辿るは女神の足跡(そくせき)   作:なんじょ

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 ――シャーリィン……シャール! もう起きてるよなっ?

 自分をそう呼ぶのは彼だけ。だからシャーリィンは振り返って、アラベルの戸口に立つ少年に笑いかけた。

 ――おはよう、タムレン。準備は出来てるよ。今日は何をする? パイヴェル様にお話を聞く? それとも狩りに行こうか?

 その質問に、彼もまた笑った。手にした矢筒を揺すって音を鳴らす。

 ――そんなの決まってるさ、シャール。こんなに良い天気なのに、座って何時間も勉強するなんて、あり得ないよ。

 そういうと思った。くすくす声を漏らし、シャーリィンはおろしたての弓を取って立ち上がった。早く行こう、と促す少年の背中を追ってアラベルを飛び出し、

 ――シャーリィン! タムレン! 今日はアンドラステ様の説話をすると言っただろう!

 慌てて引き留めようとする語り部の手から巧みに逃れ、軽やかな足取りで森の中へと駆けた。

 木々の合間を縫って差し込む陽光に朝露がきらめき、辺りを包み込む新緑が鮮やかに輝き出す。さわさわと優しく風に揺れる木々の下を、愛らしいエルフの子供達は跳ねるような笑い声を立てながら、楽しげに転げ回る。

 時折手遊びに弓を放ったが、動物達がそれほど粗雑な狩人達に捕まるはずもなく、獲物は一つも得られない。だが、それは彼らの愉快な気持ちを台無しにするものではなかった。

 ――シャール、いつまでもずっと、こうしていられたらいいな。シャールと居ると、すごく楽しいよ。

 ひとしきり遊んで川縁に腰を落ち着けると、タムレンがふと言う。靴を脱いで水面に足首まで沈めていたシャーリィンは、ぱしゃっと水を蹴った。

 ――うん、私も。皆優しいけど……タムレンと一緒にいる時が、一番楽しい。もう他に、誰もそばにいてくれないから。

 笑みを浮かべているが、ひどく大人びた横顔で呟く。タムレンは少し黙った後、シャーリィンのそばに座って、岩の上に置かれた彼女の手を握った。

 ――大丈夫、僕はどこにもいかないよ、シャール。ずっとずっと一緒だ。

 それを証するように、ぎゅっと力を込めてシャーリィンの手を包み込む。まだ狩りを始めたばかりの子供らしい、柔らかく小さな手だが、タムレンは暖かくて心地が良かった。

 ――うん。……うん、一緒にいようね、タムレン。約束だからね。

 それが嬉しくて、シャーリィンは掌を返して、タムレンの手を握った。

 

 その温もりを、優しさを、シャーリィンは今でも、胸が苦しくなるほど鮮明に、思い出せる。

 あんなに幸せで満ち足りていたのに。あれほど輝かしい時は無かったというのに、なぜ自分は、あの手を離してしまったのだろう――そんな自責の念と共に、思い出は今、彼女の心を暗く蝕み始めていた。

 

* * *

 

 吹き付ける風は細かい刃のように冷たく、鋭い。

 ばたばたとなぶられるフードを手で押さえ、シャーリィンはじっと前方を見据える。

 洞窟を抜けた先は吹きさらしの広場だった。ごつごつとした岩山と、かつて壮麗な佇まいであったろう廃墟の合間にぽっかりと空いたその場所は、今は吹きすさぶ寒風だけがひゅうひゅうと音を立てている。

 訪れる者のない寂寥とした広場は見通しが良すぎて、のこのこ出て行けば、隠れ潜む敵にねらい打ちされるのではないかと思われる。

 だが、おそらく待ち伏せも無いだろう。ここに足を踏み入れる者は強風のみならず、恐ろしい番人と対面する危険を冒さねばならないのだから。

 シャーリィンはすっと視線をあげ、目を細める。

 その視線の先、白茶けた右手の岩場の上。そこにはこの地の主といわんばかりにその巨体をゆったりと横たえた竜――ハイドラゴンが、自身が岩山のごとく、鎮座していた。その大きさたるや、見上げるほど高い寺院の屋根にも並ぶほど、シャーリィンの場所からは相当の距離を隔てているのに、実際より近くにいるように錯覚するほどだ。

