「申し訳ございません、お客サマ。どうも当社で手違いがあったようで……お客様が入居されるご予定でした物件に、先住者の方がいらっしゃるようなんですよ。恐縮なんですがお客サマ――」
「――茶番はいい。なんのつもりなのかな、ローマン?」
この時の自分は、完全に冷めきった目をしていたと思う。
親愛なる同志が、快適な住まいを提供してくれるという話だったはずだ。だがどうした事だろう、首都ヴェイルに着くと営業マンに扮したローマンが出迎えてきたではないか。
メッセンジャーはニオが勤めるのではなかったのか? なぜローマンが直々に出向いてくる? ヨナタンが空港に到着するや、慇懃な口調でふざけた事を告げられ眉を顰めてしまった。
ヨナタンが入居する予定だった物件は、ローマンに任せたという事もあって実物は見ていなかった。
まさか悪いようにされたりはしないだろうと、一応信用してみた訳だが、それは呆気なく裏切られてしまったらしい。何せ手配されていた物件というのが――同志の属するマフィアの首領、つまり――ローマンの親父の住まいだったのである。こんな手違いなんてあってたまるか、そう毒吐きたくなる。
おまけにヨナタンの荷物を運んでいる引越し業者は、なんらかのトラブルに見舞われ、荷物が届くのに後二日掛かる等と宣ってきた。ローマンが手を回したのは明らかだ。
空港から所を新居予定地に移した途端の報告である。ローマンが人を食った笑みを浮かべて揶揄してきた。
「おぉ恐い。これから宜しくしていく同志への、ちょっとしたサプライズじゃあないか。あんまり凄まないで笑って流してくれよ、ヨナに睨まれたらビビっちまうだろう?」
「凄んでない、純粋に呆れていただけだ。それに、なーにがサプライズなんだか……心にもない戯言で煙に巻けると思わないでくれ。悪ふざけをするにも限度があると思う。何事も用法用量を大事に、節度も守って楽しくやらないと長続きしないんじゃないかい?」
「ハッハー……結構怒ってるじゃないか。なぁおい、機嫌を直せよ兄弟。どうせ私の浅知恵なんてお見通しだろう?」
「怒ってないよ。だから機嫌を直すも糞もないね。貴方の父の名前は
露骨に溜め息を吐き、少年はじろりとローマンのニヤケ面を
「まさかテストのつもりなのかい?」
「それこそまさかだ。白状すると石器時代の勇者サマが、この問題にどんな解決策を提示するか見ておきたかったのさ。ヨナの嗜好を知っておきたいと思うのは、同志として当然の心意気だろ?」
「……なんで
「テキトーぶっこいたに決まっているじゃないか。にしても、ヨナも冗談を言うんだな。お前みたいなのが石器時代から存在したなんて笑えないぜ。……冗談だよな? ……おい、冗談って言え」
答えず、ヨナタンはローマンを促して歩き出した。
いい加減同じ所に居座るのも馬鹿らしくなってきたのである。以前のようにホテルを借りて、当面の宿を確保しなければならない。これからどうするか、スケジュールを練る。
ヨナタンは隣について歩くローマンを一瞥した。
「貴方に遠慮して手加減したりはしないよ。父君は逮捕して終了だ。罪状は違法薬物所持。おまけでダスト・ショップ襲撃の現行犯ってところが妥当だろうね」
「ほほぅ……意外と穏当だ。手加減しないと言ってはいるが、私の親父だからと気を遣っているんじゃあないか?」
「生憎だね。僕は無駄な瑕疵を経歴に残すつもりがないだけさ。それともローマンは、僕がリストに載ってる連中を、一人残さず全員殺すんじゃないかって思ってたのかい?」
「ハッハー、殺すだなんて
「お望みなら殺ろうか? それなら隠蔽は僕がやるよ」
「どぅどぅ、落ち着けよ同志。その
「優しいお兄さん? なーにを言っているのやら。貴方は前から『優しいローマンお兄さん』だったじゃないか」
「ハッハハハハ! そうだったそうだった! いやぁ自分の聖人君子っぷりを忘れていたなんて、私も謙虚になったものだ」
ヨナの皮肉に、ローマンは笑いのツボを刺激されたのか声を上げて笑った。
「我々はクリーンでエコな、優良な企業に転身する。そのためにはまず、身内の
ローマンはそう嘯き、ニヤリと笑いながらヨナタンに言う。
「その為にはまず、ヨナの新居を確保しないとだ。
「……未成年の子供に随分な
