よろしくお願いします。
『エアリエル』。
それは、あの【
使用者は、アイズ・ヴァレンシュタインとマシロ・ヴァレンシュタイン。
本来、同一の魔法を複数の人間が有する事など
魔法の発現は、個々人の資質や歩んで来た軌跡、内に秘めた想い等が大きく影響するからだ。
故に、これは『バグ』と言って差し支えないのだろう。ヴァレンシュタイン姉弟は、正しく、下界の常識を覆したのだ。
そして、その『バグ』が、本人達でさえ知らなかった『
その厳しい発動条件かつ完全制御不能の様相からも分かる通り、共鳴した際に得られる力は莫大だ。ざっと見積もっても1階位強……2レベル分にはギリギリ届かない程度の、余りに馬鹿げたステイタス補正を得る。つまり、そもそもLv.3中堅クラスの力を持つマシロは、凡そLv.5の真ん中あたりの力を手に入れる計算になるのだ。中でも、元から突出してた『俊敏』に関しては、Lv.5最上層に食い込むだろう。
その上で【リトル・アイズ】は、風の力の殆どを『足』に振り分けたのだ。無論、そんな事をすれば他の補正値は下がる。『攻撃』と『防御』はモロに影響を受け、Lv.5未満となった火力と耐久ではLv.6の牙城を崩すのも、猛撃に耐えるのも難しいだろう。けれど、それでも彼は『速力』を強化した。
マシロ・ヴァレンシュタインの目的は、アレン・フローメルの打倒ではなく、ベル・クラネルの救出だ。Lv.1の冒険者である彼は、今、Lv.2……若しくはLv.3かも知れない『ミノ
しかし、それが最も困難な選択肢だった。
【
――――しかし。
『
もちろん、その目測が正しかったとしても、まだ届かない。穴はかなり埋めたが、数値の上では負けている。けれど、流石にここまで詰めれば、
何故なら、アレン本人は何処まで肉薄されているのか知らないからだ。当然、これまで以上のステイタス上昇は想定しているだろうが、それでも―――『Lv.6クラスの速力を手に入れている』とは考えない。長く冒険者をやっていればいる程、そんな馬鹿げた可能性は無意識に排除してしまう。単純に、あり得ないから。
マシロが着目したのは、その認識の乖離である。
せいぜいLv.4の最上。あってもLv.5の下―――。それが、【
そして、その予測は正しかった―――。
マシロは現在、嵐の化身となって迷宮路を爆走している。
既に
「く……ッ」
故に、曲がり角などは、こんな具合に通路壁に激突しながら、無理やり切り返すしかないのだ。僅かに残した風の防壁のお陰で衝撃の緩和はできているが、それでもゼロになる訳ではない。2回、3回、4回と繰り返していく内に、加算されるダメージは無視できないモノになっていく。元々アレン・フローメルにボロカスにされ、限界を迎えていた肉体だ。これ以上の負荷は、些細なものでもマズイ。
だから、マシロは逸る気持ちを抑えて、足の回転数を落とした。風の方は細かい調節が利きそうになかったからだ。
けれど―――そんな彼の判断に失望したかの様に……精霊の風は、あっさりマシロ・ヴァレンシュタインにそっぽを向いた。なんの前触れなく唐突に、烈風が消滅したのである。
「な……っ⁉」
身体中を包み込んでいた全能感が消えて行く。
全ての力の残滓が肉体から抜け落ちる感覚と共に、マシロは地面に膝をついた。その膝さえ、容易く崩れて四つん這いになりながら両手を付く。けれど、既にアレンによって貫かれた右手首と、砕かれた左手首だ。元から骨なんか無かったみたいに脆くもひしゃげた。
抵抗虚しく、マシロはその場でうつ伏せになってしまう。地面の硬さや冷たさが、肌に伝わる事はなかった。既に、肉体の感覚はぼやけていた。重いとも痛いとも思わないのに、身体は1ミリだって動かない。
