剣姫の弟の二つ名は【リトル・アイズ】   作:ぶたやま

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最新話です。
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第二十二話

 

 

「あ…………あぁ………」

 

 

 訳が分からなかった。

 

 理解が、1ミリだって追いつかない。追いつくわけがない。だって………ッ。

 

 ベル・クラネルは目の前で起こった度重なる異常事態を、ただ、呆然と眺めることしかできなかった。

 突如として、目の前に『ミノタウロス』が出現した。

 そして、自分達を庇う形で応戦をはじめたマシロ・ヴァレンシュタインが、何者かの手によって通路の奥へと吹き飛ばされた。

 結果として、この場に残されたのはLv.1の弱小冒険者と、サポーターの少女。そして、彼らが逆立ちしても勝てないだろう格上のモンスターだ。

 

 これら一連の出来事が一瞬の内に発生し、ベルは完璧に置き去りを喰らってしまった。

 

「マ……シロ……?」

 

 彼が、声を上げる事ができたのは、それからたっぷり6秒も経ってからの事である。随分と悠長な反応だ。きっと、この間にも既に、マシロ・ヴァレンシュタインは襲撃者との戦闘を始めているだろうに。それなのに、亀の様な自分(ベル)の足は、未だ動き始めない。

 

 しかし、これは仕方のない事だ。幾ら異常な成長性を誇ると言っても、ベルはまだまだ駆け出しの冒険者。階位は当然のごとく『1』であり、イレギュラーに見舞われた際の行動も、適切なモノなど選べるべくもない。

 そして、それら全てを頭では理解しつつ、愚直に先達冒険者との『差』に打ちひしがれる事が出来る所もまた、彼の数ある魅力のひとつだった。

 

 ただ、ひとつ擁護できない点があるとすれば、それは―――。

 

 まだ『脅威』が健在であるにも関わらず―――それから早々に意識を逸らした事だろう。

 

「ベル様―――‼‼」

 

 絶叫。

 もはや殆ど怒鳴りに聞こえる悲鳴が、ベルの脳を揺らした。途端、一気に眼前の景色がクリアになり、同時に彼は自身の迂闊さを痛感する。そして、それを猛省するよりも早く、顔面に大剣の刃が迫っていて―――。

 

「~~~~~~~~ッ‼⁉」

 

 声にならない悲鳴を漏らしつつ、紙一重で、本当にギリギリのギリで、ベルはどうにかそれを回避した。

 けれど刃は僅かだって掠めていないのに、剣圧だけで皮膚が薄く食い破られてしまう。決して小さくない掠り傷が、頬からドクドクと鮮血を流す。

 

 その衝撃が、驚愕が、一瞬にしてベルの全身に『恐怖』を巡らせた。

 

 白い兎(ベル)は、捕食者から大きく距離を取る。これでもかというぐらい、大きく。無様に足を縺れさせながら、半分地面を転がる様な形で。前方から駆け寄って来たリリルカの姿に、彼女よりも更に後ろに下がってしまった事を理解するも、恥じている余裕など無かった。直ぐに前を向き、怪物を己が視界に入れる。

 

 幸い、ミノタウロスは追撃してこなかった。だから助かった。けれどそれは、猛牛気まぐれと、連撃に繋げるのが困難な大振りだった事に救われた部分が大きい。当然だが、何度も同じことは起こらないだろう。奴は、今この瞬間にだって相対する白髪頭を握りつぶせる圧倒的な絶対強者なのだから。

 

「ハァ……ハァ…ハァ………ッ」

 

 ベルは、どうしたって乾く喉にゴクリと唾を流し込む。そして、精一杯の強がりでリリを背中に隠すと、ガチガチに震える手で武器を構えた。神様から貰ったナイフだ。あんなにも心強かった一品が、今は酷く心許ないナマクラに感じてしまう。きっと、圧倒的にリーチが短いからだ。この得物であの怪物と戦うには、相応に接近しないといけないから……。

 

 ゆったりとした挙動で此方に向き直る牛頭。『ミノタウロス』の泰然たる振る舞いに、ベルは卒倒しそうになった。それ程までに強い重圧を感じる。これまで、一度だって体験した事のない感覚だ。怖い。恐ろしい。

