具体的に言えば内容や描写の増補とか校正もあるので。
連休前なのにコロナ増えまくってるようなので、手洗いと消毒は指先やつめの間、手のひらのシワのところまでしっかり行いましょう。手首まで洗えばなおヨシ!
篝火の焚かれた村の広場の中央で剣を抜き放つ二人の男の間に緊張感が走る。固唾をのんで見守る村人たちをよそに、男たちがゆっくりと剣を構えて己の得物を向けあう。
片方は黄金の髪と赤い瞳の剣士、ルイス・ローデンバッハ。野盗に襲われたこの村を救ってくれた紛うことなく我々にとっての英雄は、革鎧と金属鎧を部分的に組み合わせた重ね着で、ローブを纏う姿からしてもまさしく旅人という風体だ。
もう片方は青い髪と黒い瞳の剣士、ブレイン・アングラウス。野盗に用心棒として雇われたらしい、リ・エスティーゼでも一二を争った剣士の片割れ。普通のシャツに普通のズボンという軽装だが、その腰に収まった白塗りの鞘から抜き放たれた剣はまさに名刀だ。
「あんた……いったいどなっちまうんだい……」
「わからん。……俺にもわからん……だが、どちらかが死ぬということはわかる」
金の影は刀を地に向け、青い影は正面に真っすぐ構える。お互いの目は目の前の敵にしっかりと向けられていて、広場を囲む人々が見守る中でただ時間が過ぎていく。
「おーい! 村長! みんなを助けてきたぞ!」
背中越しに聞こえた呼び声。その瞬間、均衡が崩れた。
振り下ろした剣が軽々と受け止められた。いや、俺が動き出して振り下ろすまでの間にあのルイスという男は先んじて剣を振り上げたのだ! 出がかりの一瞬、刹那の時をまるで予期したかのように剣を振り上げ、速度と威力が乗る前に受け止めて見せやがった!
「くっ!」
キンッ、という甲高い音と共に弾かれるように押し出された剣を手元に戻し、振り上げからの切り下げを受け流す。返す刀で突きを二回。ヒュウ、と風を切るように突きを放つも、これをヤツは読み切ったように身をよじり体幹をずらして回避される。
「ハッ!」
姿勢を崩した、と思われた回避からの踏み込み。逆に下から突き上げるように放たれた突きが俺の心臓にめがけて放たれる。咄嗟に右足で蹴って跳び、ごろごろと転がるように剣を逃れる。
……やはり強い。この男を相手に武技抜きでやりあうのは自分の死を早めるだけでしかない。全力を懸けるに値する強者だ!
踏み込みと同時に片手での突きを見舞うものの半歩ほどヤツは足を動かして一突きを回避する。二度目の突きも同じように木の葉の舞うような緩やかな動作で回避される。
「クソッ!」
「落ち着け。闇雲に突いたってあたりゃしない」
切り上げてから振り下ろす三度目の突き。それも突き下ろすように、ヤツの右腕を狙って放った一撃はヤツが無造作に薙ぐように剣を振るうと同時に払われる。剣の腕については俺はまだまだだが、居合いと突きの速さには自信があったのに、“こんなものか”と言わんばかりに悉くが回避され、いなされ、かすり傷どころかヤツのローブにすら触れられない!
「フゥゥーッ、ハァァ……」
「どうした息切れか? 持久力不足だな」
「フッ、ハァッ……あいにくだな、フゥッ……俺はここからだ!」
甲高い剣戟のぶつかる音とただ空を切る刃の音色が広場に響く。入れ替わり立ち代わりで剣をぶつけ合う。暗闇の中で篝火の明かりが刀身に写り込むたびに、目の前の男の底知れない技量に身震いが止まらない。
「ちょこまかとっ!」
「頭に血が上ってるんじゃないのか? 冷静でなけりゃ勝てる戦いも勝てないぞ」
「俺を舐めたやり方をされて腹を立てないわけねーだろ!」
「それは失礼。じゃあいくぞ!」
キィンッと弾かれるばかりだった刀身が突然に、するりと何の手ごたえもなく弾かれる。受け止められた? 違う、弾かれたわけでもない。じゃあ今のは──?
「突きを二回だ」
「──っぉぉぉォォォッ!」
思考する暇もない! 一瞬で眼前に迫る白刃の煌めきを横っ飛びで避けるが、ビュウッとシャツを裂いて刃が脇を掠める。二回目の突きを峰に左手を添えて受け止め、誘いを含めて小刻みに振り下ろしと左薙ぎのコンビネーション。せめて手傷を──そう思った右薙ぎもヤツが引き戻す最中に右手から剣を手放したことで空を切るに終わる。
「別に右手で振るだけが能じゃないだろ?」
まるで引き寄せられるかのようにヤツの左手に剣が収まる。俺が薙ぎ払うのに追随するように、ヤツの左薙ぎが走る。
汗が止まらない。ヤツの剣を受ける度に息が荒くなる。どれだけ小手先の技術を駆使しても容易く上回られる。所々に武技<領域>を使ってまでカウンターを打ち込んでいるというのに、それでも動きを捉えられないなんて!
「ま、だだだぁっ!」
「よく避ける!」
「俺だって修羅場は潜ってきた!」
直感に従って寸でのところで体を引き戻し、振り切る寸前の剣の勢いのままぐるりと一回転。勢いを乗せてそのまま薙ぎ払うと、ヤツは峰に右手を添えてかちあげるように俺の剣を弾く。そのまま踏ん張って振り下ろし、振り切った剣を右下から左上への切り上げに繋ぐ。そしてそのままぐっと引き絞り突きを放つ。
だがそれも回避され、突きは当たり前と言わんばかりに相手の刀でいなされて弾かれる。お返しと言わんばかりに手首を狙った一刀をバックステップで距離をとって回避。右腰に構えなおして右から左への薙ぎの一閃。牽制にと放たれた剣を受けたのを見て、即座に足元を払うように返す刀で切り払う────
「ふっ!」
「……ぅっ!?」
斬れる──そう確信した足元への切り払いは空を切った。先ほどまで見えていた足先はどこにもない。
ヤツは両腕を広げ、“地にかがんだような”姿で空中に跳ぶことで振り抜かれた剣を紙一重で避けて見せたのだと刹那の一閃の中で理解した。その姿はさながら獲物を狩る大鷹や梟が翼を広げて襲い掛かるようで、今の俺はまさに狩られる側なのだと直感でわかった。
「っ、おぉぉぉっ!」
ヤツの腕が真上に伸びる。空中で振り上げられた、赤い炎の揺らめきを映す刃。そのままヤツの足が地に着けば同時に振り下ろされた剣が俺を両断して過ぎ去る。まだ、死にたくない。俺はまだ死ねない。剣を極めるまで、ここで死ぬわけにはいかない!
「避けたか!?」
ぐるぐると視界が回る。無様にも、みっともなくも、恥も外聞も投げ捨てるように身を投げて剣を寸でのところで避けきった。ギャラリーどものざわめきもさっきの一瞬、命の駆け引きの瞬間の前には虫の音も同然。それほどにまで俺はヤツの剣に集中しきっている。
だが今の手でおよそ力量はわかった……相手は余裕さえあるほどの巧者だ。正面からの剣の腕では俺は太刀打ちできない。いなされ、払われ、返す一手で両断されてしまうだろう。で、あれば全速全力を以ってヤツの剣が俺に届く前に斬り捨てるのみだ!
