楽園の巫女様が根暗男に病む話   作:足洗

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随分時間が掛かってしまいました。本当に申し訳ありません。

風見幽香√これにて完結でございます。




赦(了)

 

 

 

 一言、尋ねるべきなのかもしれない。

 どうして貴女はそうまで己をお(たす)けくださるのですか、と。

 見も知らぬ赤の他人を。己が身も字義通り立てられぬこんな不甲斐ない男を。

 リグルさんとは知己だという。なるほどならばその(よしみ)。縁に依って……それのみとは、思われない。

 何故(なにゆえ)にと、問いを投げ掛けることはできた。何時なりとできた。

 しかし、己はそれをしなかった。

 感謝と謝罪を繰り返して、それでも問うことだけはしなかった。

 問うことで、変わることをおそれたから。

 この日々が終わることを、おそれたから。

 ただの気紛れでいい。それが戯れでも一向に構わない。己にとってソレは間違いなく得難い奇貨であったから。

 ソレは花の君からの、慈悲であったから。

 

 ……だが

 

 何十日目かの朝。

 杖を突きながらであれば太陽の畑の南北を往き来できるまでに、この足が使い物になった頃。

 決断をせねばならない。誰に迫られている訳でもないが。何も決めず、何一つ負わずに送るには、この日々はあまりに穏やかで。

 幸福を貪る己という名の蛆を自覚せざるを得ないのだ。

 自覚したからには無視はできない。

 俺は彼女に、かの人が胸に抱く目的を問わねばならない。そして、その御返答の如何によって、この身の進退を決める。

 道は二つに一つ。ここを出るか、ここに留まるか。選ぶには知らねば。彼女の(のぞ)みを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 青年を引き倒し、床に叩き付けるのにさしたる力は要らなかった。

 妖怪と人間の膂力の差は絶対である。異能による反則でも用いぬ限り、この差は決して埋まらない。

 痛め付けるのが目的ではないから、要した腕力は余計に少ない。

 仔犬を悪戯で転がすように。

 

「わかってたでしょう。いずれこうなるって」

「はっ……」

 

 言葉を失くして、青年はこちらを見上げている。

 驚愕の色は、思いの外少ない。ただ身体が真実、室内空間を空転したことで脳が混乱でも起こしているのだろう。人間の三半規管の脆弱さに付き合ってやる気はない。

 

「私がお前を生かす理由。今、教えてあげるわ」

「……はい、それを、お尋ねせねばと、思っておりました。遅きに失しました。長く、躊躇するばかりに」

「あら、渡りに舟じゃない。感謝してくれてもいいわよ」

「ありがとうございます」

「……」

 

 皮肉の一つも通じない。いやそれと承知で、それでも礼節だのなんだを重んずる。自己の思い願い存念など慮外に置いて、他者のそれを押し戴くかのそれ。その態度が。

 苛立つ。業腹だ。

 どうしてか。どうしてだか。

 弱者が嫌いな訳じゃない。弱い者には弱いなりの生き様もあろう。尻尾を巻いて一目散逃げるもよし。無謀、蛮勇に闘い果てるもよし。弱さは盾にも矛にもなるのだから。

 卑屈が目障りな訳じゃない。己が賎しさを嘆く様は()なきだにこの目を潤すもの。我が嗜虐の欲心を満たす甘露であって、むしろ忌避せざるところだ。

 この男は、どちらだ。

 どちらであってもいい。どちらかで、あればいい。

 どちらかであってくれたなら、この胸に詰まる(わだか)りも失せる。

 

「見せなさい」

「っ!?」

 

 前頭を掌握する。文字通りに。

 今、男の肉体の至るところに張られた根とこの手を繋げる。同調、同期、彼我に根差した生命樹の、互いの蔦が絡み合う。

 その奥にひた隠されているその本性を、暴く。

 

 ――――憎い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思考は一色に染まっている。

 視界は色彩を欠いていく。白と黒。まるで意味すらも消え去るかのように。

 意味。意味は一つだ。残留する薄汚い染みのように、たった一滴。

 憎い、ゆえ、殺す。

 この男を殺す。必ず殺す。絶対に殺す。

 父の命を挽き潰した、父をこの世から損なわしめた、この男が憎い。

 憎い。

 憎い!!

