話は繋がっているようで微妙に繋がっていないです。
糸(黒谷ヤマメ)
母の葬儀を終えた日。霊園よりの帰りの道すがら。
俺は地獄に堕ちた。
文字通り、真っ逆さまに。
真っ当に、何不自由なく、なにより愛情をかけて育ててくれた両親に対するこの不孝を思えば、なるほどこの仕儀には格別の不思議もない。然るべき措置。当然の報い。自業に適する自得。
俺は落ちるべくして落ちたのだろう。
暗い暗い縦穴を垂直落下した。半秒後の墜死は確定的、その末路を疑いもしなかった。死への覚悟などは、無論なかったが。達観の境地に程遠いこの凡愚は、愚劣なりの鈍愚さで、不可避の死に諦めを抱いたに過ぎず。
だのに、しかし己は生きている。
気絶と呼ばわるほどの意識喪失ではなく、呆然と、思考停止に陥ること十秒弱。そこから最初に感じたのは圧迫感だった。身体を、五体それぞれを締め上げられているかの。
その不自由の正体はすぐに知れた。
糸。
それは麻や木綿といった植物製のものでも、ウールのような動物由来のそれでもない。
近似のもの上げるなら絹。蚕の繭を紡いだ繭糸であろう。
だが違う。この質感は、今少し身近なものだ。
独特の粘りと、その細さに反した強靭性。叢や軒下を潜れば顔に体にへばり付く、あの不快感。
蜘蛛の糸。
光の透過が遮られ、白くなるほどに夥しい束。それらが腕といわず足といわず、体中に巻き付き絡み付き、己を中空へ縫い留めていた。
現状の理解は、実に困難である。
いや、単純ではあるのだ。この身の置かれた状況を、簡潔な文言で過不足なく表現することは。
己は、羽虫がそうなるように、蜘蛛の巣に捕まったのだ。
問題は、人間一人を完全に拘束してのけるほどに巨大な蜘蛛の巣。そんなものが存在する現実。その超現実が、己の狭域な常識観を苛んで仕様がないこと。
「おやおや、お客かな」
声を聞く。聞けども、その方向に首を巡らせることすらできない。
仰臥した体勢のまま、せめて気配のある方へ意識を向ける。
「……“家主”の方と、
「そうだよ? ようこそ我が家へ」
「は、御丁寧に。約束もなく、戸口でお呼び立てもせず、お邪魔しております……そしてこのような恰好で、大変失礼いたしております」
「いやいや、むしろこっちこそ悪かったね。なんせほら、うちはこの通り、散らかっててサ。だいたいのお客はアナタみたいなことになっちゃうのよ」
「なるほど」
「うん、だから気にしないで」
「重ね重ね、御寛恕有り難く存じます」
「ぷっふふ、うんうん、そりゃあもうゴカンジョしちゃう。じゃないとこっちが申し訳ないもの」
笑い声が近寄ってくる。
足音はなかった。身体に密着する糸越しに、振動さえ感じられない。
しかし確かに、彼女は糸を伝って来ていた。
糸を踏むその“脚”が見えたのだ。
「これから頂かせてもらうんだから」
「頂く、とは……何のことでしょう」
「わかんない?」
「一向に。知恵の巡りが悪く、申し訳ありません」
「ふむん、じゃあ
相も変わらず音もなく軽やかに、それは己が眼前へと躍り出た。
鈴を転がすような声音から想像が及んでいた通り、それは少女の相貌をしていた。セミロングの金髪を大きなリボンで後頭に結い上げている。黒い開襟シャツの上から、キャラメルのサロペットスカートという出で立ちは、いかにも少女らしい愛らしさ。
可憐だった。
深く昏い穴蔵の只中であっても、いやこの場この空間こそが、彼女の晴れ舞台なのだろう。ここが似つかわしくないなどとは微塵も思わない。
何故ならその巨大な――――三対の脚、蜘蛛の六脚と丸々とした腹、異形の下半身は、この暗黒の洞穴でこそ映えるのだから。
「おや、あんまり驚かないね」
「表情筋が惰弱なのやもしれません。身体の自由が利くならば仰天して泡を吹いたことでしょう」
「へー、ざぁんねん。それはちょっと見てみたかったかも」
「はい。自分も御期待に添えず、残念に思います」
「くっふ、ふふふ……」
少女は口許に手の甲を当てて笑声を上げた。快活な口調とは裏腹に、所作一つにしてもやはり可憐な少女だ。
