赤い回転する警告灯を屋根に乗せたツートンカラーの車が、夜の街道を走っている。
植え込みの影に隠れて、パトロールカーをやり過ごしたシンジは、軽く息を吐いた。
別段、やましい真似をしようとしているわけではないのだが、警官から職質されるのが面倒だった。
また、今現在シンジの進む街道筋にはコンビニもない。深夜の買い物と誤魔化すのも難しい状況で、人目を憚るのは当然といえよう。
シンジはポケットから取りだしたスマホを操作する。
画面には、地図が表示されていた。
国道の上に記された光点。これがGPSで表示される、今のシンジが立っている場所だ。
画面をスクロールさせる。国道を遡る形で、地図が展開された。
国道沿いに、ポツポツと打たれた赤い点。
真剣な顔で画面を眺め、視線を上げる。
夜間ということもあり、気温は下がってかなり肌寒い。
パーカーの胸元を摺り合わせ、ジーンズのポケットにスマホごと手を突っ込んで、シンジは看板を見上げた。
それから彼は歩きだす。
真夜中の道をたった一人で。
厚い雲の切れ目から差し込んだ月の明かりが、少年の頭上の看板を照らし出す。
濃い水色の看板の、上の部分が削り取られている。
いまだその看板を交換しないのは、市の予算不足のせいなのかどうかは定かではない。
ただ、削られた文字も、記されていた地名も決して古くはないことだけは確かだ。
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ここから先 第三新東京市
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深夜にもかかわらず、ミサトは二つ返事で駆け付けてきてくれた。
「何がどうしたわけ?」
「いいから、とりあえず車出してちょうだい!!」
スマホを操作しながらがなり立てるアスカに眉をひそめこそしたが、ミサトは黙って車の助手席まで運搬してくれる。
「一体何が起きたの? きちんと説明してちょうだい」
イグニッションキーを捻りながら、ミサトは再度訊ねてくる。
対して、助手席のシートの上でスマホの通話ボタンを叩き切ったアスカは、明らかに冷静さを欠いていた。
「シンジのバカがね! こんな真夜中にコンビニ行くって出て行ったのよ!」
「…はあ?」
「そんでね、さっきから電話かけているのに、出やがらないのよ!!」
「………」
ミサトが、ろくに化粧もしていない顔のこめかみを押さえて溜め息をついたのもむべなるかな。
小さくなってしまった元被保護者を見おろして、噛んで含めるように言う。
「あのね、アスカ。別に夜中にコンビニに買い物に行くって、普通のことじゃないの?」
この街には24時間営業のスーパーはない。ならばコンビニに買い物に行くのは、至極当たり前の理屈である。
「それに、電話が通じないってのは単に電源落としているか…もしかしたら、忘れていっただけじゃない?」
自分でいってて、これも納得のいく説だ。近場へ外出するなら、何もスマホをいちいち持っていく必要もあるまい。
なのに、アスカの剣幕はヒートアップする一方。
「だからって、あたしのスマホの充電ケーブルを抜いていく必要はないでしょ!?」
この情報には、さすがにミサトも眠い目をぱちくりさせる。
「なにそれ? どういうこと?」
ミサトの問い掛けに、アスカは直接回答しなかった。
「あたしのスマホを使えなくしたってことは、少なくとも自分が戻るまであたしに誰かと連絡を取らせたくなかったからよ…」
爪を噛みながら、アスカの表情は渋い。
黙って耳を傾けていたミサトの顔に、ようやく理解の色が広がる。
「つまり、シンジくんはアスカを孤立させた。というより、自分がしようとしていることの邪魔をされたくなかったってことかしら?」
「そう! そうよ!」
「じゃあ、なんでそんなことをしようとするわけ?」
問い返され、今度はアスカが黙る番だった。
正直、シンジの行動はよく分からない。でも、何かをしようとしていることは分かる。
あたしを遠ざけて、何かをしようとしていることだけは確かなのだ…。
では、何を?