 

 自分が、一体どれだけマシロにおんぶに抱っこだったかが良く分かる。リリルカも言っていたが、彼は決してベルに過剰に危険な橋は渡らせなかった。『冒険者は冒険したら駄目』。担当アドバイザーであるエイナ・チュールの教えを最も強く実践していたのは彼と言えよう。少しでもベルの手に余ると感じたら、即座に介入して討伐してくれていた。

 

 けれど、今、そのマシロはいない。

 目の前で虎視眈々と此方の動きを窺っている怪物は、マシロなら問題なく一人で斃せる相手だろう。引き換え自分達では、一矢報いる機会すら与えられず惨殺されるような相手だ。 

 

 勝てるはずがない。挑む事さえ自殺行為。

 逃げるのが最善手。そうだ逃げよう。

 逃げれば―――。

 

「べ、ベル様……」

 

「……! リリ……」

 

 涙目になりながらそこまで考えたベルの耳に飛びこんで来たのは、リリルカの縋る様な声だった。

 

 ―――ダメだ……! ここで逃げたら、きっと僕はリリを見捨てる。逃げるので精いっぱいで、この子を置き去りにしてしまう……!

 

 自分とリリルカの走る速度に差があるのは歴然だ。きっと、ミノタウロスの犠牲になるのはリリの方が早い。逃走中に背後から聞こえてくる彼女の断末魔……。それを聞いて、ベルは助けに戻れる自信も、狂わずにいられる自信もなかった。

 

 だから、戦わなければならないんだ。今、この怪物と。

 マシロみたいに。

 

 あの人みたいに(・・・・・・・)

 

 瞳の奥で煌めいた懸想の相手。その姿に、ベル・クラネルはグッと腹を括った。

 

「リリ……僕がアイツを引き付ける……。だから、隙を見て逃げて」

 

「え? ベル様……⁉」

 

 ベルは、震える声で宣言する。

 何でもない、ただ一人の女の子を守る為だけに。

 彼は、命を投げ打つ事を決めたのだ。

 

「う、うわぁぁぁああああぁァァぁあアァア‼」

 

 

 後になって振り返ってみると、非常に情けない雄叫びだったと少年は頬を掻く。これではまるで悲鳴だと。物語の英雄たちは、決してこんな頼りない叫び声など上げたりしない。やっぱり僕はまだまだなんだと。

 

 

 けれど―――。

 

 この時、ベルは頭にも無かったが……その無謀とも取れる勇敢たる姿は―――

 

 

 

 

 彼自身が憧れた数多の英雄たちの姿と、とても良く似ていた―――。

 

 

 

 

: :

 

 

 

 Lv.6の第一級冒険者からの襲撃を受けたマシロは、ふらつく足元をどうにか正して立ち上がった。身体が軋む……。倒れたままでいろと、肉体が全力で訴えかけてくる。しかし、それらすべての危険信号を無視して、2メートル程離れた位置で立ち塞がっている件の冒険者を睨みつけた。

 

「…………なんのつもりだ? 【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】」

 

【フレイヤ・ファミリア】の副団長、アレン・フローメル。そんな大物との個人的な因縁などマシロにはない。【ロキ・ファミリア】に所属している以上、派閥単位の因縁なら無くもないが、だからと言ってわざわざLv.3の構成員を襲ったりはしない筈だ。

 

 故に、どうしても【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】が、あのミノタウロスを庇った様に見えてしまう。タイミング的にも、まるでマシロが戦うのを嫌ったかのような印象を受けた。そして、確かにマシロさえ排してしまえば、あの場に奴を殺せる冒険者は存在しないのだ。推定Lv.2を超えるあの個体が相手では、ベルやリリルカ・アーデなど、餌にしかならないだろう。

 

 つまり、あの2人のどちらか、若しくは両方を殺す為に、ミノタウロスを差し向けたような構図になってしまう。わざわざ、Lv.6の冒険者が……。それは流石に有り得ない。幾ら何でもチグハグ過ぎる。だからこその問い掛けだったが、アレン・フローメルからの返答はマシロの疑問を解消するものではなかった。

 

「………あの兎から手を引け」

 

「兎だと……? ベルの事か?」

 

