鼻歌が反響する。
じゃばじゃばといった小気味よい音とともに、濃密な湯気が漂う。
「…ア、アスカ、湯加減はどう? お代わりもってきたけど…」
浴室のドアの隙間からシンジの声。続いてこっそり間から差し入れられるのは小さな計量カップだ。
「うん、悪くないわよ。それ置いておいてー」
浴槽の中で腕のあたりをゆったりとこすりながらアスカは応じる。
「じゃ、ごゆっくり…」
シンジの声と気配が遠ざかる。
それを確認してから、タオルにくるんだ頭を浴槽の縁にのせ存分に手足を伸ばすアスカ。
今の彼女は1/8サイズであるからにして、入っている浴槽も当然標準サイズではない。プラスチック製の適当な入れ物に改良を加えたものだ。
場所だけは本来の浴室を使っているのは、入浴後の片づけもあるが、おおむね気分の問題である。
浴槽がある場所はタイル張りの床にプラスチックの壁でないと、入浴した感じがしないとのアスカの弁。
ドイツ育ちの日独クォーターのクセに、妙に日本の平均所得層の住居感覚が身に付いているのはどう評すべきか。
「…ちょっと温くなったかな?」
つぶやいて全裸で浴槽から出たアスカは、シンジの持ってきてくれた計量カップまでトコトコ歩く。
やや熱めの中身を浴槽に継ぎ足し、温度を調整する。
立ち上る、温められた芳ばしいミルクの香り―――。
またもやざんぶりと中に入り、その芳香にニンマリとするアスカである。
不慮の事態によって小さくなってしまい難儀したことは数あれど、得したことも皆無ではない。
その代表例の一つが、この牛乳風呂である。
美白効果がありお肌にいい、とは知ってはいても、実際にやるとなれば話は別。
だいたい家庭用浴槽いっぱいに温めた牛乳入れるのに、どれだけの手間がかかるだろう。費用だってバカにならない。
その点、1/8サイズであれば、1リットルの牛乳パックでお釣りがくる。鍋で温めるだけなので、手間もかからない。
うーん、あたしって贅沢ぅ♪
ご満悦のアスカの様子から伺える通り、これが最近の彼女の最大の楽しみであるといって良い。
上機嫌で腕や足をさすり、アスカは珠のお肌に磨きをかける。
乙女の当然の身だしなみも勿論であるが、実のところ別の理由も存在する。
白い湯面に顔を半分だけ埋め、アスカの青い瞳は浴室のドア越しに同居人の姿を見ている。
我知らず頬を赤めるアスカ。白との対比で余計に目立つ。
「うふふ、見てなさいよ、シンジ」
言葉にならないつぶやきは、口元のブクブクという泡と共にタイル張りの浴室へと消えた。
新高校一年生碇シンジの朝は早くもなく遅くもない。
目覚ましの鳴る寸前、6時45分に目を覚ます。
それから身支度、朝食の準備、食事を終え、登校するまでに要する時間は一時間弱。
毎度出がけの挨拶をしようとして、シンジは言葉を飲み込む。
それもこれも、アスカが未だ寝床の中であることに起因している。
『なんで学校にいけないあたしが、アンタと一緒に早起きしなきゃいけないのよ!!』
以前、出来たてのご飯が食べたいなら早起きすればいいのに、と提言したとき、拗ねたような口調でそういわれてから、シンジは何もいえなくなってしまっていた。
アスカだって、学校に行きたかったのだろう。もしかしたら、僕と一緒に通いたかったのかも知れない。
気づいたとき、シンジの心中を締めるのは、彼女へ対する不憫さと罪悪感だけだった。
思い出されるのは、本部が襲撃されたあの日。
初号機のケージで、伊吹マヤの悲鳴にもかかわらず膝を抱えていた自分。
―――あの時、僕が逃げずに闘っていれば、アスカはあんな傷を負わなくても済んだかも知れない。
傷を負わなければ、当然、小さくなってしまう事もなかったわけで―――。