「クソ……なん…で」
辛うじて回る口で、悪態と、ありったけの血を吐く。
けれど、マシロは吐血を続けながら、同時に理解もしていた。神々の言葉を借りるのであれば『無敵タイム』が終わったのだ。至極当然の話だが、約2レベル分にも及ぶ超絶強化が、そう都合よく長続きする訳がない。そして、解除されれば、残されるのは強化前の肉体だ。マシロで言えば、【
『
けれど、超強化の末に本来の肉体の限界を超えて発揮される至上のパフォーマンス……。その無茶に対する取り立てが無い訳ではなかったのだ。血も涙もない
もちろん、【
「くそ……、こんだけやって……柄にもないこと…して、これ、かよ……」
あまりの情けなさに、マシロは涙が出そうになった。
結局自分は何も成せないのだと理解してしまった。ベルを助ける事も。アイズに謝ることも。
動け動け動け―――と、必死に胸に衝動を滾らせているけれど、反比例するように身体の芯は冷めていく。その心の熱さえ、氷のような静寂に囲まれて勢いが死んでいく。あれだけ生きて
溶けていく。
闇に。
消えてゆく。
願いが。
ダンジョンという巣窟に呑み込まれ、たったひとり、誰にも知られる事なく死んでいく。幾万人の同業者が、そうして命を散らしていったのと同じ様に。
でも。
そんな不名誉が、孤独な結末が………。意地を張り、己の本心と向き合おうとしなかった
―――ああ……そうか
―――おれには……あやまりたいと思う資格すら…なかったのか……
今にも消えそうな意識の中で、マシロはようやく自分の
「……様!」
真っ白い感覚の中に、微かに、波紋が生じた―――。
「ど……で…か!? 【リトル・アイズ】様!」
誰かが、自分の事を呼んでいる。
その認識だけが、辛うじてマシロの意識を繋ぎ止めた。
「どこにいるんですか……⁉」
誰の声かは分からない。
ただ、必死なのは伝わって来る。無我夢中で声を鳴らして、自分の事を探している。
そんな事をすれば、近くのモンスターを呼び寄せてしまうかも知れないのに。
そんな危険を冒してまで、どうしてそんなに頑張っているのだろうか……。
「助けて下さい! このままじゃ……ベル様が……!」
ベル………?
その人名を、マシロは朧げに反芻した。
ベル……白い……兎。
目は、きっと紅い。
声の主は、白兎を知っている。
白兎の為に必死になっている。
白兎の為に、自分の事を探している………?
だったら、その兎は、きっと牛の化物に食べられそうになっているんだろう。
まるで……………ベル、みたいだ。
ミノタウロスに襲われている、ベル・クラネル……。
ベル・クラネル………?
「………⁉」
瞬間、弾かれた様に、マシロの意識が浮上した。
鉛のように重かった瞼は幾分マシな重量になり、ほとんど輪郭を捉えられなかった瞳は、ギリギリ物を識別できる世界を映し出す。ゼェハァゼェハァと、半ば供給の途絶えていた酸素を、急ピッチで肺に送り込んでいく。お陰で、体中の細胞がどうにか目覚め始めた様だった。肉体は依然として動かないが、その原因は重すぎるから。つまり、感覚自体は戻っている。
「この……声…。リリルカ・アーデ、か………?」
あの
だって、リリルカ・アーデは、ベルのナイフを狙う敵である筈だから。奴は、金目の物を狙って、ベル・クラネルに近づいた筈だから。
「お願いです……! なんでもしますから……あの人を助けて下さい!」
けれど、幾ら否定しても、事実としてリリルカの声は兎の救助を求めていた。
そこに、打算や欺瞞は感じられない。本心から、ベルを助けたくて喉を枯らしている。
マシロには、とても受け入れがたい現実だった。
なんだそれは。
ふざけるな。
お前は、そんな奴じゃないだろう?
