りとらば!   作:三只

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りとらば! 13

NEON GENESIS EVANGELION AFTER 

 

“ MY LITTLE LOVER ”

 

 

 

りとらば!

 

 

最終話

 

「そして、涙」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…知ってましたよ」

 

闇の中、震えるシンジの声が響いた。

まるで砂地から滲み出るような苦し気な声が、黒い空間に静かに溶けていく。

 

「知ってました。分かっていました…」

 

リツコの台詞に対する、それがシンジの答え。

 

そう、知っていた。気づいていた。

なのに、気づかないフリをしていた。気づきたくはなかった。

あの小さなアスカは、惣流・アスカ・ラングレーを縮小した存在ではないことを。

 

単純に、アスカが1/8サイズでサルベージされたという超常的な現象と結果は受け入れたとしよう。

じゃあ、残りの7/8に相当する部分はどこへ?

 

ひょっとして、あの傷だらけのアスカが、残り7/8分を担う存在なのだろうか。

だが、それはそれで、幽霊みたいに夜にだけ現れて消えてしまう説明がつかない。

 

ゆえにシンジは別の仮説を立てる。

 

つまり、あのボロボロのアスカも、小さなアスカと同じく、本体であるアスカの一部分なのではないか。

詳しい原因も理由もわからないけれど、小さいアスカは小さくなったからこそ肉体的にもきちんと存在して触れること出来る。。

対して、あのボロボロのアスカは等身大であるゆえに完全に存在することできず、一定時間しか姿を現せない。

 

…仮説は仮説でしかない。

この仮説を証明するためには、そもそも本当のアスカはどこにいるのか?という疑問にぶち当たってしまう。

それでもシンジは、『あの小さなアスカは、アスカであってアスカではない』というリツコのコメントに素直に賛同することが出来たのである。

 

「では、本当のアスカはどこにいると思う?」

 

シンジの返答を聞いて、しばらくの間をおいてからのリツコの質問。

 

「それは…」

 

闇の中、シンジはちらりと目だけを動かす。

視線の先は隣室だ。更にその先の実験室を、シンジは透視している。

すると、ゆっくりとリツコが頷く気配があった。

 

「そう。本当のアスカの身体は、ずっと弐号機に留まっている。一ヶ月前から。理由は不明だけどね」

 

「………」

 

シンジは無言だったが、内心では納得していた。

残りのアスカの所在はこれで判明した。ならば、自分の立てた仮説は間違いではなかったとのだ。

やはり、再生計画のプロセスで何かしらの問題が生じ、本体である溶けたアスカから、それぞれ小さなアスカとボロボロのアスカがサルベージされたのだろう。

 

しかし、リツコは新たな煙草に火をつけながら首を振った。

 

「多分、シンジくんの予想と、真相は異なっていると思うわ」

 

「…え?」

 

ふーっとリツコの紫煙を吐き出し、すぐに答えてくれない。

一方で、シンジの頭は忙しく回転を始めている。

 

違う? 僕の予想と、違う?

だって、アスカが分裂して、その一部がサルベージされたって考えれば、とりあえず辻褄が合うじゃないか…。

 

「…シンジくん。これから話すことについて、二つだけお願いがあるの」

 

リツコの低い小さな声。

 

「一つは、この話を聞き終えたら、私を恨んでもいいわ」

 

シンジの返答も待たずに続いたリツコの声は、どこか泣きそうなニュアンスが込められている。

 

「もう一つ。これから話す真相は、推論でも推察でもないわ。なぜなら科学的な裏付けが出来ないから。

だから、想像…というより妄想といって差し支えないかも知れない。それでも構わない?」

 

リツコの珍しい物言いから、なにか不吉なものを感じるシンジ。実際に、さきほどから首筋がチリチリして仕方ない。

これから語られる話は、決して心躍る楽しい内容ではあり得ない。

むしろ、聞けば後悔するような予感さえする。

 

…それでも、僕は真相を知りたい。あの小さなアスカと傷だらけのアスカの真実を知りたい。

あの二人のアスカは、アスカではなかったとリツコさんはいう。

でも、僕にとっては、二人ともアスカで間違いないのだから…。

 

「構いません。お願いします」

 

シンジは、意思を込めて強く頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それじゃあ、まずこれを見て頂戴」

 

不意にペンライトのスイッチが入れられ、シンジは目を細める。

リツコは白衣の懐に手を入れ、束ねられた紙を取り出した。

右隅をクリップで留められたそれは、おそらく何かしらの資料なのだろう。

ペンライトごと手渡され、羅列する数字の群れにシンジは眉をしかめる。

それでも、資料の冒頭には、『惣流・アスカ・ラングレー』と名前が冠してあるので、なにかしらの彼女に関連性のあるものだとはわかった。

 

「…これは?」

 

シンジは率直に訊ねた。

小さなペンライトの灯りの下で見る細かい字の専門用語のテキストは、はっきりいってどういう内容なのか見当もつかない。

下へ向けられたペンライトの光が届く範囲内にいたリツコの表情が軽く動く。

 

「その資料で重要なのはね、むしろ日付なのよ」

 

