剣姫の弟の二つ名は【リトル・アイズ】   作:ぶたやま

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最新話です。よろしくお願いします。


第十六話

「じゃ、アイズ頑張ってねぇ」

 

「まあ、弟と会うのに頑張っても可笑しな話だけどね」

 

 

「うん。ありがとう、二人とも」

 

本拠地である『黄昏の舘』に戻って来たアイズ達は、玄関ホールで早々に解散する事になった。本来であれば、このままお風呂に行く事になってもおかしくない時間帯だったが、今日ばかりは外せない用が、アイズにはある。

 

それを知っているティオナとティオネは、笑顔で彼女を送り出くれた。そんな姉妹に感謝の念と、少しの羨望を送りつつ、アイズは目的地へと歩み始める。

しかし、その進行は直ぐに妨害される事になった。

 

「帰ったか、アイズ」

 

男子部屋区画へと続く階段。

その一段目に足を掛けた途端、頭上から声が降ってきたのだ。

見上げると、踊り場に立ち、此方を見下ろしている者達が視界に入る。

それは、この世の物とは思えない重厚な鮮やかさを放つ、翠色と朱色だった。

 

「リヴェリア……、ロキ……?」

 

何処か神妙な顔をしている副団長と主神の登場に【剣姫】は小首を傾げる。正味な話、彼女らの出迎え自体はそこまで珍しい事ではない。だが、二人の雰囲気がいつもと違う事は、流石のアイズにも察知できた。

嫌な予感がする。非常に……。

白磁の様な肌から、玉のような汗が伝い下りる。

 

「すまんなぁ、アイズたん。帰って直ぐで悪いけど、ちょっと一緒に来てくれるか?」

 

「……え?」

 

主神のお願い(命令)に、アイズは思わず顔を顰めた。

普段なら断る理由もないのだが、今日……というか、今ばかりは間が悪い。

しかし、そんな心理を見透かすように、主神は眷属の予定を言い当てる。

 

「分かっとる。これから、マシロんトコ行く気やったんやろ?」

 

「……!」

 

ドキリとした。

同時に、アイズはバツの悪さに支配される。

マシロの件については、様子を見る様に言われていたからだ。そして、自分自身も同意を示しているのが現状である。だと言うのに、アイズは相談もなしに弟に会いに行こうとしていた……。

 

これでは何を言われても仕方がないが、次に彼女らにかけられた言葉は、叱咤でも非難でもなく―――提案だった。

 

「アイズ……我々がしたいのは、マシロについての話だ」

 

「……し、シロの?」

 

「ああ、ちっとばかし緊急事態が発生してな。このままアタックするより、ウチらの話聞いてからにした方が後悔せんと思うで」

 

「……」

 

そんな事を言われてしまえば、最早付いて行く以外の選択肢はない。

『緊急事態』という単語が不穏すぎる。

自分が外出している間に一体何があったというのだろう。聞きたい様で聞きたくない……そんなチグハグな心持ちになりながら、アイズはロキとリヴェリアに従うことにした。

 

 

 

 

【剣姫】が連れて来られたのは『団長室』だった。

素朴かつ悠然な木製の扉に軽いノックを入れ、リヴェリアが躊躇なくその戸を開け放つ。入室すると、そこには余りにも頓狂な光景が広がっていた。

 

土下座をしていたのだ……何故か、部屋の主の小人族(パルゥム)が。

 

「え、フィン?」

 

アイズはこれでもかという程に困惑する。

ここはフィンの部屋だ。なので当然、彼が待ち構えているだろう事は分かっていた。

分かってはいたのだが……流石に土下座待機は想定外である。

 

「えっと、どうしたの?」

 

戸惑いの声をかけると、漸く【勇者(ブレイバー)】は頭を上げた。

その顔色は酷いもので、心なしかゲッソリと頬がコケている。まるで誰かにこってり絞られた後であるかの様だった。そんな団長は、改めて深々と頭を下げて謝罪して来た。

 

「す、すまない、アイズ。マシロを怒らせてしまった……」

 

「え……?」

 

怒らせた……?