思い至るたび、生乾きの傷痕がじゅくじゅくと痛む。
それからシンジは一切アスカに苦言を呈したことはない。
むしろ彼女のあらゆる希望を最優先する日々が続いている。
そっとマンションを出て学校まで徒歩20分。
道すがらクラスメートから声をかけられる。
「碇くん、おはよー! …身体、大丈夫?」
「おお、碇、今日は顔色いいみたいだな!」
シンジは苦笑して挨拶を返す。
新学期が始まって二週間も経っていないが、不意にアスカのことが心配になって早退した回数は片手の指では足りない。
早退の理由にまさか本当のことを言うわけにもいかないので、全て体調不良で通している。
結果、碇シンジはあまり身体の強くないヤツらしい、とクラスメートと担任に浸透したのも仕方ないだろう。
事実、アスカ絡みでやや憔悴気味に加え、もともと柔弱な外見を持つシンジである。傍目にも十分納得いくイメージを獲得していた。
シンジはシンジで、それを自覚して利用するという強かさも身につけていた。多少の罪悪感はあったけれど。
そんなわけで病弱で物静かな男の子というペルソナを被ったシンジは、どうにかクラス内に埋没することに成功。
「具合悪いとき、遠慮なくいってね?」
「うん、ありがとう」
後ろの席の保健委員になった女子が話しかけてくれる。
それなりに気をかけてもらうことも出来るポジションにいるのは、ある意味幸運なのかも知れない。
アスカがいない以上100%のわけはないけれど、それなりに順風満帆な高校生活の始まりと評してもいいだろう。
「さて…」
常に頭には自宅のことがあったけれど、学生は勉強が本分である。
本日一時限目は数学。シンジはさっそく机の脇に下げた鞄から教科書を取り出そうとした。
「やっほー、シンジ」
聞き慣れた声に、鞄の蓋を持ち上げたままシンジは固まってしまう。
そっと蓋を閉じて辺りを見回す。呼吸を整えてから、もう一回開く。
小さな鞄の小さなスペース。
更に小さいけれど非常に見知った人物が、ヒラヒラと手を振りながら笑いつつもやや不機嫌な声。
「なによ、いきなり閉じることないでしょー!?」
果たして、シンジが絶叫してしまったのをいったい誰が止められよう?
「あ、あああああああああああああああああああああああああぁっ!?」
気づいたとき、クラス中の視線は残らず自分に集中していた。
HRを始めるべくやって来たらしい担任教師も驚いた様子でこちらを見ている。
「…碇、どうかしたのか?」
狼狽したシンジは咄嗟にこう答えてしまった。
「え、えーと、教科書忘れたと思ったら………………ありました」
一瞬の沈黙。途端に巻き起こる、爆笑と失笑の渦。
鞄の蓋を閉じて、シンジはうつむいて赤面するしかない。
「…まあ、今度はもっと小さな声でな」
担任の苦笑混じりの声にはますます小さくなって縮こまるだけ。
おかげで授業が始まっても誰かが笑っているような気がする。誰かから見られているような気がする。
そのような中で、こっそり鞄の中にいるらしいアスカに話しかけるのは不可能。
気もそぞろの数学の授業中、HRが終わった時点で鞄をひっつかんで速攻で早退すれば良かったかもと気づいても後の祭りだ。
ジリジリと待つ一時間目終了のチャイム。
数学の教師が立ち去るなり、鞄をひっつかんで教室を飛び出すシンジの姿があった。
そのままなりふり構わず全力疾走してついたのは、屋上に至る階段の下。
埃っぽいそこの陰は人目を憚るのは絶好の場所で、それでも注意深く周囲を見回してからようやくシンジは鞄を開けた。
「きゅ~~……」
小さなアスカが教科書と弁当箱の隙間で目を回している。
やはり現実の光景であるという事実にシンジはため息をついた。まったく油断も隙もない。いつの間に忍びこんだんだろう?
