剣姫の弟の二つ名は【リトル・アイズ】   作:ぶたやま

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第十九話

 

 まるで、意識が身体から半分浮き出てしまっている様だった。

 

 地に足が付いていない。精神と肉体が一致していないから、思考や行動がしっかりしない。前は見えているのに、視界内の物体を判別できない。そんな気持ちの悪い感覚が、ずっと肉体を支配している。

 

 さながら、世界が速度を緩めてしまったかのようで……事実、マシロの視界に広がる景色は緩慢だった。迫りくる怪物の攻撃動作は不自然なほどに遅い。最早、避ける気さえ失せる速度だった。

 

 しかし、その解釈は間違いだ。

分かっている。

 世界は別に遅くなったりしていない。単にマシロの目にそう映っているだけであり、実際は通常通りの時間が流れているのだ。

 

 分かっている。

 そんな事はすべて。

 分かっている筈なのに……マシロの世界は、一向に正常な動きを取り戻さなかった。まるで他人事の様に、モンスターの鋭い爪が自分を喰い破らんとする光景を眺めているのである。

 

「マシロ……⁉ 危ない!」

 

 突如、切迫した叫び声が、マシロの脳髄を揺らした。

 

「……ッ!」

 

 その刺激が、真上から意識を肉体に押し込んでくれた様だ。瞬間、手足の感触がまともになる。ハッとしたマシロは、寸での所でモンスターの鋭爪から逃れた。

 そして―――

 

「ファイアボルト!」

 

 目の前で怪物が朱く爆ぜる。一撃でモンスターの頭部を破壊したのは、煌々と燃える拳サイズの火の玉だった。目が覚めるような熱気が、マシロの頬を激烈に叩く。誰がどう見ても『魔法』であると分かるその物体は、どうやら彼のパーティーメンバーが放った物らしかった。

 

「べ、ベル様⁉ なんですか今の魔法……! 短文詠唱どころか、無詠唱⁉」

 

 直ぐ傍で、喧しく、犬人のサポーターがヒューマンの少年に駆け寄る。彼女は目に見えて動揺しており、見開かれた大きな瞳はその驚愕の程を物語っていた。明らかに仮面が外れてしまっているが、その気持ちは痛い程良く分かる。新米冒険者の癖に、この白兎は何シレッと魔法など使っているというのだ。しかも、リリルカの言う通り、無詠唱魔法等という聞いた事もない代物を……。

 

「え、えっと、昨日ちょっと色々あって……」

 

「色々って……あ、いえ、失礼しました。冒険者様に対し、詰め寄るような真似を……」

 

 お茶を濁す様に答えるベルの姿に、リリルカ・アーデはハッとして表情を作り直す。サポーターとして相応しくない態度だったと自覚したのだろう。精緻な人形のような微笑を取り戻した彼女は、今度はその瞳に僅かな非難の色を乗せて、此方を睨んできた。

 

「それはそれとして、どうされたんですか? 【リトル・アイズ】様。今日はずっと心ここに有らずといった感じですが」

 

 適当な事を言うな。

 反射的にそう言い返そうになったマシロだったが、流石に心当たりが多すぎるのでグッと堪えた。右頬に拵えた掠り傷が良い証拠だ。普段なら、こんな上層の標準的モンスター相手に流血するなど有り得ない。拭っても拭っても滲んでくる鉄臭い液体は、雄弁に自身の落ち度を物語っていた。

 

 こんな有様では、流石に目くじらを立てられても仕方がない。

 故に、マシロは素直に頭を下げる。

 

「……すまん」

 

「……!?」

 

 すると、その瞬間、どういう訳か場がどよめいた。

 ベル・クラネルとリリルカ・アーデ。双方の目は丸く見開かれており、口もポカンと空いている。それは正しく、驚いた人間が浮かべる表情だった。

 

 ―――いや、なんでだよ……。

 

 内心そう呟くマシロを尻目に、ベル達は次の様に続ける。

 

