「こんにちは、比企谷くん」
「おす」
「あいさつもろくにできないのかしら?」
「……こんにちは」
このようなことも一々指摘しなければならないのかしら。
「それより、どうしたの。 表情が良くないんだけど」
「別に、何でもない」
「ふむ……」
腐った目をもっと腐食させて私をじっと見つめる。
私の顔を見ながら首をかしげると、
机の上に置かれた物体を見て眉間をひそめる。
「……あ、それか」
彼らしくなく優しい声で、なだめるように言う。
「まあ、それでもあの時よりはましじゃないか。 由比ヶ…… その女の子もお前のことを思って持ってきてくれたんだし。 おいしく食べてね、雪ノ下」
「あら、由比ヶ浜さんはあなたの分もちゃんと持ってきたよ」
「そんな怖いこと言わないでくれ、夜トイレにも行けないから」
「……恐怖的な話だというのは共感するが、厳然たる事実だよ」
「……真実は残酷だな。 優しい嘘も悪くないと思うようになるとは想像もできなかった」
比企谷くんにクッキー袋を渡す。
「おお、これは……。ハート形の何かだね。 あ、割れた」
「クッキーだとは最後まで認めないんだな」
「これをクッキーと呼んだら、ちゃんとしたクッキーにすまないよね。 例えば、雪ノ下が作ったものとか」
「ああ、うん。そうなのか……」
「普通においしかったし。 マックカンにも合いそうな味だったから」
おいしいって言ってくれるんだ。
ええ、お世辞だけの褒め言葉だね。
私にクッキーを焼いてほしいと間接的にアピールするのが明らかだよ。
そんな浅はかなやり方には乗らない。
「そして、その表情の原因はこのクッキーだけではないだろう?」
「これをもらったら誰でも恐怖に満ちた表情をすると思う」
「でもお前の表情は…… 疲れたようだが、由比ヶ浜に悩まされたのか? 俺も一緒にいると疲れると感じたんだけど、うん……」
私の顔を見ながら何かをつぶやく比企谷くん。
いつもと違って私の顔をよく見るようだね。
……顔に何かついているんじゃないかしら?
「……ユキちゃん?」
「……へ?」
「……それともユッキー? これは俺と重なって…… ゆきのん?」
「……その口をつぐんでくれないかしら。 とても鳥肌が立つ、とても。 窓を開けて外に飛び降りたらどう? 望むなら手伝うこともできるって?」
「可愛いじゃないか、ゆきのん」
笑いを消すことができない比企谷くんを相手に柔道の技を試演しようとしたが、
彼は飲み物を買ってくると言ってあたふたしながら部屋を離れた。
「はぁ……」
彼に対する怒りがおさまると、少しずつ違う感情が頭をもたげる。
私が可愛いということではないことは知っているが、気になるのは仕方がない。
いつも他の人に無関心のように見える彼だが、
このように、私がよく食べる飲み物を買ってくる点は。
ちょっと、ずるいと思う。
* * *
今日も依頼人のいない平和な部室。
比企谷くんは本を読んで、私はノートを整理して、由比ヶ浜さんは……。
「え? あれ、なんでお前はここにいるんだ?」
「あれ? あ、そうだね。 あたし、きょう ひまだから」
「いや、そう言っても何だかわからないけど。 それよりも……」
彼が私を見ながら口の動きで尋ねる。
『な ま え は な ん だ っ け?』
「……由比ヶ浜さん。 紅茶もっと飲む?」
「あ、うん!ありがとう、ゆきのん!」
「だからその呼称はやめろと言われたが……」
「ああ、由比ヶ浜か。 よくよく見ても由比ヶ浜だね。 元気だった?」
「ええ?ヒッキー、またあたし忘れたの? それより今日のクラスで挨拶したし!」
「おお、そうだな。 じゃ、またね、由比ヶ浜」
「行かないし! てゆか、部屋に来てから5分しか経ってないし!」
