高校一年生、碇シンジの起床時間は普通である。
早くもなく遅くもなく、目覚ましが鳴る寸前に目を覚ます。
時刻は6時45分。
制服に着替えを済ませ1LDKのキッチンへ行けば、セットした炊飯器が炊きあがりを示すランプを灯している。
一応炊飯器の蓋を開け出来あがり具合を確認。
満足気に付属の立てかけてあるヘラで中身をかき回してから、シンジは制服の上にエプロンを着用。
手早く朝食の準備を始める。
本日のおかずはネギと麩のみそ汁にだし巻き卵。それとカラシ明太子という至ってシンプルなメニュー。
卵を焼き終えたフライパンをそのままにソーセージを一本だけ焼き上げたが、別段これは彼のおかずではない。
だからといって、昼食の弁当に入れるわけでもない。だいたい弁当そのものを作ってもいないのだ。
焼き上がったそれを小皿に盛りつけ、両脇にマスタードとケチャップを、ちょんちょん。
馬鹿丁寧にラップをかけてからそれを食卓の中央に据えた。
他にも食卓の上には布巾の掛けられたバスケット。中身は食パン、菓子パンが幾つか。
次に取ったシンジの行動こそ不可思議といえるかも知れない。
小さな、それこそ子供用シロップを飲むときに使うような小さな容器を三つ用意。
それぞれに、水、牛乳、オレンジジュースをセッテイング。まるで科学の実験か何かの魔術の儀式のよう。
全部にラップをかけたのを確認してから、シンジの朝食はようやくスタートする。
TVも付けず黙々と食事を済ますシンジ。それでも食前と食後の挨拶は忘れない行儀の良さは大したものである。
「ごちそうさま…」
誰ともなしに呟くと後かたづけを開始。
一人分の食器の洗浄など造作もないこと。
食器の水滴を軽く振るい落とし、あとは水切り用の容器に入れておけば夕方には完璧に乾いてるという寸法だ。
エプロンを外して洗面所に河岸を変え、歯磨きと身だしなみのチェック。
一旦部屋に戻り鞄や携帯、財布といった所持品のチェック。
完璧に出かける支度が整う時刻は7時50分前後。
「いってきま…」
言いかけて慌てて口をつぐみ、シンジはそっと自宅を出た。
高校生の一人暮らしには贅沢と思われるマンションを後にする道すがら。
彼が考えることは、始まったばかりの高校生活への不安ももちろんあったけど、それより勝る深刻かつ大変なこと。
これにもいい加減慣れてもいいのかも知れないが、やはり心配の種は尽きない。
暑い日差しに胸元のネクタイを弛めながら、我知らずシンジは呟く。
「…大丈夫かな、アスカ…」
高校一年生になるはずだった惣流・アスカ・ラングレーの起床時間は遅い。
時刻は9時も過ぎてから、のそのそと寝床から起きだしてくる。
これは、別段学校をさぼっているわけではない。体調不良というのとある意味近いかも知れないが、厳密には違う。
今のアスカの身体は、以前の1/8というまるで子供向け幻想小説の主人公のような有様なのである。
この格好に至るまでの事情と経緯は割愛するとして、その小さな姿で外出しようものなら一体どうなるだろう?
アスカ自身、まるで巨人の国に迷い込んだような状態になるのは明かだ。
そして彼女の姿を見かけた人間の多くは、そっと見逃してはくれないだろう。
大騒ぎになるのはちょっと考えれば誰にでもわかるもの。ツチノコばりに上へ下への捕獲騒ぎに発展するのは自明の理。
下手をすれば、有史以来初めての現存する小人として、世界的な博物館に展示されかねない。
ゆえに、アスカは真新しい制服に袖を通すこともなく、シンジの家での隠匿生活を強いられてるわけだ。
「ふわあ~あ…」
軽く伸びをしてベッドから降り、アスカが押し開けたのはサイドボードの下段の扉。
リビングの一角にあり、ガラス張りの扉にカーテンが設えられたそこが、現在のアスカのプライベートルームだった。
大きめのシャツ一枚が彼女の寝間着。スラリと伸びる形の良い足はそのままに、ノコノコとリビングへと這い出す。
このような艶姿は、家主が学校へ行っているからなのはもちろんだが、実のところ別の意味もある。
サイドボードの脇に置いてあるバスケットケース。正面が観音開きになるその中身は、伊吹マヤ手製の1/8サイズの服の数々。
服の縫製も素材も悪くない。むしろ玄人はだしの腕前である。
問題は、その沢山の衣類の中に一般的な趣味のものが極めて少ないこと。
例によってのゴスロリセットは五組入っている。他にもメイド服がシックとミニのが三組ずつ。
他にもチャイナドレスはまあいいとして、ナース服や巫女装束まで入っているとなると、いかなアスカといえど青筋を浮かべて頭を抱えざるを得ない。
こんな普通じゃない服ばっか! あたしのこと、着せ替え人形と勘違いしてるんじゃないの!?
