後にアルキードと呼ばれる国の国境近く、近隣の村からは奇跡の泉と呼ばれる泉の
人らしからぬ、魔族が持つような長く尖った耳を持ったその男は、しかしそれ以外は全くもって人間であった。その肌は血色の良い肌色であるし、身に流れる血は紛れもなく赤いものだ。
無造作に伸びた長い黒髪を後ろにまとめ、布の服を纏ったその出で立ちには、もう一つ普通とはかけ離れた所があった。
目だ。
何も映らないその空虚な瞳は、それを通して、男の虚無しか広がっていない心を容易に推察することが出来た。
その瞳が向かう先は、何も気付かず泉の水を啜る、一匹の小鹿。これが男の今晩の獲物だった。
「
男の足元より氷が走る。静かに進むそれは小鹿の足元に辿り着いた瞬間、弾ける様にその規模を拡大し、小鹿の足を完璧に封殺して見せた。
事ここに至ってようやく現状を理解した小鹿は、寒さに震えながらも後ろへ振り向く。
そこで最後に目にしたものは、凍て付くような視線を向けながら、短剣を手に此方へ歩み寄ってくる男の姿だった。
血抜きを終えた獲物を肩に担ぎながら、粗末な掘っ立て小屋の扉に手を掛ける男。森の奥にひっそりと建てられたそれの他に家屋はなく、また彼を出迎える人間も小屋の中にはいなかった。
何故、男はこれほどまでに社会から隔絶された生活を送っているのか――
その泉の水を一度飲めば傷が癒え、二度飲めば病が治る――そのように言われていた泉の近くにある村には、大昔から言い伝えられてきた伝承が一つあった。
天に白き竜現れるとき、奇跡の泉に打ち捨てられる赤子あり。その者は神の落とし子である――
過去数百年のうちにおいて、その言い伝えの通りに泉の畔で見つけられた捨て子は数人しかいなかった。
だがその子らのどれもが比類なき才覚を有し、例外なく齢二十となる日に村を出て、前人未到の偉業を成し遂げたとされている。
そしてこの男もその伝承をなぞり、
しかし、彼の人里での生活は、お世辞にもいいものであるとは言えなかった。
赤子なのに泣き声一つあげない異質さ。魔族のように尖った耳。言い伝えがあるとはいえ、前回のそれから150年以上の時が経ち、実際にそれを知る者が誰も居ないという現状。
これら全てが相まって、男に好意的な感情を向ける者はほぼいなかった。神の落とし子ではなく、悪魔の落とし子ではないかと言われるほどに。
物心つく頃までに成長しても、相変わらずの無表情に無感情。名前すらも付けられず、男に対する腫れ物扱いは加速していく。
決定打となったのは、男が十歳のときに起きた出来事だった。
その日、村で魔法使いを志す若者は、近くの森の中で呪文の契約を行っていた。
呪文の名は
若者が契約を終え立ち去った暫し後、その場所に偶然訪れた男は、そのままにされていた契約の魔法陣に何を思ったのか近づき、呪文の契約を行ってしまったのだ。
それだけならまだいい。何か言われる筋合いもないし、そもそもこの事は誰にも知られていなかったのだから。
だが――それだけではなかったのだ。
その夜、寝静まる村人たちの静寂を破ったのは、村に迷い込んだ
普段は見かけないような強大な怪物。何が原因で村に下りてきたのかは不明だが、明らかなのはこの怪物に対抗できる者がいない、という事実のみだった。
当然、村はパニック状態に陥り、住民達は逃げ惑う。しかし、親しくしているものがいない男は、ぽつりとその場に取り残される形になってしまった。
一人残され、子供の身でライオンヘッドと対峙することとなった男。誰もが男が無惨に殺される様を幻視せざるを得なかったが――そうはならなかった。
眼前に迫るライオンヘッドの
「――
放たれた爆裂は閃熱を飲み込み、ライオンヘッドを後ろの木ごと吹き飛ばす。当然だ、呪文の格が違うのだから。
しかし、村人たちは、怪物が居なくなっても、恐怖の視線を向けることをやめなかった。
生命の危機に瀕しても、怪物とはいえ初めて生き物を殺しても目の色一つ変えず、齢10にして何処で覚えたのかも分からない極大呪文を使いこなす――その少年のほうが、村人たちにとっては怪物よりも遥かに恐ろしかった。
ただ、それだけの話だ。
かくして男は村を追放された。それだけ強いなら外でも生きていけるだろう、という大義名分を添えられて。