そうとしか見えぬ筈なのだが。見えぬ筈のものが見えている。
「おかしな人だね」
「頓珍漢な物言いをしたのでしょうか」
「うん、してるしてる。面白いからいいんだけどサ」
「自覚する以上に、精神は混乱を来たしているようです。無礼な言動をお許しください」
「はははっ、なるほどねぇ」
牧歌的な会話だった。なんとなればこのまま喫茶店にでも誘い合わせ、お茶と茶菓子を挟み、世間話に花を咲かせられるほど。
しかし、そうはならない。
柔らかな形に綻ぶ少女の愛らしい顔貌、そこに埋まった二つの眼。
それらは、出会ったその時から常に、この身を射貫いて、縫い留めて、放さないのだ。
捕えた獲物を吟味する眼。今に、賞味されるだろう。疑いなく、そう確信できた。
「へぇ、わかってて怖がらないんだ」
「いいえ、怖ろしいと、感じております。心底より、戦慄を覚えます」
「その割には饒舌だ。淀みもない」
「窮すれば如何に鈍麻な舌とて、このように働きましょう」
「そうかな。アナタのそれは、なんだか違うように見えるけど」
覗き込むようにして、少女の薄い笑みが近付く。
「お兄さんは死にたくてここに落ちた口かな」
「……」
「恥ずかしがらなくていいよ。そういう人は多いから。というか、そういうのを選んでるんだろうね。八雲紫……ああこの土地の、幻想郷の世話焼き婆さんね。出入りするものの選別を仕組んでるのは多分そいつ。特に地底からこっちは人間が来ることなんてそうそうないけど、外からはわりと落ちてくるんだ。一月に二つか三つか。往生際の良い人もいるし、急に死ぬのが怖くなって暴れ出す人もいる。アナタは……ちょっと良すぎるかもね。あはは」
嘲るでもなく、
幻想郷というそうだ。その地底に、己は落ちてきたのだと。
「私は土蜘蛛、人喰いの妖怪さ。巣に掛かった獲物を食べてる。食事というか娯楽というか、趣味に近いけど」
「趣味……」
「気を悪くしないでね。
ぱっと表情を明らめ、両手を広げて少女は言った。明答を得たとばかり。実際、的確な表現のように思われた。
生きるだけならば必要もないが、無くてはただ生きるも儘ならぬ。
「御し難いよ。人間のあなたに言っても仕方ないんだけど」
「いえ……少しだけ、わかる気がします」
ただ生きるだけの生は、あまりに永く、苦しく、それこそ甲斐もない。
俺はその生き甲斐を失くしてしまった。どうすればよいのかわからなくなってしまった。
だからここにいる。外界に見限られ、選別され招かれ、落ちた。堕ちた。
「……そっかぁ。人間もいろいろ大変だね」
「ふ、そうかもしれません。貴女方と同じように」
神妙に呟く少女が、なにやら愛らしかった。
そして我が身の不幸を嘆く己は、実に愚かしかった。
その和みと自嘲が、役立たずの表情筋を僅かに働かせたらしい。
「お」
「?」
「初めて笑った」
少女の顔が華やぐ。どうしてそんなにもと問いたくなるほど、無邪気な喜びを滲ませて。
暗黒の洞の淵で一輪、光り輝く花を見付けたような心地がした。
思えば不可思議な。
自身を喰らおうと言う怪物の少女と、この男は何を暢気に談義しているやら。
「うーん、どうしようかなー。なんだかキミと話すのが面白くなってきちゃったよ」
「自分などとの語らいをお気に召していただけたなら、望外の幸いです」
「ぷっ、ふふふふ! それそれ。その喋り方がサ。大昔の宮仕えみたいで、おかしいやら懐かしいやら。調子狂うよまったく」
「それは……申し訳ありません。気配りが、足りず……?」
「いえいえ」
見当違いを自覚しながら発した謝罪を、あちらもまた真に受けず軽やかにいなしてくれた。
「ホント、どうしようかねぇ。逃がしてあげてもいいんだけど……」
不意に、少女が目を細める。口元には微笑。薄く、儚いが、優しげな慈母のように。
「キミはここで終わりたいんでしょう?」
「…………」
まるで今日の天候を確かめるような気安さで、彼女は己の深奥の臓器を抉った。核心と呼ばれるそれを。