笑いの波動が闇に浮かぶ埃を波立たせた。その笑みに、なにか自虐の要素が含まれていると感じたのはシンジの錯覚だろうか。

ともあれ、シンジは再度資料に視線を落とし、日付とおぼしき数字を見つけた。

 

「…………?」

 

日付には、見覚えがなかった。何かその日に特別なことがあったとは思えない。であればこそ記憶には何も残っていないんだろうけど。

困惑するシンジに、リツコもやや躊躇うような口調を作る。

 

「シンジくん、昔の話で思い出したくないかも知れないけれど…」

 

そこで軽く言い淀んでから、

 

「第拾弐使徒に飲み込まれた時のこと、覚えている?」

 

「……!! …はい」

 

答えつつシンジは回想している。口中が苦くなり、背筋が一瞬で寒くなる。

あの時のエントリープラグの中での孤独感、絶望感。そして死へのとてつもない恐怖。

決して二度と体験したくない心の奥底に封印した記憶。…でも、あれからたった一年ほどしか経ってないのだ。

 

しかし、なぜにリツコさんはそのようなことを今さら…。

 

そこまで考えて、ようやくシンジは日付との関連性を見いだす。

資料に打たれた年月日。それは、自身が第拾弐使徒と対峙する少し前の日付を示していたのだ。

でも、その事にどのような意味があるのかは分からない。

更に考え込んでしまうシンジの顔を、微妙に方向性を変えたリツコの声が上げさせた。

 

「ネルフの定期実験と検診で、私たちがチルドレンのデータを事細かく採取していたのは知っているわね?」

 

「はい」

 

これはシンジにも覚えがあることだった。

あまり自分は協力的だったとは思っていないが、使徒の襲来時を除いても、かなりの時間をネルフで過ごしたような気がする。

その大半はリツコも言明した通り実験と検診と、それと各種テストだった。

 

「…アスカの傷ついた身体を癒すにあたって、私たちは過去の膨大なデータから、最適と思われるものを選出することにしたの」

 

「最適、ですか」

 

答えつつ、シンジは今ひとつ釈然としない。そもそも何を持って最適とするのか。

 

「この場合の最適の定義は、肉体的にも精神的にも最も安定、もしくはバイオリズム的に上昇していた時期を指すわ」

 

読心術というよりは、ペンライトの弱い灯りの中でも疑問が顔に反射してしまっていたのだろう。リツコが説明してくれる。

このヒントを得て、ようやくシンジは答えをたぐり寄せることが出来た。日付の意味も含めて考えれば、おそらく間違いない。

リツコを前に、今回は第拾弐使徒戦の前まで遡ってシンジは回想をしている。

そう、思い返せばあの頃のアスカが一番輝いていた。

日本での生活にも慣れ、自信満々で(ともあれば傍若無人で)、本当に活き活きしていた。

 

―――そんな彼女が壊れ始めたのは何時頃だっただろうか。

 

当時の自分には、それが分からなかった。

だけど、今なら分かる。今だから気づくことが出来ることがある。

兆しは、おそらく第拾使徒戦前のシンクロテストだ。

あの時、僕が初めてアスカのシンクロ率を抜いた。

その慢心が、結果的に第拾弐使徒の展開したディラックの海に飲み込まれる勇み足を産み、アスカとの関係の均衡を微妙に崩し始めることに繋がったのだ。

 

エヴァに寄ることでしか自身を維持できないアスカ。彼女のプライド。

それを傷つけても、何もいいことなんか無かったはずなのに…。

 

「だから、私たちはこの日付のアスカのバイタルデータを選出したわ」

 

アスカの心身が最も安定していた時期。残酷な未来とその結末を知らなかった頃…。

 

「だから、一ヶ月前の計画でこのデータを使用したのも、それがアスカにとって最良だと思ったからなの…」

 

歯切れの悪いリツコの台詞は続いている。

 

「でも、失敗だった。結果として、おそらくそれが小さなアスカと傷だらけのアスカ二人を産み出すことになった」

 

その台詞は、シンジの耳道を滑り落ちて行く時、妙な違和感を残した。

シンジ自身の仮設と微妙にニュアンスが異なる気がしたのだ。うまく言葉で説明できる自信はないが。

となれば、それがリツコの言う『真相と異なっている』部分なのだろうか?

 

「心って、デジタル化出来ると思う?」

 

「はい!?」

 

またもやリツコの突飛な質問に、シンジは暗闇にもかかわらず目を見開いてしまう。

大声に比して空気が動き、埃が巻き上がって軽くむせた。

チカチカする目を瞬かせ、シンジはリツコの方へペンライトを向ける。

ライトの光の帯びの中に、案の定粉雪のように埃が舞っていた。

光から目を逸らし、三本目の煙草へ火を灯しながら、リツコは独白するように言う。

 

「心の在り方をシミュレートするとしたら、僅かな思考だけでも膨大なデータが行き交うわ。その情報はあまりに膨大すぎて、現代科学では、特定個人のパーソナルをデジタル化するのすら無理。もっとも将来的にはどうなるか分からないけどね…」

 

リツコの独白は更に続く。その殆どが専門用語ばかりでシンジには理解できなかった。

しかし、リツコのいわんとすることは程なく理解することが出来る。

 

