だが、最期の願いとして、転生した女性にまみえたエンは、人だけが持つ魂の光に導かれ、人として生きることを許される。
比叡山は、大八島を人体になぞらえるなら、ちょうどその中心・臍にあたる場所にある。
そこに延暦寺が建立されるはるか昔から、比叡の山は霊山であり、国鎮めの地であった。
古代には、山はただ、あるがままにあるだけでよかった。
だが、人が山を侵食し始めてから―たとえ信仰のためであろうとも―山の気は乱れ、国つ神を悩ませるようになったのだ。
そしていつしか、この地の安定をはかるために、国つ神は神使(つかわしめ)を置くようになった。その姿を見る者は、きわめて稀有であるという。
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久しぶりの「迷子」を送り出して、猿(エン)は深い溜息をついた。
こうして結界に迷い込んでくる人間は、けっして多くはない。
数年に一度、どうかすると数十年も、生身の人に遭わないこともあった。そして彼らは、ほとんどが、二度と再び戻ってはこない。
猿に重ねて会うことができるのは、何らかの力のある者―たとえば秀吉や光秀のように、歴史上に深い爪痕を残す、類まれな存在だけだ。
だが、サクはまったく普通の女人だった。透きとおった純なまなざしと、その心のようにまっすぐな黒髪、耳に心地よい声音を持つだけの。
なぜ彼女は、彼女だけは、何度も何度も猿を訪れることができたのか。
しかも「猿の間」は、つねに同じ場所にあるわけでもないのだ。外の世界とは異なる法則に支配される空間、そして猿自身にもどうすることもできない―。
ままならないのは、わが心も同じだった。
「忘れねばならないのに」
猿は低く呟いた。
己の務めは、「鎮める」こと。自分自身が揺らいでいては、果たせない役目である。
だが、かつて静かな湖のように凪いでいた猿の胸のうちには、最後にサクを見送った日から、つねに漣が立っている。そしてそれは、時にはしぶきを上げて大きくうねるのだ。
「静まれ。鎮まれ」
おのが体を抱き、そう言い聞かせても、胸の痛みはつのるばかりだった。
どれほどの月日がたったことか。猿は例によって煙管をくゆらせつつ、サクのことを想っていた。
煙のゆくえを茫洋と眺め、ふと訝った。
「はて、サクという名は、どんな字を書くのだったか」
忘れようと努めた効験が、ようやく表れてきたのか。猿はいくらかほっとして、煙管をはたいた。
しかし今度は、愛しい人の名前の文字を思い出せないことが、無性に気にかかる。自分はいったい、忘れたいのか忘れたくないのか。
(そうだ、かりに「朔」とでもしておこうか。月の無い夜。サクのいない今は、心に月の浮かぶ瀬もない)
陰鬱な言葉遊びに、猿はしばし興じた。
自分の名は、猿と書いてエン。それは「縁」とも「炎」とも通じる……。ふと、「怨」という文字が思い浮かび、なにやら背筋がぞわりとした。
怨めしい。そんな感情が自分にあるとは。
いや、俺はもうずっとおかしいのではないか。あれから長い時がたったのに、いまだにこうしてサクを想い続けていることも、奇態である。
俺はいったい、どうしたのだ。……俺? 俺とは何だ。
猿は頭を抱えて低く呻いた。
そのとき、ずるっと空間が横滑りする感覚があった。この夜中に、激しい羽音をたてて、山の鳥たちが騒ぐ。
猿は操り糸に引かれるように、すうっと立った。
そして、禍々しい夜鳥の声を打ち消そうと、高く声を張って謡い始めた。
「明星や くはや此処なりや 何しかも 今宵の月は ただ此処に座すや ただ此処に座すや」
くるくると旋回し、両の腕をたおやかに振るう。
舞うのは、猿の数少ない愉しみであるとともに、役目のひとつでもあった。
舞の律動は、お山の波動を整える。無心で舞えば、山の気とひとつになることができる。