一方、ようやく三半規管の混乱から回復したアスカはぶりぶり文句を言い始める。
「なによ、あたしが入っているの知ってるくせに、乱暴に走り回ってるんじゃないわよ!!」
「…あのね、アスカ。そもそもどうしてキミが鞄に入ってるのさ?」
常ならぬシンジの真剣な視線に気圧されアスカは文句を中断。更に珍しいことに口ごもる。
「だってさ…暇だったからさぁ…」
しおらしくうつむいて、人差し指と人差し指の先っぽをつんつんさせているのだが、シンジの視線は緩むことはない。
「そもそもなんで人目につかないようにしてるか、分かってるでしょ? 今のアスカは、普通の人に見つかったら、ただじゃすまないんだよ!」
シンジもシンジで珍しく厳しい口調で見つめてくる。
「…う」
たじろぐアスカ。正論なだけに分が悪い。さすがにこの局面では彼女が謝るしかないと思われた。
思われたが。
「…だ、だって、あたしも学校に行きたかったんだもん!」
両手で顔を覆い、アスカは絞り出すような声を出す。
「あたしだって、学校に通うはずだったんだもん! シンジと一緒に通うはずだったのに……!!」
一転、アスカのこの反応にシンジはたじろいでしまった。
全くの感情論。
それを承知してもシンジが怯んでしまったのは、まずに彼女の今の格好。
着ている服は、伊吹マヤ製のこの高校の制服の縮小版。それに、シンジは気づいていないだろけど、牛乳風呂で昨晩身綺麗にしたのも今日のため。
さきほどの主張の通り、よほど高校に通うのを楽しみにしていたのかも、と見て取れた。
他に、アスカの訴えが彼の中の後ろめたさを呼び起こしたのも原因といえる。
そう、この状況の全ては僕に起因するんだ。そうなれば、そもそも責められるのは僕の方で…。
内罰モードに入ったシンジは、顔を覆うアスカが手の隙間から舌を出したことなど知るよしもない。
慰めの言葉も思いつかぬままシンジが口にした台詞は拒絶ではない。どう考えても妥協一歩手前の弱々しいもの。
「でも…その…誰かに見られたら、どうするのさ…?」
「ああ、そんときは、人形のフリするからダイジョブダイジョブ」
ケロっとした顔で答えるアスカ。
「ほら、あたしは黙って身じろぎしなきゃ、まんま子供用の人形みたいなもんじゃん。バレないって」
「…じゃあさ、仮に見つかった場合、僕が持ち主になるわけ?」
シンジはぞくりと身震いする。どんないいわけしようが変態確定、鉄板だ。
「それくらい我慢しなさいよね!」
笑顔でそういわれてしまう。
「頼むから見つからないでよ…」
となれば、シンジは哀願するのが精一杯。
「だーいじょうぶ! ちゃんと鞄の中にいるから!」
アスカはそう請け負ってはくれたけど。
要は見つからなければいいんだ、見つからなければ…。
後ろ向きの希望を見いだしたところで、今のシンジは全力で嫌な予感に襲われている。
どうにもそれを振り払えないまま教室へ戻れば、級友たちの冷やかしとも驚きとも取れる声が出迎えてくれた。
「鞄もっていったから、てっきり早退するんだとばっかり…」
曖昧な笑みを浮かべて自席へつくシンジ。
そろそろと鞄を机の脇にかける。アスカは鞄の側面に穴を開け、授業を見ているとのこと。
鞄に穴が空くのは妥協するにして。そんなことしても暇つぶしになるんだろうか?
