春彦
「
「僕の目はもうずいぶん前から温度を映さない。ぼうっと周りがぼやけるように暗かった。それからだんだんと色が分からなくなったのだ。代わりに
「海はそんな僕のすべて理解しているかのようにとても静かだった。昔、君と来た時。足首にまとわりついて遊んでいた無邪気な波は、居なかった。柔く、穏やかに、ただ優しく、冷たい
「あぁ。この先だ。この虚空の先に君がいる」
「ようやっと見つけた。何をしても辿り着けなかった先へ行く道は、海にあったのだ」
「けれども君の元にゆくには、僕は熱すぎる。こちらで生きるには、ささやかすぎる熱量でも、あちらへゆくには、きっと少しばかり熱を持ちすぎている」
「ならば暫く眠るとしよう。なに、苦しくはないさ。
「それまでに僕がするべき事と言えば、いかに誠意を見せるかに重点をおいた謝罪方法と、謝罪の後で伝えそびれた愛を伝えるタイミングを練ることである」
「あぁ、ようやっと呼んでくれたね。長かった、実に永かった。ようやく君は僕に
「君に会えたら伝えることがたくさんあるんだ」
_間。
春彦
「ぽかぽかと暖かい……間違って極楽へと来てしまっただろうか」
初
『〜♪(適当に鼻歌を)』
春彦
「……っ!!」
初
『春彦さん、お気付きになりましたか』
春彦
「お初! お初!! 会いたかったんだ、君が居なくなってしまってから……」
「_僕は持ち得る浪漫の全てを駆使して、再会の喜びを伝えるつもりだった。だのに、僕の頭はぼうっとして、思わぬ方へと口が勝手に回り出した」
『この世でいちばんうつくしいものは君かもしれない……』
初
『あら、まぁ。』
春彦
「__思い出した。これは見合いの時、はじめて君に出会えた日の記憶。ろくに目も合わせる前に緊張で気絶するような情けない男を介抱してくれた、優しいひと。目覚めてはじめてちゃんとその姿を見た時に、あんまりにうつくしく見えたものだから。つい、そのようなことを口にしてしまったのだ」
_間。
初
『春彦さん、どちらへゆくの』
春彦
『それは着くまでの楽しみだ。でもきっと君は花のように笑うだろうね』
「そうでは無いだろうが!まずは日傘を差しだせ、自分!! 浮かれる前に、彼女の
初
『まぁ。それは、いっそう楽しみになりました』
春彦
『そうかい。それは良かった』
「……はぁ、困った。実に困った。これは花見の記憶だな。お初と
初
『春彦さんは、うつくしいと思ったものを私にも見せてくださるでしょう。初はそれが嬉しいのです』
春彦
『……』
初
『あら。私の旦那様は照れると眉間に皺が寄りますね』
春彦
『……』
初
『愛らしくて良いと思いますよ』
春彦
『お初さん……』
初
『はい、なんでしょう』
春彦
『あまりからかわないでおくれよ……』
初
『あら嫌だわ、旦那様をからかってなどいなくてよ。本心だわ』
春彦
『あぁそうかい、じゃあ僕はもっと男を磨かないといけないね』(拗ねたように)
「……あぁ、拷問だ。詩が少し売れただけの小僧の虚勢など脆いことこの上なし」
_間。
春彦
「……次は夜か。ふむ、あそこの団子屋が潰れている。少なくともあれから2年が経っているな。……この道、っ!! ゆくな!! 止まれ!! あぁ馬鹿者!! 看板など見るな!!」
『……桜屋。
「入るな! 一晩飯を抜いたくらいで死なないだろう!! 帰るんだ!帰れ!!」
すみ
『いらっしゃいませ』
春彦
『ここは晩御飯を食べることができるだろうか』
「……すみ、当初はこんなに幼かったか」
すみ
『晩御飯ですか。お酒の
春彦
『それは良かった』
_間。
春彦
『うん、美味いな。外で食べるのは久しいけれど、たまにはいいものだ』
すみ
『ありがとうございます、母が喜びます。ところで春彦さん、お酒は飲まれないのですか?』
春彦
『酒かぁ……』
すみ
『お嫌いでしたか?』
春彦
『いいや。飲んだことはないんだ。父親が悪い飲み方をするような奴だったものだから』
すみ
『では。今夜、春彦さんの酒開きでいかがでしょう』
