高校生活最後の春が始まった。新しい学年に新しい席、そして新しくないメンバー。3年F組の教室は、去年と大して変わらない顔ぶれが揃っている。それでも俺の中でとても大きなものが欠けているように思うのは、やはり平塚先生が居ないからだろう。新しい担任が明日以降のスケジュールや、3年としての心構えなどを一生懸命話している。
窓の外を眺める。たくさんの桜が咲いていて、良い入学式になった。もちろん入学式には全学年が参加した。あいにく小町の姿は見えなかったが、きっとすぐに友達でも作って喋っていたのだろう。生徒会長の一色は立派に在校生代表の挨拶を担っていた。
これが終わったら俺はまたあの教室に行くのだ。今は春だから、きっと暖かいのだろう。紅茶を飲んで、読書をして。そんななんでもないことしかしないけど。そんななんでもないことが出来るのが嬉しくて。あそこはいつしか俺たちの大切な場所になっていた。そんな場所に、今日から小町も加わるのだろう。
担任の話しも終わりに近づいてきた。
「えー、最後に転入生を紹介する。入って来い」
こんな時期に転入とは珍しい。受験のことばかり考えていたクラスメイトはざわつき、俺も少しだけ興味を持った。
教室に入って来た奴は、一言で言うとイケメンだった。葉山のように爽やかで接しやすいリア充系ではなく、少し冷たさを感じさせる表情は、どこかで見たことがある気がする。
「雪ノ下雪翔です。よろしくお願いします」
雪ノ下、その単語を聞いた瞬間、俺の身体が反応した。そして、俺の斜めに座っている由比ヶ浜もこちらを見た。俺の数少ない知り合いのにも雪ノ下という名字の人がいる。雪ノ下は珍しい名字だ。もしかしたら親戚かもしれない。
「じゃあ比企谷の前に座れ」
その雪ノ下は、俺の前、由比ヶ浜の隣に座った。そしてそのまま解散となった。由比ヶ浜がとっさに俺の方に向く。
「ねえヒッキー、この後部活行くよね?」
「あぁ、小町も来るらしいからな」
そう答えると、由比ヶ浜は声のトーンを落とした。
「じゃあさ、雪ノ下…くんも誘わない?」
由比ヶ浜ならそう言うと思っていた。俺も雪ノ下と雪ノ下雪乃の関係も少し気になるところだ。ここはこの提案に乗った方が良いだろう。
「本人が了承したらな」
「りよーしよー?」
おいおいマジかよ。もう高3だぞ。こいつヤバいんじゃないか?
「許可取れよってことだ」
「最初からそう言ってよ!」
それだけ言うと、由比ヶ浜はさっそく雪ノ下に話しかけ始めた。どうやら雪ノ下は、雪ノ下雪乃とは違ってコミュ力が低い訳ではなさそうだ。
「ヒッキー、雪ノ下くん行くって!」
「比企谷くん、だよね。よろしく」
おお…あの一瞬で俺の名前を覚えてくれたとは。少し感動してしまった。1年以上同じクラスでも俺の名前知らない奴もたくさん居るのに。
「比企谷でいいぞ。えっと…雪ノ下」
「そうか、じゃあ比企谷と呼ばせてもらおうかな」
一つ一つの丁寧で律儀な仕草などが、雪ノ下雪乃と同じような気がする。勝手な見解だが、こいつも雪ノ下と同様で育ちが良さそうだ。もし親戚なら確実に金持ちだろう。
「じゃあ行こっか!」
元気良く歩き出す由比ヶ浜に続いて、俺と雪ノ下も歩き出した。
卒業式以来の部室は、たった1ヶ月行っていなかっただけなのに、妙に久しく感じた。中に入ると、いつもの紅茶の香りがした。
「こんにちは。……依頼人でも連れて来たのかしら?」
雪ノ下雪乃は去年と同じ席に座っていた。由比ヶ浜も雪ノ下の隣に腰掛ける。
「うーん、依頼人ってゆーか、ゆきのんに会ってほしい人」
「私に?どうして?」
雪ノ下雪乃の様子を見るに、恐らく雪ノ下雪乃と雪ノ下は面識がない。
「ゆきのん雪ノ下くんのこと知らないんだ」
由比ヶ浜は雪ノ下雪乃と雪ノ下は親戚だと思っていたようで、少し驚いている。
「雪ノ下くん?」
雪ノ下雪乃はまだ良く分かっていないようで、首をかしげた。そこで雪ノ下が部室に一歩ずつ踏み込み、雪ノ下雪乃の前に立った。