 寧ろ、別の疑問が湧いてくる。

 都市でも最強クラスの第一級冒険者と、只の新米冒険者との接点を、マシロはどうしても見いだせない。

 

「お前ほど奴が、何故アイツを知っている? まだ駆け出しも良いトコだぞ」

 

「テメェに教える義理があんのか?」

 

「………ふざけてんのか? あんな無名の新人に、ミノタウロスなんかけしかけてお前になんの得がある? それともアイツに、何か個人的な恨みでもあるのか?」

 

「………」

 

 返事はなかった。

 既に会話に応じるつもりは無いようだ。只無言で道を塞ぎ、通す意思が無い事だけを言外に伝えて来る。ならば此方も、これ以上質問を重ねるつもりはない。

 

「そこをどけ……ッ!」

 

 マシロは全速力で駆け出した。

 アレン・フローメルは通路の真ん中を陣取っている。通り抜けるには、奴の左右どちらかを潜り抜けるしかない。スペースが同じなので、難易度は同一。そしてそれは同時に、【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】自身も、マシロがどちらを選択するか予測できないことを意味している。

 

 右か、左か。

 その駆け引きの中で、マシロは敢えて、理外の正面突破を選択した。

 

「………⁉」

 

 これには流石にアレン・フローメルも驚く。

 無論、虚を突かれた事に対する動揺ではない。愚かな選択肢を取った事への困惑の色が強いだろう。

 しかし、驚いたことに変わりはない。

 それはつまり、コンマ数秒でも反応を遅らせられたという事だ。

 

目覚めよ(テンペスト)……!」

 

「……!」

 

 マシロはフローメルに肉薄した瞬間、魔法を発動する。緑色に可視化された暴風が、マシロの肉体を包み込む。

 この付与(エンチャント)魔法の出力は異常だ。只のヒューマンの扱える一魔法の威力を遥かに逸脱しており、至近距離で暴発させれば第一級冒険者だって無傷ではいられない。

 

 それをゼロ距離で使い、僅かながらでもアレン・フローメルを怯ませ……そして。

 風の力の全てを、加速の為に利用する―――。

 

 瞬間、足下に爆薬が落とされた……。そう錯覚する程の衝撃が走った。肉体が、これまでにない程の風を受ける。僅かに残したエアリエルの壁ではガードしきれぬ程の圧倒的な風速が全身を押し返そうとする。しかし、それ以上に、加速する力が凄まじかった。最早自分自身でも制御できないスピードに到達する。そう確信した瞬間―――。

 

 凄まじい力に肩を掴まれ、そのまま乱雑に地面に押し倒された。

 

「ぐ……ッ⁉」

 

 何が起こったのか分からない。未だマシロは、今の自分の状況を理解できていない。彼の思考を埋め尽くしているのは、ただただ、『痛い』という感情だけだった。現状を把握したのは、Lv.6の細足に腹を踏みつけられた瞬間だ。

 

「たく、真正面からの無謀な特攻……。何かあるとは思ったが、無茶しやがって」

 

女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】の視線はとある一点に……いや、二点に注がれていた。視線に先にある物は『足』だ。マシロの足。体勢的に確認する事は叶わないが、見ずともマシロは自身の足がどうなっているのか理解していた。

 

「その足じゃ、歩けたとしても満足には戦えねぇだろ」

 

「………」

 

 エアリエルの風を加速に使う。

 それはつまり、力の大半を足に集めたという事だ。防御を薄くする代わりに凄まじい速力を手に入れる。けれど、その代償は見ての通り。得た恩恵に耐えられる肉体強度を、マシロは未だ有していない。

 

「バカな野郎だ。その足じゃ大した戦力にもなれねぇだろうに……。そんな後先も考えられねぇほど、あの兎を助けたかったのか?」

 

「……はッ。気色悪いことを言うな……。見当違いも良いトコだ」

 

「………」

 

 瞬間、黒い猫人(キャットピープル)の放つ雰囲気がまた、変わった。今のはマシロの強がりだ。普段通りに、特に意味も無く放った意味の無いセリフ。それに対し、何か感じる所があったらしい。マシロの腹を抑えていた足の力が明らかに弱まった。

 

