楽園の巫女様が根暗男に病む話   作:足洗

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古明地さとり√これにて完結

すごいスタンダードなヤンデレを書けた気がします。



聲・下心のそこ(了)

 

 ノックの音にも性格が出る。はて幾度目かの感慨で、私は扉を見守っている。

 お燐、お空、勇義、こいし、それぞれに個性と癖と音色がある。

 その何れとも違うこの音の到来を今朝からずっと私は待ち侘びていた。

 誰何の必要はない。彼の“声”は、随分前から“眼”で追っていたから。

 温めた茶器が冷めてしまうのを嫌って、ほんの少しだけ気を逸らせる声が可笑しい。その些細で、ひどく繊細な心遣いが、嬉しい。

 

「失礼します、っ」

「はい」

 ――こんなにも間近におられたか

 

 出迎えた私の姿に、彼は驚いたようだ。

 なにせ声が掛けられたのとほとんど同時にこちらから扉を開いたものだから、無理もない。

 

「ふふ、ごめんなさい。びっくりさせて」

「いえ、自分が大袈裟に反応してしまったまでのこと。どうか謝罪など御無用に」

 ――しかし、扉の前に立っていたということは何か外出の御用向きがあるのやも……ならば時間を改めて

「ありません」

 

 さらに気を回そうとする声にぴしゃりと否を言い付ける。思いの外に、自分の声は刺々しかった。

 

「……他に用なんてないですから。入ってください」

 ――どうしてか焦りと、気の沈みが見えた……いや、これ以上執拗に言い募るが如きは配慮の二字に値せず。ましてや、御厚意により賜ったこの時間を

「……は、お邪魔いたします」

「……」

 

 なんとも遠大な想像を巡らせる彼に、内心で申し訳なく思う。そして呆れの成分もまた少々。

 ただ、行って欲しくなかっただけなのに。

 くすりと、気付かぬ内に笑みが溢れていた。

 カップとソーサーが二つずつ、テーブルに置かれる。

 

 ――やはり奇妙な光景に思える。この茶席は

「どうしてですか?」

 

 丁重な所作でポットを持ち上げ、まずこちらのカップに紅茶を注ぎながら彼の声は言った。

 午後の三時、この細やかなティータイムに彼を招待したのは誰あろう私。仕事の合間の休憩時間、手持無沙汰にする彼をこれ幸いと私室に呼び付けてテーブルを囲む。ここしばらくのそれだけの時間。ほんの一時、この声を……独り占めにできる機会。

 

「貴女と自分の間柄は、雇用者と労働者ではなく、謂わば主人と従僕が適しているように思われます」

 ――この場合の従僕とは隷属的な意味合いではなく、屋敷勤めの男性、古めかしく言えば人足(フットマン)のことだが

 

 如何にも形式を重んずる前置き、その註釈すら堅苦しい。また思わず笑ってしまうほど。

 卓上にソーサーを差し出された。それを持ち、紅茶が波打つカップに指を掛ける。

 

「従僕たるこの身が、主人の私室に上がり込み、あまつさえ席を同じうする……これは果たして正しい有り様なのでしょうか」

 ――正否を量るというなら疑いの余地なく否である。間違っている。主従関係における最適距離を逸脱した行為。とはいえ、そもそもの前提として、主たる古明地さんがそれほどの厳正さを求めておいででいない。しかしなればこそ、憩いの時間とは、大切な方々に費やされるべきだ。そう、お燐さんやお空さん――

 

 厳格かつ重厚な、静謐で暖かな言葉の海に浸っていた――――その時、見逃しにできない波が立つ。

 

「待って、ください」

「は」

 

 こちらの制止に彼が向き直る。座っていても上背は彼の方が遥かに高い。その目を、大型の草食動物のような目を見上げる。

 

「お燐とお空は、名前で呼ぶのですか」

「は? ええ、そう、ですね。以前にお燐さんが、火焔猫と呼ばわるのは好まないと仰られ、燐さん。お燐さんと呼ぶように。そしてその場に同席されていたお空さんも、同様に呼ばわれたいと御所望でしたので」

「………………」

 ――尊称として、不適切であったろうか。分際を弁えず気安く、軽率な行為であったろうか。古明地さんにとって彼女らは掛け替えのない存在。己如きが軽々にその関係性を斟酌することすら憚る。が、これは、どうか。わからない。己はまたぞろ何を、違えたのか

 

