episode of side-N
彼が私に背を向けて去ろうとしている。
彼女、いや、彼が言うとおり私は今、自分の感情を持て余している。
ずっと女の子だって、大切な友達になれるって信じてきた。そんな彼女が実は男だなんて、想像どころかちらっとでも考えたことはなかった。なのに、彼女は”彼”だった。
私にとって、それは期待を、幻想を裏切る残酷な真実だった。
彼は自分が女だなどと一言も言ってはいない。私がそう思い込んで勘違いをしていただけ。
あのときの状況から言って女装してたことも私を騙すためではないだろう。ただ真実を明かさなかっただけだ。けどそれすらも彼の言を信じるなら善意からなのだ。
彼に落ち度は何もなく、何も裏切ってなどいない。
理屈ではわかってる。だけど感情が納得しない。
何もかも許して再会を喜べばいいのか、幻想を壊されたことを嘆けばいいのか、期待を裏切られたことを怒ればいいのか……何が正しい選択なのかわからない。
彼は「いつまででも待つから」と言ってくれた。
それに、同じ学校で学年だし、今後も会おうと思えばいつでも会える。だから、今は彼の言うとおり一人になって落ち着いた方がいい。
無理に何かを話そうとしたら、酷いことを口にしてしまうかもしれない。
それは彼にとっても私にとっても不幸だ。それだけは避けたい。
それに、今この瞬間にでも他の部員が部室にやってくるかもしれない。それは良くない。今の私を見られたくない。
何も正しくないままに誤解され一人歩きし、ぐちゃぐちゃになってしまうだろう。
最善はこのまま彼を見送って、私は部室のバルコニーにでも出て落ち着くまでそこにいた方がいい。
涙の痕はきっと何か言われるだろう。少なくとも部長は見逃さないはずだ。何かあったかときっと聞かれる。その言い訳もこれから考えなくてはならない。
だからこのまま彼を見送るべきだ……すぐにまた会える、会えるはずだ、去年の別れのときみたいに、もう会えないなんて、悲しむ必要はない。
彼の背中が部室の扉をくぐり、階段へと消えてゆく……
ふと、あの日の光景が脳裏に蘇る。彼女の微笑みが、彼女の言葉が、私を抱きしめてくれたときの優しさが……
突然ズキッ、と胸が痛んだ。
荒れ狂っていた感情が、一つの方向性を得てゆく。
それは切ない、という感情のうねりとなって私の心を蹂躙した。
もう二度と会えなくなるかもしれない、そんな酷くネガティブな想像をしてしまう。
いやだ。いかないで。もう私を一人にしないで!
そのとき、私の口は勝手に言葉を紡いでいた。あるいは、それは心の声だったのかもしれない。
「いや……だめ……いかないで……! お願い、待って!」
私の視界から消えた彼を追い求めて、階段へと走る。扉の下をくぐり、階段を見下ろす。
私の大声に驚いたのだろう、踊り場のところでこちらを見上げている。
よかった、間に合った。
しかし、多分に衝動的だった私は咄嗟にかけるべき言葉もなく、ただ感情の突き動かすまま彼を求めて階段を降りようとした。
「あの……きゃ!」
焦って足元も見ずに踏み出したのがいけなかったのだろう、私の左足が最初の段を踏み超えてしまい……バランスを一瞬で失い、前のめりに転げ落ちようとした。
「飛べ!」
切迫した声の指示を刹那の間で理解し実行できたのは、基本運動神経の鈍い私にとってまぐれとも僥倖とも言える出来事だった。
神様が力を貸してくれたのかもしれない。
私はあらん限りの全力を右足に込め床を蹴った。飛ぶというより、前方へタックルするような跳躍だった。
一瞬の浮遊感。引き伸ばされた時間で彼の緊迫した表情とこちらへ手を伸ばしてくれるのが見えた。
目を瞑る。不思議と恐怖は感じなかった。
ぼふっ
次の瞬間、気がつけば私は彼に背中から抱きしめられていた。
彼は右腕を私の胸の下に差し込むようにして私の体を受け止め、勢いを殺しつつ自分の体へ巻き込むように抱きとめてくれたのだ。
その途中で彼の左腕は私のお腹のあたりに回されて姿勢を支えてくれていた。