深夜に誰かとデート? いや、そんなのはあり得ない。
思い浮かべて、アスカは光の速さでその考えを破棄している。
恥も外聞もなくいってしまえば、今のシンジは自分の為だけに生きていると思う。
あたしを守るためだけに、力を尽くしていると確信している。
小さくなってからまだ一月にも満たない生活の中で、アスカはひしひしとその想いを実感していた。
なぜなら、彼女の気持ちも、全くシンジと同じなのだから。
火照る頬を叩きながら、気持ちを落ち着ける。
冷静になれ、あたし。
この期に及んでシンジがあたしにマイナスになるような行動を取るはずはない。
だったら…やっぱり単に買い物に…?
違う。
それならやっぱりスマホの充電ケーブルを抜いていったことと矛盾するし、こちらかのコールに出ないわけはない。
ならば、こんな真夜中に何を。
こんな、真夜中、に……………?
「まさかアイツっ!?」
思わずアスカは叫んでいた。
脳裏に浮かぶのは、ボロボロのプラグスーツを着て片目を包帯で覆った自分の姿。
そう、真夜中に訪なってくる、傷だらけのもう一人のあたし…。
まさか、シンジのヤツ、もう一人のあたしに直接会いにっ!?
うなじから背筋を冷たいものが滑り落ちた。間違いなく体温は1、2度下がっていただろう。
おかげで、ミサトがこちらを覗き込んできているのにも気づかない。
「アスカ!? 何か思い当たることがあるの?」
小さなアスカは答えられなかった。
ミサトらにはもう一人の自分の存在を伏せているから。
仮に全くの他人がシンジを害そうとしているのなら、ミサトらに事情を説明して助けを求め、徹底的に排除するだろう。
万が一シンジが被害を受けたなら、それこそ産まれてきたことを後悔するくらいの目に遭わせてやる覚悟もある。
だが、害をなそうとしているのが他ならぬ自分だとしたら?
小さくなってしまった身体の因果関係も含め、いまだ不明瞭なことが多すぎる中、リツコらに相談は出来なかった。
相談することが解決に繋がる可能性が高いのは十分に承知している。
承知してなおアスカは、己の醜いであろう部分を担うもう一人の自分の存在を知られたくなかった。
…知られたくない理由なんて感情的なものだ。そのことを理解して、アスカの後悔はより苦い。
さっさとミサトたちに相談しておけば良かった。それも今となっては後の祭り。
だけにアスカは頭を振る。
今は悔いている時間はない!
「ミサト! とにかく車を出して!!」
「だから…」
「いいから早く! …お願いよ、ミサトぉ!!」
最後の呼びかけは、ほとんど悲鳴に近い。
悲壮なアスカの訴えに詮索は後回しにして、ミサトはアクセルを踏み込んだ。
シートベルトも何もしていないアスカは、もろにシートにひっくり返る形になったが、さすがに文句は言ってこない。
「あ、ごめん、ダイジョブ?」
ハンドルを操りながらミサトがチラリと見るが、体勢を整えたアスカは小指をきつく噛んで答えようとしなかった。
マンションの駐車場から公道に乗り出したルノーの助手席で、青い瞳は真っ直ぐ暗い街を見つめている。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
常夜灯の間隔も長い夜道を歩きながら、シンジは再びスマホを手に取る。
ディスプレイに表示させた地図。それと現在位置を入念に見比べた。
ざわざわと風に木が揺れる。まるでこちらに覆い被さってくるような感覚に襲われ、思わずシンジは身震いする。
真夜中に、巨大な黒いシルエットがざわめく姿はかなり怖い。幼児期の原体験を刺激してくる類の恐怖だ。
いつの間にかシンジの道程は山道に差し掛かっていた。
時刻は深夜ということもあり、当たり前だけど人通りは皆無。車も一台すら通らない。
…まったく、僕は何をやってるんだろうね。
アスカに嘘をついて。
クラスメートたちにも協力してもらって。
寂しさを誤魔化すように、シンジは呟く。
決心してこの道を歩き始めたはずなのに、胸中は不安でいっぱいだった。
単純に、人っ子一人いない山道を進まねばならないという怖さもある。
でも、全て分かり切った事じゃないか。
シンジは、再度ディスプレイに視線を落とす。
デジタルの数値は、深夜2時近いことを告げていた。
マンションを出て既に一時間は経過している。さすがにアスカも不審に思っているはず。
アスカの番号に限らず、現在のスマホの機能設定は、全てのナンバーを着信拒否にしていた。メールも何も全てである。
これは、シンジの覚悟のほどの現れに他ならない。
ミサトやリツコたち大人からも介入して欲しくなかったその理由。
…僕とアスカの問題は、お互いだけで解決したいといったら、笑われるだろうか?