まもなくシンジの疑問は氷解された。それも、嫌な予感と見事なまでにユニゾンする形で。
二時限目の古典の授業中。
祇園精舎の鐘の声と一緒にゆっくりと持ち上がる鞄の蓋に、シンジはビビる。
慌てて鞄の蓋を降ろす。
盛者必衰の理を表したところでまた持ち上がる鞄。
またもや慌てて蓋をする。
今度は即座に跳ね飛ばす勢いで蓋が開く。
金具が机に当たり派手な音を立てた。
本日二回目の不本意な注目を浴びて、シンジは泣き笑いにも似た愛想笑いをばらまいて事態の収拾を図る。
予想通り珍しい物でも見るような視線を浴びる羽目になったわけだが、そこは甘んじるしかない。
周囲の視線は冷や汗ものだったけれど、更に背筋を凍らせる事態がシンジの目前で展開され始めている。
どうにか皆の興味も授業に戻り始めたころ。
開きっぱなしの鞄の中からゆっくり這い出てくる小さな影。
シンジの脳裏に響き渡るのは、世界中で大ヒットした呪いのビデオにまつわるホラー映画の日本版テーマソング。
ここで声を上げるわけにもいかなければ、変な動きで注目を集めるのはもっと悪い。少なくとも後ろの席の生徒には気づかれてしまう。
固まって目だけ動かすのが精一杯のシンジの太股に飛び移り、アスカはなんと机上経由で机の中に侵入を果たす。
なんでこのような行動を取るのか。聞きたいけど、ここでダイレクトに話しかけるほどシンジも馬鹿ではない。
思案することしばし、ノートの切れ端とシャープペンの芯を少しだけ折ってそっと机の中に差し入れる。
しばらく待った。
太股の上にそっと差し出された切れ端にはこうあった。
『カバンの中、暑いんだもん』
思わず机に突っ伏しそうになったシンジだが、根性で立て直す。
サラサラと自らもメモをしたため、再度机の中に放り込む。
ちなみに内容は『お願いだから、大人しくしていてね』という切実なもの。
にも関わらず、裏腹に机の中から響いてくる不気味な音。シンジは泣きたいのを必死で堪える。
それでもどうにか古典の授業は終了。
だけど、次の休み時間にアスカと二人きりは不可能だ。なぜなら今彼女は机の中。
まさか机を抱えて教室を出ていくわけにもいくまい。
そういう理由も含めて一刻たりとも机とその中のアスカから目を離したくないシンジであったが、ある種の生理的欲求とは無縁ではいられない。
先ほどから極度の緊張に晒されていたこともあるだろうが、小用の方を催したのだ。
我慢しようかとも思ったけれど、かなりキツイ。結局席を外すことにする。
ダッシュでいけば、ものの数分だ。大丈夫、アスカもその間くらいなら大人しくしてくれるさ…。
いよいよ限界を来したシンジは席を立つ。メモも説明も残さず。
この行動にアスカが疑問を抱いてそっと机の中から顔を覗かせたのも無理はない。だいたい、机の中にそれほど面白いものがあるわけでもない。
また、アスカの行動自体に、他者より発見される隙はなかった。仮にシンジが不在の上で見つかった時のリスクは、彼女も心得てはいる。
だから次に起きた出来事は、誓って偶然が重なった結果である。
たまたま走って移動していた男子生徒の一人がシンジの机に激突。
丁度そのタイミングで外を覗き込む格好になっていたアスカは、衝撃で机の中から放り出される羽目に。
唯一の幸運があるとすれば、投げ出されたのが高低差の激しい床ではなく椅子の上であったこと。
しかしながら、シンジの後ろの座席で頬杖をついていた女生徒からばっちり見咎められた。
「…なに、これ?」
その女生徒の机でダベっていた別の生徒も座席上のアスカを見て声を上げる。
あっというまに教室中にその声は伝播していく。
かくして、急いでトイレから戻ってきた碇シンジの見た光景。
それは、女生徒の一人に握られたアスカを囲んで、他のクラスメートが囁きかわしているという想像を絶する光景だった。