怖いぐらいの入念な謝罪より、アイズはその告白の方が気になった。そして詳細を尋ねるより早く、フィンがおずおずと説明を始める。

直ぐそこで仁王立ちをしているリヴェリアにビクつきながら……。

 

「アイズ……以前僕が、『案外直ぐに、マシロは機嫌を直す』と言ったのを覚えているかい?」

 

「う、うん」

 

一字一句覚えていた為、素直に頷いた。

フィンがやけに自信満々に断言したので強く印象に残っていたのだ。アイズ自身は半信半疑だったが……。

 

「そろそろ頃合いだと思ってね。確かめる為に、さっきマシロと話をしてきたんだ。だけど……」

 

結論から先に述べると、弟の機嫌は『直っていた』らしい。十分に、アイズの話を聞いてくれる精神状態にあるとフィンは判断した様だ。

しかし、そこで団長は少々調子にのってしまったのだという……。

 

・本人がいないにも関わらず、マシロがアイズに対して『嫌い』という単語を吐けなかった点。

・それが意味する事を未だ自覚出来ていなさそう様子であった点。

・そして、反抗期を迎えて久しい末っ子との久々のお風呂……。

 

それらの状況に【勇者】は珍しく浮かれてしまった。子供子供しい反応に少し意地悪をしてしまったらしい。可愛い子を揶揄ってしまうアレだと、彼は釈明していた。

 

ともかく、突っ込み過ぎた質問の嵐に、当然、マシロは立ち去ろうとしてしまう。けれど、フィンも『まだ話は終わっていない』とそれを阻止。

その際の弾みで―――。

 

「おし……たおした……?」

 

「いや、アイズっ。ワザとじゃないんだ……! 決してワザとじゃっ」

 

明らかに纏う空気が変わった【剣姫】に団長はサッと制止をかける。

が、そんなモノでは、アイズ・ヴァレンシュタイン(このブラコン)は止まらなかった。

 

「お風呂で……シロと……ふたりっきり…の……おふろ」

 

「お、落ち着くんだアイズ……! マシロは怪我をしていないし、僕らは男同士だろう⁉ お風呂に一緒に入ったって、なんの問題も……!」

 

本題とは関係ない所に引っ掛かりを覚えているアイズ()に、フィン(お父さん)は身の危険を感じたらしい。

滝のように冷や汗を流しながら力説するが、彼女が冷静さを取り戻す事はなく……。

 

「アイズ……頼むから一度落ち―――」

 

「うらやましい……ッ‼」

 

フィンの懇願を吹き飛ばす形で、アイズは嫉妬心を爆発させた。そして、自身の団長にポカポカとパンチを繰り出す。

その折、リヴェリアが総括する様に告げた。彼女の長細い指は、労わる様に自身の額へと添えられていた。

 

「そういう訳だ、アイズ。先程マシロの部屋に行こうとしていたようだが、もうしばらく待て。今行っても、恐らく要らん勘ぐりをされて終わりだろう」

 

「せやなぁ。最悪、会話自体拒否ってくる可能性だってあるやろ」

 

ロキも【九魔姫(ナインヘル)】に同意する。

そして、彼女らの考えが間違いでない事は、アイズ自身も理解していた。話し合いを拒む弟の姿はいとも容易く目に浮かぶ。慎重を期すのなら、敢えて不機嫌な時に接触を図る必要はないだろう。

その理屈は分かる。痛い程に。

 

けれど―――。

 

「……嫌」

 

アイズの口から出て来たのは、拒絶の言葉だった。

彼女らしいか細い声量ではあったが、その呟きを聞き逃すほど首脳陣の耳は飾りではない。故に……諭す様な言葉が口々に放たれる。

 

「妙に積極的やんアイズたん。でも、そんなに焦らんくても大丈夫やで? 今回は、自分のやらかしやないんやし……」

 

「その通りだ。長くても二・三日時間を置けば―――」

 

「私は―――」

 

しかし、アイズはそれを無理やり遮った。

そして。

 

「私は……あの子と話をしたい」

 

「……」

 

驚き押し黙る三人の目を見据えながら明確に意思を伝える。

これまでとは明らかに違う気迫に、一瞬場が静まり返る。耳鳴りが喧しい。

 

「……君の考えを聞かせてくれるかい?」

 

