ーinterludeー
彼はニヤリと口元を歪めていた。
薄明かりの灯る地下室の中、手にしたグラスに注がれたワインをユラユラと揺らしながら、彼は酷く嬉しそうに微笑んでいた。気分が良いのだろう。テーブルの上には既に彼によって飲み干されたのであろうボトルが所狭しと、背の高さを競い合うように並べられている。
そう。自らの手駒が伝えるその風景を想像するだけで、彼の中の仄暗い感情が沸々と音をたてて湧き上がるように感じていたのだろう。
「まさかこのような事態になるとは……」
彼にとってこの現状は喜ぶべき好機なのである。そしてそれは彼が自らの手で引き起こしたものであった。
あの少女の悲しみと憎しみが綯い交ぜになった表情を目にした時、彼の中には確信めいたモノがあった。
自分と同じに……寧ろ自分以上の闇を抱えている。そして彼女の心はとうの昔に粉々に砕け散っているのだと。
ならば彼女が、自分と同じ黒に染まってしまえばどうなるのだろうか。この世の総ての憎悪をその身に宿したのならばどうなるのであろうか。
そう思い至った瞬間、彼は自らの協力者をけしかけ、彼女の闇を引き出すための駒としたのだ。
無論、結果は上出来と呼べるモノであった。
煩わしいと感じてすらいた自分の友人の最期の表情。身も震えるほどの高揚が彼の中を駆け巡っていったということは言うまでもない。
彼にとって、『愉悦』のためであるならば、十年前に自らをその道に引き摺り込んだ彼の英雄の安否など、捨て置いてもいいような些細な事だったのだ。
「あぁ。しかし面白い方向に傾いたではないか」
グイとグラスを呷り、中身を空にする。続けざまに瓶を傾け少しずつ、少しずつ透明のグラスの中にワインを注ぎ込んでいく。
彼は思う。彼女の心の内は今どれだけ染まってしまったのだろうかと。
否、元々彼女の抱えた闇がどれだけ表出しているのであろうかと。
「この世全ての悪の味はどうかね……間桐桜よ」
嬉々としながら彼はそう告げ、グラスに口を付ける。これから起こるであろう惨事を心待ちにするかのような表情を浮かべて。
「我が愉悦のために……」
そう。言峰綺礼は誰よりも、この状況を楽しんでいる。
「いや、君自身がこの世全ての悪となってくれれば何より面白いではないか」
彼らに訪れるであろう悲劇を、まるで喜劇として見る観客のように。
「しかしマキリめ……まさか自ら聖杯を用意するとは、最早肉体だけではなくその魂までも物の怪と化してしまったということか」
「どうなってるのよ!? 黙ってないで報告しなさい、アーチャー!」
朝露に濡れる木々の合間を駆け抜けていく少女、遠坂凛は声を荒げながら自らの従者に問いかける。しかし自分の声を聞いているはずの従者からの返答はなく、ただただ自分の土を蹴る音、そして乱れ始めた息だけが周囲に木霊していた。
エミヤシロウとイリヤとの邂逅から数日、その期間常にアーチャーにシロウを監視させていた凛は二人の戦いに気づき、自らもその場に赴いていた。
言うまでもなく、どちらか一方に加勢するためなどではない。以前自分の従者に語った『自分の信念を曲げてでも、勝つことに拘る』という言葉を達成する、ただそれを為すために彼女は死地へと足を運んだのである。
そのためにアーチャーを先行させ様子を窺うように指示を出していたのだが、目も眩むようなほどの光が空を走り、地鳴りと共に何もかもを薙ぎ倒していくような轟音が響いたのを最後に、従者からの報告が途絶えてしまったのである。
その状況を捨て置くことも出来ず、凛は単身アインツベルンの森を走る抜けながら、アーチャーを呼び続けていたのだ。
「アーチャー、答えなさい! 衛宮君とアインツベルンはどうなったの? 戦いはどうなってるのよ」
後数分もすれば二人の英雄が剣戟を繰り広げているだろう所まで来た時、幾度目かになる呼びかけを彼女は送った。
「聞こえているか、マスター」
最早その目で状況を見定めようと半ば諦めかけていたとき、彼女の頭の中にその声が響いたのである。
「ーーッ! アンタ、一体何をしてたのよ! 何で私の声に答えないの!?」