 殺してやる!!

 

 

 

 

 ……憎しみ。そう、それがお前の

 

 

 

 

 首を両手で締め上げ、全体重を掛ければ、扼殺は勿論頸骨を潰し砕くことすらできる。

 できる。この激情あらば肉体の限界を打ち破り、常識外の膂力を発揮し得る。成人男性の強靭な首を素手によって破壊してみせる。

 今ならばそれができる。できるのだ。

 やらぬ理由などない。父を殺した男を殺さぬ道理など、ない。父を殺した。この一事実は殺戮行為に対する解禁の万の理由に勝る。

 殺す。

 立派な人だった。尊敬に値する人だった。愛すべき人だった。……愛してくれた人だった。

 それを、この男が、肉片と散らした。

 そしてあろうことかその亡骸をして汚いと言った。汚いと、言ったのだ。唾を吐き捨て、遥かな価値を有したその命を貶めたのだ。

 許さぬ。許せるものか。

 

 

 

 許せないなら、殺すしかないわね

 

 

 

 そうだ。殺すしかない。殺す以外の道はない。

 父の仇を討つのだ。

 父の。

 

 

 

 

 

 ――――君は優しいな

 

 

 

 

 

 次いで蝉の声がした。

 世界に色が戻ってくる。

 雑多な意味が帰ってくる。

 純一だった思考は混沌と搔き混ぜられ、ヘドロのように淀み滞り流れを失う。止まる。

 すっかりと停止した脳髄の中心で、しかし豁然と、あの人の姿は立ち現れた。父の微笑が俺を見ていた。

 優しいのは貴方だ。俺の為に多くのものを与えてくれた。たくさんのものを見せてくれた。知りたいことは何でも答えてくれた。知らねばならない大切なことを教えてくれた。

 貴方のような大人になりたいと思った。

 大人になって、貴方達夫婦の助けになりたいと思った。思っていたのに。

 その希望は潰えた。轢殺されてしまった。

 己が今組み敷いているものの所為で。だから。

 だから、これは貴方の仇だから――――これは父の為だ、と?

 ……あの人は、望むだろうか。

 違うこれは俺の望み。この男を殺すことに、父は関わりない……ない筈が、ない。

 父を理由に、人を殺す。それは青天の霹靂めいて赤熱した脳の裏側を急冷した。痛みすら伴って。

 ……あの人が望むのか。俺の殺戮、復讐を。

 あの人は死んだ。今まさに、俺の目の前で。死んだ者が想い願いなど口にするものか。そうできぬ場所に彼は逝ったのだ。望むも自分。行うも自分。父は、関係ない。

 ……父を殺されたその一事実を、殺戮解禁の言い訳にしておきながら。

 父の仇、父の為の殺人だと、(おまえ)は胸を張れるのか。

 俺が今生きているのは、あの人が俺を庇ったからだ。胸に走る鈍痛はあの人が俺を突き飛ばした時に出来たもの。気付いていた。ただ狂乱した思考の端にそれを追いやった。

 ……父に生かされた命で、俺は人殺しをするのか。

 殺したい。殺したいほどに憎い。この憎悪を晴らしたい。この男を殺すことで。

 殺さねば。殺す。殺せ。憎い。殺す。憎い。殺してやる。憎い。憎い。憎い。憎い。

 

 

 

 

 君は――――

 

 

 

 

 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 

 雑音がする。叫びだ。獣の濁った吠声(はいせい)のような、聞くに堪えない絶叫。

 それを上げているのは、喉から血を吹きながらそれでも、吠え続けているのは。

 俺だった。

 アスファルトに拳を打ち付ける。何度も何度も打ち付け、殴り付ける。途端、皮は破れ肉が削がれ、地面と、眼下にある男の顔を赤い血飛沫で彩った。それでもなお、拳を振り下ろした。何度も、何度も。

 そうして何度目か、骨が肉を突き出た時、俺は警官二人に引き起こされた。

 救急車と数台のパトカーから人間が大挙する。

 男もまた警官に連れられ、パトカーへ歩いていく。男の顔に表情はなかった。表情と呼べるだけの色がなかった。ただ、俺を、歪な形に凍り付いた顔と昏く淀んだ目で見ていた。

 恐怖。それに凝り固まった貌で。

 

