今井リサと7日間   作:古川集人

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1日目:今井リサのオープンキャンパス

 一度練習を切り上げて休憩時間をとることになった。

私はベースをスタンドに立てかけ、ステージ近くのベンチへ向かう。ちょうど水を飲んでいた友希那の隣に腰掛けた。彼女はRoseliaのボーカル担当だ。

「今日当たり強すぎない?」

 私がため息混じりにそう言うと友希那は目を反らした。

 ライブが迫ってきているのだ。気が立っているのだろう。でもだからこそ冷静に、慎重に、そして丁寧に練習をするべきであると思う。今日の友希那はメンバーに叱ってばかりで、具体的に何をどう治すべきか、何を意識しながら演奏するべきか、伝えられていない。

 ドラム担当のあこなんて何度叱られたことか。

 「アタシは友希那のストイックな所嫌いじゃないよ。今までもそれで結果を残せているしさ。でも焦って仲間に厳しく当たるのは良くないんじゃない?」

 友希那は少しの間黙ると、小さく息を吐き出した。

 「その通りね。ごめんなさい」

 やけに素直に謝った。いつもならもう少しゴネるのだが。

 「ねえリサ。この間の事、意識しているの?」

 「…してる」

 「たしかあの人も、私みたいな態度を取っていたのよね」

 私と友希那は幼馴染だ。お互い考えている事はある程度わかってしまう。

 もちろん私はRoseliaをライブで成功させたい。だがそれ以上に、仲間に傷ついて欲しくないのだ。

 友希那が言った「この間」とは二人でオープンキャンパスに行った時の事だ。私達はある事件に巻き込まれてしまうのだが、それ以降友希那が心配で仕方がない。いつか彼女も酷い目に遭ってしまうのではないかと考えると…。

 「私は大丈夫だから」

 友希那はそう言った。

 私はあのオープンキャンパスでの出来事を思い出す。一歩間違えれば大変なことになっていたかもしれない、恐怖の体験だった。

 

 

 駅からバスに揺られて10分。私と友希那はN大学に着いた。校門前は人で賑わい、学生スタッフが笑顔でパンフレットを配っている。

私達ももう三年生だ。大学受験という関門が迫ってきている。

私達が通う羽丘女子学園では、最低三回必ずオープンキャンパスに足を運ばなければいけない。さらにレポートを書き、一学期終了までに提出しなくてはいけないのだ。進学校特有の面倒くさい課題の一つである。

 友希那は学生スタッフからパンフレットを貰いペラペラとめくっていた。

 「ええっと、今日の予定は…」

 「午前11時30分までは自由行動。その後合流してお昼ご飯を食べる。そして全体説明会を聴いて、今度は一緒に大学を廻るんだよ」

 「そうだったわ」

 校門を抜けたくさんの出店が並ぶ通りを歩く。N大学の敷地は細長く、この通りの周りに各施設が並んでいるのだ。

 溢れかえる人やソースの匂いがまるでお祭りのようで楽しくなる。

 「気晴らしには良いかもしれないわね」

 友希那も乗り気だ。

 「みてみて友希那!焼きそば屋が4つも並んでる!なんでー!?」

 校門から順番に、300円の焼きそば、250円の焼きそば、300円で目玉焼きがついている焼きそば、そして再び300円の焼きそばが並んでいる。もちろん列が長いのは250円の焼きそばである。出店の焼きそばが被ってしまうのは良くある事だが、なぜ同じ場所に並べたのだろうか。テンションが上がっているのもあって私は面白おかしく感じられた。