教室の入り口で生きた彫像と化したシンジの全身から血の気が引く。
生きた1/8の人間を目の当たりにしたとき、普通の人間はどう思うか。
どう考えても、小さな人間の方に幸福な結末はありえない。
「…この『人形』、もしかして碇くんの…?」
こちらに気づいたらしい女生徒の声で、シンジは我に返る。同時に一縷の望みも見いだす。
改めてアスカに視線を飛ばす。女生徒が『人形』と称したように、アスカは身じろぎ一つしていない。掲げられてもそのままだ。
どうやら人形に徹するという自らの宣言を守ってくれているらしい。
ならば、まだなんとか誤魔化せるのではないか。
シンジの沈黙を否定と解釈したのか、クラス委員に任命された女生徒が、アスカを受け取り困ったように首を傾げる。
「持ち主不在なら…どうしよう? 一応、職員室へでも持っていって、担任の先生に預かってもらう?」
その言葉に、少しだけシンジは揺れた。
そう、このまま担任の先生に放課後まで預かってもらうのは得策ではないのか? そして、あとで適当な事情を話し引き取らせてもらうのだ。
この場合、恥をかく対象がうまくいけば担任教師一人で済むではないか。
シンジの逡巡をよそに、クラス委員からアスカを受け取る男子生徒。
「へえ、良く出来てるじゃん、これ。どれ、スカートの中はと…」
「やめなさいよー」
「きゃはは、さいてー」
黄色い笑い声が起きた瞬間。
シンジは考えるより早く行動している。
気がついたときは生徒たちの輪の中で、スカートをめくろうとした男子生徒の手からアスカをもぎ取っていた。
沈黙が降りる。
シンジもようやく自分が大それた行動を取ったか気づくが、いまさら訂正しようもない。
覚悟を決めて、蚊の鳴くような声で宣言する。
「これ…僕のなんだ……」
途端に上がる悲鳴。降り注ぐ奇異の視線。
「なんだよ、それ?」
「やだ、キモーい!!」
そのような心ない声にもシンジは耐えるつもりだった。
汚いものを見るような視線にも、耐えられると思う。
そのまま変態のレッテルを貼られても、アスカを守れればそれでいい。
アスカを胸に抱えてそこまで腹をくくったのに、クラス委員の声が事態を更に混乱させてくれた。
「碇くん、もしかしてなんか事情があるんじゃないの? 本当に、そういう趣味なの?」
えらく真剣な瞳で覗き込まれる。そしてシンジは、もともと誤魔化すのは苦手な性分。
「え、えーと…」
言い淀んでるうちに、またも都合のいいように解釈されてしまう。
「やっぱり趣味じゃないのね? なにか特別な事情があるのね!?」
さあ、話してちょうだい! と言わんばかりのキラキラ輝く瞳。
純真な瞳は無言で訴えてくる。本当のことを話してくれれば、私たちはあなたを否定しないわ…。
―――無邪気な善意はより相手を傷つけるという天然色見本がここに存在した。
押し迫られ、咄嗟にシンジが口にした台詞。
追いつめられたがゆえの台詞だろうけど、虚言かどうか。込められた様々な意味に想いを馳せずにはいられない。
「こ、これは! ぼ、僕の恋人の人形なんだ!!」
どよめきが上がる。シンジの手の中で、アスカも思わず軽く身じろぎする。
「や、やっぱりそうなのね!? 恋人の形見の人形を、肌身離さず持っているのね!?」
感極まったのか、大声で脳内ストーリーを展開させるクラス委員の声を、シンジは思わず遮ってしまった。
「え!! い、いや、まだ死んでないよ!!」
全くの事実である。
しかし、そんなことを言ってしまったものだから、更に食いついてくるクラス委員以下女子生徒たち。
「じゃあ、じゃあ、どういう理由!?」
またもや言葉につまるシンジ。
無言で圧力をかけてくる女生徒たち。更に遠巻きにする男子生徒たちも興味津々の様子。
アスカを抱えたままシンジは逡巡する。
もはや誤魔化すことは無理だろう。となれば嘘をつき続けるしかない。
でも、どんな嘘を?
