剣姫の弟の二つ名は【リトル・アイズ】   作:ぶたやま

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本編最新話です。
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第二十三話

 

 

 ダンジョン37階層。

 

 『深層』と呼称される魔境の一角で、金髪の第一級冒険者(アイズ・ヴァレンシュタイン)階層主(ウダイオス)が激戦を繰り広げていた。両者が衝突する度に、並の冒険者やモンスターでは消滅しかねない衝撃が発生している。空間さえ歪み、余波すら凶器と化す。まさしく、怪物同士の狂宴だ。

 けれど、決して、両者の実力が拮抗しているという訳ではなかった。押しているのは、『明確に』階層主の方だ。

 

「アイズ、やはり私も―――」

 

「ダメ……! 手を、出さないで……!」

 

 自若たる思いで傍観していた王族妖精リヴェリア・リヨス・アールヴが、痺れを切らして加勢しようとする。

 けれど、本来であれば嬉しい筈の救援の手を、アイズ本人が振り払った。そして、金の長髪を振り乱しながら、骸の王の巨体に飛び込んでいくのだ。何度も、何度も。幾度、地中から生えるパイルによって弾き返されても。皮膚を裂かれ、鮮血を流しても。まるで、それしかできない鉄砲玉であるかのように、ガムシャラに突撃を繰り返す。

 

「アイズ……」

 

 妖精の憂いの声音は、吐息と共に空気に溶けた。

 リヴェリアは翡翠色の慧眼をたたえ、歯がゆい気持ちで今にも動き出しそうな自身の肉体を抑制する。本当は直ぐにでも魔法を撃ち込みたい。けれど、それが駄目な事は彼女自身も分かっていた。仮に、自分の助力でウダイオスを討滅しても、アイズは絶対に納得しないだろう。冒険者が冒険者を犯す理由はただ一つ。これまでの自分を超克し、器を昇華する事……。

 

 今回に関しては、弟の件が上手くいかない事への八つ当たりの側面も多分に有るのだろうが、そもそもの前提からして、アイズは力を追い求め続けている子供だ。不完全燃焼で終えてしまえば、後日、知らないところで無茶をしないとも限らない。

 

 リヴェリアも忙しい身である。無論、フィンやガレスも。

 今日のように、毎回都合よくアイズに同行できる保証はない。だから今回は多少の無茶無謀には目を瞑るつもりだった。中途半端が一番よくないからだ。限界までガス抜きをさせてこそ意味が生まれる。

 加勢するのは、本当に命の危機に瀕したその時で良い。そう念仏のように自分に言い聞かせ、【ロキ・ファミリア】の副団長は、特に目をかけている団員の戦いを目で追い続けた。時間と共に生傷を増やしていく娘同然の冒険者の姿に、苛烈なまでのストレスを感じながら。

 

 そして、意味のない仮定だとは理解しつつも、彼女大事さからこんな思考に囚われてしまうのだ。

 

 もしも、アイズのスキル、【復讐姫(アヴェンジャー)】の能力補正値が以前のままだったなら、もう少し善戦できていたのだろうか、と。攻撃は最大の防御だ。骸の王をもう僅かでも守勢に回らせることができたなら、アイズの肉体の傷が今より少なかった可能性は、正直否定できない。

 

 そういう意味では、マシロ・ヴァレンシュタインの存在が、アイズの強さに歯止めをかけていると言えるのかも知れない。無論、そんな事は言いたくもないし、彼を責めるつもりは毛頭ない。あの小さな弟の存在がなければ、アイズは復讐の奴隷と化し、無茶に無茶を重ね、とっくの昔にのたれ死んでいた事だろう。マシロがアイズに良い影響を与えているという事実は、どう見たって疑いようがない。

 

 ……けれど、【復讐姫(アヴェンジャー)】は憎悪の丈に比例して攻撃能力が上昇するスキルなのだ。つまり、アイズは怪物種を憎み恨むほど、怪物種に対しては何処までも強くなれる。