「おいおい、おいおいおい! 誤解されるような事を言うもんじゃないな。折角綺麗に飾り立ててやろうってんだ、逆に感謝するのが筋なんじゃないか?」
「お断りだね。僕は押し付けがましく恩を着せられるのが嫌いなんだ。それに偶像は望むところだけど、
「ハッハハハ! ソイツは確かに覚えたくないな! 野郎の厚化粧なんざ見ていて気分の良いもんじゃあない! ……だがまあ、物は考え様って言うだろ? 中身はともかく、見た目はまだ坊やのヨナが化粧をする分には、少なくとも見苦しくはならないと思わないか?」
「………」
「適材適所は正義のハンター様や悪党にも当て嵌まるんだ。私が表に出るよりも、ヨナの方が幾分か見られる偶像だろうよ。……逆に余りにも嵌り役過ぎるんで新聞にも載っちまうかもしれないな? 『天才ハンター見習いが、ヴェイルの
ポン、と少年の肩を叩いてローマンは脇道に逸れていく。それを横目に見送りながらヨナタンは溜息を吐いた。
面倒な事を任されてしまった、と。こんな事ならアカデミーの寮にでも入れば良かった。
しかし依頼相手が同志なら、投げ出せる仕事でもない。やらざるを得ないだろう。ヨナタンはローマンの思惑を察したからこそ陰鬱な気分になるも、諦めて
後でニオあたりが遣いに来るだろう。そこで打ち合わせ、手順を確認しておこうと思った。
今夜あたり警察は大忙しだろう、夜勤に駆り出してしまうのだから、申し訳なさ過ぎて涙が出そうだった。
† † † † † † † †
――きっとワイスは、帰った先で過酷な教育を施されるだろう。けど勘違いしてはいけない。ジャックさんは君を愛している。厳しくするのはそれだけワイスに立派になってほしいからだ。
兄の残したその言葉を、信じた。
いいや、信じたのではなく縋ったのかもしれない。気が休まるのは入浴と睡眠の時間だけで、後は総て過酷な英才教育を施される毎日だったのだ。縋れるものがなければ折れそうだった。
朝の六時に起床させられ、身嗜みを整え、朝の食事のマナーを教え込まれ、常に粗相がないかチェックする採点役を身近に置かれた。午前中は基礎的な学問の教導がなされ、午後は護身術も兼ねた戦闘技術を、厳しい教官に叩き込まれて。ある程度の学力を身に着けると、帝王学というものだろうか? 大企業を経営する上で必要となる知識を詰め込まれた。
誰も信じず冷酷に扱い、人を数値上のデータとして認識するように教え込まれ、時として情をも利用した策謀を、まるで洗脳のように教育される日々は辛く……心が凍って割れてしまいそうだ。
ダンスのレッスンは嘗てより遥かに苛烈で、何度ステップを踏み間違えた足を鞭で叩かれて、ネチネチと嫌味を言われた事やら。特に――幼さを理由に無邪気を装わされ、社交界での人脈作りに奔走させられて、その実態が父の部下を使った予行演習だったと言われた時の虚脱感は酷かったものである。ああ、ワイスより遥かに年上で、経験豊富なはずの大人たちに媚び諂われ、得体の知れない粘着質な欲望の眼差しに晒された時の嫌悪感ときたら、ともすると人間不信に陥りそうだった。
ワイスは、何度も泣いた。挫けた。だが父は冷たい目で、シュニー家の娘なら熟して当然だと言って、一度も褒めてはくれなかった。泣くのも、蹲るのも赦されなかった。
もし父の目に、厳しくも暖かな光がなければ、ワイスは絶望して心を病んでいたかもしれなかった。いや――もしかするとその暖かな光は、ワイスの願望が見せた錯覚であるかもしれない。パトリオットのような人を理想の父親像として持っていただけに、自らの父がそうではないと思いたくなかったのだ。
日に日に人を疑い荒んでいく自分に、ワイスは眠れない日々を過ごしたもので。……もし。もしも疲れ果てて眠る前に、ふと兄の存在を思い出さなかったら、ワイスの性格は酷く捻じれ果て、冷酷かつ冷徹な少女に変貌していたかもしれない。
――それでも……何もかもが嫌になってしまうかもしれない。何もかもを決められた、雁字搦めの生活に息苦しくなってしまうかもしれない。だけどその時は思い出して欲しい。君には、僕がいる。
――君の人生は決められた事ばかりだけど、少なくとも僕だけは君の味方として、君が選べる選択肢を作ってあげられる。すぐにとはいかないけど、いつか必ず形にしてあげられるよ。……今のワイスには難しい話だったかな。