そう息巻いたところで、制作者であるマヤは涼しい顔でこんなことを言う。
『うん、分かったわ、ごめんね。別にそういうつもりはないのよ。本当よ? ―――あ、そうそう、今度はアスカの通う高校の制服を作ってきてあげるね♪ あと、他に着てみたい服とかあったら教えて。アニメや漫画のとかでも大丈夫よ~』
『……………』
だからといって衣類はマヤに一任しなければならない現状で、供給を断つのは得策とはいえない。
衣類自体はシンジに作らせることも可能かも知れないが、さすがに下着類までは…。
よって、アスカが寝間着のまま着替えずウロチョロするのは、マヤに対する無言の抵抗といってもいいかも知れない。
そんな彼女が向かったのは、サイドボードに隣接してあるティッシュの箱程の物体。
プラスチックらを組み合わせたこれは、百円ショップで買ってきた霧吹きにシンジが改造を加えた物。
にょっきりでた霧吹きの頭の部分を押せば水が出る。正面には小さな鏡も設えられていた。
アスカ専用の1/8洗面台である。
顔を水で洗い、16分割にしたシルクのハンカチの一つで顔を拭くと、ようやく目が覚めてきた。
鏡に向かい髪を梳かすのは、デパートのオモチャ屋で購入したリカちゃん人形用のブラシだ。
なんか安っぽいが、これに文句をいっても始まらない。
とりあえずの身だしなみを整えて、アスカは朝食を摂ることにする。
さっそくダイニングキッチンへ足を向けるのは、食事を摂る場所として全く適当である。
向かいながら、以前より遙かに低い視界にはもう慣れた。
慣れないのは、単純に移動距離が倍加し、移動そのものが大変になったことである。
昨今では建築物のバリアフリー化が進み、このマンションも例外ではないため室内の段差は気にはならない。
問題は、ある意味もっと明々白々。
アスカは、自分の背丈より遙かに高いテーブルを見上げる。
シンジの準備してくれた食事は、そのテーブルの上。
軽く両手をはたき肩をほぐすアスカ。
そして勢いよく椅子の台座の部分へジャンプ。
縁につかまり反動を付け、懸垂の要領で台座へ身を乗り上げる。
続いて食卓へとジャンプし、先ほどの手順を繰り返して、ようやくテーブル上へと身体を移動することに成功。
やっと中央にある朝食まで到達できるというわけだ。
こんなことをしなくても食事そのものを下ろして貰えばいい話なのだが、それはペットのエサみたいでイヤ、とアスカが断固拒否。
彼女自身、食前の運動には丁度良いと思っている。
さてはて今日のメニューは、とラップに包まれた中身を見るなりアスカはげんなり。
まあ、焼き冷めしたソーセージ自体食欲をそそるものではない。おまけにうんざりするほど量がある。
縮小してから食事に対してコストパフォーマンスは上昇はした。
なにせ、あらゆるものの摂取量が以前より少なくて済む。
小さなキャップに満たされた牛乳、水、オレンジジュースを見てアスカはまたげんなり。
量はあるのはいいが、ほとんど丼サイズのそれらである。年頃の乙女が飲むものとして、器も容量も相応しいものなのだろうか。
おまけに、傍目に飲んでいる姿もマヌケ極まりないのだ。
しかしながら、背に腹は変えられない。
アスカは丸太くらいに見えるソーセージにかぶりつく。毎度毎度気分はボンレスハムの丸かじりに等しい。
それをおかずに卓上のバスケットのパンを囓る。
こちらが千切ってから口に押し込んだ。
以前丸かじりして食べきれず、シンジに『ネズミが囓った後みたい』と笑われた屈辱ゆえである。
牛乳を二口、オレンジジュースを三口飲んで、あとはお腹いっぱいだ。
後は丁寧にラップをし直して、食卓からひらりと身を躍らせる。上着はまくりあがり、ショーツまで丸見えだが気にしない。
今度アスカが移動したのはリビングのTVの前で、床下に置かれたリモコンの電源ボタンを行儀悪く素足で押す。
途端にTV画面から大音量。耳を押さえ悶絶するアスカ。
いや、正確に言えばリビングのソファーから見るには丁度良い音量なのだが、TVの真ん前で、しかも小さなアスカにとっては轟音に等しい。
慌ててまたもや素足で音量マイナスのボタンを、過ぎ去りし日の鈴原トウジの野球帽とばかりに踏む。踏み抜く。
ったく、シンジのバカ、音量を下げておくようにいったのに!!