新米の冒険者をカモにし、陥れ、食い物にする。
そんな下賤な存在じゃなかったのか。
「【リトル・アイズ】様ぁぁぁあああ!!」
「………ッ」
ガリッと、マシロは右手の爪で地面を掻いた。
頭に浮かぶのは、恥ずかしそうにはにかむ白兎の顔だ。
ふざけるな、結局
利用する為に……その前提で近づいてきた癖……そんなお前すらも……。
ざまあない。マシロは心の中で自嘲する。
俺も、お前も、どいつもこいつも、結局アイツの善性には敵わないって事だ。
皆、アイツの事が好きになる。嫌いになんてなれない。
それくらい、ベルは心が綺麗なんだ。
………アイズだって、きっと、そんなベルの事が好きになる。そもそも、今、彼らの関係が希薄なのは、マシロが無理やり介入して引き離しているからだ。本来、接点など持てる筈のない『第一級冒険者』と『新米冒険者』が隠れて特訓をしていた。その事実一つを取っても、アイズとベルが強く引き寄せられている事は疑うべくもない。きっと、
そして、2人で幸せな未来を歩いて行くのだ。どこまでも、どこまでも、どこまでも。
俺はもう、ここから出られないというのに……。
―――それは、くやしいなぁ……。
マシロは、声にならない呟きを漏らした。
アイズは英雄を求めている。
決して自分の前から居なくならない、ずっと自分の横に並び立ってくれる、自分だけの英雄を―――。もしかしたら、ベルがそうなのかも知れない。そう成りえる何かを感じ取ったからこそ、稽古をつけていたのかも知れない。
ならば、真実、ベル・クラネルはアイズ・ヴァレンシュタインの運
実際、そうなるだけの可能性は秘めている。
奴の才能は……成長速度は、それくらい『規格外』だ。
本当は、喜ぶべきなのだろう。真に姉の幸せを願っているというのなら、将来性抜群の王子様の出現を、もろ手を挙げて祝うべきなのだ。
でも……。
それでも、悔しいモノは悔しい。
自分はもう、ここで死ぬというのに。
『じゃあ、みすてようよ』
そう、耳元で幼いマシロが呟く。
リリルカ・アーデの声を無視して、立ち上がらず、ここで惨めに朽ち果てればいい。そうすれば、十中八九ベルも死ぬ。運よく上級冒険者に救われる可能性もあるが、それは希望的観測というものだろう。
そうだ。それでいい。いいじゃないか。
マシロ・
とにかく、死ぬのだ。
それは、ベルを助けようが助けまいが変わらない。
どっちにしても、マシロがアイズと言葉を交わせる機会は訪れない。
『じゃあ、みすてても、いっしょだね』
「……だまれ」
幼い自分の舌足らずな囁き。甘言。
それを、マシロは拳を握りしめて圧し潰した。
確かにそうだ。一理ある。
でも、それじゃあ、駄目なんだ。意味がない。
気が変わってしまった。このまま犬死にする訳にはいかない。
『どうして?』
大きなまんじゅう頭が傾いた。
素で分かっていない様子の、キョトンとした大きな瞳が腹立たしい。マシロは、矜持も何も備わっていない『守られるのが当たり前』の甘ったれた馬鹿餓鬼を睨みつける。
だって、悔しいじゃないか。このまま死んだら。俺は、何も残せない。
『のこす? なにを?』
……アイズに
いや、違う。そんな殊勝な理由じゃない。また格好をつけた。
マシロは改めて内心と向き合って、そして嘘偽りない本心を語った。
残したいのではない。
誰かのではなく、アイズの記憶に―――。
忘れられるのは嫌だ。
『私の弟は誰かを助けて死ねるくらい立派な子だった』って、姉さん褒めて貰いたい。
『私の弟がマシロ・ヴァレンシュタインで良かった』って、そう思って貰いたい。
『ベルを残してくれてありがとう』って………。
せめて……最後の最後まで足掻いて、そんな死に方が出来たなら―――この犬死にも少しくらい意味が生まれる気がするから。
