ポーンと、
お手玉の様に、マシロの頭部が宙を舞った。
首の切断面から噴き出す血は、まるで噴水の様で、膝から崩れ落ちた小さな身体が血の海に沈んでいく。ソレを成したのは、黒い冒険者だ。比喩でも何でもなく、身体が真っ黒で何処の誰かは分からない。
アイズは冷静に、弟が殺される現場を見ていた。
否、冷静な訳ではない。本当は腸が煮え繰り返っている。意味がないと分かりつつ、今回も身体が勝手に動いて黒い誰かを斬り捨ててしまった程だ。
けれど、それだけだ。発狂はしない。
流石にもう20回目だから、これが夢なのは分かっている。
夢でも最愛が死ぬのは良い気分ではないが、目覚めれば生きたい弟が目の前にいるのだから我慢しよう。
さあ、早く目覚めるんだ。
目覚めて、マシロの可愛い寝顔を見せてくれ。
そう願い、目を閉じる。
意識が浮上するまで、幾らでも閉じる。
そして、ようやく全身が浮遊感に包まれた。その感覚に身を任せ、自然と瞼が持ち上がるまで待つと……。
夢の時とは比較にならないリアルな感覚が身体に戻ってきた。
眼前には無邪気な寝顔を晒す無傷なマシロの姿がある。
それを確認して、アイズは大量の汗を拭いながら、ホッと息を吐き出すのだった。
◯
マシロが【ディアンケヒト・ファミリア】の治療院に入院してから、丸っと20日が経過した。
早朝、定期検診の為に病室を訪れていたアミッド・テアサナーレは、特に酷い有り様だった左手首に治癒魔法を施しながら深々と感嘆の息を吐き出す。当初、骨が粉々に砕け散り、筋肉すらもひしゃげていたというのに、現在は包帯が取れるレベルまで改善しているのだ。【
「経過良好ですね。これなら、あと1週間ほどで退院できるかと」
「本当に!?」
そんなアミッドの見解に、いの一番に歓喜したのは患者本人ではなくその保護者……否、姉のアイズだった。太陽の様な笑顔を浮かべた【剣姫】が、窓から差し込む本物の太陽光に照らされている。その姿はキラキラしていて、直視できない程に神々しい。比喩抜きに祝福の女神か何かと錯覚してしまいそうだとアミッドは思った。
「よかったね、頑張ったね、シロ。すごくえらいよ」
けれど、彼女の瑞々しい唇が紡ぎ出すのは、とても神の啓示とは思えない凡庸な語彙の数々だ。普段から見た目の印象と実際の喋り方にギャップのあるアイズだが、ことマシロとの会話になると口調の幼さに拍車が掛かる。その姿に大概の者は違和感を覚えるだろうが、付き合いの長いアミッドにとっては慣れたものだ。弟の頭を、掌どころか腕全体を使って撫でまわす姉の様子に苦笑しながら、聖女は穏やかに患者の顔を覗き込む。
「アイズさんではありませんが、本当に良く頑張りましたね。まさか、あの状態から
普通に考えて瀕死よりも更に危険な状態で運ばれて来た人間が、たった27日で退院できる訳がない。けれど事実として、それが可能なラインまで回復しているのだ。正直、医療従事者の観点からはありえないの一言だが、子供のようにはしゃぐアイズに水を差す気にもなれず、アミッドも素直にマシロの努力を称賛した。
「………」
しかし、【リトル・アイズ】は自分の右手を見ながら呆け続けている。食われて消失した筈の人差し指と中指が健在の右手を。
「……? どうかしましたか?」
「あ……いや、ありがとう、アミッド。アンタ達の献身のお陰だ」
アミッドの声に、マシロは慌てた様子で頭を下げる。正直、以前の彼を知っている身からすると、昔のように無邪気に「ありがとう!」と言ってくれた方が嬉しかったりするのだが、この子も年頃の男の子だ。格好良い言い回しを好むのも仕方なしとしておこう。
けれど、
「後悔していますか? 義指を取り付けた事を」
「いや……」
瞬間、図星だったのかマシロは言い淀んだ。
そう、義指だ。
一見本物の指にしか見えないソレは、その実、オラリオの技術力を集結させた偽物である。如何に聖女と言えど無から有を生み出す事はできない為、コレを装着する運びとなったのだ。
しかし、偽物だからと侮ることなかれ。マシロに与えられた義指は数ある中でも最高級品。きちんと神経を繋げている為、本物のように動かす事が出来る。決して見掛け倒しのハリボテではないのだ。日常生活は勿論、戦闘行為にも耐える強度を持っている。が、それ故に費用は馬鹿にならない。彼の気がそぞろなのは、十中八九それの所為だろう。
