「さて、ようやく貴様と二人になった訳だが……」
薄ら笑いを浮かべながら、ジッとこちらを睨みつける黒のサーヴァント。
今に始まった事じゃない。この男がオレに向けるこの視線は、いつでも憎悪を嫌悪を、総ての負の感情を孕んでいた。
「何だ、お喋りでもしたいのかよ」
決して臆する必要はない。踏みしめる地面の固過ぎる感触を確かめながら、口から出たのは嫌み。まるでかつて赤の礼装を纏っていた時のような、下卑た台詞が零れ落ちていた。
「いやな、こうやって貴様と向かい合う事もこれで最後なのだ。ならば一時の戯れも悪くあるまい」
らしくない。素直にそう思えた。
本来であれば、視線を交わした瞬間……いや存在を認めた瞬間に斬り合っていてもおかしくはないのだ。それだけ『エミヤシロウの成れの果て』は『かつての自分』に対する深い憎悪を抱いていたのだ。
「お前、こんな時に正気なのかよ?」
かつて、目の前のこの男を経験した俺自身がそう感じるのだ。この違和感を気のせいなどと捉えていていいはずがない。アーチャーに対する警戒を最大限に引き上げる。同時にいつでも自らの得物をその手に現す事の出来るように、自分の中の撃鉄をガチリと起こす。
俺の様子など、きっとアーチャーは気にも止めていないのだろう。
境内の中心で腕を組みながらこちらを見据えるその様は、普段と変わらない気障な態度のままだ。
「前に言ってたじゃないか……俺たちが言葉を交わす事に、意味なんてないって」
しかしその態度とは裏腹に、アーチャーが浮かべた表情は普段のものような嫌みたらしいモノではなく、邪悪そのものであった。アーチャー自身はそれに気が付いているのだろうか。
いや、気が付いていない訳がない。それが分かった上でアーチャーはその笑みを浮かべているのだ。自らの使命を忘れ、自らの内を侵食していく『この世全ての悪』を許容しながら。
「ーー貴様に対して吐いた言葉を、私が覚えている訳があるまい。自意識過剰にも程があるぞ」
そう。そしてこの言葉だ。
何故今すぐに斬り掛かって来ない。何故早く戦いを始めようとしない。
意図的に戦いまでの時間を引き延ばしているように感じられる。俺が桜の所に到着するのが遅くなって、アーチャーに何か得られるものがあるのだろうか。今更それを理解したところで、物事が好転するはずはない。それならば、俺は自分自身の我を貫き通すまでだ。
「どうとでも言えよ」
ガチンと撃鉄が落ち、自らの中に魔力が通っていく。そしてこの手に現れるは一対の夫婦剣。その切っ先をアーチャーに向けながら、俺はこう告げる。
「俺にはアイツの傍に、桜の傍に行かなきゃならないんだよ。お前の戯れになんて付き合ってやる事は出来ない」
そう。俺は桜の傍に行かなくてはならないのだ。桜を救わなくてはならないのだ。
この先延ばしが何の意味を持つのかは理解する事は出来ない。だがそれもここまで限りだ。すぐにでも疾走しその褐色の肌に刃を突き立てんと、眼光鋭くアーチャーを睨みつけた。
「……」
アーチャーは押し黙り、俺の現した干将と莫耶の輝きを見つめる。自らが造り出し得るモノと同質のモノを改めて目の当たりにし、一体何を思うのだろうか。
しばし何も語らないまま俺の手にした得物を見据える。ただ憎悪に淀んでいたはずのアーチャーの瞳に、ようやく落ち着いた色が戻る。やはりこの男も、どれだけ悪に塗れようとも、戦士としての本質を見失ってはいないのだろう。ただこの状況を見つめ、アーチャーはゆっくりとこう呟く。
「ーーならば、一つだけ聞こうではないか」
淡々とした物言いでアーチャーは続ける。未だにその手に得物を現す事はしない。
「貴様にはこの場で、この柳洞寺で戦った記憶はあるか?」
「あぁ、あるな」
苛立ちを露にしながら、ぶっきらぼうに答える。