「………そうだな。お前は兎の事なんざ、どうでも良い。ただ、『助けようとした』って実績を作ろうとしているだけだ」

 

「…………………………………は?」

 

 思いもよらないその指摘に、マシロは間の抜けた声を漏らした。が、アレンの追及は止まらない。

 

「違うとは言わせねぇぞ。お前自身が今、“見当外れ”と言ったんだ」

 

「そ、それは……」

 

 そんな意味を込めて放った訳では―――。

 

「反射的に言い返しただけだったか? だとしても変わらねぇ。自分でも気付いていないだけで、本心では兎を助ける気がねぇって事だ」

 

「………ッ!」

 

 胸が、腹が、沸騰するような感覚をマシロは覚えた。これは決して踏みつけられている事による物理的な痛みではない。肉体の内部に直接炎が灯されたかのような、経験した事のない不快な感覚。耐えがたいまでのそれをぶちまけるかのように、マシロは叫ぶ。

 

「知った風な口をきくな! お前に俺の何が分かる……⁉」

 

 それは決して、アレン・フローメルにのみ向けられた言葉ではない。マシロの胸には、ここ数日かけられ続けてきた、腹の底を見透かすような台詞が渦巻いていた。炉の女神ヘスティアから始まり、酒場のウェイトレスのシル・フローヴァ、サポーターの犬人(シアンスロープ)リリルカ・アーデ。そして、今、【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】までにも似たような指摘を受けようとしている。

 

 もう、うんざりだ。

 どいつもこいつも、さも当然の様に断言してくる。分かり切っている事のように、マシロの行動一つ一つを例に挙げて、こんな醜い本音が隠れているんだと細やかに説明してくる。殆どの者が、そうやって否定する。マシロ・ヴァレンシュタインという人間の行動を、気持ちを、全てを。

 

「どいつもこいつも、俺の何が―――」

 

「分かるんだよ!」

 

 瞬間、腹が陥没したと、錯覚した―――。

 それほどの衝撃が腹部を襲った。

 

「―――がぁッ⁉」

 

 マシロは目を見開き、口を全開にし、血と空気と胃液を吐く。

 その嘔吐物が見事にオラリオ一速い冒険者の足にかかるが、彼は一切気にならない様だった。寧ろ、更なる血を所望するかのように、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――――。

 

 何度も腹に足を振り下ろす。

 

「テメェは……! あのクソッタレと同じ目をしてやがる!」

 

 腹に響く声だった。

 あの体格で、どうやってこんな怒号を出しているというのか。とにかく、まるで自分が被害者であるかのように、アレンの声には怨嗟が籠っていた。

 

「ムカつく目だ……! ムカつく顔だ! 自分じゃ何もできねぇ癖に、誰かに何かを求めてる……救えねぇクソッタレな表情(カオ)だ‼」

 

「~~~~~~ッ⁉」

 

 この世の物とは思えない激痛が、苦痛が、腹に際限なく叩き込まれる。最早、痛みという概念の範疇を越えて、マシロの脳を灼き切らんと暴れまわる。

 

「テメェは誰かに見て貰いたいだけなんだよ! 頑張ったって褒めて貰いたいだけだ! それに足りうるだけの努力は度外視にしてな……!」

 

 一際強い衝撃が脇腹を襲い、身体が宙を浮く。先程の、エアリエルを利用して加速しようとした時に迫る勢いで風を切り、成す術もなく背中から岩肌に衝突した。

 最早無感情に、既に慣れてしまった吐血を行う。

 ドサッと、中々の高さから落下する。うつ伏せに倒れると、地面を伝って奴の足音が鮮明に聞こえて来た。

 

 それは、正しく悪魔の行進だ。

 心が、身体が、勝手に震える。

 そんなの絶対に御免である筈なのに……ひれ伏して、降伏してしまいたい衝動に駆られた。しかし、既に身体は動かない。

 

「冒険する気がないなら引っ込んでろ。兎の試練を邪魔するんじゃねぇ」

 

「……ぁう」

 

 乱雑に髪の毛を掴まれる。片手で軽々と持ち上げられ、肉体が地上から離れる。自分の目の高さと同じ位置に、【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】の顔があった。

 