(何事も無く抜けられるだろうか)

 ここの手前で出くわした、竜を心棒する狂信者達は、挑戦のドラを鳴らさなければドラゴンは襲いかかっては来ないと言っていた。地上の王者たる竜は、羽虫が少しばかり飛び交っていようと気にかけはしないと。

(それが本当かどうか、殺す前に試させるべきだったか)

 そんな事を、ひんやりと冷たい心で思う。

 連中が聖灰を汚せなどとふざけた申し出をしてきたものだから、問答無用で一掃したが、どうせならあの竜へのおとりに使えばよかった。生け贄を少しばかり食らえば、こちらは目こぼししてもらえたかもしれない。

 冷酷な考えに耽っていたら、突然、湿った感触が掌に押しつけられた。

 びくっとして見下ろすと、いつの間に近づいてきたのか、マバリ犬がくぅーん、と甘えた声と共にこちらを見上げている。

(怯えているのか)

 ドラゴンに。あるいは――この私に。

 微かに唇の端をあげたシャーリィンは犬の頭を撫で、すぐに手を離した。

 その温もりも、冷え切った心身を暖めるには足りないというように、しっかりとマントを纏い直す。フードの下に隠した顔は、微笑の影も瞬く間に消え失せ、凍り付いていった。

 

* * *

 

 いったん出口から少し戻った一行は、ひとまず休憩をとろうとその場に腰を落ち着けて、軽食を取る事にした。

 ここまでかなりの強行軍で来たので、疲労が激しい。ささやかなたき火で暖かい食事を口にすれば少しは気が楽になったが、アリスターはそれよりも気にかかる事があった。

「シャーリィンの様子はどうだ、レリアナ」

 戻ってきた彼女に声をかけるが、レリアナは暗い顔で首を振った。その手に持った皿のスープは、ほとんど減っていない。

「駄目ね。少しは口に入れてくれたけど、喉を通らないみたい。あのままじゃ、いつか倒れてしまうでしょうに」

「いつも牛並に食べてたっていうのに、どういう風の吹き回しかしらね」

 モリガンが皮肉混じりに言いながら顔を向ける。その視線の先にいるのは、輪から離れて一人うずくまっているシャーリィンだ。

 彼女はフードをかぶって顔を隠し、弓と剣を抱えて隅でじっとしていた。

 周囲の干渉を一切拒むその様子は、旅を始めたばかりの頃を思い出させた――いや、あの頃よりも、更に悪い。少なくとも以前は、人の目を見て話すくらいの事は出来たのだから。

「やはり、この間の件が堪えているのでしょうね。あんな事になってしまって、そう簡単に割り切れるものではないでしょう」

 ウィンが痛ましい表情でシャーリィンを見つめ、皆も顔を曇らせた。

 この間の件というのは、野営中にダークスポーンの襲撃を受けた時の事だ。

 事前にその気配を察知できるグレイ・ウォーデンが二人も居たので、幸い被害は全くなかったのだが……問題は、襲撃者達の中に、シャーリィンのかつての友タムレンがいた事だ――しかも彼は、ほとんど魔物になりかけていた。

