「もう……これ以上、マシロ・ヴァレンシュタインに助けられる訳には、いかないんだッ!」
【リトル・アイズ】の仲介を拒み、猛牛へと挑みかかったベル・クラネルの姿に、リリルカ・アーデは頭を抱えて青ざめた。
マシロ・ヴァレンシュタインとの奇跡的な合流を果たし、その凄惨な姿に彼を白兎の元に送り届けるという目的を見失いそうになりつつも、それでも『死ぬ前に連れていけ』という懇願を聞き入れ、肩を貸しつつここまで戻って来た矢先の出来事だ。
残り少ない力を振り絞って両者の間に割って入り、兎を斬撃から守った【リトル・アイズ】。ベルはその姿を何やら震えた様子で眺めていたかと思うと、唐突に救援の手を押しのけ、冒頭の台詞を吐いてミノタウロスに立ち向かっていったのだ。
激しい戦闘が繰り広げられる。押され気味ではあるものの、互角に見える。
また、成長している……。
その事実に驚愕しつつも、やはりリリは心の中でベルの事を罵倒した。
いったい何をしているんだ?
これで、お前がミノタウロスに殺されたら【リトル・アイズ】が無駄死だろう。最期に、死にゆく同業者に華を持たせてやろうという気は欠片もないのか。
確かに今のマシロ・ヴァレンシュタインに勝ち目などない。戦えば、間違いなく殺される。けれど、それはベルが戦い続けたとしても同じ事。この出血量ではどのみち助からない。戦って死ぬか、血を失いすぎた末に出血死するかの違いでしかないのだ。
だったら、マシロに戦わせてやるべきだろう。
彼に死に場所を与えて、自分達は速やかにここから離脱するべきなのだ。他でもない、【リトル・アイズ】自身がそれを望んでいるのだから。それが、少年の命を無駄にしない唯一の方法だと言うのに……。
リリルカは、恐る恐る死にゆく冒険者の顔を窺った。
彼は今、絶望しているのだろう。
せっかくここまで来たと言うのに。リルルカの喚声によって導かれ、行く手を阻む為に迫りくる怪物共を斬り捨て、更なる傷をその身に負いながらどうにか辿り着いたのに。最後の最後、よりにもよって助けようとしていた兎自身に役目を奪われてしまった。きっと、やるせなさのあまり、呆然と戦いの行方を眺めているに違いない。
けれど、実際に目にした彼の顔は、想像とは少し違っていた。
視界が捉えるのは大きく見開かれた銀色の瞳。その双眸には、仮借の無い驚愕と……少しの熱が込められていて―――。
「…………え?」
熱……? と、彼女は再びマシロの目を見遣った。
やはり、見間違いではない。彼は消沈などしていない。絶望もない。諦念すらもない。
ただ、食い入るように何かを見ていた。見て、心を躍らせていた。
「い、いったい、何を……」
視ているのかと、リリルカも其方に顔を向ける。
即ち、ベルとミノタウロスの戦いに。
そして、意味が分かった。
「す、ごい」
思わず感嘆が漏れる。
ベルは、死闘を演じていた。圧倒的な格上を相手に、怯まず、果敢に、勇敢に、雄叫びを上げていた。攻めあぐねる猛牛の姿に、如何に兎の猛攻が激しいのかが分かる。サポーターの、リリにすら分かる。Lv.1の域を逸脱した驚異的なステイタスにモノを言わせた強引戦法ではない。これまでの【リトル・アイズ】の教えを実践し、時には応用し、見事にモンスターを翻弄している。そうして生まれた隙に、戦略の欠片もない重い一撃を叩き込んで、確実に体力を削っているのだ。
「…………」
マシロ・ヴァレンシュタインが目を奪われる訳である。
ベル・クラネルは、今、冒険をしているのだ。
英雄の雄叫びを上げ、魂を燃やしている。
そんな彼の戦いに、どうして割り込めよう? 何故、同業者が邪魔できよう?