その静寂(喧騒)を破壊したのは、フィンだった。

流石に大手派閥の団長と言った所か……つい先ほどまでこの場で最も低いカーストを誇っていた彼の声に、リヴェリア達も聞く体勢を整える。

 

一同の視線がアイズに集まった。

ロキの面白がるような、それでいて気遣わし気な、

リヴェリアの氷雪の様に鋭く、しかしどこか温もりを感じるような、

フィンの全てを見透かし、その上で全てを包み込むような―――。

 

そんな視線の全てを見つめ返しながら……アイズは緊張でより白くなった手を、グッと握りしめた。

そして、口下手な少女は自分の気持ちを伝え始める。

 

「私……仲直りしたいの。あの子と。その為には、ちゃんと話さないとダメだから……」

 

勿論、シロが許してくれたらの話だけど……。

という言葉は胸に留めるのみにしておいた。口に出してしまうと、決心が揺らいでしまいそうな気がしたから。

そんなアイズに対し、ロキは深く頷きながら問いかける。

 

「それはウチらも分かっとる。仲直りする為には、ちゃんとアイズが話さなきゃアカンって事も含めてな。けど、だったら尚更時間置いた方がエエんとちゃうか? 無理に急ぐ必要もないし、その方が確実やろ?」

 

正論だった。文句のつけようもない正論だ。

確かに、怒っている時に謝罪に行くより、ほとぼりが冷めた後の方が和解は容易い。子供にも分かる単純な理屈である。

無論、アイズの理性もその方が『確実』だと訴えてはいる。

 

「ごめん。私、今からすごくズルイ事を言う……」

 

「……? なんだい?」

 

言葉通り、とても言い辛そうな表情を見せるアイズ。

フィンの穏やかな促しの声に、彼女は意を決して本心を告げた。

 

「怖かった、の……」

 

「怖かった?」

 

「うん……。私、シロに謝るのが怖かった。ちゃんと謝って、説明して、それで許して貰えなかったら……。もう二度と、仲直り出来ないと思ったから」

 

「アイズ……」

 

だから、アイズは『謝っていない状態』を維持していたのだ。

謝ってしまえば必ず『結果』が発生する。それを見るのが怖かった。

でも、謝罪という行為に移らなければ、いつまでも結果を先送りにできる。

『まだ謝っていないから……』と、言い訳していられる。

 

「だから、フィンが待つように言った時……不安もあったけど、心のどこかでホッとしてた。『あの【勇者(ブレイバー)】がそう言ってるんだから』って、フィンの意見に飛びついて……逃げたの」

 

「……」

 

つまり、フィンに責任を押し付けていたのだ。

この状況はフィンの指示に従ったもので、もし何か不都合が起こっても全て彼の所為なのだと。自分の意志ではないんだと……。

 

そんな醜悪な腹の内を明かされて尚―――団長は、神父の様に微笑んでいた。

アイズの罪悪感が、更に更に降り積もって行く。

けれど、それで押し黙ってしまうのは一番いけない行いだと、彼女は声を絞りだした。

 

「でも、シロからしたら、そんなのこっちの都合だって事も分かってて……。許して欲しいっていうのは私のわがままで、本当はそんなの関係なしに謝るのが筋で……。『確実』だからって謝る期を窺うのは、ズルイ……事で……」

 

「あら、痛いトコつくなぁ、アイズたん」

 

その台詞に、アイズはビクリと肩を震わせた。

違う。そうじゃない。ロキ達を責めたつもりは無い。

そう弁明する前に、ロキは金の少女の隣にドカッと腰をおろした。そして、その線の細い身体を労わる様に撫で始める。

リヴェリアも膝を折って寄り添ってくれる。

 

心の中にあるランタンに明かりが灯った気がした。

込み上げて来るモノを外には漏らすまいと、アイズは矢継ぎ早に口を動かした。

 

「だから、最近は……シロの後を、付けてたりもした……。話しかけるタイミングが、あるんじゃないかって……」

 

「おっと、それは初耳だ」

 

「でもっ、やっぱり勇気がでなくて……。嫌われちゃうかもって思うと、足が竦んで……。私は臆病で……どうしようもなくズルイ奴で……」

 

「そんな事はないさ。誰だって、嫌われると思う事をするのは勇気がいるよ」

 