足下を確かめるようにゆっくり歩きながら、シンジは考える。
少なくとも、家に残してきた小さなアスカからは怒鳴られるだろう。もしかしたら泣かれるかも知れない。
ごめんね、アスカ。
心の中で侘びながら、現在シンジが夜道を歩んでいるのは、もう一人のアスカに会うためだ。
あの夜、扉の隙間に見た青い瞳。
小さなアスカに訊ねはしたけれど、半信半疑だったのを覚えている。
やはり夢だったのか?
夢ではないとは思いつつも、やはりそうなのではと傾倒する心。
ところが、久方ぶりに登校した教室で、ふとクラスメートたちの会話を耳にしたとき。
『そういえば、最近バイパスの近くに幽霊が出るんだってさ……』
他愛もない噂話と聞き逃そうになった。
けれど、確か数日前も似たような話を聞いたような…。
何かがシンジの中に訴えてくる。何かがシンジを急き立てる。
だから立ち上がり、クラスメートに尋ねた。
『え? どんな幽霊かって? なんか赤い服を着てて、恨めしそうにこっちを見ているって話だよ…』
その一言が、シンジの心の中を稲妻の様に駆け抜けた。
思えば、シンジが決心したのは、まさにその瞬間だったのかも知れない。
興奮を抑え、クラスメートに頼んだのは、幽霊の目撃談の収集だった。
彼らと親しくした覚えはない。むしろ迷惑を掛けっぱなしだと思う。
なのにみんな協力的で、友人の友人、果ては兄弟の知り合いまで色々と訊ねて報告をくれた。
これが、本日、シンジのスマホにひっきりなしに着信があった種明かしである。
もたらされた情報を整理し、シンジは予想が正しかったことを知る。同時に、即座に行動に移す決心も固めた。
目撃談を地図上に赤い点で記したとき。
それは、ある一定のルートを描いていた。
第三新東京市から、自分の現在の自宅付近までのルートを。
おまけにその赤い点は、日を追うごとに少しずつ近づいてきているのだ。
日付を見て、さらに分かったことがある。
七日目の目撃情報があった後、八日目の目撃場所は、一番最初に目撃された付近に戻っていた。
十四日目の時も同様で、十五日目の目撃情報こそはないが、また最初の場所に戻っていると思われる。
つまり、一週間かけて近づいてきた赤い点は、一週間後にリセットされているのである。
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真夜中の公道を、ミサトの運転するルノーが猛スピードで疾駆している。
対向車もいないこともあり、ドリフトしまくりのミサトの愛車。
彼女のドライビングテクニックは刮目に値した。しかし、ただ闇雲に走っている状態ではいささか虚しい。
「ねえ、アスカ…」
「うるさい、黙って!! いいから探してよ!!」
何度声をかけても、助手席のアスカは難しい顔でそう応じるだけ。
そうはいってもねえ…。
言葉を飲み込み、ミサトは運転に集中しようとする。
運転しながら歩道に視線を飛ばすが、未だシンジの発見には至っていない。
かれこれ一時間近くにも及ぶ探索行は、無駄にタイヤをすり減らしただけだ。
とにかく手がかりがないことには…。
歯噛みしながら、ミサトはチラリと助手席に視線を送る。
探索中、もしかしたら本当にシンジは買い物に出てだけでは? と思ったりもした。
しかし、助手席のアスカの様子を窺う限り、その考えは否定するしかない。
アスカ自身、小さい身体で背伸びして車窓の外へ視線を送っているのはもちろん、ひっきりなしにスマホも操作しているのだ。
シンジとは相変わらず不通。となれば、やはり意図的に連絡を絶っているとしか思えない。
何のために? そこがミサトには分からない。
真夜中に、行方も告げずシンジが姿を消した理由。
訊ねようにも、アスカの剣呑な雰囲気の前には憚られた。
