浄
美しい人だった。その容姿が比類のない美貌であったことは事実だが、何よりその在り方こそが己の心を掌握して止まなかった。
孤高。何者も捉えられぬ遥か彼方に佇むかのような。
いやあるいは色即是空、そうした概念を体現するかのような。
純一だった。不純物のない水。珠玉。大気。あたかも自然物の調和で存在する少女。
時間を共にすればするほど胸の内より湧き上がる感情は、一種崇敬に近しいものだった。生物として同様のカテゴリにあることが信じ難い。それほどまでに彼女は完璧な―――――――馬鹿馬鹿しい。
そこで俺はようやく、はたと気付く。
それら全ては己が思い描く妄想だ。押し付けの憧れ、心象。あるいはそうあって欲しいという自儘な願望に過ぎない。
身勝手ここに極まる。博麗霊夢という少女に対して俺は、あろうことか自己の作り出したイメージをお仕着せようとしたのだ。
身の程知らずも甚だしい。
そしてひどく、酷く穢らわしかった。精緻な硝子細工に薄汚れた手で触れるかの嫌悪感、背徳感、罪悪感。
あわや軽挙妄動に走りかけ、しかしこうして我に返ることが出来たのは、自己嫌悪からくる自虐、自罰が功を奏したから……という訳ではない。
何のことはない。ただ知ったのだ。彼女を。
ほんの数ヶ月にも満たない時間、それでも現実の、実体としての彼女と言葉を交わし、その生き様を見てきた。
霊夢という名の、あどけない少女を知った。博麗の巫女という
博麗の巫女として、魔を断ち、時に神すら屠る超人。
己の拙い手料理に、ぶっきらぼうな言葉とは裏腹な綻んだ顔を覗かせる少女。
どちらも同じ博麗霊夢。人を超えながら、人のままに在る。
その在り方を尊いと思った。
同時に、とても危うい、とも。
幻想郷という一個の世界を護る
針の尖端で揺れ動く弥次郎兵衛を見るようだった。揺れ、傾くことはあっても、決して落ちることはないのだと知っている…………知っているのに、心持ちは泰然とは対極へ向かうばかりだった。
彼女の超然たる精神とは真反対の、己が博麗さんと呼び慕う“人”の部分が、その内に倒れてしまわぬかと。
凡夫並の、安直な危惧が胸を占めるのだ。
そう、そうなのだ。この凡夫が最も惹かれたのは、人並外れて秀でた能力を備えた彼女ではなくて。
「家に帰った時、灯りが点いてるのって変な感じね……不思議と、ほっとする」
ある日の、茜色に染まる境内で。
それがほとんど無意識の呟きだったからだろう。彼女は夕空よりもなお一層顔を赤くして一度こちらを睨むと、そのままそっぽを向いてしまった。それは平素の泰然自若とした彼女からは想像し難い、ひどく不器用な姿だった。
その不器用さを、愛おしいと思った。
孤高でありながら孤独の寂しさを知っている少女が、労しかった。
己が博麗神社において、召使い紛いを買って出たのもただそれだけが理由。ほんの僅か、寸毫ほどでもいい。彼女の寂寥、その一抹でも拭うことが叶うならば、何かをしたい。心ばかりの手助けをしたい。
孤独という、胸に空いた虚穴の
「別にそこまでしなくても……」
「住まわせていただく身ですから、これくらいは」
拾い物をした、なんて。
どんな面の皮で言ったやら。
命を救った外来人を体のいい小間使いとして手元に置いている……そう思われても、まあ仕方ないのかもしれない。
今のこの、博麗神社の様を見れば、人妖問わず口を揃えてこう言うだろう。
家政婦でも雇ったのか? と。
実際、似たようなものだ。厳密には家政“夫”。
家宅に生じるありとあらゆる仕事をこなす、家の政の長。
我が神社の、そんな地位に『彼』は甘んじている。
「なんか、矢鱈に手際いいわね」
「……生家では、家事は自分が請け負っていたので、多少手馴れているのやもしれません」
「ふーん……手馴れて、ね」
埃一片、染み一滴ない部屋。綺麗に張り替えられた障子に、一枚残らず陰干しされた畳。
毎朝火熨にかけられ、糊の利いた着物に袖を通す。