悪態をついてから、ほとんどミュート状態のTV画面のチャンネルを次々と変えていく。
平日の午前9時半過ぎである。当たり前だがどこもワイドショーの続きや朝のバラエティ番組だ。
というわけで、アスカはTVのリモコンをビデオ出力のチャネルへ設定。隣に転がっているDVDプレイヤーのリモコンの再生ボタンをポチリ。
始まるのはレンタルしてきたものの続きだ。最近のアスカの専らの暇つぶしである。
映画館並みの大迫力。重低音もこの小さな身体にはズンズン響く。
それで見るのは海外のコメディドラマなのだから、折角の迫力もある意味無駄かも知れない。
けれど、これが今のところ最も有効な娯楽だ。
なにせこのサイズで本や漫画を読むのは、出来なくもないが疲れる。だいたいページをめくるのも大変だ。
TVゲームとなればもっと大変で、大迫力の画面はDVD鑑賞に匹敵するが、この体格ではコントローラーの操作が覚束ない。
一度無理矢理やってはみたが、RPGはテンポが悪くてイライラしてしまうし、アクションゲームは殆ど体感ゲームの世界。
どっちにしろ、体力を使うため気軽に楽しめる類ではないのだ。
30分ドラマの二話分を見終えたところでアスカは飽きてしまった。
それも当然で、ここ一週間一日の半分はDVDだけを見て過ごしてるといっても良い。
だからといって今のアスカにあらゆる家事は不可能である。
掃除は広すぎて疲れるし、洗濯物は干せないし、せめて食器を洗おうとして溺れかけたのも記憶に新しい。
となれば、次にすることの選択肢も限られて来る。
TVの電源を落としたアスカが向かったのは自分のプライベートルーム。そこにあるのは、自身のパールピンクのスマートホンだ。
もちろんサイズは標準だ。しかし、昨今の技術革新で軽量化は進んでおり、小さいアスカでも持ち運ぶ事は可能。
同時にコンパクト化も進んでいるのは当然で、タッチパネルの操作も今のアスカにとってリモコンを弄るのよりは楽だ。
スマホを使ってのネットサーフィンが、アスカの新たな暇つぶしだった。
普通に使えば小さな画面も、今の彼女には丁度いい感じのそれこそ大型インチのTV感覚の画面サイズ。
出てくる文字の大きさも、まあ見にくくはない。
ここ数日で比較的増大したブックマークから、お気に入りのサイトを表示する。
記事を読みながら面白い画像は保存。一頻り馴染みのサイトを見て回り、次はメールチェック。
特に受信していなければ、まずは赤木リツコ博士宛に今回の事態進捗状況の問い合わせ。これは日課になっているといっても良い。
そして次がある意味メインディッシュ。
シンジに対してのメール。それもイタズラメールが多い。
夕食や雑貨品といった買い物の依頼から端を発して、今はネットで発見した面白画像を送り付けるのが日常茶飯事。
返信は、早ければ授業の合間の休み時間に律儀に戻ってくる。
身体が元のサイズの時はそれほど頻繁にメールを交わした記憶がない。
なのにわずかなタイムラグのあるこのやりとりが、アスカは好きになっていた。
シンジがつぶさに学校の様子を教えてくれるのが嬉しかった。
我知らず、スマホを操るアスカの頬が緩んでいる。
―――アイツが、学校で、どう過ごしているのかわかるだけで、楽しい。
メールを打ちながら、ふとデジタル表示の時計を見る。
11時少し前。三時限目前の休憩時間の頃だ。今送ればすぐに返信が来るだろう。
そういうわけで、足を組んだ大根が木箱に腰を降ろしているというシュールな面白画像を添付。送信ボタンを押してやる。
そして待つことしばし。
返信は、ない。
苛立ったアスカは、件名だけのメールを乱れうち。
<どうして返信よこさないの?> <メール届いている?> <ちゃんと読んでるの?>
<さっき送った画像、爆笑もんでしょ!?> <いーからちゃっちゃと返信しなさいよ!>
<あと10分で返信しないと殺すわよ!?>
都合6件叩きつけるように送りつけて待つも、やはり返信はなし。
なんだろう? 一体どうしたのかしら?
