真っ暗な教室の中に、色付きフィルムを通したかの様な強烈で赤い光が差し込んでくる。
目の奥にまで突き刺さってくるかのような鮮烈な色味に目をしかめつつ、窓に近寄って外を見れば、不気味なほどに真っ赤な月が空高くに登っているのが見えた。
その月を目の当たりにしながらも、俺はなんで学校にいるのかを考えていた。
忘れ物を取りに来たから?
それとも何か特別な理由があって?
多分、どれも違う。
だって俺は、家へ帰って、ご飯を食べて……お風呂に入って歯磨きをして。
(寝た、筈なんだけど)
それなのに、気がついてみればパジャマ姿で学校の中を彷徨っていた。
「ここって俺が通ってる小学校だよな? なんで俺、学校にいるんだろう」
窓の外からの景色を見て、ここが2階なのだという事はわかった。
でも、教室を出て廊下を歩いて、階段がある場所に向かってみてもそこには壁があるだけで、どこにも下に降りられる場所はなかった。
「えっと……そうだ、5年生の教室がある所にも階段があったっけ」
4年生に5年生、そして6年生の教室がある場所には行ったことがない。
だけど、1年生や2年生の時に教室の横にあるトイレの真向かいに階段があったのは覚えていた。
最初はどこに続いてるのかわからなかったけど、進級して3年生になった時にそれがすぐに上の階の高学年の教室のある所に続いてるんだと知った。
「行こう。あそこに行けば、きっと下に降りられる階段があるはずだ」
明かりのない校舎の中を壁伝いにゆっくり歩いて、5年生の教室がある2校舎へ向かう。
でも、着いた先にも階段はなかった。
本当は階段があるはずの場所が、4年生の教室がある3校舎の階段の場所とおんなじ様に壁があるだけだった。
「なんで!? どうして!!」
急に不安を感じて、急いで6年生の教室がある1校舎に向かったけど、やっぱりそこにも階段はなかった。
(怖いよ……かあさん、とうさん)
何時もの賑やかな校舎とは違って不気味に静まり返った校舎が何だかとても怖くて、今すぐに帰りたいのに帰れない。
何処を歩いても一階に降りる階段は見つけられず、自分の歩く音や扉を開ける音が不気味なほど静かな誰もいない校舎の中にこだまして、音がどこまでも響いていくように感じる。
それがまた何とも言えないくらいに嫌で、一人で居るのがすごく心細くて今すぐにでも誰かに会いたい気持ちになってきた。
そんな時だった。
「帰りなさい」
急に、後ろから声が聞こえてきた。
「だ、誰!?」
びっくりして後ろを向いたら、着物のような服を着た、俺と同じくらいの女の子が立っていた。
「今は、帰りなさい」
誰もいない校舎の廊下に女の子の声が木霊する。
ゆっくりと喋る女の子の口元は赤い月明かりに照らされて尚も見えず、だらりと垂れ下がる長い前髪によってその表情すらもきちんと伺えない。
「帰りたいよ。でも、下に降りるための階段が見当たらないんだ」
俺は、今まで学校の中を歩いて回っていたことを女の子に伝えた。
すると女の子は、しばらく黙ったあとで俺の元へと静かに歩み寄り、手を差し伸べてきた。
「私の手を握って。外まで連れて行ってあげるから」
月の光に照らされて赤く見える女の子の手を握った俺は、その瞬間に強く引っ張られたように感じた。
それにあわせて、今まで真っ赤っかだった校舎内の光景が息をつく暇もないくらいの勢いで遠ざかっていって急に目の前が真っ暗になる。
そして───ドスンッという衝撃が、俺の背中を襲う。
「いっ!! うぅ……痛い」
痛みで思わず瞑った眼を開くと、白の天井に見覚えのある丸い室内灯が飛び込んでくる。
俺は、いつの間にかベッドの上から落ちていたようだった。
「創くん、もう起きてるの?」
下の階からかあさんの声が聞こえてくる。
その呼びかけに気がついて窓を見ると、閉めたカーテンの隙間から白い光が漏れていた。
呼びかけに対して起きてるよと返事を返してからカーテンをゆっくりと開けると、窓の外からいつもの朝の日差しが差してくる。
その日差しを受けながらゆっくり背伸びをすると、あの怖かった体験も段々とただの夢だったんだなと思えるようになってきた。
「おはよう母さん、父さん」
「起きたか。おはよう創英」
「おはよう創くん。あ、牛乳入れたから居間のテーブルに持って行ってもらえる?」
「うん、いいよ」
いつもどおりの朝、いつもどおりの食卓。
母さんが朝ごはんを作っていて、父さんは新聞を読んでる。
そんないつもどおりの朝の風景に、俺は少しだけ不思議な感覚を覚えた。
「今日はやけに早いじゃないか創英。それになにかうなり声も聞こえてたし、怖い夢でも見たのか?」
「うん、そんなところかな」