「ファイアボルト………」
大剣を奪い、その刀でミノタウロスの身体を袈裟切りにした兎は、例の黒いナイフを奴の胸に突き立て、無詠唱魔法を発動させた。神聖文字の刻まれた刃によって灼熱の炎雷が、エネルギーロス無しに猛牛の体内に送り込まれる。
『ゴぉぉオォオオオオお―――⁉』
絶叫が、ルームに響く。
無理もない。体の中から魔法で焼かれているのだ。
でも、流石ミノタウロスと言えよう。並のモンスターなら一発で消滅しかねないその非道な攻撃に、普通に耐えている。けれど、兎の手は……いや、口は止まらない。
「ファイアボルト……ッ」
もう一撃、化物の体内が炎と雷に荒らされる。
当然、悲鳴が上がる。
けれど悲しいかな。猛牛はまだ倒れない。その馬鹿げた耐久が、まだ彼を楽にはしない。
「ファイアボルト………!」
三撃目。
ようやく、ミノタウロスの肉体が内部から火照り始めた。牛の口から、白い煙が漏れ出る。
が、まだ死なない。
「ファイアボルト………ッ!」
ゴホッと、灰色の煙と共に、黒い血がモンスターの口から溢れ出た。
死んではいない。けれど、もう死ぬ。
そう、リリルカが確信したのと同時に―――。
「ファイアボルトォぉぉおオ―――‼」
声帯をはち切らんばかりの叫喚。
それと、内部から無牛を喰い破り破壊した魔法の炎上音が、木霊した。
モンスターの脂を可燃材に有り得ないほどに燃え盛る橙色の炎が、仄暗いダンジョンを染め上げる。そんな綺麗な姿とは裏腹に、炎雷はミノタウロスの亡骸を容赦なく燃やし尽くした。残されたのは、魔石と、静寂と、焦げた空気。そして、立ったままピクリとも動かない、ベル・クラネル。
「べ、ベル様……?」
恐る恐る近づき声を掛けるも反応はない。
それもその筈だった。回り込み、少年の顔を覗き込んだリリルカは理解する。
「き、気絶……してる」
「立ったまま、
少々呆れたような声と共に、背後からドサッという音がした。
振り返ると、地面に崩れ落ちたマシロの姿が目に入る。ベルの戦いを見届け精魂尽き果てたのか、身体からみるみる力が抜けていくのが分かった。
「【リトル・アイズ】様………」
憐憫を孕んだ声に、銀の子供は反応しない。
まるで脱け殻になってしまったかの様な彼に、リリルカにはかける言葉が見つからなかった。
正直、同情する。ベル・クラネルが自力で危機を脱した以上、彼にはもうするべき事がないのだ。後はただ、黙って息絶えるのを待つのみ。
正に道化である。兎を猛牛から救わんと、瀕死の重傷さえおして駆け付けたと言うのに、救援の手を兎本人から拒まれて、たった一人で過酷を乗り越えられてしまったのだから。
結局、すべて不要だったのだ。なら、最初から此方へは向かわず、地上を目指せば良かった。そうすれば、もしかしたら助かっていたかも知れない。
無論、ベル・クラネルは何も悪くない。彼はただ守ろうとしただけだ。マシロの『矜持』ではなく、『命』を。その命が、既に手遅れだったというだけで……。
リリルカは、グッと唇を噛み締めた。
冒険者の死には慣れている。立ち会った事だって何度もある。
そもそも、死と隣り合わせの職業だ。だから、いちいち知己の死に、心を痛めたりなんかしない。
でも……。
それでも……、自分より3つも年下の子供の死に、何も感じない訳では無かった。そのぐらいの人間性は残っている。その事実に、秘かに驚く。
「……どうして、ですか………?」
気が付けば、訊いていた。
多分、もう耳は聞こえていない。届いたとしても、口をきける気力があるとは思えない。それでも、リリルカは尋ねずにはいられなかった。
「逃げれば良かったじゃないですか……? 見捨てれば良かったじゃないですか……⁉ リリも! ベル様だって! 貴方にとっては一月にも満たない関係だった筈でしょう⁉」