 恐らくは何か穢れに冒された故なのだろう。

 彼が一体どんないきさつでそうなってしまったのか、仲間達は詳細を知らない。

 だが、タムレンの行方不明がシャーリィンが旅立った理由の一つとは知れていたので、よほど近しい相手なのだろうとは察せられた。

 だからこそ、辛うじて理性を残したタムレンに殺してくれと懇願されたシャーリィンの心情は如何ばかりかと、皆案じているのである。

「あのエルフは願い通り、死ぬ事が出来た。悔いはないだろう」

 静かな口調でスタンが言う。それはそうだと思う、とアリスターも頷いた。

 あのタムレンというエルフは、魔物と化した己の姿を恥じ、シャーリィンを傷つける事を嫌って、自ら死を望んでいた。

 もはや取り返しがつかないほど進行した穢れから逃れるには、それしか方法が無かっただろうとは思う。だが……

「いつまでもぐずぐず考えていても仕方ないだろう。もう終わった事だ」

 不意に冷淡な声が響き、緊張が走る。

 アリスターがハッと顔をあげると、壁に寄りかかったゼブランは、淡々と続けた。

「思い返したところで何が出来る訳でもない、悩むだけ無駄だよ。それより今は自分がすべき仕事に集中すべきじゃないかな、ウォーデン?」

 ゼブランはアリスターに向かって話していたが、そう広くもない洞窟の中、その言葉は確実に聞こえただろう。俯いたフードがぴくっと動き、僅かに頭が上がる。陰に隠れてその顔が見えない分、何を考えているのか分からないのが恐ろしい気がして、アリスターが慌てて言葉を添える。

「ゼブラン、言い過ぎだ。何もそんな言い方をしなくてもいいだろう」

「どこが言い過ぎなんだ? アリスター、ここに来るまで彼女がどれだけ危なっかしかったか、もう忘れたって?」

 そう言われてしまえば、返す言葉がない。

 心を閉ざしたシャーリィンはいつにもまして華々しい戦いぶりだったが、一方で仲間の援護を全て無視して、単独での無謀な突進を繰り返した。まるで死に急ぐような有様に、冷や汗をかく場面が何度あった事か。

「あれじゃいずれこっちに火の粉がかかる。落ち込むにしても、そろそろ気持ちを切り替えてほしいね。

 もし彼女が、どうしてもそれが出来ないというなら、後ろに引っ込んで好きなだけ自分を責めればいい。それなら誰も文句は言わないさ」

 ばさっ。

 大きく布を翻す音がゼブランの言葉を遮る。皆の視線が向いた先では、シャーリィンが立ち上がっていた。荷物を全て持って移動するつもりと見て取り、

「ま、待てシャーリィン、一人で行くな!」

 アリスターが慌てて立ち上がる。

 だがシャーリィンはその制止を聞くこともなく、足早に先を急ぐのだった。

 

 

 岩の寝床に横たわるハイドラゴンは、今のところ穏やかな眠りの中にいるようだった。

 遠目なので細かいところは分からないが、長い首や大きな翼を折りたたみ、一見彫像のようにじっとして動かない。

「……こちらから刺激をしなければ、動き出しそうにないな」

 声を潜めて囁くアリスターに、そのようねとウィンも強ばった表情で頷く。おっかなびっくり外に出た一行は、ハイドラゴンを横手に見ながら慎重に歩を進めた。

 アーチデーモンでなくとも、ドラゴンは脅威だ。いくらグレイ・ウォーデン率いる一行であろうと、立ち向かうのは容易ではないだろう。積極的に戦う理由がないのであれば、避けて通りたい。

(このまま真っ直ぐ、あっちの建物に入れば、ひとまず安全だろう)

 柱のように林立する岩山の奥には、おそらくは長い年月を経ているだろうに、今なお堅牢に建つ寺院が見えた。そこまで行き着けば、後はきっとどうにでもなる――帰りの事はひとまず脇に置くとして。

 そう思いながら、広場の半ばまで至った時、問題のドラが目に入った。

(あれが戦いの始まりを示すドラか)

 狂信者達が言っていたものに違いない。ドラをきっかけに襲いかかってくるというのも妙な話だが、翻れば、あのハイドラゴンは挑戦の合図を解するだけの知性があるという事だ。

 その巨体や吐き出す炎だけでも十分厄介なのに、この上頭がいいなんて勘弁して欲しい。そんな事を考えながらアリスターはその前を通り過ぎた。  絶えずドラゴンの存在を意識しながら広場を横切り、やがて入り口前までたどり着いて、ほっと息をつく。

