比叡山を守る役目を負った神猿の「エン」は、一人の女人に心を奪われ、役目を果たすことができなくなる。その任を解かれることは、存在の消滅を意味した。
だが、最期の願いとして、転生した女性にまみえたエンは、人だけが持つ魂の光に導かれ、人として生きることを許される。

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結願の刻

比叡山は、大八島を人体になぞらえるなら、ちょうどその中心・臍にあたる場所にある。

そこに延暦寺が建立されるはるか昔から、比叡の山は霊山であり、国鎮めの地であった。

古代には、山はただ、あるがままにあるだけでよかった。

だが、人が山を侵食し始めてから―たとえ信仰のためであろうとも―山の気は乱れ、国つ神を悩ませるようになったのだ。   

そしていつしか、この地の安定をはかるために、国つ神は神使(つかわしめ)を置くようになった。その姿を見る者は、きわめて稀有であるという。

 

 

     **********************************

 

 

久しぶりの「迷子」を送り出して、猿(エン)は深い溜息をついた。

こうして結界に迷い込んでくる人間は、けっして多くはない。

数年に一度、どうかすると数十年も、生身の人に遭わないこともあった。そして彼らは、ほとんどが、二度と再び戻ってはこない。

猿に重ねて会うことができるのは、何らかの力のある者―たとえば秀吉や光秀のように、歴史上に深い爪痕を残す、類まれな存在だけだ。

だが、サクはまったく普通の女人だった。透きとおった純なまなざしと、その心のようにまっすぐな黒髪、耳に心地よい声音を持つだけの。

なぜ彼女は、彼女だけは、何度も何度も猿を訪れることができたのか。

しかも「猿の間」は、つねに同じ場所にあるわけでもないのだ。外の世界とは異なる法則に支配される空間、そして猿自身にもどうすることもできない―。

ままならないのは、わが心も同じだった。

「忘れねばならないのに」

猿は低く呟いた。

己の務めは、「鎮める」こと。自分自身が揺らいでいては、果たせない役目である。

だが、かつて静かな湖のように凪いでいた猿の胸のうちには、最後にサクを見送った日から、つねに漣が立っている。そしてそれは、時にはしぶきを上げて大きくうねるのだ。

「静まれ。鎮まれ」

おのが体を抱き、そう言い聞かせても、胸の痛みはつのるばかりだった。

 

 

 

どれほどの月日がたったことか。猿は例によって煙管をくゆらせつつ、サクのことを想っていた。

煙のゆくえを茫洋と眺め、ふと訝った。

「はて、サクという名は、どんな字を書くのだったか」

忘れようと努めた効験が、ようやく表れてきたのか。猿はいくらかほっとして、煙管をはたいた。

しかし今度は、愛しい人の名前の文字を思い出せないことが、無性に気にかかる。自分はいったい、忘れたいのか忘れたくないのか。

 

(そうだ、かりに「朔」とでもしておこうか。月の無い夜。サクのいない今は、心に月の浮かぶ瀬もない)

 