「ま、マシロが、謝った……?」

 

「ほ、本当にどうされたんですか? お気は確かで?」

 

「もしかして、何か悪い物でも……?」

 

「おい」

 

 セリフ自体は此方を気遣うような物だったが、今の流れでその言動に至る事自体が失礼な話だ。無用な心配をしてくる彼らを睨み付けて、マシロはそっぽを向く。    

 それは、不愉快に感じていると彼らに伝える為の行為でもあるが、同時に二人の視線から逃れたいというバツの悪さの表れでもあった。

 

 別に、体調が悪い訳ではない。腹が痛いわけでも、頭痛がする訳でも、倦怠感に支配されている訳でもないのだ。肉体的には、何も問題はない。

 

 しかし……。

 ある意味で『体調不良』より質の悪い状態に陥っている事は確かだった。何故だか、目の前の事に集中出来ないのだ。それ程までに精神が乱れてしまっている。そしてその原因に、悔しいがマシロは心当たりがあった。

 

 

 ―――私は、君のこと大好きだよ。

 

 

 そんな声が、気を抜くと脳裏に響いて来る。何の混じりけもない慈愛と、幾ばくかの寂寥感が孕まれた何とも言えぬ声音。けれど、それでも胸の内にストンと落ちて来る、心地の良い声色。

 

 昨晩、姉から告げられたその言葉が、まるで実際に耳元で囁かれているかのように蘇る。何度も何度も。その声が、マシロを現実世界から引き剥がすのだ。

 

 

 ―――私がシロを避けるようになったのは、シロに嫌われたくなかったから。

 

 

 ―――ごめんね。淋しかったよね。辛かったよね。今の今まで、気づかなくてごめんね。

 

 

 そこまでの弁明を許すと、姉は幻となって眼前に姿を見せる。

 ここはモンスターの巣食う魔境である筈なのに、現れる姉は『昨夜の姉』。つまりは、装備を外した場違いな格好なのだ。しかし、そんな彼女のコーディネートに合わせるかの様に、辺りを取り囲む無骨な岩肌は、月明かりの射し込む『自分の部屋』に変化してしまう。

 

『私は、君のこと大好きだよ』

 

 違う。

 そんな訳がない。だって、好かれるような事をした覚えが一切ない。いつもヘラヘラしながら甘えに行って、何かをして貰っていた立場の人間だ。お返しに、何かを与えた事なんて殆どない。当時の自分は、『貰う』のが当たり前だったから。

 これで友好な関係性が成立するのは親子ぐらいのものだろう。

 

 だからこそ、嫌われて……。いや、愛想を尽かされて、奴は自分から離れて行ったんじゃないのか。

 

 

『私がシロを避けるようになったのは、シロに嫌われたくなかったから』

 

 

 違う。

 バカな事を言うな。

 確かに、当時の姉のスキンシップは過剰だった。自分から抱きつきに行っていた立場上あまり強くは言えないが、それでも頬や額へのキスには流石に嫌悪感が生まれて来ていたのは事実だ。思春期の男子が肉親との過度な接触を煩わしく思うものという見解も間違いではないだろう。

 故に、避けるようになった=嫌われないようにする為。というのは確かに筋が通っている様にも思える。

 

 しかし、それは本当にただ単に『筋が通っているだけ』だ。本当に嫌われたくないからという思いがあるならば、他にやりようは幾らでもあっただろう。それこそ、スキンシップの仕方や回数を標準的な水準に落とすだけで事足りた筈だ。完全無視を決め込む必要性など何処にもない。

 

 

『ごめんね。淋しかったよね。辛かったよね。今の今まで、気づかなくてごめんね』

 

 

 違う。

 何が淋しいだ。何が辛かっただ。

 分かったような口を利くな。

 言った筈だ。悲しむ理由が何処にある。お前との関係が悪化したから、なんで俺がショックを受けるんだ。

 

