細々と載せます。
すみません。量が書けん……。
一息、吸い込んだ。
それは痙攣のような呼吸だった。
浅い息遣いで、吸い吐き、また吸う。心臓の鼓動が胸骨を存分に揺さぶり、耳孔を巡る血管へ出鱈目な量の血潮を送り込んでくる。
像を結び始めた視界。木目の古い天井を仰ぐことで、あれが夢だったのだと思い至った。ようやくに。
ベッドの上に横たわっていた。傍らの窓から白んだ光が容赦なく鈍った目を焼く。
見知らぬ部屋。少なくとも己の侘び住まいではなかった。
「へぇ」
「……!」
声を聞く。反射的にその方角へ首を巡らせた。
部屋の中ほど、丸テーブルの席に着き、頬杖をつきながらその女性はこちらを見ていた。眺めやっている、と表した方が今少し適うだろうか。
面白がるような風情で、その柳眉が上がる。
「死ななかったんだ? 思ったよりしぶといのね」
「ぁ…………貴女、は」
第一声は紙屑を擦るかのような雑音であった。唾を飲んでそれを拭い、言葉と呼べる代物を口にする。
「風見幽香。花の妖怪。そしてこの家の主」
「は……お初にお目にかかります」
実に端的な、無駄を削ぎ落された回答であった。少なくともこれで彼女の呼ばわり方と、彼女と己の間にある生物的強度の差を過不足なく把握できた。
しかし、ふと。
「以前に、何処かで……?」
「さあ、会ってるかもね」
肯定も否定もせず、応える気がそもそも無いといった言い様であった。
問答をする内に、靄の掛かっていた意識が覚醒していく。
意識は身体感覚へ繋がり、遅れて記憶野を刺激した。記憶、そう、眠る前、最後に見た光景を。
「! リグル、さん……ぐ、ぁっ……!?」
ベッドに手をつき、起こそうとした身体がそのまま落ちる。
掛けられた毛布を巻き添えに寝台から滑落した。
「な」
「動ける訳がないでしょう。どれだけ血を失ったと思ってるの」
床に腕をつく。膝を曲げ、上体を持ち上げる。その試みは試みのままに終わった。
軟体動物にでもなった心地だった。痙攣を起こすばかりで、足腰は文字通り物の役にも立たぬ。
突き立てるようにして腕を床に叩き付けた。立てぬだと。そのような、言い訳、聞く耳はない。
「くっ、づぁ……!」
「……それに、今更のこのこと出向いて一体なにをしようって?」
無様に足掻く男のもとへ革の靴音が軽快に近寄ってくる。
ふわりとロングスカートが、床板の表面を払う。ひどく、花の匂いが香った。
屈み込んでこちらを見下ろす赤。ルビーのような赤い瞳。そこに浮かぶ色彩の意味を、己は履き違えなかった。
「そんな体を引き摺って、今度こそ化け蟲の餌になるわよ。ああ、それとも」
嘲笑、侮蔑、そして僅かに感興、好奇。
「それがお望みなのかしら? 喰い散らかされて無惨に死ぬのが」
「あるいは」
「……」
「そのような魂胆も、あったように思います」
女の目が細く眇められる。美しい形状をした瞼や目尻は、いくら歪み、皺を刻もうと美しいのだと、阿呆のような感慨を覚えた。
「しかし、それは現在の優先事項ではありません」
「優先事項?」
「はい、っ……が、ぁ……!」
地虫同然の様で床を這う。体中に鉛を巻いたかのような不自由。どうあっても立ち上がることは能わぬようだ。
ならば致し方もなし。
「ふっ……ぐ、ぅ……!」
このまま行く。
だが匍匐前進にも技量が要る。そんな当然の事実を知った。今、まさに。
「……どうして」
「はぁ、づ……リグルさんに、過失はないことを。その行為は正当であったのだと、伝えねばなりません」
「――――」
「もとより、彼女の正気は失われていた。いや何らかの要因が
「……」