『うわ、きもちわる』
過去の自分に最大限の嘲笑を浴びせられる。
マシロ自身、これが酷く自己中心的な願いである事は分かっている。
言われるまでも無く、気持ちが悪いのは重々承知だ。
ベルだって、こんな奸計塗れで助けられたくはないだろう。
けれど、それでもマシロは止まらなかった。
グッと、手足に力を入れる。痛い。軋む。
少しでも動かそうものなら、全力で骨と筋肉が反発してくる。でも、無理やり叩き起こした。全身に雷が落とされたような激痛と衝撃が走るが、まあ、良いだろうと思う。どうせ、死ぬのだから、どれだけ痛くても怖くない。これ以上壊れても、困らない。ベルを、ミノタウロスから逃がし切るまでの間だけ、持たせれば良いのだから。
マシロは、ズルズルズルズルと足を引きずり、壁に血の尾を引きつつ、声のする方へと歩いて行った。
「うるせぇぞ……リリルカ・アーデ……。キズに響くから、すこし……だまれ」
依然としてこの周辺で絶叫を上げ続けるサポーターの少女に、聞こえないと知りつつも悪態を漏らしながら、最期に、自分のエゴで命を使い切る為に―――。
: :
「……まさか、本当にひとりで斃してしまうとは」
時を少し戻し、ダンジョン37階層。
マシロがアレン・フローメルの妨害を振り切り、猛進の果てに風の精霊に見放された瞬間より僅かに間を置いた頃、リヴェリアは単独で階層主を討伐してみせたアイズに対し、深い深い嘆息を漏らしていた。
最後、『エアリエル』の謎の超強化があったとは言え、これは間違いなく『偉業』を成したと言えよう。心なしか、此方に向かって歩いて来る娘の顔も晴れやかだ。まあ、階層主の単独撃破でも満足しないのなら、一体どうすればいいのかという話だが。
リヴェリアは改めて金の少女の全身を視る。
無傷ではない。体力の消費も著しいだろう。
けれど、決して満身創痍ではない。寧ろ、達成した偉業に対して傷が少なすぎるくらいだ。それもこれも、全てがあの『エアリアル』の超強化現象のお陰だろう。かつての闇派閥との大抗争に於いて、冥府からの
ギルドの定めたウダイオスの推定レベルは『6』。そして、アイズはLv.5。だが、アイズが暴風を纏ってからは、その力関係がそのまま逆転してしまったと言って良いだろう。否、それまでに蓄積していた【剣姫】へのダメージが無ければ、その差はもっと顕著になっていた筈だ。とにかく、骸の王はアイズの手によって、割と容易く打倒された。戦いを終えた今でさえ『エアリエル』強化の理由には見当も付かないが、無事に帰って来たアイズをリヴェリアは安堵しつつ迎え入れる。
「よくやった、アイズ。少しは気も晴れた様だな」
「うん……」
若干バツが悪そうに頷く愛娘に最高級のポーションを手渡し、口を付けている最中、問いかける。
「今更だが、どうしてこんな無茶をした? 予想はできるが、お前の口から聞いておきたい」
「その……」
青い液体を飲み干したアイズは、湿った唇を小さく動かした。そこから紡がれる弱々しい声に、リヴェリアは黙って耳を傾ける。
「私……この前、シロと話したでしょ?」
「ああ」
やはり、それが原因だったか……と、リヴェリアは密かに頭を抱えた。
ともすれば、マシロとの和解が失敗した・という事になるのだろうが、正直そこが解せない。他派閥の神からの助言があったとは言え、自分の頭で考えに考え抜いた上での彼女の決断は本物だった筈だ。そこに打算や保身はなく、本気で弟との関係修復のみを望んでいた。
その気持ちは、ちゃんとマシロにも伝わっている筈である。彼は頑固で気難しい質だが、決して愚か者ではない。アイズの勇気に応えられるだけの度量は十分に育っている。
しかも、
けれど、この結果を見るに、それらは全て自分達の都合の良い願望だったのだろうか……?
