「え? な、なに? アミッド……?」
「いいから、こちらに来て下さい」
朝の診察を終え、一度は病室を後にした筈の聖女が再訪室した時、マシロは『鬼が戻って来た』と思った。人形の様な美人と定評のある彼女を『鬼』と表現するのは些か失礼かも知れないが、そのぐらい怖かったのだから仕方ない。
険しい表情をした
が、あの氷点以下の瞳と有無を言わせぬ強引さ……多分、説教か説教か、あるいは説教だろう。無論、本気でビビり散らかす【剣姫】には同情の一言だが、下手に庇って飛び火するのも嫌なので、マシロは「助けて、シロ!?」と涙目で懇願する姉を
さて、アイズが居ない病室というのも久しぶりである。本来はそれが当たり前の筈だが、目覚めてからずっと一緒だった為、たったひとりの空間というこのは中々物珍しい。
「…………静かだな」
無意識の呟きが空気に溶けた。
喋って、なんの反応も返ってこない。それが、今のマシロには新鮮だった。これまでは殆どの時間アイズが居て、絶対に何かしらのリアクションを返してくれたから。
「なんか、暇だな……」
なんて事ない沈黙が、酷く虚しく感じられる。
耳鳴りがする。空気が重たい。
こんなの少し前なら普通だった筈なのに、今は味気なく思えて仕方が無かった。
早く帰ってこないかな……。
そんなセリフが口から零れ落ちそうになった直後だ。
コンコンと、病室のドアがノックされた。
「はいっ」
なんだ、もう帰ってきたのかと、ドアにかけるマシロの声が自然と弾む。しかし、残念ながら、板の向こうから聞こえて来たのはアイズの声ではなかった。
「失礼しまぁす」
それどころか、聞き覚えすらない女の声だ。【ロキ・ファミリア】の誰かでもなければ、アミッドやヘスティアでもない。けれど、その面子以外にわざわざお見舞いに来てくれる様な女性に心当たりはなく……マシロは少し身構えながら開く扉を注視した。
現れたのは、綺麗な黒髪を腰まで伸ばした別段特徴のない
「あの……何か?」
困惑と、少しの落胆もあり、マシロはぶっきらぼうに尋ねる。
対して、謎の
「こんにちは! マシロ・ヴァレンシュタインさん!」
「あ、ああ……こんにちは………?」
「突然ですけど、マシロちゃんって呼んで良いですか!?」
「ホントに突然だな……嫌だよ、何なんだアンタ?」
「じゃあ、マーくんって呼びますね!」
「何が、じゃあだ!? 嫌だっつってんだろ!?」
「私、実はマーくんの担当医になる予定だったんですよぉ?」
「………」
マシロは、早々に彼女との会話のキャッチボールを諦めた。だって、向こうに明らかにその気がないから。正直、意味不明すぎて恐怖すら覚えるが、今の所敵意は感じられない。何か重要な連絡があるのかも知れないし、一先ずはこの訳のわからない来訪者の言葉に耳を傾ける事にした。しかし、続く言葉はというと……。
「私ってショタコンなんですよねぇ」
「は、はぁ……」
「ショタコンって意味分かります?」
「知らん」
が、なんとなく神々が好んで使っていそうな言葉な気がする。つまり、碌でもない単語だ。して、その予想は大正解だった。
「私、小さい男の子が好きなんです!」
「………!?」
嬉々として語られたのは、ドン引き過ぎる
「いやぁ、驚いてるお顔も可愛いですね〜。世間じゃ、【リトル・ルーキー】が騒がれてますが、私は断然マーくん派です! そもそも、【リトル・ルーキー】って小柄ではありますけど、普通に大半の女性より大きいじゃないですか? アレでショタの代表面されても困りますよね〜」
「………もういい。さっさと用件を言え」
どうやら彼女は相当疲れ果てているらしい。でなければ、脈絡もなく、患者に対しこんな意味不明な発言をする筈がない。医療系と言うだけあり、きっと【ディアンケヒト・ファミリア】の労働条件は探索系に負けず劣らず過酷なのだろう。その点は同情するが、流石にこれ以上は、此方の気もおかしくなりそうだ。故に、マシロは催促する。ソレを受け、黒髪の少女は「えー、もっと雑談しいのに〜」という枕詞をかましつつ本題に入る。
「マーくんって、とっても傷の治りが早いんですよ?」
「……? まあ、それは俺も思ってたが……」