 

 

 

 ………………

 

 

 

 

 俺は起訴されなかった。

 当時十四歳、少年法が適用され、逮捕・拘留、後に家庭裁判所へ送致されるのが妥当な仕儀であろう。未遂とはいえ殺人を敢行しようと試み、またその現場は居合わせた警官が目撃もしている。

 しかし、俺はその日の内に解放され、母のもとに帰った。

 被害届は出されなかった。また状況の特殊性が常識的、司法的な判断を困難にしたらしい。

 生活態度や素行に特筆するほどの問題はなく、逃走の懸念もない為に、俺は自宅での待機を要請された。命令ではなく。

 一定期間の捜査は為されたが、結局、俺の行為は処罰の対象と看做されなかった。

 被疑者の男が何故、俺の罪を訴え出なかったのかはわからない。男の弁護人が反省態度の示し方として俺への酌量をレクチャーしたのか、それとも――――何かを怖れたのか。

 報復を、怖れたのかもしれない。

 俺の殺意を、怖れたのかもしれない。

 国選弁護人の怠慢か。男には危険運転致死傷罪が言い渡され、懲役刑となった。人生の四半世紀近くを塀の内で過ごすその決定を目の当たりにした時、あの男はやはり、あの恐怖の貌をしたのだろうか。

 それとも、安堵したのだろうか。

 もはや知る術はない。知りたいとも、思わなかった。

 

 

 

 飲酒運転による死亡事故。父を目の前で轢き殺された少年。

 その少年の、仇討ち。

 あの現場は撮影されていた。居合わせた野次馬の何人かは、俺が男に覆い被さり首を絞める様を携帯端末に収め、それらの幾つかはインターネットの動画サイトやSNSにアップロードされていた。

 数分にも満たない悲劇と復讐劇の凝縮された映像は一時期テレビや新聞、ネットで取り沙汰された。

 その復讐行為を称賛する声、短絡的で衝動的な行動に対する批難、法治国家における私刑の是非、人が人に暴力を振るう正当性……センセーショナルに、面白おかしく、勝手自儘に議論は画面と紙面の上で白熱した。

 当事者など置き捨てて。

 いや、置き捨てていてくれたなら、それでよかった。

 不要な注目は、俺と母の周囲から平穏を消し去った。

 学校の級友らが俺と距離を置いたことも至極当然で、妥当な行動である。彼らは迷ったに違いない。事故の被害者であり、事件の加害者でもある己の処遇を。憐れむべきか、忌み嫌うべきなのか。結果として、彼らは消極的排斥を選んだ。

 その判断を非情とは思わない。

 むしろ真逆。本当に申し訳なく思う。

 学校生活に無用な波風を立てられた、彼らこそ被害者に他ならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 母は、俺を責めなかった。

 

 ――――辛かったでしょう?

 

 安置室の、冷たいリノリウムの廊下で俺を出迎えた母は、俺を強く抱き締め、静かな声で言う。

 

 ――――よく、耐えたね。あなたは偉いよ。とってもすごいよ

 

 まるで、辛く苦しいのは俺ばかり、自分自身の悲しみなど捨て退けて。

 俺を労り、褒めて、慰めて。

 

 ――――ごめんね

 

 謝るのだ。

 心底申し訳なさそうに、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返す。

 罪人は、己である。

 一時の殺意に身を委ねようとした。それが全く、徹頭徹尾、正しい行為だなどと盲信して。父の死を名分に、この憎しみを晴らそうとした。

 それが独善でなくてなんだという。自慰行為とそれとにどれほどの違いがある。

 そんな(おぞ)ましい所業に手を染めかけた己を、己の無事をまず何よりも母は歓喜した。

 そして、当然に。

 父の死に全霊で悲哀した。納体袋の中に拾い集められた父、原形留めぬその亡骸に縋り、魂を吐くような嗚咽で泣き崩れた。

 ああ。

 俺は一人、愚昧に理解する。場違いで時期外れ極まる悟りを得ていた。

 人として正しい有様。母の悲しむ様に、人倫(ひとのみち)を見た。

 ケダモノに身を(やつ)した己の対極を。

 正常な人間が、大切な誰かを喪った時最初に抱くべき当然の感情を。

 