「ここまでくれば大丈夫だろう。さぁ、早く中へ――」

 そういって後ろを振り返ったアリスターだが、「あら? シャーリィンは?」皆を見回しながら首を傾げたレリアナ、疾風のような速さで広場の中央へ駆け戻るゼブランの後ろ姿、そして――その先で一人、ドラの横に立って剣を抜いたシャーリィンを同時に見て、凍り付いた。

「シャー……!」

 恐怖で血の気が引き、声が詰まる。止める間もなく、空気を揺さぶるドラの音(ね)が、広場いっぱいに響きわたった。

 

* * *

 

 剣の柄頭を叩きつけると、耳の割れるような音が辺りを圧した。音は周囲の山々を駆け抜け、こだまとなって幾重にも重なり広がっていく。

 その響きが鳴り止まないうちに、竜の咆吼が山々をふるわせる。先にも増して鋭い烈風が岩をもなぎ払う。ふっと影で視界が暗くなったかと思ったら、シャーリィンの前に巨大な壁――ハイドラゴンが薄い皮膜の翼をはためかせ、地面を揺るがせて着地した。

「っ……」

 風と地震によろけながら、シャーリィンは前方を見上げた。

 その巨体から発する熱で、ちりちりと肌が焼かれる。空を覆うような大きさを眼前にすると、自分がどれほど小さな存在か思い知らされるようだ。ぎらぎらと輝く金色の瞳が今、まさに自分を見据えているのだと悟ったその瞬間、シャーリィンは気圧された。

「は……」

 灼ける空気に喉が痛み、心臓は破裂しそうなほど鼓動を早める。汗で柄が滑る。足が震える。カッと体が熱くなり、氷のように冷たくなる。動かなくては。竜に挑戦したのだから、戦わなければ。頭では叫び声が響いているのに、体は少しも言うことを聞かない。

 びくりともしない獲物を早々に片づけようと考えたのか。ハイドラゴンは悠々と後ろ足を持ち上げ、轟と風を切ってシャーリィンの頭上に振り下ろし、

「馬鹿! 避けろ!」

 瞬間、シャーリィンは横手から痛烈な衝撃を受けて吹っ飛んだ。

「あっ……!!」

 視界がぶれ、地面に倒れ込む。同時に今まで自分が立っていた場所が竜によってえぐられ、岩塊をまき散らした。何が起きたのかと目を瞬いたシャーリィンは、自分の上に覆い被さるゼブランの姿を認めて息を飲んだ。

「立て! 早く!」

 身を起こしながら、ゼブランはシャーリィンの腕を掴んで、乱暴に引き上げた。その表情は怒りに歪み、今にも彼女を罵倒しそうなほど殺気立っている。

「ゼブ……」

「話は後だ。逃げるぞ!」

 怒鳴りつけて問答無用で走り始める。力任せに引っ張られてシャーリィンもまた駆け出すが、ハイドラゴンは獲物を逃した不服に唸り、前足を横に払った。

「ぐっ!」

 叩き潰す勢いで迫ってくる太いかぎづめを、ゼブランは辛うじて剣で横に受け流した。だが片手で抗しようとして、あっさり剣が空中に弾き飛ばされる。素早くもう一方の得物を向けるが、そちらは短剣だ。天をつくほどの巨竜を前にして、いかにも頼りない。

(駄目だ、私が行かなくては)

 そう思うのに、手が震えてまともに構える事が出来ない。

 ゼブランはシャーリィンをかばい、短剣を掲げてじりじりと下がっていく。その固く強ばった背中を目にして、シャーリィンは後悔に歯噛みした。こんなつもりじゃなかった、戦うのは、死ぬのは自分一人で良かったのに。

(ゼブランっ……)

 せめて彼は逃がさなくては。焦るシャーリィンをよそに、ハイドラゴンがぐるるる、と喉の奥を鳴らして目を細め、大きくのけぞった。空気を吸い込んで胸の辺りが膨らみ、ぐわと開いた口の中に火がともる。

(ブレスを吐く!)