そうして茶の間に向かえば、暖かい料理が自分を出迎える。朝昼晩、決まった時刻に食卓を彩る。それは、なんてことのない家庭料理。
初めて彼が手料理を振舞ってくれた時、その味に驚いた。不味い、とは真逆の意味で。
「……ま、美味しいんじゃない」
むっつりと、素直に感想も言えない。素直な言葉を使うのが悔しかった。照れ臭かった。
……幼稚というか不躾というか。自分自身のそういう、未成熟な情緒に呆れる。
けれど彼は。
なのに。
こんな、悪態な小娘に微笑んだ。そして。
「よかった」
心底嬉しそうにして、そう言うのだ。
「変なやつ」
それが最初の印象だった。
態度や言動が奇妙奇天烈だったから――ではない。その点で言えばむしろ、彼はこの幻想郷で出会ってきた誰よりも良識的であり、倫理を尊び、礼節を弁えている。本当に、稀少だろう。
ただ、わからなかったのだ。
「いくら居候ったって気の遣い過ぎじゃない? ちょっと異常なくらい……あー、あんたってさ、働くのが好きなの? それとも媚びへつらうのが好きなの?」
無礼な態度を崩さない自分に、それでも微かに笑んで、柔らかな物腰のまま接する彼が、私にはわからなかった。喜びさえ滲ませる青年が。
「どう、でしょう。家事を苦と感じたことはありません。なにせ自分にとってこれをこなすのは日常ですから。媚び……博麗さんに対してなら、そういった尽力も決して
「はあ……?」
「ええ勿論、御迷惑でなければの話で」
「馬っ鹿じゃないの。本気に取らないでよ」
「相すみません」
理解できなかった。
……まあ、どうでもいい。所詮一時、軒を貸す程度の間柄なのだ。
どうでもいい。興味などない。
妖怪共、あるいは神を称する諸々に対し、接する時、自分はいつ何時もこの姿勢である。そうでなくとも一癖も二癖もある人外、ないし変人と対峙するならば、“我”を押し通すが至当。
いや、そうした拘りも不純物だ。
無関心、不干渉、囚われず、また捉えず、
そうしてただ一つの務めを果たす。幻想郷の均衡を守る。
「お出かけですか?」
「いつもの野暮用。調子に乗ってる新参妖怪に
「……いってらっしゃい。気を付けて」
「はっ大袈裟。ただの雑魚だから平気よ、多分。獣と同じ、羆の方がまだ迫力あるわ」
その為ならば神も魔も諸共に調伏する。あるいは、神にも魔にも、人にさえ肩入れしない。
それが博麗、博麗の巫女。
「これが私の御役目。あんたの言う日常ってやつ。だから、そうやって一々心配されると鬱陶しいのよ」
孤独だった。孤独であるべきだった。
でもそれを厭うたことは一度としてなかった。それが当然で、自然で、常態。
紫などは完全性、だとか尤もらしいことを言いそうだ。
だから。
「博麗さん」
「……なに」
「それでも、どうか……どうか気を付けて」
青年の存在は、私にとってひたすらに疎ましかった。もっと簡単に、面倒と言い換えてもいい。
妙に構いたがるのだ。
寝てばかりでは体に悪いだの、衿が曲がっているだの、布団は日毎に干せだの、洗濯物はその日の内に出せだの。
どこぞの庭師を上回る、あるいは自称仙人
お茶の温度は。味付けの好みは。
風呂に入りなさい。夜更かしは程々に。
夕飯は何が食べたい。茶菓子を作ってみた。
花は好きか。団子の方が。
何が好きなのか、どんなことでも。
――――よければ、教えて欲しい。貴女のことを
鬱陶しい。煩わしい。
今まで覚えたことのない、存在感。気配。
そう、気配。自分以外の。
誰かの足音。誰かの衣擦れ。誰かの、声。感情。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
でも、どうしてだろう。言葉で、態度で、不平不満を垂れておいて、それでも。
「夕餉の用意は出来ています。それとも先に湯浴みされますか?」
「お腹空いた」
「では、食事にしましょう」
嫌悪は、湧いてこない。待てど暮らせど一向に。
どうしてだろう。
勿論、私の周りにはいつだって他者が存在していた。