謡い終わりは、とんっと床を蹴って跳ぶ。頭を軸に1回転して、ふわりと音もなく床に立つ。身軽な神猿ならではの技だが、無我の境地にはほど遠かった。
神楽歌では、この雑念を払うことはできないのだろうか。
「冥きより 冥き道にぞ入りぬべし はるかに照らせ 山の端の月」
門前の小僧で聞き覚えた法歌を口ずさんでみた。それでも、少しも心が静まらない。山の不穏も、消えてはくれない。猿は途方にくれて、立ち尽くした。
そのとき、どこからか「声」が響いた。
「エンよ」
耳にではなく、じかに頭蓋にこだまする。猿はびくりと振り返った。
背後には、金色の阿弥陀像が鎮座している。今宵の猿の間は、阿弥陀堂にあったのだ。
見つめるうち、像から発した光る円が広がっていく。
仏像を依り代としていても、それは仏ではない。仏よりも古くから、この地を統べる存在。国つ神のお一人だ。
それが声をかけてくださるのは、いつぶりか。猿は衣紋を正し、うやうやしく額づいた。
声は問いかける。
「己のさだめを、怨めしい、と思うたか」
何と答えてよいかわからず、猿は黙っていた。
「恨み、つらみ、悲しみ、よろこび。人の心、欲や情は、天地自然のことわりをも、ゆるがしてしまう。ゆえに、人の心を持たずして無垢の知を持つそなたをここに据え、鎮めの礎としたのだ。……だが今、そなたは、人に似た心を持ってしまった」
警策で打たれでもしたように、猿は身を縮める。
「そなたの咎ではない。器物といえども、長く世にあれば、心を生じることもある」
猿以上に心を持たぬはずのその声には、なぜか憐れみの響きがあった。
猿はそっと頭をもたげ、言い訳のように呟く。
「……忘れようとは、したのですが」
「たとえ想いを消したとしても、ひとたび目覚めてしまった心は、花にも鳥にも揺れ動く。国鎮めの用には、もはや堪えられまい。……任を解くしかなかろうよ」
解く、という言葉に、猿はある期待を抱いた。檻から放たれ、野を駆けてゆく獣を連想したのだ。
だが。
「解かれればそなたは滅する。そなたは紐の結び目のようなもの、ほどけば結び目は無くなろう」
その意味は、ゆっくりと頭に染み込んだ。恐怖はなかった。滅するといっても、人や獣の死とは異なる。無から生じ、無に還っていくだけのこと。
猿はもう一度、深く頭を垂れた。
「お役目をまっとうできず、申し訳なく……」
詫びの言葉をさえぎって、声は言った。
「しかしながら、そなたは1000年の余もよく仕えてくれた。せめて、望みがあれば叶えよう」
望みと言われて、咄嗟に心に浮かぶまま、
「サクに、あのひとに会いたい、ひと目でも」
言いさして、猿は力なく首を振った。
彼女と別れてから、何十年たったことか。いや、百年を過ぎたかもしれない。あのとき、彼女はすでに老い始めていた。
信長も謡ったではないか。「人間わずか50年」と。
その信長も秀吉も光秀も、彼らの後に天下をとった家康も、とうに死んだ。サクも、もう生きてはいないだろう。
だが声は、あっさりと請け合った。
「その望み、聞き届けよう」
猿は首をかしげ、おずおずと問い返した。
「サクは人でございます。とうに寿命は尽きておりましょう」
「人の命は短いが、解脱せぬ限りは輪廻転生を繰り返す。そなたとその女人とは、浅からぬ縁があったのであろう。ならば、必ずまた縁の糸にたぐられて来よう。待つがよい、そなたの代わりを作るにも、時がかかる」
ぱっと喜色を浮かべる猿に、「声」は釘をさした。
「だが、前世を心にとどめる者は稀だ。そなたが覚えていても、相手は覚えてはいまい。それでも会いたいか」
「それでも、会いとうございます」
今度は迷いなく、打ち返すように応じる。ただ、サクの顔をもう一度見たいだけ。あの瞳に己を映したいだけ。それ以上望むことは何もない、と思った。
雨がお堂の屋根を叩く。また別の日は、吹きすさぶ風が松林で咆哮する。
春ともなれば、鳥の声が耳をくすぐり、秋には紅葉が華やかな影を落とした。
繰り返される季節のなか、猿はただ待ち続けた。
