硝子の魔女 作:黒皮の手帳
悪寒と寒気を感じて鼻を啜る。
竜車の揺れに瞼を持ち上げ、ふと空を見上げれば分厚い雲が展開していた。
「季節外れの大雪……もぉぉ、取引がダメになってしまいますよ」
御者の独り言。
これだけ大きな竜車なのに肩身を狭くした、何となく頼りないイメージを抱かせる緑服の青年。
彼は数年前に一人立ちし、行商人として生計を建て始めたばかりの新米商人であり、実家仕込みと本人の才能あって腕は確かだが、持ち前の運の悪さから、竜車に不具合があったり、魔獣に襲われたりと……中々取引を上手く運べない毎日をおくっている。
今日も真夏の暑さから逃れる為に、とある貴族が大量に注文した氷板は――季節外れの大雪のせいで恐らくボツになるだろう。
「はぁ……」
薄手の手袋を擦って、白いため息を溢す。
(どうしていつも……いや、自分はこうなんだろうか?)
考えても答えが出ないのは分かっている。しかし、ここまで不運に見舞われて、一度ぐらいは大成を成すような運が回ってきてもいいのではないかと思わず愚痴を漏らした。
「グルルル(おい、寒いぞ)」
「そう言われても、雪対策なんてしてないんですから我慢して下さいよ」
言霊の加護。異国の方から、虫や地竜に魔獣まで。とにかく対象と意志疎通が計れる能力が自分にはある。
便利ではあるだろう、もしや自分はこの力と引き換えに全ての運気を使い果たしてしまったのではないか。時々考えることはあるが、青年は竜車を引く騎乗生物の地竜に言葉を返して、もう今日は家に帰って休もうかと考えたその矢先であった。
「グルル、グゥウウ(人間の雌の匂いだ、そこの隅からする)」
「えっ!?」
地竜が鼻を鳴らして横へと視線で促す。
青年、オットー・スーウェンが驚いて横を見れば真っ白な雪景色――その中央に力なく倒れ伏す黒髪の女の姿があった。
目を剥いて驚いた。この季節……いや、今は真夏であるから、彼女が半裸のような薄着であることにはあえて何も言わない。
腰のあたりまである長い黒髪。カララギの出身であろうか、それも今はどうでもよかった。
彼の注意を引いたのはその女性の全身にある打撲傷。雪を薄く色つける首から線を引いた赤い跡。
それが外的要因によって付けられた傷であるのは明らかで、オットーという人間は基本的に善人と呼ばれる人種だ。
知識として、法や龍も恐れぬ外道を知っていてもその被害者を直接目にするのとでは訳が違う。
「ぅ……っぅ、ぅぁ…」
「大丈夫ですか!」
今にも消えてしまいそうな弱々しい声。それは彼女が生きている証であり、その灯火を絶やさない為に早急に適切な処置が求められる事は肌で感じ取った。
オットーは竜車から飛び出して彼女を抱え込む。
血の匂いと腐臭が鼻腔を刺激して一瞬顔をしかめるも、刻一刻を争う事態である。
自らの外套を女に被せて竜車へと戻った彼は、氷で埋め尽くされた竜車に歯噛みし、人命には変えられないとそれらを全て投げ捨てた。
「急いで街へ!」
丁寧に女性を寝かして、勢いよく手綱を鳴らす。
―――――。
――――――――――――。
―――――――――――――――――愛してる。
「あれ…………ここは?」
「よかった。目覚めたんですね」
彼女が目覚めた時、緑ハットの青年が側にいた。
「お……確か、雪のなか…あれ、」
己は雪の中で倒れていた。たどたどしい言葉でそう紡ぐ。
「ええ、僕が貴方を王都まで運び、信頼できるお医者様に診てもらいました」
「あなた……?」
ゆっくりと自分を指差して首を傾げる。
オットーはそれにゆっくりと頷いた。
「……あなた…あなた、あなた………なまえ……あれ?
……なまえは……だれ?」
「ッゥ!?!」
無垢な顔をしてありえないことを問う彼女にオットーは絶句する。
「まさか記憶が……」
「だれ……だれだれだれだれだれだれだれだれだれだれだれだれだれだれだれだれだれ……」
うわごとのように呪詛のようにそう口走る彼女。
精神的に傷を負った人間が己を守る為に記憶の蓋をしてしまうという話を聞いたことがある。
オットーは彼女がそれなのかと同情の念を覚えた。
「(どうすれば……)」
沈痛した面持ちでオットーは彼女を静観する。
オットーという人間は善人でお人好しだ。
聖人ではないが、人が道に倒れていたら医者にみせるぐらいの善良さは持っている。
しかし、彼には目の前の女性へこれ以上救済の手を伸ばす手段を持ち得ない。
それは面倒だとか自腹をきって医者にみせたのにこれ以上散財してたまるかと嫌気が差した……といった具合でもない。
行商人としてある程度の教養を受けたオットーには記憶を失った事例において、医者にみせようと、腕のいい治癒術士を頼ろうと、自然治癒に任せる以外どうしようもないことを知っているからだ。
これで彼女の身元さえ分かれば越したこともないが、あの雪の上に投げ捨てられていたような状況から、厄介ごとを抱えているのは明らかであり、深入りすればよからぬ厄災を招くのは想像に難くない。
「だれ、だれ……」
目鼻立ちは整い、腫れた頬と外傷さえなければ見惚れるような輝きを魅せるであろう彼女。
「…………」
見捨てるのは簡単だ。
その壊れかけながら覗かせる美しさを活かせば、少なくとも食べることには困る事はない。
だが、それでいいのだろうか。オットーは自己に問い掛ける。
医者には見せた。それで充分。
そんな訳がない――その手をとったのなら、最初に振りほどくのは彼女の方であるべきではないか。
自分から離れるというのは自己満足……偽善に他ならない。
何も取り柄もない自分だが途中で投げ出すのはオットー・スーウェンの信条に反する。どれだけ理不尽にあっても何度取引を失敗しても、それだけは曲げてこなかった。
「―――僕と一緒に働きませんか?」
だから、青年は笑顔で右手を差し出す。
彼女がその手を取ったのはきっと“運命”なのだ。