 竜が炎の息を吐けば、一帯は火の海になる。そうなれば逃げ場も無く黒こげになって息絶えるだけだろう。焦燥に駆られたシャーリィンはとっさに前に出ようとしたが、それより早く、

「ウオオオオオオッ!!」

 空を貫くような雄叫びが響き、重甲冑に身を包んだアリスターが竜に向かって突進してきた。反対方向から聞こえた声に反応して竜がぱっと顔を向けた時、

「「コーンオブコールド!!」」

 ウィンとモリガンが一つの呪文を同時に唱え、魔力の杖をハイドラゴンへ向ける。その先端から氷の嵐が吹き出し、轟音を立てて竜の顔にぶち当たる。魔道士と魔女による二重詠唱の魔術はその威力も倍加し、ハイドラゴンの顔から首半ばまでがビキビキと凍り付いた。

 視界を封じられてもがくドラゴンにアリスターとスタン、マバリ犬がとりつき、各々の武器で攻撃するが、鋼の肌はいずれも固く弾いてしまう。

「シャーリィン、ゼブラン、早く!」

 その後ろでレリアナがエルフの矢をつがえ、せっぱ詰まった声で叫んだ。

 ウィンとモリガンが立て続けにスペルを放ち、氷の拘束は幾重にも重なって分厚くなっていくが、ハイドラゴンが苛立って体を揺さぶるたびにびきびきとひび割れ、長く保ちそうにない。

「!」

 ゼブランが無言でシャーリィンの腕を強く引いて、全力疾走でその場を離脱する。マナの大量消費に青ざめ息を切らすウィンとモリガン、援護の矢を放つレリアナと、前線で戦う戦士達も徐々に竜から距離を取り、

「アリスター、スタン! もういい、こっちだ!」

 建物の扉を蹴り開け、シャーリィンを中に突き飛ばしたゼブランが叫ぶと、一行は一斉に転身した。

 ゴァァァァァ!!

 決死の表情で駆け出す彼らの背後で、氷をかみ砕いて割ったハイドラゴンが怒りの叫びをあげ、ずしんずしんと地面を揺らして追いかけてくる。

 その揺れで足下もおぼつかなくなるほどだったが、まず女性達が、ついで犬とスタン、最後にアリスターが中に転がり込み、

 バシンっ! ドォォンッ!!!

 ゼブランと共に勢いよく扉を閉めるのと、ハイドラゴンが建物に体当たりするのはほぼ同時だった。

 壁に激しく衝突し、更に二度、三度と衝撃が続く。上から岩の破片がぱらぱらとこぼれ落ち、今にも崩れ落ちるのではと皆が緊張して戦闘態勢を取っていたが、三十分ほどもそうしていただろうか。

 一向に壊れない事にいい加減諦めたのか、苛立たしげなうめき声を残して、ハイドラゴンの重たい足音が徐々に遠ざかっていった。

「……は……あぁ……あぁ、何とかなったみたいだな」

 強ばった体からどっと力を抜いて、アリスターが呟くと、皆も一様にため息をもらす。

 周囲を見渡せば、傷を負ったり、極度の疲労に襲われていたりはしたが、誰も欠けてはいない。

「一人も死ななかったのは奇跡みたいなものね。ねぇシャーリィン、何であんな馬鹿な真似したのか、聞いてもいいかしら」

 魔力を消耗して蒼白の顔色をしたモリガンがじろり、と睨みつける。

「えっ……」

 最初に突き飛ばされたまま、石畳に座り込んでいたシャーリィンはびくっと顔をあげた。今のどさくさでフードがはずれて久しぶりに顔が見えるようになっていたが、ひどく怯えている。

