第1話
―――やばいやばいやばいやばい!
少女、いまだ年齢が二桁にも届かないであろう子供は一人焦っていた。
「このままだと……わたくし……」
天使の輪と青いリボンが彼女の輝くプラチナブロンドを飾る。
普段は晴天を映すようなサファイアの瞳も今は深く海のような憂いに満ちている。
細波立つ瞳を苦しそうに歪めた子供は嘆き悲しむように声を上げた。
「破滅しちゃいますわーーーーーーーー!」
奇しくも、10年の後にライバルとなる少女が似たような叫びを上げていたことを、彼女はまだ知らない。
マリエール・ブーゲンビリアがブーゲンビリア公爵家の一人娘であることは貴族界隈では知れたことである。
そして、皇太子である第一王子殿下の婚約者の最有力候補であることもまた。
マリエールがこの
屋敷の中庭で鼻歌を歌いながら一本の薔薇を手折ったときに突如知ることになったそれは、たやすく少女を混乱の渦に叩き落す。
その知識いわく、ここは乙女ゲームの世界であり、少女は悪役で、その設定は少女が学園に通うころに牙を向くこと。
破滅を回避するためには攻略対象を
そして、悪役令嬢たる彼女の対となる少女がいること。
それが妄想でないことは何故か分かった。
ごくりとつばを飲み込み、息を吸い、吐き出す。
天啓は少女に衝撃を与えたが、その程度の些事がマリエールの心を折ることなど出来るはずもない。
ショックを受けて混乱に声をあげた、その次の瞬間には涙はひっこみ、桜貝のような可憐な爪をぐっと握りこんだマリエールはガッツポーズで勇ましく宣言した。
「やってやりますわ!だれだかしりませんが、見ておくといいです。わたくしはぜったいにはめつなんてしませんわ!」
宣言と同時にはっと辺りを見回して急いで拳を解く。
「いけませんわ、はしたない。マナーの先生におこられちゃいますわ……」
拳を握っていた手を見つめてつぶやいてから、身体の後ろに隠したのであった。
実はずっと左手に握っていた白い薔薇の、いまだ蕾だったそれはとりあえずドライフラワーにするためにつるしておいた。
王子との決戦の……ではなく、初顔合わせの日がきたその朝。
マリエールは寝起き早々に頭を抱えていた。昨日のわたくしの馬鹿!なんでちゃんと考えておかなかったの!とは思うものの、眠たかったので仕方がなかったのだ。幼女の身体は眠たくなるのが早いのだ。時間にして大体21時ごろにはすでにすやすやであった。
というわけで、破滅を回避する為に誰をどうしたらいいのか、具体的なことは一切考えていない。
むくりと起き上がり、6歳になってもまだ足のつかないベッドから降りる。
攻略対象者が何人いてそれが誰かは分からないが確実に一人は想像が付く。今日これから会うことになっている王子その人である。
次に宰相の息子辺りも同年代らしいので怪しい。後は……騎士団長の息子?
他にそれらしい人間は分からないが、少なくとも王子の周りの人物としてこの辺は一度確認しておいても良いだろう。
部屋に備え付けの魔道器で顔を洗う。若干手がさ迷ったが無事ふかふかのタオルを掴むことに成功した。
10年後に出現する
どうやら自分も彼女も攻略対象を見たら分かるようになっているようだ。極力早期に見つけ情報収集をして的確に好感度を上げていくことにする。
出来れば10年後までには好感度MAXまで持っていきたい。
すでに用意してある今日のための服を見つけて、もぞもぞと着替え出す。
ハンデとして10年の時間があるにせよ、最大3年間の学生生活にどれだけ巻き返されることか。
卒業までに、伝説の木の下での告白を成功させるのが
そのイベントを起こすための設定期間があって入学早々には終われないようなので、気を抜かずにいこう。
きゅ、と胸元のリボンを結び、ちゃんと靴下も履いた。
悪役令嬢としての特性で畏怖を抱かれやすく、マイナス方向の勘違いを誘発しやすいらしい。
そしてその特性は実は
その特性のまま傲慢に振舞ったりするとあることないこと全ての罪を押し付けられて破滅する破目になるとか。
頭のリボンは……あとでメイドのライラにやってもらうことにする。
結論としては、調子に乗りすぎず、謙虚に、王子その他の好感度をぶち上げていく。これですわ!
と、いうようなことを水でふにゃふにゃにしたような感じで考えている間に着替えが終了した。だってまだねむたい。
いつもはマリエール付きのメイドのライラが起こしにくるまで寝ているが、さすがに今日はそうもいかないのでライラを探しに部屋の外に出ることにしたのだった。
「さあマリエール、ご挨拶をしなさい。」
父の影から背中を押され一歩進み出ると、金の髪と翡翠の瞳を輝かせた王子その人がいた。
「はい、お父様。ごきげんよう、クリストファー殿下。ブーゲンビリア家の娘、マリエールと申します。お会いできてうれしく思いますわ」
ゆっくりと言い、微笑む。
少し硬くなってしまったかしらと心配になるがスカートを軽く持ち上げお辞儀をすると、王子がにこりと笑ってくれる。
「始めまして、マリエールさん。僕も会えてうれしいよ」
王子の周りに花が舞った様に見えた。まるで妖精のような見た目の王子にはそれがとてもよく似合う。
これがグッドコミュニケーションの証なのだと分かるが、他の人にはやはりなにも見えていないようだった。
おやつまで中庭にでも行っていなさいと促され、王子とマリエールは談笑しながら散策をしていた。
王子の弟が城の抜け道を見つけていてうらやましいという話や、紅茶にジャムを入れてみたいという話で盛り上がったりした。
ふと、突然起こったつむじ風が二人の髪を揺らしていく。二人してぎゅっと瞑っていた目を開けると顔を見合わせて微笑んだ。
「マリエールさん、君の髪がお転婆なことになっているよ」
何かに気が付いたように手を伸ばして王子はマリエールの顔にかかった髪を払った。
それにくすぐったそうな顔で笑い、王子こそ、とささやく。
「王子こそ、髪に葉っぱがついてますわ。やんちゃなのですわね」
そうして口元に手を当ててくすくすと笑った。
王子は少し照れた様子で慌てて子犬のように頭を振り、葉を振り落とした。
内心婚約者になるといえど笑ったら不敬だったのでは?と思いついてしまいハラハラしだすも、王子は何も気にしていない。
「王子じゃなくて、どうか名前で呼んでくれないか?」
「わたくしのことはマリエール、と。クリストファー様」
「クリスでいい。マリエールと僕はこれから婚約者になるんだから、無理なことかもしれないけど、王子としてじゃなく対等な関係で居たいんだ」
小さなマリエールの手をとった、クリストファー王子の手もまた小さく。
このころはまだきっと、将来婚姻関係を結ぶ人間としてではなく、同年代の友達として。
こちらもきゅっと手を握り返したマリエールは、新しい友達の誕生への期待と不安を浮かべた顔を見て言った。
「では、クリスさま、とお呼びいたしますわね」
「呼び捨てにはしてくれないのかい?」
一瞬断られたかと眉を下げる王子に、少し胸を張り、得意げに。
「こう見えてわたくしも淑女のはしくれですもの」
「そうだね、失礼した」
二人はまた顔を見合わせて笑ったのだった。
パーフェクトコミュニケーションの証として見事な大輪の花が咲き誇っていたので、王子のことを笑ってしまった不敬は許されたのだ……多分、きっと……大丈夫ですわ!