「何人も見てきたからサ。わかるんだ。ああもうこの人間は
「…………」
「不思議なのはさ、そういう人がまず真っ先に疑うのは自分の眼玉なの。自分が
含蓄のある評だ。少女の、多くの
己よりも以前に、ここへ行き着いた人々も、あるいはそうした苦悩を抱えていたのかもしれない。
だが。
俺は――違う。己に対する彼女の評は間違っている。
世界は変わらず目の前に在った。すべき事、父母が何を望んでいたのかを俺は理解していた。
ただ、その叶え方を、忘れてしまった。真っ当な、正常な生き方とか、そういうものを忘れてしまった。
そして、一歩も進めなくなったので、俺は自らの手で自分自身の眼玉を抉った。この
……いや、それらも全て言い訳に過ぎない。
「俺はただ、盲目を騙っているに過ぎません」
「……」
「見えぬ、わからぬと、何もしない……生を全うしない大義名分を必死になって探していたように思います。ただ生きるには、人生は、人の心身にはあまりに永過ぎて……あの人達の居ない人生は……」
もっと、ゆっくりと。もっと穏やかに過ごせていたら。もっと静かに、あの人達の死を迎え入れられていたら。
あの人達との時間を、もう少しだけ多く。もう少しだけ、思い出を作ることができていたなら――――惰弱な甘えが、逃げ口上ばかりがこの胸に溜まる。
そうはならなかった。現実はこうなった。なってしまったのだ。
「死ねば楽になることはわかり切っています」
その安息を疑わぬ。自害の罪を地獄で呵責されるというならばむしろ願ったりである。それは全き正当な罰だから。
俺の自罰に意味などないから。価値など、ないのだから。
死に対する、この憧れ。それを否定できる舌を持たない。
どころか殺してもらえるなどと。こんな。
「貴女のような、可憐な
「ふ……そう、かもね。ふふふ……」
この鼻につく口説き文句だか世辞だかに、少女は愛想良く笑んでくれる。
救いだった。生き甲斐の為に殺してくれるという。それは慈悲以外のなにものでもない。
だから。
「俺は、死ねない」
動かぬ四肢。きつく固く強かに糸は体中を縛り上げている。
動く筈がない。だからどうした。
無駄な足掻きである。だからどうした。
奥歯を嚙み砕くまでに食い縛り、全身の筋骨に命ずる。
「ぐっ、ぅ、ぁあっ、があぁああぁあああッッ……!!」
一説に、蜘蛛の糸を鉛筆大の径まで束ねればジャンボジェット機を牽引できるほどの引張強度を発揮するという。
凡百の身体能力と肉体強度しか持たぬ己が、そんなものをどうこうできる筈がなかった。万に一つも。
事実この身を拘束する糸は、どんなに藻掻こうとも小揺るぎとしない。破断の兆しなど夢のまた夢。
だが、この身は違う。この身は凡百の、タンパク質の複合体に過ぎない。わかり切ったこと。
だから、
「っ……!」
「おぉぉお゛おッ!!」
強靭極まる糸に巻かれた腕を無理矢理に引っ張ればどうなるか。いや、どちらが先に破壊されるか。
自明であった。
肉が、糸に食い破られる。成形肉に紐の痕が残るように、手足の皮肉を糸が削ぐ。血が雨露のように滴っていく。
「や、やめなよ。そんなことしたら……」
「がっ、か、はっ、あぁああ……!」
まず千切れるのは己の手足だろう。
それでいい。昆虫は、天敵の接近を察知した時、自身の脚を自切して囮にし逃走するという。その例に倣う。
今の俺は羽虫と同等なのだから。虫のように振る舞うことに何の違和があろう。
手足を千切り、四半分でも自由を得たなら逃げる。逃げ、生き永らう。
辛く苦しく孤独で昏いこの人生を生きる。生き抜いた末に死を遂げる。
それが父母の望み。俺の義務だ。
「ぎぃ、あぁッッ!!」
「…………そう」
無様に足掻く吊られた男に向かって、少女は静かに吐息した。それは呆れ深い溜息のようにも……どうしてか感嘆の気息のようにも聞き取れた。これは、錯覚なのだろうか。
そうして、全身の血を今一度沸騰させる思いで力を込めたその瞬間。
ぐるりと、天地が逆転した。
「!?」