 途端に溢れ返る。彼の言葉、感情。こちらを慮る“声”でこの“眼”が眩む。

 けれど、それでも、満ちないものがある。不平不満を私は我慢できなかった。その思慮が全く以て見当違いだからだ。

 

 ――彼女の貌に浮かぶものが推し量れぬ。この表情の色は、辛うじて、わかる。読める。しかしその意図が、理解して差し上げられない

「理解しては、くださらないの……?」

「……申し訳ありません」

 

 着座のまま深く、卓面に額が触れそうなほどに彼は頭を下げた。

 

 ――斯くも悲しげな貌をさせた。その原因を推察できない。無能なこの男をお許しください。いや、許さないでいただきたい。許しなど乞える身の程か。否、否、否……

「っ、頭を上げてください。私は、ただ……」

 

 理不尽なのは、理解している。気に染まぬ物事に行き合ったからと勝手に気分を害し相手を戸惑わせ気遣わせて。

 幼稚だった。それはそれは幼稚で、くだらない……嫉妬だった。

 でも、それでも。

 彼のこの“声”で名前を呼んでもらえるあの子らが羨ましい。こうして彼の自由な時間の一部を接収してまで独占しようとしたもので。

 お燐が自身の名前の長々しさ、仰々しさを嫌っていたことは以前から承知していたことだし、お空は慣れ親しんだ相手に他意なくそうした要求をすることも理解できる。けれど、やはり。

 私のような女には、半歩の歩み寄りさえ大変な勇気を要するのに。あの子らは、こんなにも簡単に心通わせてしまう。いとも軽やかに心の距離を詰め寄らせる。

 

「ずるい」

 

 そう思うのは、至極当然の心の流れではないか。

 私のような、昏々とした女が、仄暗い羨望を抱くのは、当たり前じゃない。

 それなのに。

 この人は、理解してくれない。

 

「ずるい、です」

 ――狡い? 俺が、彼女らを名前で呼ばわることが……?

 

 ああ、ああ、口惜しや。

 心が見えるから尚一層に、その不理解が恨めしい。

 にわかに自身の感情が陽炎のように湧き上がる。心とはこんなにもあからさまなものなのに、貴方はどうしてわかってくれないの。

 口をついて叫び出したくなる。この手で直接、その(まなこ)を開かせたい。

 どうすれば、この想いを、思い知らせられようか。

 わなわなと心ばかりでなく体が震えた。それが手先の感覚さえ覚束なくした所為で。

 指からするりと、カップが落ちる。

 

「あ」

「っ!」

 

 彼の反応は間に合わなかった。テーブルの縁にぶつかり、跳ねて、床に墜落する。

 がしゃん、耳を劈く甲高い音色で、杯は白磁の欠片に解れた。

 

「ご、ごめんなさい」

「浴びてはおられませんか。火傷などは。いや拭くものをお持ちします」

 ――箒と塵取は隣室の物入れに仕舞ってある筈

「あ、いえ、私が……」

 

 即座にソファを立ち上がり、動き出そうとする彼への申し訳なさ。揺らめく感情も未だ御していない。

 だから不用心に、破片に手を這わせて。

 

「痛つっ……」

「古明地さん!」

 ――いかぬ

 

 見れば人差し指の横合いを、縦に半寸ばかり裂いていた。薄っすら走った切れ込みに途端、滲み出す赤の玉。思いの外、深く肉を切ったらしい。それはつ、つ、と指から手首まで帯のように落ちる。

 

「失礼」

「あ……」

 

 いつの間に移動したのか、呆とする私の隣には彼がいた。

 そう一言添えて、彼は手にしたハンカチで私の指を覆った。ぎゅっと力が籠められる。僅かな痛みと他人の手の感触、彼の手の、暖かさ。

 

「このまま圧迫し続けてください。少し、痛むでしょうが」

 ――まず、何より先に、その場に留まっていただくよう言い含めるべきだった

 

 深い後悔の念がこの胸に伝わってくる。胸に据わる臓腑のようなこの眼に。

 彼の自己嫌悪と罪悪への憎悪は、澄み渡る夜気に似て鋭かった。自分自身を射し貫く為だけに鍛え研ぎあげたが如く。

 

 ――切り口は鋭利だった。このまま止血し、丁寧に皮膚を保持すれば傷口も綺麗に繋がって……くれまいか。もし傷跡など残ったなら、己は幾重詫びようと申し開きが立たぬ。この腹を捌いても足りることはないだろう。こんなにも美しい指に、なんたる、なんたること