 「ね、猫。猫が居るわ」

 友希那の注意を引いた出店には、大きなクレート内で猫が二匹お座りしていた。ちなみに彼女は大の猫好きである。

 「うおーかわいい!」

 どうやらこの出店、猫を大学でお世話するサークルらしい。高校とは違い大学には不思議なサークルがたくさんあるものだ。

 「この大学、第一希望にしようかしら」

 「いや、もうちょっと見てから決めようよ…」

 猫の影響で友希那がそんな事を言っていた。

 その後私達はこの出店に立ち寄った後、食堂近くへ移動した。

 「11時30分になったらここで合流しよ。それまでは自由行動で!」

 「ええ、何かあったら連絡するわ」

 私達は一度別れ、各々が興味あるブースや施設に足を運ぶことにした。

 

 

 食堂のさらに先の通りを歩いていると、徐々に人気も出店もなくなっていく。どうやら敷地の端まで来てしまったようだ。パンフレットを見ても施設の名前が書いてあるだけでイベントやブースは何もない。

 せっかくここまで来たんだし、ちょっとだけ施設を覗いちゃおっかな。

 そう思った私は、自分のすぐ近くに建っていた「研究棟1」へ向かってみる。

 壁面の所々にヒビが入っており、他の施設よりも古い建物であることがわかった。雰囲気もどことなく暗い。深夜なら肝試しができそうだ。

 興味本位で「研究棟1」の扉を開いた。外観は薄汚れていたがロビーは他の新しい施設と同じくらい綺麗だ。

 遠くで人が騒いでいる音しか聞こえず、建物内が一層静かに感じられた。

 「やっぱり誰もいないのかな?」

 ロビーで突っ立っている訳にもいかないので階段を上る。足音が妙によく響いた。

 二階の廊下には研究室が並んでいる。扉の小窓から中の様子が見られた。

 研究室によって綺麗に整頓されていたり、物が多すぎて足の踏み場もない部屋まであった。しかし今はどこも人がいないのか電気がついていない。

 「ふむふむ、研究室ってこんな感じなんだなー」

 なんとなく研究室の雰囲気がわかっただけでも収穫はあった。

 最後に廊下の奥にある部屋を覗いて他の施設を見学しよう。私はそう思って小窓から顔を出した。

 てっきり誰もいないと思っていたが、物が少ない研究室に男子学生が一人。いきなり私が小窓から顔を覗かせたので、彼は酷く驚いているようだ。

 「あ、ごめんなさい」

 扉越しで聞こえなかったと思うが私は慌てて頭を下げる。

 すると研究室の扉が開かれ、中にいた男子学生が私に笑顔で話しかけた。

 「君はこの研究室の人?それとも外部の人?」

 「オープンキャンパスの見学者です。ちょっと興味があったので、この建物を覗いていました」

 「なるほど。良ければうちの研究室、見学してく?」

 「いいんですか!?ありがとうございます!」

 男子学生は部屋へ私を招いてくれた。

 「ああー、ちょっと待ってて」

 いきなり私が押しかけたので何か作業中だったのだろう。この研究室と扉で繋がっているもう一つの部屋へ彼は姿を消した。何やらドカドカと大きな物音がした後、再び研究室へ戻ってきた。

 「ごめんねー。ちょっと散らかってて…。あ、俺は荒木って言います」

 「今井です。急に押しかけた私が悪いんで気にしないで下さい」

 荒木と名乗った男はキョトンとした顔で私を見た。

 「あ、あのー」

 彼は無言で見つめてくるので、私は困り始める。

 「あ、ああ、ごめん。…もしかして今井さんって、Roseliaの今井さん?」

 「はいそうです!知ってくれてるんですか!?ありがとうございます!」

 大ガールズバンド時代と言われている昨今。私達Roseliaも注目を浴び始め、声をかけられる事も増えてきた。やはり自分達を知ってくれている人がいるのはとても嬉しいものだ。