 それじゃあ、まるで―――。

 

 

 ―――でも、ダメだよね。私の事、許せるわけがない。ううん。許されちゃいけない。

 

 

 ガン。と、頭が打ち付けられる。そんな衝撃を思い出す。

 

 ―――ばいば……

 

 姉の唇がその台詞を紡ぐ瞬間―――マシロの視界に映る景色は、元の世界に戻るのだ。まるで、身体中の細胞が、それを聞くのを拒んでいるかの様に……。

 

 

「マシロ」

 

「……!」

 

 思考の波の中に、スゥっと少年の声色が混じった。それが、マシロの脳が生み出した幻聴でないと分かったのは、本能的に、今の自分に姉の声以外を想起する余裕がない事を理解していたからかも知れない。

 

 頭を上げると、そこにはベルの顔があった。なにやら神妙に、諭すような色を浮かべている。そして、気遣うような言葉が、彼の口から放たれた。

 

「やっぱり、今日は終わりにしよう」

 

「……は?」

 

 その提案に、マシロは思わず表情を歪めてしまう。

 まだ、ダンジョン探索は始まったばかりだ。先日までと比べても、四分の一にすら到達していない。序盤も序盤。ポーションや武器の消耗も、疲労の蓄積も、到底引き返す理由には足りない状態。

 

 だというのに、こんな舐めた提案。理由は一つしか浮かばなかった。

 マシロはムッとして反論を始める。

 

「バカ言うな。ここで帰ったら、とんぼ返りもいいトコだろうが」

 

「うん。でも、やっぱりマシロも調子が悪そうだしさ」

 

「要らん気を回すな。別にどうって事ねぇ。大体、人の心配できる―――」

 

「4秒」

 

「あ?」

 

 ベルを丸め込もうとしたマシロだったが、唐突にサポーターに言葉を射し込まれた。その発言の意図を瞬時には理解できず、マシロはマジマジとリリルカの顔を見てしまう。すると、何処か誇らしげに、彼女はこんな事を言って来た。

 

「今日【リトル・アイズ】様が、リリやベル様に話しかけられてから反応するまでの平均的な秒数です」

 

「…………」

 

「明らかに遅いですよね。ワンテンポ以上遅れています。それ程深い思考状態が、3回。しかもダンジョンの中で・です」

 

「…………」

 

 マシロは顔を背ける。

 

「極めつけはさっき。これまでは戦闘中に考え事などしたことがなかった筈です。少なくとも、ベル様の動きには注視していたとお見受けしています。ですが、今回はそれすら散漫でした」

 

「……何が言いたい」

 

「それは、貴方が一番良くお分かりなのではないですか? とにかく、現状誰の目から見ても、【リトル・アイズ】様がダンジョン攻略を行える精神状態でない事は明らかです」

 

「……」

 

 リリルカの指摘に、マシロは沈黙を返す。

それは、『余計な事を気にするな』という無言の圧力ではなく、完璧に正論を付かれた故の絶句に他ならなかった。そして、次の瞬間、何も言い返せない彼の耳に、乾いた柏手が飛び込む。それは、ベル・クラネルが手を叩いた音だった。

 

「ほら、誰にだって調子が出ない日くらいあるよ。今日は君がその日だってだけで……。そういう訳だからさ、引き返そう。ほらほら」

 

 困ったような微笑と共にそんな事を口走りながら、本来の進行方向とは真逆の方へ背中を押し始めるベル。その手つきには有無を言わせぬ勢いがあり、彼にしては珍しく、此方の意見や言い分を聞く気が無いようだった。

 

 そして、マシロ自身もそれに対して強く反論する事が出来ない。集中力を欠いていたのは、勘違いでもなければ妄言でもなく、只の純然たる事実だったからだ。仮に呆けていたのがベルだったなら、マシロも同じように探索の中止を宣言しただろう。

 

「分かった。分かったから、押すんじゃねぇ」

 