俺の父さん、時崎信太郎(ときざきしんたろう)は自宅経営の喫茶店『立華』の店長をしている一家の大黒柱だ。
そして母さん、時崎智子(ときざきさとこ)は立華の副店長をしている。
父さんはコーヒーに対してこだわりがあって、母さんの方はお菓子作りがとても得意だ。
コーヒーはまだ苦くて飲めないけど、母さんの作るケーキはとっても美味しい。
学校が休みの日とかは俺も一緒にお店に出て、母さんのお菓子作りや、父さんが淹れたコーヒーをお客様に運ぶのを手伝ってるけど、町外れにあるからなのかお客も少なくて、知る人ぞ知るお店って感じになっていた。
「夢のお話かしら?」
「うん、母さん。夜の学校の中の二階に居たんだけど、どこを探しても階段が見当たらないんだ」
「あらあら、それは嫌ねぇ」
「すごく怖かったけど、着物を着た女の子が助けてくれたんだ」
何事もなく静かに流れる朝の時間。
あんな怖い夢を見た後だけど、母さんと父さんに囲まれながら朝食を食べていると、そんな普通のこともなんだかいつも以上に楽しく思えた。
「さてと……そろそろ学校に行くね、父さん」
「忘れ物はないか?」
「えーと、うん大丈夫。必要なものは持ってるよ、父さん」
「車には気をつけていくのよ?」
「分かったよ母さん。それじゃあ行ってくるね」
「ええ、行ってらっしゃい」
「行ってきまーす」
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朝の登校は少し早めに家を出て、近くのバス停から学校前まで走るバスに乗るのがいつもの通学ルート。
歩く距離はそんなに長くないけど、家からバス停までが少し遠いから少し早めに出ないとバスが来る時間に間に合わない。
今日は少し余裕を持って家を出たからそんなことはないけど、寝坊でもした日は大変で、朝ごはんも食べる余裕がないからおにぎりを自分で適当に作ってカバンに詰めてから急いでバス停まで走る。
間に合えばバスの中で朝ごはんを食べられるけど、間に合わなかったらそのまま学校まで走らなくちゃいけない。
「それにしても、あの夢はいったい何だったんだろう」
待つこと数十分。
到着時刻ピッタリにやってきたバスに乗り込み、席に座った俺は昨日の夜に見た夢の内容を思い起こしていた。
どう考えても異様としか言い表せられないその夢に現れた一人の少女。
差し伸べられた手をつかんだ瞬間に夢から覚めたが、その時に少女の手に何かの文字のようなものが書いてあるのが見えた事を今になって思い出す。
一瞬しか見ることができなかったから詳しくは見れなかったけど、あれは多分漢字だと思った。
なぜ漢字が手に書かれていたのだろう? そんなことを考えていると、バスがゆっくりと速度を落として停車する。
窓の外を見れば、もう学校前のバス停に着いていた。
下駄箱で靴を履き替え、3年生の教室に入り、教室の後ろのカバン入れにランドセルを入れてから自分の席に着く。
「よぉ、時崎」
ドカッと机に座り込んだ相手の声にハッとして見上げると、目の前には太った男子が居た。
「竹内……」
竹内拓斗(たけうちたくと)。
この学年におけるガキ大将のような奴で、そのでかい体格相応に我儘で自分勝手な奴で、少しでも自分の思い通りにならないと暴れだす嫌な奴だ。
「ということは……」
「やーやーそー君」
「朝から浮かねぇ顔だなぁ創英?」
遅れてやってきた二人の顔を見て心底うんざりする。
瀬川晴美(せがわはるみ)と相津秀昌(あいつひでまさ)。
先ほどの竹内を含めたこの三人は、3年生へ学年が上がると同時に俺に目を付けたのか、事ある毎に突っかかってくるようになった。
ある時は上履きを隠され、またある時は給食の器に牛乳をぶちまけてきたりと、その所業に一切の躊躇いはなく……
つまりは、いじめられているという事になるんだろう。
(朝からこれか……あの夢の事もあってあんまり気分的にすっきりしない朝だったのに)
憂鬱な気持ちが露骨に顔に出ていたのか、それを見るや否や竹内が胸ぐらをつかんでくる。
「なんだおめぇ、折角俺が話しかけてやったってのにそんな嫌そうな顔すんじゃねぇよ!!」
ああ、また始まった。
そんな思いで『ごめんごめん』と謝って流そうとすると、周囲からのヒソヒソ話が聞こえてくる。
またやってるよ竹内君たち、だとか、時崎君かわいそう、だとか。
そう思ってるなら誰か止めに来てくれとも思ったけど、きっと誰も来ないんだろうと直ぐに思い至る。
これまでのこの3人とのやり取りにおいて、誰かが止めに入ってくれた事など一回もなかったからだ。
みんな、自分が対象にされるのが嫌なんだろう。
それはわからない事でもないんだけど、じゃあ当の俺はどうなるんだ?