春彦
「馬鹿、よせ。お前はとんでもない下戸なのだ」
『……これが酒。どれ1口』
「飲むな、やめろ!! はーーーっこの大ボケ野郎、人の忠告は聞け!!!!やめろって言ってんだ!!!」
_間。
初
『春彦さん、春彦さん』
春彦
『ん、うぅ……僕のいっとう好きな声がするよ』
初
『気が付きましたね、春彦さん。帰りますよ』
春彦
『おはつ……?』
初
『はい、あなたの初ですよ』
春彦
『あぁ本当だ(ふにゃりと溶けるように)。すみ、すみ! 見ておくれこの人だよ、おはつさん、僕の人だよ』
初
『およしになって、春彦さん。おすみさんもお仕事なさってるのだから、邪魔はいけないわ』
春彦
『む。そうだね、すまない。やはり、おはつさんは気配りのできる
初
『……お酒、嫌ってらしたでしょう。飲むなんてどうなさったのですか?』
春彦
『うん? すみがね、薦めてくれたから。少し飲んでみたくなったんだ。なんだか不思議な心地だね。おはつさんも飲むかい? まだ
初
『いいえ。今夜は遠慮しておきます。お勘定はすませましたから。さ、帰りますよ』
春彦
『はぁい。ん、あれ……立てない』
初
『あら、まぁ。仕方の無い人ですね』
初
『はい、……まぁ大将さん、お気遣いありがとうございます。ですがお構いなく。この度はうちの人がご迷惑を。これ以上お手間をかけさせる訳にはいきませんので』
『春彦さん、肩に手を回せますか?』
春彦
『わかった。たいしょう、ごちそうさまでした』
_短い間。
初
『さて、旦那様。店を出ましたし、人目はありません』
春彦
『うん? そうだね』
初
『では、失礼して……よい、しょ。抱えた方が早く帰れますから、どうか辛抱なすってください』
春彦
『はぁい。おはつさんすごいね、僕知らなかったよ』
初
『米1俵より軽いですよ。旦那様は少食でいらっしゃるから、もう少しお肉や魚を召し上がった方が良いですね』
春彦
『むぅ。そうかぁ、米屋の娘さんには僕なんて綿のようだね』
「頼むからもうその口を閉じてくれ……そして1度死ね。死んで詫びろ。それを見てから俺も死ぬ」
「あぁ。お初、お初。僕は君に謝ることが思っていたよりずっと多かったようだ……」
『……おはつさん、怒らせてしまったかい』
初
「いいえ。ただ、心配はしましたよ」
春彦
『せっかく昔馴染みとの食事だったのに、家で君を待っていられなくて、すまなかった』
『お酒。夜を1人で過ごすのは久しかったから。少し飲みすぎてしまった』
『君は僕よりずっと凛々しい。4つも年下の男でしかも甲斐性なし、嫌になってしまっただろうか』
初
『いいえ。ちっとも。私は貴方が私の為に背伸びをしてくれていることを知っておりました』
『可愛らしい人だと思っておりますよ。えぇ、それこそ、私などよりずっと可愛らしい。ねぇ春彦さん。4つも年上でしかも、愛嬌もなく愛らしくもない女ですが、あなたは私のことを嫌になったことがあって?』
春彦
『ないよ』
「そんな事、ただの1度も無い!!……くっ、動かない口が憎い!!!!!」
初
『ふふ。それはようございました』
『
『私はあなたのどこか捻ていながらも、心のままに綴られるうつくしい言葉を聞いているのが好きなのです』
春彦
「お、お初ぅぅ……」
『うっお初さん、あれは良くないから
初
『あら、捨てられた塵を拾ってもバチは当たりませんわ。……旦那様の妬いたお餅がなんだかたまらなく愛おしく思えて、塵にするのが私には勿体無かったのです』
春彦
『焦がした餅のどこが
初
『貴方は素直に伝えてはくださらないけれど、文字に綴る時は素直になりますでしょう。旦那様が隠されている心に触れられるようで、それが私には愛いのです』
春彦
『ずるい。きみはずるいひとだ』
『そんなことを言われては僕にはとても敵わないよ』
初
『ふふふ。ごめんあそばせ』
春彦
「僕には間違いなく駄作以下の汚物でも、彼女にとっては愛らしいものだった。だから、僕も。その後であの書き物を破ることも燃やすこともしなかった」