「つまり…」

 

シンジは唇を舐めて湿らす。舌先が苦味を伝えてきたが、埃のせいだけではあるまい。

 

「アスカのバイタルデータは身体のデータばかりで、心まで数値化して入力できたわけではない、と?」

 

「…ちょっと違うわね。要は、心の在り方、変遷は、現代科学の範疇外ってことよ」

 

埃が舞っているにも関わらず、リツコは開いた右手で髪を掻き上げる。

 

「だから、その時点で気づくべきだったわ…」

 

震える声と同じく、左手の赤い光点が小刻みに揺れていた。

 

「で、でも、それが小さいアスカが生まれるのとどんな関係が…!!」

 

自分でも判然としないまま、声を荒げてしまうシンジ。

そもそも関係がなければリツコはこのような会話をしていない。

その矛盾を自覚して、得体の知れない焦燥感がシンジを支配している。

一方でリツコは落ち着きを取り戻していた。

シンジの振り回すペンライトの光輪を白衣に反射させて、淡々とした口調を作っている。

 

「そして心は身体に引きずられるものなのよ」

 

分かる? とばかりに小首を傾けるリツコ。

 

「たとえば、整形したら性格が明るくなったという話は聞いたことはない? あと幻肢痛ってきいたことないかしら?」

 

整形して目を大きくしたら気持ちも明るくなった、という話は聞いたことがある。

そして幻肢痛とは、手足を切断する重傷者が、失った手足のある部分に痛みを感じ続ける症状と本で読んだことがある。

どちらも心の問題と断言するのは憚られるけれど、身体の変化が心に与える影響が存在することは間違いない。

 

「だから…何なんですか」

 

シンジはこめかみを押さえながら訊いた。

酷い頭痛がしてきた。この先のリツコの説明を聞くことを本能が拒否しているようにも思える。

なのに、白衣姿のリツコは、あくまで落ち着いていた。淡々とシンジの質問へ回答をしてくれる。

 

「まずは、今回の計画の定義から改めて欲しいの。すなわち、今回の再サルベージ計画は、アスカの身体を健康体に回復するものではないわ。昔の身体に組み直す―――過去へ回帰させることだったことを」

 

「…はい」

 

頷きつつ、シンジは今さらながら不安を覚えずには居られない。どうしてリツコの言葉は、ある種の残酷さを帯びて耳に響くのだろう。

 

「必然的に、アスカの身体を第拾弐使徒戦前まで戻した場合、心も変化せずにはいられない」

 

ゴクリとシンジは唾を飲み込む。いつの間にか、額に汗をかいていることに気づく。

 

「決して、傷だらけの身体から健康な身体へと傷を癒したわけじゃないのよ。

 あの時間のアスカに、身体を傷を負ってない状態の昔のアスカに戻したに等しいわ」

 

汗を拭い、シンジは次の言葉を待ち受ける。

 

「…()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「…え?」

 

その意味を理解するのに、数秒の時を要した。

そして理解すると同時に、シンジは叫んでいる。

 

「じゃ、じゃあ! あの小さなアスカと傷だらけのアスカは…!!」

 

「彼女たちは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

…おそらく、本来のアスカの肉体の再構成は成功したのだろう。

けれど、現代科学の及ばない領域の出来事か、はたまた更に未知数の力が作用した。

昔の身体に戻るということは、傷を負っていなかった頃の身体に戻ると同義とした場合。

すなわち、傷を負った過程の記憶も失われることになる。

結果、アスカの経験していなかったことにされる記憶の中から、二つの感情が、心が、形を伴ってサルベージされたのだ。

 

―――それは、碇シンジに対する憎悪と愛情。

 

 

それぞれがサルベージされ、人形(ひとかた)となったのが、あの二人のアスカの正体―――。

 

 

 

 

「アスカがシンジくんに明確な憎悪の感情を抱くようになったのは、あの頃以降だと思うわ」

 

リツコの言う時期。

アスカは、シンクロ率でシンジに追い抜かれ、第拾四使徒に敗北し、第拾五使徒に心を犯された。

半ば精神崩壊を起こしていた彼女に、最悪の陵辱をもたらしたエヴァ量産機の強襲。

 

じわりと汗の滲む手をシンジは握りしめる。

そして―――僕はアスカを助けにいかなかった。

 

「逆説的だけど、ボロボロのプラグスーツ姿のアスカの存在が、この仮説を裏付けているんじゃなくて―――?」

 

夜の山道。

包帯で片目を覆ったアスカ。

馬乗りになって自分の首を絞めてきたアスカ。

 

我知らず、シンジは自分の首に手を当てている。

既に包帯は取れていたが、焼き付くような痛みがわき上がってきた。

冷たい汗が心臓をつたっている。リツコの声を遠くにどこか聞きながら、シンジの両手に生々しい感触が甦る。

 

 

 

―――二人きり投げ出された砂浜で、僕はアスカの首を絞めた。

 

 

 

 

遠い赤い海の光景。二人だけの記憶。原罪の犯された場所。

酷く気分が悪い。耳鳴りがする。

アスカの心から排斥された憎しみの心が形となり、夜ごと(おとな))ってきていたというのか?