フィンのフォローに異を唱える者はいなかった。

瞬間、アイズは後悔に襲われる。

こんな事を言っても、絶対に彼らは慰めの言葉をかけてくれる。そんな事は分かっていた筈なのに、どうしてこんな事を口走ってしまったのか……。

 

自分を卑下する【剣姫】の耳に、クスリという苦笑が届いた。

妙に耳触りの良いそれに顔を上げると、今度は少しおちょくる様な台詞が小人族(パルゥム)の団長の口から放たれる。

 

「じゃあ、そんな臆病なキミが、マシロと話す気になったのはどうしてだい? 嫌われるかも知れないんだろう?」

 

「……今日、ティオナ達とご飯に行って、そこで会った女神様に言われたの」

 

「ほぉう?」

 

その告白に、ロキが一層興味深げに身を乗り出した。

『神』という単語を出した所為だろう。

真紅の瞳は冷徹さ浮かんでおり、他の神(部外者)の介入を拒むような色が伺えた。

 

「勇気を出して、最初の一歩を踏み出すべきだって……。私の方が……その、お姉ちゃんだからって」

 

「ナルホドなぁ。因みに、そいつの名前とかわかるか? 特徴とかでもエエで」

 

まるで、その神を値踏みする様な視線がアイズに送られる。

ロキとは違い幼い容姿に豊満な胸を持つ……胡散臭さとは正反対の笑顔を咲かせる女神の事を思い浮かべながら、アイズはどこか主神と近い物を感じさせる彼女の名を口にした。

 

「ヘスティア様っていう黒髪の神様」

 

 

「……………………」

 

 

沈黙。

その名を口にした瞬間、朱色の神はあからさまに押し黙った。真紅の瞳を真円に見開き、普段では考えられない大きさまで瞳孔を膨れ上がらせる。

肩がワナワナ震えだしたかと思えば、「ど、どどどどぉ……!」という意味不明な単語が唇から漏れ始めた。

 

「ドチビやとぉぉお⁉ あのチンチクリン……ウチの可愛いアイズたんと何シレッと関係持ってんねん! てか、文脈的に(マシロ)とも知己やないかい! 姉弟共々篭絡しようとかマジで万死やぞ⁉」

 

般若の様に吠えるロキに、アイズはタジタジになるしかない。助けを求めようとフィン達に視線を向けるが、彼らは額を抑えながら溜息を吐くばかりだった。

 

「神ヘスティアか……」

 

「まさか、よりにもよって彼女とはね……」

 

「え?」

 

「なんで、ファイたんとかやないねん! もしくは、ミアハかタケ辺り! そんなら考えてやらん事もなかったのに!」

 

狂ったように『善神』として有名な神の名を発していくロキに、アイズは素朴な疑問をぶつける。

 

「その、ダメ……? ヘスティア様、良い神様だったよ?」

 

「……‼ そ、そら邪神やらなんやらじゃないけどやな……。てか、今の仕草可愛すぎやろアイズたん‼」

 

怒りなど忘れて野獣の様に飛びかかろうとするロキ。

そんな彼女の進行は、リヴェリアによって阻まれた。溜息を吐きながら翠髪の麗人が話を戻す。

 

「アイズ。つまりお前は、我々の判断より神ヘスティアの意見を優先するという事だな」

 

「……!」

 

その問いに、アイズは思わず息を詰まらせた。

同時に、来るべくして来た指摘だとも思う。何せ、殆ど見ず知らずの神の助言に従おうというのだから、リヴェリア達からすれば面白くない判断だと言えるだろう。

当然、彼女らの方がマシロの事を識っているし、理解も深い。そこに疑問を挟む余地などななく、実際、間違った見解を述べているとは感じていない。

 

 

それでも。

 

足腰に力を入れ直して、アイズは翠の瞳を見つめ返した。

悠然な大自然を思わせる深いエメラルドに吸い込まれそうになるが、どうにか平衡感覚を保つ。

大地に根を張る様なイメージで足の裏を絨毯の地面に括り付け。

ひとつ深呼吸をしながら、少女はその言葉を紡ぎ出した。

 

「ゴメン。それでも私は、あの子に気持ちを伝えたい」

 

険しい顔をするリヴェリア。それにフィン。

しかし、顔を逸らさずにいると、不意に二人の口から微笑が漏れた。張り詰めた空気はそれによって溶解する。

 

「そうか。そこまで決意が固いなら、もう何も言うまい」

 

「え」

 

予想できない程あっさりと出された許しに呆気に取られるアイズ。

その放心状態を面白がるように、降参だ、というようなポーズでフィンも告げた。

 

「僕らの負けだよ。君が本気で謝りたいと考えているなら、止める権利は僕らにはない。そもそも、僕らはマシロの君への好感度を読み間違えていた立場だしね」

 

良いの?

