コミュ障TS転生少女の千夜物語   作:テチス

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目と目が合う時

 

 

 元々、スラムの住民は不満をため込んでいた。

 

 何時になってもありつけない仕事と全く足りない領主の援助。

 どれだけ頑張っても一向に楽にならない生活は日々の食料にすら事欠く始末だ。

 

 先々代国王の時代に行われた奴隷解放により、王国は帝国とは違い自由である事を謳っていた。

 市民階級に限らず移住の制限はなく、就職の制限も、結婚の制限もない。

 

 平民にも開かれた明るいアルマロス王国。

 

 だが、その実態は昔となんら変わっていない。

 奴隷は特殊就業労働者と名前を変え存続し、学の無い農民が別の仕事に付ける事はまずない。

 

 夢想家が謳う自由に騙され、夢見て大都市にやってきた移住者の多くはスラムで雨風すらしのげないあばら家に住んで薄皮と骨だけとなって死んでいく。

 生と死の狭間で自然の脅威におびえながら生きていくのが嫌で村を出た男も、玉の輿に乗るんだと意気込んでやって来た女も変わらない。

 

 朝が来るたびに隣の誰かが命を零し落としゆく毎日に彼らは打ちひしがれていた。

 しかし、スラムの住民が請願しても行政に声が届くことはない。

 

 スラムとは領主にとって邪魔なだけの存在だった。

 納税することなく、犯罪の温床となり、悪臭すら放つスラム。しかも、何度排除しても貧困層はどこからか湧いて出てくる。

 

 平民が真に求める平等と自由など統治にとって邪魔でしかない。

 領主はスラムの存在を無い物として扱っていた。

 命の価値が低いこの世界で、公助の概念はあれど役に立たない者に費やすものは何もない。

 

 領主にとって領民とは税を納める人間を指す。

 街のキャパシティーを超えて流入するスラムの貧困層は何の役にも立たず、金を喰う害虫に等しい存在だった。

 

 唯一行政がスラムに対して行っていることと言えば死体を片付ける事だけ。

 それだけは疫病に繋がるため領主も気を使っていた。

 

 国是であるように街に来るのは自由だ。

 だが、自由には責任が付きまとうなどと嘯いて行政は何もしない。

 

 飢餓で死ぬなら死ねばいい。

 追い詰められて暴走するなら、それも構わない。

 その時は皆殺しにするだけだと領主は暗に態度で示していた。

 

 だから、今回の暴動は起こるべくして起こった事だった。

 

 彼等は虎視眈々と自分たちの地位向上を狙っていた。

 懇願で動かないなら、武力でもって自分たちを救わせる。

 

 スラムの住民だって生きるのに必死なのだ。

 これは暴動ではない。

 スラムの住民たった数百人の革命なのだ。

 

 別に日食でなくとも何かの切っ掛けが有れば、必ず暴発していただろう。

 今回は王国軍の留守と日食に混乱する市政でタイミングがよかったのだ。

 

 昼間は一度説得に応じた振りをしていたようだが……夜になって裏をかくように行動に出た。ただそれだけの事。

 だから、この革命の勃発自体になんら不思議な事はない。

 

 だが――

 

 

 

「こ、黒燐教団だと……!?」

 

 アルマージュ領主軍、総隊長たるイーバスは息をのんだ。

 

 スラムの暴徒数百人を前に布陣した領主軍の前に突如、降り立った男の言葉。

 黒燐教団を名乗り上げるという意味。

 それは、世界を敵に回すという事だ。

 

 ロングコートを羽織った仮面男の鈍い銀髪が炎に照らされて怪しく輝く。

 

「ええ、この間は王国にお世話になりました。今日はそのお礼に参った次第」

「この間……?」

 

 イーバスは先日起こったイナル村の事件を思い出す。

 

 たしか村から黒燐教団を名乗る者と戦闘があったと報告が上がっていた。

 

 だが、簡単な調査を行っても村に戦闘痕は無し。被害者なし、容疑者も既に逃走済み。

 何一つ証拠が存在しない事件に、王国上層部は黒燐教団の復活を眉唾物として扱っていた。

 

 たまに居るのだ。

 黒燐教団を騙り、悪事をなす馬鹿な輩が何時の時代も十数人は現れる。

 ネームバリューが強すぎることで脅し文句として使いやすいのだろう。だが、その実態は中途半端なチンピラが恐喝に用いたりする程度であることが多い。

 

