「──うぅ、過去の僕はなんて馬鹿なんだぁ……」
「そんなにイジけんなよ、たかがテストくらいなんだよ。」
机にうつ伏せになって発した僕の独り言は、隣の席まで聞こえるほどの声量だったらしい。
びっくりして声を上げようとしても、口から漏れたのは溜息だった、……僕は思っていたより落ち込んでいたみたいだ。
「だって名前を書き忘れるなんてさぁ……っ」
ぽっかりと空いた署名欄。
夏の暑さに集中力を奪われた、というのは言い訳にはならないだろう。
それでも時を戻せたら、と後悔せずにはいられない。
「あーもう、志葵はよえー奴だなぁ!……15時に駅前集合だからな!」
「……ありがとうね、あきら」
「はいはい」
これは僕等が遊ぶときに使う誘い文句。
遊んで元気を出せ、という不器用なあきらの優しさに違いない。
その証拠に、背けた顔が少しだけ赤い。
所在無げに爪をイジるのは恥ずかしがっているときの癖だ。
「……んじゃあちょっと準備してくるわ。約束忘れんなよ?」
「うん、忘れないよ」
僕の調子が戻ったと判断したのか、あきらは勢いよく立ち上がり、飛び出すように廊下を走っていった。
このまま時間まで教室で座っていても、テストのことを思い返して陰鬱な気分になるだけだろう。
少し早いけど、待ち合わせ場所に行こうかな。
熱中症も怖いし、途中で飲み物も買おう。
──あっ、ママに怒られないように
道すがら、奮発してタピオカを買ってみた。
最近流行ってるとか、実はもう流行りは終わったとか聞くが、疎い志葵にはあまり分からない。
けれど、あきらが飲んでいるのをよく見かけるし、ちょっとしたサプライズみたいなものだ。
きっと喜んでくれるだろう。
今日一番の浮かれた気分で踏み出した一歩が、曲がり角からやって来た人との激突を引き起こした。
同時に、まるで物が砕けたかのような鋭い音が辺りに響いた。
タピオカも宙を舞い、──衝突した相手に降り注ぐ。
「わわわ……っ!ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!怪我はないですか!?」
「……ええ、大丈夫よ。私こそ気づけなくてごめんね、ボク」
「──ひ、ひゃい」
あまりに上品な声に、志葵は心臓が掴まれた気分であった。
その女性の、閉じられた目と艶やかで長い黒髪は、どこか神秘的な雰囲気を醸し出していた。
その倒れた姿すら彫刻の一つのようで、育ちの良さと静かな気品が感じられるほどだった。
内心の動揺を少しでもバレないように振る舞いつつ、お姉さんが立ち上がれるように手を貸す。
ひんやりとした手の冷たさと柔らかさに、再び心臓が跳ねる。
「ありがとう。……あら、杖はどこかしら?実は私、目が見えないの」
「っ、ほんとにごめんなさいっ!えーっと、杖……ですか?」
辺りを見渡すと、衝突の反動で飛ばされた白塗りの杖が、真っ二つに折れた状態で転がっていた。
持ち手には細かい装飾が施されていて、詳しくない志葵でも一目で高級と分かる。
「──その、折れちゃったみたいで……!弁償します!すみませんでした!」
腰が直角になるほど深々と、何度も頭を下げる志葵。
女性が呟いた言葉は、耳に入らなかった。
「やっぱり匂いが良いわねぇ」
「……?」
「いえ、気にしなくて大丈夫よ。……でも困ったわ、杖がないと家に帰れないの。それに、こんな服装で一人で歩くのは不安ですわ……」
そして、こんな服装、という言葉を聞いて志葵は初めて、お姉さんの顔から服へと視線を移動させた。
タピオカをもろに被ったせいで、お姉さんの白い服は下着が透けるだけでなく、豊満なボディーラインが分かるほど服が体に張り付いていた。
そのあまりの煽情的な姿を、純情な少年が直視なんてできるはずもなく、ただ目を逸らすことしかできない。
「……よ、良ければお家まで送ります!僕が悪いですし…」
「あら、じゃあお言葉に甘えましょうかしらっ。少し心配だったのよ──」
女性の声色に不安はなく、むしろ余裕すらも感じられた。
しかし、それを考える余裕は志葵にはなく、違和感に気づくこともできなかった。