「確かに、元々の治療費や入院費用、義歯の制作等も併せると、かなりの出費です。しかし、フィン団長やロキ様は2つ返事で了承して下さいました」
「………」
「怪我自体も、決して貴方に非はありません。ロキ様もそうお考えになったから全ての費用を負担して下さったのではないですか? マシロさんが負い目を感じる必要など何処にもありません」
というか、もっと言わせて貰えば、彼はまだ12歳。12歳なのだ。しかも、成りたてホヤホヤの……少々暴論にはなるが、殆ど11歳と言い換える事も出来るだろう。本人は大人ぶっているが、まだまだ、現役バリバリのお子ちゃまなのである。
だから、派閥の懐事情の心配なんかしなくて良い。そういう頭の痛が痛くなる話は大人達に丸投げして、昔の様にのほほんとしていれば良いのだ。少なくとも、在りし日のマシロを知っているアミッドは、そう思ってしまう。
「分かってる……。俺がそんな事で悩む事をロキ達は望んでない……。でも、その……」
マシロは俯きながら呟いて、意を決した様に顔を上げた。中々悪い血色をしているが、その瞳には強い覚悟が見て取れる。
「…………じっさい、おいくら?」
「…………」
覚悟に反して弱々しく尋ねられたその問いに、アミッドはニッコリと微笑むだけで目を逸らした。
「おい!?」
当然、対面でマシロが泡を食うが、笑顔のまま無視する。
アミッドは聖女だ。そして、生粋の
「もう……気にしちゃ、め。シロは何も悪くないんだよ? 確かにリヴェリア達は真っ青になってたけど」
「アイズさん、最後に早口で余計な情報を付け加えないで下さい! あと、うっかり金額バラさないで下さいよ!?」
「は!? と、とにかく、大丈夫だからね!」
【剣姫】の
「さて、退院後の注意事項ですが、当面はお一人でのダンジョン探索は控えて下さい。リハビリをしているとは言え、まだまだ本調子には程遠い筈……必ず誰かとパーティーを組むようにお願いします」
「ああ」
「大丈夫だよ。私がずっとくっついてるから」
「……物理的にくっついていそうですね。まあ、正直その辺りは心配していません。アイズさんが留守の場合でも、【ロキ・ファミリア】になら誰かしら組んでくれる方がいるでしょうから」
実際、現在進行形で背中から手を回しているので説得力が違う。等と思っていると、当のアイズがキョトンと口を開いた。
「……? 私が付いていけない時はダンジョンになんか行かせないよ??」
「え? まあ、その辺りの判断はお任せしますが……」
正直、アミッドからすれば、マシロが単身で迷宮探索さえしなければ【ロキ・ファミリア】がどの様な方針を取ろうとも関知する所ではない。極論、彼のダンジョンへの立ち入りが禁止になっても構わない立場だ。
しかし、当人からは不満の声が上がった。
「いや、お前この前は『第一級』となら良いって言ってただろ」
「だって……その条件じゃティオナ達とパーティーを組めちゃうし、レフィーヤ達がLv.5になったら一緒にダンジョンに行けちゃうもん」
マシロからの指摘に、アイズは頬を膨らませる。そして、その回答はアミッドにとってかなり衝撃的なものだった。マシロも同様だったらしく、ギョッとした様子で尋ねる。
「え? は? お前あいつら嫌いなの?」
もしそうなら凄くショックだ。
表では好意的に接しておいて裏では嫌っているなど、対人関係が不器用なアイズらしくない。何よりティオナ達が酷く悲しむだろう。彼女らの友人として、アミッドはそんな光景など見たくなかった。
「嫌いじゃないよ? 寧ろ大好きだけど……」
アイズの返答に内心ホッとする。
しかし、そうなると、何故マシロと彼女達のダンジョン探索を拒むのだろうか……。その答えは直ぐに本人の口から知らされた。
「でも、シロとイチャイチャするのはダメ」
「「……………」」
イチャイチャしたんですか? と、聖女は視線で問いかける。
マシロから返ってきたのは、してねぇよ。という無言の視線。
アミッドもそうだと思う。
多分、ティオナやレフィーヤはイチャついてなどいない。そりゃあ、目を覚ましたマシロの頭を撫でまわして抱きしめるぐらいはしたかも知れないが、彼の置かれていた状態を考えれば、それも無理からぬ反応だろう。その程度で『イチャイチャ判定』を下すのは、完全にやり過ぎというモノだ。
【戦場の聖女】はおもむろに、マシロの頭に手を伸ばした。