不安に思ったアスカは、電話帳のメモリを操作。何故か一番発信数が多くなっているのに眉をしかめながら、シンジへと通話を開始。
『…留守番電話センターです。ただいま電話に出られません。用件のある方は、発信音の後にお名前とメッセージを…』
との素っ気ない反応。授業中であれば当たり前かも知れない。
なのにほとんど半瞬でアスカは激高した。自分でもよく分からないけれど、頭に来た。
だから発信音が流れた直後、電話口に向けて彼女は絶叫する。
「きゃー! いやー! ダメー! シンジ助けてー! 襲われるうぅううううー!!」
即座に通話ボタンを殴ってオフ。あとは知らんぷりでスマホを放置。リビングの絨毯の上に寝っ転がる。
まったくなにやってんだか…。
自嘲気味のつぶやきは、高すぎる天井にぶつかる前に消える。
―――正直、自分自身の心の動きを、アスカは持て余していた。
最初こそ否定して、再生計画の副作用か何かによる情緒不安定なのだと納得させていた。
しかし、一週間近く経った今となっては、それが自己欺瞞であることに気づいている。
自分の中にある感情。シンジへと向けられる感情。
それが紛れもなく正のベクトルで持って、アスカの小さくなった身体をかき回していた。
あたしは、シンジの事が…。
その圧倒的な力に、アスカは翻弄されているといっても良い。
どうしてそうなってしまったのか。
首をひねったのも一切ではないのだが、シンジの姿を見るとどうでもよくなってしまう自分がいる。
はっきりいって重症だ。自覚症状はさすがにある。
…もしかして、この感情の高ぶり自体が再生計画の作用? そんなバカな。
しかし、皮肉なことに、現在の状況が、アスカのストレート極まりない感情の発露にブレーキをかけていた。
単純に、この1/8の小さな身体。
この姿のまま、愛だ恋だと語り合うのは無理がありすぎる。
更に、もっと物理的な行為に及びたくても、この姿ではそれもままならない。
まあ、あと一ヶ月。いえ、三週間の我慢よ!
強く言い聞かせ、自制する。結果、暇に明かせたアスカの行動は愛憎裏返しの物になる。
先ほどのイタズラメールなど序の口で、室内のいたる所にトラップを作ってシンジを陥れようとしたことも一切ではない。
もっともそれらの苦心したトラップも、正常に発動したのは6割に過ぎず、どれもダメージを与えたとは言い難い。
たとえば、廊下の端に結びつけたロープの端を隠れたアスカが引っ張って、シンジの足をからめさせ転倒させるというトラップ。
これは見事なまでに失敗した。
もともと地力が足りなかったからせいもあるだろう。
足に絡まったロープに全くシンジが気づかず歩き続けたものだから、その端を握ったままアスカは軽い空中遊泳を楽しむ羽目に陥った。
ならばもっと精神的な攻撃を、と冷蔵庫の中の卵に悪戯を試みる。針で極小の穴を開け、中身をこっそり抜き出してしまおうという作戦だ。
中身は、いっそコショウにでも入れ替えてしまえばいい。何も知らず、目玉焼きを作ろうと卵を割ったシンジは、くくく…。
しかしこれは、まず冷蔵庫を開けるのに数時間要した上、卵に作業中、その扉が閉じるというアクシデントに見舞われた。
中からこじ開けることもままならず、真っ暗な中でガタガタ震える小さなアスカをシンジが間もなく発見してくれたのは、たまたま彼が早退して来たという幸運ゆえに他ならない。
『…何やってるのアスカ?』
『見りゃわかるでしょ? 外が暑いから涼んでいるのよ! そんなこともわかんないのバーカ!!』