「初めまして、雪ノ下雪翔です」
「……雪ノ下?」
「はい、雪ノ下です」
「そ、そう。私は雪ノ下雪乃。由比ヶ浜さんがあなたを連れて来た理由が分かったわ」
そう言うと、雪ノ下雪乃は紙コップを取り出して新しく紅茶を入れ始めた。
「ゆきのんと雪ノ下くん親戚じゃないの?」
「少なくとも家の集まりで会うような縁ではない、と思うのだけれど……」
雪ノ下雪乃の家は親戚同士の集まりも盛んにやっていそうだ。そこで会わないのなら、あまり関係はないのだろうか。
「僕は家の集まりに行ったことがない、というか、集まりがあるかも分からないからね」
遠回しに自分の家は集まりなどないと言っているのだろう。やはり雪ノ下雪乃とは全くの無関係だろう。
「そっかぁ、親戚だと思ったんだけどなぁ」
結局雪ノ下をここに連れて来たことは無駄になってしまった。しかし、こちらが誘って連れて来た手前、「もう帰ってくれ」なんて言えるはずがない。
「あ、じゃあさ、雪ノ下くん奉仕部に誘わない?」
「なにが「じゃあ」なのか良く分からないのだけれど……」
「うーん…ゆきのんと名字が同じだったから…みたいな?」
由比ヶ浜も分かってないのかよ……。しかしそんな提案もいつもの由比ヶ浜だ。
「奉仕部ってここの部活のこと?」
奉仕部と聞いて、瞬時にどんな部活か想像出来る人は少ないだろう。
「ええ、端的に言うと、ボランティア活動をする部活よ」
「結構楽しいよ!入らない?」
恐らくこんな顔をされて断れる男子はいないだろう。
「入部届けは必要ないの?」
「ええ、顧問の先生はもういないから」
顧問だった平塚先生はもういない。それでも奉仕部を続けられているのは、一色が居たからだろう。少なからず俺も感謝している。
「じゃあ僕も仲間に入れてもらおうかな」
そう言って雪ノ下は優しく微笑んだ。この顔を見たら大体の女子が惚れるだろう。そのくらい整った顔立ちをしている。自己紹介の時にも見た少し冷たい表情も、時々見せる柔らかい表情も、見覚えがある。
「なぁ…雪ノ下……」
俺がそう呼ぶと、ダブル雪ノ下が振り向いた。
「どっちの雪ノ下か分かりにくいね」
「そうね」
そう言いながら二人とも微笑む。その顔は、やはり似ていた。
「じゃあ僕のことは雪翔って呼んでもらう方が良さそうだね」
どうやら雪翔は気が利くようだ。雪ノ下のことを名前で呼ぶよりも、雪翔のことを名前で呼ぶ方が確実にハードルが低い。
「そうさせてもらう」
「じゃああたし、ユッキーって呼びたい!」
流石にそれは……。というか、ヒッキーといいゆきのんといい、由比ヶ浜はあだ名をつけるのが好きなくせに才能が全くない。
「構わないよ」
おいおいマジかよ。雪翔はかなり優しいらしい。もしかしたら葉山と似ているところがあるかもしれない。
しばらく4人で談笑していると、俺の携帯が鳴った。どうやら小町からメールがきたようだ。
「今日小町来ないらしい」
「えー、残念だね」
「小町さんも忙しいみたいね」
そう話していると、由比ヶ浜が「あっ」と声をあげた。
「小町っていうのは、ヒッキーの妹だよ」
「比企谷には妹さんがいるんだね」
ここで小町について語ろうかと思ったが、せっかく親しくなれた人にシスコンだと思われたくない。俺はぐっと言葉を飲み込み、代わりに別のことを言った。
「ああ。雪翔に兄弟はいないのか?」
「僕は一人っ子だよ」
「へぇー、確かにユッキー一人っ子っぽいよね!」
ここですぐに新しい話題食いついてくれるのはありがたい。
「ゆきのんにはお姉さんがいるんだよね」
「ええ、そうね」
雪ノ下はあまり話す気はないのか、食いついてこない。
「いいなぁ兄弟とか姉妹。あたしも一人っ子だからなぁ」
由比ヶ浜は羨ましそうに言うが、雪ノ下は少し複雑そうな顔をしている。一応けじめはつけたが、仲良し姉妹とまでは行かなかったのだろう。
たわいない話しをしている内に、すぐに下校時刻が来てしまった。