彼女の口から飛び出たのは、マシロも不思議に感じていた事柄だった。アミッド凄いで片付ける事も出来るのかも知れないが、自分の傷は自分がよく分かっている。様々な条件を考慮しても、あれは聖女ですら取り零しかねない状態だったと言えるだろう。何せ、マシロ自身が行使したゴミスキルの影響で治療行為そのものが行えなかったのだから。本来、治療が遅れた分、治りが遅くなって然るべきである。
「なんで、そんなに早いんでしょう? 不可解です。そして、不可解な事には必ず理由がある。マーくんも、そう思いませんか?」
「……それは、そうだな」
「ですよね!? だから、アミッド先輩に調べようって進言したんですけど、あんまり乗り気じゃないみたいで……でも、マーくんがこのまま退院しちゃったら迷宮入りなんですよ〜」
「なるほど……」
マシロは、彼女の言いたい事を理解した。
確かに、『超回復の秘密を探りたいから身体を調べさせろ』というのは最もな言い分だろう。この黒髪の女は
「駄目ですか?」
「…………」
マシロは少し考え込む。
この話を飲めば、入院日数が延びるのは確定だろう。当然だが、その分費用は嵩む。いい加減、
けれど、仮に自分の身に起きた現象が解明されれば、この先冒険者達の生存率を大幅に上げる事になるだろう。それは、【ロキ・ファミリア】の仲間を助ける事にも繋がるに違いない。その両者を天秤にかけて前者を選ぶ人間はいないだろう。マシロには、断る理由が思い浮かばなかった。
「分かった。俺はどうしたら良い?」
「ありがとうございます! では、まず右手を出して貰って良いですか?」
了承の意を伝えると、彼女は無邪気な笑顔で喜んだ。純粋無垢なその姿はまるで子供の様で、とてもアミッドと同じ
とにかく、マシロは言われた通り右手を差し出す。完治した手首の具合を観察するのか、何かしら魔法を使って調べるのかは不明だが、どちらにせよ門外漢のマシロには分からぬ事だ。こういう時は、何も考えず専門職に任せるのが1番。
故に、マシロは治ったばかりの自身の右手首に近づいてくる他者の左手を、一切警戒しなかった。
次の瞬間―――
「!!?」
ガッと、黒い
とてつもない握力だったのだ。まるで【力】のアビリティに特化した上級冒険者にでも掴まれているんじゃないかというパワーが、彼女の左手には込められている。マシロの腕は見かけ上は細い。そこらの女性と比べても圧倒的に枝だ。けれど、腐ってもLv.3……実際の骨密度は筋骨隆々な下級冒険者のソレを遥かに凌駕する。
なのに、こんな細身の
「なんのつもりだ!? 放せ!」
「バカですねぇ、マーくんは。アミッド先輩でもないのに、専用機器も無しに調べられる訳ないじゃないですか〜」
「……!」
黒髪の少女の笑みは、すっかり嗜虐的なものに変わっていた。最早、別人に見えるレベルだ。丸く見開かれた2つの黒目が、彼女の異常性を存分に伝えてくる。
「どうせマーくんが良いと言っても、アミッド先輩は『うん』とは言いません。でも、こうして手首を砕けば、入院を延長せざるを得ないでしょう? その間に、先輩を説得できるかも知れません」
「てめぇ……!」
「ああ、ついでにちょっと実験もしておきましょうか」
カラカラと嗤いながら、彼女は何処からかナイフを取り出した。
嫌にギラついて見えるソレに、マシロはこの異常者の意図を理解する。さらに激しく暴れるが、奴の左手は此方の右手首に溶接されているかの様に微動だにしなかった。
「新しい傷も作ってみましょう。治りの早い部位遅い部位、早い傷の種類遅い傷の種類。色々あるかもしれません!」
実に愉しそうに、少女は口端を釣り上げる。紅潮した頬と、爛々と輝く丸い瞳には、確かな狂気が宿っていた。それは一種の美しさや妖しい色気を孕んでおり、手首を掴まれたのが大人だったなら、危機的状況も相まって虜にされてしまったかも知れない。
けれど、12歳のマシロにとって目の前の女は恐怖の対象でしかなかった。当然、性的興奮を覚える筈もなく……強張った銀色の瞳にナイフの鋒が刺し迫る。
が、
その刃は、マシロの眼球の直前で停止した。
良心の呵責に耐えかねた彼女が、ギリギリで思い止まった訳ではない。