友人……というのも癪な、腐れ縁。頼みもしないのに神社に集り屯してくる妖怪共やら神々に悪魔輩。
彼女らもまた立派な誰かだ。面倒事を持ち込んでくるという意味でも同じ。いやさらに厄介ではある。
彼女らと彼と、一体何が違う。
何も違いなど……ない、筈なのに。
青年が格別に人の懐に入り込む技量に長けているとは思わない。いえむしろ、ごく普通の人同士が作る距離感の、さらにもう半歩外側に彼は立っているように感じる。
「というか、なんでいつまでも敬語なわけ? こういう口の利き方しといて今更だけど、あんたの方が年上でしょ」
「御不快でしたか」
「別に……そうじゃないけど」
それが人見知りや人間嫌いから来る隔意ではなく、他者に対する思慮を巡らせた末の彼なりの間合い取りであることは理解できた。
遠慮、という言葉を生き様そのものにしているような人。即ち、遠きより慮る。
間合いの測り方を心得ている。さぞ気苦労とは縁遠い付き合いができそうだ。
「博麗さん。髪留めのリボンが少し、乱れています」
「え、どこ」
「左側の輪が緩んで……手を触れても、よろしいでしょうか?」
「へ? あ、うん」
けれど、現実はこの有り様。今や私は彼に苦手意識を抱いている。
苦手意識……本当に?
ふとした時、胸の内に灯るこの、形も色も定かではないこの、“これ”は。
彼の声を聞いた時。彼と相対した時。
「……はい。もう結構です」
「……ありがと」
彼が、微笑んだ時。
「ああ」
私は、不意に戦く。
それの正体に気付いてしまう。
彼が私に向けるこの――――
「とても綺麗だ」
――――■■
「…………ばか」
綿や絹のような柔い手触りの、赤子の御包みのような。手放しの■■。
――――なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ
うっかりとそれに気付いてしまった時、“なぜ”が私の頭を一杯にした。
それが単なる恋愛感情だったら、こんなにも“私”が揺らぐことはなかったろう。下らないと一蹴するか、よくて笑い種。
自分で言うのもおかしいが、私にしては実に年相応な話だ。惚れたの腫れたの里のうら若い娘達も喜びそうな、色のお話。
恋だの、愛だのと………一笑にふしてしまえたなら。
どんなにかよかったろう。どんなにか平穏であったろう。
でも違う。違った。まるで遠い。
色恋と、それ。人の心魂から造り出されるその情念。それなのにこの二つは天と地ほどに隔たりがあった。
――――なぜ
そうしてまた、思考は同じ文言を繰り返す。
彼にとって博麗霊夢という女が殊更に魅力的だったのか。それとも、実は生き別れの妹がいてその人と自分が瓜二つの生き写しの生まれ変わりだったとか。
どちらかといえば後者の方がありそうな話だった。自分は出会って間もない男性を魅了し虜にできる女なんだと言い張るよりは余程に、現実的で、まともだ。
「居候? 主夫? いやいやあの兄さんの様子、ありゃまるっきり子離れできない父親だぜ。くふふふ」
「いやぁ日頃の甲斐甲斐しさはまるっきり母御のそれさ。おーいおっ母よーい。銀杏炒ってくーださーいなー! ケケケッ!」
下品に笑いながらそう言ったのは魔理沙だったろうか。それとも萃香だったろうか。
「ゴシップなスキャンダル。あやや? 横文字はお嫌いで? なら色事と言い直しましょう。そういう香りがそりゃもうぷんぷんと……一切してこないのが残念でなりませんね、はい」
下世話な文屋が言った。そういう下衆の勘繰りに誰よりも長けたあの鴉天狗が、色ではないと、そう言ったのだ。
「執着……いえ、依存かしら?」
人形に執心する人形遣いがよく言う。その時は、そんな皮肉をアリスに返した気がする。
「そうね。確かに。私は人形に傾倒している。私“が”人形に執着している……なら」
でもそれは、実のところどうでもいい。いや確かに疑問は尽きない。彼が私を……私にそんな感情を向ける理由。