「武技<領域>」
「…………そいつは?」
「俺のオリジナルの武技さ。使うからには決める。悪く思うな」
見るからにヤツの警戒心が増している。見たことが無い武技だとわかった瞬間に肌を刺すような威圧が増した。圧倒する力、上を行く技量、確かにヤツは俺よりも強いが……俺は自身の研鑽がヤツを超えることができるという自負がある。
この場に至るまでに鍔迫り合いのような力押しの拮抗は一度たりとてなかった。ヤツは全ての剣を読み抜いて見定めるように回避する。回避しない場合も力任せではなく、弾くのに最適なタイミングで俺の剣を弾き返す。
────俺は、試されている。ならば全霊を剣に賭して挑むしかない!
「居合いを使うか」
「そうか、“イアイ”というのか、これは」
「ああ。ならば俺も迎え撃たねばなるまい」
俺が鞘に剣を収めると、ヤツも剣を鞘に収めた。周囲のざわめきが大きくなる。ようやく争いが終わるのだと思っているがそれは違う。鞘に収めたのは“確実に敵を斬るため”でしかない。
再び柄に手をかける。するとヤツは親指で鍔を押し、僅かに刀身を押し出してみせた。あれだけの使い手が何の意味もなくするとは思えない。剣がここにあると見せつけて気を引くためか、あるいは剣の長さを誤認させるためか……どちらにしても俺が先に切ればいいだけの話だ。
「お前、雇われだったな?」
集中力を高める……その中で不意にヤツから声がかかる。
「……そうだが?」
「なら、雇われる気はあるか?」
「お前さんに?」
「いいや、この村にだ。今後二年間、村の用心棒として働いてもらう。報酬は前払いで……この刀でどうだ?」
「……なんで今そんな話をする? お前さん、死ぬかもしれないんだぞ」
「なんでって言われてもな。俺が勝つからに決まっているだろう?」
「……ふざけてんのか、テメェ」
いかん、これはヤツの策だ。集中力を殺ぐために仕掛けてきただけのことだ。感情に呑まれずただあのそっ首を撥ね落とすだけだ。<領域>は十全に働いている。ヤツも剣に手をかけてじりじりと射程内に収めようとにじり寄っている。ヤツの足先、そこさえ俺の領域内に入ればそれで十分だ。
あと一歩だ。あと一歩で領域はお前を捉える。
────じり、と足先が地を擦る。
あとリンゴ二つ分だ。赤い華を咲かせてやる。
────じり、と足先が地を擦る。
あと一つ、野イチゴが一個分。もう少しだ。
────じり、と足先が地を──
……捉えた!
「ハアアアァァァッ!」
一瞬で引き抜かれた剣の軌跡が翔ける。一直線に、ヤツの頸を切り落とさんと走り始め────
「むんっ!」
空を翔ける鳥よりも早い閃光が走った。バキンッ、と鈍い音を響かせて鈍色の欠片が宙に舞う。鞘の内から引き抜かれたヤツの剣が一閃し、俺の剣を砕いて過ぎさったのだと遅まきながらに理解した。理解できてしまった。
打ち上げられ、半ばから折れた俺の愛刀。その折れた切っ先が空を舞って俺の傍らに転がる。剣を振り抜いた姿勢からゆっくりと体を戻し、その剣を鞘に納めたヤツは不敵に笑みを浮かべた。
「ほぅら、俺の勝ちだ」
……武器が無いのでは意味がない。剣を折られたのでは打ち合えない。いや、それ以上に……俺の中でもっと大切な何かがへし折られたのだ。プライド、努力、研鑽、決意、意地、今まで信じてきた何かが圧倒的なナニカによって完膚なきまでに打倒されてしまった。
「────ああ、俺の負けだ。二言は無い。もっていけ」
完膚無きまでの敗北。ただ跪いて死を受け入れるのみだ。自分は善人ではないし、むしろ悪党の類と呼ばれてもおかしくはない生き方をしてきた。後悔はないが、心残りなのは剣の極みへと至れなかったことだろうか。
「じゃ、コイツをお前にやる」
「……いや、俺は負けたんだぞ。剣の勝負で、命を懸けて、負けたんだぞ!」
「だからさ。俺がお前の命を拾った。だからお前に仕事をしてもらう。それでこの剣は報酬の前払いだ。剣も無しに用心棒をしろなんて言うほど薄情じゃないんだ。
負けは負けだ。つべこべ言わず、その拾った命を押し付けられた仕事のために使ってもらう」
「いいのか? 俺はあいつら……野盗同然の傭兵に用心棒として雇われてたんだぞ? そんなのをいきなり雇って村に置くなんぞ、村の人間が認めないだろう」
俺を打ち負かしたルイスという男は手にしていた刀を鞘ごと抜いて俺の前に差し出してきた。この男はここまでして一体俺にどうしろと言うのだろう。
「普通はそうだな。だがお前は剣にすべてを懸けた……そうだろう? 別に剣を折られただけなら逃げるもできたし、なんなら人質を取るくらいはできる時間があった。けどお前は逃げることもせず、自身が負けたと認めて
「……ハァ、敵わんな。お前さん……いや、師の温情に感謝する」
「……どうしてそうなるんだ?」
「命を救われ、刀まで授けられたんだ。おまけに剣の道も見えた。なら師と呼ぶべきだろ?」
はぁ、これから二年間はタダ働きだ。しかし授けられたこの剣は俺が元々持っていたものよりさぞ上等なのだろう。この剣に懸けて、俺の剣を信じてくれた師のためにも、務めを果たさなければな。
「……村長さんよ、この戦い……俺の負けだ。この命、如何様にでも好きに使ってくれ」
俺から受け取った剣を村長の前に置き、ブレインが頭を下げて自身の負けを宣言した。ヤツ自身は憑き物が落ちたような、どこかスッキリした雰囲気さえ感じるがいきなり頭を下げられた村長は見るからに動揺が隠せていない。
しかし奥さんに後ろから突かれて決心したのか、剣を取り上げてブレインに言う。
「正直、あなたの言葉は……すぐには信用できない。我々はまさにこの野盗どもに虐げられ、奪われてきたのですから。恩人であるルイス様のお言葉があるとはいえ、そこは何も変わりません」
「……そうだ、ブレイン・アングラウスだろうが、俺はアンタなんぞ認めねぇ!」
「あたいだってそうだ! あんたが用心棒してたのは人殺しどもだ! そんなやつが今さら何を言ってんだか!」
「どうせただの命乞いだろ。さっさとその首撥ねちまえ!」
「あの金髪のヤツだってグルかもしれないんだ。ブレインと組んで狂言を仕掛けてるんじゃねぇのか?」
ブレインの言葉も空しいものに終わった。今の村人たちは怒りを向け、不信感を募らせている。今のこの状況を覆す手は無いだろう。信用や信頼というものは日々の積み重ねの中で生まれてくるものだ。それを今日会ったばかりの人間に信用しろと言ったって暖簾に腕押しでしかない。
「待ってください!」
不意に俺の前に一人の女が飛び出してきた。襤褸切れで身を隠した程度の華奢な体、こげ茶色の長い髪の少女と言っていい女。それに続くように数人の少女たちが俺周りを囲むように円陣を組んでいる。
「エミリアちゃん!?」
「アルヴィンとこのマリアンちゃん!? それにフーゴのとこの娘っ子まで!」
「何をやっているんだ!? そいつらから離れなさい!」
「いやです! 絶対に離れません! この人は私たちを助けてくれた人です!」
確かこの子たちは先ほどあの倉庫で助け出した少女たちだ。最低限身なりを整えた程度のままでここに来るなんて! 裸足だし寒さも感じているだろうに。それなのに俺が疑われているのを見て飛び出してきたのだろうか。
「この人は……私たちを犯していた野盗たちに報いを受けさせ、しかもダンジョンで見つけた貴重な
倉庫に居た6人もの野盗を相手に命がけで戦って! しかも人質にされた私を傷つけることなく救い出してくれたんです! 野盗相手に戦うなんて、自分が一番危険なことをしているのに……! なのに、見ず知らずの私たちに“危険な目にあわせてすまない”とまで言ってくれた人なんです!