あてもなく彷徨い続け、男は村から見て泉の反対側の森の中へと辿り着く。そこにあったのは、寂れて今は使われていない狩猟小屋――男の現在の家である――だった。
最低限の生活設備を整え、そこに暮らし始めた男。幸いだったのは、その小屋に初級魔法の契約方法が記された本が置いてあったこと。
極大魔法の件でもそうだったが、この男は、欠いて産まれた人の心を補うように、魔――魔力や呪文に対する才覚が抜群に抜きん出ていた。
そうして彼は、生きる目的もなく、おおよそ10年の間、ただこの森で生きてきていた――
今日も男はいつも通り、何もない生活を送る。
腹を満たし、備え付けられていた粗雑なベッドに横たわる。
もう彼が知る由もないが、今日と言う日が終わるとき、彼は齢20を数える。
窓から見えるはずの月は雲に覆われ、曇天の空模様。それを尻目に目を閉じる男の人生は、この日を境に大きく変わることとなった。
眠りの中に漠然と浮遊していた男の意識が、徐々に覚醒する。
しかし目覚めたそこに広がる風景は、見慣れた小屋の天井ではなく、雲の上のような場所が、際限なく広がっている、不可思議な空間だった。
流石に事態が掴めずに、数秒固まり思案に耽る男。そうしていると突然、透き通ったような声が男の脳内に直接語りかけてきた。
――ここはあなたの夢の中です。精霊の力を借り、天界の秘術を用いてあなたの夢に精神体として入り込んだのですよ。
「……誰だ?」
――私は聖母竜マザードラゴン。神の使いにして……あなたの生みの親です。
「……そうですか」
顔を上げると、そこにいたのは純白の巨竜。男の生みの親を謳うその姿と、男の人間的な風貌からは血縁を感じ取ることは出来ないが、それでも男は目の前の竜が自分の親である、ということを本能で確信していた。
――いつもならこの役割は精霊の方々にやって貰っていたのですが……これは私の不始末。不完全に産んでしまった我が子に酷な使命を告げるため、せめてもの償いとして来たのです。
「使命とは?」
いまいち事の要領が掴めない男に、聖母竜はいつの間にやら男の額に輝く紋章を指差し、告げる。
――あなたは世の均衡を保つ使命を帯びて産まれた粛清者……竜の騎士なのです。あなたの額に輝く紋章こそが何よりの印。
それを聞き、男は己の身体の状態を確かめる。全身から吹き上がるような、極めて強力かつ異質な闘気。そして覚えのない呪文を使えるという感覚。確かにこれは世を平定することもできる力といっても差し支えないものだろう。
そう考えた後、男は逆説的な結論に辿り着く。
「なるほど、つまりこの力をもって粛清しなければならないほどに、世を乱す存在がいると?」
――その通りです。あなたは人心には疎いですが、とても頭がよいのですね。……地上のどこかに潜んでいる魔王。それをあなたには討ってもらいたいのです。
「わかりました」
即答。その重い使命に反比例するような回答の早さに、逆に困惑する聖母竜。
――本当に、いいのですか?私はあなたに恨み言をぶつけられても仕方ないような……そんな仕打ちをしているのですよ?
「構いませんよ、だって――」
――人形は造物主の命令に従うものでしょう?
臆面もなく言い放たれたその言葉からは、人間的な感情というものが一切合切欠落していた。
その瞬間、聖母竜は、自らが息子に与えられなかったものを、明確に悟ってしまった。
そのまま、やりきれないといった様子で、言葉を紡ぐ。
――わかり……ました。あなたの元に必要な物を送ります……最後に、これだけは言わせてください。
――あなたの旅路に、幸福があらんことを。
その言葉を皮切りに、男の視界が光に包まれていく。それが最高潮に達したとき、雷鳴の轟きと共に男は現実へと帰還した。
家の外に出てみれば、少し焼け焦げた地面に突き刺さっている剣――真魔剛竜剣と、その柄に引っ掛けてある
不思議と身に馴染むそれらを手に、男は歩み出す。
男の旅出を祝福するように、先程の雷が切り裂いた雲の裂け目から、朝日が顔を覗かせる。
しかし。
その天の計らいに反するように、男の旅は無情にして凄惨な終わりを迎えることになる。