そう尋ねるのを、アイズは寸での所で思い止まった。代わりに、別の懸念を口にする。

 

「でも、ロキが」

 

「……まあ、ええんやないか? ドチビが言うた事に従うんは癪やけど、イタズラに他人を引っ掻き回す神とちゃうしなぁ」

 

窺う様な視線を送ると、主神は不貞腐れた顔をしながらも認める様な発言をする。

リヴェリア達以上に呆気ない。

では、何故あれほどまでに発狂したというのか……。

それに対する答えは、非常に脱力感を覚えるモノだった。

 

「だって、ウチ、アイツ嫌いやし」

 

「……」

 

「ま、とにかくや」

 

ここでロキは、真面目な顔でアイズに向き直った。

 

「行くなら止めへんで。どうする? アイズたん」

 

それが最終確認である事はアイズにも分かった。

もう一度よく考えてみるべきだ。

 

今の自分は流れに酔っているのかも知れない。

本当は慎重を期した方が良いのかも知れない。

けれど、幾ら考えた所で『正解』なんて物は分からなかった。いっそ、そんな物はないんじゃないかと思える程に。

 

だから、考えるのなんて無駄だと、アイズは結論付ける。

臆病風に吹かれて、決心を揺るがす時間を作るだけ。良い事なんてありはしない。

 

もう、動いてしまえ―――。

 

いっそ自棄とも思える思考が、アイズの胸に妙にしっくりと落ちた。もう迷わないと、確信できた。

 

顔を上げて、三人の顔を見る。

 

「ロキ、フィン、リヴェリア。ありがとう。いくね」

 

そう声をかけるが、返答は待たなかった。

アイズは踵を返し、団長室を後にする。

 

その足は、真っ直ぐ弟の部屋へと向かっていた。

 

 

 

: :

 

 

「うへへへ、もう食べられないよぉ」

 

酒場の店内で、実に愉快そうな炉の神の声が響いた。

グデングデンに酔っぱらった彼女は最早直立できる状態にないらしく、店員に背負われる形でトイレへと連行されている。何を勘違いしたのか、店員の首筋あたりに顔を埋め、彼女の匂いを堪能している様だった。

 

「ベルく~ん。キミはホントにいい香りがするねぇ。それにいつの間にこんな可愛い耳を生やしたんだぁい?」

 

「うぜェニャ! ミャーは白髪頭じゃニャいし、耳ガシガシするんじゃニャいのニャ!」

 

「うぷ」

 

「吐くニャよ⁉ 吐いたらマジでぶっ飛ばすからニャ⁉」

 

女神の不穏な嗚咽に対し、アーニャ・フローメルが悲痛の叫びをあげる。

けれど、主神の酔いが醒める気配はない。

ワーキャー騒ぐ彼女らの様子を苦笑して見ていたベルは、二人の姿が女子トイレに消えたのを契機に、何となしに店内を見渡し始めた。

 

ヘスティアと違って酒は飲んでいないが、妙にフワフワとした心地に包まれている。美味しい料理を食べた満腹感か、それとも楽しい時間を過ごした充実感故か。

何が原因で夢心地になっているのかは判然としなかったが、それでも近年稀に見る多幸感を覚えているのは確かだった。

 

そんな所在なき……意思も無き視線に意識が宿ったのは、店内に飾られている一冊の本が視界に入った瞬間だった。

 

白い本である。特別珍しい色という訳ではないが、何故か妙に気が惹かれた。綺麗だと、ベルは認識してしまった。

 

故に、題名(タイトル)は……? と凝視するのは必然の流れだったのかも知れない。しかし、目を凝らして読める距離ではなかった。席を立って近づけば良いという簡単な解決方法は、相席者がいない今実行し辛い。