「……」

「申し訳ありません……」

「……どうして、貴方が謝るのです」

「自分の不注意です」

「私がぼうっとしていたからです」

「貴女の御心を此処に在らぬ様へと陥れたのは、自分です」

 

 彼が一度、奥歯を噛み締めるのがわかった。

 

「……痛かったでしょう。可哀想に」

 ――労しい。我が身の粗忽が厭わしい。労しい。可哀想に。痛ましい。申し訳もない。淋しげな、悲しげな貌をさせた。こんな傷まで負わせ。無能め。不敏の奴輩。この少女のお役に立ちたいと、さんざ夢想しながら、この為体(ていたらく)。感謝を抱きながら、無数の感謝が積み重なっていながら

 

 彼は無念を噛んでいる。

 たかがこんな、指を怪我した程度で。大袈裟だ。大騒ぎのし過ぎというもの。それにこの身は人ならぬ妖、鬼や獣化けには劣るといえど、傷の治りは人間の肉体など比較にならない。

 大真面目に憂いを発破させる青年は、いっそ滑稽だ。

 私の傷。私の痛み。私の悲しみ。それらを想ってその胸を自ら握り潰している。

 私のことで、私のために、私と同じ。心を感じて、痛みに胸を一杯にしている。

 それは、なんて。

 なんて――――素敵。

 

「お願いが、あります」

「はい、なんなりとお申し付けください」

 

 それは思考ではなく、心の、謂わば衝動の赴くままに口をついた。

 

「名前を呼んでください」

「は」

「さとりと、呼んでください」

 ――何故、突然そのような

 

 彼の惑いを見て取る。タイミングの逸したこの要求に、咄嗟に窮するのは必然。無理もない。

 けれど、じっと。私は待つ。反駁を許さず、反問も許さず。

 この目で彼の瞳を覗く。この眼で彼の深奥(なかみ)を覗く。

 応えるまでは、絶対に、許してあげない。

 

 ――突然、ではないか。何も不思議がるに値しない。話の成り行きは極めて自然なのだ。それでも今この状況で? と、思わぬではないが……血は止まってくれたか

「……」

「……そんな目で見詰めないでください」

 ――そんな、愛らしい顔で

 

 困ったように微笑んで、彼はハンカチを折り返し未使用の面で今一度傷口を覆う。

 今度は先程よりも、柔く、優しく、押し包んで。

 

「さとりさん」

 ――なにやらこそばゆい。さとりさん。さとりさん。さとりさん……今までそう呼ばわらなかったのは、結局は己の拘泥、主従関係に対する偏見に依る。当然ながら彼女に対する隔意などは微塵とて有らぬ。有ろう筈がない。さとりさん。妖怪の種を示す覚りと、さとり。同じ音、同じ字、同じ旋律、だのに、どうしてこうも(やわら)かな響きなのか。どうしてこうも愛らしいのか。己の主観、心象、思い込みがそう感じさせるのか。それだけとは思えぬ。心に聡い方なればこそ、心をさとる、悟る、方なればこそ、その御心が名に顕れるのだろう。そうだ。そうに違いない。さとりさん、よい響きであった。よい名であった。本当に。さとりさん、さとりさん、さとりさん

「…………………」

 

 心臓が一段、鼓動を速めていく。名が、自分のそれが、彼の中で響く度。一段、また一段と。

 

「さとりさん?」

「ッ! んっ、は、はひ……!」

「お加減が、優れませんか? 息が乱れております。一度深呼吸を……背中に触れます。御不快ならばすぐに申告ください」

「ん、ぁ」

 

 そっと背中を擦られる。彼の大きな手が、心臓と肺の裏側で優しく上下した。背中の皮膚が、触れられた端から熱を発し、甘く痺れていくのがわかる。

 じわりと内側に染み入ってくる。それは紛れもない悦び。そして……快楽。

 

「っ……は、ぁぁあ……」

 ――さとりさん、己はまた何か、その御心を惑わせてしまったのだろうか。それとも……あるいは、彼女も己と同じ、羞恥心を味わっているのかもしれない。なんともいえぬ、このこそばゆさを。不思議なほど不快からは遠い居心地の悪さ。落ち着きのなさ。もしそうなら、そうであってくれるなら

 

 そうに決まってる。いやそれ以上に、私はそれ以上を、想っているのに。

 やはり口惜しい。私はこんなにまでなったのに、貴方は随分余裕そう。

 