 ――――ごめんね

 

 何を謝ることがある。この人が何を悔い、改める必要がある。

 悔悟に呻くべきは己だ。罪を知るべきは己だ。

 俺は、危うくこの人を、人殺しの母親にするところだったのだ。なんたる罪業。なんたる軽挙妄動。俺は無知で、無恥だった。

 だのに母は悔いた。母こそが罪悪感に身を縮めた。

 俺の所業を、我が事のように悲しんだ。

 最愛の人を亡くした悲しみに胸を潰されながら、その細い両肩で俺の罪悪までも背負いこんだ。

 その報いは、如実に、無慈悲に、急速に現れた。

 その後、体質的に病弱な母が体調を崩したのは言うまでもない。喧騒から逃れる為に住処を移したことで、環境が大きく変わったのも確実に悪影響を及ぼしたろう。いっそ、自然の成り行きでさえあった。

 病床から立ち上がることもできなくなった母は、呼吸器でくぐもった声で、それでも、何度も。

 

 ――――ごめんね

 

 父が死んでからおよそ二年後。母もまた父と同じところへ旅立っていった。

 

 

 父の死が、母の精神を著しく弱らせたのは事実。それこそ当然の、極大の悲しみを母は受け止めたに違いない。

 だが、決定的だったのは。母の心身に致命的な負荷を強いたのは。母に、止めを呉れたのは。

 俺だ。

 俺の行為が、母を疲弊させ、苦悩させた。

 

 

 俺が……母を殺した。

 

 

 

 

 

 

 

「っ!?」

 

 現実への回帰は唐突だった。

 青年との同調が解かれ、肉体に精神が叩き戻される。立ち眩みにも似た視界の惑乱を歯噛み一つで捻じ伏せた。が、それでも、この胸には余韻が残った。

 それはひどく、鈍い。重い。あまりにも重く心臓を響く。

 悲しみ。後悔。罪悪感。

 自己嫌悪。

 自己(おのれ)を許せぬ。青年は怨念を籠めてそう念じていた。

 

「……それが」

「…………」

「それが、お前の“理由”? お前が、()()なった理由だっていうの」

 

 当初の目的は果たされた。望み通りの回答を得た。

 この男の、歪な生き様の出発点を、見た。疑似体験したとも言える。

 夏の盛り、向日葵の見下ろす石の道で、陽炎のように燃え盛る憎しみ。悲憤を。

 だが。

 なんだ。これは。この晴れぬ感情は。未だ残留する蟠り。苛立ち。

 

「後悔? 自己嫌悪? 罪?」

「……俺が、母を、死なせた」

 

 床板に視線を落とし、項垂れるままに青年は呟いた。

 それを聞き取った瞬間。

 

「違う。違う! 違う!!」

「……」

 

 胸倉を掴み上げ、無理矢理に立たせる。俯くその目を睨み付た。溢れ出るままに言葉を叩き付ける。咆哮の如くに。

 

「お前が悔いるべきはそれじゃあないだろう!?」

「……」

「お前が悔いて、恥ずべきは……父の仇を討たなかったことだ! 仇を、怨敵を、殺さなかったことだ!」

 

 それ以外にない。それ以外に何がある。

 愛する者を殺され、塵屑として扱った者を生かしたままにしている。それ以上の罪悪など、ない。ない……ない筈だろう。

 それなのにこいつは、この男はその行為を悔いている。恥じている。憎んですら。

 人の法か。人間の社会倫理、文化通念が報復殺人を禁忌と定めているからか。くだらぬ。くだらぬ。くだらぬ。そんなもの一撫での慰みにもならない。ならなかったではないか。司法の裁きは結局、被害者たるこの男を、この男の母を救い得なかった。人の法理など所詮は人間社会という枠組みを防衛する為の機構に過ぎない。

 理は一つだ。

 殺された、ならば殺し返せ。命を奪われた、ならば奪い返せ。

 それでようやく帳尻は合う。強奪されたマイナスを打ち消せる。喪われたものは戻らない、がゼロには戻る。ようやく開始点(スタート)に立てる。

 それが、それこそが正理(しょうり)