この人がお金や食料目当ての卑しい人じゃないことは私たちが証明します!」
まだ幼い子もいるというのに、足が震えているというのに、この子たちは周りの大人たちに一歩も引かずに向き合っている。子どもらしい純粋な好意は美徳だし嬉しいものだけれど、果たしてそれが周りの大人にまで通用するのだろうか。
そんな中で一人の男……倉庫で俺に話しかけてきた男が人の輪を掻い潜って前に歩み出てくる。
「おい! おい! エミリア!」
「……お父さん」
「あ、ああ……よかった……! エミリア、エミリア……!」
感極まったのか、エミリアと呼ばれた彼女は父と涙ながらに再会を喜び合った。人目も気にせず抱きしめ、愛おしそうにお互いの無事に安堵している。
「辛い目にあわせて、すまない……! お父さんがもっと強ければ……こんなひどい目には……」
「大丈夫、大丈夫よお父さん。……ひどい目にはあったけど、この方のお陰で命が助かったんだもん」
「ルイス様、娘たちを救い出してくださり、まこと感謝の至りにございます!」
「……確かに受け取った。といっても俺自身にとっては昔取った杵柄というものだ。軍に居た頃の経験と技術が役に立つと思ってやったことだし、何よりあの子に……ヘレンに助けを求められたからに過ぎない。それに犠牲者を防げたわけでもない」
「いいえ! 犠牲は何をしようと確かに出たでしょう……ルイス様が襲撃に立ち会っていたとしても、あの数をたったお一人で抑えるなど土台無理な話です。二人、三人と野盗を殺している間にも、他の奴らが村人を殺してまわったはずです。どうかご自分を責めないでください」
俺に向かって感謝する二人を見て、村長は一歩歩み出て咳ばらいをする。今しかないと思ったのか、その態度は先ほど妻に背中を突かれたときと打って変わって堂々としている。
「うむ、皆もよく聞いてほしい。ルイス様は過程はどうあれ住民の多くの命を救ってくださったお方だ。あのままでは皆殺しの憂き目にあっていただろうことは火を見るよりも明らかだ。
今はまだ皆が納得はできぬというのは私にもわかる。だが彼が己の命の危険さえ顧みずに剣を振るい、我々を救うべく戦ってくれたことは確かな事実だ。だというのに我々がルイス様を悪し様に言うことは道理を違えた行いであるとしか言えん。
まずは死んでいった者たちを弔い、然るべきのちに改めてお話を伺おうではないか」
「……村長がそう言うのなら……今は控えよう」
「けど、そいつをほったらかしになんてできるのか? ブレイン・アングラウスなんて、逃げ出しでもすれば俺たちじゃ……」
ひとまず村長はことを収めようとしたが、ブレイン・アングラウスというネームバリューが思いのほか大きい存在だったらしく、村人たちから色よい返事が聞こえない。一様に不安を口にしているのも無理からぬことではあるし、ただの村人が腕の立つ剣士であるブレインに敵うわけもないのが事実だ。
「それについて、一つ俺から提案がある」
「……どのようなものです?」
「ブレイン・アングラウスをこの広場の中心で瞑想させる。もちろん飲まず食わずで用も足させず、雨が降ろうと石を投げられようと動かずに。姿勢が崩れたらすぐに元の瞑想の姿勢に戻す。……できるな?」
「しかしそれでは逃げ出すのでは……?」
「俺が見張る。逃げようものなら背中から斬る。眠ろうものなら頭を叩いて目を覚まさせる。ひたすらに瞑想を続けさせ、逃走の意志が無いことを示す。……その結果を見て、処断するか村の者で決めるといい。やれるな、ブレイン・アングラウス?」
「────この剣に誓おう」
言うや否や、ブレインは静かに姿勢を整えて村はずれでやっていたように瞑想を始めた。剣を取り上げた村長は俺を一瞥したが、何も言わずに村人たちに向き直った。
「では皆は死んだ者たちを弔う準備を。……彼らが
村人たちが散っていく。朝日が顔を出し、新しい一日が始まるが……彼らにとっては苦難の始りでしかないだろう。それでも前を向いて彼らが立ち上がることができるように、今はできることをするしかない。
救ってしまった責任が俺にはあるのだ。彼らの命を救ったからには、放ったらかしになどしてはならない。彼らが立ち直れて初めて、その責任は果たされるのだから。
『ヒビキ、聞こえるか?』
『ユウくん! 遅いよぉもう!』
『……村の安全は確保した。ヘレンに案内してもらえ』
『わかった、すぐそっちに行くからね!』
ヒビキの不満げな声を聴いて安心しかけたがここで気を抜いてはいけない。ブレインをしっかり見張る必要があるのだ。
「ユウく~ん! ああ、もう会いたかったよぉ! ……で、なんで構えたままなの?」
「いろいろあるんだよ。それと抱き着くなヒビキ。レーナはどうした?」
「キリが背負ってるよ。ほら!」
ヘレンの先導で歩いてくる麒麟の姿に村の人々はぎょっとしているが、背中ですやすやと眠るレーナを見て少し安心したのかすぐにため息をついて見送っていた。いつの時代、どんな場所でも、子供の寝顔というのは人に安心感を与えるものなのかもしれない。
『ご主人、レーナが寝てしまった』
「だろうな。ヘレンさんだったか、名乗らずに行ってしまって申し訳ない。ルイス・ローデンバッハだ」
「いえ! あの時は火急の事態でしたので仕方ありませんよ! それと、村を救ってくださって本当にありがとうございます! ……あの、失礼ながら、どういう状況なんでしょう?」
ヒビキもヘレンも今の俺たちの状況を見て唖然とするばかりだ。まあ、腰の刀に手をかけて抜刀する構えのまま立つ男と、その目の前で瞑想し続ける男の姿があって、周囲を三人の男が剣を手に見張っているのだから“どうしてこうなった”という感想を抱いても仕方がないだろう。
「ふーん、なるほど……そのブレインっていうのがユウくんにねぇ」
「しかし本当に……大丈夫なんですか?」
『アタシならもうさっさと焼き殺す。危険は排除するべき』
「まあ慌てるなよ三人とも。こいつは己の命ともいうべき剣に誓ったんだ。その行いを見てから処断するか決めたって遅くはない」
野盗を捕縛した顛末と村の中であったひと悶着について説明すると、三人は程度にもよるが同じような疑いの目をブレインに向けた。愛娘のレーナはというとキリの背中で眠りこけたままだ。
鞍も何もないのにしっかりと眠れているあたり、ある意味ではレーナのメンタルが一番図太く強いのではとさえ思ってしまう。