歩数にして十数歩。その歩みだけで刃を突き立てる事が出来るかを頭では考えつつ、アーチャーの様子を窺う。
「そうか。きっとどの場面でも、貴様は偽善者として悪を打倒してきたのだろうな」
「ーーそんなのは知らない……」
そうだ。俺が誰を打倒してきたかなど、最早どうでもいいことだ。
ただ一つ、今俺が吐き出した言葉では語り得ないものがある。俺が経験した聖杯戦争の中で確かにそれは存在した。
「ただ俺が辿ってきた聖杯戦争では、確かにいた」
確かに聖杯戦争に参加する者にはそれぞれに理由があった。その戦いに関わる総ての者が聖杯に託す望みがあったのだ。
しかし『あの男』だけは違った。ただ自らの愉悦の為に、聖杯戦争を利用していたあの男。戦いを監視役という立場を利用し、自らの為に動き続けた男。
「明確な、一目見ればそれが悪だと理解出来るほどの……そんな人間が」
それを人間と呼んでいいのだろうか。それを今議論するつもりはない。
ただ『言峰綺礼』というあの男だけは、悪である以前に許してはいけない存在だった。
「そうだ、あの男だけは許してはならなかったのだ」
静かに、怒りを湛えながらアーチャーは呟く。
その言葉は確かに目の前の、俺に向けられた言葉だ。しかしそれはまるで自分自身にも言い聞かせているようにも俺には感じられた。
俺たちはその男だけは共通して、許してはならないのだ。
「でも俺たちはアイツを無視し続けている」
しかしそう口にする事も、思う資格すら俺たちにはありはしない。
「裏で何かしら策を労しているはずなのに、それでも放っておいているじゃないか」
イリヤと二度目に会う直前、一度俺はあの男と遭遇していた。思えばその後から桜の様子がおかしくなってなっていたのだろう。きっと言峰が何かしらの行動を起こしていたのは、否定する事の出来ない事実であるにも拘らず、見て見ぬ振りをし続けていた。
それは俺が、エミヤシロウが目指していたモノを考えれば、鉄槌を下す対象であったはずなのだ。全く……今の俺の体たらくを見たら親父は、キリツグはどう思うだろうか。
「その通りだ。だからこそ……」
「そうだ。だから俺たちはもう名乗れない」
最初にキリツグと別れたあの月夜から、この胸には一つの火が宿っていた。
しかしその火を、俺は……俺たちは自ら絶やしてしまった。キリツグから受け継いだ、掛け替えのない大事な理想を。
だからこそ今この場で、口にしておくのだ。
この戦いは誇り高いものでも、高潔なものでも決してない。互いの我を通す為だけの身勝手なものだとハッキリさせる為に。
「『正義の味方』とは、もう名乗れない」
そう。随分前から覚悟していた。『正義の味方』とは呼べない自分を認める事の辛さを。
しかしどうだ。素直に口にするだけでこんなに気分が良いものだったとは思いもしなかったのだ。
随分と心が軽くなったように感じられる。まるで閊えが総て外れたようだ。纏わり付く冷たい空気すら、それを引き立てるものになっている。
だが俺の言葉に同意しながらも、目の前の男はこう続ける。
「しかしな……衛宮士郎が生き続けては、またそんな馬鹿げた願いを持つとも限らんだろう? その為にまた多くの者がその『偽善』の代償になってしまうだろう?」
饒舌に語られるその言葉は、決めつけのものであった。
その瞳は再び狂気に彩られ、一つの目的に向かってその眼光の冴えを際立たせる。
総ては最初の後悔から始まった。その後悔を消し去らなければ何も始まらない。
かつて俺自身もそう考えていた。それが自らの存在を消す行為であったとしても、数少ない『自らの裡からわき起った望み』を否定する事などなかったし、それを為す為に誰かを言い訳にする事はしなかった。
しかしこの男は、アーチャーはどうだ?