「私、ちゃんと謝ったの。でもね、気にしてないって……。そもそも酷い事なんてされていないって、そう言われた……。だから、謝るなって」
「!」
それは、一見優しいように見えて、実は真逆の対応だ。
ただ謝罪を拒絶されるのとは訳が違う。己の非を悔いている相手に対し、非の存在そのものを否定する等、残酷過ぎて笑いも出ない。懺悔すら許されなかった当時のアイズの心境を想像して、リヴェリアは胸が張り裂けそうになった。
「でもね。私、それでも何度も謝ったの……。なんでシロが怒ってるのかも考えずに、あの子が望んでもいない『
「………」
「そしたらね。シロ、泣いちゃった」
「なに………?」
思いもよらない情報に、乾いた声が出た。
当然、文脈やアイズの様子から察する、その『泣いちゃった』は『嬉し泣き』という訳ではないのだろう。マシロはショックを受けて涙を流した。その認識で間違いない。
しかし、何に対してショックを受けたというのだろうか。そもそも、この件の真相に、悲しむ要素などある筈がない。
だって、アイズがマシロを避ける様になった原因は、リヴェリア達の『思春期の弟に構いすぎると嫌われるぞ』というアドバイスを聞き入れたからだ。つまり、マシロは姉から嫌われていた訳ではなく、寧ろ好かれていたから距離を置かれていたという訳で。脱力こそすれ、憤る理由など何処にもない筈。
「『お前の中の俺は、まだお前にベッタリだった頃の餓鬼のままなのか? だから、ちょっとかまってやれば機嫌が直るのか?―――』」
「……!」
そんな事を考えていると、前触れなくアイズが誰かの台詞を諳んじ始めた。
マシロが発した言葉だと、気づけないリヴェリアではない。
「『ふざけるなよ。そんな訳ないだろ。お前は自分を嫌ってる相手を、いつまでも好きでいられるのかよ』」
「…………」
ジトッと、ハイエルフの肌に汗が滲み始めた。
気付いてはいけない、気付きたくはない。けれど、気付かなければならない真実に、緑の麗人の動悸が早くなる。
「『お前にどんな事をされても、ちっとも悲しくない』」
恐らくは泣きながら……感情を剥き出しにして言い放ったのであろう慟哭を聞いて―――。
「『もう他人みたいなモンなんだよ。俺にとってお前はどうでもいい奴なんだ。なのに、なんで俺が傷つかなきゃならない?』」
「あ………あぁ……」
リヴェリア・リヨス・アールヴは、己の勘違いを根本から悟った。
途端に、欠片ながらも抱いてしまっていたマシロへの苛立ちが、跡形もなく爆散する。そして、明晰な頭脳で彼の思いの全てを察し、海よりも深い後悔に身を投げた。
平気だと思っていた。
アイズが急に距離をとっても、マシロは大丈夫だと。困惑こそすれ、大きなショックは受けていないと。平然と過ごしている彼を見て、そんな判断を下していた。
何が……平気なものか……。
大丈夫な訳が、あるものか……。
そんな訳がないだろう。あれだけベッタリだった姉に急にそっぽを向かれて、心が傷つかない訳がないだろう―――⁉
それは、考えてみれば当然の話だった。
彼にとって、アイズは残された唯一の肉親だ。常に寄り添い、両親喪失の悲しみから掬い上げてくれた張本人。アイズにとってのマシロが、そうである様に世界の中心なのだ。
きっとアイズから冷たくされる事に、マシロは一瞬だって耐えられなかったのだろう。気にしていない風を装ってはいたが、その実、彼の心は常に蝕まれていたに違いない。
だから、自衛の為に己の気持ちを偽った―――。