 村から黒燐教団の復活に伴う深淵の森の調査も請願されていたが、真偽も定かでないことを戦争前夜にしている余裕は無かった。

 

 そんな後回し後回しとされていた一件だったが、仮面男の姿を見てイーバスは確信する。

 

「ほ、本当だったのか……! 黒燐教団の復活!」

 

 見る者の精神を蝕むような、牙の生えた巨大な口だけが描かれた黒い仮面。

 手袋で指先まで覆い尽くした肌の露出が一切ない怪しすぎる風貌。目の前の男から感じる異様な気配は、只者ではなかった。

 

 イーバスは緊張をあらわに声を張り上げる。

 

「その怪しすぎる身なり! お前が黒燐教団の【純潔】か。まさか、本当に存在したとはな!」

 

「おやおや、私も有名になったものですねぇ。無様に掌で転がってくれる南都の方々にも楽しませて頂き、いや、いい気分です」

 

 かつて王都の軍学校で習った歴史を思い出す。

 

 ――――黒燐教団(ブラック・ポースポロス)

 僅か千人に満たない人数で当時の最大国家を滅ぼした闇の組織。

 一人ひとりが熟達した魔法の使い手であり、エリシア聖教の高位聖職者でも手を焼いたという。

 

 教団を導くのは二つ名を持つ7人の大幹部だ。

 節制、慈善、忍耐、勤勉、感謝、謙虚。

 敢えて見栄えのいい言葉を並べるのは彼らなりの皮肉なのだろう。だがその力は当時の枢機卿にすら匹敵したという。

 

 そして幹部最後の一人が【純潔】。

 目の前に立つ仮面の男が名乗った、二つ名だった。

 

「イナル村の次は南都が目標か……? 狙いはなんだ? ここにいる教団幹部はお前だけか?」

 

 イーバスは薄汗をかきながら仮面男に問いかけた。

 バレないよう隣に立つ副長に目配せする。小さな頷きが返ってきた。

 

「ふーむ、質問ばかりですが――」

 

 問いに答えようとした仮面男の隙を突くように、イーバスは腕を振り上げた。

 

「ほざけ! わざわざ出てきたのが悪手だったな! 撃てぇ!」

 

 ここで逃がすわけにはいかない。相手のペースに巻き込まれるのは最悪だ。

 イーバスは無駄な論戦を打ち切り、副長に命令を飛ばす。

 

 イーバスは彼我の実力差を漠然と分かっていた。

 世界史に名を遺す存在を相手に立ち向かうのは、たかだか一地方都市の兵隊長だ。

 不意打ちでも奇襲でもなんでも使う。この奇襲はイーバスがコイツを殺しに行くという狼煙だった。

 

 それに応えるように副長が瞬時に弓を構え上げ、矢を放った。

 

 距離にしてわずか30m程度。

 こんな短距離、副長の腕前を以てすれば外す方が難しい。

 

 仮面の男【純潔】に向かって飛ぶ矢は甲高い風切り音を立てながら、一秒と掛からずその目前まで到達して――

 

「あぎぃ!?」

 

 仮面男を庇う暴徒を撃ち抜いた。

 

「おや、おやおや? ありがとうございます。これはどうも、助けて頂いたようで」

「な!? なぜそんな怪しい男を庇う!?」

 

 イーバスは暴徒の行動が信じられなかった。

 その男はこちらが弓を構えると同時に走り出して、仮面男を庇うように飛び出していた。

 

 スラムに住む貧民層の奴らなど、自分の利益を最優先に考えて行動するようなやつばかりだ。

 

 今回の革命だってこのまま過ごせば緩慢な死しかなかったから起こしただけ。

 決して国民の平等だの、富の再分配だの、そんな崇高な理由はない。すべて生きるための行動なのだ。

 だから自分の命を投げうって誰かを庇うなど、あり得ない。

 それこそ、脅しや洗脳などなければ……。

 

「貴様!? まさか!」

 

 イーバスは思い至る。

 教団が暴動を扇動したという言葉。

 あれはスラムの不満を煽ったという意味と受け取っていたが……文字通り、教団はスラムの住民を洗脳して暴動を起こさせたのだ。

 

「おや? 気付きましたか。そう……実はこの人々、反逆者じゃあないんですよ」

 

 ざわりと、領主軍と暴徒の両方からざわめきが上がった。

 

「いやはや便利なモノです。領主に嫌われ、領民に蔑まれる。居場所のない人間ほど脆いものはない」

 