「さとりさん」

 ――さとりさん

「ッッ……!」

 

 なけなしの不平不満も敢え無く溶ける。蕩かされ、この甘い波濤に押し流されて消えた。

 眼が眩む。ぼんやりと、滲む。頭の中を彼の声が反響する。声に脳漿をどろどろに掻き回され、残ったのは煮え滾る熱。湯気を立ち昇らせるほどに上気(のぼせ)きった心。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日も差し込まぬ地底の真っ只中に建造されたこの地霊殿。

 昼夜の別なく(まち)の灯は煌々と目にも明るい。私室の窓から望む旧都の朧な鬼火共。永く住まう内に感慨など、もはやなくなったが。

 壁の振り子時計の針が指し示す時刻は深夜。夜を好む動物を除けば、家人は皆床に着いた頃。あの人の声もまた眠りの中にある。

 部屋の灯りも点さず、窓辺に立って呆と外を眺めていた。茫然自失は外面ばかり。内面はその実、目まぐるしい混淆の最中にあった。

 それは反芻行為と呼ばれるものだった。

 昼間のことを、私は思い起こし、記憶の精度の許す限りに脳内で再再生(リピート)再再生(リピート)再再生(リピート)

 あの人の声。あの人が私を、さとりを呼ぶ声。この名を打鍵(タイプ)する声を、幾度も幾度となく幾度でも吐き戻す。押し戴き、咀嚼し舌の上で転がして口一杯に味わい、また吞み下す。

 胸を満たす。

 心を、満たす。

 

「ふ、ふふふふふふ……あははは……あはっ、はははははは」

 

 気遣わし、そして労しげに、私を彼は呼び続けた。

 ふと持ち上げた手の指先には、ひどく丁寧に綿布(ガーゼ)が巻かれている。たかが指の腹を裂いた程度の微細な傷を、大袈裟に、大騒ぎして、強迫されたかのような厳重さで。

 馬鹿な人。心配性なんだから。胸を潰して狼狽える様はある種滑稽ですら。

 

「あぁっ」

 

 それが、嬉しくて。涙が出てしまうほど、嬉しくて、嬉しくて。この喜びをどう言い表せる。こんな喜びは未だ嘗て知らない。

 彼に想われることが嬉しくて堪らない。彼の心を(さとり)が占領するこの、法悦。

 名前を呼んでくれた。あんなにも想いながら、真心を籠めて呼んでくれた。

 あの人の声が形作る時、さとりの三字は斯くも特別になる。

 

「……もっと」

 

 その欲望は極めて自然に鎌首を(もた)げた。

 

「もっと、呼んで」

 

 さとり、と呼んで欲しい。私を想いながら、私を呼んで欲しい。

 その心中を私で染め上げ満たし、その上で彼の心を、声を味わいたい。

 この法悦を今一度。いや、今以上の烈しさで。

 どうすればそうなる。どうすれば彼はそのようにしてくれる。

 欲望に衝き動かされるまま思考を回す。けれど容易には思い浮かばなかった。他者の心を読めても、所詮この身は覚り妖怪。忌み嫌われるばかりの己が生涯の中で、心の機微を解するだけの情操を育て上げる機会は少なかった。その少ない機会すら、愛する妹の心すら解してあげることはできなかった。

 私は彼とは違うのだと、嫌でも思い知らされる。

 

「……」

 

 自己嫌悪が差した。

 溜息と共に外界から視線を逸らす。床石を這い、そうして卓上に。

 銀色の光が目に刺さる。

 ペーパーナイフ。アンティーク趣味が嵩じて、柄の彫刻が気に入り長く愛用してきたものだ。

 そっと手に取る。あくまで文具であり、勿論、刃は潰されている。押そうと引こうと物を切断するような切れ味はない。

 しかし、その先端は鋭利で、柔らかなものならば容易に貫けそうだ。

 そう、たとえば。

 この手とか。

 この首とか。

 この眼とか。

 一生の、二度と癒えず、消えぬ傷が出来上がる。傷が深刻であれば治癒の難度に人も妖もない。それは永遠にこの肉体に刻まれ、残留し続ける。

 もしそうなったら、傷付いた私が痛い痛いと泣いていたら。

 あの人は私を想ってくれるだろうか。この指を裂いた時と同様に、いやそれ以上の烈しさで。

 きっとそうなる。きっと彼は私を想ってくれる。心配してくれる。ああなんて可哀想に労しい労しい愛おしいと! 庇護欲の限りに私を愛してくれるに違いない!