理由は―――もちろん復讐だ。

 

シンジはよろけてロッカーの一つに背をぶつけてしまう。

 

 

 

 

 

「でも」

 

優しげな声が、シンジの身体をそっと支えるように。

 

「アスカがシンジくんに好意を抱き始めたのは、その後でしょう?」

 

「……」

 

咄嗟にシンジは二の句が継げない。

それでも、冷汗を伴っていた心臓に熱が加わった。それが血流にのって全身に行き渡り、どうにか少年は態勢を立て直す。

 

「そ、そんな僕がアスカなんかに…!!」

 

恨まれる覚えは数あれど、感謝されることなんて。許されることなんて。ましてや、好意を向けられるなんて………!

 

「今さら謙遜しなくてもいいんじゃない?」

 

リツコの声が明らかに悪戯っぽい響きを帯びる。

 

「……二人砂浜で発見されて入院した後。シンジくんの甲斐甲斐しい看病ぶりは、未だに病院の語りぐさよ?」

 

「あれは…」

 

ただ赦しを乞うために、少しでも罪を償うのが目的で。

 

「アスカが退院してからも、わざわざ同じマンションのフロアに住んで、色々世話を焼いて上げていたんでしょ?」

 

「それは…」

 

退院したとはいえ、傷を負ったままのアスカだと日常生活にも支障が出るかと思って。

 

「なにより、今回の小さなアスカへの献身ぶりは、傍で見てても普通じゃなかったわね」

 

「………」

 

返答のできないシンジの頬が熱を持ってくる。

リツコには見えないだろうけど、きっと赤くなっているに違いない。

 

ククッと軽快な笑いが闇を揺らす。

そうやって和やかな波動を投げかけておいて、一転してリツコは口調を改める。

 

「シンジくんがいくら否定しようともね、あの小さなアスカが何よりの証拠なのよ」

 

答えは分かっているだけに、シンジは気恥ずしさに耳を塞ぎたくなる。けれど、リツコの口調にはそれを許さない真摯さがあった。

 

「なぜなら、あの小さなアスカこそが、シンジくんに向けられる愛情が顕在化した姿なのだから」

 

小さいくせに破天荒で、無駄に行動力に溢れて、元気一杯なアスカ。

実際のアスカが大きくなって元気になればこうなんじゃないかな、と思えてしまうほど。

暴力的で傲岸不遜な態度だって変わらない。

なのに、憎まれ口の端々に滲む、柔らかな感情の存在。

 

それらに気づけないなほど、シンジは朴念仁ではなかった。素直に言葉と態度で応じられるほど勇者でもなかったにせよ。

 

ああ―――。

 

今となってシンジは気づく。一週間前の二人きりのデート。

やはりあれは、小さなアスカの望みだったのだ。

同時に、何かが繋がろうとしている。

なぜアスカは、最後までそんな本心を隠して僕に接しなければならなかったのか?

この質問には、シンジなりに自分の回答を用意していた。

 

曰く『元の身体に戻った時、恥ずかしいから』

 

本日、ネルフ本部へ向かいながらミサトから冷やかされた通り、クラスメートたちに小さくなった彼女を恋人だと紹介したりした。

咄嗟のこととはいえ、我ながら大それたことをしてしまったと、今さらながら顔が熱くなる。

これをアスカの立場で見れば、赤面を通り越して顔面から火炎放射みたいなものだろう。

なにせ、一緒に登校すれば、もうみんなに顔を知られていて、挙げ句、恋人認定されてしまっているのだから。

 

また、小さな身体の時に晒した数々の醜態。これらも殆どがシンジに目撃されているのだからバツが悪い。

元の身体に戻って思い返すには、嬉しくないものもあるのでは…。

 

そこでハッとシンジは顔を上げる。

 

小さなアスカが本心を隠した理由は、元の身体に戻った時バツが悪いからと自分は考えていた。

 

元の身体に戻った時。

元の身体に……?

 

ならば、なぜ、小さなアスカはエントリープラグに入るとき…?

 

「リツコさんッ!?」

 

シンジは叫ぶ。

声が裏返る。焦燥感に語尾が震えた。

 

「あの! あの! アスカは…あの小さなアスカは、元の身体に戻れるんですよね!?」

 

シンジはほとんど哀願していた。

なぜなら答えなぞ分かり切っているから。

ここまで十分なまでの情報を与えられているのに気づけなかった自分を罵倒し、それでも現状を否定して欲しかった。

 

しかし、赤木リツコ博士はゆっくりと首を左右に振った。闇の中にもかかわらず、シンジにははっきりとそれが分かった。

 

「言ったでしょう? 彼女たちは、排斥されるはずの記憶と感情が心を伴って人形にサルベージされた存在だと」

 

茫然とするシンジの脳天を、リツコの台詞が氷柱のように貫いていく。

 

「一度排斥されたものが、再融合する道理はないわ」

 

それは至極当然の答え。

拒絶され、一体と成る道を閉ざされたものは、消えるしかない。

極論を言ってしまえば、あの小さなアスカはプラグ内へ入る必要すら存在しない。

 

ならば、ならば。

何を思い、何を願い、何を求めて彼女は再度プラグ内へ身を投じたというのか!!