 「そうかそうか!今井さんか!立ち話もなんだから準備室においでよ」

 さっき荒木さんが出入りした部屋は準備室らしい。彼の後に続きその部屋に入った。

 散らかっていたと本人は言っていたが、対して物は置かれていなかった。目をひくといえば部屋の端に置かれた大きなコンテナとギターケースである。

 準備室の奥には「施錠中」と張り紙がついてある扉があった。今使われてはいないが、この扉が廊下へと繋がっているのだろう。

 「今椅子を全部貸出しちゃっててねー。そのコンテナの上に座っていいよ」

 お言葉に甘えて私はコンテナに腰を下ろす。

 「このギターケースは?」

 「それ俺の。こう見えて俺も軽音やってるんだよね」

 おお!話が合いそうな人じゃん!私はベース担当なので別の楽器だが。

 荒木さんは近くに置かれていた机の上に腰掛けた。

 「荒木さんはバンド組んでいるんですか?」

 「ああ、組んでるよ。軽音サークルだって作った」

 軽音サークル?この大学のパンフレットには書かれていなかったはずだが…。

 「あれ?軽音サークルはこの大学に無いと聞いていたんですけど」

 「あ、ああ、人がいなさすぎてね…、大学に存在を忘れられているんだよ。サークルって誰でも簡単に作れるから、人が少なかったり活動していなかったりすると忘れられちゃうんだ」

 軽音はお金もかかるし演奏を覚えるのも大変なので、心が折れてしまう初心者も多い。きっと彼のサークルもそうやって人が減ってしまったのだろう。

 「でもバンドが組める人がいて良かったじゃないですか!」

 そんな彼に同情してか、私は前向きに話をしていく。だって仲間に「量」や「質」は関係ないのだから。

 「そうだ!今日友希那も来てるんですよ。三人で話しませんか?」

 「え?あー、いいね!歌担当の人とも話してみたいな」

 どこか歯切れの悪い答えだが、本人は笑って了承してくれた。

 パンフレットにない軽音サークルを見つけた事と荒木さんと一緒にいる事をSNSで伝える。

 その後彼と少しの間バンドについて話し合っていたが、友希那から返信があった。

 「私も向かうわ。どこにいるの?」

 そういえばここは何研究室だっけ?

 「ここは並木研究室だよ」

 荒木さんはそう教えてくれた。

 私はスマホをタップし終え、ズボンのポケットへとしまった。

 

 

 「研究棟1の並木研究室!」

 その頃友希那は食堂近くの研究室紹介ブースにいた。リサのメッセージを見ると、ふと辺りを見回す。

 もしかしたらこのブースに並木研究室の紹介もあるはずだ。ちょっと見てからリサの元に向かおう。そして軽音サークルについても聞いてみよう。そう思い友希那は並木研究室のテントを探した。

 「…見つけた」

 「並木研」と大きな文字で屋根にペイントされたテントを発見。

 テント内のパネルには色鮮やかな文字で紹介が書かれており、その側に退屈そうにしている女子学生が一人パイプ椅子に座っていた。

 その学生は友希那がテントに近付くと慌てて笑顔を浮かべる。

 「ここは臨床心理学を中心に学ぶ研究室ですよー。心理学とかに興味あるんですか?」

 「え、ええ。まあ」

 臨床心理学という言葉はわからないがここはひとまず置いておく。この研究室の荒木という人間が軽音サークルに所属しているらしいのだが、どうにもそのサークルは存在しているか怪しい。