 同じ筈だ。人間だろうが妖怪であろうが、それだけは。

 そうでなくては。そうでないなら。

 この男は――――

 

「できない」

「っ、どうして!」

「父は、きっとそれを望まない」

「死人が望みなど口にするか!」

「母は」

 

 ゆるゆると、青年は首を左右して。

 

「望まなかった」

「ッッ! ……違う、そうじゃなくて……そうじゃ、なくて」

 

 死んだその誰かも、あなたの復讐など望まないだろう……そんな薄ら寒い定型句は、今更口にするのも憚る。

 しかし、青年の母は確かに、生きて彼に伝えた。そんなものは望まないと、彼が罪を犯すことなど決して望みはしなかった。

 それでも、納得できない。

 

「お前は!? お前はそう望んだでしょう? あいつが憎い。殺したいって!」

「………………」

 

 青年は、痛みを堪えるようにして表情を歪め、瞑目した。

 吐息するような、それは諦めだった。

 駄目だ。ああ駄目だ。そんなの。納得できない。認めたくない。

 この胸奥から溢れる感情は耐え難い。まるで自分のものではないかのように氾濫する。

 今、風見幽香という存在の狂乱を自覚している。たかが人間一人の、ありふれた不幸を垣間見た程度で。何故だ。この苛立ちは何だ。この青年の、一体何が風見幽香(わたし)をこんなにも乱すのだ。

 正当な殺意に、封をしようとする。苦悶を押し殺し、悲憤に身を焦がし、その苦痛を甘受する。ただそれだけの為に生きている。精神を拷問に掛けるかのようにして生きている。

 ――――生きてなどいない。

 それは断じて生などではない。死だ。この男は生きながらに死のうとしている。心を殺している。

 だったら。こいつが自分の心ばかりを殺すというなら。

 

「――――私が殺してやる。お前の、父の仇を」

「!?」

 

 青年を手放して玄関に踵を返す。戸を開け放ち、進む。

 太陽の畑を縦断する。一面の向日葵が、私を見ていた。

 

「風見さん!」

 

 声が背中に追い縋る。無視する。

 不揃いな足音が地を蹴り、苦しげに追い掛けてくる。それでも歩みは止めない。

 足音が乱れ、大きな音を立てて倒れ込む。歩みが、止まる。

 その直後、右腕を掴まれた。

 

「……」

「ぐっ、はっ、はぁ、はぁっ……」

 

 青年は這って、土に塗れながら自身に追い付いた。

 真っ直ぐにこちらを見上げる目を睨み返す。その理解不能の必死さが、さらに私を苛立たせた。

 

「放しなさい」

「できません」

「放せ」

「放します。それを断念していただけるなら」

 

 決然と青年は言った。それまでは断じてこの手は放すまい。そのような意思を露わに。

 何故。

 

「ッ! 忍耐して満足? 憎しみに蓋をして父母の望みを叶えていればお前は満足なの?」

「はい」

「嘘」

 

 男の望み。本当の希みはそこにない。ないから、こんなにもこの男は倦んでいる。

 

「お前が、私の花を尊んだのは」

 

 白翠の花。森の中に拓かれた小さな花園。

 青年が恐れ戦きながら、畏れ、尊んだあの花。花の白に、母親の骨を見ていた。それが不幸の記憶に繋がっていると知りながら、それでも、膿んだ傷口をなお抉るかのように毎日毎日その姿を目に収め、焼き付けるようにしていたのは。

 

「憎しみを忘れない為でしょう! それを糧に、今日まで生きてきたんじゃないのか……もし、そうではないと言うんなら」

「……」

「お前の本当の望みを言いなさい。私がそれを叶えてあげる」

 

 誰だろうと殺してやる。そうして初めて、ようやく、こいつの人生は折り合いを付けられる。始められる。

 人として、生きていける筈だ。

 

「言いなさい。言え! 言うの」

「俺の、のぞみ……?」

 

 まるで初めて口にするかのようにその言葉を呟く。青年は、自分自身の願望を今の今まで考慮していなかったようだ。

 おそらくは、父親の死んだあの日から。罪人が想い願いを口してよい筈がないと、思い決めて。

 青年の手が微かに震えていた。

 その目から、表情から、色が抜け落ちていく。

 代わりに奥底から、隠されていたものが表出する気配を覚えた。青年の、真意。意志を。

 