―――ごめんね。
ちらりと手の中に視線を一つ落としてシンジは大きく息を吸う。
決めた。
嘘をつくなら、より近しい嘘を。僕の気持ちには嘘をつかない嘘を。
「この人形は、僕の恋人に似せて作った人形なんだ…」
ゆっくりと手を広げて、アスカを皆に見えるようにする。
「…じゃあ、どこか遠くにいるとか? もしくは入院してるとか?」
クラス委員の声。
シンジはゆっくり頷いて、
「…うん、本当は、四月から一緒にこの学校に通うはずだったんだよ」
嘘の中の、これは真実。
「だけど、ちょっと遠くに行ってるんだ。でも必ず戻ってくるって。必ず。約束したんだ」
まるで自分に言い聞かせるような台詞。しかし本人の意識するところではなかったけれど、妙な説得力があった。
「その間、『あたしのことを忘れないようにずっと持っていなさい』っていわれて…」
遠い目をするシンジに、女生徒は残らず共感したらしい。中には「すてき…」なんて呟く生徒までいる。
男子生徒も、あまりにも真剣なシンジの様子に冷やかすどころではない。一人が、茶化すわけでもなく感想を洩らす。
「にしても、えらく出来のいい人形だなあ。まるで生きてるみたいじゃないか」
シンジは微笑んで答える。
「本物は、本当にこの人形そっくりなんだ。みんなも近いうちに実際に会えると思うよ…」
「……こ・の・おばかぁあああああああああ!!」
放課後の碇シンジ宅。アスカの怒声が響き渡る。
「アンタねえ、どさくさまぎれにしたって、『恋人』ってなんなのよ、『恋人』ってぇえ!?」
食卓の上で、ちっこい身体がプラスチック製のマドラーを振り回す。
その度に、ペチッ! ペチッ! とシンジの頬に当たる次第。
シンジもシンジで、律儀にその攻撃に甘んじている。嘘をついたことは間違いではないから。
なおアスカの攻勢はやまない。
「しかも、『ちょっと今遠くに行ってる』ですって? 『あたしのことを忘れないようにずっと持っていなさい』ですって? いったいいつの時代のメロドラマよ、それわ!!」
アゴ先に先っぽを当てグリグリ。
これまたシンジに弁解の余地はない。でも、あの時ああ言うしかなかったとも思う。
しかし、
「そもそも、アスカがこっそり忍び込むから悪いんじゃないか…」
呟くようにいって、小さな身体を見下ろす。
これには怯んだかに見えたアスカであったが、
「じゃあ、あたしが素直に連れていってって言ったら、アンタそうした!?」
あろう事か逆ギレである。
この反応に、シンジは別の意味で頭を抱えざるをえない。
確かに実際頼まれても、アスカを学校に連れて行くのは断固反対しただろう。
だけど今日の宣言のおかげで、彼女を肌身離さず持っていなくてはならなくなったのだ。
自分でいっておいてなんだけど、クラスの連中の理解を得られて嬉しいけど、これは相当恥ずかしい。
なんとか本日は人形に徹してくれたアスカもずっと演技を続けられるだろうか。
出来たとしても、いつフラストレーションが爆発するか知れたものではない。
まったく、不安のタネは尽きないのである。
「…でもさ」
とりあえずは乗りきった。最悪の事態を免れた安堵感がシンジを微笑ませる。
「近いうちにアスカが帰ってくるってのは、本当でしょ?」
これは、嘘をいったつもりはなかった。希望でもない。
シンジ自身が信じてる確定事項。
見下ろされ、きょとんとするアスカ。不意打ちだったらしく、固まってしまう。