 

嘘みたいに満面の笑みを浮かべた超絶美少女が視界内に降臨したのは、丁度その時だった。

 

「ベールさん」

 

「え、シルさん?」

 

きゃぴっと効果音が聞こえてきそうな登場を果たした店員に、白兎は目を丸くする。若干腰も抜けてしまったかも知れない。声は、完全に上ずっていた。

急に顔を覗き込まれたのだから当然だろう。しかも、その相手が【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタインに勝るとも劣らない美貌の持ち主とあってはお手上げだ。

赤面を自覚しつつ、ベルは取り繕う様に疑問を尋ねた。

 

「ど、どうしたんですか、シルさん? 今日はお休みだったんじゃ……」

 

アーニャ・フローメルからは、確かにその様に聞かされていた。詳しい欠席理由までは、彼女が多忙だった故に知らされていないが、あの状況でわざわざ嘘を吐くとは思えない。

すると、シルは不服そうに半目になって、プクーッと片頬を膨らませた。

 

「えー、何ですか、その反応は? ベルさんが来店されたっていうから、熱がある重い身体を引きづって来たんですよ?」

 

「いや、休んでて下さいよ⁉ あと、絶対風邪とか嘘ですよね⁉」

 

いけしゃあしゃあと宣うシルに、ベルは突っ込む。

蝶のように軽やかな身振り。血色のいい肌。枯れた様子のない美しすぎるソプラノボイス。

どれをとっても体調不良の人のそれではない。

彼女自身も本気で風邪設定を押し付けるつもりは無いらしく、咳き込む演技もそこそこに話題を切り替えた。

 

「それより、さっきから何を見ていたんですか?」

 

「え?」

 

驚いて彼女の顔を見ると、満面の笑みのまま答える。

 

「何か真剣にあっちの方を見ていたじゃないですか。私の声にも気付かないくらいに熱心に」

 

「あ、僕に声かけてたんですか? すみません、気づかなくて」

 

「いーえ。さて、ベルさんの視線を辿るとぉ……」

 

クスリと笑いつつ、鈍色の少女は楽しそうに歩き出す。その進路は、まさしく先程までベルが眺めていた方向。終着点にあるのは、ベルの目を奪ったあの白い本で―――。

 

シルの白い指が、白い本にかけられた。

遠目では同化してしまっている様にも見える白い手に掴まれて、その本は店員と共にベルの元へと近づいて来る。紅色の瞳に本の全貌が収まった。

花柄の様な表紙には『ゴブリンにも分かる現代魔法』と、そう書かれている。

 

「気になっていたのはコレですか?」

 

小首を傾げながら訊いてくる小悪魔のように店員に、ベルは頷きつつ尋ねた。

 

「は、はい。前にこんなの飾ってありましたっけ……?」

 

「ああ、これは。お客様のどなたかがお店に忘れていったようなんです」

 

珍しく困った様子でそのように教えてくれるシル。けれど、次の瞬間には直ぐにイタズラっ子のような顔に戻っていて……。

 

「興味あります?」

 

そんな悪魔の囁きのような言葉をぶつけて来た。

 

「え、でも……」

 

「取りに来る様子はないし、減るものでもないですし、読み終わったら返してくれればいいですから」

 

シルの説明が進むごとに、ベルの胸は期待で膨らんでいった。正直、タイトルを読んで一層この本に惹かれていたのだ。

持ち主が一向に取りに来ないのであれば、既に本の存在を忘却している可能性は高いだろう。それに、確かに読んで減るものでもない。食べ物ではないのだ。

本の厚みからして一晩で読破し翌朝返すという離れ業は不可能だろうが、最速で読み切って戻してしまえば……。

 

ベルの中で、彼にしては最大級に邪な考えが浮かぶ。

最後にシルの顔を見た。そして、彼女の微笑に後押しされる形で決断する。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて……ありがとうございます!」

 

 

白い本が、白い兎の腕の中に抱えられている。

ベル・クラネルがランクアップする為の要素が、揃った瞬間だった。

 




お読み頂きましてありがとうございました。次回で、ようやく姉弟がまともに話すと思います。きっと、恐らく。
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