 喧しく背中を押す手から逃れたくて、早々に降参の意を表明するマシロ。しかし、そこは日頃の行いなのだろう。自尊心の高いマシロがムキになって飛び出す可能性を懸念してなのか、ベルの押し出しは一向に収まらなかった。結局、バベルの出口に到達するまで、それは続いたのだった。

 

 

: :

 

 

 ダンジョンから追い出されたマシロは、活気あふれる雑踏から逃れるように街の外れに足を向けていた。寂れた路傍に忘れられたように並べられた幾つかのベンチ。その内の一つに腰を預け、少し遠くに窺える人々の喧騒をなんの感慨もなしに眺めている。

 

 いや、正確に言えば眺めてはいない。視界の中には入っているが、網膜に映し出された像を、マシロは一切理解していなかった。要するに、散漫とした意識が継続中なのである。もう、何時間こうしているか分からない。

 

 ベル達にダンジョンから締め出され、ご丁寧にバベルからもある程度離れた所まで見送られたマシロは、ダンジョンに戻るでもなく。されど、本拠に帰る事もせず、靄のかかった頭をこさえて青空を照らす日光に肌を焼かれていた。

 

「何してんだ……俺」

 

 ポツリと漏れた言葉は実に弱々しい。まるで小さな雨粒の様で、仮に難聴で人間が隣にいたとしてもなんと言ったか聞き取れなかっただろう。柔らかく輪郭をなぞるそよ風にさえ飛ばされてしまいそうな程の軽い声色。そんな声とは対照的に、彼の腹に落とされた鉛は重量級のモノだった。

 

 マシロは先程の自分の無様さを思い出す。ダンジョンの中で、まるで素人の様な……いや、それ以下の振る舞いを晒したのだ。しかも、何度も注意されていたのに、終ぞ改める事が出来なかった。無論、気を引き締め直してはいた。自分の態度が非難されるべきものだったと、あの時点ですら理解していたのだ。その上で、挽回できなかった。

 

 マシロの意思とは関係の無い所で、勝手に意識が別の方を向いてしまうのだ。言い訳にはなるが、今、マシロは自身の身体が自分の物だとは思えなかった。

 

 ―――ごめんね。

 

「………ッ」

 

 不意に、また姉の謝罪が脳裏に響いて、マシロはギッと歯を食いしばった。

 

 ―――本当に、ごめんね。

 

 昨晩、何度も聞いた姉からの『ごめん』。どうしようも無く苛立ちを覚えたその単語が、まるで数珠つなぎの様に脳を旋回している。泣き出しそうな顔が、脳に焼き付いて離れない。

 

「うるさい……」

 

 ―――私、お姉ちゃん失格だね……。

 

「黙れ……しゃべるな」

 

 ―――私の事、許せる訳が……

 

「うるせぇ!」

 

 気が付けば、マシロは叫びながら立ち上がっていた。

 脳内に居つく姉を黙らせようと半ば無意識に行った事だが、直ぐに正気を取り戻す。遠くに屯している人垣が、此方に注目したのが分かったからだ。

 

 マシロはおずおずとベンチに座り直し、視線を自身の影法師に落とした。そして、大きな溜息と共に頭を抱える。

 

 まただ。

 また、昨日の事を考えてしまう。昨日の、姉に告げられた言葉の意味を……。

 

「どうしちまったんだ。俺……」

 

 項垂れる。

 すると、次の瞬間……何やら車輪が動くような音が聞こえて来た。そして、「ぐぬぬ」「ふぬぅぅ」という気張る様な息遣いも。それらの気配が、露骨に近づいて来る。この人混みから外れた路傍のベンチへと。

 

 マシロが顔を上げたのと、ガシャンと、何かが地面に落ちる音がしたのは、ほぼ同時だった。銀の瞳には、ゼェゼェと息を切る小柄な少女の姿がある。黒曜石のような艶髪をツインテールに結わえた少女は、いつぞやの荷車を伴なっていた。それは以前と変わらぬ重量の様で、既に持ち手が地面に食い込んでいる。