 素敵だ。素晴らしい。その悦楽、想像するだけで、()()()と身の内から溢れる。溢れてしまうほど――――

 

「っ!?」

 

 取り落としたナイフは石床に跳ね、甲高い音色で私の耳を貫いた。

 

「は、はぁ、はぁ、はぁ……私、な、なにを、考えてるの……」

 

 それはおそろしい想像だった。

 行為それ自体が、ではなく、もっと救い様のない部分で。

 彼の想い願いがそこには反映されていない。全ては私の心を満たす為の行い。独り善がりの暴挙。

 彼を見た。指先の浅傷(あさで)を当人以上の深刻さで痛み、悲しんでいたあの貌を。私はしっかりとこの眼に収めていた筈なのに。

 もし、私が自傷に走り、その傷を彼の眼前に晒したならどうなる。わかりきっている。

 彼は私を想うだろう。凄絶な痛みと苦悶で心を炙り、あまつさえその心臓を己自身に対する万感の憎悪で抉るだろう。私の浅ましい欲望に、聡い彼が気付かぬ訳がない。だのにそれを自分自身の悪因と決め付け悲憤し、自らを罰しようとする。

 そんなこと、望んでいない。そんな彼を見たいんじゃない。彼の悲哀の声など聴きたくない。

 

「どうすれば……」

 

 どうしようもない。ただこの欲望に封をして今まで通りの穏やかな日々に戻ればいい。平らかで、暖かな、静かな日常に。

 

「………………でき、ない」

 

 足りるを知らない。内側の小杯が満ちて溢れれば、その外側に広がる一回り大きな杯を満たさずにいられない。そしてその杯が満ちれば、また一つ大きな杯を。それが満ちればまた一つ大きな……際限はない。

 そして、私はこの喜びを諦められない。

 浅ましい。欲心を制御する理性を放棄して為すが儘にする。それを承知で無視するこの卑しさ。厚かましさ。

 

「どうすればいい……?」

 

 彼を悲しませずに、私の望みを果たすには。

 雌の味を知った(ましら)が求めるがまま快楽を貪る様に似て。

 今の私はまさしく、(さとり)の妖怪だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「祭、ですか」

「そう! お祭!」

 

 そのまま飛び立ちそうな勢いで、お空がわっと声を上げる。

 要約すると、旧都で祭が催されるのでそれに行きたい、とのことだった。

 

「ま、年中お祭騒ぎしてるようなここで、今更祭事も何もにゃいんだけどねぇ」

 

 お燐の言う通り。季節はおろか昼夜の別すらなく、旧都、旧地獄は乱痴気騒ぎが日常茶飯事。改まって祭を標榜することこそ違和感を覚える。

 

「騒ぐ理由になるならなんでもいいんだよ。大通りなんかは気の早い奴らが出した露店でもう(ひし)めいてるし」

「りんご飴! りんご飴が食べたい! すもも飴も! 綿飴も! べっ甲飴! 手鞠飴!」

「なんで飴ばっかだし……とまあお空がずっとこんな調子で、いいですか? さとり様」

「ええ、構いませんよ」

「やったー!!」

 

 言うや本当に飛び上がってお空は天井に頭をぶつけた。

 

「痛い!」

「なにやってんの」

「ごめんなさぁい……それより! 早く行こ!」

 

 立ち直ったお空は、そのまま彼の手を取った。

 

「お兄さんもほら!」

「は」

 

 微笑ましげにその様子を見守っていた彼は、まさか自身に声を掛けられるなどと思いもしなかったようだ。

 

 ――しかし

「どうしたの? 行こうよぉ」

 

 視線と、声がこちらを向いている。心を読む必要すらなく、その意図は知れた。

 だから私は首を左右する。

 

「いってらっしゃい」

「はーい!」

「ではでは、いって参ります」

「……」

 

 後ろ髪を引かれる心根がありありと見て取れる。彼は一瞬、目を伏せて。

 

 ――無理もないこと。彼女の能力を思えば、祭事の人込みなどは苦痛でしかあるまい……あるまいが

 

 お燐もお空もその辺りは先刻承知。今に始まったことではなく、気を遣い合う方がむしろ煩わしい……という私の我が儘を汲んでのこと。

 一昔前などは、そういう機微に疎いお空によく駄々を捏ねられた。

 彼の労しげな声が、そんな懐かしい光景を思い出させた。

 