けれど違うのだ。この“なぜ”は、彼の慈愛の動機に対するものではなくて。
「本当に依存しているのは彼? 依存されているのは貴女? それとも――」
気付いて、しまったから。
――――なぜ、私はこんなにも
戸惑いはあった。驚きはあった。
でも嫌悪は、どうしても湧かなかった。
代わりに現れたのは真逆の感情。胸の内から火のようにじりじりと燃え広がる、熱。
私は戦き、
孤独であるべきと自ら口にして憚らなかった。だのに、それはあっさりと露見した。
内奥にひた隠しにしてきた、自覚すらなかった願望……欲望が。
こんなものがまだ、自分の中に残っていたなんて。こんな、如何にも人がましい、浅ましくも卑しい欲望が。
そして彼は、それを叶えてくれる。
確信があった。無駄に正確無比な自身の“勘”が、その確信を告げていた。彼のそれは、真実のものだ。下に心を隠す恋とは似ても似つかぬ純性のそれだ。
無償の――。
言葉にするのはひどく、ひどく躊躇われた。自分は心からかの人に求められているなどと、改めて自覚するという行為そのものが厭わしく、恥ずかしかった。
「今更……」
そう、今更だ。今更こんなものを求めるのか。それを与えてくれる人が現れたからって。
それを与えてくれるのが、きっと……家族とやらなのだろう。生憎、自分にはない持ち物だった。
父母など覚えてはいない。自分を創り、産んだというその誰かは、物心つく前には既にいなかった。巫女としての才覚を見出され、幼子だった私を八雲紫が拾い、そして先代巫女が育て鍛えた。
もし、私に親と呼べるものがあるとするならそれは、彼女ら……なのかもしれない。
けれど母と子である以前に、紫も先代も、私にとっては師であった。無論その関係性の価値を他人に評される筋合いはない。少なくとも、顔も知らない父母などより遥かにその繋がりは強く、重く、深い。
だからこそ、私は知らなかった。ごく普通の、親が子に与える原石めいた、飾り気も
それを、彼が私に教えてしまった。
幼い頃、埋めぬまま放置していた心の虚穴に、雨露のように浸み込み、満たそうとする。
「あぁ……」
知らなければよかった。知ってはならなかった。
だから。
「どんなことでもいい。自分がお役に立てるなら、なんでも言い付けてください」
「それは、私が恩人だから?」
「勿論。ですが、それだけでは」
こんな。
「どうも俺は、貴女の役に立てるのが嬉しいだけのようだ。ほんの、僅かにでも、些細なことでも……我ながら単純で、お恥ずかしい限りです」
こんなものに、これから先ずっと晒され続けたら、私は。
私は
「はぁ……」
「? どうか」
「なんでもない」
「……しかし」
「なんでもないったら」
満面に『心配です』なんて書いてこちらを見詰めてくる青年を、私はただ恨めしげに見返すことしかできない。
それがなんだか無性に悔しかった。
悔しいくらいに――――ただ、嬉しかった。
知りたくなかった。
気付きたくなどなかった。こんな。
…………■■される喜びなんて
早朝の縁側に座り、寝間着も着替えぬまま呆と見るともなしに裏庭を見ている。胸の内には変わらず、いやに熱っぽい蟠りが居座り続けている。
「だからなんだっての」
そう開き直る図太さが自分には……ある、はず。
らしくない。こんなのまるで自分じゃないようだった。
情けない。泣く妖怪を哭かせてなんぼの博麗の巫女が、この体たらく。
腹が立つ。苛立つ。巫女としての面目は、立たぬどころか潰れそう。そんなものは端っからなかったなどと、腐れ縁共は声を揃えそうだが。
「あぁっもう……!」
髪を掻き乱してみても、この妙な悩みが消えてなくなる訳もなし。
一人悶々としていると、不意に。
「おはようございます」
廊下の向こうから声が掛かる。低く、重い。男声らしい音域に、もう一つ、鋼のような硬さを備えた声。
言うまでもなくそれは博麗神社は同居人が一人の、彼である。
藍色の前掛けで手を拭いながら、そっと自分の傍らに屈む。こちらと視線を合わせる為なのだろうその所作が、なにやら子供扱いされているようで少し気恥ずかしい。