 

 要するに、あったかも知れないのだ。

 アイズの憎悪がマシロへの慈愛に負けていなければ、骸の王を圧殺し、自分の血では無く、モンスターの返り血のみをその白い肌に滴らせていた未来も……。

 

 皮肉な話である。あまりにも無慈悲で救いがない。腹の底から込み上がる嫌悪が悪態となって唇を突き破ろうとする。

 

 マシロ・ヴァレンシュタインのおかげで、アイズ・ヴァレンシュタインの心は壊れずに済んだ。しかし同時に、彼女の大願からは大きく遠ざかっているのだから。

 

『オオオオオオオオオオオオオ―――‼』

 

 咆哮。

 それが、無意味な『もしも』に没頭していたリヴェリアの意識を、強制的に戦場へと引き戻す。人としての根源的恐怖心を煽る、平坦で無機質な大音響が、骸の怪物から放たれた。それは、どこか勝利の雄叫びの様にも聞こえて―――。

 

 瞬間、突風が吹き荒れ、途轍もない勢いで、何かが飛んで来た。視界の端に金色がチラついたかと思えば、既にそれはリヴェリアを遥かに抜き去り、背後の壁へと激突している。

 

「アイズ……‼?」

 

 都市最強の魔導師が血相を変えて振り返ったのと、強かに背中を打ち付けた【剣姫(けんき)】が、ズルリと地面に腰を落とすのは殆ど同時だった。岩に背を預けながら、アイズは一向に動き始めない。戦闘中、常に彼女の身を守っていたエアリエルの風も、今は霧散し見る影もない。

 

 気絶している。

 それが、遠目にも分かった。険しく隆起していた眉はハの字に垂れ、迷いと怨嗟に駆られていた瞳は凪のように閉じられている。固く食いしばられていた口は柔らかく艶めいており、あれだけ強く剣を握りしめていた右手は、だらんと半開きになっていた。そして、放り出された肢体には力が入る気配が一切ない。

 

 まさしく、猛獣の巣に放り込まれた餌だ。

 今の【剣姫(けんき)】は強靭な第一級冒険者などではなく、ただ蹂躙され貪られるだけの無力な生娘。意識が無ければ、か弱い少女と何も変わらない。

 

「くそ!」

 

 リヴェリアは駆け出した。

 魔法での迎撃は間に合わないと判断したからだ。既に、漆黒のパイルがアイズに迫っている。砲撃で相殺などすれば、確実にあの眠り姫を巻き込んでしまう事になる。故に、直接の回収だ。意識のない【剣姫】を救い出すにはそれしかない。

 

 けれど、かなりギリギリだった。リヴェリアは後衛の魔道士だ。Lv.6故に大抵の冒険者よりは俊足を誇るが、それでも特別秀でている訳ではない。この場に居たのが、フィンやベート辺りだったら、問題なく助け出せていたのだろうが………。

 

「……ッ! 起きろ、アイズ!」

 

ほんの僅か……ハナ差で間に合わないと悟ったハイ・エルフは、その種族らしからぬ大声を鳴らして眠り姫に呼びかけた。瞬間、その声が呼水になったのか、アイズ身体が痙攣する。「うっ」という呻き声と共に眉根や目元に力が入り―――。

 

 そして、弾かれた様に金目を見開いた【剣姫】は、状況を理解したのか顔を歪めて魔法の詠唱式を口にした。

 

「……ッ。目覚めよ(テンペスト)……!」

 

 次の瞬間、リヴェリアは信じられない物を目にする。腰まで伸ばした翡翠色の絹髪を、前髪を、これでもか錯乱させながら―――悄然と瞠目した。

 

「な、なんだ、コレは……⁉」

 

 ボウッ! と音を立ててアイズの身体からエアリエルの風が放出される。そこまでは良い。普段通りだ。この過程を経て、精霊の息吹はアイズの身体を包み込んでいく。おかしな所など何もない……。

 