瞬間、予想通り【剣姫】が物凄い形相で、彼の身体を引き寄せる。
「アミッドまでシロとイチャイチャするの!?」
「してねぇだろ。何がどう見えてんだ、お前には」
ゲンナリとした突っ込みがマシロから入る。
「……威張るつもりはありませんが、私はマシロさんの治療に尽力しました」
「………!!」
「もちろん、対価として代金は頂きますが、それはあくまで【ディアンケヒト・ファミリア】に支払われる物。私個人が全額受け取る報酬ではありません」
「…………」
「ささやかなご褒美があっても良いと思うのですが、アイズさんはどう思いますか?」
アミッドは笑顔を作って問いかける。
アイズは冷や汗をかきながら葛藤している様だった。
『ささやかなご褒美』……それが何を指しているのか分かっているのだろう。
そして、果てしなく永い長考の末、指を3本立てる。
「さ、3なで……までなら………」
「たったの?」
「うぅ……、じゃあ4なで……!」
「はぁ……。アイズはさんは、高だか4撫でぽっちでご褒美になるんですか? それとも、マシロさんを助けた感謝はその程度なんでしょうか?」
「〜〜〜〜〜!!! ………6……いや、7! これ以上はダメ!!」
「ふふ、分かりました。では、それで手を打ちましょう」
ひとしきりアイズを揶揄い、満足したアミッドは改めてマシロの頭に手を伸ばした。が、寸での所で、ヒョイっと丸っこい銀髪が逃げてしまう。最初は往生際悪く、姉が動かしているのかと思ったが、どうやらそういう訳ではないらしい。
つまりそれは、マシロが自分の意思で、此方の手を回避しているという訳で……。未だに「アミッドおねえちゃん!」と懐いてくれていた頃のイメージが抜け切っていない聖女は、この動きに決して少なくないダメージを受けた。
「ま、マシロさん??」
「……………いや、そういうのは、ちょっと」
まるで、如何しいお店で客にサービス以上の接客を要求をされたみたいな反応。
純粋にナデナデを拒否されたショックと相まって、アミッドは
「ふふ……ごめんね、アミッド? シロは私にしかなでられたくないんだって。ほんとう、なんでこんなにお姉ちゃんっ子になっちゃったんだろう? 困っちゃうな」
絶対困ってないだろう。満面の笑みで撫で回しておいて何を言っている……。という文句を視線に乗せたところで鈍い【剣姫】には伝わらないので、矛先を弟に変える。なんですか、そんなにお姉さんが良いんですか? というか、ティオナさん達は良くて、なんで私は駄目なんですか? と。
それに対するマシロの答えは、
「だって、あの時は普通に動けなかったし……そいつらレベル的に逃げ切れねぇんだもん……」
アミッドは暫くの間、割と真剣にダンジョンに籠るか検討するのだった。
◇
聖女がマシロの病室を後にすると、直ぐにひとりの団員に声をかけられた。
「あ、いたいた! おはようございます、アミッド先輩! て、あれ? なんかショック受けてます??」
快活かつ表情豊かに挨拶をして来た彼女は、【ディアンケヒト・ファミリア】内でも中堅クラスの歴になるLv.1の
「いえ、なんでもありません。おはようございます」
アミッドは咳払いをして即座に取り繕った。
自分はこのファミリアの団長。団員達に情けない姿は見せられない。
その様に己を戒めつつ、毅然とした態度で要件を尋ねる。
「それで、私を探していた様に見えましたが、どうしましたか?」
「いや〜、実はちょっとアミッド先輩にお聞きしたい事がありまして〜」
「なんでしょう?」
「マシロ・ヴァレンシュタインさんの容体って、今どんな感じなんですか?」
「………何故、そんな事を聞くんですか?」
後輩の意図が読めず、アミッドは思わず聞き返してしまった。
まあ別に医療従事者である彼女が、患者の容体を気にするというのは可笑しな話ではない。だから素直に答えても良いのだが……何故かこの時、アミッドは僅かに引っ掛かりを覚えてしまった。
「ホラ、最初はマシロさんのお世話って私がする予定だったじゃないですかぁ。でも、結局アミッド先輩が担当医になっちゃって〜」
それは事実である。
原則として【ディアンケヒト・ファミリア】では、
①アミッドやベテラン
②主に中堅
③新人
当初マシロは①の重篤患者に分類されていたが、一命を取り留めてからの回復速度が凄まじく、即日②の分類に下げられた。故に、入院中の診察や身の回りの世話を、中堅の