「わ、私……」

「自分一人でもハイドラゴンくらい、ひょいとやっつけられると思った訳? その割には、真っ青になって棒立ちになってたわよね」

「それは……私は、あの……」

「まぁ待て、モリガン。気持ちは分かるが、そう詰め寄ってもシャーリィンが怖がるだけだ。そうでなくとも、あんたはおっかないんだからな」

「どういう意味よ、アリスター」

 二人の間に割って入ったアリスターがモリガンをいなし、シャーリィンに向き直る。

 縮こまる彼女はまるで子供のように途方に暮れた表情で、いつもの堂々とした態度は影も形もない。アリスターはその前にひざをつき、優しく語りかけた。

「なぁ、シャーリィン。お前はどうして、一人でハイドラゴンと戦おうとしたんだ? 一人どころか、皆で立ち向かっていったって、きつい戦いになるのは分かってたよな?」

「…………」

 一層身につまされるというように、シャーリィンは唇を噛んで俯いた。細い肩が小さく震え、手に握りしめた剣が石の床にこすれてかたかた音を立てる。

 シャーリィンと促すようにもう一度名を呼んだ時、

「そんなのは分かり切ってるじゃないか。シャーリィンは自殺しようとしたのさ」

 低く冷たい言葉が静まりかえった部屋の中に響いた。

 皆がぎょっとして声の方に顔を向けると、辛うじて回収した長剣を点検していたゼブランが、冷ややかな表情でシャーリィンを見ている。

「自殺……なぜそう思うのかしら、ゼブラン」

 ウィンが問いかけると、ゼブランは剣を鞘に納めながら肩をすくめた。

「だってそうだろう、わざわざ最後に残って、たった一人でハイドラゴンに立ち向かおうなんて奴は、よほどの勇者か、よほどの馬鹿か――あるいは死にたがりか、だ。

 普段のシャーリィンなら前二つは当てはまらない。彼女は慎重で、愚かでもないからね。それなら残ってるのは一つだけだろう?」

「……シャーリィン、そうなの? あなた、死ぬつもりで……」

 まさか、と顔を曇らせてレリアナが問いかける。するとシャーリィンは息を飲み、何か言おうと口を開いては閉じ、かぶりを振り……声もなくしばし煩悶を繰り返した後、

「……あぁそうだ、私は死にたかった、だけどそれがどうしていけないんだ!!」

 これまで誰も聞いた事のない悲痛な叫び声を吐き出した。ばっと立ち上がり、白い肌を紅潮させた自暴自棄の表情で、

「私がこの旅を始めたのはタムレンを見つけて救いたい、それだけだった。

 グレイ・ウォーデンも、アーチデーモンも、ロゲインも、何もかも私にはどうでもいい、タムレンさえ生きていてくれれば、そうと信じられれば、それだけでよかったのに」

 振り絞るように思いを語り、声を震わせて嘆く。

「そのタムレンが死んでしまったのに、これ以上何の意味がある? 私には何もない、何も残らない、それなら生きてる意味なんて無い、死んで何が悪いんだ!」

「悪い。あぁ、それは君が悪いね、ウォーデン」

 対してゼブランはあくまでも冷静だった。常の陽気さが完全に抜け落ちた真顔で腕を組み、上から彼女を見下ろして淡々と続ける。

「今だって見ただろう? 君をハイドラゴンから救う為に、仲間全員が命を危険に晒したんだぞ。運良く助かったけど、一体どれだけ犠牲を出すつもりだったんだ?」

「それ、は」

 シャーリィンはひるんで、忙しなく皆を見渡した。確かに間一髪助かりはしたが、下手をすれば彼らは全滅してもおかしくなかった――それも、シャーリィン自身の無謀な行動のせいで。

「今や君の命は君一人のものじゃない。グレイ・ウォーデン、世界を救う使命を帯びた君が、自分勝手に死ぬなんて、許されるはずがないだろう? どうしても死にたいなら、せめて誰の迷惑にもならない時と場所を選んで欲しいね」

 うなだれたシャーリィンにむち打つようにゼブランは言い放つ。ゼブラン言い過ぎよ、落ち着いて、とレリアナが言葉を挟んだが、彼は首を振る。

「いいや、ここで言わせてもらなきゃ、どこで言うんだ?