 

「もう一つ、覚えておいて」

 

リツコの声は、まるで無慈悲な鉄槌のようにシンジに振り下ろされた。

 

「今回のサルベージ作業は成功するわ。でも、説明した通り、再構成される彼女はシンジくんが知っていたアスカとは異なる。シンジくんが昔知っていたアスカが、あの頃のアスカがサルベージされるのよ」

 

「どういう意味ですか…」

 

もはや抑揚さえあやふやなシンジの声は泣き声と形容しても差し支えない。

 

答えは分かっている、聞きたくない、聞きたくないんだ…!!

 

されど、最後の鉄槌は振り下ろされる。

 

「あの頃のアスカは、今に至るまでの記憶を持っていないわ。だから何も憶えていないはずよ。シンジくんへの感情も、シンジくんがしてきたことを、何もかも」

 

壁を殴りつけ、シンジは絶叫した。

拳に血を滲ませ、壁の先にある実験室を凝視する。

 

「アスカァアアアアアアッ……!!」

 

闇を振るわす哀しい雄たけび。

少年の声は、果たしてどのアスカに向けられたものか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まるで水底のような空間に、彼女はたゆたっていた。

一糸まとわぬ裸身であるが羞恥心はない。長い金髪がなびいている感覚があるから、やはり液体の中なのかも知れない。

それらを自覚すると同時に、彼女は目を開いた。

水面から光が射し込んでいるかのような光景。

まだらに染まる視界に、もう一人の自分がいた。

軽く目を閉じて身を赤子のように縮こまらせている、もう一人の、自分より大きな自分。

 

…違う、あたしが小さいのだ。

そして、目前の等身大のあたしが本物。

本物から溢れ出した感情が、碇シンジへの愛情が形となったのがあたし。

 

「にしてもややこしいわね、こりゃ」

 

小さなアスカは不敵に腕を組む。

今の彼女には、それくらい冷静に周囲を認識できる余裕があった。

だから、全て知っていた。自分という存在が間もなく消失するということも。

 

ふわふわと漂いながら、小さなアスカは大きな自分を睨み付ける。

 

あちらも全裸で、予想した通り、手足や目の傷は見当たらない。

 

…もうすぐ、本物のあたしは目覚めて、シンジと再会するだろう。

今朝、ミサトの車の中でシンジに告げたことはこれで果たされるはずだ。

 

もうこれ以上、シンジのヤツを悲しませずに済むわ…。

 

裸の胸をなで下ろすと、安堵からか更に余裕が出てきた。

 

「…もしかして、我ながらとんだお節介なのかしらね?」

 

目蓋を閉じたままの自分へ話しかける。眠っているみたいで返事はないのは想定内。

構わず、小さなアスカは続ける。

 

「本来、ただ消えてしまうだけのあたしたちに、形を与えて一ヶ月の猶予をくれるなんてさ」

 

その奇跡は、誰の意思に拠るものなのだろう?

まあ、今となってはどうでも良いけれど。

 

「ったく我ながら、難儀な性格だわ…」

 

自嘲する彼女の隣を、一つの泡沫が通り過ぎていく。

ボロボロのプラグスーツを着た自分。シンジへの憎しみを担った彼女。

しかし横顔にはとうに憎しみは無く、透けるように霧散して周囲に溶けていく姿を、小さなアスカは横目で眺めている。

 

憎しむ心は復讐の果てに赦しを得て、満たされた。

満たされた心は、本来在るべきところに戻り、消えゆくのみ。

 

なのに、いまだあたしが消えてないのは、なぜ?

 

理由は単純。

なぜなら、あたしは満たされていない。

 

小さなアスカは、本体である自分を睨み付ける。

今さらながら、自分がシンジに対する好意と愛情で出来ていることを知っていた。

 

時に、どうすれば愛情は満たされるのだろう?

世間一般の恋人たちは、どうやって愛情を確かめあう?

 

…なんのことはない。

本来、潰えるだけの愛情を充足させるべく形を得たというのに、初期形態からにして無慈悲で残酷な罠が仕掛けられていた。

 

根元は、あたしがシンジに対して臆病だったのか、それとも本体の妬心ゆえなのか定かではないけれど。

それでも、どだい最初から無理な話だったのだ。

 

―――この小さな身体では、シンジとキスを交わすことも、ましてや抱き合うことも出来やしないのだから。

 

知ったのは、傷だらけのもう一人が消えた夜。

翌日のデートを最後に、アスカは自らの気持ちを悟りつつ、それを充足させることを考えないように決めた。

 

だって、泣き叫んで愛してと訴えて、どうになる?

抱いてもらうのは、物理的に無理。

確かにシンジは愛情を持って接してくれてはいるけど、真の充足には程遠い。

 

 

それでも、満たされないまま、このままの姿形で生きていくことも出来るかも知れなかった。

シンジが推測していたとおり、本来、エントリープラグの中に身体を投じる必要もなかった。

 

だけど、本当の自分が還って来たとき―――あたしは、邪魔な存在になり下がる。

本当の自分なら、シンジと愛し合うことは十二分に可能だ。

けれどその時、小さな自分は無用で惨めなだけの第三者でしかない。

 

「…そもそもが歪んだ存在のあたしが消えるのは当たり前よね」

 

そう悟ったとき、小さなアスカに出来ることはもうない。

なので、ひたすらシンジとの深い関わりを避け、この日に備えた最後の一週間。

ゆえに、今日の小さな彼女が取った行動は自殺と形容してもよいのかも知れなかった。

 

シンジには別れの挨拶を済ませている。

アイツは聞き取ってくれただろうか?