 「並木研の荒木さんが軽音サークルに所属しているとお聞きしたのですが、この大学に軽音サークルは存在するのですか?」

 女子学生は眉をひそめた。

 「荒木が軽音サークルに、ですか?確かに荒木は軽音をやっていますが、そんなサークル存在しませんよ」

 やはり軽音サークルなんてないではないか。

 「私の友達が今荒木さんと話をしているみたいで、彼からそう伺ったらしいんですが…。私もバンドをやっているのでお邪魔させて頂こうと思っていたんです」

 「荒木がそんな事を?全く、シフトをサボった挙句軽音仲間増やすために嘘までついてお喋りとは…」

 女子学生はため息混じりに頭を抱えた。

 「荒木さんのシフトは何時からだったんですか?」

 「ちょうど30分前からだよ。電話も出ないから仕方なく私が店番してるけどもう限界!」

 女子学生は椅子から立ち上がり、彼女は荒木さんをとっちめるために研究室へ向かうとのこと。友希那もついでに案内をしてもらった。

 「荒木さんは軽音にまっすぐな人なんでしょうか?」

 途中、なんとなく友希那は案内してくれている女子学生に声をかける。

 「増田でいいよ。荒木は軽音が大好きだよ。最近流行りのガールズバンドにハマってね。もう軽音しか考えていないし練習は超ストイックだし、私がいろいろ助けてあげないと大変なんだから」

 「そう、ですか」

 なんだか自分の身近にも思い当たる節がある。もしかしたら増田さんはリサのような世話焼きなのかもしれない。

 「妥協は許さない石頭野郎だよホント。自分にも周りにも厳しい人だよ」

 そして荒木さんは自分と似ているのかもしれない。なんだか親近感を沸く二人だ。

 友希那はそう思いながら足を進めた。

 「でも今日は変なんだよな。荒木が30分も無断で遅れる事なんてないし、自分からそんな人と話すタイプでもないし…。年下のバンドマンと知り合えてテンション上がっちゃったのかな?」

 「心配なので連絡してみます」

 友希那はスマホを取り出し、私に電話をかけた。

 

 

 「そういえば荒木さんのバンドってどんな構成してますー?」

 私と荒木さんはバンドの話で盛り上がっていた。しかし。

 「うーん、ギター二人にドラム一人かな」

 「え?ベースいないんですか?」

 「べ、ベースはまあ、うん、いないかな」

 「結構特殊なバンドなんですね」

 「でもRoseliaだってそうじゃない?」

 「い、いや、アタシ…」

 この男、ベースを知らないのだ。おそらく私が演奏している楽器をギターだと勘違いしているのだろう。バンドを組んでいて軽音部に所属している人が、ベースを知らないんて考えられるだろうか。軽音に関わったことない一般人だって知っているようなものだが。

 また彼と話していて気が付いたのだが、どこか話がブツ斬りになってしまう事が多いのだ。例えばバンドメンバーについて聞いてみた時は、彼の返答は「みんな普通の人」だった。バンドメンバーの特徴や趣味くらいは理解しているものだが、普通と答えられてしまっては話を広げるのが難しい。

 もう一つ気になるのは、彼は終始笑顔で話をするのだが目が明らかに泳いでいる。どうも私と話していて緊張しているようだ。

 「この大学は文系なんだけどさ、心理学に関係する研究室もあって…」

 そしてついにバンドから話が遠ざかってしまった。

 何だかこの人、変だ。私はもう彼の話なんて聞いていなかった。

 軽音サークルはあると言っていたが本当だろうか?そもそも彼は軽音をやっているのだろうか。

 もし私に嘘をついているとしたら、何のために?

 壁に立掛けられているギターケースは誰のもの?

 そもそも何で彼はこの研究室にいたのか?