 これからまだまだ、山のような困難に立ち向かっていかなきゃいけないんだ。たかが一人知り合いが死んだくらいでこんなに取り乱されちゃ、おちおち旅もできやしないね」

 その言葉に、シャーリィンが顔をあげた。信じられないというように目を瞠り、たかが? とかすれた声で呻く。

「たかが、死んだくらいで、だと……?」

「あぁ、そうさ。君にとってタムレンがどれだけ大事だったのか知らないが、生きてる人間と秤に掛けたら、そちらに傾くはずがない。死人の思い出に殉じて命を絶つなんて、それこそ馬鹿のする事さ」

 切りつけるような鋭い語調でゼブランが言い放った時、シャーリィンが両手で剣を握った。

 ハッと周囲が緊張する中、切っ先を真っ直ぐゼブランに向けるシャーリィンの目から涙があふれ出し、その美しい顔立ちが怒りと絶望でゆがむ。

「お前がそれを言うのか、ゼブラン……お前が……」

 涙は幾すじも頬を伝い落ち、細い顎から滴がこぼれる。ぼろぼろと泣きながら、シャーリィンは地面を蹴った。微動だにせず立つゼブランに向かって駆けながら、

「お前がタムレンを殺したくせに!!」

 喉も裂けよとばかりに叫んで剣を掲げ、勢いよく振り下ろした――

 

* * *

 

 ――殺してくれ、レサラン――

「嫌だ、タムレン、どうしてそんな事を言うんだ!」

 あの日、衝撃的な再会を果たした時。聞き取りにくいしゃがれ声で懇願するタムレンに、シャーリィンは泣きそうになって叫んだ。

 心のどこかで信じていた。諦めてもいた。タムレンは必ず生きているに違いないと信じ、一方でもう二度と生きては会えまいと諦めていた。

 それを主の計らいか、今やっと再び出会う事が出来たというのに、なぜ絶命を望むのか。

「穢れに苦しんでいるのなら、大丈夫だ。私も同じ穢れを浴びたけれど、こうして生きている。そうだ、これから全ての病を治すという聖灰を探しに行くんだ、それならきっとお前を助ける事が出来る。私と一緒に行こう、タムレン!」

 必死にかきくどき、すがりつこうとしたが、タムレンは激しく首を振って後ずさった。

 ――駄目なんだ、もう手遅れだ……歌が、歌が呼ぶ……気が狂う……苦しい、痛い、君を傷つけたくない……ああ……!

「タムレン、何を言って……」

「シャーリィン、まだここに敵が残ってたのか!」

 そこへ、他の敵を片づけた仲間が一斉に駆けよってきた。即座に襲いかかろうとするのを見て、「やめろ!」シャーリィンはとっさに手を広げ、皆の前に立ちふさがった。

「えっ、シャーリィン? どうしたの?」

 矢を放とうとしていたレリアナが戸惑いの声を漏らす。

「違う、彼は敵じゃないんだ、やめてくれ!」

「でも……」

 シャーリィンの後ろにいるのは、明らかに魔物の見た目をしている何かだ。それをかばう理由が分からないのだろう、レリアナもアリスターも困惑した表情で視線を交わし、ウィンとモリガン、スタンは様子見をしている。

(そうだ、皆なら分かってくれる。聖灰を使ってもいいと、きっと言ってくれる)

 少なからず仲間を信頼し始めていたシャーリィンは一縷の希望をかけ、事情を説明しようと口を開きかける。だがその時、

 ドガッ!

 顔のすぐ脇を何かが通り抜け、背後で悲鳴と重たい音がした。振り返るより先に、背中にどっと重みがかかり、タムレンの頭が肩に乗る――その額に、黒カラスの短剣が突き立った状態で。

「た……タムレン?」

 何が起きたのか理解できず、ただ急速に死へ向かい、タムレンの体が脱力するのが感じられる。慌てて向き直ってその体を支えると、剣の刺さった頭を少し持ち上げたタムレンは、

 ――……ずっと……愛していた……すま、ない……シャール……

 シャーリィンの耳元で微かに囁き――それを最後に、息を引き取ったのだった。

 

* * *

 

 ギィン!!