少女の白い手首を、それ以上に透き通った誰かの手が握っているのだ。リンゴも持てなさそうな華奢さだが、その実相当な力が込められている様で、
「なに、してるの?」
感情のない声というのは、こういうモノを言うのだろう。
激昂とは無縁の平坦な肉声。
しかし、何故か心臓が縮こまるかのような声色が、いつの間にか戻って来ていた金の少女の口から放たれた。
「アイ…ズ………」
アイズ・ヴァレンシュタインの登場に、確実に室内の空気が変わる。先程までは圧倒的な強者として君臨していた黒い
「シロから離れて」
「はいはーい」
淡々としたアイズの要求を、少女が朗らかに聞き入れる。ようやく解放されたマシロの右手首は、狂人の手形がクッキリと付いていた。付けた相手が相手なだけに、消えない呪いの印のように思えて不気味である。
そして、そう見えたのは当人だけではないのだろう。 圧迫されていたマシロの手首を改めて確認したアイズから、初めて感情的な息遣いが漏れた。しかし、それでも【剣姫】が激情を顕にすることは無く。
何処までも静謐に、無味無臭に、黒い
だと言うのに、黒い
「あなたは誰?」
「さあ、誰でしょう? 誰だと思います??」
「………」
「正解は、マーくんのファンでぇす!」
「もういい」
緊張感のない返答に冷たく言い放つと、アイズは無音でベッド横の椅子に手を伸ばした。ゆるりと椅子の向きが逆さになる。【剣姫】が、脚を掴んだからだ。いったい何をするつもりなのか……その問いは愚問だろう。あまりにも自然な動作だったが故に数秒ただただ見惚れてしまったが、マシロは即座に姉が何をしようとしているのか理解した。
「は? おい、アイズ……?」
声をかけるが、姉は止まらない。何の躊躇もなく、超えてはならない一線を越えようとしている。その先に踏み込めば、待っているのは深い暗闇だ。今まで築き上げて来た物を全て捨てる事になるだろう。
けれど、そんなのお構いなしに。
まるで当然の帰結であるかの様に、気負いも力みも無くアイズは艶やかな腕を振るった。
黒髪の
このままでは間違いなく彼女は死に、アイズは殺人鬼に堕ちる。そんなのは嫌だ。許される訳がない。
だから、マシロはとっさに己の身体を滑り込ませた。
結果―――
アイズ・ヴァレンシュタインの手によって、マシロ・ヴァレンシュタインの頭部が砕かれた。
暗転する。
深刻なダメージを受け、頭と目と鼻と口から血が溢れ出す。
痛みはない。多分、ソレを感じる為の機能が死んでいる。
快楽はある。死の間際はそういうものだと、何処かで聞いた。
あの時よりもよっぽど死が近いのに、死の恐怖に心が呑まれない。もう、そんな気力も残っていないからか。それとも……姉と仲直り出来たからなのか……。きっと、後者な気がする。
………アイズは、どうしただろうか?
冒険者である以上、人を殺めた経験はあるだろう。けど、仲間を手にかけたのは、きっとコレが初めてだ。でも、事故みたいなものだから気にしないでほしい。全然苦しくないし、痛くもないから、罪悪感とか、抱かなくていいから。
………身内だし、ギルドに罰せられるとかも無いよな? あの
まあ、その辺は、フィン達が…うまくやるか………
ティオナも、ティオネも、レフィーヤも……いるし
ああ、よかった……
仲直りしといて……よかっ
◇
◇
◇
◇
◇
◇
◇
この日、マシロ・ヴァレンシュタインは死んだ。否、心臓が止まった。
そう、心臓が止まったのだ。
同じ事と思うかも知れないが、そうではない。
何故なら、まだ脳死まではしていないからだ。ただ、心肺停止状態に陥っているだけ。
無論、危険な状態である事には変わりない。正味な話、この状態の患者を蘇生できる
しかし、マシロ・ヴァレンシュタインは豪運の持ち主である。あのアイズ・ヴァレンシュタインの弟に生まれるだけでは飽き足らず、彼女の弟だからと言う理由で【ロキ・ファミリア】に拾われ、安全な環境で育てられたのだから。
まして、
これだけ美味しい思いをしておきながら、奴の運はまだ尽きていない。ここには、【ディアンケヒト・ファミリア】が運営する治療院―――つまり、【
マシロの心臓が止まったのは、朝。