 

 少女は、まるで痛みを追い出そうとしているか様に、両手をヒラヒラと振っていたが、やがて此方の視線に気づいたのだろう。取り繕う様に笑みを浮かべ、背中に両手を隠しながら訊いて来た。

 

「やあやあ、マシロくん。奇遇だねぇ。何か、嫌な事でもあったのかい?」

 

 ベル・クラネルの主神。炉の女神、ヘスティア。主神を除く神の中ではゴブニュに次いで交流のある存在となりつつある一柱が、マシロの前に立っていた。

 

 

: :

 

 

◇数時間前

 

 リリルカ・アーデがマシロ・ヴァレンシュタインに違和感を覚えたのは、ダンジョンに入って直ぐのことだった。

 

 今日も今日とてベル・クラネル(カモ)から例の黒い短剣(ナイフ)を奪うべく、マシロ・ヴァレンシュタイン(邪魔者)の監視を掻い潜ろうとしていた時のこと。

 

 リリルカは、嫌にマシロの反応が鈍い事に気が付いたのである。

 

 最初はいつも通り無視しているだけかと思っていた。リリルカ・アーデ(自分)は、何故か最初から(・・・・・・・)【リトル・アイズ】から警戒されていたので、『無用に馴れ合うつもりはない』と言わんばかりの態度を取られるのは常だったからだ。

 

 しかし、どうにも今回は、少し毛色が違う様なのである。

流石に無視が徹底的過ぎるのだ。リリルカだけにではなく、ベルに対してもその反応が見られた。何より、確実にパーティー間で相談した方が良い場面に直面した時でさえ、そんな態度を貫くのだから、その非合理性には舌を巻くしかない。

 

 癪ではあるが、リリルカは自分と【リトル・アイズ】は少し似ていると解釈していた。効率廚という訳ではないが、彼も十中八九、無駄を嫌う性分だ。わざわざ危険地帯(ダンジョン)で、攻略の輪を乱しかねない無意味な意地は張らない。

 

 その理解に間違いがないのであれば、つまり今、彼は素で反応が鈍いのだ。何故かは分からないが、【リトル・アイズ】は現状、酷く集中力を欠いている。

 

 ……今なら、隙を付いてナイフを奪う事も。

 

 等という考えも浮かぶが、一秒にも満たぬ時間で『リスキー』だと結論を下す。確かに今なら成功率は上がるだろう。独力でナイフを盗み、換金してしまえば、あの薄気味の悪い謎の冒険者に借りを作らなくて済む。厄介事に巻き込まれたくないリリルカからすれば、真実、それが最善手だ。

 

 しかし、あくまでも『普段より』は成功率が上がるというだけの話。マシロ(邪魔者)のレベルは小生意気にも『3』。小人族にしかマウントを取れない貧相な体格をした餓鬼の癖に、中々の実力を有している。Lv.1の自分(サポーター)では逆立ちしてもその差は埋められない。元々の成功率がゼロに近いのだから、それが少し上がった所で知れている。

 

 やはり、今は未だ行動には移せない。

 

 無論、この状態にあるが故に、【リトル・アイズ】が怪物どもに後れを取る可能性もあるだろうし、そうすれば、混乱に乗じてナイフを盗んでしまう事も可能だろう。

 

 しかし、その場合はLv.3を殺せる程のモンスターが目先にいる事になるのだ。

 無理である。マシロと一緒に、リリルカ自身も化物に食われて終いだろう。この階層域に出現する標準的なモンスターの餌になってくれれば話は違うが、流石にスペックが違いすぎる。恐らく、間違ってもそんな奇跡は起こらない。

 

 そう諦念していたリリルカの視界に、トンデモナイ光景が飛び込んだ。

 

「マシロ……⁉ 危ない!」

 

 そんな絶叫に導かれ、視線を向けると―――鮮血の飛沫を双眸が捉えた。

 