そこで白羽の矢が立った……というか、立候補して来たのが、この黒髪の少女である。積極的なのは良い事だし、人格面や相性に問題があると思えなかった為、アミッドもこれを了承していたのだが……。
【剣姫】が「泊まり込みで看病させろ」「身の回りの世話も自分がする」「お前らは触るな(意訳)」と言い出した為に白紙になったのだ。確かにそう考えれば、彼女がマシロの状態を気にかけるのも頷ける。同時に表向き担当を務める事になったアミッドに尋ねる事も。
「怖いぐらいに良好ですよ。あと1週間程で退院できるとお伝えしました」
そう答えると、後輩の少女は大仰に驚いた。
「もうですか!? 確かに異様に治り早いな〜とは思ってましたケド……。あんな生きてるのか死んでるのか分からない状態からよくぞここまで……。流石はアミッド先輩です!」
「い、いや、そんな事は……」
尊敬の念を讃えながらズイッと顔を近づけてくる後輩に、アミッドは思わず後ずさってしまった。正直、全て自分の手柄だと褒められるのは居た堪れない。確かに最善の治療を行った自負はあるが、だとしても彼の回復は早すぎるのだ。恐らく、この件に
異常な回復力の秘密は他にある。謙遜でもなんでもなくそう思っていたアミッドは、その旨を後輩に伝えた。すると、彼女は快活さを潜め、何か思案しているのか難しい顔を作り始める。
「アミッド先輩……。ちょっと、マシロさんの身体を調べてみませんか?」
「し、調べる?」
アミッドはその言葉に不穏な響きを感じた。
けれど、そんな懸念は杞憂だとでも言うように、後輩は意気揚々と考えを述べる。
「はい! だって、幾らアミッド先輩がスゴイと言っても、そんな馬鹿げた回復力気になるじゃないですか! 都市の医療を担う者として秘密を解明するべきですよ! きっと、今後の患者の為にもなります!」
「………」
正直それは、アミッドも考えなかった訳ではない。
実際、マシロから採血した血は既に調べ尽くしている。
特に目を引く結果は得られなかったので、恐らくアイズの血の方に原因があるのだろう。瀕死のマシロを救ってのけた未知の血だ。回復力の向上というアフターケアがあったとしても不思議ではない。
要するに、アイズに血の提供を依頼すれば良いのだ。
しかし、聖女はまだ、それを実行に移す気はなかった。
調べて、仮に金の少女の血液に
「確かに一理あります。しかし、調べるのが他派閥の人間の身体となれば、主神や団長の許可を取る必要がありますので……」
「えぇ!? だって世紀の大発見になるかも知れないんですよ〜!? そんな堅苦しい事どうでも良くないですかぁ!?」
「現時点では、あくまでも可能性があるだけです。血液検査以上の事となると、入院日数を伸ばす必要が出てきますし、既に退院予定日を伝えてしまった患者を、『かも知れない』程度の可能性で引き留める事はできません」
「ブー! ブー!」
盛大にブー垂れる後輩をアミッドは無視する。
その態度で言っても無駄だと伝わったのだろう。ガックリと肩を落としながら、彼女は渋々話題を変えた。
「あ、そう言えば、毎日お見舞いに来てますよね、【剣姫】さん」
「ええ、そうですね」
「仲良いですよね〜。正直意外でしたよ。私、【剣姫】に弟がいるなんて知らなかったですもん」
「【ロキ・ファミリア】の方でも、悪戯に情報が広がらない様に注意していたのだと思います。彼が恩恵を得た頃には既に、【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタインの名前は有名でしたから」
ただでさえマシロは『【剣姫】の弟』という時点で目を付けられ易い。その上、当時はまだ歳も1桁台。しかも、ピチピチのLv.1だ。こんなの、脛に傷のある輩からしたら、どうぞ狙って下さいと言っている様なものである。
Lv.2になるまで単独でのダンジョン探索は認められなかったという話だが、それも絶対ではない。極論、街で迷子になった時を狙われる可能性もあったのだ。強固な情報規制は一種の防衛策だったのだろう。
「へぇ、アミッド先輩くわしいですね!」
「【ロキ・ファミリア】とは前から懇意にしていましたし、マシロさんとも、彼が冒険者になる前から交流がありましたから」