無論のこと回転したのは己である。そしてそれを為したのは己ではなかった。
少女が眼前に在る。この表現に手心はない。鼻先一寸弱に少女の相貌が相対していた。
「ダメだよ、お兄さん。そんな健気なことしちゃ」
「な、にを」
身動ぎしようと試み、それは無駄に終わる。完全な。先程までは抉れた肉の分、動く余地を生んでいた糸に、今は一分の隙もない。
あの一瞬で彼女は糸を巻き直したのだ。
それは、驚くに値しない。むしろ目の前で逃げようとする獲物を黙って放置する理由こそがない。彼女の行動に瑕疵はなかった。
ただわからないのは、意図。
上気しきった顔に切なげな
「せっかく、逃がしてあげようと思ったのに……」
「っ……!」
突如、彼女は己の首筋を舐り上げた。そこに走った小さな裂傷、血の滴りを舐め取った。
「はぁぁあ……おいしい。格別だねぇ……命の味がする……」
「……」
「妖怪共が喰らうのは、肉であって肉じゃない。人の恐怖、死にたくないっていう
彼女はなおも講釈を披露してくれた。変わらない、その親切さで。
「でも、キミのは……不思議……死にたいと思ってるのに、同じくらい死を怖がってる……それを捻じ伏せて、生きようとしてる……義務感と罪悪感と、自己嫌悪……憎悪と、愛情……全部が、深いところで混ざり合って、熟れてる……甘く……あぁ甘いよ。たまらなく、甘いんだ……」
「それは、どういう」
「ふふふ、ふふ、アナタはね、
人の両腕に加え、長く黒い脚が我が身に絡む。それは一級の刀刃のように鋭利であり、刀刃と同等の美しさをしていた。
しなやかな白い手が己の頬を撫でた。
恍惚とした顔で、上目遣いの瞳がこちらの両目に刺さる。
「ごめんね」
「っ!」
最後通牒は、しかし、愛の囁きに似て、熱っぽく、柔らかく、問答無用であった。
可憐であり妖艶な美しい少女。最期の光景がこれでは、やはり、褒美が過ぎる。愚昧なことを考えて、俺は両目を閉じた。
「おぅい、気を付けなぁ」
「え」
「は」
そんな声を聞く。
声は間近である。
具体的にはそう、頭上数メートル。
咄嗟に見上げたこの目が最初に捉えたのは、綺麗な形をした足の裏だった。
それが迫ってくるのを自覚した直後、己の意識は暗転した。
結果から言えば、己は生き永らえた。
偶然降ってきた星熊勇儀さんに蜘蛛の巣から蹴り落とされたことで、その捕食を免れたのだ。
有体に言って墜落死、ないし蹴り殺されかけた訳だが。悪い悪いと明るく謝罪するその豪放磊落さには、非難の言葉も見付からない。いっそ清々しく、快いとさえ思う。
高所から相応の速度で墜落したにもかかわらず、両足を粉砕骨折する程度で済んだのは運が良いのか、悪いのか。手放しに生還を喜べるほど真っ直ぐな意気地はしていない。お世辞にも。
それゆえに、己が生存を実感したのは、むしろ。
「よかった……よかったよぉ……!」
床に横たわる己に縋り、涙して、そう繰り返す少女を見た時だった。
黒谷ヤマメ。化け蜘蛛の姫の、それが御名であった。
何故と、俺は問うた。
その問いの意味は今更口にするまでもなく。
少女は涙に彩られた微笑を浮かべて。
「……気が変わっちゃった。眠ってるキミを見てたら、なんだかあんまりにも憐れに思えてきて……可愛く、想えて……えへへへへっ、は、恥ずかしいじゃないのさ! 言わせないでおくれよぅ、も~!」
頬を押さえていやいやと身を揺する様は、外見同様の年若い娘のそれ。
そうして、不意に。
彼女は両手で己の頭を掴み、その顔を近付けた。あの時と同じ、鼻先一寸にも満たない距離。
興奮と高揚に赤らむ顔。爛々と光る捕食者の眼で。
「それとも、今死にたい?」
恍惚と、熱っぽい吐息と共に囁く。恋情のように艶やかな、肉と命と魂への欲求。慈悲に満ち溢れた殺意を。
「死にたくなったらいつでも言ってね。いつでも……食べてあげるから」
一筋、宙に煌めくものがある。
糸が一本宙を泳ぎ、己の首に絡み付いた。
俺は一人、覚る。俺はまだ生還などしていない。俺はまだ、蜘蛛の巣の上にいるのだと。