どうして、自分はこんなに彼を責め立てているのだろう。今にも息を引き取りそうな子供相手に。本来なら『頑張りましたね』と、『勇敢でしたよ』と、労いの言葉をかけてやるべきなのだ。所詮他人なのだから、そんなお為ごかしでお茶を濁して、彼に最後の安寧とやらを与えてやるべきだろうに……。
だというのに、何故こんなにも感情を剥き出しているのだろう。
これではまるで、
「なのに、傷が治らなくなるスキルまで使って……! 無理矢理に身体を動かして……そんな事をしなければ、助かったかも知れないのに……! ここまで血を流す前に地上に戻っていたら、間に合ったかも知れないのに……!」
グチャグチャの、もう殆ど温度のない小さな右手。それに触れてようやく、少女はマシロに駆け寄っていた事に気が付いた。
「何なんですか貴方は……⁉ 他人の為に自分を犠牲にするとか……英雄譚の主人公にでもなったつもりですか⁉」
「痛かったでしょう⁉ 怖かったでしょう⁉ 泣き叫びたかったでしょう⁉ 恐怖に打ち震えて、みっともなく逃げ帰ったって良かったんです! そんな貴方を責める人なんて誰も居やしない!」
「なのになんで……ッ! なんで、あの時リリを助けたんですか⁉︎ なんで、ベル様を見捨てなかったんですか⁉︎ 貴方にとって、ベル様ってなんなんですか⁉︎」
捲し立てる様に、積もりに積もったモヤモヤをぶちまけ、肩で息をするリリルカ・アーデ。その栗色の瞳からは、いつしか大粒の雫が流れだしていた。それらが間断なくマシロの手に落ちては溶ける。いけないと思いつつも、彼女にはどうしても止められない。
「………………知る…かよ……」
「……!」
抑揚のないかすれ声が、鼓膜を撫でた。
顔を上げると、【リトル・アイズ】の口元が僅かに動いていて。
「でも………そうしなきゃって……思っちまったんだ………」
「………馬鹿……なんですか……ッ」
そうだな。と、銀の子供が笑った気がした。
リリルカは項垂れながら涙をぬぐう。これから自分がしなければならない事を自覚しつつも、彼女はへたり込んだまま動けない。
本来なら今すぐにでも、ベルにポーションをかけて叩き起こすべきなのに。そうして、確実に脱出しなければ、マシロの努力が無駄になるのに。だというのに、動かない。まるで、涙と共に、全身の力が出て行ってしまったかのようだった。
「ほら、なにやってるのさ? 早く、ベル・クラネルからナイフを奪いなよ」
「――――」
突如……。
何の前触れもなく。
ヌルッと聞こえて来たその声に、リリルカ・アーデは怒りを覚えた。
生暖かい息が顔にかかる。
さも当然の様にそこにある不気味な気配に、
「…………マシロ様には、手を下せないじゃなかったんですか?」
「うん? なんの話だい? リリルカちゃん」
「とぼけないで下さい……。これ、貴方がやったんでしょう?」
滔々と問いかける。
自分の斜め前、マシロの真横に居るだろう男に対して、驚くほど冷たい声が出た。
対して、男は「うーん」と唸りながら首を捻る。
フードで碌に見えない口元に、人差し指を当てる仕草をしながら。
「これって……『コレ』の怪我の事? だったら違うよ? 濡れ衣さ。僕だってビックリしてるんだよ。いやぁ、困った困った」
「困った……ですって?」
いけしゃあしゃあと宣う男に対して、リリルカは顔を上げて目尻を吊り上げた。
瞳に映るのは、やはり路地裏で遭った件の冒険者だ。つまり、マシロの事を異様なまでに憎悪していた人物。そんな奴が『濡れ衣』だと主張して、誰が素直に信じようか。
しかし、そんな此方の心情もお構いなしに、男は痛い所を突いて来る。
「ていうか、なんで怒ってるのさ? 君にはそんな資格ないだろう? アーデちゃんも『コレ』の失脚を望んでいたじゃないか」
「………ッ」
「それとも、いざ死にかけてるトコ見て、同情しちゃった?」
「それ、は……」
リリルカは深く言い淀んでしまった。