 ただ一つ―――、解き放たれた風の出力が『異常』だった事を除いては。

 

 エアリエルは付与(エンチャント)魔法だ。本来、纏って白兵戦を演じる為のものであり、間違っても風の塊を相手にぶつける魔法ではない。というより、そんな用途は想定していないので、出来ない。

 けれど、今生み出した風は違っていた。アイズを中心に全方位に隙間なく広がったソレは、巨大な階層主の体躯を物理的に押し返してしまったのだ。風そのものが、既にそれだけの威力を持っている。放出方向に指向性を持たせ、砲撃魔法のように撃ち放てば、それだけでも雑に通用してしまいそうだ。

 

 そして、纏う段階に移行して尚、フィールド魔法のような顕現範囲を維持し続けている。最早、纏っているのではなく、荒れ狂う嵐の中に、ポツンとアイズ(少女)が立っている。そんな感じだ。

 

「アイズ⁉ 一体どうなっている⁉ 本当にソレは『エアリエル』なのか⁉ どうしてこんなにも巨大に―――」

 

 際限なく叩きつけられる風から顔を守りながら、リヴェリアはアイズに向かって叫びあげる。聞こえているかどうかは分からない。この事態はアイズ本人も想定外らしく、呆けた様子で左の掌を見詰めているから。

 しかし、やがて瑞々しい唇が動いた。

 

「………わからない。でも、温かい」

 

「………なに?」

 

 

「これは、シロの風……?」

 

 

: :

 

 

 なんなんですか、コレは。

 話が違う……!

 猶予をくれるのではなかったのですか……⁉

 いったいぜんたい、なんでこんな事に……。

 

 突然の出来事に、リリルカ・アーデは狂乱していた。恐怖と絶望を感じ、憤る。常に冷静さを保っていなければならないダンジョンで、経験豊富なサポーターは無様なほど動転していた。

 

 けれど、きっと、そんなリリルカを、腑抜けと嗤う者は一人としていないだろう。彼女のレベル。階層の深度。そして、パーティーの厚みを鑑みれば、この状況に絶望しないなんてあり得ない。それはつまり、目の前の怪物の危険度を、正しく認識できている事の査証だ。愚者か狂人でなければ、必ずリリと同じ感情を抱くだろう。

 

 リリルカ・アーデと。

 そして、ベル・クラネルの前に現れたのは、人型の屈強な体躯に闘牛の頭を融合させた格上のモンスター、『ミノタウロス』だった。本来なら、もっと下の階層に出現する怪物種であり、ギルドの定めた推定階位はLv.2。Lv.1が2人しかいないこのパーティーでは、奇跡が起きても勝てない相手だ。マシロ・ヴァレンシュタインが消えた現状、リリルカとベルにとっては『災厄』にも等しい存在である。

 

 そんな相手と鉢合わせた不運を、リリルカ・アーデは偶然だとは思わなかった。彼女の頭に浮かんでいるのは、数日前に接触した薄気味悪いフードの冒険者の姿である。顔はわからない。けれど、顔面に張り付いた卑しい笑みだけはありありと想像できてしまい、胸中で罵詈雑言を浴びせまくる。奴が、約束を反故にしたとしか思えなかったからだ。

 

 約束とは、計画実行の保留の事である。

 男の手を取って良いものか即決できなかったリリルカは、返答を先送りにしていたのである。

 そして、その計画とは、モンスターを使ったマシロ・ヴァレンシュタインとベル・クラネルの襲撃だ。屈強な怪物種にマシロ・ヴァレンシュタインをいたぶらせるのがフード男の目的で、その混乱に乗じてベル・クラネルからナイフを奪うというのが、リリルカ・アーデの目的だった筈であらる。

 

 しかし、マシロ・ヴァレンシュタインは何者かの奇襲を受け、遥か彼方へと吹き飛ばされてしまった。対【リトル・アイズ】用に連れてきたと思しきミノタウロスは今、ひ弱なリリルカ達に向いている。