(あんまりにも酷いようなら先生に言うことも考えておかないとなぁ。自分の身は自分で守らないと)
それすらも、どこまで信用できるかわかったものじゃないが。
先生からの注意だけで止まるのかも怪しい横暴な振る舞いにため息を我慢しているとチャイムが鳴る。
心底つまらなさそうな表情をした竹内が、サッと自分の席に戻っていく様子を見てようやく解放されたと安堵する。
見た感じだと、大人に怒られるのはやっぱり嫌らしい。
(これなら効果は期待できそうかな……いや、もしかしたら悪化して裏でネチネチと……)
それでも尽きない悩み事に我慢していたため息をつくと、相津がニヤニヤとした顔でこちらを見つめていることに気が付く。
どうせ、またろくでもない事でも考えてるのだろう。
「何さ」
「いーや、別にぃ?」
ニヤつきながら視線をそらした相津の素振りに不安を感じつつも視線を前に戻そうとした時、何か違和感を感じて後ろを振り向く。
そこには相津同様、竹内とのやり取りに混ざってこなかった瀬川が居た。それも、相津と同じように嫌な笑みを浮かべながら。
「いいじゃん、似合ってるよそー君?」
そんなことを言いながら相津と共に自分の席に着いた瀬川を見て不審に思う。
この3人、とりわけ瀬川と相津はイタズラばかり仕掛けてきていた。上履きを隠したりしてきたのも二人の犯行だ。
何もしてこないというのが却って不気味に思い……
「もしかして……っ!!」
そっと背中に手を伸ばすと、手に触れる紙のような感触。
強引に掴んで引きはがしてみると、それは『わたしはバカです』と、でかでかと書かれたノートの紙片だった。
(覚えてろよ、クソッ)
流石にムカついたからビリビリに破って教壇横のごみ箱に捨てに行ったところで、タイミング悪く先生が教室に入ってきた。
「おはようございます。ほら時崎君、座った座った」
「あ、はい……おはようございます、先生」
そんな様子を見ていた竹内と瀬川が相津の様にニヤついた表情を浮かべていたが、もう今日一日は無視をしてやろうと決め込んで自分の席に着いたのだった。
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放課後。
校門を出た辺りで忘れ物をしたことに気が付いた俺は、忘れ物を取りに教室へと戻った。
ガラリと教室の引き戸を開けると、教室の中には今朝方のあの三人が居て、俺の机を囲んで何かをしていた。
「おい、何してんだ!!」
「あらー、見つかっちゃったかー」
瀬川がそんなことを言いながら、今朝のようにニヤついた表情で俺を見る。
「だから早くしろって言ったんだよこのウスノロ!!」
「酷いなぁ拓斗、俺は急いでたじゃないかー」
「私だって急いでたし、遅かったのはたっくんじゃない」
「んだとコラァ!!」
……なんか目の前で仲間割れを始めたが、そんなのに構っているほど俺は暇人じゃない。
さっさと忘れ物を回収して家に帰ろうと机の中を覗き込んだが……その忘れ物、授業参観のお知らせが書かれたプリント用紙が机の中に無い。
「……相津、お前、中に入ってたプリントどこにやった?」
「さーねぇ? 探してみればぁ?」
竹内に追われながらもケラケラ笑ってそんなことを言い返してくる。
これは聞いても素直に教えてはくれないなと思い、教室内をくまなく探す。
そして見つけたのは、ビリビリに破かれた状態で教壇横のごみ箱に放られたプリント用紙だった。
一つ一つ拾い上げて書かれている内容を確認する。
間違いない、探していたのはコレだ。
(朝の仕返しかよ畜生……新しいプリント貰ってこなきゃだめだこれ)
そう思い、顔を上げて教室の出入り口を見る。
出入口は───いつの間にか、閉まっていた。
(あれ? 入る時に閉めたっけ?)