 考えれば考える程不気味で怖くなってきた。私は座っているコンテナの淵を自然と強く握ってしまう。

 「でもさー、そいつがさー」

 気が付いたら荒木さんは誰かの愚痴をこぼしていた。

 「俺はああいう自己中心的な奴が嫌いだね。自分自信の意識が高いのは勝手だけど、周りにまでそれを求め始めるのはダメだ。今井さんもそう思わない?」

 いきなり振られたので慌てて返答する。

 「ま、まあ、はい。でも、本人もいろいろ考えがあって行動してるかも…」

 「知らないな!ムカつくもんはムカつくさ。あいつのあの態度が原因で不登校になった人間もいる」

 初めて目の前の男が笑顔を崩した。

 声を荒らげられ、思わず小さな悲鳴が私の口から漏れた。

 もう早くここから出たかった。冷や汗が止まらないし、手が震え始めている。元々怖いのは苦手なのだ。

この研究室から出て友希那に会いたい。

 「ああ、ごめん。つい感情的になっちゃった」

 私の恐怖を察したのか、荒木さんはまたあの笑顔になった。

 「ちょっとコーヒーを淹れてくるよ。もうすぐ湊さんも来るだろうし…」

 「は、はい」

 そう言うと彼は準備室から隣の研究室へ移動した。部屋で1人だけになり、少しだけ安心する。

 その時、私のスマホが鳴った。思わず声を上げる。

 「もしもし友希那?」

 「今並木研究室の増田さんとそっちに向かってるわよ」

 増田さん?何でも良いから早く来て。

 「軽音サークルだけど、やっぱり無いみたい。同じ軽音仲間に会えた嬉しさで嘘を言ってるんじゃないかって」

 「ねえ友希那、あの人たぶん軽音やってないよ。話がさっきから全然噛み合わないもん…」

 「軽音はやっているみたいよ。それもかなりストイックに」

 「ストイック?ストイックにやってる人がベースもわからなかったんだよ」

 「え?荒木さんの担当はベースのはず、ですよね?」

 少し遠くからそうだよと声が聞こえた。声の主が増田さんだろう。

 ベース担当なのにベースを知らないだと?それに彼はギター担当だと言っていたが。

 「で、でも、俺はギター二人とドラム一人でバンドを組んでるって…」

 すると急に友希那の声が途切れた。電話が切れたのかと思っていたが、彼女が突然黙り始めたらしい。

 こんな状況だ。自分を安心させるためにも友達の声を聞きたい。

 「もしもし友希那?あの人やっぱり何か変…」

 「リサ。荒木さんは女よ。あなた誰と話しているの?」

 背筋に冷たいものが走った。友希那の恐ろしい返事に私も言葉を失う。

 女、だって?じゃあ今まで荒木と名乗っていたあの男は誰なんだ!?

 「わ、わ、わからないよ…。もう全然、何が何だが…」

 もう嫌だ。なんなんだ…。あの人は、なんなんだよ…。

 「私達も急いでそっちに、え?増田さん?ちょっと…!」

 電話からノイズが流れた後、友希那ではない女の人の声がする。

 「もしもし増田です。今井さん、研究室内に他に誰かいない?あなたと謎の男と、もう一人」

 研究室内?確かに私とあの男しかいないはずだが。

 「あなたが研究室にやってきた時間帯に、荒木もそこにいたはずなの」

 「い、いえ。見ていません。女の荒木さんなんて見ていないですよ」

 増田さんも今の事態の不気味さに気が付いのか声が震えていた。

 「30分前からずっと音信不通なの。いつも自分に厳しい女だからシフトをバックれて逃げ出すことなんてしないと思うのよ」

 で、でも私はこの研究室で女の人には会っていないぞ!?あの男にしか、会っていない。

 「どこかに隠れていたりしていない?い、いや、まさか、隠されていたり、とか…」

 隠される、だと?それじゃあまるで、何かの事件みたいじゃないか!

 そもそもこの研究室は物が少ない。大きめの机と小さな棚がいくつかあるだけだ。とても人間一人が隠れられるスペースではない。

 強いて言うならばこのギターケースだが、女子大生一人が入るスペースは無いだろう。

 「隠れられる場所なんてありませんよ。だってこの…」

 ふいに私は下を見た。

 私はこの準備室に来てからあるものに座り続けている。

 息を呑みながら、その場から立ち上がった。

 女子大生が隠れられそうな、いや、隠せそうな場所。それは…。

 「コンテナ…」

 ま、間違いない。ここだ。ずっと私が、座り続けていたコンテナ。

 そういえば私がこの研究室に訪れた時、あの男が準備室で大きな物音を立てていたが、それは人をコンテナへ押し込んだ音ではないのか?