「そう。そうよ。お前の」

「俺は……俺、は……」

「本当の」

「俺は――――」

 

 浅く、一吸い、青年は息を呑み。

 そうして、その顔はくしゃりと、形を崩した。

 

「――――恩を、返したかった」

「え……?」

 

 震える声音で、彼は言った。

 目から堰を切ったように涙が溢れていた。

 

「こんな俺を、俺みたいなやつを拾って、育ててくれた……親孝行したかったっ、もっといろんな話をしたかった……お礼を言いたかった、たくさん、たくさん! ……大人になって就職して、二人を楽させてあげるんだって……今度は俺が、俺の番だから……!」

 

 さめざめと涙を溢し、青年はその場に泣き崩れた。

 嗚咽が混ざり、しゃくり上げ、言葉が言葉としての体裁を失っていく。彼はただ、泣きじゃくった。

 泣きながら、それでも言い続けた。希みを。心からの希みを。

 

「会いたい……また、もう一度、もう一度だけ……父さんと、母さんに……会いたいよ……!」

「――――」

 

 ふと見ればそこに蹲っているのは、十五、六の、ただの少年で。

 少年は純粋で当たり前の願いを叫んだ。両親に、会いたい。とても当たり前で、ありふれていて……二度と叶わない希みを。

 

 

 

 

 

 

 自己嫌悪(にくしみ)復讐心(にくしみ)を凌駕した時から、俺はふと道に迷った。行くべきところがわからなくなった。

 本当の望みは叶わない。もう決して、あの人らは帰ってこない。

 母への罪悪を背中に負って、燻るばかりのにくしみを抱えて、後悔と悲しみと孤独と絶望に目の前が昏くなった。

 自殺も、幾度か考えたが、それは安楽への道。死ねば確実に楽になれるとわかっていたから、しなかった。そんなことは許されない。俺は俺に許さない。

 なによりも父母がそれを望まない。

 生きなければいけない。ちゃんと、生きなければ。

 でも、いくら考えてみても、周りを見渡してみても、わからない。思い出せない。

 

 生きるって、どうやるんだったっけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうしようもない。救い難い。救えない。

 私にはこの青年を救えない。

 

「……」

 

 そうか。私は。

 このどうしようもなく愚かで、憐れで、惨めで、可哀想な青年を。

 痛くて苦しい癖に一声も上げず知らんぷりを決め込む青年を。

 救いたかったのか。

 

「ダメなのね」

 

 家族を失う悲しさなんて私にはわかってやれない。憎悪に勝ってしまう愛情なんて知らなかった。

 

「もう、一歩も進めないのね」

 

 この青年の心は、その二つで均衡してしまっている。憎いから殺しても、愛しい人らは帰らない。愛しい人らを想っても、その死に罪悪を覚えずにはいられない。

 生きているのは辛いのに、自分に死の安息など断じて許せない。

 自分自身をただただ責め苛むだけの人生。生きながら死ぬだけの停滞した時間。

 なら、仕方ない。ならせめて、ほんの少しだけ、手助けしてやろう。その苦しみが少しだけ紛れるように。

 

「眠らせてあげる。静かに、咲かない花のように」

 

 涙に濡れた顔が、呆然と私を見上げた。

 笑みを返す。なるたけ優しく、労わるように。

 

「膝から下は要らないわね」

 

 とっときの冗句を口にするみたいに、軽やかに。

 

「家の坪庭の花壇の、一番日当たりのいいところで、浅植えにしてあげる」

 

 安心させるように。

 

「朝顔や桔梗や、アネモネ、チューリップ、撫子、薔薇……それに向日葵。貴方の隣に、たっくさん植えてあげる。毎年毎年に色とりどりの子らで飾ってあげる。だから」

 

 寂しくないように。孤独の穴埋めに。

 

「どこへも行かなくていいの。私の花園の中で、ずっと咲いていればいいの」

 

 もう苦しまなくていい。心穏やかに、ただ眠るようにそこにいればいい。生きなくてもいい。死ななくてもいい。

 そこにいてくれさえすれば、それでいい。

 