 

 本当にふざけた男だ。

 これでは、ナイフを掠め取る余裕など無いではないか。それどころか、生命の保障も怪しい。いや、絶望的。何が『ベル・クラネルがギリギリ対処できる程度の相手』だ……。【リトル・アイズ】が直々に手を下さなければならないレベルの相手を用意する必要が何処にある? こんなの、巻き込まれただけで10回は死ねる。

 

 きっと、ヴァレンシュタインを襲撃したのは奴自身だ。異常なまでにあの生意気な銀髪を嫌っていた様だし、口では自身の手は下せない等と言いつつも、歯止めがきかなかったのだろう。いたぶるのなら、やはり自分の手で。モンスターなんかに任せておけない。と、心変わりしたに違いない。その身勝手の所為で、リリルカの『死』がほぼ確定してしまった。

 

 ベル・クラネルは確かに強い。だがそれはあくまで、Lv.1という規格の中での話だ。既に同ランク帯の中では最上位。その上で、異常な成長を見せ、唯一無二の無詠唱魔法さえ習得している。……けれど、それらを加味しても、やはりまだ足りない。階位が1つ違うとはそういう事だ。

 

 ―――せめて、ミノタウロスがベル様を喰っている隙に、遠くへ……。

 

「……ッ」

 

 無意識にそこまで思考を回して、リリルカはハッとした。ミノタウロスに食い殺されるベル・クラネルを想像していた筈が、いつの間にか、贄となるを自分自身に置き換えてしまっていたのだ。そして、その傍らで、脱兎の如き遁走を繰り出す白髪の冒険者の姿も。

 リリルカは自身のヌルさに下唇を噛んだ。

 

―――そうです……。なにを暢気に構えているんですか、リリは⁉

 

―――片方を見捨てて逃げる。そんな事、リリ以外だって考えるに決まっているじゃないですか……!

 

―――それが、この場を切り抜ける最善手なんですから!

 

―――幾ら、お人好しのベル様でも……。

 

 酷薄な色を帯びた深紅の瞳が見下してくる。そんな姿を幻視しながら、サポーターは恐る恐る冒険者を見上げた。

 

「リリ……僕がアイツを引き付ける……。だから、隙を見て逃げて」

 

「え? ベル様……⁉」

 

 耳を疑った。発言内容が衝撃的過ぎて。

 でも、それは確かに、ベル・クラネルの声だった。

 そう言って油断させておいて、首根っこを掴み牛の怪物へと放り投げる算段か……。と、そなリリルカが疑心を巡らしていふと、なんの前触れもなく、兎が特攻を開始する。

 

「う、うわぁぁぁああああぁァァぁあアァア‼」

 

 悲鳴にしか聞こえない情けない雄叫びが、流星のように、一直線に伸びていく。あっという間にミノタウロスへと接敵した新米冒険者は、敵による大剣の振り下ろしを不恰好に躱しつつ、引き付ける様に巨体から離れる。それは、リリルカが呆けているのとは正反対の方向で……。

 

「な、なんで……?」

 

 リリルカには、ベル・クラネルという人間が理解できなかった。善人である事は知っていた。清い心を持っている事も。まだ、穢れを知らない事も。けれど、それは彼自身が良い人であろうと努めている結果だと思っていた。ダンジョンは魔窟だ。窮地に立たされれば、彼自身も気付いていないかった醜悪な本能が顕わになる筈だと、高を括っていた。

 

 なのに、ベルはまるでリリから危険を遠ざけるかのような行動に出ている。一撃でも喰らえばアウトだ。仮にリリルカを逃がした後離脱すれば良いと考えているのだとしても、そう簡単に振り切らせてくれる相手ではないことぐらい、彼にも分かっている筈なのに。

 

 ベル・クラネルは、英雄ではないのだ。まだ。

 駆け出しの弱い弱い、ちっぽけな有象無象。第一級冒険者どころか、【リトル・アイズ】の領域にすら達していない。そんな存在が、こんな英雄紛いの敢行をした所で―――。

 