ま、無理ね。最後の最後に半分くらい飲み込んでしまったもの。

 

 

『あたしのこと……忘れてもいいからね』

 

 

どうせ消えるのなら。

綺麗さっぱり、シンジの心からも消えてしまいたかった。

 

「なーに、あたしが消えても、本当のあたしがアイツの傍に行くんだから、同じことよ…」

 

あたしはあたしであって、他の何者でもないのだから。シンジにとってのあたしの意味は変わらないのだから。

 

 

黄色い液体の中に浮かびながら、身体を丸めて小さなアスカは最期の時を楽しむことに決めた。

自らが消えるまでの残された時間を、この一ヶ月の出来事を思い返して楽しむのだ。

 

楽しかった。本当に楽しかった。

そう、この思い出だけはあたしだけのもの。

本当のあたしだってもってない、あたしだけの宝物。

 

本体である自分を見上げる。

 

へっへーん、羨ましいでしょ?

欲しいったって分けてあげないもんね。

 

……でも、アンタは、これからシンジともっと思い出を作っていけるんだからね……。

 

………

 

……

 

…あれ?

 

なんで、あたし、泣いてるわけ?

 

はは、おかしいよ。

 

おかしいよね…………。

 

 

 

 

ぼこりと、周囲が泡立つ。

終わりの予感が、小さなアスカの全身を貫いた。

 

 

 

 

 

大丈夫。

あたしは大丈夫。

怖くない。

だって、あたしは、これからのあたしは、シンジとずっと一緒にいるんだから……。

 

 

 

 

 

 

視界が歪む。世界が歪む。

 

 

 

 

 

 

 

大丈夫、大丈夫…。

怖くない、怖くない。

 

 

 

 

 

 

 

指先が崩れ始める。

小さな身体の崩壊が始まる。

 

 

 

 

 

大丈夫、大丈夫よ…。

 

 

 

 

 

しかし崩壊が二の腕まで及んだ時。

とうとう、小さなアスカは絶叫した。

 

 

 

 

 

いや、消えたくない!!

シンジと一緒にいたい!!

アイツと一緒にいたいずっと一緒にいたい!!

この気持ち、無くしたくないのぉっ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

崩壊は止まらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いや!

                    いや!

            いや!

                        いや!

         いや!

  いや!

                   いや!

                          いや!

      

      いや!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いやだよ 消えたくないよ

 

消えたくないよ

 

忘れたくないよ

 

消えたくないよ

 

忘れたくないよ

 

消えたくないよ

 

忘れたくないよ

 

消えたくな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コントロールルームから実験室を窺うガラスの表面に額を付き合わせ、シンジはじっと弐号機を見入っている。

 

リツコの説明を聞き終え、落ち着きを取り戻し、他のみんなに会えるだけの気力を回復させた時には、すでに計画は最終フェイズに達していた。

 

『私のことを恨んでもいいわ』

 

隣室でのリツコの声が甦る。しかし、実際に恨む気は全くなかった。

薄々シンジなりにも察してはいた。

再生計画にかけなければ余命はあと数年。それほどアスカの身体は傷んでいたことを。

 

最先端の医療をもってしても回復不能な彼女の身体を癒すには、他に取るべき方法はなかったはず。

よって感謝こそすれ恨むのは筋違いだ。

 

だけに、今の彼の心を支配するのは自責の念だけだった。

僕がもっとうまく…なにかやりようがあったのではないだろうか。

もちろん、いくら自分を叱咤しようが結末は変わらないだろう。

であればこそ、出来ることはなかっただろうか…。

 

「あまり思い詰めないほうが良いわよ、シンジくん」

 

紙コップのコーヒーを手渡しながらリツコ。

素直にシンジは忠告を受け入れることにする。

話でもしなければ気を紛らわせなかったこともあるが、ふと疑問が残っていたことに気づき、率直に訊ねてみた。

 

なぜあのアスカは小さくサルベージされたのか。傷だらけのアスカは夜だけしか現れなかったのか。

シンジ自身の立てた仮設と答え合わせをしたかった。今となっては全く建設的な話ではないのだろうけれど。

 

「…たぶん、小さなアスカは24時間シンジくんと一緒に居たかったからじゃないかしら?」

 

仮説其の壱と前置きをしてリツコは説明を始める。

 

もともとが排斥された心であり、心という全体にとって愛情はその一部に過ぎない。

だから等身大で顕在することが出来ないと仮定した場合。

傷だらけのアスカは夜間、しかも午前0時~3時までの三時間しか顕在化された様子を目撃されていない。

等身大の顕在時間を三時間とすれば、単純に1/8サイズであれば24時間顕在できるのではないだろうか。

また、傷だらけのアスカが真夜中に現れた理由は、もともと人間の負の感情自体、そのような人目に触れない時間帯に顕在するのではないだろうか―――。

 