……ごく最近の遠い記憶に想いを馳せ、アスカは反動を付けて上体を起こす。
その口元が歪んで見えるのは、全く新たな暇つぶしを思いついたからだ。
スキップしそうな勢いで、それでも相当な距離を移動して、彼女が辿り着いたのはシンジの寝室の前。
いわばここがシンジのプライベートルームと言える。
ドアノブのある扉ではなく引き戸なのが幸いだ。今のアスカなら、指一本の隙間からこじ開けることが出来る。とはいっても、隙間に身体をすべり込ませた挙げ句、背中と足を突っ返させ、全身をフル活用しなければならないが。
ともかく隙間を作り、アスカはシンジの寝室の先入に成功。
あまり日当たりの良くない部屋だけれどカーテンは開けられ明かりは十分。
そびえ立つ勉強机に、アスカは身震いする。
白磁の頬に赤みが差していることからも分かるとおり、彼女は興奮していた。
本日の暇つぶし。
『潜入! 碇シンジの寝室に隠された日記を見た!』
アスカの脳裏に響くのは超絶ナレーションと緊張感溢れる効果音。気分は完全に川〇浩探検隊である。
「さあて…」
悪魔のような笑みを浮かべながら手足をほぐし、アスカはダッシュ一番ベッドの縁に飛びかかる。
勢いそのままに、くるっと前転してベッド上に着地。
続いてベッドの上で何度も十分に跳躍。スプリングの力を溜めるだけ溜め込んでの大跳躍は、原寸大の人間にも真似はできないだろう。
かくして見事にアスカは勉強机の上への到達に成功する。
軽く乱れた呼吸を整え、乱れた髪を撫でつけながらアスカはニヤリと笑う。
目前には整然と並ぶノート類。今の自分の背丈より高いそれを引っ張り出して机上に展開させる。
さあて、一体なにが書いてあるかしらん?
さっそく真新しいそれをめくれば、何も書いてない。
ぱららー…とめくり一冊を見終えたけれど、全編通して何もない白地。
なんのまだまだと二冊目に突入するも結果は同様。
三冊目に突入して、アスカは薄々気づいてくる。
しかし彼女は若さゆえの過ちは認めたくないお年頃。
結局、並んでいた五冊のノートすべての検分を終えてから、叩きつけるように閉じて蹴りを一発。
「なによ、これ全部新品のノートじゃないのよ!!」
今月から新高校生のシンジであるからして、それに合わせてノートも新調しているのは当然であろう。
ようやく現実に気づくもまさしく後の祭り。
しかも原因は自分の察しの悪さによるものだから、シンジに責任転嫁をするわけにもいかない。
いや、そもそもシンジを責める為にここに来たんじゃなくて…。
他にめぼしいものは机上にはなく、アスカは机の端に座り込んでで足をブラブラさせた。
小さい身体から見下ろす光景は、それなりの高さで乙なものだ。体感的に10メートルくらいだろう。
ぐっと内側に降ろした視線の先には引き出しの取っ手。
それを見て目を輝かせる彼女の頭脳は、以前より明敏さを欠いていたかも知れない。
よくよく考えてみれば、重要な事を書いた日記など、机の上に放置するだろうか?
このような引き出しの中に注意深く隠されているのが自然というものだ。
アゴの下に人差し指をあて、アスカはしばし考え込む。
目算で距離を測り、頭の中でも演算を繰り返し、勝算を見つける。
自分が今まで座っていた縁に手をかけて、ぶら下がるような格好になるアスカ。
そしてピント伸ばした右の素足を取っ手に引っかけて、左の素足は殆どの胸の高さまであげて、踏ん張る。
ガタガタとゆっくり開き始める引き出しは、元が硬いのかアスカが非力なのか。
更に力を込めて、アスカは踏ん張る。
ジリジリと引き出しは動く。もう少し、もう少し…!