「ぁあ―――ッ⁉」

 

「べ、ベル様⁉」

 

 ミノタウロスの腕に払われ、ベルは地面に吹き飛ばされた。思わず身を乗り出すと、彼の紅い瞳と目が合う。恐怖に、痛みに、支配された双眸だ。弱々しく揺れる赤目が、どうしようもなく懇願している。助けてくれ、と。そんなところにいないで、加勢に入ってくれ。そして、自分を逃がしてくれ、と。

 兎の口端が震えた。瞳の訴えを肉声に変えるつもりなのだと、リリルカは直感した。

 

「早く…逃げて」

 

 

「――――」

 

 

 まただ。

 また、違った。読み間違えた。

 

 それは、本来なら耳を疑うべき台詞だ。この極限の状態で出る言葉ではないと、聞き取り間違えと断ずるべき場面だ。自身の命の窮地に、我が身ではなく他人の心配など出来る筈がないのだから。けれど―――。

 

 この兎だったらそんな事も出来ると、リリルカは心の片隅で納得してしまった。

 

―――本当に、この人は何処まで

 

 茶髪の小人族(パルゥム)は瞠目せずにはいられない。ベル・クラネルという人間の選択に、性根に、生き方の清廉さに、未だ慣れる事が出来なかった。

 偽善者であれば、今、ここでボロが出ていた筈だ。後悔と逆上の感情を、ひ弱なサポーターに叩き込んで来た筈だ。いや、そもそも、身を挺して庇うという行動自体に移れない。

 

 これではまるで、物語の英雄ではないか……。

 否、かの英傑たちには『力』がある。

 ベルとは違い、万軍の敵勢力を振り張られる程の『武』を有しているのだ。

 

 ならば、それがないこの白兎の行動には―――かの英雄たちをも凌ぐ『真勇』が秘されているという事になる。

 

 もし。

 もしだ。

 もしも、この少年の様に、勇気の一端でも振り絞ることが出来たのなら……。一族の勇者の様に、勇猛果敢な雄叫びを上げる事ができたなら。

 

 そうしたら、リリルカ・アーデという少女の日常も、少しは―――。

 

「リリ……! 早く!」

 

「ベル様……で、も……」

 

 胸の奥に生まれた小さな熱を、しかし彼女は燃焼させることが出来なかった。

 何も変わらず、ただ、少年の切迫した声に狼狽える事しか出来ない。臆病だから。リリは力のない弱虫な小人族(パルゥム)だから。

 

「早くしろよ!」

 

「………ッ」

 

 ベルらしからぬ強い口調の命令に、リリは頭を被り振って走り出した。モンスターの咆哮が、破壊音が、それを必死に避ける少年の苦悶が、ぐんぐんと遠ざかって行く。最早自分の足音の方が鮮明に耳を付く。小人族(パルゥム)の小さな心臓の鼓動如きに、戦闘の大音響が掻き消される。胸の中がぐちゃぐちゃだ。腹が重い。まるで、鉛でもぶち込まれているよう……。けれど、手足は激しく、無様に、軽やかに回った。

 

 遁走の途中で振り返る。

 ほんの一瞬、白い兎と目が合った。心底ほっとした様な、穏やかな深紅(ルベライト)と目が合う。綻んだ口元は、確かにその言葉を紡ぎ結ぶ。

 

 

―――ありがとう、リリ。

 

 

「………ッッ⁉」

 

 眩しい。

 どこまでも、この白いヒューマンは太陽の様である。

 自分とはまるで違う。

 惨めだ。

 こんなの―――。

 

 こんなの………ッ!

 

「う、うわぁぁああああぁぁあああ‼‼」

 

 悔しい……ッ。

 情けない……!

 こんなにも胸が熱いのに! 慟哭を叫びあげているのに!