「マスター、私への不満なら後で聞こう。しかし今はそんなことを言っている場合ではないぞ」
「何よ、一体何のことを言ってるのよ!」
自らの従者の確かな気配を感じながら、声を荒げる凛。
アーチャーが無事であったことに内心胸を撫で下ろしたのだろう、気が抜けてしまったのかその声は周囲に響き渡る。
自分の失態に口を抑えながら周囲を窺う凛を余所に、アーチャーは淡々とその言葉を紡いでいく。
「凛、君はここには来ない方が良い」
「アンタ! この期に及んで何を言ってるの!?」
「そうか、止めはしない。その光景を見て、何を思うのかは君次第だ」
「何なのよ、どんな戦いになってても覚悟は出来てるって言ったじゃない」
そう。彼女は既に覚悟できていたのだ。
アインツベルンの手駒はヘラクレス。そしてセイバーを従えるエミヤシロウの実力の一端を彼女は充分と言えるほどに体感していた。
だからこそどんな状況であったとしても、どちらが傷付いていようと、全力を以て殺し尽くす。
歩みだそうとした刹那、けたたましい雄叫びが森中に響き渡り、離れた場所にいるはずの彼女に纏わり付く大気を揺らしていく。
ビクリ。凛の身体が一瞬震え、その歩みを思わず止めてしまう。
どれだけ口で覚悟の固さを語ろうとも、やはり彼女は実戦の経験の少ない魔術師。物怖じしてしまい、このまま逃げて帰ろうとしまうことも当然と言えるかもしれない。
しかしそれは『普通の魔術師』であればの場合である。
「何してるのよ遠坂凛。せめて戦いに赴く時くらいは、優雅に踏み出しなさいよ」
そう呟き、彼女はようやく一歩踏み出した。
一歩、そしてまた一歩。足を進めるたびにその足音から怯えが消え、いつもと変わらぬ優雅な響きへと変わっていく。
そう。その対応力こそが彼女の強みなのだ。
「いやに静かだけど……どうなってるの?」
凛の言葉通り、バーサーカーが放った咆哮を後に、戦いの音は彼女の耳に届いてこない。既に決着が着いてしまったのだろうか。あの雄叫びから数分も経過しないうちにセイバーが破れるとは考えにくい。自分の中に渦巻く疑念を払うために、彼女は急ぎ足になりながらその場に急ぐ。自分を死の淵に落としかねない戦場へと。
「……アーチャー、答えて。これ、どうゆうこと?」
しかし凛の覚悟は、その場で繰り広げられていた全く予想し得ない状況にあっさりと砕け散ってしまう。
名の通り、凛とした響きが弱々しい困惑したものに変わっていく。
「君の目にした通りだよ」
「いや、でも……おかしいわよ。何であの子が」
その場には少女がいた。
アインツベルンの名を冠す銀髪の少女ではない。
金砂の髪を揺らす騎士王でもない。
そう。そこにいたのは黒に染まってしまった少女。
いつも遠くから見ていた、見守っていたはずの少女。
血の繋がった実の妹、間桐桜がそこにいた。いつもと変わらないかわいらしい姿のまま。
しかしその身を取り巻く力は、目に見えて異質なモノであった。
総てのモノを染め抜いてしまう黒。
総てを喰らい尽くしてしまう絶望。
それはまるで『闇』のようであると凛には感じられた。
予想もしていなかったのだ。まさかこの戦いの場に桜がいるという事を。
考えもしていなかったのだ。桜が聖杯戦争に巻き込まれているなどということは。
そしてその桜がバーサーカーの進撃を悠然と食い止めているなどという事を、予想など出来ようはずもなかったのだ。
「そうだ。あそこにいるのは間桐桜……いや、訂正しよう。アレはかつて“間桐桜”と呼ばれていた化け物だ」
「ーーアンタ! あの子になんてことを!」
「凛、君なら一瞥すれば彼女がそんな状態に陥っているのかは理解出来るはずだ。素直に有りの侭を認めたまえ」
アーチャーの放った言葉に一度は激昂しながら食い掛かる凛であったが、彼が続けて零した言葉に冷静さを取り戻し、もう一度その光景に視線を移す。
「……桜、どうしたのよ。アンタ、何でそんなに……」
荒れ狂う鉛の巨人を、笑顔を浮かべながら制圧する少女の姿を。
ーinterlude outー