 仮面男は己を庇った男から矢を引き抜いた。

 溢れ出す血を押しとどめる様に優し気な手つきで傷口を撫でつける。

 

「人の感情はコップのようなもの。周囲から好感情が注がれれば、とても美しい色を見せてくれるでしょう。だが、悪意がとめどなく注ぎ込まれれば、何時しかコップは汚れきる。もう何を注いでも穢れた悪意に変わり、いつしか溢れ出て周囲まで汚染するでしょう」

 

 仮面男が暴徒の矢傷から手を離すとそこには黒い靄が蠢いていた。

 黒い靄は意思があるように動き出すと男の口や耳、穴という穴から体内へと入り込んでいく。

 

 気を失っていた男の体がビクンと大きく跳ねあがった。

 男は機械仕掛けの人形の様に手足を震わせながら立ち上がる。

 

「私はそれをちょいと溢れ出すようにお手伝いしたに過ぎません。憎く憎くて殺意に至る。滅する事なき憎悪の連鎖。ああ、なんと悲しい人の性」

 

「な、なんだよあれ!? アイツなんか、やばいって!」

 

 立ち上がった男の目に光は無く、焦点が合っていない。

 重心が安定しない男の立ち姿は不気味な軟体生物を想像させる。

 

 常軌を逸した光景に嫌な予感を覚えた暴徒の幾人かが逃げだそうとしたが、それを仮面男は制止する。

 

「まあまあ、そんなに焦らずともいいでしょう? 第1節【漆桶(しっつう)幽かな虚之影(うろのかげ)】」

 

 あちこちの物陰から人型の小さな靄が湧き出てきた。

 炎の明かりに照らされて血のように赤黒く染まるバケモノたちは、悲鳴を上げる暴徒たちを逃がさないように戦場に閉じ込めた。

 無理やり突破しようとするものは殴り飛ばされて、無理やり列に戻される。

 

 仮面男はようやく落ち着いた――というよりも無理やり抑制した――暴徒たちの姿を見ると、道を譲る様に移動する。

 

「それでは続きと行きましょう。どうぞ始めてください暴徒の皆さん。楽しい革命のお時間です」

 

 だが、動く者はだれもいない。

 当然だ。今この場はたった一人の男に支配されていた。

 

 暴徒たちは戦意など既に消失し、恐怖で染まった瞳で兵士に助けを求めていた。

 

「……ふむ。覚悟が足りませんか? 自分で動けませんか? では、お手伝いしましょう」

 

 パチンッ――。

 そんな指の音が響く。

 

 同時に暴徒の幾人かに黒い靄が取り付いた。

 止めろと叫ぶ男たちに構わず、靄は口や鼻から体内に入り込んでいく。

 

 なんとか防ごうと指で掴むが靄は不定形で抗えない。

 ごぼごぼと溺死するんじゃないかと思うほど男たちはむせ込み……静かになった。

 

「第1節【惑乱せしめる夜の凶】」

 

 仮面男がなにか呪文を呟くと突如、暴徒たちが走り出した。

 イーバスたち兵士に向かって目を見開きながら向かってくる。

 

「な、なんだ!?」

 

 暴徒の手には石。

 向けられた明らかな殺意に兵士が体をこわばらせた。

 

 部下が慌てたように剣を振りかぶるが、イーバスは制する。

 

「ッ! 殺すな!」

 

 本来、暴動を起こした人間の末路は死刑しかない。その場で殺されても普通のことだ。

 

 イーバスは今回の事件では一人残らずその道を辿らせる予定だった……が、操られていたとなると話は別だ。

 スラムの人間といえども同じ王国民だ。

 反逆者でなく、黒燐教団に操られていた人々を殺せる程、イーバスは冷徹になれなかった。

 

「あぁ゛あ゛あ!!」

「っく! でも、こいつ等、なんか力まで強いですよ!?」

 

 突撃してきたのは僅か3人の洗脳者だ。

 それに倍以上で相対する兵士だが、上手く押さえつける事が出来ない。

 

 洗脳者は敵味方の区別なく、ただ乱雑に手足を振り乱す。

 

 自分を顧みず全力で暴れ回る人間は早々に抑えられるものではない。

 ましてや今の暴徒は闇の力が与えられているのだから、その力は相当のものだ。

 

 無論、制御できない力はその体を代償とする。

 洗脳者の拳は兵士の鎧に当たるたび骨の砕ける音と血潮が噴き出ていた。

 