「……そんな阿呆らしい問答はやめて。比企谷くんももっと飲む?」
「ああ、頼むわ」
二人に紅茶を注ぎ、席に戻ってきてからやっていた仕事に集中する。
その姿に興味がわいたらしく、由比ヶ浜さんが私の方に体を傾ける。
「ゆきのんは学校がおわってからもべんきょうするの? 何の科目?」
「別に勉強ではない。 あのあほらしい男についての情報を整理しているところだよ」
「あ、そうか。 ヒッキーについて…… えっ、ホエエエ!?」
「……なんか、カエルを踏みつけられるような音がしたんだけど。 大丈夫なのか、由比ヶ浜」
「ゆきのん…… ヒッキーを…… 情報……」
「由比ヶ浜、目が死んでるぞ?」
「……ねえ、ゆきのんはヒッキーのことが好きなの?」
「……由比ヶ浜さん?」
彼女に向かって私ができる最高の笑顔を見せてくれる。
「そんなはずはないだろ? 」
「ごめんね、ゆきのん! あたしが悪かったからそんな怖い顔しないでくれ……」
「……おお、結構詳しいなあ」
由比ヶ浜さんを叱っているので彼の近づいていることに気づかなかった。
私のノートを手に取る彼を見ると、宿題の検査を担当する生徒のように緊張する。
「他人に無関心、これは正しい。 記憶力が悪い? そうではないようだが。 常識水準の低さ…… おい」
「あら、それは否定できない事実だよ」
「何を根拠にこうした結論を下したのかは分からないが、かなり精度が落ちる。 訂正要請だ」
「却下だよ。四則演算もまともにできない点で水準が見えるじゃないかしら」
「以前の四則演算? お前が口頭で問題を出せば当然前から計算する。 掛け算が先だということを知らないわけがないじゃないか」
「じゃあ、太陽系惑星の順番は?」
「……うーん、常識レベルが低い。 推理力は優れている」
「はぁ……」
「ヒッキーとゆきのんは、すごく仲がいいね!」
「由比ヶ浜さん、その件についてはもう否定しているじゃないか」
ぱたっとノートを下ろす音は、
部屋に沈黙を命じるような、明確な要求を盛り込んでいた。
「……俺は先に行ってみる。 用件が浮び上がって」
「あ、うん! あしたね、ヒッキー!」
部室を出るまでこっちを見ない比企谷くん。
顔が見つめられなくてよく分からないけど、
たった一つの感情、
失望という感情は。
その凄然たる後ろ姿から、あまりにも鮮明ににじみ出ていたので、
「ゆきのん、ヒッキー…… 大丈夫かな?」
「……わからない」
名付けられない感情の片鱗だけが、
胸に残り、私を苦しめる。
「……時が来れば、全部話すから」
「うん?」
「だから由比ヶ浜さんも、少しだけ待ってくれ」
「うーん、なんだかわかんないけど…… そうするよ、ゆきのん!」
必ず、言うから。
彼女にも、
彼にも。
* * *
授業が終わって、職員室に向かう。
誰かが先に鍵を取ったという話を聞いて、少しは軽くなった足取り。
比企谷くんはもう来ないだろうという思いが頭の中をいっぱいにしていましたが、
きっと彼が先に鍵を取りに来たのだ。
部屋の前に立っている由比ヶ浜さん。
鍵を持って行ったのは由比ヶ浜さんだったんだね。
微弱ながら持った期待感が消えた。
ひょっとしたら、比企谷くんは本当に来ないかもしれない。
「由比ヶ浜さん、部室の外で何してるの?」
「ああ、ゆきのん。 あのう、部室の中に変な人がいるの……」
彼女の言うとおり部室の中にはとても変な人が。
夏が目前に迫ったこの時期に着たコートとか、
実用性のあるかどうかわからない手のひら手袋。
見れば見るほど気分が悪い。
そう、まるで比企谷くんみたいに……。
「何してるの?」
「ひゃっ!」
後ろから聞こえてきた声に変な悲鳴を上げた.