指摘された通り、彼女はマシロの存在を疎ましく思っていたからだ。故に彼に対しての情は一切無く、寧ろどうやって排除するかを考えていたぐらいである。その中には、実現可能かどうか別にしても命を奪いかねない作戦も含まれていて……。
そんな自分が今更【リトル・アイズ】の死に狼狽える等、確かにどういう了見かという話である。
「でもまあ、無理もないよねぇ。こうやって見ると、『コレ』は本当に只の子供だもん。一般的に大人の死より子供の死の方が心理的なストレスが大きいとも聞くし、そういう意味じゃ、リリちゃんがショックを受けるのも仕方がない。けど……騙されちゃぁいけないよぉ?」
ガシリと、骨にひびでも入れるつもりなのかという程の力で、男はマシロの顎を掴んだ。そして、ほとんど意識のない彼を、乱暴に引き寄せる。
「ちょ……!」
引き寄せて、リリルカの眼前で、マシロの顔を固定した。
「それはさ、『コレ』の術中なんだよね。ほら、冒険者に齢は関係ないって言っても、やっぱり大人と子供じゃ扱いに差があるでしょ? それで、子供の中でも小柄な方が同情を誘える。可哀そうって、思って貰える」
「……なにを……言ってるんですか? まさか、【リトル・アイズ】様が小柄なのは、皆の同情を引くためだと……そんなイチャモンを付けているんですか……⁉」
「イチャモンじゃないよ、事実だよ」
「………ッ!」
フード男の意味不明な言い分に、改めてリリルカは戦慄を覚える。
奴がマシロを嫌っているのは知っていた。狂った思考回路の持ち主だという事も。けれど、ここまで理不尽な言いがかりをつける程とは思わなかった。きっとこの男は、【リトル・アイズ】の『何か』がというよりも、『存在そのもの』が許せないのだろう。いったい過去にどれだけの恨みを買ったというのか……。まあ、常人には理解の出来ないほどの些細な諍いで、ここまで怒りを募らせている可能性も否定できないが。
「放して下さい……マシロ様を」
「え? 『コレ』を? なんで?」
キョトンと聞き返して来るフードがゆっくりと傾く。
本当に、いちいち癪に障る仕草だ。まるで、自分のことを可愛いと思っている勘違い女のよう……。それを男がしているのだから始末に負えない。
鳥肌を立てつつそんな事を考えていると、不意に、なんの躊躇もなく、男の手が開かれた。まるで手を放す気が無い様な態度を取っていたクセに、あっさりと。
「―――の……ッ」
落下するマシロの頭を、リリルカは大慌てで抱き留めた。
間に合った事に安堵しつつ、男を睨みつける。
けれど奴は、か弱いサポーターに凄まれても怖くないよとでも言う様に、「あらら~」と両手を広げてお道化る。それが悔しくて、でも立ち向かったって絶対に敵わないから、リリルカはグッと堪えてその場で吠えた。
「消えて下さい! 【リトル・アイズ】がこうなった以上、貴方がここに留まる理由はない筈です!」
「いーや、理由ならあるよ。でも、そうだね。モタモタしてると間に合わなくなるし、始めようか」
「………! 触らないで!」
ヌルリと、マシロに男の手が伸びる。咄嗟にそれを弾いて自身の背中に小さな冒険者を隠すと、奴は困ったような態度で愉しそうな声を発した。
「やれやれ、君の勘違いを解こう、リリルカちゃん。僕は死にゆく『ソレ』の無様を嗤笑しにきたんじゃぁない。『ソレ』の死に、意味を与えに来たんだ」
「……え?」
「殺させに行くようなモノだと分かっていながら、ミノタウロスに『ソレ』をぶつけ合わせようとした君と同じだよ」
「何を……言っているんですか………?」
「ねえ、アーデちゃん。アーデちゃんは、『ソレ』がなんの為に産み落とされたか知っているかい?」
「…………」
聞いてはいけない。
そう、リリルカは思った。
今、奴が口にしようとしているのは、耳を塞ぎたくなるような……救いのない真実であると、直感が告げていた。
『それはね』と、男の唇が動く……そんな光景を幻視しながら。
リリルカ・アーデは、
ガッ。ボキ。クチャ。ブチブチ。
―――え?