 なんとか止めようと苦戦する兵士を見て、シオンはつまらなそうな声で言い放つ。

 

「殺せばいいのではないですか? だって貴方たち、最初からそれが目的だったのでしょう?」

「き、貴様……!」

 

「ふむ、では追加を贈りましょう。どうぞ、まだ舞踏は始まったばかりですよ!」

 

 仮面男はまるで指揮者のように腕を振り上げた。

 

 それに呼応して暴徒達が次々動き出す。

 

「ぁああああ!!」

 

 正気とは思えない血走った瞳だ。口元からは大量のよだれが垂れている。

 不器用に手足を振り回しながら走る姿はさながら、精巧なマリオネットのようだった。

 

 人を人と思わない悪鬼の所業。

 他者の尊厳や意志を闇で塗り潰して、己の手駒と変える悪魔の御業。

 

 イーバスは吼えた。

 

「仮面野郎、あいつを殺せぇええ!!」

 

 だが、その声は哀れな暴徒たちの呻き声に掻き消されていく。

 

 

 

 

 

 

 なんだぁ、これはぁ……。

 

 シオンが突然、黒燐教団を名乗り上げて兵士に喧嘩を売ったと思ったら、乱戦始めたんですがぁ……?

 しかも傍目に見る限り、暴徒もおかしくなってる。

 

 まさかシオンってヤバイやつ?

 

 ――――と、普通なら感じるんだろう。

 何も知らない現場の兵士とか、この光景だけ見ている人なら、そう思うのも不思議ではない。

 

 でも俺は分かってる。

 最初こそ驚いたが、すぐに彼の真意に気が付いた。

 

「あいつの本職は劇団員か何か? 悪役の演技が上手すぎる」

 

 黒燐教団とは既に滅んだ存在だ。

 しかし、全く関係ないシオンがそれを名乗り上げることで、この暴動の責任をそこに押し付けた。

 

 しかも暴動を起こした人の罪すらも、教団に洗脳されていた――というか現在、シオンがしている――という事でもみ消そうとしている。

 

 更に、暴動が起きた原因である日食も、きっと黒燐教団が責任を引き受けてくれる。

 

 更に更に、この街の兵士たちの能力も実戦でしっかり俺に見せてくる。

 

「……天才か」

 

 たった一つの作戦で俺の希望をすべて叶えるという偉業。

 シオンの愛と、自分を顧みない自己犠牲溢れる行動に感動する。

 

 そう――自己犠牲だ。

 

 この作戦には一つだけ穴がある。

 黒燐教団を騙ったシオンが最悪の犯罪者になるという大きすぎる穴。

 

 俺の我儘が、彼にこんな決断をさせてしまったのだ。

 

「……ヤト。命令の追加。優先守護対象にシオンも入れてあげて」

「!?」

 

 後ろに現れたヤトが驚愕している。

 え、まじ? なんで!? という感じで再確認されるが、マジだよ。

 

 俺は彼ほど他者愛に富んだ人を見た事ない。

 

 常々言っていた彼の【愛】に嘘は無かったのだ!

 やっぱり闇魔法を使う人にも良い人はいるのだ!

 

「なら、私も覚悟を決める……!」

 

 眼下の戦いは次のステージに移っていた。

 最初は優位に立っていた暴徒たちだったが、現在は劣勢となっている。

 

 兵士たちのほうに援軍が来たのだ。

 白地に黄色い装飾の入った祭服を着た、シルクハットとステッキ、細長いカイゼル髭が特徴の男。

 

「エクセレントォ! 覚悟したまえよ、黒燐教団! 吾輩が来たからにはもう安心だ!」

 

 お前どこの絵本から飛び出してきた紳士だと言いたい格好をしているが、おそらくアレが話に聞いていたこの都市におけるエリシア聖教の最高責任者ムッシュ・マンカインド司教だろう。

 

 正義を貴び、秩序を重んじる聖教会の人間。聖女さん直属の上司さん。

 

 彼と、彼の部下だろう人達が呪文を唱えるたびに、空からスポットライトのように淡い光が降り注ぐ。

 

 浄化の光だろうか。

 それを浴びた暴徒たちが次々と倒れていく。

 

「まずい……シオンが不利になるようなら、私達も参戦する」

 