「ここまで痛みつけられたんだ。助けに行きたくても行けなかったと、言い訳は十分に立つ」

 

「………」

 

 ……確かに、そうだろう。

 もう十分だ。武器で貫かれてはいないとは言え、それでもLv.6の蹴りを気が遠くなるぐらい受けたのだ。きっと内臓も無傷ではない。その外側にある肋骨は言わずもがなだろう。Lv.1なら即死。Lv.2でも、正直怪しい。耐久のアビリティが低い者なら普通に死んでいてもおかしくない。それ程のダメージを負っている。

 

「誰もテメェを責めたりしねぇ……。だから、とっとと尻尾巻いて地上に帰れ」

 

 都市最速の冒険者は甘言と共に、空いた左手にポーションを掲げて見せて来た。流石に大派閥の幹部格だけあり、携帯している回復アイテムの質も段違いである。腹の傷は無理にしても、足の自滅傷に関しては、おおかた回復するだろう。

 

 

 まさに奇跡の薬。

 それを飲めば、この苦痛が消える。この地獄から逃げられる。地上の空気を吸える。そして、完治はしないから言い訳もできる。恐怖に耐えかね、パーティーメンバーを見捨てて逃げ帰った腑抜けと、皆に思われなくて済む。

 

 完璧だ。

 それさえ飲めば―――。

 

 パリーンと、乾いた音が遥か下より聞こえて来た。

 ガラスの破損音だ。高級ポーションが、アレンの手を離れ、地面に落ちて割れたのだ。

 意地の悪い猫人(キャットピープル)が意図して落とした・という訳ではない。

 

 ぺッと、マシロは緩慢に、困惑している奴の顔に唾を吐きかけた。そして、鬱陶しそうに頬を拭う猫人に言ってやる。

 

「帰るのは、テメェ……だ、【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】。帰って、フレイヤ(ご主人様)の胸でも………啜って、ろ……」

 

「…………」

 

 瞬間、アレン・フローメルから表情が削ぎ落ちた。無論、目元は仮面で隠れている故に確かな事は言えないが、そう断言出来てしまう程、目に見えて身に纏う雰囲気が変わった。

 

 そして『後悔』の2文字が頭を過るより早く、固められた拳がマシロの右頬を襲う。構えもクソも無い、半ばノーモーションで放たれたそれは、しかしマシロの口内に広大な血の海を作った。右側に生えていた歯の半分近くが砕け、残りも何かしらの異常をきたしている。歯茎や舌も、歯の破片により傷ついた。

 

 それほどの衝撃に吹き飛ばされなかったのは、偏に、髪を掴んでいたフローメルが、即座に手首を掴み直したからに他ならない。マシロの左手首は、乾燥菓子の様に容易く握りつぶされた。そして、悲鳴を挙げる間も無く地面に叩きつけられる。

 加えて………無事な右手首には、無慈悲に銀の長槍を突き立てられた。

 

「…………ぐ……ァ」

 

「敵を煽るのは相応の力をつけてからにしやがれ、糞餓鬼」

 

 忠告とも取れるその囁きは、静かなものだった。

 しかし、声の震えから途轍もない怒りを内包している事は分かる。

 

 『後悔』の2文字が、ようやく、マシロの脳内に浮かび上がったが、もう遅い。アレン・フローメルの頭には、完全に血が上っている。ここからは最早、死ぬまで成す術もなく蹂躙されるのみ。

 

 

 ………そう。死ぬ。

 

 

 この状況を切り抜け生還する未来を、マシロは思い描く事が出来なかった。既に虎の尾を踏んだのだ。他でもない、マシロ自身の意思で。こうなると分かっていながら、【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】を挑発した。何の事はない。自分の、ちっぽけな自尊心(プライド)を守る為だけに。

 

 まったく、下らない選択をしたものだ。

 アレン・フローメルの見立て通り、仮に逃げても、誰もマシロを責めなかっただろう。そもそも、ダンジョン内での出来事だ。口を割らなければ誰にも真相は分からない。

 

 そもそも、そうまでして守る程の義理もない筈だ。リリルカ・アーデは言わずもがな、ベル・クラネルだって本来、付き合いは1ヵ月にも満たない。

 

