神殿にたどり着いた夜人――かつての種族名は【忌むべき
彼にとって人間とは母に抗い、怨敵たるエリシアに組して我等と殺し合った存在だ。大した力もないくせに数だけは多い腹立たしい生物だ。
どれだけ殺しても、粉微塵に変えても、超常と呼ばれる龍や使徒が暴れまわる死地で太陽を背に我等に歯向かってきた。
中にはエリシアに寵愛を貰い、神話生物に並んだ者もいたがそれはごく一部の例外。多くは戦場に立ちながら戦わずして余波で死ぬ脆弱な奴等。
そのくせ夜の神たる我が母に敵意を抱き、殺し合いを止めなかった生意気な存在。
人間と我等は到底分かり合える存在では無く、見たら殺し合う仲だった。
村にいる聖女――と母が呼ぶ雌個体――だってどうせ、母の真なる偉大さを理解していないから戯れていられるに違いない。
この威光溢れる神殿や母の本当の力を見れば聖女だろうと絶対に手の平を返すだろう。ヒトとは昔からそういうものだったし、ヤトは今もそう思っている。
だから、ヤトは今まで彼のような人種を見た事は無かった。
「おや、お恥ずかしい所をお見せしました。私、【黒燐教団】王国支部所属、支部長のアルシナシオン・アタッシュマンと申します。どうぞ気軽にアルさんでも、シオンさんとでもお呼びください」
ロングコートを羽織り仮面を付けた男、アルシナシオンは片足を一歩後ろに下げて恭しく礼をした。
完全に瘴気に染まった神殿を目にしても狂うことなく――いや別の意味で狂ってるのかもしれないが――落ち着き払っている。
あろうことか闇そのものであるヤトを見ても、臆することなく挨拶してくる。そんな人種をヤトはいまだかつて見た事が無かった。
……いや、礼儀正しく挨拶されてもさっきの行動は無かったことにならないぞ。
そこと、そこ。床に貴様のよだれが落ちている。拭け!
「本日は突然の来訪失礼しました。ですが、大切なお話が有って参ったのです……!」
目も鼻もない、牙の生えた口だけが大きく描かれた黒い仮面。
足元まで覆い尽くすロングコート。そして肌が一切見えないように漆黒の手袋までしている。唯一見える生身は男の首元と頭髪程度だった。
髪は鈍い灰色。乱雑に切り整えられたそれは肩までかかる程の長さだ。邪魔にならないようにうなじの辺りで適当に縛ってあった。
「でも、それは置いといて……今はこの壁画に描かれた神話のお話をしましょう! 私が特に気になるのは、創成期から夜の神が勢力を伸ばし始める闇の胎動期! ……ここです! 夜の神、第一使徒たる狂い幽天【
シオン――名前が長いのでヤトはこの部分以外忘れた――はカツカツとブーツを鳴らして石畳を歩く。
灯り一つない神殿第一層であるが、彼には全てが見えているような悠然とした歩みだ。
一枚の絵の前で立ち止まってシオンは両手を広げる。
「初魄は最初の戦いを前に夜の神によって生み出された……と言われていた。しかし、この絵画と碑文を読み解く限りそうではないように思える!」
シオンは地面に片膝をついて、碑文をなぞるように指を這わせた。
まるで最愛の女性の肌を触るように愛おしそうに撫でつける。
「『汝…夜天を彩り護るもの……が、統べる刻……』いや、違う。統べるなら……」
ヤトの存在に気づいて挨拶を交わしても、結局、男は変わらず自分一人の世界に居た。
「教示に従い……これも違う。今までのどの解釈とも文法が合わない。なら研究中の
なんどもなんども碑文の解読を試みる男にヤトは侮蔑の眼差しを向けた。
人間風情が無駄な事を。
ここに作った壁画は全て古代神字で作ってある。
世界の創世神話――あれから幾星霜、もはやその文字は歴史から姿を消し、解読できるものなど誰も居ない。
ちなみに仮面の男が読んでいる部分は正しくはこうなる。
汝、夜天を彩り護るもの。
太陽が世界を率ていきければ、闇はまたかごかなり。
かけまくも主のため侍り、祓い、介添えするならば――
「『汝またその身を変えて、夜天の剣とならんことを』……どうです? あってます?」
「……」
挑発的な視線……ではない。
シオンはただ好奇心にあふれた純粋な子供のように声を輝かせて、自分の解釈の正誤を尋ねていた。
ヤトは少し時間をおいて、しぶしぶと頷いた。
「おお……!! ならば、これは新発見ですね! 【
「……」
では、他の使徒は!? 次のこれは!?