 勇気を迸らせ、少年を救わんと災禍に飛び込む事ができない自分が……‼

 この場から遠ざかる事を止められない自分が……ッ‼

 

「あっ!」

 

 癇癪を起すかの様に、感情の濁流に呑み込まれていたリリルカは、自身の肉体が制御できる速力の限界を見誤った。何てことない小石に足元を取られ、勢いを殺せずに半ば宙を舞う。そして、自ら嬉々として地面に飛びこむような形で、その顔面と両膝を擦り剥いた。

 

「うぅ……」

 

 痛い。

 容赦なき鈍痛が頬と顎を襲う。迷宮の湿った空気が鋭い刃と化して、傷口に触れる。

 血の味さえする口内。

 鉄の味を感じる舌を、リリルカは無意識に動かした。

 

 

「【リトル・アイズ】……様」

 

 

 ポツリと呟かれたのは、いけ好かない生意気な冒険者(クソガキ)の二つ名。オラリオ中にその勇名を轟かせる【剣姫(けんき)】アイズ・ヴァレンシュタインの弟。

 

「どこ、ですか……? 【リトル・アイズ】様……。どこに、居るんですか⁉」

 

 拳を冷たい地面に叩きつけ、リリルカ・アーデは叫喚する。

 

「アナタしかいません……! この絶望を覆せるのは……ッ。ベル様を救い出せるのは、アナタしかいないんです……!」

 

 ググっと、つま先に、足裏に、ふくらはぎに、膝に、太ももに、腰に。下肢の全ての部位に力を入れる。骨から鳴る奇妙な音が気持ちを揺らすが、聞こえないフリを決め込んだ。ふらつきながらも立ち上がった小人族(パルゥム)の瞳は、まだ不安に魅入られている。けれど、迷いは消えていた。

 

 恐怖はある。けれど、彼女は今自分がすべき事を―――否、自分がしたい事(・・・・)を自覚した。

 

「返事を……して下さい!」 

 

 それは、一見すると馬鹿げた願いだ。

 せっかくこうして怪物の魔の手を逃れたのだから、さっさと地上に戻るべきである。

 彼我の差を考えれば、じきにベルは殺される。そうなれば、あの化物は自分を追いかけて来るだろう。こんな危険な魔窟に留まっていい理由は一つもない。

 

―――でも……!

 

 灼熱の激情が、衝動が、リリルカを突き動かしていた。

 

 

「返事をしなさい……ッ、返事をしろ! マシロ・ヴァレンシュタイン‼」

 

 ダンジョンの際限なく仄暗い不気味な虚空に咆哮を放ち、歯を食いしばって、リリルカ・アーデは地下世界の大地を駆け出した。憎らしい銀髪の子供を見つけ出し、ベルの元へと導く為に―――。

 

 

: :

 

 

 カラン……と、銀の長槍が地面を叩く。アレン・フローメルの細い足元に転がった彼自身の得物は、静寂を取り戻した迷宮に静かに溶ける。

 

「……よかったのか? 手放して……」

 

「チッ。これを狙ってたくせに白々しい事抜かすんじゃねぇ。俺の武器は、テメェ如きにくれてやるほど安くねぇんだよ」

 

「……そう、かよ」

 

「……喜べ、糞餓鬼。テメェの望み通り、丸腰で相手をしてやる。だから―――」

 

 【女神に戦車(ヴァナ・フレイア)】の眼光が鋭くなった。最早、仮面を付けている意味がない程に、漆黒の眼差しが目に浮かぶ。

 

「さっさと風を纏い直しやがれ」

 

「………」

 

 マシロ・ヴァレンシュタインは銀の双眸を細め、ガタガタの肉体を律し、襤褸の剣を構え直した。そして、気持ちを静め、残り僅かな精神力(マインド)をかき集める。先程の攻防で無茶な用途を強いた反動で、『エアリエル』の効力が途切れた。だから、アレンの指摘通り、再び発動させ纏い直す必要がある。

 