――僕を信じて。君は、自由だ。ジャックさんの期待に応えるのも、僕の作る選択肢を待つのも、重荷を放り捨てて飛び出すのも。何をしても、僕は君の味方をする。だから泣かないでおくれよ、ワイス。きっと大丈夫だから。
あの尊くも輝かしい、思い出の日々が堪らなく恋しい。
それは未だに色褪せない、ワイス・シュニーの宝物だ。
兄が旅立つ前日に残した言葉が、何度も何度も、ワイスの脳裏に蘇る。それが折れそうになるワイスを支えてくれた。
ワイスはスクロールに手を伸ばして、無意識に兄に連絡を取った。無性に兄の声が聞きたくて、顔が見たくて、優しくされたかったのだ。ワンコールですぐに出てくれた兄の反応の早さが、何故だがとっても嬉しかった。
『……頑張ってるんだね。凄いね。偉いよ、ワイス。流石僕の妹だ。僕も負けてられないな、アトラスにも僕の名前が届くように、僕も頑張るよ』
兄はワイスが何を求めているのか敏感に感じ取って、欲しい言葉を掛けてくれる。家だと誰も褒めてくれないのに、兄は手放しに褒めてくれた。その歓喜はワイスの心を満たしてくれた。
抑圧されていた感情を露わにし涙を溢れさせるワイスを、兄は甘く、包み込むような目で見詰めて弱音を受け止めてくれる。もう嫌なのだと、逃げたいと嘆いても兄は咎めない。
ただ支えてくれる。甘やかすのではなく、自らの脚で立てるように。
『ワイスは受け身になってしまってるね。いいかい? 忘れてはいけないよ。ジャックさんじゃない、
兄はそう言った。
それは考えたこともない、抑えつけられてきたワイスでは思いつきもしないような見方だ。こういうのを、目からウロコというのかもしれない。
『良いんだよワイス、いつでも逃げて良いんだ。その時は僕が、どんな障害を乗り越えてでも君を守る。僕は兄貴だからね、ワイスが望む限り逃げ道になって上げられるし、どんな時でも君の味方をして上げられる。だけどね、逃げては良いけど、負け犬になっては駄目だ。一度負け犬になったら、それを払拭するのはとても大変だから。負け犬になったワイスも守って上げるけど――僕は負けない。何にも、誰にも。ワイス、君は負け犬として僕の傍にいられるのかい? ワイス・シュニーは、甘んじて庇護されるだけの負け犬なのか?』
その言葉は、激励は、ワイスを奮起させた。
ワイスは根っからの負けず嫌い、というわけではない。しかしワイスの中で兄は、世界で一番のヒーローなのだ。何にも、誰にも負けない、憧れの兄なのである。そしてワイスは、兄の隣にいて守られるだけのお姫様にはなりたくなかった。
次の日から家庭教師や教官に、教えられて
それでも、所詮は小娘だ。幼女の身と心では、完璧に心に鎧を纏う事なんて出来るわけがない。故にワイスは、毎日、毎日、眠る前に必ず兄に電話した。その声を聞いて、褒められて、弱音も何もかもを吐き出した。励まされるとまだ頑張ろうと思えた。
「……お兄様は、いつ帰ってくるんですの?」
度々、そう問い掛けた。その度に兄は苦笑して、もうすぐだとはぐらかす。急かす度に困ったような顔をして――その顔を見たくて、我儘を言った。もっと困らせたい、と。もっと構って、と。それは子供心に甘えられる存在を欲した行動で、二歳しか違わないはずの兄にとっては鬱陶しさしか感じないはずの言動だっただろう。だが兄は微塵も嫌な顔をしなかった。むしろ我儘を言われる度に苦笑して、どこか嬉しそうにしていた。
『テレビを見ていてご覧。近い内に僕がテレビに出ると思うから』
「――お兄様がテレビに?」
『ああ。ワイスがテレビで僕を見てから……多分次の日には一度そっちに帰ってると思う。お土産を持って真っ先にワイスに会いに行くから、楽しみにしていてほしい』
「分かりましたわ!」
そう言われてから、ワイスは毎晩自室のテレビにかじりついた。眠気を堪えて必死にテレビを見詰め、退屈な番組を幾つも見て。ニュースやCMも余さず視聴し続けた。
まだ、まだ? まだなの? と。ワイスの心の中心、柱となっている少年が登場する瞬間を心待ちにした。