陰鬱な言葉遊びに、猿はしばし興じた。

自分の名は、猿と書いてエン。それは「縁」とも「炎」とも通じる……。ふと、「怨」という文字が思い浮かび、なにやら背筋がぞわりとした。

怨めしい。そんな感情が自分にあるとは。

いや、俺はもうずっとおかしいのではないか。あれから長い時がたったのに、いまだにこうしてサクを想い続けていることも、奇態である。

俺はいったい、どうしたのだ。……俺? 俺とは何だ。

猿は頭を抱えて低く呻いた。

そのとき、ずるっと空間が横滑りする感覚があった。この夜中に、激しい羽音をたてて、山の鳥たちが騒ぐ。

猿は操り糸に引かれるように、すうっと立った。

そして、禍々しい夜鳥の声を打ち消そうと、高く声を張って謡い始めた。

「明星や くはや此処なりや 何しかも 今宵の月は ただ此処に座すや ただ此処に座すや」

くるくると旋回し、両の腕をたおやかに振るう。 

舞うのは、猿の数少ない愉しみであるとともに、役目のひとつでもあった。

舞の律動は、お山の波動を整える。無心で舞えば、山の気とひとつになることができる。

謡い終わりは、とんっと床を蹴って跳ぶ。頭を軸に1回転して、ふわりと音もなく床に立つ。身軽な神猿ならではの技だが、無我の境地にはほど遠かった。

神楽歌では、この雑念を払うことはできないのだろうか。

「冥きより 冥き道にぞ入りぬべし はるかに照らせ 山の端の月」

門前の小僧で聞き覚えた法歌を口ずさんでみた。それでも、少しも心が静まらない。山の不穏も、消えてはくれない。猿は途方にくれて、立ち尽くした。

そのとき、どこからか「声」が響いた。

「エンよ」

耳にではなく、じかに頭蓋にこだまする。猿はびくりと振り返った。

背後には、金色の阿弥陀像が鎮座している。今宵の猿の間は、阿弥陀堂にあったのだ。

見つめるうち、像から発した光る円が広がっていく。

仏像を依り代としていても、それは仏ではない。仏よりも古くから、この地を統べる存在。国つ神のお一人だ。

それが声をかけてくださるのは、いつぶりか。猿は衣紋を正し、うやうやしく額づいた。

声は問いかける。

「己のさだめを、怨めしい、と思うたか」

何と答えてよいかわからず、猿は黙っていた。

「恨み、つらみ、悲しみ、よろこび。人の心、欲や情は、天地自然のことわりをも、ゆるがしてしまう。ゆえに、人の心を持たずして無垢の知を持つそなたをここに据え、鎮めの礎としたのだ。……だが今、そなたは、人に似た心を持ってしまった」

警策で打たれでもしたように、猿は身を縮める。

「そなたの咎ではない。器物といえども、長く世にあれば、心を生じることもある」        

猿以上に心を持たぬはずのその声には、なぜか憐れみの響きがあった。

猿はそっと頭をもたげ、言い訳のように呟く。

「……忘れようとは、したのですが」

「たとえ想いを消したとしても、ひとたび目覚めてしまった心は、花にも鳥にも揺れ動く。国鎮めの用には、もはや堪えられまい。……任を解くしかなかろうよ」

解く、という言葉に、猿はある期待を抱いた。檻から放たれ、野を駆けてゆく獣を連想したのだ。    

だが。

「解かれればそなたは滅する。そなたは紐の結び目のようなもの、ほどけば結び目は無くなろう」

その意味は、ゆっくりと頭に染み込んだ。恐怖はなかった。滅するといっても、人や獣の死とは異なる。無から生じ、無に還っていくだけのこと。

猿はもう一度、深く頭を垂れた。

「お役目をまっとうできず、申し訳なく……」

詫びの言葉をさえぎって、声は言った。

「しかしながら、そなたは1000年の余もよく仕えてくれた。せめて、望みがあれば叶えよう」  

望みと言われて、咄嗟に心に浮かぶまま、

「サクに、あのひとに会いたい、ひと目でも」

言いさして、猿は力なく首を振った。

彼女と別れてから、何十年たったことか。いや、百年を過ぎたかもしれない。あのとき、彼女はすでに老い始めていた。

信長も謡ったではないか。「人間わずか50年」と。

その信長も秀吉も光秀も、彼らの後に天下をとった家康も、とうに死んだ。サクも、もう生きてはいないだろう。

だが声は、あっさりと請け合った。

「その望み、聞き届けよう」

猿は首をかしげ、おずおずと問い返した。

「サクは人でございます。とうに寿命は尽きておりましょう」

「人の命は短いが、解脱せぬ限りは輪廻転生を繰り返す。そなたとその女人とは、浅からぬ縁があったのであろう。ならば、必ずまた縁の糸にたぐられて来よう。待つがよい、そなたの代わりを作るにも、時がかかる」

ぱっと喜色を浮かべる猿に、「声」は釘をさした。

「だが、前世を心にとどめる者は稀だ。そなたが覚えていても、相手は覚えてはいまい。それでも会いたいか」

「それでも、会いとうございます」

今度は迷いなく、打ち返すように応じる。ただ、サクの顔をもう一度見たいだけ。あの瞳に己を映したいだけ。それ以上望むことは何もない、と思った。

 

 

 