 真実、次が最後の激突だ。ここで勝負が決まらなければ、マシロ・ヴァレンシュタインは敗北する。アレンの横を突破できず、ベル達の元へは到達できない。正直、精神疲弊(マインド・ダウン)しない保証は無かった。そもそも、発動できるかどうかも賭けである。それほどまでに、精神力(マインド)はギリギリだ。けれど、素の状態では勝ち目がない。無謀だろが何だろうが、発動できることに賭けるしかないのだ。

 

目覚めよ(テンペスト)―――」

 

 静かに、淀みなく、その詠唱式を口にした。

 すると次の瞬間、予想だにしない現象が起こる。

 

 ボォウッッ! と、途轍もない勢いの風が自身を中心に円環のように広がったのだ。それは最早、嵐と見紛う程の規模と風速で、隣接する地面や壁を軽々抉って行く。

 

「な……んだ、これは……」

 

 思いもよらない凶風の発生に、面を喰らったのはマシロ自身だった。無理もない。これは明らかに、万全状態の最大解放時よりも出力が上がっている。それも、10%や20%の上昇率ではない。体感の話ではあるが、優に倍近い力が出ている様に感じられた。だが、なぜこんな事になっているのかは、皆目見当もつかない。

 

「なんだこりゃあ……別物じゃねぇかッ。テメェ、いったい何をしやがった⁉」

 

 この急展開に息を呑んだのはマシロだけではなかった。対峙する、アレン・フローメルの叫喚が暴風の合間を縫って辛うじて鼓膜に届く。緑色の風が視界を埋め尽くしている所為で様子は伺い知れないが、流石の第一級冒険者もこの事態には瞠目している様だ。

 

 やがて大量の風がマシロの身体に纏わりついてゆく。視界を遮る乱風でしかなかった精霊の息吹が、次第に静寂の色を覗かせて始める。掌握できる気配など微塵もなかったじゃじゃ馬は、まるで品行方正な淑女であるかの様に、あっさりと、【リトル・アイズ】の支配下に収まった。

 

 瞬間、マシロは本能的に理解した。

 身に余るこの神風を、リスクなしに扱える(・・・・・・・・・)という、余りに都合が良すぎる事実を―――。

 

 驀進―――。

 マシロはアレンが冷静さを取り戻す前に、予備動作もなく猛進した。出発地点から轟然と鳴り響いた爆発音は、ダンジョンの悲鳴の様にも聞こえる。自身の想定を5段階ほど超える速力で空気の壁を幾層もぶち破り、あっという間に【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】の端正な顔と肉薄した。

 

「な……ッ⁉」

 

 罵り声専用の発射口から、驚愕の肉声が漏れ出る。

 それが演技ではない事が、コンマ数秒遅れで動く身体から伺い知れた。これは、正しく奇跡だ。Lv.3でしかないマシロが、本当の意味でLv.6の虚を突くことに成功したのだから。光の矢と成り迫る【リトル・アイズ】に、アレンは迎撃か回避かの狭間で揺れ動く。そして……『回避』を選択した。一秒にも満たない逡巡の果てに。

 

 最大最強最悪の障壁が飛び退き、クリアになる視界。広がるのは、怪物の腹の中の様に暗くうねり曲がる迷宮路だ。マシロはその中へ、速力を緩めずに飛びこむ。【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】を一切振り返らず、ただ、前へ前へと歩を進める。

 

 分かっていたからだ。全能感溢れる今の状態を以てしても、奴がその気になれば簡単に追いつかれてしまう事が。だから、一分一秒でも早く遠くへ。アレンに捕捉される前に、何としてでもベルの所へ……。

 

 そんな思いを胸に、マシロは複雑怪奇なダンジョンをひた走った。

 

 

::

 

 

 マシロの予想は正しかった。

 

 迷宮の一角にて、彼が遥か彼方に置き去りにした第一級冒険者、アレン・フローメル。強力無比なその猫人(キャットピープル)は、第二級冒険者如きに後れを取るという『ありない展開』に打ち震えていた。

 