 だと言うのに、勢いでこんな事をしてしまった。

 愚かだ。

 こんな事で死ぬ。

 もう、地上に戻ることは無い。

 地上の空気を吸う事もない。

 

 日の光を浴びる事も、雨に降られる事も、風に吹かれる事も。出かける事も、食事を摂る事も、寝る事も、起きる事も、訓練する事も、だらける事も、怒る事も、笑う事も、泣く事も、叫ぶ事も。

 

 

 ロキの悪巧みに付き合わされることも

 

 

 フィンの勇敢な姿に胸を躍らすことも

 

 

 リヴェリアに説教に慄くことも

 

 

 ガレスのガサツな笑い声に安らぐことも

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アイズに……会うことも―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――――ッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 アイズに……姉に会えない。

 

 そう考え至った瞬間、心臓が跳ねた。今にもポンプとしての役割を放棄しそうだったソレが、瞬間的に大きく動く。身体中に血が巡り、感覚が戻って来た。眠り付きそうだった思考が冴えわたる。そして、そんなマシロの全身を支配したのは、際限のない『恐怖』だった。

 

 会えない。

 もう、会えなくなる。

 死んだら、アイズに……。

 

 それは、嫌だ………。

 

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ‼

 

 自分でも驚くくらい素直に、マシロは嫌だと思った。

 会いたい。

 アイズに。

 それさえ叶えばあとはどうでも良い。

 他の何を犠牲にしても、死んでも良いから……どうしてもアイズにもう一度会いたかった。

 

 散々拒絶しておいて、突っぱねておいて、情けない話なのは分かっている。けれど、この極限状態に追い込まれて、ようやく本心に気付いたのだ。

 

 

 マシロ・ヴァレンシュタインは、アイズ・ヴァレンシュタインが大好きだ。

 

 

 大好きなのだ。

 それは、昔と何も変わらない。仮に、向こうが既に、此方に愛想を尽かしてしまったとしても……。

 

 

 

 

 ――――私は、シロのこと大好きだよ

 

 

 

 

「……………………………ぁ」

 

 

 

 背骨が折れるんじゃないかという衝撃を受けつつ、マシロの頭にはそんな声が響いた。月明りに照らされ、白い肌をつたう涙がキラキラと光る。濡れて揺れる金色の瞳が、朱く色付いて行く頬が、唇の動きが、息遣いが、こんな時だと言うのに鮮明に思い起こされた。

 

 あの日あの夜、嘘だと突っぱねた姉の言葉が、圧倒的な暴力の嵐の中で燦然と輝く。まるで、それがマシロの希望の光であるかの様に。

 

 

 ―――――嫌いになった事なんて一度もない。君が生まれた時から、ずっと……

 

 

 殴られ、潰れた頬に。

 感覚なんて、碌に残っていない筈なのに。

 掌の温もりを感じた。優しくさすられる感触を、慈愛に満ちたアイズの眼差しを―――。

 

 

 

 ―――君は、私の宝物なの

 

 

 

「……………ッ」

 

 アイズ・ヴァレンシュタイン()の姿を、マシロは幻視した。

 都合よくも、未だ自分を受け入れてくれる事が前提の幻を。一度、拒絶した分際の癖をして……。

 

 

 ―――生きたい。

 

 そう……純粋に願った。

 会いたいではなく、生きたい。

 生き残らなければ意味がない。死んで、地上に運ばれて再会するなんて真っ平ごめんだ。

 生きて、顔を突き合わせて、そして言うのだ。

 

 ごめんなさいと。

 仲直りしてくださいと。

 

 そうしなければ、俺は―――。

 

 

 

「テン……ペストぉぉォ……ッ!」

 

 

 

「―――⁉」

 

 最早血に染まっていない箇所がないんじゃないかというぐらいにボロボロにされながら、マシロはその詠唱式を唱えた。残るすべての力を注ぎ込んだ、正真正銘、最大出力のエアリエルだ。流石のアレン・フローメルも、これには飛び退いて回避する。

 

「テメェ……まだ諦めてなかったのか!」

 