無意識の内に、『そもそもアイズなんてどうでも良い相手だった』『だから、この現状に堪える点など1つも無い』と、そんなふうに思い込む様にして、己の心を守ったのだ。そうしなければ、どうにかなってしまいそうだから。
気付けない筈である。
リヴェリアはあろかフィンやガレス、果てはあのロキでさえ一杯食わされる訳だ。幾らロキと言えども、マシロ自身が本当だと本気で信じ込んでいる事は疑えない。
神や……自分自身すら欺き切る心の擬態。
そんな事をしなければ壊れてしまう程、アイズの拒絶は彼に絶望を与えたのである。
そして、その原因を作ったのは他の誰でもない、リヴェリア達自身だ―――。
【九魔姫】は、Lv.6の常人離れした握力で、己が拳を握った。柔らかい肌は容易く破れ、ジワっと鮮血が滲み始める。その痛みを脳に送り続けなければ、今にでも叫んで自身の喉を引き裂いてしまいそうだった。
つまりは、そういう事なのだ。
自分達が、余計な事をした。
アイズの為を思ってした『あまり構いすぎると嫌われるぞ』というアドバイスは、余計なお世話でしかなかったのだ。
無論、全くの見当違いだったとは思わない。
それくらい当時のアイズのスキンシップは『異常』だったし、実際、マシロも嫌がり始めてはいた。きっと、放置すればいずれ本当に嫌われてしまっただろう。今でさえ添い寝やら頬ずりやらに抵抗感を覚えていないアイズの姿を見るたびに、その予想は確固たるものになっていく。
そう……問題なのは助言の内容なんかじゃない。
真に不味かったのは、足りなかったのは―――その後のリヴェリア達の対応だ。
どうして、マシロの変化をおかしいと思えなかった?
何故、たったの4日で姉からの拒絶に折り合いをつける事の出来たあの子の心情に疑問を覚えなかった?
なんで、簡単に騙された? なんで、無理をしていないと安堵した?
どう見ても急すぎるアイズへの関心の消失に、どうして警鐘を鳴らせなかった?
お前はいったいあの子の何を見て来たんだ……。
すんなり受け入れられたこと自体が、『異常事態』だと何故気付かない―――⁉
リヴェリアは、アイズやマシロの母親ではない。
けれど、ヴァレンシュタイン姉弟を【ロキ・ファミリア】に迎え入れてからは、曲がりなりにも実の子供の様に接して来た。少なくとも、リヴェリア自身はマシロの事を本当の息子の様に想い、愛していた……つもりだった。
―――ふざけるな……ふざけるなよ、リヴェリア・リヨス・アールヴ……!
―――なにが、息子だ……! 何が母親だ……⁉ 戯言を抜かすな、恥を知れッ!
―――本当にマシロの事を想っているのなら、何故あの子の痛嘆を分かってやれなかった⁉ 何故、あの子の偽りにむざむざと騙された⁉
―――ロキすら欺いたマシロの偽心を賞賛すべき……⁉ ああ、そうだ! 全く以てその通りだ! 神でさえ見通せなかったその本心を、私如きが推し量れる道理はない!
―――それが何だ⁉ お前はあの子の母親なのだろう⁉ そう自負していたのだろう⁉ だったら、己さえ気づけぬあの子の本心ぐらい悉く見透かせてみせろ! そんな事も出来ずに母を名乗るな!
―――結局、お前はアイズとマシロの仲を引き裂いただけだ! 双方の心に傷を作って、悲しませているだけだ……!
―――何が、アイズ自身が解決しなければならない問題だ⁉ 無駄に事態を引っ掻き回して、悪化させた癖に、上からモノを言うとは何事だ……この厚顔無恥なハイエルフが……!