「……寝てない?」
「寝てないぞ」
「うわっ喋った!」
「ヒビキもヘレンさんも寝てきたほうがいい。眠れなかっただろう?」
「じゃあ私の家に案内します。ルイス様、それでは後ほど」
「ああ、おやすみ」
一行が去っていったのを見て再びブレインの動きに集中する。朝の冷たい風が吹き抜ける中を耐えること3時間。日も登ったころになって一人の子どもが広場に姿を現した。
「…………こいつが」
ぐっと奥歯を噛み締め、怒りの炎を瞳に宿した少年が大きく右手を振りかぶる。振り抜かれた右手から飛び出した丸いものがブレインの顔に当たり、べちゃりとつぶれる音と悪臭を放って砕け散る。
「ぐっ」
「臭せぇ……牛のクソじゃねえか」
「うわ、勘弁してくれよ……」
姿勢こそ揺らいだものの、ブレインは小さなうめき声だけで元の瞑想の姿勢を続けていた。少年の怒りの一投……それが引火するのにそう大した時間はかからなかった。
「うちの旦那の仇!」
「俺の弟をよくも!」
「恥知らずの野盗どもめ!」
厳密に言えばブレインは野盗ではなく用心棒なのだが、そんなものは村人にとってはどうだっていいことだ。行き場のない怒りを投げるものに込めてブレインにぶつけて去っていく。
汚物、腐りかけの食料、泥団子に小石を混ぜたもの、時には刈り取りのための手鎌まで飛んできたが命の危険があるものは全て切り払ってやった。中には外して俺に当てるものも居たが、俺はブレインをこの手で斬ると言ったのだ。俺が動くのは、ブレインが動いたときか終わったときだ。
「命を奪うようなものは許さん。それ以外なら好きにしろ」
その言葉が発端となったのか、次から次へと様々なものが投げ込まれていく。糞便や木製の食器などはもちろん、食事だと偽って毒草を皿に盛って置いていく者さえいた。あまりにひどい匂いのせいで、見張りについていた三人が交代してくれと懇願するほどだったが、交代の者も遠巻きに俺とブレインを眺めるだけで近寄ろうともしない。
「なあ、なんでお前さんまでそこに居るんだ」
正午を過ぎ、投げつけられるものがなくなったころにブレインが俺に問いかけてきた。
「これは、俺が受けるべきものだろう? 俺は武器もないし、見張りも居る。なのになんで──」
「……言い出しっぺは俺だ。逃げる瞬間に斬られるか、やり遂げるか。どちらにしても俺が最後まで面倒を見てやる。死ぬときは安心して死ね」
「──わかった」
吹き付ける風が砂煙をあげる。顔を覆う砂煙にもブレインはただ何も言わず瞑想を続けるのみだ。ぽつぽつと降り始めた小雨が大粒の雫となって降り注ぐものの、身に投げつけられた糞尿を洗い流すだけに終わった。
がやがやと騒がしかった夕方を過ぎ、村の中は静かな寝息と微かに漏れ聞こえる嗚咽で満たされるようになって、ヒビキとヘレンが食事を手にやってきた。見張りの三人はそれぞれ食事を始めたが、俺がここでメシを食うわけにはいかない。俺はブレインが動こうものなら斬らねばならないのだ。一瞬とて気を抜いてはいけない。
頑なに食事を食べさせようとするヒビキもついに諦めて食事を置いて去っていったころ、村長が休むように言ってきたがそれはできない話だと断った。俺はここで己の務めを果たさねばならない。責任を果たさねばならないのだ。
今だけはこの頑丈な吸血鬼ボディとレベル100のスペックに感謝するしかない。飲まず食わず寝ずの番をするのはPMC時代以来だが、こんなにも体調が安定しているのはやはり肉体のスペック差だろう。
ぱちぱちと篝火の燃える音が響くだけになり、村人たちが寝静まる。見張りの交代ももう8度目だ。“まだいるのか”と言わんばかりに視線を投げかけられるものの、この程度で逃げ出すのなら軍人なぞ務まらない。
四日かけて15キロも泥沼を這って敵陣を掻い潜り反乱軍の基地を爆破したこともあった。暗闇に三日間潜み続け、ゲリラどもを皆殺しにしたこともあった。四か月もの間反動勢力の組織に潜入し、組織の頭を暗殺することだってあった。
暗闇の中でひたすらに瞑想し続けるブレイン。その背中を見ながらいつでも剣を振り抜ける姿勢で立ち続ける俺。その構図は二日目の朝を迎えてもなお変わらない。
なおも同じ姿で広場の中央に立つ俺たちの下にヒビキがやってきたのはそんな時だ。日の出と射し始めた陽光を背にしたメイド服の少女、ヒビキは不貞腐れた顔で言う。
「ユウくん」
「……どうした?」
「レーナ、パパに会いたいって言ってたよ」
「……明日には会えるさ。もう少し我慢しておくように言っておいてくれ」
「ボクだって、待ってるのに?」
「すまん。必ず埋め合わせる。……デートの約束もな」
「……そっか、じゃあもう何も言わない。……待ってるから」
一度だけ振り返ったヒビキは少しはにかんで一言だけ告げて立ち去った。その姿が見えなくなったとき、不意に隣から声がかかる。
「あの子、あんたの子か?」
「いや、従妹だ」
「……女の子なのか?」
「そうだな。気の利くいい子だ」
「……そうか」
「なんだぁイェリク、お前あの子に惚れたか?」
「ちっ、違うって! あ、あの子の黒髪が、その、珍しいもんだからっ!」
「おいおい、顔真っ赤だぜ? 恥ずかしがるなよ」
「アランのおっさん! お、俺はそんなこと!」
「メルケル、お前もそう思うだろ? イェリクのやつ、あの子にぞっこんみたいだぜ?」
「らしいな。ちと若いが、いい女の子だってのはわかる。あの子の笑顔に惚れたな? まあ脈は無さそうだがな」
「メルケルまで!? 決めつけてんじゃねーよ!」
「おっ、やっぱ惚れてやがった。……まあ、俺もちょっとドキッとしたしな」
「ヒビキはやらんぞ。欲しけりゃ俺を殺す覚悟で来るんだな」
「かーっ! イェリク、前途多難だなこりゃあ!」
俺の後ろで控えている三人が雑談に興じ始める。俺のほうからは見えないが、彼らは恋愛談議に花を咲かせ始めたらしい。ヒビキとレーナは絶対にやらんがな。
「……なああんた、本当に貴族じゃないのか?」
「本当だ。家名はあっても貴族じゃないヤツだって居るだろう?」
「そりゃそうだがよ……実は元貴族でしたってことはないか?」
「なんでそう思う?」
「ヘレンのやつに聞いたんだが、あんたらアベリオン丘陵の向こうから来たんだって? あそこは亜人種が山のように居て治安もクソもないって聞いたぜ?