だが、それももはや限界だ。
ミサトはシフトダウンで減速し、ゆるやかに路肩にルノーを止める。
「何よ、何で車停めるのよ!」
途端に血相を変えるアスカがいる。
小さいくせに迫力は常人以上。つまりは、それほど必死なのだろう。
ミサトは、表面上、平然とアスカの剣幕を受け止めた。黙って、助手席の小さな元被保護者を見下ろす。
小さな蒼い双眸と、青黒い瞳が対峙する。
「…アスカ、もし知っていることがあるなら、なんでもいいから話してちょうだい。探すにしても、あまりにも手がかりがなさすぎるわ」
「嫌よ! ミサトには関係ないものっ!!」
ヒステリックな叫びは、はからずも自分が情報を持っていることを露呈してしまっている。
普段のアスカならぬ迂闊さ。
本人もそのことに気づいたらしく、きつく唇を噛みしめている。
何がなんでも喋らないアピールのようだが、ミサトの目にはひたすら痛々しく映った。
傍目にも、彼女の中を激しい感情が行き来しているのが分かる。
小さな身体を震わせている感情の反復は、まるで決壊寸前の堤防のよう。
「アスカ、もう無理をしなくていいのよ…」
その言葉が、アスカの小さな身体から感情を噴出させるのを承知して、ミサトは優しい声をかけた。
元保護者としても、少しくらい信頼して欲しいとも思う。
何よりシンジと連絡不通でこれほど動揺しているアスカが不憫でならなかった。
だから、アスカの蒼い瞳から滝のような涙が溢れ出す光景を、ミサトは泰然と受け止めていた。
それが今の彼女に出来る唯一のことだったから。
事前に何も相談されなかったのは、元保護者として不徳のいたすところ。信用がないのは自業自得と我が身を情けなく思うだけ。
そして今、小さなアスカの身体を抱きしめて慰めることすら出来ない現実。
全く、いい歳こいた大人なのに役立たずよね、私は……!!
内心では自分の無力さを苦々しく思い、表面的には穏やかな笑みをアスカへと注ぐ。
葛藤を押し隠して優しく見守るミサトの目前で、小さなアスカは涙を拭い続けていた。
車内に沈黙が降りる。
エンジンのアイドリングオンとウィンカーの音だけが響く中、ゆっくりとアスカの口元が動く。
「ごめん、ミサト…。全部話すから……」
見下ろすミサトに、アスカの俯いた表情は髪に隠され伺えない。
しかし彼女は、はっきりと救いを求める声を口にした。
「だから……助けて……!!」
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真っ暗な山道を進みながら、シンジの心細さは募る一方だった。
寂しさや、暗闇に対する本能的な恐怖は当然として、街灯が少ない山の道はあまりにも闇が濃すぎる。
先ほどまで垣間見えた月も雲に閉ざされてしまっていた。
一応、街灯に目星を付けて歩いてはいる。しかし手元や足下は、自分でも確認できないほど暗いのだ。
そんな濃い闇の中を歩いていると、自分の足で歩いているのかどうかすら怪しく思えてくる。
動かしている腕や、胴体の存在自体曖昧になってしまう。
まるで意識だけが闇の中を泳いでいるような錯覚。
…これじゃあ、まるで幽霊じゃないか。
街灯の下の明るい僅かなスペースを通過する時だけ、五体があることを思い出す。
また、その暗闇の中でスマホのディスプレイを点灯させる時も、自分が人間であると意識できた。
映った地図を見ながら思う。
この闇の中を、傷だらけのアスカは独り彷徨っているのだ。幽霊に間違えられるのも無理はない。
想像しただけでも心が痛む。
だから一刻も早く会わなければならないと思った。
傷ついているなら癒してあげたい。寒くて震えているなら、暖めてあげたい。
アスカが二人存在するという矛盾を越えてそう思う。
アスカであるならば、僕は無条件で助けなければならない。