その言葉を待っていた、と言わんばかりにお姉さんが笑みを浮かべていることにも、当然気づいてはいなかった。
道中、麗華と名乗ったその女性は沢山話をしてくれた。
生まれた時から目が見えないこと、子供の世話をするのが好きなこと、鬼ごっこが好きなこと。
目が見えないのに鬼ごっこ?と志葵は疑問を持ったが、それを聞くのは何となく申し訳ない気がした。
「ここよ」
「!──立派なお屋敷ですね……っ」
そして、その生まれた疑問を吹き飛ばすほど大きい屋敷が、志葵の視界に広がっていた。
学校の校舎ほどある漆黒の建物に、校庭以上に広い庭園。
庭木は細かく手を加えられていて、舗装された道には雑草一つ見つからない。
その全てに、志葵は圧倒されるしかなかった。
こんな家に住めるなんて、凄いお金持ちなのかな。
あの杖は一体どれくらいの価値がしたんだろう、そんな見当違いなことに意識を飛ばしていた。
立ち止まった志葵の手を引いて、麗華は建物に入ろうとする。
意外と引っ張る力が強くて、あっという間に扉の中に引き込まれてしまった。
「……あの、麗華さん」
「いつもは話し相手がいないの。お茶しちゃダメかしら?」
小首を傾げるような仕草で聞かれた質問には、ノーと言わせない不思議な魔力が含まれていた。
あきらとの約束の時間に遅れることは明白だったが、沢山迷惑をかけている以上、これを断るという選択肢は志葵の頭の中にはなかった。
あきらには後で謝ろう、そう決心したとき。
「お客様ですか?」
「ぴゃぁっ!……いえ、僕はその──」
二人っきりと思っていた玄関で、見知らぬ声に思わず体が飛び跳ねてしまう。
ロングスカートにも関わらず、音一つ立てずに階段から降りてきたメイドは志葵と麗華を一瞥して、はぁ、と溜め息をついた。
「……お嬢様?」
「ダメかしら?」
「ダメです。一生のお願いはもう使ったはずです」
メイドが不機嫌な理由は、鈍感な志葵でもすぐに理解できた。
盲目の主の手にある杖は無残にも壊れており、高級そうな服に大きな滲み。
犯人は明らかだろう。
今すぐ怒りをぶつけたいのに、主が犯人の肩を持とうとするのだから、文句の一つも言いたくなるのは当然のこと。
少なくても志葵はそう解釈した。
「本当にごめんなさいっ!麗華さんは悪くないんです!僕がちゃんと確認しなかったから……っ」
杖を付く麗華の歩く速度は、きっとゆったりとしたものだっただろう。
それにぶつかるなんて、自分はどれだけ浮かれていたんだ。
謝っても謝りきれない。
「お説教は後で聞くから、命令よ。『お茶の準備をしなさい』──天気が良いからバルコニーにしましょう」
「……かしこまりました、お嬢様。」
「あら、あなたも味見していいのよ?」
「結構です」
一瞬、見た目からは想像できないほどの圧が、麗華からメイドへとぶつけられた。
非難するような鋭い視線を飛ばしていたメイドだが、主の命令には仕方なさそうに、それでも頭を抱えるような仕草をしていた。
志葵はなんとなく、大切なやり取りが目の前で行われた気がして、湯沸室へ向かうメイドの後ろ姿を眺めていた。
「シャワー浴びてくるから、先に席に待っていてもらえるかしら?」
「っひゃい!」
そこの階段を一番上までいけばいいわ、と耳元で囁かれて思わず声が上擦る。
同時に、先程のあられのない麗華の姿を思い出し、赤くなる顔を見られないように足早で階段を駆け上がった。
……だが、勢い良く階段を駆け上がり続けられるほど志葵は体力がなかった。
「……はぁふぅ……。お水ぅ……、美味しいっ!」
バルコニーの机は綺麗に整えられており、コップには既に水が入れられていた。
よく冷やされていることから、志葵の喉が乾いていることを想定してメイドが準備してくれたのかもしれない。
席に着いて一息ついたところで、緊張の糸が切れたのか、どっと疲れが押し寄せてきた。
そして、疲れが眠気に変わるのにそう時間もかからなかった。
「んん……」
微睡む視界の中で、メイドと麗華が自分を見つめている気がした。
「じゃあいつもみたいにお願いね」
「……その台詞、今月に入って何回目か覚えていますか?」
「仕方ないじゃない、性欲の夏なんだから」