そんな危険地帯を抜けてくるなんざ高位の冒険者か何人も護衛を雇える貴族くらいなもんだろう?」
正直聞かないで欲しいところなんだよなあ。まさかユグドラシルからやってきましたとか言ったって理解されるわけがないし。とはいえそれっぽく匂わせつつ肯定も否定もしない回答をするしかない。
「……以前、ある地で軍の一隊を率いていた。いろいろあって……軍を辞めて……従妹や娘と旅をすることになった」
「────そうか……そういうことか……得心がいった。お互いに辛いものだな……」
なんか変な納得のされ方だったぞおい。一体どういう方向で納得しやがったんだこいつ。
「アランのおっさん、それってあの子が言ってた──」
「イェリク、あんな小さな子が“おうちがなくなった”って何の違和感も無く言える言葉だと思うか? 自分たちが追われる身になったり狙われることがあるってのを、あの年ごろで既に理解して受け入れちまってるなんて、そこらへんの平民の子じゃ無理だ。
それにこの人の剣も軽鎧も、そこらへんの安物に似てるが作りは遥かに丁寧な仕上がりで頑丈な作りだ。実用一辺倒の武具ながらあの立ち振る舞い、あのメイドの子や幼子の物分かりのよさを見りゃわかる。この人、いやあの子たちも含めて確かに貴族だ。いや、“だった”と言うべきか。
おそらくどこぞの武門の棟梁だったんだろうさ。それがどうしてか元居た場所を追われ、生き残ったのが……」
オイィィィッ!? そんな滅茶苦茶な話じゃねーよ! 俺は元は一介のPMCの兵士だぞ! 一族というかリアルの妻と娘が死んだのは確かだが、一族郎党皆殺しの憂き目になんてあってねーぞ!
弟も無事だし両親も健在! 叔母は旦那を亡くしたとはいえ娘二人に息子一人、しかもその一人息子はさっきそこに居たヒビキだし!
「しかもあの子、従妹だってこの人は言ってたが……敢えてただのメイドのように見せて連れておくことでこの人は追っ手の注意を一身に集めていたんだよ。万一自分が追っ手にかかってしまっても、ただのメイドなら見逃されるかもしれないだろうってことさ。あの子だけでも逃がすために、敢えてメイドの恰好をさせてるんだ。つまり武門の棟梁であり追われる身である自分自身よりも大事な存在……となれば、わかるだろう?」
「…………謀略によって滅ぼされた一族の最後の希望ってことか。なるほど、一族の血を生き永らえさせるための策なわけだ」
「なんてひどい……! 見ず知らずの俺たちを、危険を顧みず助けてくれるようないい人なのに……!」
アカーンッ! こいつらどんだけ妄想癖のレベルたけーの!? 別に謀反人扱いされてもいないしヒビキが世継ぎってわけでもない! 頭の中でどんだけ美化されてんだよ俺たちぃ!
「な、わかったろイェリク。お前じゃ背負いきれねぇ……諦めろ」
「…………くそっ、くそっ!」
後ろでメルケルと呼ばれた少年が地団駄を踏んでいる。せっかくの日の出だというのにしんみりしすぎだろう。クソッ、どうしてこうなったんだ? せめてそこまで深刻なものではないと理解させないと……!
「少し勘違いのし過ぎだな。別にそんな高尚な理由じゃないし、貴族の権力争いってわけでもない。ただ、抗えない力ってものが働いた……それだけのことさ」
「……アベリオン丘陵の向こうってことは……っ! まさか、異形種や亜人種どもに滅ぼされたってのか……! ちくしょう……! まさか国ごと滅ぼされていたとは……!
すまねえ、あんたにとって思い出したくもないことを思い出させちまって……」
うわあああぁぁぁぁぁぁああぁぁっ!? さらに変な方向にシフトしてやがるぅー!? ダメだダメだ! これ以上やるとさらにこじれるぞ! ああもういい! その方向性でもいいから悪化する前に決着!
「いいんだ。……我々は人間なのだ……そんなこともあるさ」
「だが……! 亜人種の……ビーストマンの軍勢は人間種を悉く喰らいつくすと聞いた! あんたの家族までもが──」
「いい。……奴等には必ずこの報いを受けさせる。奴等の首を狩りつくして串刺しにし、奴等の本国の城砦の周囲に並べてやる。恐れ慄き、己の為したことを後悔するまでな」
「……復讐か……成し遂げられるといいな」
どうやら俺の身の上は決定したらしい。これがゲームのチュートリアルであればどれほど気楽だったか。
1.ルイス・ローデンバッハとその身内はアベリオン丘陵の向こうの国で武門の棟梁だった名家。
2.ビーストマンの軍勢の襲撃によって滅亡。命からがらリ・エスティーゼまで逃げてきた。
3.家族はビーストマンに食われた(という彼の妄想)らしい。
4.ルイス・ローデンバッハはビーストマンに復讐することに燃えている。
…………家族愛の強いヒビキには怒られそうな身の上話になりそうだ。
太陽は沈み、そしてまた昇る。それは俺たちが生まれる遥かに以前から幾たびも繰り返されてきた、過去も今も俺たちにとっては当たり前の法則。それは異世界でも同様だった。
この地は太陽が二つあるわけでもなく、月が三つもあるわけでもないが、昼と夜がある。朝起きて昼間は仕事に精を出し、日の入りと共に寝床へ帰って眠り、また朝を迎える。平凡で当たり前で何も変わらない日常を奪われた村人たちもまた朝を迎え、新たに今日の仕事へと取り掛かる。
「村長殿」
「……三人とも、彼らの様子は?」
「はい、身動き一つありませんでした……信じがたいことですが」
「なんと……」
雨風に晒されて薄汚れたローブを脱ぎ捨て、太陽を拝みながら大きく伸びをして体のこりをほぐしていく。ブレインは立ち上がろうとしていたが、力の入らないふらふらの状態で衰弱しきっている。
「ほら、
ブレインの手に小瓶を握らせると、俺も同じものを口に運んで一息で飲み干す。徹夜で文化財の修復作業を終えたような疲労感が爽快感に代わって消えていくのを感じながら、村長たちのほうに向きなおる。
「ま、そういうわけだ。ブレインは二日間微動だにしてない。後はそちらの判断だ」
「……ルイス様まで、何故……?」
「言い出しっぺが食っちゃ寝してちゃ信用もクソもないだろ。違うか?」
「それは……」
「俺は水浴びして寝る。ブレイン、動けるようになったら水浴びして服も変えてもらって寝てろ。念入りに洗っておけよ、クソの臭いでハエすら逃げていきそうだ」
「ぁぁ…………そう、……する、ぜ……」
掠れた声で返してくるブレインに背を向けて村はずれの井戸に向かうと、まだ日の出からすぐだというのにヘレンが水くみをしているのが目に留まった。水がいっぱいの桶はそこそこ重いはずだが、必死に縄を手繰って桶をつかみ、水を移し替えていく様子は今日を精一杯生きようとする一人の女の後ろ姿をしている。
「あ、ルイス様。おはようございます。……もう、動いていいのですか?」
「おはよう、ヘレン。今しがた終わったところだ。……さすがに汚れてるし、馬や牛の糞まで投げられてたから、身体を洗って着替えないとな。あと眠気もする。久々に気持ちよく眠れそうだ」
「はぁ……本当に無茶をなさいますね……。ヒビキちゃんが言った通りでした」
「ヒビキが?」
「ええ。“責任感が強すぎる”って言ってました。……こんなにボロボロにならなくたって、私や実際に救われた女の子たちはルイス様を信用していますよ」
あきれたようにため息をついてヘレンが言った言葉は自分でも多少なり自覚がある。だがこれは昔居たPMCで部下の命を預かることもあったからだ。彼らが生きて家族の下へ帰る……その成否は俺の指揮に委ねられていたのだ。俺には五体満足で彼らを無事に帰す責任があったのだ。
「軍人なんてやってるとな、部下を死地に送り出す側になることだってある。でもその中で藻掻き足掻いて、一人でも多くの部下を生きて家族の下へ帰すこともしなきゃならないんだ。
一人の帰還はそいつの家族数人分の喜びであり、一人の未帰還はそいつの家族数人分の悲しみになる。俺は自らの責任を全うすることを求められる立場だった。俺を信じてくれた部下たちのために、俺は彼らを無事に帰れるように最善を尽くした。
それに昔、ある人はこう言った“人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり”ってな。人材こそ国の強さに繋がるもので、それを大切にできないやつは国を亡ぼすって意味合いだ」
「……いい言葉ですね」
「はは……ま、俺としては“武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候”ってのが好きなんだがな。勝利のために最善を尽くす……ああ、俺はこっちのほうが好きだ。もちろんちゃんと部下を生きて帰すのが前提だけどな」
「勝利のための……最善……」
「そうそう、全力でやって勝つってのは嬉しいもんさ。ははは! いつだったかの攻城戦を思い出すな! 仲間が道を作ってくれて、そこへ俺と相棒の2騎で本城へ突入したんだった!
