かに泣いていた。
もはや何の涙か自身でも理解できていない。
自らを気にかけてくれる少女へ、どこまでも情けない己を曝け出してしまっている。
全て悪いのは自分自身だ。
だが海御前はもう、どうすることもできない。
だから、ひたすらに泣いた。
泣くしかなかった。
「禮士さまに……………………会いたい」
彼女は美頼の前で、ようやく心からの言葉を口にした。
それは二度と叶わぬ願い。
美頼は振り解かれた手を再度伸ばし、彼女の肩をそっと撫でた。
今はこれしか出来ない。
だが不思議と、ようやく打ち解けたような気がしていたのだった。
※
海御前と別れた美頼は、もはやルーティーンとなった、墓参りへと向かう、
だが、あくまで形式上のもの。
墓標が用意されるには、およそ二ヶ月くらいはかかるだろう。
象徴的な巨大な岩の平面に掘られた、犠牲者たちの名前。
そこには人間だけでなく、サーヴァントの名も刻まれていた。
教経を失った、龍寿の願いである。
美頼は皆の知らぬ間に散った、ロウヒの名を、こっそりと端の方に記しておいた。
太陽を隠し切り、一度は第六区を窮地から救ったのだ。彼女の偉業は残されて然るべきである。
美頼は購入した花束を備え、その場で手を合わせる。
今日明日と来たら、もう暫くはこの場所に赴けないだろう。
だから、いつもより気持ち長めに、黙祷した。
そして目を開けると、彼女の見知った人物が、同様に墓参りに訪れていた。
「みさっちゃん?」
「美頼ちゃんも、来ていたのですね。」
鬼頭充幸、第四区博物館の上司。
彼女と共に、明日第四区博物館へ帰還する。
この二週間は離れ離れになることが多かった。と言うのも、充幸はエラルのサポートに徹していたからだ。
久々に言葉を交わす気がする。
「ついに明日だね。あっという間だったなぁ。みさっちゃんは滅茶苦茶忙しかっただろうけど!」
「ええ、お陰で全身バキバキです。第四区の有名なマッサージ店に行きたいですね。」
美頼と充幸は他愛も無い話を交わす。
だが美頼はそこはかとなく、不穏な空気を感じ取っていた。
充幸は、何か重大なことを告白しようとしている。
美頼は勘でそれを察知し、何とか話題を逸らそうとした。
だが
「美頼ちゃんに、お伝えしなければならないことがあります。」
「やだなぁ、改まって。良いニュースから?悪いニュースから?私はこういうとき、良い方から聞く派!」
「…………すみません、心して、聞いてください。」
充幸は美頼へと向かい合う。
そして、ある事実を告げた。
「行方不明になっていた博物館の仲間たちの足取りが掴めました。巧一朗さんたちは、開発都市第三区で、災害のアーチャーを打ち倒したようです。」
「コーイチロー……!第三区にいたんだ…………向こうも、災害と戦って…………?」
「少々事情は異なっているようですが、結果的には災害を打破しています。そしてここからが本題です。第四区博物館スタッフの面々は、開発都市オアシスでの生存が常に確認できるよう、デバイスを介して信号を送り合っていました。当然私たちの信号は、彼らに届いていた筈です。それはサーヴァントも同様に。彼らはやがて、バーサーカー『ロウヒ』の消滅を知るでしょう。」
「……………………うん」
「そして、つい今しがた、ようやく彼らの信号を確認できました。生存している限り、一時間ことに安否の更新がされるものです。」
充幸は深く息を吸い込んだ。
そして美頼の目をしっかり見て、ついに言葉にする。
「間桐桜館長の死亡、そしてキャスターのオアシスからの消滅を確認しました。そして━━━━━━」
美頼は咄嗟に耳を塞いだ。
充幸の声を聞いてはならない、動物的直感だ。
だが、充幸は非情にも、美頼の両手を取り、告げる。
「巧一朗さんの信号も…………途絶えました。」
それが告げる意味は━━━━
美頼は深く理解し、そして、喉が引き千切れるほどに叫んだ。
ただ、叫んだ。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
【信奏編⑩『墓標』 おわり】