そして、弾けそうになる想いを抑え込み、無心に舞うように努めた。それは、心を持つ前に比べれば、苦行に等しかった。
この悲しみ苦しみから解放されるときが来ると知ればこそ、耐えられた。まして、解放のときに愛しい人ともう一度まみえることができるのならば。
ある日、軽い足音が階(きざはし)をのぼってくるのが聞こえた。予感に震え、猿は息をひそめた。
扉の外から、記憶にあるより幼さの残る声がする。
「あらっ。こんなところに、扉があったかしら?」
猿の間への扉を目にすることができる者は、限られている。
とどろく胸をおさえて、猿は阿弥陀像を仰ぎ見た。
「今日、なのですか」
その日も猿は阿弥陀堂にいたのだ。だが、国つ神は何も答えない。
やがて、ぎいっと耳障りな音を立てて、扉が細く開いた。
明るい黄色が目を射る。
17、8の美しい少女がそこに立っていた。
黄色い着物は、袂も着丈も妙に短い。袖はしなやかな腕の形を見せ、ほっそりした足首も露わになっている。それに髪も結ってはいない。肩を過ぎる長さに切りそろえられて揺れるさまは、まるで尼のようだった。
だが、サクだ。
白い細面、生き生きときらめく瞳、ふっくらした口もと。どんなに身なりが変わろうと、見間違えることはない。
猿を見て、驚いたように口を押さえている。大きく見開いた目には、初めて出会った日の面影があった。
懐かしさと慕わしさに、猿は思わず呼びかけていた。
「サク!」
いや、相手はこちらを覚えていないのだ。怯えさせてはいけない。
猿は硬い微笑みを浮かべた。煙管を持った手を横に開き、もう一方の手を胸に当てる。
「あなたには、俺が見えるのですね。俺は―」
「エン!」
虚を突かれて、思わず煙管を取り落とす。同時に、猿はへたりと膝をついた。驚きのあまり、脚から力が抜けてしまったのだ。
お堂に駆けこむなり、少女は手を胸元で組み合わせ、眸をひたと猿に据えた。
「わたし、あなたを、知っています」
ひとことひとこと、かみ締めるように続ける。
「子供のころから、同じ夢を繰り返し見ていました。親たちにねだって、何度もお寺に連れてきてもらいました。あなたを探すために。でも、『猿の間』など聞いたこともないと、誰もが言いました」
赤らんだ目元をくしゃりと笑ませ、
「やっぱりあなたは、夢の中の人などではなかったのね」
少女は猿の前に座りこみ、手をとって、額に押し当てた。
「ああ、覚えているわ、この手を」
その姿に、昔の別れの記憶が重なる。あのときと違うのは、彼女がいかにも幸せそうに見えることだ。
猿の胸にも、ひたひたと悦びが満ちてきた。
「サク……」
少女は顔をあげ、ほほ笑んだ。
「わたしね、今は『さくら』というの」
そうだ、思い出した。月無き夜の朔ではない。「咲久」という字だと教わった。久しく咲く。そう聞いたとき、彼女にこれほど似合う名があるだろうかと思ったものだ。いつまでも咲き匂う、美しい花。
転生した今も、彼女は咲く花の名を持っている……。
猿は少女の手を強く握り返した。
「会いたかった」
「わたしも」
どちらからともなく頬を寄せる。幸せな吐息が重なった。
そのとき、耳の上でぶつりと不吉な音がした。
「つっ!?」
響いた衝撃に驚いて、こめかみを押さえる。
それは、頭に巻いていた組紐が切れる音だった。縒り合わさったものが解けていく。
解けるのは、飾り紐だけではない。緋色の羽織はみるみる色あせて、ぼろぼろとほつれる。
その下の黒衣も薄くなり、灰色に霞み始めていた。
首飾りは真ん中からぷつんと切れて、小粒の黒玉がぱらぱらと床に散らばった。
しゅうしゅうと白い煙が立ち昇り、手の甲の赤い紋様が消えていく。おそらく、顔の朱も消えているだろう。
やがてこの身もほどけて消える。解放のときが来たのだ。
(いやだ)
(あなたを置いて消えるのはいやだ)
目がずきずきと脈をうって痛んだ。喉にも、呑み込めない塊が突き上げるようで苦しい。