ところがたちまち顔を真っ赤にすると、シンジの鼻の穴にマドラーの先端を突っ込んだ。
「だから余計悪いんでしょうが、バカタレぇえええ!!」
「ふがっ、ふが! ら、らんれぇ!?(なんでぇ?)」
「うるさーい!!」
グリグリ攻撃に徹するアスカの胸に去来する未来のビジョン。
あのクラスに、等身大の姿で通う自分。
碇シンジの“恋人”として迎え入れられる自分の姿。
だって、しょうがないじゃない! コイツがそう明言しちゃったんだからさ…。
その光景が偉く鮮明に思い描かれ、アスカの血流を上昇させるのだった。
夜半過ぎ。常ならぬ幸福に満たされ眠りについたアスカは、喉の渇きをおぼえ目を覚ます。
寝ぼけ眼で例の寝床を這い出て、これまた例の洗面台へと足を向ける。
気分的に牛乳を飲みたかったけれど、そうなればシンジを起こして冷蔵庫を開けて貰わなければならない。
今日は勘弁してやろうっと…。
喉を潤すとしっかり目が覚めた。回り始めた頭がたちまち昼間のことを思い浮かべてニンマリ。
そう、あのバカはよりによって“恋人”っていった。“恋人”っていってくれた。
そのフレーズをリフレインするたび、言いしれぬ甘やかさが胸を転がる。
ニヒヒと笑いながらふとアスカが見上げたのは、シンジの寝室へと繋がる扉。
夜間、自分に異常があった場合すぐに分かるようにと少しだけ開けられた隙間も、今日はなにか嬉しい。
…ちょっとアイツの寝顔でも見てやろうかしらん?
悪戯心まで目を覚ます。
というわけで、そろそろとシンジの寝室へすべり込むアスカ。
途端になにやら呻くような声が聞こえてきた。
何よ、シンジのヤツ。あたしがこんなにハッピーなのに、よりによって悪夢でも見ているわけ?
悪態をつき、アスカはシンジの横たわるベッドの方を見た。
灯りはもちろん点いてない。カーテンの隙間から差し込む月光だけが静かに部屋を照らし出す。
……最初は、見間違えだと思った。
目をこする。目を凝らす。
シンジに覆い被さるようにした影がある。
何かがシンジに覆い被さり、彼の首を絞めている。
ゆえに先ほどからのシンジのうめき声。
アスカは戦慄する。 一体誰が? まさか強盗!? なら、警察に連絡しなきゃ!!
ベッド上でもがき苦しむシンジに、これほどアスカは自分の身体が小さかったことを呪わしく思ったことはなかった。
身体さえ元通りなら、シンジを苦しめる暴漢なんかたちまち叩き伏せて見せるのに。
産まれてきたことを後悔するほどの目に遭わせてやれるのに!!
なのに。
月明かりに照らし出された影の正体をはっきりと見たとき、アスカの激しい怒りはたちまち霧散した。
むしろ、凄まじいまでの恐怖が彼女の小さな身体を握り潰そうとする。
ガチガチと歯の根が鳴る。
目が飛び出しそうになるほど、シンジに覆い被さる“それ”を見つめる。
それは―――赤いボロボロのプラグスーツに身を包んで、右腕と左目を包帯で覆った――――自分。
どうして、あの時の自分が、ここにいる?
ただ、ひたすらに怖い。
ペタリとへたりこんだアスカは、ベッド上の自分と目が会う。
壮絶な殺気を片方だけの青い瞳に宿した自分は、ニヤリと凄惨な笑みを浮かべて、煙のように立ち消えた。
残されたのは震えたままの小さなアスカ。
安らかな寝息を立てるシンジ。
二人の間を何事もなかったように縦断する、淡い月光―――。
NEON GENESIS EVANGELION AFTER
“ MY LITTLE LOVER ”
りとらば!
平日・2 ~了