 まだそんな力が……⁉ とは奴は言わない。

 魔法の源は精神力(マインド)だ。例え体力が空でも、気持ちが死んでいなければ発動すること自体は出来る。無論、それを効果的に使いこなすには、肉体の力が必須な訳だが。けれど、今はコレで良い。この強すぎる猫人(キャットピープル)と距離さえ作れれば構わない。

 

 距離さえあれば、こうやって……。

 

「は……? おい、テメェ何してやがる……?」

 

 妨害されることなく……。

 

「おかしいだろ、それは……。いったい、どれだけ痛みつけてやったと思ってんだ……⁉」

 

 アレン・フローメルが、驚愕に声を荒げる。恐らく、両目も見開かれているのだろう。Lv.6がLv.3相手に情けない……とは、思わない。それぐらい荒唐無稽なことが、今、奴の眼前では起きている。それを引き起こしているマシロ自身、よく動いたものだ(・・・・・・・)と、乾いた笑みが出る程だ。

 

 マシロの視線が、完璧に、あるべき高さ(位置)まで戻る。

 瞬間、堪らずといった調子で、【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】は喉を鳴らした。

 

「その傷で……その身体で立てる訳がねぇ……ッ。テメェ、いったい何をしやがったッ⁉」

 

 折角こうして立ち上がっても、見下ろされる身長差なのが口惜しい。

 マシロは、肉体が挙げる悲鳴のすべてを黙殺して、今にも折れそうな2本足を大地に突き立てる。身体の傷は一切合切その通りだ。痛みも同様。息を吸うだけでも、酷く肺が痛む。けれど、無視すればいい。どれだけ痛くとも、身体は動く(・・・・・)

 

「【隷属演陣(スレイブ・アクト)】。俺の、スキル……だ」

 

「スキル……だと?」

 

「あぁ…使い勝手最悪の……ゴミスキルだよ。一度、発動すれば、丸1日……解除できない。意識を…失っても……」

 

「………⁉」

 

「効果、は……1日……強制的に発動…し続ける。その間……一切の回復効果は、俺の身体……に作用しない。ポーションも……治癒魔法も」

 

「……はッ! 随分面倒なデメリットだな。だったら、効力は相当―――」

 

「ゴミスキルだって……言っただろうが。【隷属演陣(スレイブ・アクト)】の効果は……『どんな状態でも身体を動かせるようになる』。それ……だけ、だ」

 

「………なに?」

 

「……少しずつ傷が、塞がる……なんて副次的効果も、無ければ……痛みを感じなくなったりも……しない」

 

「……」

 

「ただ……本当に、身体を動くようにする……だけのスキル。身体能力の……僅かな上昇効果……すらない」

 

「………成程な。確かにゴミスキルだ。要するに今のテメェは、ただ瘦せ我慢してるだけなんじゃねぇか。健気な野郎だ」

 

 アレン・フローメルの語気が、驚愕から苛立ちに変化する。警戒に値しないスキルだと理解できたからだろう。けれど、そんなゴミスキルを発動しなければ、最早マシロは立つ事さえ出来なかった。

 

「痛ぇだろ。立ってるだけでも辛い筈だ。なのに、そんな意味のねぇスキルを使ってまで、どうして立ち上がる? 何故、そこまでしてあの兎を助けようとしやがる……?」

 

 当然の疑問だろう。それは。

 マシロがベル・クラネル救出の為にスキルを使ったのは明白だ。仮に逃げるのが目的なら、わざわざ向かい合って効力の説明をする必要など無い。発動させた瞬間、一目散に逃げだせば良かっただけの話だ。

 

「………………俺は……ベルが、気に喰わなかった………」

 

「は?」

 

 答えにもなっていない唐突な自白に、黒い猫人(キャットピープル)は眉を顰めた。

 

「アイズと……隠れて、特訓してるって…知った時から。ずっと、モヤモヤ……してた」

 

「……オイ」

 

「なんで……そんな奴と、いるんだって。零…細ファミリアの……新米冒険者なんてお前の、視界に……入るわけ、ないだろって」

 

「テメェ、いったい何の話をしてやがる?」

 

「ベルと……ダンジョンに、潜るようになって。コイツは……その他大勢なんかじゃ、ないって……分かった。気持ちの……いいやつって事も……」

 

「………」

 