 演技が得意な一般おっさんである――というには、兵士相手に無双気味だった気がするけど、聖職者が来た途端に瓦解したからやっぱ強くない――シオンに任せきりにはできない。

 

 事ここにきて、隠密行動だなんだと言っていられない。

 シオンを見捨てて逃げるなんて選択肢は存在しない。

 

 そんな決意を感じ取ったのか夜人達が次々と集まってきた。

 俺の影を出入り口に10人、30人と増加していく。

 

「ヤト、佳宵。戦闘準備。合図したら出る」

 

 敢えて身を晒す様に屋根の上で三人並び立つ。

 こちらに気を取られてくれるならシオンも逃げやすいだろう。

 

 俺は精一杯の気合を込めて敵司教を睨みつけた。

 

 

 

 

 

 

「剣を仕舞え! 決してスラムの人間を傷つけるな! 司教様が動くぞ!」

「アクチュアァァアル! 吾輩に任せ給え! Priest【Purification light/浄化の光】!」

 

 司教の呪文と共に暖かい光が幾筋も空から降り注いだ。

 洗脳された群衆に当たるたびに口から靄を吐き出して崩れ落ちていく。

 

「おぉお! さすが司教様だ! お前ら、今の内に被害者を後ろに下げろ!」

 

 隊長のイーバスが嬉しそうな声で、被害者たるスラムの住民を避難させ始めた。

 

 なんせ相手はどれだけ浄化させても、倒れた人間を乗り越える様に奥から奥から向かってくる津波のような群衆だ。

 浄化だけして放置すれば地に伏せた人の圧死は免れない。

 

 仮面の男がリズムを刻むように指揮を執るたびに、群衆が右から左から走り込んできた。

 

「急げ急げ! 1から3番隊、盾構え! 押し返せ! それ以外の隊は空いたところから要救助者を引っ張り上げろ!」

 

「吾輩たちは浄化継続! 総員、勇敢な戦士を補助したまえよ!」

 

 【純潔】の指揮する洗脳者にまともな知能は無いようだ。

 恐怖など感じず、違和感など覚えず、待ち構えている浄化光に自ら無謀な突撃を繰り返す。

 

 ムッシュ司教はその光景を見て不信感を抱いた。

 

(簡単すぎるのではないかね? これが歴史に残る黒燐教団の評議会だというのか?)

 

 仮面男に注視する。

 

 まさか、これで終わりではあるまい。

 拭いきれぬ不信感でムッシュは問いかける。

 

「それで、私も聞きたいのだがね、君の目的は何だったかな?」

 

 相手は歴史書でしか見た事ない闇の魔法を自在に操る教団幹部だ。

 どれだけ悪辣で醜悪な行動にでるか予測は一切立たない。

 

 ムッシュは内心の緊張を押し隠して、余裕を見せつける様に自慢のカイゼル髭を引っ張った。出来るだけ嫌らしく、高慢な態度で挑発する。

 

「どうやら、キミらの実力は所詮、歴史に誇張された虚栄であった様子。いいのかね、このままでは我等の完勝となりそうだ」

 

 夢中で暴徒を操っていた仮面男がハッとするように動きを止めた。

 考え込むように沈黙すると、突如全力で悔しがった。

 

「っく、まさかムッシュ司教の力がこれ程でしたとは……! 仕方ありません、ここは逃げの一手を打たせてもらいましょう!」

 

 挑発に乗って単調な攻撃思考になってくれれば良し。

 そう思って声を掛けたのに、なぜか相手は役目は終わったと言わんばかりに逃走を始めた。

 

 三文芝居を思わせる捨て台詞にムッシュ司教は呆気にとられた。

 

「ど、どこへ行くというのかね!?」

 

 思わず追撃の魔法を唱える。

 仮面男は背後からの攻撃をなんなく躱すと、なぜか恐れおののいた。

 

「あ、危ない! っく、なんという速さと威力の魔法だ。これに当たれば一撃で死んでしまう! 悔しいですが、逃げるしかありませんねぇ!」

 

「ま、待ちたまえ! ストォオオップ!」

 

 これはバカにされているのだろうか?

 【純潔】とは黒燐教団を操る最高幹部、評議会の一席の名前だ。

 

 ムッシュとて負けるつもりは無いが、易々と勝てる相手とは思っていない。

 

 恐らく相手はまだ実力の半分も出していない。

 ましてや夜間戦闘により弱まった聖魔法の一撃で死ぬはずがない。

 

 何かの作戦か?