彼女が、彼女の欲求、嗜好、意思によってこの身を喰らわんとしたのならば、いい。それは食物連鎖の中の一幕。失われるのは己が無為の身命一つ。帳尻は合う。
だが、現実はどうか。
リグルという少女は本当に納得尽くで全てを行っていたのか。
わからない。かの少女とは道々にて行き会った程度の間柄。その
しかし、困難なそれを敢えて断行するならば。
「彼女は、望まぬ人喰いを強いられた。だがそれは何一つ間違いなどではなかったと! それを、きちんと、くっ、知っていただく……はっはぁ、はぁ、ぎっ……!」
如何ともし難い。この、屑鉄のような身体は。ベッドから散々に足掻き、藻掻いているというのに、部屋の中央にも到達していない。
とはいえ強か手足を床板に打ち付けた御蔭で血の巡りは良くなっている。多少は、動いてくれようか。
「愚かしい」
「? っ!?」
突如、身体が浮かび上がる。無論、超回復によって足腰が立ち上がった訳でも、この身が奇跡的に飛翔能力を開眼したなどという訳でも断じてない。
風見幽香、彼女が己の胸倉を掴み、持ち上げたのだ。
煌々と輝く赤い瞳が、己の眼球を刺突する。
「お前は頭がいかれてるのか。自分を喰らった
「っ……は、恥ずかしながら、健常健全であるとは、胸を張れません」
「……」
「何処かが、狂ったような気がする。そう……何時からか……」
いつからか。
また、脳髄に靄が立ち込め始めた。朦朧とする。気管支を圧迫され、酸素が欠乏し始めたのか。あるいは彼女の言う通り、己の脳髄はとうに腐敗していて今もなお頭蓋骨の内で腐った煙を発しているのやもしれない。
だからこんなにも、視界が暗む。
「…………」
「はぁ、はぁ、ふ、はぁっ、はぁ……」
それでも、行かねばならない。断じて行かねばならない。
無辜の少女に、無実の子に、この男は無価値なのだという事実を伝える為。
こんな男は、いっそ――――殺してしまえばよかったのだと、教えてやらねば。
教え、て。
「――」
男の身体から力が抜ける。片手に掴んだ胸倉から、それはだらりと垂れ下がった。
ベッドに横たえる。呼吸は、ある。目覚める前よりもそれは弱々しかったが。
まだ、生きている。その内側に根差すもの共々に。
「…………」
狂っているのだと、思っていた。
尋常に生きていられないほど。浅ましく死を
けれど、違う、のだろうか。
わからない。
わからなくなった、この男が。この人間が。
ベッドの上でようやく身を起こせるまでに快復したのは、それからさらに一週間後のことだった。
満足な医療器具も有りはしないこの土地で、それでもなおしぶとくこの身が生き永らえているのは、誰あろう風見幽香さんの御助力あって為し得ることであった。
本来ならまず目覚めて何より先に、幾重にも謝辞申し上げねばならぬところを、己はといえば我が事我が都合を優先するばかりか、彼女には昏倒した己にさらなる手数と労力を割かせてしまった。
返す返す、救い様がない。とんだ恥晒しであった。
滔々詫び言を繰り返す己を、風見さんは心底うざったそうにあしらった。あしらいついでとばかり、彼女は興味の色も薄く言った。
「リグルには私からとりなしておいたわ」
「! それは」
「それでもまだ直に言いたいことがあるんなら、とっととその萎れた体をなんとかなさい」
途端、湧き出るような感謝の言葉を、やはり彼女は鬱陶しそうに跳ね付けるのだった。
軒どころか床を一つ占領する日々。
「ん」
「は……」
匙すらろくろく握れぬ己に、彼女は何も言わず食事の介助をしてくれた。
差し出されたスープに逡巡したのもほんの束の間。否だの応だのとこれ以上に余計な手間を掛けさせたくはなかった。