果たして、唐突に引き出しは開いた。
どこかが引っかかっていたのか、単に硬かったのか、理由は定かではない。
確かなのは、完全にアスカが力を込めたタイミングと合っていなかったこと。
「きゃあああ!?」
引き出しの飛び出す勢いに咄嗟に対応できず、取っ手に突っ込んだ足はそのままに、アスカの両手は机の端から離れてしまう。
勢いは止まらず、足を支点に身体が大きく右に倒れる。
必死で手を伸ばすアスカ。しかし、引き出しの端には手が届かない。
するとどうなるか。
アスカの身体は、何もない空間に投げ出されてしまったといってもいい。
一瞬で血が冷める。背筋が凍る。
大きく旋回する視界に、アスカの脳裏を色々な光景がよぎる。
避けようもない結果を自覚したとき、きつく閉じた彼女の目蓋に浮かぶのは、シンジの笑顔。
落ちていく感覚の中、強く思う。強く願う。
―――シンジ!!
ガクン、という衝撃とともに、アスカの身体は落下を停止。
何事かと目を見開いた彼女は、瞬時に状況の把握を余儀なくされる。
それも無理なからぬことで、アスカの小さな身体の落下を停止させたのは、彼女が来ていた大きめのTシャツ。
その縁が引き出しの角に引っかかり、窮地を救ってくれたらしい。
どうにか安堵の息をつくアスカ。
おかげで下半身はいうに及ばず、胸の下半分くらいまでシャツがめくり上がってしまっていたけれど、命には替えられない。
その艶姿のままシャツをたぐって引き出しまで戻ろうと考えた矢先、アスカは安堵するのが早かったことに気づき表情を強張らせる。
ビリリと不吉な音を響かせ、シャツに大きな裂け目が出来た。
慌ててたぐろうとすれば、その裂け目は拡大する。
軽く身じろぎしただけで今にも断裂しそうな命綱。
こわごわとアスカは下の光景を見る。先ほどより低くなっているとはいえ、まだまだ落ちたら無事で済まなさそうな高さ。
だからといって、登るのは不可能なか弱いTシャツ。
むしろ健闘しているといっても良いそれの裂け目は、アスカの自重により無慈悲にその領域を拡大しつつあった。
結局、結果は変わらないの? 数秒間伸びただけ?
ある種の諦観に囚われたアスカの脳裏にフラッシュバックする光景。
ずいぶん昔の出来事に感じるそれは、かつての浅間山火口での使徒捕獲ミッション。
でも、今は、シンジはいない。
無様よね、アイツのいない部屋を家捜ししてて転落するなんて。
軽い自嘲と共に、アスカは目を閉じる。それは丁度シャツが完全に千切れる瞬間と一致した。
身体が宙に浮く。後は重力に従って落下するだけ―――。
…………………?
いつまでもやってこない衝撃に、アスカはおそるおそる目を開ける。それは同時に他の五感の解放にも繋がったらしい。
本来、機能してしかるべき聴覚がようやくその声を受け入れる。
「……アスカ! アスカ!!」
視界いっぱいには、どういうわけかシンジの顔。
「え? アンタ、どうしてここに…?」
夢だろうか? ほっぺたを抓る。夢じゃない。
同時に、自分がシンジの両手の上に転がっていることにも気づく。
つまり、シンジが落下中のあたしを助けてくれた…?
ぴょこんと掌の上に座り直し、アスカは救い主を見上げる。
「ねえねえねえ! どうして、アンタがここにいるわけよ!?」
勢いよく再度質問。
「あのね、アスカ。それはこっちの台詞だよ…」
「う…」
自分こそが無断でシンジの部屋に入ったことを思い出す。
どう弁明したものかと言い淀んでいると、なぜかシンジは明後日の方向を向きながら、まくし立てるように言ってくれた。
「だいたいあんな留守電を入れられたら、心配になるじゃないか。おまけにこっちから連絡してるのに出てくれないし…」
またもや唖然としてしまうアスカである。そういえば、リビングにスマホは置きっぱなし。
探索に夢中でコールには気づかなかったのもむべなるかな。
「心配…したんだ?」
自分の非はさておいて、上目遣いで救い主を見つめるアスカ。
「そりゃあ心配だよ。だから、午後の授業サボって帰ってきちゃった…」
大真面目に答えるシンジであるが、そうやって視線を合わせたのも束の間、また弾かれたようにそっぽを向いてしまう。
「なによ、なんで視線を逸らすのよ…?」
ぶーたれながら、アスカの心情は満更でもない。
絶妙のタイミングでシンジが助けに来てくれた。ただそれだけが単純に嬉しかった。
そう、元の大きさの身体だったら、キスの一つもしてやってもいいくらい―――。
だからこそ、シンジの態度が気にくわない。
照れているにしても、こっちは真剣に見ているんだから、答えてくれてもいいじゃない。
「ねえ! なんでこっち見ないのよ。ねえってば!!」
語気を強める。
伴い、更に頬を赤めながら、シンジはチラチラとこちらを見ながら言ってくれた。
「ア、アスカ…、そ、その、きみの今の格好………!!」
なによ格好って?