 そう、ありえないのだ。こんな事、天地がひっくり返ってもありえない(・・・・・)

 手足が震える。怒りの衝動が細身の肉体を満たしていく。

 

 此度の事態が起こった原因を、【リトル・アイズ】の道理に合わない覚醒の所為だと片づけるつもりは無かった。確かにマシロ・ヴァレンシュタインが覚醒していたのは認める。けれど、それを込みで、本来なら出し抜かれる筈などないのだ。3レベルの差とは、そういうもの。だというのに突破されてしまったのは、アレン・フローメルがマシロ・ヴァレンシュタインを舐め切っていたからに他ならない。

 

 どうせコイツは【剣姫()】の様にはなれない。あんなふうに冒険できる人種の人間ではないと、そう初めから決めつけて侮蔑していた。都市最速の猫人(キャットピープル)は、故に、今こうして無様な姿を晒している。

 

 認める訳にはいかなかった。

 相手が自身の力量を上回った訳ではない。

 これは、完璧に、自分(アレン)の油断が招いた失態。

 

 自分の侮りが原因で、自分の意志で(・・・・・・)、女神の神意に背くような形になってしまった。その事実を、【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】は認めてやる訳にはいかなかった。

 

「………ッッッ‼」

 

 だから、アレン・フローメルは怒りを剥き出しにして地面を蹴る。銀の冒険者を追いかけ、その行く手を阻む為に。黒い猫人()が行動を起こしたこの瞬間、マシロ・ヴァレンシュタインは命運尽きた―――筈だった。

 

「待て、アレン」

 

「……⁉」

 

 武人然とした太く静かな制止と共に、アレンの華奢な肩に丸太の様な手が掛けられた。猫人(キャットピープル)は、誰が自分を引き留めたのか見当がついているようで、一瞥をくれるより先に、憎々し気な声色を吐き出す。

 

「オッタル……!」

 

 【猛者(おうじゃ)】オッタル。【フレイヤ・ファミリア】の団長にして、迷宮都市唯一のLv.7。比喩でも持ち上げでも何でもなく、オラリオの頂天であり、最強の冒険者だ。

 凶猫からの射殺さんばかりの視線を受け止め、涼しい顔で最強は告げる。

 

「追う必要はない。兎は、既に産声を上げた。女神の神意通りにな」

 

「だったら尚更だろうが。奴が兎の戦いに割って、台無しにしない保証が何処にある?」

 

「……有り得ん」

 

「何……?」

 

 【女神の戦車(ヴァナ・フレイア)】から視線を外し、【猛者(おうじゃ)】は確信めいた声音で呟いた。

 

「他者の冒険を邪魔をするような無粋な真似を、冒険者がするなど有り得ぬ事だ」

 

「………チッ」

 

 オッタルの一見『だからなんだ』という返答に、しかしアレンは悔しそうに舌打ちを零す。それは、彼自身が認めてしまっている事を意味していた。どんな思惑があったにしろ、白兎の為にボロボロになりながら自身という大きな壁をぶち抜いた【リトル・アイズ】は、疑いようもなく『冒険者』なのだと……。

 アレンはマシロ追跡を断念しつつ、団長を睨む。

 

「まあいい。それより、猪野郎。テメェ【剣姫(けんき)】の足止めはどうした?」

 

「……【剣姫(けんき)】は居ない」

 

「は?」

 

「何処にいるかは知らんが、少なくとも今日、兎たちを尾行してはいない様だ」

 

「……数日前からずっとだな。結局、奴らを見守ってたのは単なる気まぐれだったって訳か」

 

 どこまでも哀れな野郎だ……。と、アレン・フローメルは【リトル・アイズ】の必死な顔を想起する。

 

「どうした? アレン」

 

「なんでもねぇよ」

 

 オッタルの質問にそう吐き捨てると、アレンは銀槍を拾い上げ薄闇の洞窟を進んでいくのだった。

 

 

 





お読み頂きありがとうございました!
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