 「人を隠せそうな場所を、見つけました。今から開けてみます…」

 ぶるぶると震える手で、音を当てないように、ゆっくりと蓋を開ける。

 私はただコンテナを開けているだけだ。だが自分のすぐ足元で惨劇が起きていたのではないかと考えると、吐き気に襲われてしまう。

 コンテナの中身を恐る恐る覗く。

 まず最初に飛び込んできたのは黒い髪だ。そしてこちらを見る血走った目、青くなった額、ガムテープで 塞がれた口、ボロボロになった服、紐で縛られた手足。私と目が合うと彼女は首や体を揺すって助けを求めた。

 私は悲鳴をあげそうになった口を必死に片手で塞いだ。舌を引っこ抜いてしまうくらい、手を口の奥に入れた。

 「どう!?リサ!?」

 友希那の声が聞こえる。荒くなった息を整え、荒木さんを見ながら電話で話した。

 「いたよ、荒木さん…。生きているけど、すごい殴られた跡があるよ…」

 「そんな…!でも生きているのね!今すぐ向かうわ!警察にも連絡するわね」

 すると突然、研究室の方からピーッ!と甲高い音が鳴る。沸騰を知らせるやかんの音だ。

 まずい!あの男がコーヒーを淹れて戻ってきてしまう!どうにか時間を稼ぎ、荒木さんを助け出さなければ!

 「す、すみませーん」

 私は準備室の扉を開け研究室に顔だけ覗かせた。男は小さなキッチンで三つのマグカップにコーヒーバッグを入れていた。

 「アタシも友希那もコーヒーにはチョーうるさいんですよ。ちょっとだけ注文してもいいですか?」

 「うん、どうぞ」

 男は変わらず仮面のような笑顔だ。

 「マグカップにお湯を淹れた後、コーヒーバッグを二分間小刻みに揺らし続けて欲しいんです。ぴったし二分間ですよ。そうすると美味しくなるんです」

 「二分間ね。ちゃんと見ておくよ」

 「そしてミルクはマグカップの一割くらい、砂糖は大さじ半を三杯です。大さじじゃありませんよ」

 「わ、わかったよ」

 言うだけ言って私は扉をバタンと閉めた。

 コンテナへ向かい、荒木さんの口を塞いでいるガムテープを剥がす。

 「あの男にされたんですか?」

 「ありがとう。そう、いきなり小口君に殴られまくって、コンテナへ押し込まれたの」

 あの男は小口という名前らしい。

 「ひとまず、ここから逃げましょう」

 そう言うのは簡単だった。問題はどうやって、だ。

 この準備室には開いている扉が無いので、研究室の扉から外に出なくてはいけない。しかし研究室にはあの男がいる。勝手に逃げようとしたら何をされるかわからない。刃物を持っている可能性だってある。

 脱出方法を考えながら、コンテナから荒木さんを抱え出す。

 二人で強行突破するべきか。そう考えたが、荒木さんの両足は跡が付くほど細い紐で結ばれている。今ここで私が解くのは不可能だし、縛られている状態では小口から逃げ出すことはできないだろう。

 一度荒木さんをコンテナに戻し、私は何も知らないふりをして小口と話し続ける。その間に友希那達が呼んだ警察を待つ手が最善ではないだろうか。

 「リサ!今はどうなの?」

 「とりあえず知らないふりをして警察が来るのを待つよ」

 私は小口の様子が気になったので、音を立てずに準備室の扉から研究室を覗いてみた。

 小口は律儀に二つのバッグを揺らしている。手元にはコーヒーが淹れてある3つのマグカップ。砂糖の容器。牛乳パック。良かった、私の注文にしっかりと従うようだ。そう私は安堵したが、小口はコーヒーバッグから手を離し、キッチンの下の棚を漁り始めたのだ。

 いつもの私なら、そんな小さな事を気にしないだろう。だが今コーヒーを淹れているのは、女子大生を殴って縛ってコンテナに押し込んだ人間なのだ。彼は一体、何をやっている…?