「じゃあ、小っちゃい頃のマシロさんと会った事あるんですか!? 良いなぁ、今でもあんなに可愛いんだから、昔はもっと可愛かったんですよね!?」
「ええ、それはもう天使のよう―――いえ、彼の名誉の為にこれ以上は言わないでおきます」
「いや、もうソレ殆ど言ってますよ……」
後輩からの生暖かいツッコミを咳払いで追い返しつつ、聖女は何食わぬ顔で続けた。
「それにしても、貴女は随分マシロさんにご執心ですね。先程の発言を聞く限り、彼を認知したのは最近のようですが……」
「うぅ、ニワカでごめんなさぁい! でも私、ショタコンなんで、マシロさんにドストライクなんです!!」
「しょ、しょた……? なんです、それは?」
「知らないなら良いです! はぁ、【剣姫】さん良いなぁ。私もあんな弟欲しかったなぁ」
「……一応忠告しておきますが、アイズさんの前でその様な発言はしない様に。もしマシロさんを弟扱いしている所を彼女に見られでもしたら、貴女は確実に天に還る事になります」
「あははは、そんな大袈裟な。でも、そう言うって事は、やっぱり【剣姫】さんって超ド級のブラコンなんですねぇ。リハビリに付き合ってる様子とか、毎日お見舞いに来てる事とかから察してはいましたケド」
どうやら、この後輩
マシロの退院までは、まだあと1週間もある。1週間……今の認識のまま、アイズが居座る治療院で勤務させるのは余りにも危険だ。そう判断した聖女は、アイズが如何に狂っているのかを実際のエピソードと共に語って聞かせようとした。
けれど、その前に聞き捨てならない台詞が彼女の口から飛び出す。
「てか、今日もここに泊まってくんですかね〜? 【剣姫】さん」
ドクンと、心臓が震えた。
これまでの声量とは一変、囁く様に呟かれた質問は、廊下を歩く周囲の人間には聞こえていない。耳朶に捉える事ができたのは隣にいた聖女ぐらいだろう。
それ自体は不幸中の幸いである。しかし、同時に今の発言が冗談ではない事の証明でもあった。彼女は分かっているのだろう。『アイズ・ヴァレンシュタインが治療院に泊まり込んでいる』……その事実を、外部に漏らしてはならない事を。
と言うのも、このアイズの泊まり込み、実はファミリアが正式に認めた訳ではないのだ。殆どアミッドが独断で許可した様なモノなのである。それもその筈で、治療院というのは、動けない患者や危険な薬品の巣窟である。そんな場所に部外者が時間を無視して入り浸るとなれば、抵抗感や不安感を覚える者も少なくないだろう。
また、この件が外部に漏れれば、「だったら自分も泊まり込みで看病させろ」と言い出す家族や友人が現れる事も考えられる。そして、それを拒めば「【剣姫】だけ特別扱いか?」と、大顰蹙を買うこと請け合いだ。
どう考えても公表するメリットがない。
【ディアンケヒト・ファミリア】にとっても【ロキ・ファミリア】にとっても。
故に、アミッドは情報統制を行なった。
この手の隠し事は、関知する人間が多ければ多い程、漏洩のリスクが高まる。
なので、【剣姫】の泊まり込みは、アミッドと主神のディアンケヒト。そして、数人のベテラン
だというのに……。
「何故ソレを……!? 情報源はどこですかッ」
知ってはいけない事を知っている後輩に、前のめりで捲し立てる。すると、予想に反して彼女はキョトンとしながら答えた。
「あ、え? もしかして、本当に【剣姫】さん泊まってるんですか?」
「…………え?」
「い、いや、正直、そうなのかな〜ぐらいの感じで、カマかけてみただけだったんですケド……」
「――――」
どうやら、完全にアミッドの早トチリだったらしい。
聖女は、ゆっくりジンワリ時間をかけながら、己の迂闊さを呪った。
しかし、すぐに気持ちを切り替える。幸い、真実を知ってしまったのは彼女ひとり。たったのひとり増えただけなら制御も容易い。後で口止めはするとして、今は確認すべきは―――。
「……どうして、そう思ったのですか?」
「どうしてって言うか、昨日誰かがそんな噂話をしているのをたまたま聞いたんです。実際【剣姫】さん毎日ここにいるし、そういえば来るところも帰るところも見た記憶ないなって思って……」
「………」
それは完全に盲点だった。
確かに、【剣姫】は朝から晩までこの建物内で生活している。それが毎日で、おまけに誰も行き帰りの瞬間を見ていないとなれば、そういう憶測が飛び交うのも無理はない。