彼女の気紛れな厚意、慈悲に、深く感謝する。
「……」
「くっ、ぎ……!」
晴れた日は必ず外に出て身体の酷使に勤しんだ。
リハビリテーションに対する専門知識など欠片と持ち合わせぬ身。賢しく効率的な運動など夢想するだけ時の浪費である。
向日葵畑の只中に、そのコテージは建っていた。年季の入った木造の洋風家屋。正面玄関から広々としたウッドデッキが続く。
そこに引き出された椅子へ、彼女の肩を借りて座る。
ここをスタート位置に歩行訓練が始まる。
歩行などとは烏滸がましい。訓練開始からの数日間は、椅子から立ち上がることすらままならなかった。
椅子を転げ落ちる度に、彼女は黙って己を抱え上げ、また椅子に座らせてくれた。
「は、はっ、はぁ……ありがとう、ございます」
「……」
彼女は何も応えない。ただ、日がな一日転げまわる己を、デッキの手摺に腰を預けて眺めていた。
その静かな眼差しに、なにやら不思議な安堵を覚えた。
震える手でパンを千切り、スープに浸して食べる。
手摺に捕まりながら、産まれたての小鹿か死に掛けの老人のような覚束無さで立ち上がる。
およそ一月かけて、青年は自らの肉体をその程度には復元してみせた。幽明境を彷徨ったにしてはよくもまあここまでと、皮肉の一つもくれてやれようか。
必死。青年の有様はまさしくその二字を体現している。
何故。
勿論健康体を取り戻したいという欲求はごく当たり前のものだ。いつまでも介護老人のような地位に甘んじていられるほど泰然自若とした性質でないことも見て取れる。
なればこそ、何故。
自身を貪る化物に、あんな顔ができたのか。あの期に及んで自分が死なぬなどとまさか勘違いしていた訳でもあるまい。
それなのに、親が幼子にそうするように、あの男は蟲妖を労って、慈しんだ。
青年の方があの少女に気がある、という可能性……いや、その日がまったくの初対面であったという。一目惚れ、なんて薄ら寒い病の気配も特に感じられなかった。
そのような魂胆も――――
死にたがり。自殺志願。希死念慮。
そういう救い難い、愚物。塵屑。存在するだけ目障りな、息をする死人。
あれもまたそうなのか。
……そうなのか? 本当に?
今日も、貴女はよい姿を――――
あれも。あの言葉も、あの貌も、全ては自死への陶酔が
己自身を死すべきものと決めて掛かり、ただ卑屈に
本当に、そうなのだろうか。
「…………」
本当の、あの青年の
ああそう、そうだった。それを知る為、この好奇心を満たす為に私はアレをその肉に植えたのだ。
何を
……いや、そうまでせずとも。
今ならば、アレを通して青年の心、記憶を覗き見ることさえ造作もない。
それほどに深く固く強かに根は張られた。肉の土に骨の添え木、血の養水。あの青年はもはや動物でも植物でもある。つまりは、この風見幽香の虜。
躊躇う理由などない。
「……」
ない、筈だ。
「おはようございます、風見さん」
その日の朝も、青年は早くから起き出し既にして戸口に立っていた。片手には枝打ちをした樫の荒削りな杖を携えて。
背後のこちらに振り返り、その場で深く腰を折る。
「……おはよ」
「はい、今日もよい日和ですね」
実に月並みで、朴訥な挨拶をして、笑む。
青年は今一度会釈をすると、注意深く戸を開けて表に出て行った。その一歩一歩を踏み締めるようにして。
「…………」
前へ、明日へ進もうと尽力するのと同じほど、その精神は死を憧憬している。
矛盾。
生と死の並立。生きながらに死を孕んでいる。生を象徴しながらに、死をも象徴するそれは。
「まるで……」
花のよう。