リヴェリアは、雪色の肌を真赤にしながら、考えつく限りの罵倒を自分に浴びせる。
俯いているアイズは、まだその変化に気付いていない様だ。当時の事を想い出しながら、自嘲するように言葉を紡いでいる。
「私ね、バカだから、そんな風に怒鳴られてやっと気づいたの。ああ、この子は怒ってるんじゃなくて、悲しんでるんだって……」
ああ、そうだろう。
悲しかったのだ。淋しかったのだ。
怒鳴って当然だ。
しかし、それはアイズではなく、リヴェリア達に向けられるべきもので―――。
「結局、私、ずっとシロのこと傷つけてたんだよね……? 4年間も、ずっと淋しい思いをさせていた。なのに、私は何よりも先に自分の要件を優先した……」
『自分の要件』とは、支払の件の謝罪を言っているのだろう。アイズからすれば、そこに真っ先に手を付けるのは当然だ。彼女の視点では、マシロを怒らせている一番の要因なのだから、最初に触れておくのが寧ろ誠意と言うものだろう。
けれど今回ばかりは、その極々真っ当な考え方が悪い方向に作用した。
マシロが求めていたのは謝罪などではない。
そもそも、そこにマシロの意識は向いていない。
彼が本当に求めていたのは、助けだ。
本当は、アイズと仲直りしたい。どうして自分から離れて行ったのか……何がいけなかったのかを教えて欲しい。そう思っている。
けれど、完璧に心を偽っているマシロには、心がそう叫んでいる事に気付けない。
リヴェリアは、全身から力が抜けていくのを感じた。
純粋に、これは無理だと思ったからだ。
アイズはマシロに負い目を感じている。だから、『まだ弟が自分の事を求めてくれている』とは考えない。故に、謝罪より先に、仲直りしたい旨を伝えるなどと言う、そんな不誠実な行動には出られる訳がないのだ。
けれど、今回ばかりは、その不誠実こそが正解だった。
皮肉な話である。マシロに対して誠実に向き合っていたからこそ、アイズは和解のチャンスを逃したのだから。
「そんな私が、シロの側にいて良い訳ないよね……」
「…………………は?」
突如、呟かれた囁きにリヴェリアは思考がショートした。
「そんな資格、あるわけない」
「………なにを言っている、アイズ?」
「ごめん、リヴェリア……。せっかく手伝ってくれてたのに……。色々、作戦を考えてくれてたのに……。でも、もう、いいから」
「おい………?」
「私、シロとの仲直り、あきらめる」
「…………‼」
アイズの頬を伝うキラキラと輝く涙。
それは、こんな陰鬱とした迷宮の中では、まさしく宝石の様に感じられた。
諦念を孕んだ作り笑いが、震える声が、少女の儚さをいっそう浮き彫りにする。
今にも透けて消えてしまいそうな程に弱々しい。
ここで食い止めなければ、この子は駄目になってしまう。冒険者としても、アイズ・ヴァレンシュタインという少女としても……。
そう思った時には、リヴェリアは既に動き出していた。強引に、エルフらしからぬ形相で、ガッと愛娘の両肩をガッシリ掴む。
そして、目を丸くする金の少女に、緑色の麗人はあらん限りの声で叫び掛けた。
「諦めるだと……? そんな世迷言、二度と口にするなッ‼」
「え……? え?」
「あの子を傷つけていたのは私達だ! お前ではない……、お前な訳があるものか……!悪いのは我々だ……ッ! 許される資格がないのは、この私なんだ……!」
「り、リヴェ―――」
「罵れアイズ! 全てお前達の所為だと! お前が余計なことを言わなければ、あの子を傷つける事はなかったと! 私を唾棄しろ! 蔑め! 弟を傷心させる原因を作った諸悪の根源に、お前の考えつく憎悪の言葉の全てを浴びせろ!」
懇願する様に叫ぶリヴェリア。その姿に、普段の冷然とした面影は欠片も感じられなかった。らしくないのは自分でも分かっている。けれど、止まらない。エルフ由来の潔癖症が、理性より早くリヴェリアの身体を突き動かす。
「ま、待って、リヴェリア⁉ 別にリヴェリアは悪くない! リヴェリア達のアドバイスが無かったら、私は鬱陶しがられて嫌われてた!」