そこからは切った張ったの大暴れ! 近衛兵を蹴り飛ばしたり
不意にヘレンの表情に影が射す。水を移し替えて空になった桶を手にしたまま、深淵のような井戸の中を見つめたまま動かない。……何かあったのか?
「ルイス様は……ビーストマンの軍勢に敗れたと聞きました。家族を奪われ、ヒビキちゃんやまだ幼いレーナちゃんを連れて逃げてきたことも……」
あっ……ガバったなコレ。
「何もかも奪われて、大切なものもなくなって、……なのにどうしてっ……! どうしてそんな風に笑えるんですか!? なんでっ……! 悲しいはずなのに! 辛いはずなのにっ……!
私っ、そんな風に笑ってられません……! いつも父と母が居た場所に二人が居ないんです! いつも水くみをしてきた父が腰が痛そうにして椅子に座る姿も! 調味料をどこに置いたかよく忘れる母に、私が戸棚から取り出して渡していたのも! いつも、そこに居たのに……!」
やばい。本当にあの話が広がってるよ。コウモリ経由でヒビキやレーナにも話を合わせるようにあの後で伝えてきたけど、話の広がり方が尋常じゃない速さなんだが。まあ、たった120人の村じゃそんなものなのかもしれないが。
それよりもヘレンのほうがだいぶ参っているようだ。まだ20にもなっていないだろう彼女にとって、両親が突然居なくなってしまうというのは考えられなかったことだろう。当たり前にいつもの日常が続くのだと心の底では信じていたのに、それがあっけなく崩れ去ってしまった。そしてそれはヘレンだけじゃなく、この村の人たち全員がそうなのだ。
「──これは俺の持論だが、例え辛く苦しくとも笑っていようと思っている。俺が笑って前を向いて歩いていく姿を彼らが見たならば……きっと安心できるだろうと思ったんだ。俺も仲間を失ったり妻を亡くしたりしてきた身だ。だけど少しずつ彼らの表情や声を思い出せなくなっていった。風化していって顔も思い出せなくなってから気づいた。これが忘れていくってことなんだってな」
「忘れたく、ないです! 忘れたくなんか……!」
ぼろぼろと大粒の涙がヘレンの頬を伝う。まだ死に向き合えていない若い子どもには酷なことだろう。しかしこの子は叔父夫婦くらいしか身寄りがない。かといって叔父夫婦に頼り切りで生きることもできない。いつかは、自分で立たなければいけないのだ。
「でも、人間ってのは忘れていくことで辛いものや苦しいものを乗り越える種族でもある。俺は妻や仲間が確かに俺の傍に居て、一緒に過ごしてきた時間を覚えている。顔も思い出せなくなって色あせていくのは避けられないが、共に居た彼らが笑う姿を覚えている。
だから、俺は笑って前に進むつもりだ。“心配するな、俺は大丈夫だ”ってあいつらが俺を見てすぐにわかるようにな。時々思い出して、時々彼らのように笑って、時々振り返る。……それくらいでいい、そう思っているよ」
「……よく、わかりません……」
「今はまだわからないものだ。もう少し時間が経ったら、わかるようになる」
「それが大人になるってことなんですか? 大切なヒトを忘られるのが!」
「……忘れたっていい。でも、たまに思い出すんだ。本当に大切なものってのは、どんなに忘れていてもひょんなことで思い出すものだからだ。……レーナを見ていると、俺はそう思える」
嗚咽を漏らしながら泣いていた少女が目じりを袖で拭って、まっすぐな目で俺を見る。覚悟は決まった──そう言いたげな強い光を宿した少女の青い瞳は言葉よりも雄弁に俺に訴えかけてくる。
子どもが頑張って一人で決めてみせたことだ。だったら、ちゃんと褒めてやるのが親というものだ。せめて、ヘレンの両親ができなかった代わりに。
「────がんばったな」
「…………う、ううっ……お父さん、お母さん……っ!」
頭を撫でた瞬間にまた泣き出した。涙と鼻水にまみれたまま俺の胸に顔を埋めて泣きじゃくる様子はまだまだ子どものそれだ。当たり前にあるものを奪われた、失った悲しみは簡単に癒せるものではない。当然だからこそ、それが崩れ去る瞬間は何物にも代えがたい絶望を感じてしまう。
だから俺はリアルの世界でPMCに入った。夫をテロリストに殺された叔母を見てPMCに入り、一人でも多くの人が同じような苦しみを受けないように戦ってきた。そして俺自身も娘と妻を失い、絶望の淵に斃れることになった。
当たり前の平穏を奪い去る悪党どもめ────俺は、奴等を赦しはしない。
「……すみません、ぐすっ、命の恩人の前で、こんなっ」
「子どもは泣くのが仕事だ」
「……それ、赤ちゃんだけです」
「泣いたら泣いただけ大きくなる。つらいことを知ってるから、他の人にやさしくできるんだ。ヘレンはもっといい子になるぞ」
「…………ありがとうございます。ちょっとだけ、頑張れそう、です」
しばらく背中をさすってやると泣き止んだあたりやっぱりまだまだ子どもだ。もう少し大人だったら自分でなんとか折り合いをつけられるだろうから、一人にさせたかお茶でも淹れておしゃべりでもして落ち着くのを待つのだが、そうする前に彼女に泣きつかれてしまった。
結果としてみればまあ、まずまずだっただろう。子どもが少し大人になる手伝いくらいにはなったかもしれない。
「…………いいなー」
「ふぇっ!?」
「……ヒビキ、お前……」
井戸の隣にある見張り櫓の上からこちらを見下ろすメイド服の少女。我が従妹、ヒビキがジト目で不貞腐れながら哀愁漂う三角座りのままじーっとこちらを見つめていた。
「ボクも心配したのになー。寂しかったのになー。怖かったのになー」
「あー、すまん。すぐに水浴びしてから行くつもりだったんだ。さ、さあご飯にしようかヒビキ! もう俺ハラペコなんだよぉ~ヒビキの作ったご飯が食べたいなぁ~」
「ユウくんが怪我してないか不安だったなー。ユウくんが、このボクの作ったご飯も食べずにぃー! あのブレインとかいうヤツをずぅーっと見張っててぇ! 夜も戻らないで二日間もあんなバカなことやっててぇー!!! さっっっみしかったなぁー!!! 」
「……あー、そっち行ってもいいか……?」
「来んなバーカ! ボクたちよりヘレンのこと見てあげたらいいじゃん!」
知ったことかと顔を背けられた。……これは本格的にお怒りでいらっしゃる。思い返せば当然のことでもあるのだが、村の人たちをその場凌ぎとはいえ救ったからにはちゃんとアフターケアをしなければ。