自身の損益を省みず、献身を惜しんではならない。
仮にそれが幽霊だとしても構わない。
シンジが自らに課した誓い。
それは贖罪には足りないだろう。単に罪を薄める程度の効果しかないのかもしれない。
だけど、もう二度と彼女を苦しめる事はしないと誓った。
赤い海のほとりで、最後の最後に重ねた罪。
あの感触を覚えている限り、僕は絶対に誓いを破らない……。
熱くなった頭に反し、シンジを包む闇はより冷気と濃さを増したようだ。
それもそのはずで、パラパラと小さな水滴が顔にあたる感じがする。
ディスプレイから漏れる灯りに照らされた雨は、細く長く糸を引くようだった。
傘を差すまではには至らないほどの小雨である。
そして傘の準備をしてきていないシンジは、パーカーのフードを被った。
当座はこれで凌げるだろう。でも、風邪をぶり返しちゃ洒落にならないな…。
つぶやきながら、シンジはスマホを懐に仕舞う。
場所を確認する限り、ここらがラグランジュポイントだ。
しかし、自分以外の人影は見あたらない。
…もしかして、追い越してきちゃったとか? それとも気づかずすれ違ったとか。
この山道の暗さではあり得ないとは言えない。
ふと自分のもと来た道を振り返るシンジ。
ずいぶん歩いてきたものだ。街の灯りはだいぶ遠くに見える。
その時。
シンジはただならぬ冷気を背中に吹き付けられたような感触を覚えた。
振り返る。
濃い闇は目を凝らしても見通せない。
かわりに、闇の奥から声が響いてくる。
…シンジ…
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猛烈なホイルスピンが夜の静寂に響き渡る。
ご近所迷惑顧みず驀進する一台のルノー。当然ハンドルを握っているのはミサトだ。
「そう、もう一人のアスカがねー…」
独り言めいた口調のミサトの隣の助手席で、アスカは神妙な表情で、文字通りシートに身体を埋めていた。
小さな頬の涙の跡も痛々しかったが、先ほどよりは落ち着いており、精力も取り戻しているかに見える。
ミサトに、伝えることは全て伝えたからであろう。一人で抱え込むには、比喩ではなくこの小さな身体には負担だったのである。
涙を拭いながら、アスカは手短に、それでも詳しく説明をした。
二週間以上前から、深夜にもう一人の自分が来訪してきたこと。
ミサトが駆け付けてきてくれた夜にも来訪があったこと。
もう一人の自分は、シンジに害を及ぼそうとしているらしいこと。
シンジにもう一人のあたしの存在を知られてしまったこと…。
アスカが喋っている間、ミサトは黙って耳を傾けていた。
話を聞き終えても、責めるような台詞も叱る言葉も口にしなかった。
「大変だったわね」
口にしたのはそれだけだった。しかし、アスカがどれだけ救われたかは計り知れない。
その上で、話題はシンジの行方に戻る。
もう一人の自分とコンタクトを取ろうとするにしても、一体どこで会おうとしているのか。
シンジには何かしらの情報があるらしいのに、アスカには皆目見当がつかない。
ミサトに胸の内を話して気分は楽になったけれど、話した内容にシンジの行方の手がかりがあったとも思えないのである。
なのにミサトはウインカーのスイッチを逆に入れ、緩やかに車を発進させていた。
たちまち加速し、シートに押しつけられる形になったアスカは唇を尖らせる。
「ちょっと! どこに行こうっていうの!? なんかわかったワケ!?」
目にも止まらぬ速さでギアチェンジをしながら、ミサトは横目でアスカを見ながらあっさりといった。
「分からないわ」
「…ふざけてんの!?」
激昂するアスカの声を聞き流し、真っ直ぐ前を見つめたまま、ミサトの表情もつぶやきも真剣そのもの。