比企谷くんだ。
「ひ、 比企谷くん…… 来てくれたんだ……」
「ひ、ヒッキー……」
「二人ともすごいリアクションだね。 何してるんだ?」
「部屋に怪しい人間がいる」
「怪しいのはお前たちだが……」
そう言いながらも、部室に先に入る比企谷くん。
彼が部室に来てくれたという単純な事実が、
私の心をかき乱していた不安を解消してくれるのを感じる。
「くすっ、こんなところで会うなんて驚いた。 貴様が来ることだけを指折り数えて待っていた、比企谷八幡」
「……失礼ですが、どなたですか?」
「まさかこの盟友の顔を忘れたとは……。実にがっかりしたな、八幡」
「……盟友?」
「……た、体育の時間に同じ組だった材木座義輝ですが」
「……体育?」
オウム返しに言う比企谷くん。
あの人の変な言い方もいつの間にか普通に変わった。
「……あ、コートと手袋。 言い方も合ってるね。 何しに来たんだ、材木座」
「うーん。 問う、八幡よ。 奉仕部とはここであっているのか?」
「そう、ここが奉仕部だよ」
彼の代わりに私が答えたら、ザイツ…… くんが私をチラッと見る。
私の顔で何を見たのか一瞬驚愕して、
さっきまでの変な言い方を捨てて話を続ける。
「……新人コンペに出品するライトノベルの原稿を持ってきたのですが、友人がいなくて批評が聞けません。 読んで評価してください」
「うん。でもお前はそんなキャラクターだったのか? 以前はもっと「ムハハハハハハ!」同じ感じだったんだけど」
「ハハハ! そんな…… んでもないんです」
さっきからこっちを見てビクビクするのがとても気持ち悪い。
そもそも私は何もしていないのに、どうして怖気づいたのだろう。
「ところで材木座、小説の投稿サイトや掲示板があるから、そこに載せればいいんじゃない?」
「それは無理だ。 あいつらは容赦ないから。 酷評でも受けたら本官は多分死んでしまうだろう」
「だから言うのだと……」
今度は比企谷くんが横目で私を見る。
気持ち悪い。
* * *
「つまらなかった。読むのがつらいくらい。 感想を論じることもできないつまらなさ」
「クフッ!」
「ううん……。あ、難しい単語がたくさん出たよね」
「クアッ!」
「それで、あれは何を盗作したんだい?」
「プハプ!?」
ねつまらなかった小説とは違って、感想を話す時間はかなり面白かった。
由比ヶ浜さんは読んでいないに違いないし、比企谷くんは私よりもっと薄情だと思う。
部屋の隅からしぼんだザイツくんに若干の同情心が生じたりもしたが、
ザイツくんが頼んだ依頼は完璧にやり遂げたと思う。
次も小説を持ってきたら、読んでくれと言われて少しだけど感心した。
自分の理想を実現するために努力することはいかに難しいか、
私もよく知っているから。
「中二の依頼も終わったし。 あたし今日ゆみこちゃんと遊ぶことにして、先に行ってみる!」
「気をつけて入って、由比ヶ浜さん」
「……では、俺も、帰ろうか」
「比企谷くん」
たった一日なのに、久しぶりだと思ってしまう彼の瞳。
その瞳には、雪ノ下雪乃が映っていないらしい。
彼が、私を見ないと思ってしまう。
「まだ言えないが…… もう少し待ってくれないかしら」
「……理由を聞けるだろうか」
私は、彼をまっすぐ見ているのに。
「責任を、負わなければならないから」
「……責任?」
「あなたにしたことが何なのか私は分からない。 どの部分をどうすべきか分からないのに謝ったり、責任を負うとは言えないよ」
そんなのは、単なる自己満足だから。
「だから、私に機会を与えてほしい。 私がどんなことをしたのか、その結果は何なのか。 その責任はどう負えばいいか、きちんと考えて、悩んで、謝るよ」
「俺が言ってあげるとは思わない?」
「話してくれるの?」
「もちろん違う」
彼が以前にも見せた悲しい笑顔は、
どうしてこんなに私を不安にさせるのか。
今にも、彼がいなくなってしまいそうなはかない微笑。
「じゃあ、その時を期待して待っているよ。"
「ええ、まかせて」
「そして、雪ノ下」
お願い、比企谷くん。
そんな悲しい表情は見せないで。
「お前の過ちじゃない、雪ノ下。 この言葉を絶対に忘れるな」
いつも読んでくださる読者の皆様、ありがとうございます。
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