少し変に思いながらも引き戸に手を掛け、開こうとするが……これがどういうわけなのか、まったく開かない所かびくともしない。
もしやあの3人、またイタズラしたのだろうか。
「おい、今度は俺を学校に閉じ込める気かよ」
イライラしたまま振り返って相津にそう言うが、相津は竹内につかまってヘッドロックをされて苦しそうにもがいていた。
あれは話を聞けるような状況じゃないなと思い、今度は瀬川に話を振る。
「おい瀬川、お前───」
そう言いかけたが、瀬川の表情を見て思わず言葉を止める。
それは、何と例えればいいんだろう。
単にびっくりしただけとも言えないような歪んだ表情。
口をしきりにパクパクとさせ、ゆっくりと腕を上げた瀬川は指を差す。
その指の先はどうやら俺の後ろのようで……俺は、ゆっくりと振り向いた。
ガタ……ガタ……
ゴトッ、ガタン……
揺すり動かすような音と共に、引き戸のすりガラス一杯に映り込む黒いナニカ。
ピッタリと張り付いているのだろうか。ある程度輪郭がくっきりとしており、それが人では無いことをおぼろげながらも視覚的に伝えてきた。
「な、なんだよアレ!?」
「分かんないよ!!」
直ぐに引き戸から離れると瀬川の隣にまで移動する。
後ろの二人も流石に気が付いたようで、引き戸のすりガラスを見て絶句している。
ガタリ、ガタリと引き戸を揺らすそれは、次第に右側へと移動してゆく。
その先へ合わせて目線を動かすと……ぽっかりとその出口を開けたもう片方の引き戸に気が付いた。
「やべぇ、あっちの引き戸が開いてる!!」
慌てて閉めようと走り出す俺。
それに遅れて瀬川も走り出した。
あれを中に入れたらヤバイ。そう直感し、未だ後ろで固まってる二人にも協力してもらうために呼びかけようとした、その時。
「う、うわああああああ!!!!」
「お、お化けが出たああああ!!!!」
二人はあらん限りの叫び声を上げながら俺と瀬川を突き飛ばし、空いてる方の引き戸から一目散に飛び出していった。
「おい待て!! 行くなっ!!」
今飛び出したら化け物に襲われる。
そう思い、止めるために立ち上がって追いかけようとしたが……
「ま、待って!!」
瀬川の、悲鳴にも似た声に呼び止められて振り返る。
俺と同じく突き飛ばされて転んでいた瀬川は、そのせいで足首を挫いてしまっていたようだった。
それに気が付き、慌てて駆け寄ろうとしたが……
ガリッ……
……何かをひっかくような音が聞こえ、振り返る。
開け放たれた引き戸。その縁に、何かが見える。
夕日の赤が外から入り込み、鮮烈な赤に染まった室内において尚も赤くぎらつくそれを見て、あの化け物の目だと気が付くのにそう時間はかからなかった。
あの怪物が、教室を覗き込んでいる───
「きゃあああああああああああ!!!!」
それを見た瀬川が尋常じゃない叫び声を上げる。
それに合わせて、のそり、のそりと、縁からその身体を俺たちの目の前へと晒し、立ち止まった。
茶色の体毛に覆われた俺達よりも大きな身体に、短く先細るように伸びた鼻先。
両目元は黒いぶち模様で、その奥からは赤い両眼がこちらを射抜くように見つめくる。
人とは造形こそ異なれど五本ある指にはそれぞれ細く鋭い爪が付いていて、ぱっと見ではそのデカさ故にクマのようにも見えたそれは、図鑑などで見た覚えのある動物に似ていた。
ニホンアナグマ───古来から日本ではタヌキ、ハクビシンなどとともに『ムジナ』と呼ばれている動物。
それが、口をがっぱりと大きく開いた状態で佇んでいた。
「く、来るな……」
近くの椅子を持ち上げて構えながら、ゆっくりと瀬川の所まで後ずさる。
それに合わせて、目の前の化け物───ここではムジナと呼ぶことにする───が、じりじりと距離を詰めてくる。
こちらを静かに見つめてくる瞳からは明確な害意を感じ、思わず足が竦む。
ちらりと視線を横に落とせば、肩を抱えて震えている瀬川の姿が映った。