 棚から何かを取り出すと再び2つのコーヒーバッグを揺らし始めた。キッチンの台に置かれたものは銀色に光り輝いている。

 最悪だ!あれは包丁じゃないか!?

 私はゆっくりと扉を閉め、荒木さんのもとへ。

 「あの男が次に準備室へ戻ってきた時、私達を脅すか、最悪殺されてしまうかもしれません…。刃物を取り出していました」

 荒木さんの顔が真っ青になる。

 「は、刃物ってなによ!?」

 電話越しに友希那が叫ぶ。私だって発狂しそうだよ…。

 「みんなよく聞いて。警察を待っていてはアタシと荒木さんは脅されたり、人質に取られるかもしれない。最悪殺されてしまうこともあり得る。だから今、小口がコーヒーを持って来る前に、研究室を通らずに準備室から脱出しなくちゃいけないの」

 私は準備室の奥、「施錠中」と書かれた扉をひいてみる。やはり鍵はかかっていた。

 「荒木さん、増田さん。準備室から廊下に出る鍵ってどこにあるんですか?」

 増田さんがそれに答えた。

 「研究棟1のロビーにあるよ」

 「友希那と増田さんにお願いがあります。その鍵を取ってきて準備室側から開けてくれませんか?」

 「いいけど、小口にバレない?」

 「彼が準備室に入らないように、アタシが何とかします」

 「何とかって…。リサ、お願いだから危ないマネはやめてちょうだい!」

 「アタシは酷い目なんかに合いたくないよ。でも今、動かなくちゃダメなんだ。今動かなければ、バンドだってできなくなるかもしれないんだ」

 友希那は黙ってしまった。

 ただ待っていても危険ならば、動いてしまったほうがいい。私のその思いが伝わったのだろか。

 「今私達も研究棟1に着いたわ。すぐに向かうから!」

 私は頷き、荒木さんには準備室で待っているよう伝える。

 研究室の扉を再び開き、小口の様子を確認した。彼はもう砂糖とミルクも入れ終え、かき混ぜているではないか!

 ダメだ!このままでは友希那達が到着する前に、小口が準備室に入ってきてしまう!なんとか、なんとか彼を研究室に留めさせなければ!

 やけくそになった私は扉を勢いよく開けてしまった。

 小口はポカンとしてこちらを見ている。

 「あー!そういえば、研究室の方を見学してないなーっと思って…」

 あははは、と作り笑いでごまかす。

 小口は両手に持ちかけたコーヒーを一度キッチンの台へ置いた。

 「そういえばそうだったね」

 そしてあの笑顔。

 私はひとまず、たくさんの書籍が置いてある棚の近くへ向かった。

 心臓がバクバクと鼓動しており、小口に聞こえてしまうのではないかとさらに焦る。

 「ここって心理学系の、研究室なんですよねー。や、やっぱり、そういう類の本が多いんですねー」

 もちろん棚の中なんて見ていない。今の私に文字なんて読めない。

 とにかくなんとか誤魔化そうと頭をフル回転させている時だった。

 「今井さん」

 背後から小口の声がした。でもさっきまでの明るい口調ではない。愚痴をこぼしていた時のような、荒々しい声色だった。

 瞬間、私の右肩が強く掴まれ、悲鳴を上げる間もなく床に倒されてしまう。

 痛いッ!やっぱりこの男!次で何かする気だったんだ!

 小口は仰向けになった私に包丁の切先を向けた。

 「悪いんだけど俺の言う事を聞いてくれないか?」

 包丁の冷たさと鋭さが私の首に伝わる。少しでも頭を動かしたら血が出てしまいそうだった。

 やっぱり、動くべきではなかったんだ!待つべきだったんだ!

