イデア・シュラウドの
「魂の形が映る鏡?」
「実際に見えるものは違うそうですが、はい。そう呼ばれております」
彼女の補足に、イデアは首を傾げた。本当の魂ではなく、しかしそう誤認されるものが映る鏡。輝石の国の比較的新しい(といってももう何代もの付き合いになるが)取引先が手に入れたのだという。
「じゃあ何が……」
「守護霊、魔法の源泉、こころの形。そういったものが」
滑らかな現代共通語で彼女は答える。これだって教育の一環だ。まだ咄嗟には冥府語が出るイデアに合わせて、彼女自身魔力言語の方が本来なのに。計算、現代共通語とその識字、魔力波形の筆記法(茨の谷式標準)、世界の地理と簡単な歴史。五百年前から度々
「心の、形……」
興味があれば是非、という伝言がイデアの心に今更寄ってくる。見てみたいような、見たくもないような。自分の本質というものが、この燃える髪よりは少しでも綺麗なものだと、先の十二月に八つになったイデア・シュラウドはまだ信じていたかった。そうでなかった時の失望が、イデアは今から恐ろしい。
壁の高いところに飾られた肖像画。頭上から広間を照らす
「オルトも来れればよかったのに……比較対象が居ないのに見てもなあ」
胸元あたりまで伸びた髪を弄りながら所在なさげにするイデアを鏡の持ち主である主催者に預けて、父は会場へ戻っていった。炎でなくても結べないくらいのその髪を、羨ましく思う日がないではなかった。ひとと同じくらいの、魔法士としては飛び抜けたものではない、その魔力の量を。イデアや、あるいは体の弱いオルト・シュラウドのようには、自分の命の心配をしなくてもいいことを。
お世辞にも愛想がいいとは言えないイデアのことを、それでもなんとかしてもてなそうと話しかけるのは、どうだろう、イデアが客人だからだろうか、イデアが
例の鏡は「ヴェリタスの魂鏡」と呼ばれるふるい魔道具で、元は輝石の国の南部(当時は輝石の国ではなかった)の王室の至宝だったとも言われるものだという。稼働のための魔力を溜め込んでいる様子もなく動いている理由も判明していない、それは真正の古代魔法具だ。闇の鏡や輝きの冠、あるいは熱砂の飛翔絨毯のような、本物。それが本当ならイデアのような子供においそれと見せていいものではないのでは、とも思ったけれど、正面からそう聞けるだけの勇気がイデアにはなかった。
美しく磨かれた姿見が一つだけ置かれたそこは、がらんとしていた。決して広くはない部屋だったが、そこには魂鏡の他にはテーブル一つ、椅子一脚ない。謳われる効果ほどの魔力を感じないそれに、一周回って空恐ろしいものを感じながら近づいた。館の主人は、まだ八つの子供であるのなら目を奪われるのも仕方ないとして、そのことに何も言わなかった。
初めは、イデアの小さな姿だけが映っていた。魂が見えると評判の魔法の鏡だけあって、背後の壁紙も天井とそこに据え付けられた照明も、魂持たぬ物はなにも映っていない。その代わり、あたりを漂いイデアの髪から冥界へ渡ろうとする
鏡まで、イデアの身長くらいの距離まで近づいた時だった。
「あ、」
炎、が。鏡に映った虚像でさえあまりに圧倒的で支配的な青の炎。イデアの小さな身の丈はおろか、三メートルの天井さえ窮屈そうな巨大な青炎が、ゆるゆると収束して形を取る。
このひとを知っている。このかみさまを、イデアは知っている。
「はです、さま」
青く静かに燃える炎の髪。死人よりも青いひとならぬ肌とくちびる。黄金の色をした目。黒紫と濃灰の、イデアの故郷の衣装。死者の国の王。冥府たる方。悲嘆の王ハデス。
迷い込んだ地下の先で出会った、この青い炎の大元。
誓って言うが、イデア・シュラウドは死者の国の王を嫌っているわけではない。勤勉に
ただ、その全てが、この胸の内の尊敬の心でさえ、なんだか信用できなくなってしまった。イデアの心の一番奥のところに、あの悲しみの大王が座しているのだとして、どうしてそれが糸杉の血の所以でないなどと言えるだろう。
頑なにハデスの求婚を拒んでいた
「……オルトが来なくてよかった」
無意識のうちに。安堵の息を吐いていた。シュラウドが皆そうなのか、それとも冥界へ幾度も迷い込むようなイデアだからそうなのか、確かめられないことに。自分一人だけしか見ていないから、答え合わせをせずに済んだことに。
顔を上げれば、鏡の奥の王は変わらぬ表情でイデアのことを見ていた。真面目で、しかし時折力及ばぬことのある
イデアの、余人よりもずっと優れた脳の中身すら、見透かされているようだった。正真正銘の神格存在であれば当然だけれど(イデアだってあの数の魂の処理は無理だ。自動化しているとはいえハード部分は死者の国の王の脳に頼り切りとか正気とは思えない)。
このままではいけない、と薄ら思う。
何か大きなものに飲み込まれそうになっている。地下の深くの青炎か、でなければ鏡を抜けた先の世界に。どこか遠く、オーバーブロットの向こう側に。
滅多に発動するものでもないのだとは思う。これはただの事故だ。「魂を映す」鏡、自分の「
今更の警告と後悔が表面をつらつらと流れていく思考を、唇を噛んでリセット。青く燃える炎と金色の目とに呑まれそうになりながら、鏡のこちら側へ戻ってこられるような確かなものを探す。できれば、何か、地上の──そうだ、オルト。イデアよりもなお小さな、あの弟。
彼にまだ死んでほしくないという思いだけは、きっと本物だ。オルト・シュラウドが病気とか魔力特性とか、そういうものに負けずに、この地上でイデアと一緒に過ごしてほしいという願いだけはきっと、イデアのものだ。それだけは金の瞳も炎の髪も関係のない、イデアだけのものだった。
途端にすっきりとした思考に、先ほどまでの自分がどれだけ自由を失っていたのかを自覚して背筋が凍る。鏡から視線を逸らして、瞬きさえ忘れて乾いた目を癒やすために何度も瞼を上下させ、そして安堵の息を吐いてからようやく、呼吸が止まっていたことに気がついた。
屋敷の主人に礼を言って部屋を出る時には、視界の端をよぎった鏡の中で遙かな祖先が、今度は苦笑しているような気がした。