ばっちり業務時間内での出来事である。当然、アミッドも建物内で働いている時間帯てあり、それどころか、その他大勢の職員や入院患者、果ては患者のファミリアや主神、友人までもが治療院内を練り歩いているだろう。この条件下で、誰にも発見されずに事切れるというのは、逆に難易度が高い。
事実、お姉ちゃんの後を追って来たらしい
流石にまだ目覚めてはいない様だが、頭蓋が砕かれたのに生き延びるなんて、どれだけ生き汚い生き物なのだろうか? きっと、産まれてくる時、『人格』や『慎ましさ』なんかをアリアの腹の中に置いて来てしまったのだろう。
でもまあ、姉さんが意識を失っている今なら、あの病室には誰も居ません。姉さんはきっと、正義感から『アレ』を庇うでしょう。
そして、他の人間もいないでしょう。だって、もう夜だもん。勤務時間はとっくに過ぎてる。それを越してまで、『アレ』の護衛に付く奴なんていない。そんな奇特な奴が存在する訳ないじゃないか。その証拠に、この治療院に入ってからまだ誰ともエンカウントしていません。けれど、流石に警備の者が1人もいない事はないでしょうから、迅速に用件を済ませましょう。
さっさと『アレ』を食べてしまいましょう―――。
ああ、楽しみだなぁ。この扉を開けば、無防備に寝ている『アレ』がいるんだ。今度こそ『アレ』を食い尽くして、僕も
ああ、ああ……! 胸が躍るなぁ!
こうしてドアノブを回して、扉を開けている最中も、ドキドキが止まらない!!
完全に扉を開け放った時、私はどうなってしまうんでしょうか!?
ああ、でも、もう遅い! もう、9割以上開けてしまった!
この状態で扉を閉め直すなんて考えられない! 時間の無駄!
気を確かに持て! 僕! 私!
今からこんなでは、いざ『アレ』を喰ってアイズお姉ちゃんと家族になった時、耐えられないぞ!!?
さあ、深呼吸して? 落ち着いて? 一息に、部屋の中を見よう!!
「やあ、遅かったね―――」
「――――――!!!??」
ザシュッッツ―――――
病室の中で、『アレ』じゃない誰かの姿と声を確認した瞬間、私は獰猛な槍牙に貫かれてしまいました。とても痛いです。胸を貫かれて酷く苦しい。ごめんなさい、アイズお姉ちゃん。僕はどうやらここまでみたい。でも、悲しまないでね?? 私はいつも、あなたの心の中にいるから……。
なんて思っていたら、槍が消えてしまいました。傷もです。血なんて一滴も出ていません。アイズさんに相応しい私の白くて綺麗な肌は一切穢されていませんでした。けれど、息苦しさや痛みは確かにあります。なんなら、絶賛胃液をリバース中です。
僕は、呼吸を整えながら気付いたんだ。今のは、殺気に当てられたんだって。そして、ソレを向けて来たのが誰なのかも……。
「ひ、酷いなぁ? 僕を虐めたら、アイズお姉ちゃんが黙ってないからね?」
「生憎、アイズは今眠り姫状態でね。仮にそうでなかったとしても、心配は不要だよ。その場合、ここで君を待ち受けるのはアイズになっていただろうから」
僕の台詞に優雅に返したのは、僕や『アレ』よりも小さな冒険者だった。でも、『アレ』なんかより100倍は厄介な存在でもある。黄金色の髪に蒼穹色の瞳を持ったその人は、
【
迷宮都市オラリオ有数の第一級冒険者にして【ロキ・ファミリア】の棟梁。
そしてなにより、近い将来、私の父の様な存在になる人なのです! だってアイズさんと家族になれば、必然的に僕も【ロキ・ファミリア】の一員だからね。そうだ、今の内に呼び方を練習しておこう。
「私に何の用ですか? フィン団長」
「………」
「ん? どうかしたの、団長? もしかして、気分でも悪い?」
そう言えば、団長の顔には一切笑みがない。いつも大人の余裕を崩さないというのに……。何か嫌なことでもあったのだろうか? そう心配していると、ようやく団長は理由を話し始めてくれた。
「いや、すまない。気分が悪いのは本当だけど気にしないでくれ」
「そうですか? 無理しないで下さいね、団長!」
「………そうだね。色々と言いたい事もあるけれど……まず、1つ」
ベッドの下から取り出した槍を此方に向けて、フィン団長は言った。その碧眼に狂猛な光を携えて。
「君に団長と呼ばれる謂れはないよ」