 振り下ろした剣が弾かれ、手からすっぽ抜ける。

 ゼブランの前に素早く出たアリスターの反撃で体ごと吹っ飛んだシャーリィンは、それを受け止めたスタンに、足が地面から浮いた状態で羽交い締めにされてしまった。

「っ、は、なせ、スタン!!」

「駄目だ。今のお前は正気を失っている。離すわけにはいかない」

「スタンの言うとおりだ、シャーリィン。ゼブランに八つ当たりするのはよせ」

 さすがに険しい表情のアリスターが言うと、シャーリィンは歯を食いしばった。

 怒り、悲しみ、絶望、苦しみ、様々な感情がごちゃまぜになって、まともに考えられない。力では敵わないと分かっているのに、スタンの腕の中でじたばたと暴れ、叫ぶ。

「だってそいつがタムレンを殺したんだ、皆見てたじゃないか、ゼブランは人殺しだ!!」

 だがそう叫んだ途端、ばちんっと目の前に火花が飛んだ。衝撃で涙が弾け飛び、一瞬何もかもが真っ白になる。

(あ……?)

 何が起きたのか分からない。しばし呆然とした後、横を向いた顔をのろのろ戻すと、厳しい表情のウィンが目の前にいた。

「……シャーリィン。それは言ってはいけない事よ。彼に謝りなさい」

 ウィンは力一杯平手打ちした手を振りながら、静かな怒りを込めて言う。その迫力に押され、シャーリィンは息を飲んで身を強ばらせた。じんじんと頬が痛みだし、少しずつ現実の感覚が戻ってくる。

(私は……今、なんて……)

 人殺し。自分が発した言葉に、背筋が冷たくなる。ゼブランが黒カラスの過去をひどく疎んじていた事は知っていたのに、何て残酷な非難をしたのだろう。

(……違う、そんなつもりは……)

「シャーリィン。ゼブランに謝って」

 俯いて唇を震わせるシャーリィンに、ウィンが更に強く言う。と、苦笑が聞こえて、ゼブランがすっと近づいてきた。ウィンの肩を親しげに叩いて、 「ウィン、謝罪なんて必要ない。僕はただ、彼女が冷静になってくれればそれでいいんだ」

「駄目よ、ゼブラン。シャーリィンは発言を撤回すべきだわ」

「なぜ? だって僕が人殺しなのは事実じゃないか」

 そのあっさりした声音はいつものように明るく、軽薄で、だからこそ聞くものの胸を突いた。息を飲む周囲をよそに、ゼブランはまるで人ごとのように肩をすくめる。

「今更、非難の一つや二つを浴びたところで、堪えやしないよ。それよりまずは落ち着くべきじゃないかな。トカゲの王様とやりあったせいで、皆興奮しすぎてるんだ。幸いここにはまだ敵がいないようだし、少し休息しよう」

「……そうね。正直こんな馬鹿騒ぎは、頭に響くわ」

 モリガンが同調し、部屋の隅にすとんと腰を落とす。その提案で緊迫した空気が緩み、アリスターが頭をかいた。

「まぁ、そうだな……シャーリィン、お前も少し休んだ方がいい。このところろくに眠ってもいなかっただろう? スタン、彼女を下ろしてくれ」  その声音は優しく、労りが込められていて、かえって辛い。

「……っ」

 スタンにゆっくりと下ろされたシャーリィンは床に座り込み、呆然とした。

(どうして……何で私を庇うんだ。私なんて、居なければいいのに)

 そうすれば、タムレンは助かったのに。皆を危険にさらして、ゼブランに剣を向け、酷い言葉を投げつける事も無かったのに。

 激しく揺さぶられた心は今全て空っぽになり、何も考えられなくなっていた。体が熱くなり、鼻がつんと痛くなって視界が揺らぐ。その瞳から再び涙が零れ落ち、

「うっ……あぁ……あああ、うわぁぁぁん……!!」

 苦しい、息が出来ない、悲しくて、恥ずかしくてたまらない。

 突き上がってきた感情に押し流され、シャーリィンはその場で、子供のように大きな声を上げて泣き出してしまった。涙は後から後からあふれ出し、いつまでも、いつまでも止まらなかった。

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