「『分からなくなったら、分かるところまで戻りなさい』これ、わたしの母さんの持論」
分からないと言いつつも、車は疾駆している。加えて、この台詞にようやくアスカも思い至る。
分かるところ。
一番最初の場所。
全てが始まった場所。
「……第三新東京市…」
呻くようなアスカに、ミサトはアクセルを踏み込むことで返答にかえた。
「今のところ、それくらいしか手がかりはないわ。行かないよりはマシよ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
まったく不意に掛けられた声に、シンジは応じるでもなくジリジリと後退していた。
正直、恐怖の方が先に立つ。膝が震えた。
周囲を見透かそうとしても闇が濃く、何も見えない。
当然、声に主も果たしてそこにいるかは視認できないのだ。気づけば、声のした方向すら確信がもてない。
でも、確かに声を聞いた。自分の名を呼ぶ声を。
勇気を振り絞って闇に声を放る。
「…アスカ?」
返事はない。
なのに、闇の中で誰かが蠢く気配はある。何かが存在する気配を感じる。
正体が分からない以上恐怖は募るが、如何ともしがたい。
そのような状況下で、シンジ震える足を動かして街灯の下まで戻ったのは、いわば当然の選択だった。
淡い光の輪の下で自分の輪郭を取り戻し、どうにか落ち着くことが出来る。
いつの間にかカラカラに乾いた喉を唾を飲み込んで湿し、シンジは闇へと目を凝らす。
小雨降りしきる中、今度は確かに異音を聞いた。
これは……足音なのだろうか?
何かを引きずるような感じのその音は、ゆっくりとこちらに近づいてくるようで……。
「…………!!」
シンジは見た。
闇の中に浮かび上がる原色の影。
雨を含んでべっとりと頬に張り付いたくすんだ金髪。顔の半分を覆う包帯。
光る―――蒼い片目。
怖いとは、微塵もシンジは思わなかった。
街灯の光の輪の中に現れた傷だらけの姿は、まるで周囲の闇から吐き出されたように見えた。
傷だらけのアスカ。
あの、赤い海のほとりで見た時と、寸分と違わないアスカの姿。
それが今は雨に濡れ、引きずるような足取りに右手から垂れる包帯が痛々しい。
シンジは即座に駆け寄り、支える。
確かな手触りがあった。やはり幽霊でもなければ幻でもない。
だからといって、未だこのアスカの正体は定かではない。マンションに残してきた小さなアスカとの関係も不明だ。
しかし、自分の腕の中に存在する以上、シンジにこのアスカを突き放せる道理もなかった。
「アスカ、寒かったでしょ、アスカ…」
華奢な肩を抱きしめる。冷え切っていた。
慌てて自らのパーカーを脱いでかけようとするシンジを、蒼い片目がゆっくりと見る。
…シンジ…?
その声は、確認というより行動の宣言だった。
シンジの視界が回転する。
周囲が暗い中、背中への衝撃が地面に叩きつけられたことを教えてくれた。
続いて、胸が詰まるような衝撃。
激しくむせて、ようやく背中の痛みで滲んでいた視界が回復した時。
常夜灯の丸い光。
それを背に、こちらを見下ろしてくる傷だらけの少女の姿を、シンジは見上げていた。
馬乗りになってこちらの身動きを封じているアスカの表情は、逆光でわからない。
にも関わらず、蒼い片目だけが爛々と輝いているのがわかった。
言葉は、ない。
シンジも何かをしゃべろうとして、出来なかった。
組み敷かれたとき、全てを悟っていた。
こうなるであろうことを予想していた。
なにより、もっと直截的な要因がシンジの発言を許さない。
片目のアスカの傷だらけの細腕は、ギリギリとシンジの喉元を締め上げているのだ―――。
NEON GENESIS EVANGELION AFTER
“ MY LITTLE LOVER ”
りとらば!
闇→邂逅 ~了