「私の知る衛宮士郎という人間は、それほどまでに欲深いのだ。ならば他者の為に、最後の仕事をしなくてはなるまい……」
今のこの男の口ぶりは、あまりに『衛宮士郎』らしからぬ言葉であった。
「何だよ、結局言い訳を並べなきゃ何にも出来ないのか?」
「言い訳だと? 私がいつ言い訳などした」
「今もしてるじゃないか。俺を殺す理由を誰かに押し付けてるじゃないか」
「……」
俺の言葉に、考え込むように黙りこくるアーチャー。何か主思いに耽る素振りを見せたが、気に介さずに俺は続ける。
「俺の知っているエミヤは、少なくとも俺は、衛宮士郎を殺す理由を誰かに押し付けはしなかった。自らの望みを達するのに、もう借り物の思いなんて必要なかったからだ」
そう。正義の味方を目指したのは、それがあまりに美し過ぎる望みだったから。
そしてそれを望み続けた自分自身を消してしまいたいと思ったのは、自分の意志であった。その為ならば何を犠牲にする事も厭わなかったし、理由をどこかに求める事もなかった。
総ては、自分の都合だったのだ。
「ーーーー黙れ」
「今のお前はどうだ? 答えろよ、英霊エミヤ」
「ーーーー黙れ! 貴様がどう思おうと関係はないのだ! ただ私は貴様を衛宮士郎だとは、あの人の理想を受け継いだ者とは認めない」
夜の境内に響くその怒号は受け取る者もおらず、ただ清閑な空気の中に染み渡っていく。この男の言葉を俺は最早受け取るつもりなどない。いや、そんな優しさなど不要だと思えたのだ。
ただアーチャーがあまりに痛々しかった。結局この男はこの時にも親父の、衛宮切嗣の残した呪いに苛まれているのだ。
俺がそうであったように、未だに一歩も進めないままにいるんだろう。
「そうだ。俺は、このエミヤシロウは最初から正義の味方ではなかった。この俺はただ一人を守る為だけに今こうして生きている」
どこかかつての自分に戻ったように、淡々とした口調で俺は告げる。
今の俺は桜の為だけに生きているのだ。それを貫き通す為に、俺は下に降ろしていたままの莫耶の切っ先を再びアーチャーに向ける。切っ先の鋭さに舌打ちしながら、アーチャーは苛立ちを更に募らせていた。しかしきっとそれ向けられたことに苛立ったのではないはずだ。
この男は、目の前にいるエミヤシロウという存在が、『正義の味方』にはなれないと断じながらも、その理想を否定してしまう事を許さないのだ。
「貴様……貴様という男は!」
「お前の考えている通りだよ。俺は元々の衛宮士郎の雛形から外れてしまってるんだ。だからお前が俺に嫌悪を抱くのは無理ないさ」
手に現される夫婦剣の切っ先が俺に向けられる。
この身体に感じられる殺気の質が変質していく。アーチャー自身も本気になったのだろう。
しかしこの程度の殺気、既にこの身体は慣れてしまっているのだ。この程度であれば、以前式さんから感じたモノの方が余程真っ直ぐで脅威に感じられた。
「殺してやる……今すぐに、貴様という偽者を!」
しかしこの男が、自らの得物を手にした。ならば後は斬り結ぶのみ。
結局俺たちは言葉などではなく、どちらかを打倒する以外前に進む術を持たないのだ。
「ーー偽者か。いいぜ。なら偽者らしく自分の我を貫かせてもらう! 俺もお前みたいな偽者に負けられるかよ」
「何を言い出すのだ。私が偽者である訳が……」
「言峰の事は、俺も同じだ。でも桜のことはどう説明するつもりなんだ? 『この世全ての悪』と同じモノになっているあの子を何でそのままにしておける? お前、自分の役割を忘れた訳じゃないだろ?」
最後にもう一度、言い続けてきた言葉を口にする。それは徒労で終わる事と既に理解しているのだ。それでも最後まで『期待』せずにはいられないのは、俺が未だに甘い証拠だろうか。
「それは、貴様を殺す為に……」
「ーーそれじゃぁお前も、エミヤシロウだなんて言えないじゃないか」
「なら偽者同士、ハッキリさせようではないか。貴様を殺し、そして間桐桜を殺せば総てが丸く治まる」
やはり期待は裏切られた。
「そうだ、最初からそれで良かったのだ」
最後にそう告げ、その身体が掻き消える。否、それは目の前に迫っている。
瞬きの瞬間、アーチャーは俺の眼前へと迫り、干将を振り上げていた。
「ーー死ね、哀れな道化よ」
言葉に明確な殺意が籠る。
「ああ、来いよ」
俺自身もその一刀を受け止めんと構えをとる。
始まるのだ。夢にまで見続けた、自分自身との戦いが。
「もっとも、俺はオレには絶対に殺されてやらないさ!」
いつか、かつての自分が口にした……自分には負けないという言葉を口にしながら。