つまり、胸の下とお腹のあたりを両腕で抱きしめられている形だ。
「…………」
「…………」
命の危険すらありえた、危機一髪のトラブル。その直後のことでお互い言葉が出てこない。
私を背後から抱きしめたまま、彼はふぅー、と長く吐き出すように安堵のため息をついた。
その吐息がうなじにかかり、私の背筋をぞくっと刺激する。
常ならば生理的嫌悪感を抱いたかもしれないその刺激を、私は心地よいとすら感じてしまった。
そのときになってようやく、危なかった、という恐怖と、助かった、という安心感を同時に実感した。
「……随分とお転婆だったんだな、君は」
「そ、それは貴方が飛べって……!」
からかうような彼の物言いに、反射的に反駁してしまう。不愉快だったからではなく、気恥ずかしかったからだ。
初めて出会ったときのように、またしても彼に危機を救われた。もしかしたら私と彼の相性はよくよくそういうものなのかもしれない。庇護者と庇護される者……
「はは、そうだね。……よく出来ました」
「あ、あの……ありがとうございました」
彼は私の拘束を解かぬまま、背後から優しい口調で囁いてくる。
その声には私の身を案じる至誠のいたわりが感じられ、私は礼を言うと共に深い安心感に包まれて脱力し、彼に背中に体重を預けるようにもたれかかってしまった。
足の力が抜けてずり落ちそうになる私を支えるため、「おっと」と抱えなおしてくれる彼の腕の感触で、抱きしめられているという今の状況を強く意識してしまった。
いまだにドクドクと心臓がかなりの勢いで鼓動を刻んでいる。
危機を脱して落ち着くどころか、そのボルテージはいささかも弱まる気配がない。
私の左胸を掴んでいる彼の右手にもその胸の高鳴りが伝わってしまっているはずだ。
恥ずかしい、彼は私の胸の高鳴りをどう受け止め、解釈しただろうか。
羞恥を覚えて俯くと、視線の先に私のコンプレックスでもある胸を鷲掴みしている彼の手が映る。
ワタシノムネヲカレガツカンデイル。
事態を把握したとき、私の頭は一瞬で沸騰した。
「……きっ……きゃぁぁあああ!!」
「うぉっ!?」
羞恥でオーバーヒートした私は大声で悲鳴をあげてしまう。
私は反射的に胸を庇うように前屈みに座り込もうとしたが、突然の狂騒に驚いた彼がより腕に力を込めて拘束したため阻まれてしまう。
「胸! 離してくださいっ!」
「うわ!? ご、ごめんっ」
私が指摘したことで彼もようやく自分がどこを掴んでいるか気付いたようで、慌てて謝罪しながら両腕の拘束を解いてくれる。
私を救おうとした一連の行為の結果としてそうなっただけで、故意の行いでないことは理屈ではわかっている。
だけど、生まれて初めて異性に胸を掴まれる体験をした私にそんな理屈は何の慰めにもならなかった。
彼を恨めしく思う気持ちが怒りとなってふつふつと湧いてくる。
階段の踊り場の床に、両足とお尻で「M」の字を描くような姿勢でぺたんと座り込んだ私は、両手で胸を隠しながら首だけ動かして背後の彼を恨めしく見つめる。
そんな私の顔は羞恥で真っ赤もいいところだったに違いない。
彼はバツの悪い表情で頬を掻いており、私の視線による呵責を受け止めながら何を言うべきか迷っているようだった。
「ごめん、本当に申し訳な……」
「この不届き者め、のどちゃんに何をしたーー!?」
ダダダダダッ!
彼が謝罪を口にしたところで、それを遮るように大声が階下より響く。そして木製の階段をすごい勢いで駆け上がってくる音。
とても聞き覚えのある声の主が私たちのいる踊り場に飛び込んできた。
「天誅ーー!!!」
その突然の乱入者は気合の篭ったかけ声と共に私へと……いや、私の頭上を飛び越えて背後の彼へ躍りかかった!
ガッ!
背後で鈍い音が聞こえたかと思うと、私の目の前にひらりと着地する小柄な影。それは……
「やるなきさま! だがのどちゃんに手を出した落とし前はきっちりつけてもらうじぇ!!」
右手を前に突き出して私の背後にいるであろう彼を指差した、親友の片岡優希の姿だった。