そうして一ヶ月が経って真冬が訪れた頃、痺れを切らせて焦れるワイスの目に、兄の顔が映る。パッと身を乗り出して画面を見詰めると、なんとヴェイル王国のヴェイル地区トーナメントで、兄が並み居る有力選手を薙ぎ倒して優勝を果たしたという。七歳での優勝は世界を見渡しても類を見ない快挙であり、偉業であった。称賛の言葉がコメンテーターやら何やらから吐き出され、ダイジェスト形式で兄の試合が放送されたりもして、ワイスは齧りつく勢いでそれを目に焼き付けた。
「――お兄様――」
なんて、似合うのだろう。
壇上に立ち、表彰される姿。万人からの称賛を一身に受けながらも、自分のよく知る穏やかな笑顔を浮かべて屹立する様が。
ワイスは我が事のように誇らしくって、とにかくはしゃぎ回りたい気持ちでいっぱいだった。格好いい、世界一の自慢の兄だ。直後にワイスの部屋に訪れた父ジャックに驚き、ジャックが満面の笑みを浮かべて上機嫌そうにしているのに更に驚き。父に連れ出されて、久しぶりに会うパトリオット夫妻を招いて祝勝会を開かれた時――ワイスの中でただでさえ大きかった兄の存在がさらに大きくなるのを感じた。
あの父が、自分の子供でもない――ワイス
翌日、兄は約束通りに帰ってきた。
ワイスの下に最初に来てくれて、予定のレッスンは総てキャンセルされる。
紙袋を手に提げていた兄が来訪した事に気づいたワイスは、はしたなくも大急ぎで駆け寄って、勢いよくその胸の中に飛び込んだ。お帰りなさい、会いたかった、お兄様、と。つっかえながら何度も同じ言葉を吐き出す。すると兄も笑顔を湛えて言ってくれるのだ。僕もだよ、と。
「ほら、再会を祝してプレゼントを用意したんだ。受け取ってくれるかい?」
「もちろんですわ!」
そう言って紙袋から取り出されたのは、丁寧にラッピングされた長方形の箱だった。幼い故に情緒もなくワイスがそれを開くと、中にあったのは青いリボンで。
「貸してご覧」
兄は、優しい手付きでワイスの髪を梳き、青いリボンで髪を結わえると甘く微笑む。
「……うん。やっぱり、ワイスのキレイなプラチナブロンドには、青いリボンがよく似合う」
この瞬間、ワイスはこのリボンを大事な宝物として認定した。
夢のような時間だった。冷たく、窮屈で、辛さしか感じなかった家が、兄がいるだけで途端に色づき、鮮やかで温かいものに変貌したのである。
ずっと一緒にいてほしい。ずっとずっと、一緒に。
叶わぬ願いだと知っているからこそ余計に強く願った。叶わぬ願いだと知っているからこそ――1秒も無駄にしたくなかった。
ワイスは兄と引き離されて以来、身に着けた総てを見せ、語った。知らない事もある、兄に及ばない技は山のようにあった。だがワイスの成長を兄は我が事のように喜んでくれた。ワイスが兄の活躍に歓喜したのと同じように。それが途轍もなく巨大な多幸感を齎してくれる。
やがて兄は、再びワイスの前から去って行った。行かないでほしいと声を大にして叫んでも、兄は止まらない。
「また一年後に会おう。その時にワイスがもっと成長していることを願うよ。素敵なレディーになって、僕を驚かせてくれ。僕もワイスが驚くような大きな男になるから」
どっちがより魅力的になるか競争だね、と。兄はそう嘯いて微笑んだ。
競争――未知なる響きに、ワイスは束の間、別れの寂しさを忘れた。そしてなんだかいてもたってもいられない気持ちになる。
兄は凄い。何が、とか。どこが、とか。そんな事を言われても簡単には説明できないぐらいに凄い。きっと1秒先には更に『魅力的』になってしまう。呑気に過ごしていたのでは置いていかれて、影も見えなくなるだろう。そうなれば兄の隣に立つのに相応しいとは言えない。
ワイスは、奮起した。お兄様も驚いて、目を奪われるぐらい立派なレディーになってみせますわ、と。
――翌日からのワイスは、まるで別人のように熱の入った姿勢で、教官や家庭教師の方が音を上げるほどにレッスンを積んだ。
ダンスも、戦闘も、学問も、社交性も、何もかもを貪欲に学んだ。
辛かったけれど、ワイスにとって一番重要なのは、兄に失望されない事なのだ。失望されたくない、褒められたい。その為ならこんな苦痛なんてなんともない。幼き少女は盲目的に兄の軌跡を追う。
彼女には――それしかなかったのだ。
本日はここまで。
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