 なんでこんな事に、なってしまったんだ…。

 気が付けば泣いていた。

 「いいか?何もするなよ?勝手に動いたらメッタ刺しにするからな」

 小口は包丁を近くの机に置いた。その後ポケットからスマホを取り出し、狼狽える私のシャツの襟元をもう片方の手で掴んだ。

 何をしようとしている?コイツ、私を撮影しようとしているのか?

 脅すためには脅す物が必要だ。それが命や大切な人だったりするのだ。

 そして今の私は…。

 その時だ。小口の横から黒くて大きな物が飛んできた。小口は転倒し、私を掴んでいた手は消える。

 「リサ!」

 電話越しではない、友希那の声がした。準備室の鍵を開けて私達を助けに来てくれたのだ。

 小口は友希那が来る事を知っていた。だが準備室の施錠された扉から入ってくるとは予想できなかっただろう。

 「荒木さんは助けたわ!早く逃げるわよ!」

 ギターケースと共に転がっている小口を尻目に私はすぐに立ち上がる。

 そして友希那と共に走り出し、研究室を後にしたのだった。

 

 

 研究棟1から脱出した後、私はもうワンワン泣いた。友希那に抱きついて泣いていた。今考えると死ぬ程恥ずかしい。まあ本当に死にそうな状況でもあったので仕方がないか。

 荒木さんはすぐに病院へ搬送された。幸いにも大きな怪我は無く、三日後には元気に大学で活動していたそうな。

 小口はもちろん逮捕。私達が逃げてから警察が来るまで、ずっと研究室で突っ立っていたらしい。どうやらこの男、N大学を中退した元並木研究室の人間だったのだ。荒木さんが研究室を仕切っていたのだが、彼女の厳しさに耐えられなくなり大学に来なくなってしまった。その後自暴自棄になってしまい中退。私が聞いた彼の愚痴は、荒木さんに向けて言い放たれていたのだろう。

 今回の犯行は、自分を病ませた原因である荒木さんを痛めつけるのが目的だったようだ。オープンキャンパスの仕事で駆り出され、ただでさえ人気が少ない「研究棟1」はさらに人が少なくなる。来校者もこんな敷地の端まで普通は来ない。それを利用して誰にも気付かれずに荒木さんを暴行する予定だったのだ。しかし偶然にも私が彼の姿を見てしまった。

 小口が私を研究室に招いた理由はアリバイ作りのためだ。私を脅し、事件当時はこの研究室で小口と話していたと言わせ、荒木さんと会っていない事にしたかったらしい。最後に私が押し倒された時、小口はスマホを取り出していた。もしも友希那が来てくれなかったら…。考えただけでも恐ろしい。

 「私は大丈夫だから」

 友希那はそう言って私に微笑んでみせた。

 荒木さんは人にも周りにも厳しくて妥協を許さない性格だ。それが災いして標的にされてしまった。

 今の友希那は昔程荒れてはいないが、それでも心配である。暴行されて縛られてコンテナに押し込まれた荒木さんの姿が頭から離れられない。もしも友希那があの姿になってしまったらと思うと、とても怖いのだ。

 「確かに今日は言いすぎたわね。あとでみんなに謝ってくるわ」

 他のメンバーは休憩を終えてステージに集まっていた。そろそろ私達も戻らなければ。

 友希那はベンチから立ち上がり、私へと振り返った。

 「一方向から意見するのは良くないって、私も気が付いたの。大切なのは、双方向の意見交換ができる場を作ることよ」

 「…ふふ。急に頭が良くなったみたい」

 「普段はバカって言いたいの?」

 私は笑いながらベンチから立ち上がった。

 「私も協力するよ。双方向の、何だっけー?」

 「やめて」

 友希那は恥ずかしさを隠すようにステージへと戻った。

 どうやら彼女も成長しているようだ。思わず口元が緩む。

 私は面白さと嬉しさを感じながら、みんなが待つステージへと戻った。

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