「後付ならいくらでもできるわ。だからこれも推測ではなく妄想ね」

 

て笑うリツコに、シンジも曖昧に笑って見せる。

そう、まったく、推測だろうか妄想だろうが今となってはどうでもいいことだ。

 

―――もう、傷だらけのアスカも小さなアスカも、どちらもいないのだから。

 

コーヒーを口に運ぶ。苦みが口中に溢れ、飲み下した後も喉の奥に残る。

それが液体の仕業ではないことをシンジは知っていた。

この苦みは、後悔の味。

 

小さなアスカに対する諸々であることは勿論だが、今のシンジの胸は、彼女の『ばいばい』の前の言葉を聞き損ねたことに対する後悔が占めていた。

 

あの時、アスカはなんといっただろう?

おそらく、回答は二つ。

 

『あたしのこと…忘れないで』

 

『あたしのこと…忘れていいからね』

 

おそらく、後者だろうと思う。あのアスカの性格からして間違いないと思う。

それでも、本人がはっきりと口にしてくれなかったことが、寂しく、悲しかった。

涙がこぼれそうになってきて、慌ててシンジは顔上げてリツコに話題を振る。

 

「じゃあ、仮説其の弐は…?」

 

その台詞を、伊吹マヤの声が切り裂いた。

 

「…弐号機が! 弐号機が!!」

 

間髪もおかず、シンジもマヤの絶叫の原因に気づく。

コントロールルームと実験室を隔てる強化ガラス。それをビリビリ震わせるほどの咆哮。

 

「……再暴走なの!?」

 

ミサトの声が室内に響く。

オペレーターの三人は答えない。いそがしくディスプレイとコンソールを目で往復し、答えを模索しているようだ。

シンジも絶句して、隣室の半壊した紅い巨人が咆哮するのを眺めるしかない。

しばらくしてただ一人、リツコだけは青ざめた唇から震える台詞を吐き出した。

 

「………これは、断末魔よ」

 

茫然とシンジは強化ガラス越しの光景を見る。

断末魔。生き物が死に至る寸前の魂の悲鳴。

ネルフに初めてきた時、リツコからこういわれたのを思い出す。

 

『人造人間エヴァンゲリオン』

 

人間であるなら、死ぬのだろう。断末魔をあげるのも無理はない。

では…中にいるアスカはどうなる? いまだサルベージ作業は完了していないのに。

 

「シンジくん!?」

 

マヤたちの声を背に、シンジはコントロールルームを飛び出していた。

行ったところで何か出来るとは思えない。それでもじっとしては居られなかった。

 

アスカがいなくなったら、僕は…僕は…!!

 

照明がついてないにも関わらず階段を全力で駆け下りるシンジ。

おかげで二回ほど転んだが、気にしてなんかいられない。

歯を食いしばって痛みをこらえ、立ち上がって実験室の扉を開け放つ。

 

途端に、断末魔の声が風圧のようにシンジの全身を包んだ。

しかしそれも一瞬のこと。あとはあっけないほどの静寂は横たわる。

 

…静寂?

 

不吉な予感に囚われ、ゆっくりと弐号機を見上げるシンジ。

力なく項垂れる弐号機の片腕がだらんと垂れ下がっており、まるで生気を感じない。

機械音がシンジの耳朶を打った。

エントリープラグが強制エジェクトされる音。

溢れ出すLCLがもはやピクリともしない弐号機の身体をつたい、床に滝のように降り注ぐ。

足首まで生命の水に浸しながら、シンジは現実を受け止めるべく努力を重ねていた。

 

…アスカは?

 

見渡す範囲内に、金髪の少女が流れ出てきた痕跡はない。

作業橋を駆け上る。何度か足を滑らせかけたけど、無事登頂。プラグの中を覗き込む。

 

空席がシンジを出迎えた。

作業橋にうずくまり、同じ目線となったコントロールルームへと視線を走らす。

 

強化ガラス越しに、マヤは口元を押さえ顔を伏せた。

シゲルとマコトは、険しい顔でシンジの視線を受け止め損ねている。

ミサトは横を向いてコンソールを拳で叩き、リツコは額に手を当てその表情は判然としない。

 

……失敗、したのか?

 

シンジの身体から力が抜けていく。その場にストンと腰を降ろしてしまう。

 

おそらく、母体となる弐号機が保たなかったのだろう。

一ヶ月のスパンは、半死半生の弐号機の余命も損なっていたに違いない。

 

「…くっ!」

 

咄嗟に、シンジはどこかに怒りの矛先を見つけ出そうとして―――何もできなかった。

ただ一回、鉄橋を拳で殴りつけた。それだけだった。

 

…ジワジワと、心の奥底から悲しみがはい上がってくる。

認めたくない実感が現実を浸食していく。

 

アスカは失われてしまったのだ。永遠に。

 

狂乱の悲しみに至るまでの僅かな静寂。

悲嘆の海に埋没してしまえば、碇シンジという少年の人格は、おそらく再起不能に陥ってしまったに違いない。

だが、実験室内に響いた大質量の落下音が、少年の致命傷に至る道筋を遮った。

 

反射的にシンジが見下ろした先。

死に絶えた赤い巨人の足下に転がる赤い円球。

 

弐号機の…コア?