「……おはよ」
「今日は随分とお早い」
「人を寝坊助みたいに」
「……ここ七日の内、昼より前に起きておられたのは今日が初めてなのですが」
「昨日はちゃんと朝に起きたわ。その後改めて寝直しただけで」
「おはようございます、
「な、なんで二回言うの?」
「
「逆だよね。読みと書き逆だよねそれ。いや逆でもないけど」
「折角の、珍しい早起きです。温かい内に召し上がってください」
「……小言に遠慮なくなったわよね、あなた」
「お陰様で」
皮肉とも本音ともつかないことを言って、彼は微かに笑った。まるで幼子をあやすような、柔かな顔で。
失敬なこと。このような所業には怒りを露にして然るべきだ。一端の淑女を捕まえて、なんて無礼な物言いだろう。
「……いぃーだ!」
それはもう語彙の限りに青年を罵って、身支度の為にその場を離れた。
……なんか違う気もするけど。
なんか盛大に
仕方がない。本当に、どうしようもないのだ。
過ちというのなら、それはきっとあの時。
――――ここに置いてください、どうか、お願いします……どうか……どうか
気紛れに、その懇願を受け入れてしまった、あの日、あの時。
たぶんそれが、私が犯した一番の大きな“あやまち”。
「……しょうがないじゃない」
井戸底に向かって言い訳を落とす。
今更、彼の処遇を投げ出すのは無責任で、あまりに理不尽だから。
外来人の世話も巫女の務めの内……というような取り決めが特にある訳ではないし積極的に御免被るが、まあ、物のついでと呼べぬでなし。
だから、そう、であればこそ、されど。
「…………もう少し、もう少しだけ」
この、
密やかに、密やかに。
「――えっ、出掛けるの?」
「はい、人里へ買い出しに」
「そ、そう……一人で?」
「ご心配有り難く。ですが霧雨さんが近辺まで同道してくださいます」
「ふーん……なら帰りは? 魔理沙は里に寄り付きたがらないでしょ…………わ、」
「ご安心を。帰路は、藤原さんが請け負ってくださいました」
「……そう」
「はい」
「…………いってらっしゃい」
「行って参ります」
変わらないと思っていた日々。信じて疑わなかった平穏。子供のように無邪気に、ただ享受すればよかった甘い時間。優しい光景。
変わる。
それらは容易く変わる。それを知った。それを予感した。
割れ鐘のように鳴り響く。頭蓋の内側を叩き砕くまでの強さで。
第六感だの神通力だの無駄な工程を一切必要とせず発露するその予知。そう遠くない未来の有様を、五感ではなく、預言でもなく、託宣ですらなく。
――――あの人が奪われる
「……っ」
この感情には名前がある。遥か昔から、人が言語を文化や学問として追究し始めるよりずっと以前から。
なにせ処に因らず、これは人間が生まれながらに背負う原初の罪だから。
嫉妬という名の罪の針。
「…………」
あの人が人里へ出掛けてより半日。
外はいつの間にか雨模様。しとどに濡れて滲む裏庭を、ひどくぼんやりと眺める。眺めている、つもりだ。眺め、見ている、この目に収めている、ような気がする。
実際に見ているのは、過去。彼が、博麗神社の居候になってからのこれまで。
見ないふりをしているのは現在と、未来。
「……………………」
幻想の護り手、博麗の巫女、博麗霊夢には予知能力なる異能が――――備わっているわけではない。しかして、ただ研ぎ澄まされ、果てに超越した感覚と経験則に基いた“勘”が、時に不確定な未来すらを見通すのだ。
だからこれも、一つの事実。千変万化の可能性の収束点。
彼に惹かれ、寄り添う誰かの気配。影。誰かの。誰かの。誰かの。誰かの。
自分ではない、誰か
「嫌ッ……それだけは、嫌……!」
地を打つ雨が矢鱈に五月蝿かった。まるで急き立てるようにその音は心に波を広げた。
幾重にも、幾重にも。
「………………………………」
罪ではなく、実体の。鋼を延べて打ち上げた鉄の針を。