これまで猿は、多くの人々の非業の死を見てきた。その最期に、誰もが嘆いたに違いない。この子を置いていけない、この男をこの女を、後に残して、永遠に別れていきたくはない、と。
自分は何を見てきたのか。1000年の余もこの地にあって、人の世の、まことの苦しみ悲しみを知りもせず、ただ傍観者として時の流れの外に佇み……。
あふれてきた涙は、己を憐れむものではなく、この世の人々のあらゆる悲しみが猿の中に流れ込み、噴き出しているかのようだった。
もう一度、せめてサクの、いや、さくらの顔を見たい。だが、どんなに目を見開いても、涙で視界がぼやける。
「エン、これはどういうこと!? あなた、どうなってしまうの? お願い、しっかりして!」
そういうさくらの声も、濡れている。
猿は拳で目を拭い、ようやく晴れた視界に最愛のひとを捉えた。少女の細い眉はきつく引き絞られ、愛らしい顔は痛ましくゆがんでいた。
猿は、無理やり彼女をわが身からひきはがし、天井に向かって声を放った。
「あとひとつだけ、俺のわがままをお聞き届けください」
その声は、予期した以上に弱弱しくかすれていた。すでに喉はふさがりかけているのか。血を吐く思いで、猿は力を振り絞った。
「このひとの心から、俺を消してください!」
「エン、何を言うの!?」
すがりつこうとするさくらの手を、猿は無情に振り払う。
「人らしき心はあれど、俺には人の魂はない。ひとたび役目を終えて滅したなら、二度と転生することはない。戻らぬ俺をあてどなく待つ、そんな苦しみを彼女に与えたくない」
ごほ、と咳を一つして、猿は続けた。
「今も彼女は、崩れゆく俺から離れようとせず、泣き悲しんでいます。どうかどうか、このひとの心がこれ以上痛むことのないように。俺を忘れて、幸せに生きてくれるように……」
言い終わらぬうちに、金色の光が堂内に満ち溢れた。そんなにも荘厳な輝きを、猿は初めて見た。さくらも呆然としている。
「人に似た心、とわれは言った。あれは、間違いであった」
声は、いつにも増して重々しい。
「そなたはまさしく、人である。己の悲しみより他者の悲しみを思いやる、それは、人だけが持つ魂の光である」
そして声は、幼子にものを説くように優しくなった。
「エンよ、人になるか。1000年の奉仕に比して、人の子の寿命はあまりに短いが」
人になる。この俺が、神の器に過ぎない、半ばは獣だった俺が。さくらと同じ、人の子になれるのか。ともに生き、死んでいけるのか。
猿はきっぱり言い切った。
「短くなどありません」
先刻まで突き放そうとしていた少女を、しっかと抱きしめ、
「7日しか恋を歌えない蝉は、7日の生を悔やむでしょうか。心から想いあう相手と共に生きることができるなら、一瞬も永遠となりましょう」
「ならば往け。短き人の生を、よく生きよ」
扉が大きく開き、外から風が吹きこむ。猿はさくらを抱えたまま、よろよろと立ち上がった。
「そなたはすでにわが眷属ではなく、永遠のいのちも通力もない。その身ひとつで、生き難き人の世をすごさねばならぬ。されば、そなたを人と分かつものをただ一つ、その身に遺す。わが身と愛しい者とを守るよすがとせよ」
その餞の言葉を背に、今は粗末な単衣一枚となった猿は、さくらと固く手をとりあって扉を出た。
暗い堂内に慣れた目に、春の光はまばゆいほどだった。猿は思わず、目を瞬いた。
「まあ!」
さくらは無邪気な声をあげた。
「エン、あなたの目。明るいところで見るのは初めてよ。不思議な色をしているのね。花曇りの空のよう」
櫨色だった猿の肌は白くなり、顔や手を彩っていた文様は消えて、今ではまったくこの国の人と同じに見える。ただ、銀鼠色の瞳にだけ、神猿の名残があった。それがどんな力を持つものか、猿は知らない。
少女に導かれるように数歩あゆんで振り向くと、扉はどこにもなかった。どこからか桜の花びらが風に乗り、二人を寿ぐがごとく舞い踊った。