 

フラフラとシンジは立ち上がった。

胸部に収容されていたそれは、墜落の衝撃で表面にヒビが入っていた。しかも、見る見るその赤色を失いつつある。

まるで死体から剥落した魂のようだった。

 

シンジは半死人のような表情を浮かべて階段を下り、それに近づいていく。

そして、コアの前に立つや否や、猛烈な勢いでその表面を殴り始めたのだ。拳が割れ、盛大に血が吹き出すのも構わず。

 

隣室で見ていた大人たちは、シンジの気が触れたと思ったに違いない。アスカを失った悲しみに耐えかねたのだと。

 

慌てて総出で実験室へ駆け付けた彼らは、シンジを押さえつけると同時に彼の悲鳴にも絶叫で耳を叩かれる。

 

「アスカが! アスカが!!」

 

両手から血を滴らせる少年を抱き留めようとしたミサトだったが、彼の黒い瞳が必死で何かを見つめていることに気づいた。

シンジが見つめる先。色を失ったコアの裂け目にのぞく、鮮やかな肌色。

ミサトらも一様に息を飲む。

 

「誰か機材を!!」

 

ミサトが叫ぶ。ミサトの戒め脱したシンジは、コアの残骸へ殴りかかるのを再開している。

努力は報われ、間もなくコアの半分が崩れ落ちた。

瓦解したその向こう側を見て、シンジの目が歓喜の涙で滲む。

生まれたままの姿で、標準サイズのアスカが包まれるようにそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白いカーテンを揺らす風が頬を撫でる。

優しい風は、ベッドに眠る少女の前髪も軽く揺さぶった。

 

…穏やかな寝顔だ。

包帯でグルグル巻きにした両手のまま、シンジは安堵の表情を浮かべている。

 

無防備すぎる彼女の寝顔を見るのは非礼かとは思うけど、今は一時も目を離したくなかった。

今のシンジは、アスカが目を離した隙に消えてしまうという理不尽な錯覚に囚われている。

 

眠るアスカに傷は見あたらない。

当初の予定通り、無事回復を果たし終えたということだろう。

 

これでの余命の心配もなくなった。

ずっとこの先もアスカは生きて行けるのだ。

 

それを嬉しく思う反面、ある種の寂しさがシンジの胸に去来する。

リツコの言うとおりならば、このアスカは自身が傷を負ったことすら知らない。

自分に対する憎しみも忘れているだろう。

 

眠るアスカは、量産機の陵辱も、赤い海の出来事も全て経験してないことになるのだ。

それはきっと彼女にとっても良いことであるはず。

 

なのに、シンジの胸は微かに痛む。

 

密やかに育っていたという、自分へ向けられるアスカの好意。

好意溢れるアスカと過ごした一ヶ月という長いようで短い期間。

 

それも失われ、二人の関係はあの頃に戻る。

そう、もっとも良好で、もっとも表面的な関係を維持していたあの頃に。

 

それが嫌なわけじゃないないけれど…。

 

ほろりとシンジの瞳から涙がこぼれ落ちた。

 

僕の知っていたアスカはもういない。

喜びも悲しみも憎しみも共にした、あのアスカはもういないのだ。

 

目前で眠るアスカが正真正銘の本人であると知りつつも、涙は止まりそうになかった。

シンジ自身、なんで泣いているのかよく分からない。でも、今はこのままでいいと思った。

 

 

 

 

さわさわと、アスカの長い睫毛がわななく。

続いて、うっすらと開く目蓋。覗く青い瞳。

 

しぱしぱと二、三回まばたきをして、ゆっくりとこちらに焦点が会う。

くっと頬が持ち上がる。その不敵な表情に、シンジはたまらない懐かしさを覚えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…何泣いてんのよ、アンタは。気味悪いわねえ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この物言い。不遜な表情。やはりアスカだ。

 

「うん、おはよう」

 

安堵する気持ちが、更にシンジの涙を加速する。

 

振り出しだ。

もう一度、アスカとやり直そう。

もう二度とあんな失敗はしない。僕だけ逃げ出してアスカを傷つけたりしない。

 

…もっとも、目を覚ましたアスカは、端から僕なんか眼中に無いかもしれないけどさ。

それでも、一度は良好な関係を築けたじゃないか。

 

シンジの脳裏に、小さなアスカの姿が浮かぶ。

彼女の姿が元気をくれる。

 

大丈夫。きっと大丈夫。

僕を、彼女が受け入れてくれるように頑張ろう。

 

そして、もう一度同じ関係を、もしかしたらもっと良好な関係を結ぶことが出来たなら。

お互いのことを大切に思える日が来たなら。

 

一ヶ月だけいたもう一人のアスカのことを。

小さな恋人のことを話して聞かせよう………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな不敵な表情の彼女の右目から、一滴の涙が伝う。

驚くシンジに、ゆっくりとアスカは表情を歪めた

まるで泣き笑いのような表情を浮かべながら、彼女は言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…今度は首締めたりしないでよね。あれは本当に気持ち悪いんだからさ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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