しかしその間にもヒビキやレーナは見知らぬ土地で唯一頼れる存在を欠くことになった。ほんの数日とはいえ、ただでさえ不安だったのに精神的な支えになる存在が居ないままに日々を過ごしていたのだ。……俺の配慮が足りなかったのも確かだが、人の命が懸かった事態で悠長に構えてもいられない。どちらが悪いという話ではないが、俺の行動は確かに褒められたものではないだろう。少なくともヒビキとレーナの二人からすれば。
「心配かけたことはちゃんと謝る。これからはレーナもちゃんと見ておく。すまん」
「あ、そう」
「……そ、添い寝がいいならしてやるから……」
「ふーん……」
「……お買い物デートからの、……外泊でもいいぞ?」
「へー」
「……これからずっと一緒に寝てやるから──」
「じゃオッケー!」
「180度変わってんじゃねーか」
「うっさいバカ! 心配かけて二日も戻らないでご飯も食べないで突っ立ってたくせに! レーナもボクも置き去りで勝手にどっかいっちゃって急に呼ばれたと思ったらまた変なコトやってるし!」
「……ごめん」
櫓の上で仁王立ちしてお怒りのヒビキ様は先ほどと変わらないジト目で俺を見下ろしてくる。……なんかだんだん妻を思い出すような仕草が増えてるような気がする。あとそのメイド服ミニスカートだから黒い紐パン見えてんぞ。
本来の職業を隠していたPMC時代、表向きで使っていた警備会社の警備員という肩書きに似つかわしくない怪我をして帰ってきたときにも妻にこんな目で見られていた。“また怪我してんのか”みたいな諦めと“無事で戻ってきた”という安堵感が
薄々普通の仕事ではないのだと感づいていたのだろうが、妻は何も言わず“おかえり”と言ってくれた。ただし今のヒビキと似たようなことをチクチクと針で刺すように言われたが。
「ボクやレーナを悲しませないこと。一人で決めるのが難しい重要なことならちゃんとボクにも相談すること。死にたがりみたいなことはしないこと。以上三点を遵守すると誓いますか?」
「わかった。ちゃんと守る。……もうそっちに行っていいか?」
「ふふん、ボクに対して相応の扱いができるんなら、いいよ」
櫓の上にひとっ跳びで登ると、地平線から昇った太陽が赤々と輝いて丘陵地帯を朱色に染め上げていくのが目に入る。どこまでも広がる原野と、遥か地平線まで続いていく道が一本と、遠くに見える小さな村があるだけで、他には何も見当たらない。
ぐっと、目線を合わせるように顔を近づけるとヒビキの表情が強張る。いつもは積極的に愛情表現をする側だったから、こちらからされるのに慣れていないのが丸わかりだ。
「お姫様抱っこ、おんぶ、ただいまのキス、どれがいい?」
「う……キ、キスは、まだ、ボ、ボクの心の準備が……」
「で、どれにするんだ言い出しっぺ」
「…………た、ただ……」
「ん? どれがいい?」
「お、お姫様抱っこ……で! ニ、ニヤニヤするなバカッ! ……わわっ!?」
むぐぐ、と顔を真っ赤にしながら悔しがる我が従妹。問答無用で抱え上げてやると、驚いたかと思えばすぐに口をつぐんでしまい、借りてきた猫のように身じろぎ一つないまま腕に収まってしまう。
「ユ、ユウくん……」
「なんだ?」
「……女の子って…………すっごくしあわせな気分がする……」
「抱っこがそんなに嬉しいのか?」
「……うん、前よりも、すごい、しあわせな感じがする」
リアルのころとそう変わらないな、と思っていたヒビキの笑顔が向けられる。肩で揃えられた黒髪のショートボブが太陽の光を映し、年ごろの少女らしさが増したようにも思える。リアルでも体つきも背丈も見た目にもほぼ女そのものだったが、間近にじっくりと眺めてみると確かにヒビキは100パーセントの女の子になったのだと思える。性別そのものが変わっているのだから当たり前なのだが、纏っている雰囲気というか気配というか、自分ではよくわからない何かが今のヒビキには存在しているのだと思える。
きっとこれは一時的な気の迷いだ。両親を失った私の寂しさを埋め合わせてくれた彼に、ルイス様に甘えたいだけなのだ。しばらくすれば元通り落ち着くはずだ。
ひとっ跳びで建物の三階くらいの高さの見張り櫓に飛び乗って、お姫様のようにヒビキちゃんを抱いて危なげなく飛び降りてきた彼の強さに魅了されているだけなんだ。そう、この得も言われぬ感情は一過性のものだ。そうに違いない。
「もう、危ないですよルイス様」
「これくらいなら大丈夫だ」
「それでも、ですよ。さあヒビキちゃん、ルイス様もお腹ペコペコみたいですから朝ごはんにしましょうか」
「やーだー、もう少しだけ!」
「もういいだろ。お前を抱えてたら水桶も持てない」
「ボクより水桶のほうが大事なの?」
「水がなきゃ体を洗えないだろ。俺二日間立ちっぱなしだったんだぞ? 体を洗ってくるのが先だ」
「はぁ、仕方ないなぁ。ボクも手伝うからさっさと洗っちゃおうよ」
「おかしなマネはするなよ?」
「しないよ~うぇっへへへ」
……お姫様のような雰囲気はどこへやら。ヒビキちゃんはニヤニヤと笑いながら洗い場の奥へ行ってしまった。
「じゃ、ちょっと洗ってくるよ。すぐ終わらせる」
「私は水くみを終わらせちゃいますね」
ルイス様も水桶を片手に、どこからか取り出したタオルを持って洗い場の奥へと行ってしまう。新しく水桶に水を汲み、ぐっと力を込めて持ち上げる。
水汲みがキツイのはわかっていたけど、父はこれを毎日やっていたんだ。腰を痛めるのも無理はない重さだし、父は桶いっぱいに水を汲んでいた。私はせいぜい三分の二がいいところだ。
「よい、しょっ!」
水瓶に水を流し込むのも一苦労だ。私の胸元まである大きな水瓶に水を流し込もうとするのだから、踏み台も使ってようやく足りるかというレベルだ。父も母もこれに水を入れられたのだから、私ができないわけはない。……だけど念のために踏み台はもう一段高くしようと決めた。これは負け惜しみではない。合理的な結論だ。
「あれ……何か忘れてるような」
……何か大切なことを忘れている気がする。確か井戸のところで水を汲んで──
「ヒビキちゃん!?」
そうだ! 従妹とはいえルイス様は男性! ヒビキちゃんは女性! 未婚の女性があろうことか男性とハダカで二人きりなんて! ごく自然に済まされたからまったくもって気づかなかった!