仮に1日中マシロの病室で息を潜めていれば、『来ていない日』と偽る事もできただろう。しかし、厄介にもこの姉は、日に最低3回は騒音にならない程度の発作を起こすのだ。要するに、病室の前を通れば来客があると分かるぐらいの声量で実の弟とイチャ付いていやがるのである。
オマケに最近は、必ずリハビリルームにも出没するようにもなった。
解禁されてから毎日欠かさずリハビリを行うマシロに付き添っているからだ。
無論、意欲的にリハビリに励んでくれるのは喜しいが、今回ばかりはその勤勉さが裏目に出てしまった。
部屋に籠っていても話し声でバレ、リハビリの時間には確定で姿を晒す。
とにかく、このままではいけない。【剣姫】アイズ・ヴァレンシュタインには熱狂的なファンも多く、彼ら彼女らがその気になれば、直ぐにでも泊まり込みの決定的な証拠を掴まれるだろう。
とは言え、疑惑の種をバラ撒いているのがアイズ本人である以上、件の噂話をしていたという人物を責め立てるのは理不尽というモノ。文句は全て、元凶たる当人にぶつけるべきでだろう。
「すみません。急用を思い出したので、ここで失礼します。それと、今の話はどうか内密に」
「え、ちょ? どこ行くんですか、アミッド先輩〜?」
後輩の声を背中で聞きながら、聖女は修羅の形相で天然少女の元に向かうのだった。
◆
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鈍い音が聞こえた。
掌に硬い様で柔らかい衝撃が伝わった。
鉄の匂いが広がり出した。
「え………?」
それが自分の声だと気づくのに数秒かかる。
聞くに耐えないほど掠れた酷い声だったが、恥ずかしがる余裕など持てなかった。だって、そんな些細な事など、どうでも良くなる程の光景が、眼前に広がっていたから。
いやだ。
見たくない。
理解したくない。
消えろ。
無くなれ。
これまでみたいに、
そう切望しているのに、一向に目は覚めない。
どうしてだろう?
早く
早く、瞼を開け放ち、現実の光が見たい。
早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く
早く起きて!
だって、これは夢だから!
現実な訳ないんだから!
ガシャン―――
足元で大きな音がした。
硬い何かが、硬い床に落ちた音だ。
それは、いつも私が座っていた木製の椅子……だった物だ。今はもう、背もたれが大破し、座面の一部も歪んでしまって、とても降ろした腰を支えられそうにない。しかも、真っ赤な液体と濃い鉄の匂いが染み付いている。
それが、今、私の手から滑り落ちたみたいだ。
どうしてこうなったんだっけ??
どうしよう、治療院の椅子を壊しちゃった……。アミッドに怒られる……。
こんな事になるなら、あんなに乱暴に振り抜かなければ良かった。
「……………ッッッ!!!」
違う……違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!!
私はしてない、こんな事!
するつもりなかった!!
こんなの嘘だ!
夢だ!!
こんなの、こんなの現実な訳がない!!
だって……こんなの………
嘘みたいに明るい昼前の病室で、アイズ・ヴァレンシュタインは赤い姿で立ち尽くしていた。金の長髪から滴り落ちるのは、どこまで行っても赤赤赤。際限なく赤赤赤。汗と混ざって頬を濡らすのも、肩口を彩るのも、全て変わり映えの無い赤一色。
無論、彼女の身体の出血ではない。
顔のから肩までベッタリとついているコレは、全て返り血だ。
つい今し方取り落とした
床も、ベッドも、壁も、天井にさえ鮮血が飛び散っており、この場所が、凄惨な殺人の犯行現場であることは疑いようも無い。
存在しているのは、立ち尽くすアイズ・ヴァレンシュタインと、ベッドから床に倒れ落ちたマシロ・ヴァレンシュタインの2人だけ。
幸い、マシロはアイズと違い、身体の一部にしか忌まわしき赤は取り憑いていなかった。
彼が赤いのは頭のみ。
強すぎる衝撃を受け止めきれず、簡単に砕け散った頭蓋だけが血に染まっている。しかし、そこから容赦なく流れ出る液体の量は圧巻の一言だった。
湯水の如く湧いて出る赤が、あっという間に床に広がり全てを呑み込んでゆく。
彼の血がアイズの足元まで到達し、そこに最愛を襲撃した
どうか皆様、可哀想な椅子くんに黙祷を