「お初が好きだと云うから、たまに見返しては自己嫌悪に陥る悪い習性も着いた。おかげで
「__月は美しい。誰もがあの美しい天体を見つけては息をつき、静かな
だがしかし、
白蓮の君、聞いておくれ。
満ちて欠けて、時折見えなくなるそんな不確かな星に誓を立てるなど軟派者のすることだ。
私ならば、北の空に輝くあの不動の星に誓うだろう。月と比べれば見栄えもせず小さな輝きだが、貴女に誓を立てるには相応しい美しさだ。
どうだろうか、私はあの北極星、ぽらりすに誓う。
不自由ない暮らしも、温もりも。貴女の望むものならばなんであっても、私は全身全霊をもって応えてみせよう。
だから貴女はそのいけ好かない色男の手を振り払ってはくれないだろうか」
「……青い軟弱者の願望を綴っただけの散文だ。男を語るならば、飛び出して自分で追い払えばいいものを」
__間。
初
『春彦さん、文集の編集者様からお電話ですよ』
春彦
『……留守だと言っておくれ』
初
『あらまぁ。よろしいのですか、作家先生』
春彦
『いいんだ』
初
『左様でございますか。わかりました』
春彦
「次は昼だな。これは何の記憶……もとい、どんな醜態なのやら……」
初
『 ……えぇ、申し訳ございません、笹谷さま。ただいま留守にしておりして……まぁ! さすが古馴染みの方、あの人のことはお見通しですのね。……あら。ふふふ。はい、はい。まぁ、よいのですか? わかりました、お心遣いありがとうございます。そんな、とんでもございませんわ。笹谷さまには、本当にいつも良くしていただいて。これからもどうかあの人のことを、きゃぁ。春彦さん』
春彦
『おい夏目、鼻の下を伸ばすんじゃない気色悪い。気持ちは分かるが、生憎この人は僕の人なんだ他を当たれ。あ?人妻には興味無い? 知るか。お前の性嗜好など
「……あぁ、1作目の小説が流行って間もなく筆が止まった時期があったな」
初
『春彦さん』
春彦
『……』
初
『親しき仲にも礼儀あり、と言います』
春彦
『……すまなかった』
「俺は覚えている、これは
初
『私に伝えてどうするのです。次に笹谷さまとお話なさる時にお伝えください』
春彦
『……はい』
初
『……近頃旦那様の筆は重たい様子。1度置いてしまいましょうか』
春彦
『え』
初
『気晴らしに参りましょう。しばらく置いておけば軽くなるかもしれませんよ』
春彦
『あっ!あぁっ!! 旅行だね。うん、そうしよう。汽車に乗ってどこか遠い場所へと行こう。せっかくだ、君の行きたいところにしよう。どこか行きたい所はあるかい』
初
『貴方とならばどこへ出かけても、きっと楽しゅうございます。しかし、強いて希望を述べるのであれば箱根へ行きたいです。連れて行ってくださいますか』
春彦
『あぁ! もちろんだとも』
「あの旅行は本当に楽しかった。汽車から眺めた景色も温泉も良かった。そして何より」
初
『春彦さん、見てちょうだいな』
『まぁ!! 春彦さん、人力車ですって。あれに乗って宿まで帰りましょう』
『寄木細工だわ、美しい模様ね。あら? どうやって開けるのかしら……店主さま、こちらは小箱ではないのですか? ……開けてみてくださる? っ!! まぁ!そんな仕掛けが。ねぇ、春彦さん!』
春彦
「何より初が少女のようにきゃらきゃらと笑う。珍しくはしゃいでいた……夏目が初に提案したことだと知らなければ尚のこと素晴らしい思い出だったんだがな」
_間。
春彦
「うっ、顔が暑い……次はなんだ。ここは家ではないな? あぁ、さては手前、酒を飲んだな……桜屋か」
春彦(酔って少し高めの幼い声で)
『……はぁ。僕はもうダメだ……うぅお初ぅ』
春彦
「下戸が酒を飲むからだな、この間抜け。酒に弱いことをなぜ学ばない。はぁ……過去の己はどうしてこうも阿呆なのだ」
すみ
『まぁ、作家先生はお悩みですか。さ、お酌させてくださいまし』
春彦
『んぁ、すみぃ……ありがとう』
春彦
「あぁ、馬鹿者もう飲むな、クソっどうにも歯痒い」