雨がお堂の屋根を叩く。また別の日は、吹きすさぶ風が松林で咆哮する。

春ともなれば、鳥の声が耳をくすぐり、秋には紅葉が華やかな影を落とした。

繰り返される季節のなか、猿はただ待ち続けた。

そして、弾けそうになる想いを抑え込み、無心に舞うように努めた。それは、心を持つ前に比べれば、苦行に等しかった。

この悲しみ苦しみから解放されるときが来ると知ればこそ、耐えられた。まして、解放のときに愛しい人ともう一度まみえることができるのならば。

 

 

 

ある日、軽い足音が階(きざはし)をのぼってくるのが聞こえた。予感に震え、猿は息をひそめた。

扉の外から、記憶にあるより幼さの残る声がする。

「あらっ。こんなところに、扉があったかしら?」

猿の間への扉を目にすることができる者は、限られている。

とどろく胸をおさえて、猿は阿弥陀像を仰ぎ見た。

「今日、なのですか」

その日も猿は阿弥陀堂にいたのだ。だが、国つ神は何も答えない。

やがて、ぎいっと耳障りな音を立てて、扉が細く開いた。

明るい黄色が目を射る。

17、8の美しい少女がそこに立っていた。

黄色い着物は、袂も着丈も妙に短い。袖はしなやかな腕の形を見せ、ほっそりした足首も露わになっている。それに髪も結ってはいない。肩を過ぎる長さに切りそろえられて揺れるさまは、まるで尼のようだった。

だが、サクだ。

白い細面、生き生きときらめく瞳、ふっくらした口もと。どんなに身なりが変わろうと、見間違えることはない。

猿を見て、驚いたように口を押さえている。大きく見開いた目には、初めて出会った日の面影があった。

懐かしさと慕わしさに、猿は思わず呼びかけていた。

「サク!」

いや、相手はこちらを覚えていないのだ。怯えさせてはいけない。

猿は硬い微笑みを浮かべた。煙管を持った手を横に開き、もう一方の手を胸に当てる。

「あなたには、俺が見えるのですね。俺は―」

「エン!」

虚を突かれて、思わず煙管を取り落とす。同時に、猿はへたりと膝をついた。驚きのあまり、脚から力が抜けてしまったのだ。

お堂に駆けこむなり、少女は手を胸元で組み合わせ、眸をひたと猿に据えた。

「わたし、あなたを、知っています」

ひとことひとこと、かみ締めるように続ける。

「子供のころから、同じ夢を繰り返し見ていました。親たちにねだって、何度もお寺に連れてきてもらいました。あなたを探すために。でも、『猿の間』など聞いたこともないと、誰もが言いました」

赤らんだ目元をくしゃりと笑ませ、

「やっぱりあなたは、夢の中の人などではなかったのね」

少女は猿の前に座りこみ、手をとって、額に押し当てた。

「ああ、覚えているわ、この手を」

その姿に、昔の別れの記憶が重なる。あのときと違うのは、彼女がいかにも幸せそうに見えることだ。

猿の胸にも、ひたひたと悦びが満ちてきた。

「サク……」

少女は顔をあげ、ほほ笑んだ。

「わたしね、今は『さくら』というの」

そうだ、思い出した。月無き夜の朔ではない。「咲久」という字だと教わった。久しく咲く。そう聞いたとき、彼女にこれほど似合う名があるだろうかと思ったものだ。いつまでも咲き匂う、美しい花。

転生した今も、彼女は咲く花の名を持っている……。

猿は少女の手を強く握り返した。

「会いたかった」

「わたしも」

どちらからともなく頬を寄せる。幸せな吐息が重なった。

そのとき、耳の上でぶつりと不吉な音がした。

「つっ!?」

響いた衝撃に驚いて、こめかみを押さえる。

それは、頭に巻いていた組紐が切れる音だった。縒り合わさったものが解けていく。

解けるのは、飾り紐だけではない。緋色の羽織はみるみる色あせて、ぼろぼろとほつれる。

その下の黒衣も薄くなり、灰色に霞み始めていた。

首飾りは真ん中からぷつんと切れて、小粒の黒玉がぱらぱらと床に散らばった。

しゅうしゅうと白い煙が立ち昇り、手の甲の赤い紋様が消えていく。おそらく、顔の朱も消えているだろう。

やがてこの身もほどけて消える。解放のときが来たのだ。 

 

(いやだ)

(あなたを置いて消えるのはいやだ)

 