酷く耳障りな、それでいてどうしたら奏でられるのかが想像できてしまう、生々しい音。
それは、何かを噛む音だ。
硬い物を噛み砕く音だ。
肉を―――噛み千切る音だ。
今も、絶え間なく流れて来る『咀嚼音』を聞きながら、リリルカはバクバクと鳴り響く心臓と共に後ろを振り返る。
「――――」
そして、視てしまった。
目の当たりにしてしまった。
つい数秒前まで前方に居た筈のフードの冒険者が、さも当然の様に、
「な―――ッ⁉」
何をしてるんだ⁉ と、怒鳴りつけるより早く、反射的に身体が動く。
銀の冒険者を抱えて、大きくその場から飛び退いた。
改めて彼の右手を見てみると、根本から人差し指と中指が消滅している。
今は、フード男の口の中だろう。
その信じ難い事実に血が引き、眩暈を覚え、動機の早まりを感じながら奴を見た。
奴は、マイペースに咀嚼音を響かせて、ゴクンと喉仏を鳴らす。そして、口元を拭く動作の後、日常会話と変わらぬテンションで答えた。
「僕に、食べさせる為だよ」
「……………」
「つまりは、家畜さ。僕に捧げる為の、僕専用の生贄だよ。だから、人間のリリちゃんが、ショックを受ける必要は何処にもない」
「……………」
「ホントはさ、赤子の時に食べる予定だったんだ。でも、色々あってね。折角だからLv.4になるまで待つ事にしたんだよ。欲を言えばLv.5まで泳がせたかったんだけど、『ソレ』が第一級冒険者になるなんて土台無理だろうからね」
本当に……本当にナチュラルに、男はマシロ・ヴァレンシュタインを食料の様に語る。
そして、それはある意味当然の感情なのだろう。コイツの言葉が事実であるならば、彼の親は、いつか喰われる事を了承した上で、マシロを出産したという事だ。
あの【剣姫】の弟として生を受け、最大派閥である【ロキ・ファミリア】に所属し、姉やその他有益な冒険者達の所為で目立たないものの、それなりにバグった速度でランクアップを繰り返したLv.3の少年。
それが、リリルカのマシロに対する評価と認識である。
自分とは違い、随分と恵まれた少年だと、そう思っていたのに―――。
なんだそれは……。
幾ら何でも、
神ソーマ謹製の『神酒』に溺れ、娘を金を運ぶ道具としか見なかったリリルカの両親。それに通じるものがある。その腹から産み落とされた自分と同類……いや、もっと悲惨な生い立ちだ。流石のリリルカも、産まれた瞬間から食い殺される
アイズ・
正確に言えば、興味を持たれていないのだ。きっと、彼女はそうなる様に育てられた。幼い頃から徹底的に、間違っても弟に情など抱かせない様に。
だって、そもそも、そういう前提で産んだから。マシロの両親が我が子と認識しているのは、第一子であるアイズだけだから。
「ま、とにかくそういう訳だから、早く『ソレ』をこっちに渡して? 死ぬ前に食べちゃうからさ」
「……………嫌です」
「あ! でも、真面目な話、死ぬ前に食べきるのは無理だよね。只でさえ死にかけなんだし……。ぶっちゃけ、あと一口でタイムオーバーかなぁ。ねえねえ、リリちゃん? 何処を食べたら良いと思う? 僕的には『脳味噌』か『内臓』が王道かなって思うんだけど」
「知りませんよ……っ!」
リリルカは密かに携帯していた簡易的な煙玉を地面に叩きつけた。
そして、ぐったりとしたマシロを背負い、その異常なまでの軽さに瞠目しながらも
「え⁉ わあ!? ど、どどどどどど、どうしたの、アーデちゃん!? どうして僕から逃げるんだい!?」
白々しすぎる台詞が、前とも、後ろとも、右とも、左とも分からぬ場所から響いて来た。きっと、遊ばれている。奴はいつでも、リリルカを捕まえられる。でも、それでも彼女は、必死に距離を作ろうとした。
マシロはもう持たない。
寧ろ、何故まだ呼吸をしているのかが分からないぐらいだ。そこは、流石Lv.3。器を2度も昇華させた上級冒険者の生命力というべきだろう。だが、それも既に薄氷だ。ボロボロの生命の糸は、いつ途切れても可笑しくない。
そして、マシロが死ねば、奴の目的も消失する。マシロを喰らって何が得られるのかは分からないが、少なくとも『生きたまま』喰う事に意味があると、言葉の端々からは感じ取れた。ならば、彼が息を引き取るまでの僅かな時間ぐらい稼いでみせよう。絶対に、この少年を奴の血肉の一部になんてさせない。そんな事は許さない。許容できない程度には、リリルカ・アーデはマシロ・ヴァレンシュタインに情が移ってしまった。
今、自分が冷静でないことを、彼女は嬉しく思う。平時通りの自分だったら、絶対にこんな馬鹿な判断はしなかった筈だから。
そんなふうに、自分自身を分析している最中―――。
闇から……いや、白い煙の全体から、奴の声が届いた。