「お前は――私だけの花だから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 よく晴れている。

 雲も疎らな秋空は、四季の中でも一際高く広い。庭の軒に四角く区切られた薄青。冷えて澄んだ空気そのものに、そんな冴え冴えとした色を見た。

 小鳥が囀ずっている。夜明けを言祝(ことほ)いで。

 

「いい日和ね」

「……」

「今朝は肌寒かったけど、霜も降りなかったし、陽が出てくると気持ちがいいわ。ねぇ?」

「……」

「ふふ、今日はローズヒップ。赤がね、今年はすっごく鮮やかだったの。煮出してもこんなに綺麗に色付くのよ? 貴方も飲む?」

「……」

「そう。じゃあ今度はカモミールにしようかしら。ふふふ、楽しみね」

「……」

 

 丸テーブルにカップを置いて、スツールを立つ。

 坪庭の中にそっと足を踏み入れ、その中央へ。一等に、日当たりの良いその場所へ歩み寄る。

 ロッキングチェアに座る彼に。

 背もたれや肘掛けや支柱、曲線を描く脚にまで絡み付く蔦。彼の体中から伸びたそれらが椅子を包んでいる。

 膝から下は根が生えている。樹皮に覆われた若々しい樹根が、幾本幾重にも分かれ広がり、庭の土に浅く植わっている。

 蔦と葉を掻き分けて、その頬を撫でる。ゆるく閉じられた瞼を見詰める。

 

「今日も、貴方は良い姿をしてるわ」

 

 眠りは穏やかかしら。いい夢は見られてる? どうか、それが優しい思い出でありますように。

 

 

 

 

 爆音。

 地響き。

 庭が上下し、テーブルから落ちたカップが地面で割れた。ぶち撒けられた野薔薇が香り立つ。

 

「……ごめんなさい。少しだけ出てくるわ。待っていて。すぐに戻るから。すぐに、ね」

 

 もう一度、その頬に指を這わせて、暖かな日向に背を向ける。日傘を手にして、外へと赴く。

 

 

 五行の相克を逆用して構築した大森林結界は炎すら退ける。たとえ鬼の金剛力を以てしても容易には破壊できまい。いや壊し薙ぎ倒したとて、瞬きの内に次々と生盛される大樹は何人も通しはしない。

 それが今、大火を上げて崩れていく。

 一面の炎、炎、炎。青空を赤く焦熱させるほどの大火の海。

 これは、火ではない。熱を発し空気を食らい尽くし物体を燃やす、火そのものであるが。似て非なるもの。呪いだ。火という現象に形作った呪いの瘴気だ。燃やすのは物体であり、生体、生命。命を焼く為の火。殺戮に特化した災火の呪詛。

 そのような外法は……おそらくこの世に数多数限りなく腐るほど存在するだろう。

 ただそういう違法行為には得てして代償が付き纏う。命とか。大抵の場合生き物が持つ命は一つなので、こうも景気よく呪いなど振り撒けるものではないのだが。

 こいつの場合はその限りではないのだろう。

 紅い目が凝然とこちらを睨み付けている。白銀糸の髪は先程から燃えて散って、皮膚は爛れ、手足は黒々と炭化して、次の瞬間には全て元に戻っている。一歩毎に藤原妹紅は焼滅と再生を繰り返す。

 そうして遂に少女は己の眼前に立った。両肩から呪いの瘴気を立ち昇らせて。呪いばかりではない。狂おしいまでの憎悪を、滾らせて。

 

「返せ」

「はぁい?」

「返せ」

 

 耳に手を添えてみたが、音程音量までも同じその二言目に肩を竦める。

 溜息を一つ吐いて。

 

「ここにある花は全て私のもの。あの男は私の花よ」

「かえせッッ!!」

「お前に返すものなど何もない。失せろ負け犬」

「風見ぃ!!!」

 

 少女の形をした砲弾が爆ぜる。突撃する。

 手掌には炎。赤熱から白化にまで至らんとする高熱を発して、それをこちらに振り下ろす。叩き付ける。

 斯くも単純な攻撃が実に厄介だった。なにせ触れれば全てが燃えて尽きる。

 馬鹿正直に受け止めてやる義理はない。ならば後ろか、側面に逃れればいい。逃れれば。

 

「あの人は一緒に行ってくれる私と一緒に行ってくれる永遠の未来に行ってくれる唯一のたった一人の人だから! だから!! だから返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せよぉぉおおおおおお!!!」

 

 ……逃げる? 逃げるだと?