すみ
『どうなさったのですか、奥方と仲違いでも?』
春彦
『違うよ……僕はもう、とうにあの人に溺れているとゆうに、お初さんはいつも、しずしずと、やわく微笑んでいるばかり……いや、不満ではない、口説かれど、動じぬ凛としたところも好いている』
すみ
『相変わらず、奥様に惚れ込んでらっしゃるのね』
春彦
『あぁ、すきなんだ。でも、僕には魅力が足りないのかと、思ってしまう。僕だって、僕だって、あの人の頬を染めてみたい。視線を彷徨わせて、口を結んで欲しい。呼吸を忘れて、僕の言葉に喉を鳴らしてほしい』
すみ
『あら、春彦先生は詩を書くのはお上手でも、女性へ言葉を贈るのは苦手なのですか』
春彦
「あぁ、思い出したっ!愚行の中でも郡を抜いて抹消したい、忌々しい!!あぁ何たる拷問だ。今この時喉が焼けても構わない、むしろ酒で焼けてしまえ!!」
春彦
『何を言うんだすみ、僕は浪漫のわかる男だ。でもまぁ、君にはまだ早いなァ』
すみ
『まぁ、私はもう15になりました。縁談も来るような立派な女ですよ』
春彦
『あァ、そうかい。お嬢さんはほんとに色恋の話が好きだなぁ』
すみ
『だって気になるもの、作家先生はどう言葉を贈るのかしら』
春彦
『僕は浪漫のわかる男だよ……でもねェおすみ、期待に添えるか分からないよ。僕は好いた人の愛を乞うのに必死でね、僕は詩人だけれどもこの時ばかりは言葉を飾る暇は無いんだ』
すみ
『まぁ』
春彦
『初はきっと僕みたいなのより、もっと野郎臭いのが好きなんだ。口が悪くて喧嘩早くて僕は好かない。でも彼奴は、永瀬サンは初と親しいんだ。なんなら僕といる時よりコロコロ笑う気がする。年上だし、きっと、きっと甲斐性もあって男前なんだろうねェ。(ここで一気に酒を煽る)……っく。まぁ、僕は嫌いだけどな!』
すみ
『先生、落ち着いてくださいな。お酒あまりお強くないでしょう』
春彦
「あーあーあーあーっもうよせよせ、ぐッ、頼むから止まってくれ……もしくはとっとと潰れてしまえ、寝ろ!!だらしなくとも情けなくともいい、今すぐに沈んでしまえ!!!」
『あんな雑な言葉を喋る男の何が
すみ
『先生はそのままで素敵ですよ。奥様だって充分先生のこと大事にしてらっしゃるじゃぁありませんか、十分男らしいですよ』
春彦
『……俺、か。なぁ、すみ。自分のことを、おれと言うのは男らしく聞こえるのかい。やはり、あいつの口調を真似るのはむりだよ。一人称を変えるのが げんかい だ』
すみ
『良いのではないですか、えぇ素敵ですよー』
『(小声で)……はぁ。そんなところより、男らしさというのは行動や考え方に宿ると思うのだけどなぁ』
春彦
『そうかい。ウン、そうしよう。初、おはつ、おれは君のことが好きだぁ。きみがすきなんだ、きいておくれ』
「わかった、わかったから止まれ!それは家に帰ってから言えばいいだろう!」
すみ
『ふふふ。雛鳥みたいだわ。かわゆいですね。先生。そろそろお勘定にしましょうか』
春彦
『んぅ? ウン。くふふ』
『……』
すみ
『ん、なんですか? 雛鳥さん、なにかお代わり……』
春彦
『好きなんだ』(渾身のイケボをください、生娘が恋に転げ落ちるくらいの)
すみ
『ひぅっ……え、え??』(心臓がはち切れそうになってください。初恋です。戸惑って、心臓痛くて仕方なくなってください)
春彦
『嗚呼、君が欲しいなァ』(ドロッと溶けるような低い声で)(ギャップで殺せ)
すみ
『は、はぃ……わ、わぁしでよければ……???』(声を震わせて、無意識に喋った感じ)
春彦
『おれのだ、きみは。おれのがいい、おはつ……ぐぅ』
すみ
『は、はわ。……わ、私は何を。そんな、はしたない……』
春彦
「……あぁ、全ては身から出た錆よ。すみから聞いていたが、改めて一部始終を見ればわかる。俺はただの糞野郎じゃねェか。男であれば弁明の余地などない。記憶にないとどの口がほざいたことか。どの面下げて、俺は初に会うつもりなんだ……」
-間。