「んん、やっぱりここは『脳味噌』かな? 血を取り込むって意味じゃ内臓の方が良い気もするけど、人体で一番重要って考えたら脳な気がするし……。あ、離れてた方がいいよ、リリルカちゃん?」
「え?」
「もう、一分一秒も惜しいから―――」
濃密な気配と共に、白い煙に黒い人影が浮かび上がった。
斜め右後方の煙幕が斬り裂かれ、リリとマシロの頭部目掛けて『誰か』が飛来する。栗色の横目がいの一番に捉えたのは、大きく開かれた『口』だった。
獣の様に涎が滴った赤い舌が、蛇のようにうねっている。狼と人の中間ぐらいの歯が整然と並び、薄暗い迷宮の中で煌めいていた。歯や、削ぎ落された唇に花を添えているのは、銀の冒険者の血液だろう。2本の指を齧り取った時の物と思われる血痕は、口元だけでなく小作りな鼻や頬にも及んでいる。決して質のいいとは言えぬ肌に、新鮮な血が付いているサマは何処か歪だ。此方を見下ろす2つの瞳は闇よりも黒く、白目は赤い。決して鮮やかな色ではなく、どす黒い赤だ。一見すると、眼窩に闇が嵌っている様にすら見える。それがまん丸く見開かれているのだから、普通にホラーだ。無駄に艶やかで半端に伸ばした黒髪が、不気味さを助長させている。
「―――」
『人外』。
それが、その恐ろしい風貌に対しての、リリルカの率直な感想だった。
正直、『死神』に見える。男の武器が『鎌』だったなら、ハッキリ言って疑えなかっただろう。根源的な恐怖が、リリの全身を貫き痙攣させ―――足を止めさせた。
―――あ、死にました
静かに、冷静に、他人事のように……彼女は自身の最期を悟った。
『死神』のような男の右手に大きな鎌を幻視しながら、マシロの頭ごと、自分の頭が喰い破られる未来を幻視する。それはもう避けられない。そのぐらい、奴の速力は圧倒的すぎる。スローモーションに見えるのに、身体は全く動かない。
―――痛くなければいいな……
なんて益体も無い事を考えつつ、リリルカは現実感のない『死』を待った。
だからこそ、静寂を荒らし尽くすかのような暴風の発生―――。そして、その暴風に死神が吹き飛ばされ、容赦なく壁に叩きつけられた事実を、彼女は即座に受け入れる事が出来なかった。
リリルカの世界に『音』と『感覚』と『時間』が戻ったのは、怖いぐらいに美しい『金色』が、視界に降臨してからたっぷり10秒以上経っての事である。
「え……?」
呆けた呟きを漏らすと、金の髪が揺れ、金の瞳に貫かれる。
何を考えているか読み取れない超然とした眼差しに、リリルカは同性だと言うのに目を奪われた。いっそ神聖とも言えるような美の化身が一歩一歩近づいて来る。血生臭い据えた空気が、心地の良い香りに蹂躙されていく。
「け……【剣姫】……!」
その人物を【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタインと認めた時にはもう、彼女のスラッとした指がマシロの顔に触れていて―――『いけない』と距離を取るよりも早く、一瞬で【リトル・アイズ】を奪われる。瞬き一つする前までは自身の背中にいた銀の子供が、今は金の少女の腕の中に居る。マシロを『贄』と教え込まれて育って来た筈の少女の腕に。
「は、放して―――」
焦燥の余り叫ぼうとするリリルカは、途中で言葉に詰まる。
【剣姫】の様子に、大きな違和感を覚えたからだ。
華奢な身体が、いっそ大袈裟なぐらいに震えている。笑っているのか、と一瞬憤った。けれど、直ぐに違うと分かった。【剣姫】の口角は、1ミリたりとも上がっていない。どころか、彼を抱き抱える腕は何処までも柔らかだ。しきりに頭を撫でている右手の手付きは驚くほど優しい。思考が……感情がショートしているかのように、瞳は曇っている。だが、その震えが、動揺を隠し切れていない。
やがて―――
「いやぁぁァァアアア!? なんで……なんでこんな……っ! 目を開けて! 返事をしてよ……⁉ ぁぁぁぁぁあぁああぁぁああああああぁあああぁぁああぁぁあああああぁぁああぁぁああああああああああぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁあああああぁぁぁああああああああああああぁああああああああああああああぁああああぁぁああああああぁぁあああああぁああああああああぁあああああぁぁぁああぁああああぁぁあああぁぁ………ッ! あああぁ! あぁあああぁぁあああああぁぁぁああああああああああああぁああああああああああああああぁああああぁぁああああああぁぁあああああぁああああああああぁあああああぁぁぁ―――‼!?」
美しい姫の物とは思えぬ
恥も外聞もかなぐり捨てた子供のような癇癪が。
『
あられもない姿で泣きじゃくる『第一級冒険者』から解き放たれた。
お読み頂きましてありがとうございました。
次回もよろしくお願いします。