指摘され、アスカは自分の格好を見下ろす。
そして瞬間沸騰する。
それも当然で、今の彼女の格好は一枚だけ着ていたTシャツの中心が胸の辺りまで真っ二つに裂けている状態。
ショーツはいうに及ばず可愛らしいおへそまで丸見え。更にノーブラの双丘も半分以上見えてしまっていた。
「……きゃ、きゃああああああああああああああ!!?」
悲鳴を上げるアスカであるが、シンジの掌の上では他に身体を覆うようなものは存在しないので、必死で破けた前面部分を寄せ合わせるのみ。
これに輪をかけて狼狽してしまうのがシンジなので、ある意味救われない。
「ど、どうしよう? 何か新しい服持ってこようか!?」
「んなことより、とっとと降ろしなさいよ、バカぁ!!」
アスカ渾身のサマーソルトキックが、シンジのアゴ先に命中した。
なんだかんだで30分後。
食卓の上でふんぞりがえり、偉そうに腕組みをするアスカの姿がある。
今の彼女の格好は、ハーフパンツにタンクトップという部屋着。
彼女の視線の先には、エプロン姿で忙しく働くシンジがいる。
ようやくお互いに色々と落ち着いて、昼食の準備をしている最中だ。
「まったく…」
溜息をつくアスカは尊大な態度。
しかし、内心では深く深く感謝しているし、理由があって黙っているのである。
素直に謝意を表すには機を逸してしまっていた。改めて礼をいうのも気恥ずかしい。
となれば、アスカが取れる態度は、いつも通り居丈高なものくらいしかないのだ。
はっきりいってジレンマである。
ジレンマに思う自分に愕然とする。
ひょっとして、あたしって、シンジに素直に甘えたいわけ…?
そんなことを考えていたものだから、不意のシンジの問い掛けに動揺してしまう。
「ねえ、アスカ。ラーメンは塩と醤油、どっちがいい?」
「ととととと、とんこつ!!」
「…うーん、ごめん、とんこつはないんだけど…」
「じゃ、じゃあ醤油でいいわよ、もう!」
「うん、わかった」
大変素直なシンジの背中に抱きつきたい衝動に駆られ、またもや愕然。
途端に始まる脳内での葛藤。
いやいや、ちょっと待ってよ! なんであたしがシンジに抱きついてやらなきゃいけないわけ?
…そもそも、こんなちっこいままじゃ、それもできないし。
いやいやいや! だからそーいうことじゃなくってね!?
でもでも! あと三週間我慢して、元に戻れば…。
だから無事に戻れるかもわかんないでしょーが!!
違う違う! なんか前提からして間違ってない、これって!?
脳裏で行き交う雑多な感情。
自分でも分類できない様々な意見。
ゆえにアスカは口を閉ざす。
まとまらない想いが口を飛び出すのは嫌だから。
―――じゃあ、まとまったら口にするわけ?
答えは、出ない。
想いの方向は定まっているのに、なぜ?
一抹の不安を、シンジの笑顔が塗りつぶす。
「はい、ラーメン出来たよ」
食卓の上に置かれる丼。
「なによ、色気もなにもない小鉢ね、これって。…ところでシンジは塩食べるわけ?」
「え? 僕も醤油だけど…?」
「はん、アンタ分かってないわねー。二人がそれぞれ違うの食べれば、二つの味を楽しめるじゃないの」
「って、いわれても。アスカ、一人前食べられないじゃないか…」
「残ったのはシンジが頑張って食べりゃいいだけよ。男なんだからさ、それくらい軽いでしょ?」
悪態をつきながらも彼女の両頬は笑っている。
始まりの終わりから一週間。
終わりの始まりから七日間。
全てはまだ幸福の領分のうちにある―――。
NEON GENESIS EVANGELION AFTER
“ MY LITTLE LOVER ”
りとらば!
平日・1~了