目がずきずきと脈をうって痛んだ。喉にも、呑み込めない塊が突き上げるようで苦しい。

これまで猿は、多くの人々の非業の死を見てきた。その最期に、誰もが嘆いたに違いない。この子を置いていけない、この男をこの女を、後に残して、永遠に別れていきたくはない、と。

自分は何を見てきたのか。1000年の余もこの地にあって、人の世の、まことの苦しみ悲しみを知りもせず、ただ傍観者として時の流れの外に佇み……。

あふれてきた涙は、己を憐れむものではなく、この世の人々のあらゆる悲しみが猿の中に流れ込み、噴き出しているかのようだった。    

もう一度、せめてサクの、いや、さくらの顔を見たい。だが、どんなに目を見開いても、涙で視界がぼやける。

「エン、これはどういうこと!? あなた、どうなってしまうの? お願い、しっかりして!」 

そういうさくらの声も、濡れている。

猿は拳で目を拭い、ようやく晴れた視界に最愛のひとを捉えた。少女の細い眉はきつく引き絞られ、愛らしい顔は痛ましくゆがんでいた。

猿は、無理やり彼女をわが身からひきはがし、天井に向かって声を放った。

「あとひとつだけ、俺のわがままをお聞き届けください」

その声は、予期した以上に弱弱しくかすれていた。すでに喉はふさがりかけているのか。血を吐く思いで、猿は力を振り絞った。

「このひとの心から、俺を消してください!」

「エン、何を言うの!?」

すがりつこうとするさくらの手を、猿は無情に振り払う。

「人らしき心はあれど、俺には人の魂はない。ひとたび役目を終えて滅したなら、二度と転生することはない。戻らぬ俺をあてどなく待つ、そんな苦しみを彼女に与えたくない」

ごほ、と咳を一つして、猿は続けた。

「今も彼女は、崩れゆく俺から離れようとせず、泣き悲しんでいます。どうかどうか、このひとの心がこれ以上痛むことのないように。俺を忘れて、幸せに生きてくれるように……」

言い終わらぬうちに、金色の光が堂内に満ち溢れた。そんなにも荘厳な輝きを、猿は初めて見た。さくらも呆然としている。

「人に似た心、とわれは言った。あれは、間違いであった」

声は、いつにも増して重々しい。

「そなたはまさしく、人である。己の悲しみより他者の悲しみを思いやる、それは、人だけが持つ魂の光である」

そして声は、幼子にものを説くように優しくなった。  

「エンよ、人になるか。1000年の奉仕に比して、人の子の寿命はあまりに短いが」

人になる。この俺が、神の器に過ぎない、半ばは獣だった俺が。さくらと同じ、人の子になれるのか。ともに生き、死んでいけるのか。

猿はきっぱり言い切った。

「短くなどありません」

先刻まで突き放そうとしていた少女を、しっかと抱きしめ、

「7日しか恋を歌えない蝉は、7日の生を悔やむでしょうか。心から想いあう相手と共に生きることができるなら、一瞬も永遠となりましょう」

「ならば往け。短き人の生を、よく生きよ」

扉が大きく開き、外から風が吹きこむ。猿はさくらを抱えたまま、よろよろと立ち上がった。

「そなたはすでにわが眷属ではなく、永遠のいのちも通力もない。その身ひとつで、生き難き人の世をすごさねばならぬ。されば、そなたを人と分かつものをただ一つ、その身に遺す。わが身と愛しい者とを守るよすがとせよ」

その餞の言葉を背に、今は粗末な単衣一枚となった猿は、さくらと固く手をとりあって扉を出た。

暗い堂内に慣れた目に、春の光はまばゆいほどだった。猿は思わず、目を瞬いた。

「まあ!」

さくらは無邪気な声をあげた。

「エン、あなたの目。明るいところで見るのは初めてよ。不思議な色をしているのね。花曇りの空のよう」

櫨色だった猿の肌は白くなり、顔や手を彩っていた文様は消えて、今ではまったくこの国の人と同じに見える。ただ、銀鼠色の瞳にだけ、神猿の名残があった。それがどんな力を持つものか、猿は知らない。

少女に導かれるように数歩あゆんで振り向くと、扉はどこにもなかった。どこからか桜の花びらが風に乗り、二人を寿ぐがごとく舞い踊った。

 


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