視線はムジナの方へ向いていて、怖いのに目が離せない状態なんだろうと即座に理解する。
無理もない。俺だって滅茶苦茶怖い。でも、怖いからって目を離したら、その隙に襲って来るかもしれないと考えたら、そっちの方がもっと怖くて、目を離せない。
そんな、必死な思いでにらみ合いを続けながら瀬川に声をかける。
「瀬川……足大丈夫か? 立てるか?」
「う、うん……何とか……」
恐怖でうるさいほど心臓が高鳴る。
緊張で汗をかき始め、シャツが背筋にぴっとりと張り付く感じがする。
それだけじゃなく、持っていた椅子が滑り落ちそうになるくらいに、手にも汗が滲んでいた。
そんな状態でムジナとにらみ合いながら、何とか助かる方法はないかと思考をフル回転させ……暫しの間をおいて瀬川に呼びかける。
「俺が椅子を投げて気を引くから、瀬川は職員室に行って先生にこのことを伝えてきてくれ」
その言葉に驚いたのか、不安そうな表情を浮かべたまま俺の足に縋りつく。
「ダメだよ!! 危ないよ!!」
「でも、そうしないと二人ともヤバイことになる」
今もゆっくりと近づいてくるムジナを見つめながら、俺の言葉に迷う瀬川に精一杯笑いかける。
「大丈夫。こう見えても俺は足は速い方なんだ。きっと逃げられる。だから、先に逃げるんだ瀬川」
そう言った後、しばらく黙り込んで静かになった瀬川はゆっくりと立ち上がってこう答えた。
「ケガしないでね、絶対だからね!!」
それに黙って頷くと、瀬川に合わせてタイミングを取り……そして。
「おりゃあああああ!!!!」
半分悲鳴になってしまった雄たけびに合わせて椅子をブン投げた。
力いっぱいに投げた椅子は見事に相手の顔に当たり、何の鳴き声に例えていいかもわからないような低い声と共に確かに怯んだ。
「今だ瀬川!!」
「ぁぁぁぁあああああああっ!!」
恐怖のピークに達したのか、お腹の底から絞り出したかのような悲鳴を上げながら教室を飛び出した瀬川を見送る。
それに合わせて椅子をもう一つ持ち上げ、投げつけた。
それが今度はムジナの体に当たり、小さい悲鳴を上げさせることに成功する。
念のためにともう一つ持ち上げて投げつけ、相手がその椅子をよけたのを見ると同時に俺は一目散に開け放たれたままの引き戸へと駆け出した。
そして教室の外に出る目前に、一本の自在箒を清掃用具入れから取り出し、直ぐに教室の外に出ると引き戸を閉め、自在箒をつっかえ棒の代わりとして引き戸に立て掛けた。
その刹那───
ドカンッ!!
壁に思いっきり体当たりしたかのような大きな音と共に大きく軋む引き戸。
衝撃で砕けたすりガラスの奥から、低い唸り声を上げながらこちらに身体をねじ込んでこようとしてくるムジナの姿か見えた。
そのムジナが発するあまりの威圧感に腰を抜かしそうになったが、逃げるなら今がチャンスだと我に返り、瀬川の後を追って職員室へと走ったのだった。
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結論から言えば、俺と瀬川の言い分は職員室に居た誰にも伝わらず、信用もしてもらえなかった。
それどころか、割れて砕けたガラスとひしゃげて外れた引き戸、荒れに荒れた教室内を見た教員たちは、そのあまりの惨状を見て俺たちの仕業じゃないのかと疑ってきた。
だけど、俺の必死の訴えかけと、瀬川の尋常じゃない怯え方に流石に何かを感じたようで……
「一応先生の方でも夜の見回りの人数を増やすよう言っておくけど、お前たちもこれに懲りたら変なことするのやめろよ」
とか、よく分からないことを言って俺達を学校から追い出したのだった。
曰く『クマが市内に出るのはあり得ない話だから、きっとお前たちが見たのは不審者か何かだろう』との事で、あんな事があったのに全く信じてもらえなかった俺と瀬川は、ぬぐい切れない恐怖と信用されなかった悔しさで押し黙ったまま家路へと付いた。
そしてその夜……
「赤い光に、沢山の勉強机と椅子……」
……俺は、また同じ夢を見るのだった。