 発生源はマシロ・ヴァレンシュタイン。それがこさえる白い頬だった。大した出血量ではないのにやけに鮮明に見えたのは、この周辺で第二級冒険者が怪我をする訳がないと、高を括っていたからだろう。その絶対的な知見が、今、あっさりと覆された。

 

 同時に、リリルカの脳に快楽物質が溢れる。

 攻撃を喰らったのだ、奴が。

 血を流したのだ、奴が。

 自分の命が保証されている領域内では、奴も同じく無敵だった筈だ。けれど、たった今、その前提が崩れた。

 

 殺せるかもしれない。

 上手く状況を操れば、モンスターに喰わせる事が可能かも知れない。

 

 そうすれば。

 奴さえいなければ、自分だけの力で―――。

 

「ファイアボルト!」

 

 次の瞬間の出来事だった。

 だらしなく脳内に垂れ流していた思考が、文字通り、焼かれた。煌々と輝く朱い光が視界を占領する。モンスターの絶叫と、獣の肉が灼ける刺激臭が一帯に広がってく。

 

 それが拳サイズの火の玉だと気付くのにそう時間はかからなかったが、それを誰が打ち放ったのかを理解するのには、膨大な秒数を要した。まるで本日のマシロ・ヴァレンシュタインの様にたっぷり停止した後、リリは大慌てで自身の契約主の元へ駆け寄った。

 

 流石にこの時ばかりは、内心の動揺を隠す事が出来なかった。

 当然だ。仕方がない。今回ばかりは非難される謂れはない。

 

 だって、幾ら何でも規格外すぎる。神から恩恵を授かって、まだ一月も経たない新米中の新米冒険者が、エルフでもない只人が、『魔法』等という奇跡を習得しているのだ。ありえない。

 

 悪いのはお前だ。ベル・クラネル。

 お前が規格外すぎるのが良くないんだ。一体何回、常識という存在を嘲笑えば気が済むというんだ。

 

そんな心中を知らぬベル・クラネルは、後頭部を掻きながらケロリと答える。

 

「え、えっと、昨日ちょっと色々あって……」

 

 またこの白兎はこんな事を言う……。何、ちょっと色々あったくらいで、一晩で魔法なんて代物を手に入れているのだ……。そのこと自体が異常だという事実に気付いてくれ。

 

 内心そう悪態を吐きながら、リリルカはもう幾ばくの猶予もないと理解した。

 こんな出鱈目なスピードで進化する相手だ。これ以上強くなられたら、とてもナイフを奪えない。

 

 元々、何故か最初から上級冒険者に目を付けられていた分の悪い相手だったのだ。

 

 その上で、ベル迄手に負えなくなれば……。

 

 もう、今日しかない。今日奪うしか。

 その為には、【リトル・アイズ】を消す必要がある。幸い、今の彼は絶不調。口八丁でもう数階層下に連れ出し、怪物どもに殺して貰えば―――。

 

 等という無理の有る思考に意識を取られていた時だ。

 

 

「やっぱり、今日は終わりにしよう」

 

 ベルのそんな提案が、リリルカの耳に飛び込んだ。

 寝ぼけた事をいうな。そんな事をすれば【リトル・アイズ】を始末できないではないか。と、そう思ったのは一瞬だった。直ぐに正気を取り戻し、リリルカは全力でその意見を後押しする。

 

 その甲斐あって、暫くはごねていた【リトル・アイズ】から了承を得ることが出来た。ベルと共に、彼を迷宮の外へと追い出す。それを成し遂げ、あの憎らしい小さな背中が見えなくなったタイミングで……。

 

 

 リリルカ・アーデは何でもない様に切り出した。

顔に貼り付けた微笑が、内心の嘲笑にすり替わらぬよう最新の注意を払って―――。

 

 

 

 

「ベル様。もしよろしければ、このまま二人でダンジョンに戻りませんか?」

 

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