「そうなっていたとしても、今の状況よりは遥かにマシだ! 少なくとも、あの子が泣くほど傷付くことはなかった!」
「でも、その場合は私が嫌われて傷ついていた! ソレが分かってたから、アドバイスをくれたんでしょう⁉ 私に悲しんで欲しくなかったから……そんな優しいリヴェリア達を、どうして責めなけなきゃいけないの⁉」
「ああ、そうだ! お前は傷付いていただろう……! 悲しんでいただろう! だから我々は、お前を優先した! 無意識の内に、お前の方がファミリアにとって重要な存在だと勝手に優先順位を付けて、あの子の気持ちを無視した! これの何処が『優しい』と言うんだ⁉」
「そんなの捉え方の問題でしょ⁉ どうして、そんなに自分を悪者にするの⁉ 私がリヴェリア達のいう『丁度いい接し方』をうまくできていれば、シロを傷つけることもなかったのに!」
「お前は……! どうして……」
そんなにも、優しいんだ。
お前こそ、どうしてそんなにも自分を悪者にするんだ。明らかに、もっと悪い奴が目の前に居るじゃないか。そいつに全てを被せてしまえば、潔白でいられるというのに……。
リヴェリアは一転して、そっとアイズの身体を抱き包んだ。
そして、耳元でゆっくりと囁く。
「お前がなんと言おうと、悪いのは私だよ。何度でも言おう。今回の件、お前に責任はない。その接し方の問題にしたって、困惑するあの子を、私達が根気強くフォローしておけば良かっただけの話なんだ」
それこそ極端な事を言えば、全ての事情を話してしまえば良かったのだ。
アイズがお前に構わなくなったのは、構いすぎてお前に嫌われるのを阻止する為。
そう知らせておけば、マシロが傷心する事はなかっただろう。
そして、物理的に接触がないのだから、過度なスキンシップによって嫌われる危険性も皆無。
少々不格好な形ではあるが、これでも十分な成果は得られた筈だ。
けれど、そうしなかった。
愚かにも、マシロは大丈夫だと、勘違いしてしまったから―――。
「すまない、アイズ。本当に、すまない……。勝手な言い分なのは分かっている……。だが、言わせてくれ」
「リヴェリア……?」
「あの子を……マシロを、諦めないでやってくれ……」
「!」
「勿論、あの子がお前の言葉を信じられなくなってしまった原因は私達だ。だから、これは私達の尻拭いをさせる形にも、図らずもなってしまうのだろう」
「…………」
「きっとお前の言葉は、中々あの子に聞き入れて貰えないだろう。我々が付けてしまった傷は、あの子を際限なく疑心暗鬼に導くだろう。そんな状況で、根気強く声を掛け続けるのは、きっと想像以上に辛い」
本当に、お前は何様だ。
何も悪くないこの子に、そんな道を歩ませようとしている。本来なら、何に変えてもマシロを説得し、アイズと仲直りさせるのが筋というものだろう。
しかし、マシロが望んでいるのはリヴェリアの説明ではない。きっと自分の声は、あの子には届かない。けれど、アイズの想いならきっと届く。
要するに丸投げだ。余りにも情けない。己の失態を娘同然の少女に拭わせようとしている自分に、どうしようもなく失望する。
だというのに、アイズはこんな私の言葉を真剣に聞いてくれているのだ。
良く出来た子だ。
本当に、私などには勿体ない……。
「だが、それでもお前は……お前だけは、あの子に寄り添ってやってくれ。お前はあの子の希望なんだ。だから―――」
「リヴェリア……」
続く言葉は、アイズの声によって遮られた。
祈る様にギュッと目を瞑っていたリヴェリアは恐る恐る瞼を上げる。
そこには、穏やかに……しかし力強く微笑むアイズの姿があった。
金色の瞳から、目が離せない。
霧が晴れたような彼女の表情は頼もしく、この時ばかりは年上にさえ感じられた。
そのぐらい、覚悟を決めたアイズ・ヴァレンシュタインの姿は眩しく、リヴェリアの目には鮮烈に映った。
―――ありがとう。
形の良い柔らかな唇が、そう囁いたような気がした。
お読み頂きありがとうございました。
次回もよろしくお願いします。