桶を片手に急いで井戸の近く、体を洗うために板で仕切られた洗い場へ駆けつける。
「うん、おっきいね」
「そうか?」
「うん……うん、触ってみてもカチカチだし……おっきいし……ボクでなくても立派だと思う」
「とりあえずさっさとしてくれ。あんまり時間無いんだから」
「んんっ、ふうっ、これで! どうかな!」
「あぁー……いい感じだ。もう少し強めでもいい。こういうのは久しぶりだな」
「だよねっ。もうっ、何年前だったっけ?」
「七年前だな。お前が十一のとき」
「そんなにっ、前、だっけ?」
あぁぁぁぁああぁぁぁぁっ!? 始まってる!? もうスタートしちゃってた!? しかも前が十一歳って! そんな小さなときから!? はっ、破廉恥です! えっちなのはいけないと思います! いけませんいけませーん!
「どう、かな? んっ……ふぅっ……ボクの、気持ちいい?」
「上手になったんじゃないか? しっかり丁寧にやってくれ。汗かいたからなぁ」
「わかってる……っ、よっ! ふぅ……これでいい?」
ばしゃり、と水が撒かれる音ではっと気づく。なんで私はこんなコソコソと板に耳あてて一部始終を聞いているんだ。そうだ、すぐに止めるべきだ! えっちなのはいけませんと昔の偉い人は言ったのだ! 女の子は貞淑であるべきなのだ!
「ありがと、ヒビキ。また背中流してくれ。やっぱ背中までは手が届かないよなぁ」
「いいけど……ボクにはしてくれないの?」
「お前は女の子だろうが。軽々しく肌を見せるもんじゃねーの」
「ユウくんになら……いいよ?」
「はいはい、温泉でも見つけたら流してやるよ」
「あっ、それいいよね! ボク、温泉に入るのが夢だったんだー! その時はレーナもユウくんも一緒だからね!」
あ、なんだ…………えっちなんてなかった。なら、ヨシ!
「でさ、ヘレンはなんで聞き耳たててるのかなー?」
「えっ?」
顔を上げるとそこには黒髪のあの少女、ヒビキちゃんがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてのぞき込んでいた。
「どうした? ……なんだヘレンか」
目の前に現れたのは細くともしなやかな体躯を覆う筋肉の鎧。余分な肉や脂肪のそぎ落とされた、戦士の肉体。それでいて岩のようなごつごつしたものではなく、猫のようなスマートさ。下着一枚で現れた彼の肉体の全身が目に映る。
「────へうっ!?」
「ああっ! ヘレンが鼻血を吹いた!」
「なんでだよ」
わかった。私にはまだ、男性の裸身は、刺激が強すぎる──
「ふあっ!?」
「あ、ユウくん、ヘレンが起きたよー」
……知らない天井だ。ってそうじゃない。私は確か水汲みをしていたはず。何か思い出せそうだけど──だめだ、霞がかかったように思い出せない。
「ああ、大丈夫そうだな。急に倒れるもんだから心配したぞ」
「……すみません、ご心配をおかけしました」
「慣れてないことが続いたからな。疲れが一気にやってきたんだろう。それよりも朝ごはんができてるから食べておけ。五人分作ってある」
「ふふん、ボクの特製オニオンスープに咽び泣くほど喜ぶといいのさ」
「
「仕方ないじゃんか! 材料が無かったんだから! あったらとっくに作ってるよ!」
「パパ、おかわりー!」
『アタシもだ。もっとよこせ』
「わかったから、もう少し静かにしなさい」
テーブルの上に置かれた鍋からは今までに感じたことのないおいしそうな香りが漂ってくる。中身はスープか何かだろうか、ルイス様がおたまを使って琥珀色の液体を入れていくが、ルイス様の故郷の料理なのだろうか。
レーナちゃんと“キリン”という種族らしいキリちゃんはすでに食べ始めていて、おかわりをねだる様子はどちらも子どもらしい。
ルイス様に促されて席につくと、香ばしいニオイの立ち上る温かいオニオンスープと普段から食べなれているパンが差し出された。
「んー……やっぱりこのパン硬い?」
「やっぱヒビキもそう思うよな」
「柔らかいパンってあるんですか?」
パンというものは硬いもののはず。柔らかいパンなんて高価すぎて食べたことも無いし、そもそもそんなものがこんな平凡な村で作れるのだろうか?
「うぇ……パパ、このパンかたいよー」
「レーナちゃん、パンはスープに浸けて柔らかくすると食べやすいのよ」
「んー……まだかたい……」
さすがに子どもには硬すぎたらしい。かじりついたはいいものの、噛み切るどころではない硬さの前にまさに歯が立たない状態だ。スープに浸していくらか柔らかくなったようだが、それでも噛み切るのに必死になっている。……微笑ましい可愛さだ。
「仕方ないぞレーナ。ご飯が食べられるだけマシだ。ガマンしなさい」
『アタシはちょうどいい。歯ごたえがそこそこあっていい』
うん、このオニオンスープはおいしい。間違いなく今までで食べてきたものの中でダントツでトップだと言える。パンを浸して少し柔らかくして食べるとなおよい。正直言ってこのオニオンスープだけでもいい。琥珀色の澄んだスープは塩気と……何かピリッとした感じがするけど、この辛みは一体どこから出てきたんだろう。
「んー……初めてこっちのメシを食ったけど……マジで美味い。これが素にお湯入れただけってのが信じられない……」
「ね? あっちでの合成品なんか比べ物にならないでしょ?」
「……こんなのアーコロジーの上層くらいしか食えないぞ……ぶっちゃけ初めてこっちに来てよかったって思えた」
どうやらルイス様のところも食料事情はそう良いものではなかったらしい。ビーストマンの侵攻に晒されていたのだから仕方がないとは思うけど、ルイス様のような軍を率いる階級でさえ平民並みの食事って考えるとかなりひっ迫していたはず。
「コンソメの旨味に黒コショウの刺激……これほどウマイとはなぁ」
「く、黒コショウっ!?」
黒コショウ。黒コショウ。黒コショウ。この黒いつぶつぶが全部! 黒コショウ!?
「あわ、あわわわ、あわわわわっ!? き、金貨が1枚、金貨が2枚、金貨が3枚……」
「ど、どうしたのヘレン!?」
「だだ、だって! くっ、黒、コショウですよね!? あの、“金の重量と等価の”黒コショウですよね!?」
つまり私は今さっきまで“おいしいなー”程度の気軽さで金貨を口に入れて飲み込んでいたってこと!? 金貨1枚あれば一か月分の生活費! それがこのオニオンスープに一体何枚分つぎ込まれたの!?
しかもコンソメ!? 王都や大都市の一流レストランでないと作れないっていうあのコンソメ!? それがなんでこんな普通の朝の食卓にポンと置かれてるの!?
「え? 金貨1枚でしょ? 安いじゃん。ボクですら20万は手持ちがあるよ」
「俺は10万だな。いろいろ支出が嵩んだし」
…………やっぱりこの人たち、貴族でした。
「……きゅう」
「ああっ!? ヘレンが倒れた!」
「なんでだよ」