 

 そう考えた時、ムッシュ司教は視線を感じ取った。

 

 夜の闇に紛れて、遠くの建物から戦場を伺っている存在。

 女だ。ぴっちりした黒衣に身を包んだ長身の女性が目に映る。

 

「――なッ!」

 

 ぶわっと、全身の汗が噴き出した。

 

 目に入ったのは、女だけではない。

 その周囲に展開するバケモノの存在も同時に把握する。

 一匹一匹が歴戦の強者に匹敵するような圧倒的闇の暴虐の気配だ。

 

 およそ30匹。

 都合数十の瞳に射抜かれたように見つめられ、ムッシュは【純潔】との戦闘すら忘れて全身が凍り付いた。

 

「な、なにもの……?」

 

 ムッシュは仮面越しに女と数秒見つめ合う。

 その時、純潔の感情を押し殺したような小さな声が聞こえた。

 

「だれを、見ているんですか?」

 

 首元に濃密な殺意を感じて慌てて回避する。

 その瞬間、つい先ほどまで自分の首があった場所を影の刃が通り抜けていった。

 

「――っく、避けられましたか! 私の精一杯の抵抗がー! うわー!」

 

 なにやら軽い言葉が聞こえてきたが、ムッシュ司教はそれどころではない。

 

 湧きあがる危惧と畏れで荒くなった呼吸を繰り返す。

 もはや暴徒や洗脳者、教団幹部すらも些細な存在に感じられた。

 

 女を見つけたあの瞬間、ムッシュは心臓を突き刺されたような衝撃と恐怖を覚えた。

 しかし魅入られたかのように目が離せなくなっていた。

 

 もう一度、確認しようと女が立っていた場所に目を移すが、そこにはもう誰も居なかった。

 

「み、見間違い……そんな筈はない!」

 

 見失った事に安堵してしまう自分がいる事をムッシュは感じた。

 

 絶対にアレと戦ってはいけない。

 もし逆らってしまえば、楽に死ねるとは思えない。永劫の責苦に魂が消滅するまで苦しまされ、死を願うことになるだろう。

 

 あの女は埒外の存在であり、神に連なる者なのだ。

 そんな根拠のない想像がムッシュの頭をよぎる。

 

「――ハァッ、はぁはぁ……!」

 

 神に連なるもの?

 冷静に考えればそんなもの在り得ない。

 

 だが、女の気配を思い出しただけで恐怖に足が震えた。

 今すぐ逃げろと叫ぶ生存本能に心臓が痛いほど拍動する。

 

 姿を消した【純潔】を追う事すら忘れて、無意識の内にムッシュは逃げる様に後ずさってしまう。

 

「吾輩が、逃げる……!? 悪を前に!?」

 

 あり得ない。

 この道の先に倒すべき悪がいる。

 

 罪無き人々洗脳して国家に反逆せしめた罪人だ。

 輝かしい光に逆らい、暗澹たる闇を使役する大罪人だ。

 

 それを倒すのが正義たる聖職者の役目なのだ。

 

「……ぐぅうう!」

 

 分かっている。分かっているのだ。

 目の前にある道を進まねば、もう自分は正義でいられない。

 悪を前に逃げるなんて許されない。進むしか道はない。

 

 しかし、その一歩が出てこない。

 

 唇を血が出るほど噛み締めて、自分の正義を思い出そうと頭を振る。

 だけどそのたびに脳裏に女の姿がちらついた。

 

 もしかしたら【純潔】を追えば、あの存在が目の前に現れるかもしれない。

 罠にかかった自分は塵芥の様に殺されて終わりかもしれない。

 

 吹き飛ぶ手足と光を失った自分の瞳を空想する。 

 

 そう思ってしまったらもう駄目だった。

 ムッシュは顔中から汗を吹き出しながら崩れ落ちた。

 

「正義……正義なのだ、吾輩が……」

 

 自分が正しい。

 聖教は常に救いを齎してきた。

 

 ならばきっと神も決して己を見捨てない。

 

「吾輩が……吾輩を……!」

 

 だから頼みます。

 神よどうか、私にもどうか救いの手を……! 

 

 もはやムッシュに立ち上がるだけの気概は無かった。

 この時、彼は聖職者として死んだのだ。

 

 神に縋るだけのか弱い存在が一人、路地裏に残されていた。

 

 

 





 ヨルンちゃん の 睨みつける!

 ムッシュ司教は めのまえ が まっくらになった!

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