妖怪変化を射貫く為の、巫女の為の武具。
磨けば磨くほど針は砥がれ、尖り……水気を拭き取って先端を覗く。雨に滲む視界にその細い陰影が融けるほど、針の頂は細く、痛みを錯覚するほどに鋭い。
針の先にそっと触れる。
何程の抵抗もなく、尖端は皮膚を貫き小さな小さな穴を空けた。暫時、指先に出来た空洞を眺める。そうして見る間に赤い玉、血の紅球がぷっくりと膨れ上がった。
それを拭いもせず、掌に握り込む。この雨模様と同じに血が滲み、指の隙間からそれらは零れていく。
無手の拳を、なお握る。あえてその傷を抉るようにして。そうすれば当然に、傷穴からは血が流れ続けた。
流れ、滴ったそれを、舌先で舐り取る。
鉄錆めいた香りが鼻を抜けた。舌の根に広がるこの味こそは、嫉妬。
何処ぞの橋姫の呪いなどは、これに比ぶれば全き児戯であった。
嗚呼、嗚呼嗚呼、なるほど、喉は爛れ、胃の腑を焦がすまでの赤熱、これこそが、これだけが、真の……“憎嫉”。
「渡さない」
針を
雨中に消え、刹那それは庭木の桜の幹を穿った。
「渡すものか」
雨はざんざんと空と大地を洗う。
自分の心にあった迷いと惑いが、今のこの天地の如くに洗い流されたような心地がした。
認めてしまえば呆気ない。自分に差し伸べられた手が、横合いから伸びてきた誰ぞに奪われる……その予感、否、想像だけで十分だった。
取り澄ましていた理性とやらが融ける間もなく昇華し、本能共々焦がれるほどの切望へと合流する。
「……そっか。はじめから」
随分、時間をかけてしまった。
でももう大丈夫。
仄暖かなこの日々に己は耽溺していた。そこに疑いはなく、言い訳の余地も絶無。
昔で言うところの小姓のようにせかせかと家政に勤しむ毎日。それだけならば、現代での生活とそう大差もなかった。
違う点があるとすれば……あるとすれば。
社会生活を送る上で最低限の、一つの家庭内労働に過ぎなかったそれが、重大な意義を持った。
重大な、大切な人。
彼女に、かの少女の存在そのものに、己は執着している。傾倒している。依存している。
果たして、その事由は――――分かっている。明白である。一言で済む。だが、その一言を口にすることはひどく、ひどく躊躇われた。それがどれほどに卑しいものかを、己は理解しているのだ。
傲岸にも理解しながら、それでも辞められない。
何かにつけて少女の世話を焼く。節介を働く。
小間使いのような己の振舞いにしかし、彼女は悪態を吐いても嫌悪や拒絶を露わにすることはなかった。遠大な思慮によってそうした心情を巧みに隠し、この凡夫を気遣ってくれている可能性も大いに考えられる。
けれど。
けれど、これが徹頭徹尾手前に都合の良い妄想でないなら、少なくとも彼女は己の家事雑事への遂行能力に対しては、一定の評価を下さっている。時にはうっかりと、満足そうに顔を綻ばせてもくれる。
その時、俺は一人、密かに喜びを噛み締める。
かの人の安楽に、ほんの一抹、何かを寄与できたのだと独り善がりな己惚れを抱く。
これをこそ、卑しいと言わず何と言う。浅ましいと断じず何を断ず。
俺は、俺という人間を心底嫌悪する。
だから。
そう。
ならば。
然様に心得るならば。
己はこの神社を去るべきだ。
最初の、あやまちがあるとすればそれは、あの日、あの時。
現世を惑い、幻想に迷い込んで日も浅いある日。稀なることに人里へ妖怪が現れた。
幻想郷の妖怪魔物の類は一様に人里が不可侵領域であることを重々了解している。そこが彼らにとって恰好の餌場に他ならぬと言えど、迂闊に手を出したならどのような報復が齎されるのかを骨の髄から理解している故に。
それは、
人里に張り巡らされた石造りの外壁を踏み崩して現れたのは巨大な猿。猿に近しい形をした、猿にありえない
粉砕され、崩落する石材や瓦礫に巻き込まれた者がいた。逃げ惑う群衆に揉まれ打たれ、誰しもが混乱の渦中。
親と逸れたのだろう小さな子供が地面に座り込み泣きじゃくっている。