「だから、嫉妬…した。アイズを……取られるんじゃ…ないかって、コワくなったんだ……」

 

「知らねぇよ……。そもそもテメェら、仲が悪かったんじゃねぇのか? それとも、テメェが【剣姫】から一方的に嫌われてただけか?」

 

「……いいや。宝…物らしいぜ」

 

「どうでも良い」

 

 ニヒルに笑ってやると、アレン・フローメルは心の底から吐き捨てた。次いで、こんな言葉をつむぐ。

 

「要するに、テメェは兎が大嫌いなんだろうが。だったら、尚更―――」

 

「……言っただろう。ベルはいい奴だ。底抜けの……お人好し、なんだ」

 

 ここで、酒場のウェイトレスの言葉がフラッシュバックする。

 

 

『ベルさんは、とても気持ちの良い方ですから』

 

 『彼の為に何かしてあげると、凄く良い事をした気分になれるんですよね』

 

  『善意には、善意を返したくなるものでしょう―――?』

 

 

―――ああ、お前の言う通りだ。シル・フローヴァ。

 

 べル・クラネルには、返さなければならないものがある。そんなもの無いと、きっとベルは言うだろうけど……。俺は―――。

 

 

 マシロは、歯を食いしばって駆け出した。

 身体が壊れそうだ。風圧に、肉体が耐えきれていない。それでも、止まらない。

 都市最速の冒険者との距離を一瞬で詰め、鍛え上げられた細身の肉体に武器を吸い込ませる。左手首の骨は粉砕され、右手首にも槍を刺された。けれど、握れる。それが、このスキルの力だから。

 

 無論、こんな攻撃がLv.6の絶対強者に届く筈がない。事実、長槍によって容易く防がれてしまった。だが、その瞬間、マシロは少しの無茶をする。普段、絶対にしないような『風』の使い方を実践したのだ。

 

 エアリエルは付与魔法(エンチャント)

 文字通り、物質に風を纏わせる魔法だ。

 その対象は、何も自分の身体だけに留まらない(・・・・・・・・・・・・・)

 

 アイズ・ヴァレンシュタインは、自らの風を剣に纏わせ、必殺の一撃を打ち放つ。彼女の愛剣、≪デスぺレート≫は不壊属性持つ特殊な武器だ。只の剣では、エアリアルの出力に耐え切れずに砕けてしまうから。

 

 それは、マシロの風も同じ事。ただ彼は、中古の安物を大量に仕入れ、数の暴力で問題を強引に解決している。だから、今の特攻で、剣が壊れても困りはしない。想定内。

 しかし―――。

 

 そもそも、そう易々と壊れる事を想定していない業物が砕け散ったとしたらどうだ。

 【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】の目的が、ベル達とマシロを引き剥がす事なら、今日、得物が大きく消耗する想定などしていない筈。

 ならば、きっと、替えの武器だって用意している訳がない―――。

 

「テメェ……ッ⁉」

 

 アレンの、忌々し気な声色が、鼓膜に届いた。

 そして、耳触りの悪い、硬い何かに亀裂が入る音も。

 狙い通りだと、自然と口の端が吊り上がる。

 

 マシロは、アレンと武器を打ち合わせた瞬間―――エアリエルの風の全てを奴の銀槍に纏わせた。

 

 あの出力を一気に移されて、即座に砕けなかったのは流石と言えるだろう。デスぺレートに迫る相当の業物を使っているという事だ。やはり【フレイヤ・ファミリア】の副団長。恐れ入る。

 

 けれど、これで、もう満足に槍は振るえない。ヒビが入ったのだ。第一級冒険者の腕力でそんな事をすれば、自らの手でトドメを刺すようなもの。

 

 

 武器は潰した。あとは―――。

 

 

 マシロは、新しい武器を構えながら、立ち塞がる難敵に向かって叫ぶ。痛みなど無視して、腹に精一杯の力を込めながら。

 

 

「そこを……どけ、アレン・フローメル‼ 俺は、ベル達の所へ行く……ッ‼」

 

 





お読み頂きありがとうございました!


レベル3如きがアレン・フローメルに瞬殺されないわけないだろって思われると思いますが、ご都合主義ってことでご容赦下さい。

次回もよろしくお願いします。

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