 こんな、頭のおかしい勘違い女から、この私が逃げる?

 あの男の、血を吐くような苦悩を知らぬこんな女から。彼の何もかもを知らず理解せず、未来? 未来。未来!

 

「――ハッ」

 

 日傘を振り落とす。伸ばされた女の腕、肘へ。

 関節の可動域を無視して、内側にへし折る。骨が皮膚を突き破り、噴き出た血潮は熱で蒸発した。

 

「がぁッ!?」

「救いを強請るな、乞食」

 

 顔面を手掴みして引き倒す。地面にその銀色の頭を叩き付ける。

 

「私は、お前の知らない、あの男の本心を知っているわ」

「ッッッ!!? ッッ!! ッ!!」

「あの男が本当は何を望んでいるのかを、あの男の口から、告白されたの」

「――――」

 

 傲然と宣う。なるたけ悔しがるように。できるだけ憤怒を煽り立てて。

 この無知な女に思い知らせてやる。

 

「彼が選んだのは、わ・た・し」

「………………………………」

 

 沈黙の奥底で何かが点火していた。

 さながら噴火の前の富士の峰に立つかの心地。

 だからどうした。山が火を噴くというのなら、その山ごと踏み潰してやるまで。

 

「来なさいな、不死(しなず)。生垣にでも植えてあげるわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一本松の天辺で一人佇み眼下を眺める。

 太陽の畑も随分と様変わりした。天地を覆い隠さんばかりに拡張した大森林、そして今、それは赤黒い爆轟に包まれている。

 騒がしいこと。

 これでは、彼が起きてしまうかもしれない。

 それはそれで構わない。目を覚ました彼が、あの花狂いと不死人を見限って自分のもとに来てくれるなら、それが最上。最高最大の喜び。

 そうなって欲しかった。

 彼に、選んで欲しかった。

 

「……しょうがないか」

 

 選ばれなかったのだから仕方がない。だから、私は強奪することにした。彼を、彼の心を。

 神霊(みたま)を降ろすは我が生業。人の霊などはそれこそ、空を翔ぶよりも容易な所業である。

 精々肉体(にく)を取り合えケダモノ共め。

 

「彼の霊魂(こころ)は私が連れて行く」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森が焼かれていく。獣も蟲も妖精も妖怪ですらこの災禍を前に皆等しく逃げ惑っていた。

 木っ端な蟲妖である自分もまたそんな大勢の一匹。

 

「……」

 

 戦っているのは幽香と妹紅だろう。戦いの理由はきっと、あの人なのだろう。

 あの人を取り合って彼女らは憎悪の限りに殺し合っている。

 大した力もない自分に、そこへ割って入るような真似ができる筈もなかった。私は何もできず、ただ事の成り行きを見守るしかできない。

 あの人にはもう、会えない。

 

「……」

 

 話をしたかった。謝りたかった。お礼を、言いたかった。

 許してくれたことが嬉しかったから。許してくれたのはあの人が初めてだったから。願わくば、もう一度だけ会いたい。あの人のことを知りたい。あの人に触れたい。声を聞きたい。匂いを嗅ぎたい。

 もしも、もう一度会えたならきっと。きっと。

 

「全部、残さズ、食ベテアゲルカラ――――」

 

 

 

 

 

 

 





 現在を閉じ込めて過去の罪も未来への絶望も亡きものにしてくれるのが博麗霊夢
 未来を永遠に別たれず共に歩んでくれるのが藤原妹紅
 過去に停滞することを許してくれるのが風見幽香

 かわいいリグル:かわいい

 幽香さん別に病んでねぇしもこたん便利にキレ散らかしてオチに使ってるし紅白巫女さん黒いよ巫女さんだしリグルはかわいいし。
 ヤンデレってなんだよ(唐突な賢者モード)

 このような拙作ですが、お時間を割いていただいて本当にありがとうございました。
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