獣にとり、それは絶好中の絶好なる獲物だった。
うっそりと子供を摘まもうとするその黒毛に覆われた腕。巨大なフキの葉めいた掌。
幼子と、異形の凶手、その間に立ち塞がった己はおそらく、無上の愚物に他なるまい。何が出来るでもない。無力な人間の一匹に過ぎぬこの身。
土塊よりも容易に砕かれ、熟れきった柿より敢え無く潰される未来が、その瞬間ばかりは予知能力の開眼すら必要とせず見通せた。
それで良い。この五体が破壊される間だけは、確実に少年の無事は約束されるのだから。
少年を救う……そんな高望みはすまい。その大望を叶えるには、この身はあまりにも天運なるものが不足している。
延命でしかない。あるいは少年にとっては、無為に恐怖を延長させるだけに終わるのかもしれない。
そればかりはひどく、申し訳なく思う。
あわよくば、彼がこの場を離れるだけの時間稼ぎになれば幸い。
甲斐の無い命の使い道としてこれ以上のものもなかろう。卑小な男の生涯の、なんて出来過ぎた、なんて素晴らしい最期か――
『莫迦じゃない』
その通りであった。悲壮を気取った自己犠牲。これほど滑稽で、傍迷惑な行為はない。
実際に、彼女はそう罵ってくれた。
『自殺がしたいなら
自己犠牲という大義名分に飛び付き、命を軽々に扱おうとした男に――いやさその魂胆に、正しい言葉で冷水を浴びせかけてくれた。
青空に踊る深紅。蝶より軽やかに、蜂鳥より鋭く少女が飛翔する。
博麗の巫女の手で、猿の変化、山の化生
感謝を口にする間もなく、少女は飛び去る。疾風のように埃すら残さず。
空に消える紅の残光を己はいつまでも追わずにはおれなかった。
――おそろしい
その静寂を裂いて、誰かが言った。
――おぉおそろしや。あれが博麗じゃ
――博麗の巫女
――妖殺しの巫女
――人でなしの妖怪狂い
――あれは人よりも妖怪を好むとか
――気に入らねば人も妖もないのだ。見ろ、あの猿を
――あんな化物をいとも簡単に
――こわやこわや。ナンマンダブナンマンダブ
――まったく、どっちが化物やら
口々の囁き、ざわめきが、ひどく無遠慮にこの背を突いた。
理解は、出来る。おそろしい、畏ろしいというその心情。彼らも、己も、ただただ弱い人間なのだから。
理解を示すことは出来る。彼らと己とに違いなどないのだと、知っている。
だが。
己は踏み出していた。背を突かれ、惹かれるままに。
紅の光を追って、その日の内に里を出ていた。そして。
『ここに、置いてください』
『は?』
その決断があやまちだったのか。もはやそれすら、蒙昧な己にはわからない。望むものとてもはやなかった。
いや、望みはあった。ただ、それは今なお叶い続けているのだ。
少女と過ごす代わり映えしない日常。穏やかな毎日が。
欠伸を溢してしまうほど平らかで、根を張れるほどに静かな日々が。
『退屈。退屈ったら退屈ったらたぁいぃくぅつぅ~!』
駄々っ子のように我が儘を言って、俺の肩を小突く少女。
『晩酌が美味しいのは知ってるわ。でもね、昼酒はそれに輪をかけて美味しいの。ふふ、知らない? じゃあ今から知ればいいのよ』
そう言って酒瓶を取り出そうするのを宥め、代わりにと剥いた水菓子を悪態を呟きながら美味しそうに頬張る少女が。
彼女が、安らかに、そこにいてくれるだけで。
幸福だった。泣きたくなるほど、その一瞬一瞬が、幸福だった。
……一度、夢想と諦めた。夢か幻よりも儚く、朧で、希薄になった筈のそれ。縁が遠退き、遂には永遠に失ったと思ったそれ。
天涯孤独の、芥のような男にそれは突如現れた。恵みのように。
それが少女からの、気紛れの憐れみであったとしても構わない。厭う理由などない。
ただ、この日々に感謝を。
少女の心遣いに感謝を。
そうして、願わくば、ほんの少しでも長く、この時間が続いて欲しいと。
己は常に、厚顔にも、願わずにはおれないのだ。
しかし己の卑小な願望など嘲笑うかのように。
“変化”はとても唐突に、なにより如実に表れた。