シオンの興味は留まるところを知らなかった。むしろ絵画を見るたびドンドン増していく。
100mは有ろうかという第一層の通路を勝手に歩き始めた。その足は徐々に小走りとなって、何時しか駆け足となっていく。
「は……ははははハッハア!! ここは天の国か! 未知の世界がこんなにも私の周りに広がっている! 解いても解いても終わらない歴史の山、神の奇跡が今ここに!」
両手を大きく広げて踊るように一回転。
そして地面に転がって、レリーフが敷き詰められた通路の天蓋に手を伸ばして握り込む。
シオンはまるで眩しいものを浴びたように仮面を両手で押さえてようやく動きを止めた。ただブツブツと何かつぶやいている。
「……」
よし。殺そう。
母の所有物たるこの神殿への無断侵入、壁画への直接接触、そしてあろうことか通路を駆け回るという礼を失する暴挙。
どれをとっても彼を生かしておく理由が無かった。
一撃のもとにシオンを葬り去るため右手の指を伸ばして関節を固定する。ゆっくりとヤトは近づいていった。
「すばらしい、最高だ……。この神殿の主はきっと世界最高の御方なのだ」
よし、もう少し生かしてやろう。
中々分かってる人間じゃないかとヤトは感心した。
「……おや? 貴方は一体?」
シオンの横にヤトが立った時、彼は初めて気が付いたと言わんばかりに声を上げた。
「……」
こいつ……まさかこれまで全部、無意識だったのか。
知識の宝庫に興奮しすぎてヤトに挨拶したのも、壁画の答え合わせをしたのも、全部無意識下だったのか。
「おお! これは失礼、挨拶遅れました。私、【
それはさっき聞いた。潰すぞ人間……!
ヤトは自分の堪忍袋の緒がぶちぶち音を立てているのを自覚した。
「いやぁ、それにしてもこの神殿は最高だ……可能ならば、ぜひ主様にお目通りを願いたいものです。ここに御座す方はきっと神に違いない。そして、許可して頂けるなら、どうか私の崇拝を奉りたく存じます」
うむ。こいつはやはり分かってる。多少頭が弱いようだがその心根は悪くないらしい。
両膝を突いて祈りをささげるシオンを見てヤトは満足げに頷いた。
それにどうやら面白い邪法を収めているようだ。
人間は嫌いだが夜の神寄りの存在であるならばと、ヤトは少しだけシオンへの配慮も考え始めていた。
「それで、この神殿の主様はどちらへ?」
ヤトはどうしたものかと考える。
個人的にはこの男、殺すほど嫌いじゃない。
同じく夜の神を崇拝するモノとして、最下級の尖兵として迎え入れるのも悪くない。だが自分の判断だけで自陣営に迎え入れる訳にはいかない。
ならば、母に再び判断を仰ぐ必要が有りそうだ。
ヤトはなんとかそれをシオンへ伝えようとするが……やっぱりヤトは喋れない。
どうしたもの。ヤトは頭を悩ませた。
▼
神殿の入り口に戻ってきた二人。
ヤトは巨大な石材から手早く石板を削りだすと、そこに文字を書き綴って差し出した。
「おや……うーむ、しばしお待ちを。『汝、人間として道を歩む者……』? いや、歩むなら……違うか」
違う。
「お前、人間を止める気は無いか?」と書いたのだ。
その程度わかれ! ヤトは怒った様子で石版をバンバンと叩いた。
「や、や! 申し訳ない! もう一回いきますね……汝、人間を止めろ。さすれば……ううむ、文章が終わった。意味も中途半端だし、なんか違う気がしますね」
石板に古代神字を刻み、意思疎通を図ろうと挑戦中。
すごい。この男さっきの超人的翻訳能力を失っていやがる。どうやら壁画の翻訳は一種のトランス状態だったからできたのかもしれない。
ヤトは頭を抱えた。
「ぁ…あ゛……お゛」
「おや、貴方喋れるので?」
なんとか言葉をひり出そうと無理をする。
でも夜人の体に声帯が無いから、無理なモノは無理だった。
「……」
「おっと諦めた様子」
ヤトは考える。少し頑張って【変化】するべきか。それなら会話も自由だ。
もう再誕直後では無いし、力も少しだけ戻ってきた今なら短時間ぐらい……。
そして即座に却下。
なんでコイツの為に俺が変化しなきゃならんのだ。
そもそも、自分の変化を最初に見せるのは母相手じゃなきゃイヤだ。ふざけんな馬鹿! ヤトは怒って石版をばしばし叩いた。
「も、申し訳ないです!」
シオンは理由もわからず、困ったように頭をぺこぺこと下げる。
こうなれば最終手段。失敗すればこの男が廃人になるが……まあいっか。
ヤトは自分の指をシオンの頭に突き入れた。仮面の男が反射的にその腕を掴んで抵抗するが、無理やり押し込んで脳まで到達させる。
「が……!」
そして自分の知識、感情、意志を流し込む。
知識の全てを流すことはしない。数千年以上に渡って蓄積されたそれをただの人間に押し込めば、物理的に頭が破裂する事も多いのだ。
「ひ、ぎぃ……あぁ!!」
激痛に継ぐ激痛。視界が真っ赤に染まって、世界の上下も分からなくなっているだろう。
無理やり刷り込まれた知識は脳に焼き付くことで意味を成す。肉体的に最大級の痛みが発生するため、無理に耐えようとすれば魂にも罅が入る。大の大人だって数秒も耐えられない苦行のはず。
ところがシオンは全身を震わせながら嬉しそうに悶えていた。
「あぁあ! これが、これが神代の時代! 世界はこんなにも澄んでいた! 夜空に浮かんでいるのが神の姿、ぁ……ぁ? 少女……少女だこれ!」
なんだコイツ、気持ち悪。
どうして激痛に喜んでるんだ? 理解できん。
ヤトはもういいかなと指を引き抜こうとした。
しかしそれをシオンが止めた。
最初は抵抗するために掴んだ腕で、ヤトの指を無理やりもっと奥深くまで押し込もうとしている。
「も、もう少し! もう少しだけやりましょう! ハボクックの氷鱗が美しいぃいい、【
……キモイ!! 凄いキモイ! 名前を呼ぶな!
ヤトはもう我慢できんとばかりに、慌てて指を引き抜いた。
「あギャぃ!?」
邪法を強引に中断したから、ちょっと脳髄液も飛び出た気がした。
……まあ大きな影響はないだろう。
シオンは地面で元気にビクビクしてるし、たぶん大丈夫。生きてる生きてる。
ヤトが彼に送り込んだ情報は三点。
一つ、これから村で朝を迎えるだろう母を明夜までしっかり護る事。
一つ、きちんと自己紹介して母に気に入られること。
一つ、それ等を試練として、こちらは仲間に迎え入れる事を検討すること。
なんと簡単な試練か。
たったこれだけの事をこなせば栄えある闇の陣営に迎え入れられる……かもしれない。少しサービスが過ぎたかもしれないとヤトはちょっと反省。
「ひ、ひひ……ひゃ」
地面に寝そべって悶えているシオン。
……なんだか他にも知識や感情を覗き見された気がする。
あと術式を強制終了したから伝達に齟齬が起きた可能性もあるが……まあいいか。
ヤトにとってまだ仲間でもない人間の安否なんか知った事ではない。
たとえこいつが驚くほど無能でも、母の護衛は自分たちも裏でキッチリ行う予定だ。無論、試練にならないので、可能な限り手は出さないが護衛失敗はあり得ない。
さて、明日になれば新しい同胞は増えるだろうか?
ヤトは死体のような男を見下ろして楽し気に嗤っていた。
▼
翌日。イナル村は昼間から喧噪に包まれた。
ディアナ司祭やレイト隊長、村の駐屯兵が囲むなか仮面をつけた男が高らかに宣言する。
「みなさん初めまして。黒燐教団評議会の一人【純潔】と申します。今日は神の使徒たるジュウゴ様をお迎えに参りました。これから死ぬ皆様にもぜひ、お見知り置きを……!」
恭しく一礼した仮面の男――アルシナシオン・アタッシュマンは村人への殺意に全身を昂らせていた。
一方話題の中心たる重吾はポカンとしている!