「……」

 

 書斎が無闇に広くなったような気がする。錯覚である。

 心がそう見せている。寂寥が。

 今更、こんなものを抱くなんて。

 間違いなく彼の所為だ。慣れ切り飽き切った筈の感情(モノ)に鮮やかに色を蘇らせる。

 彼の優しさが今ばかりは、ひどく恨めしい。

 

 ――置いてなど行けない

「え」

 

 恨めしいほどに、彼は。

 

 

 

 

 

 

 結局、彼はお燐達と同道しなかった。お空の不満が制御棒ごと爆発しそうでなかなかスリリングではあったが。

 ペット達二人が出掛けた今。地霊殿は静かだった。他の動物達は心の声も微かで、人型になっても思考が明瞭なのはお燐やお空くらいだし。

 彼と二人、書斎で過ごす。ひどく静かな時間を共有する。

 

「……」

「……」

 ――少し、濃過ぎたか

 

 紅茶を注ぎながら、静かな声が呟いた。

 本を読むふりをしながら彼の心を聴いている。ばれやしない。ばれる筈がない、けれど。それがどこか後ろめたい。覚りが心を読むことに何の躊躇を抱こう。今更、何の。

 彼に対して、抱くものがあるから。覚り妖怪としての性質(さが)ではない。さとりとしての、欲望を隠している。

 私は諦められない。

 彼の声だけが今、地霊殿には響く。

 彼の声だけが満ちる。世界はひどく単純化した。私にとっての喜び、快楽、希望、安らぎ。

 彼の声だけの、場所。

 

 ――穏やかな時間だ

 

 この書斎が、世界から隔絶してくれればいい。そうなれば、私の望みは叶う。完璧に、一分の隙もなく、あらゆるものが十全する。身も心も。

 晴れて杯は満ち足りるだろう。だって、杯そのものを、杯である私とその中身である彼を内包する世界を手に出来るのだから。

 そんな方法はない。夢想だ。紛れもない、それは幻想だ。

 

 ――安息を覚えている。身に過ぎた、安息を

「……」

 

 同じ。同じ気持ちを抱いてる。

 私は貴方を想っている。

 では貴方は。

 

 ――この時間を好ましく思う。この方を……好ましく思う。随分前から

「――――――」

 

 そう。よかった。本当に、よかった。

 なら、もう、私は。

 椅子を立つ。歩みに淀みなく、自分でも驚くほど軽やかに彼の前に立つ。

 

「? どうされましたか」

「一緒に、来て欲しいところがあります」

 

 もう、我慢をやめます。

 こんな安息を知ったから。これを貴方は安息と呼んでくださるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 縦に半里も降りた頃、遂にその奥底に到達する。

 縦穴である。驚くほどに丸く、底は平らかに刳り貫かれた円筒状の空間。

 地霊殿の尖塔が一つ、軽々と収まるほどに広いその場所に、私と彼は二人立っている。

 ランタンの灯がなければここは無明、()()の光すら遥か頭上彼方。おそらく、旧地獄で最も地獄に近い場所がここだった。

 

「この空間は一体……」

「昔、お空がその能力をまだ制御し切れなかった頃に空けた穴です。掘り返すのはそれこそ一瞬でしたが、埋め直すとなると面倒で。何か使い道でもあればとあんな階段まで拵えましたが」

 

 今し方、彼と下ってきた螺旋回廊を手で示す。

 

「よかった。無駄にならなくて」

 

 翳した掌から光を打ち出す。弾幕と呼ばれる、美麗なばかりの光の珠。力そのものに近しいそれを身の内より放つという些細な手妻だが。

 弾丸としてこれほど使い勝手の良いものもない。形状、口径、弾速、属性すら思いの儘なのだから。

 そして肝心要の威力、破壊力であるが。

 金属で出来た階段程度粉砕するのは至極容易だった。

 

「!?」

 ――なにを、彼女はなにをしておられる

 

 直近の、地続きに繋がる部分から頭上高く地底に伸びる部分まで丹念に、丁寧に、壊して潰して、もう二度と復元など出来ないほどにばらばらにして、安心する。

 これでもう昇れない。登れない。

 

「……」

 ――戻れない。戻れなくなった……しかし、これは

 

 そう。飛翔能力さえあればこんなことをしても意味はない。

 事実、私自身は何の問題もなく地底に戻ることができる。

 戻れないのは。

 

 ――()()()()

「はい、貴方は戻れません。帰してなんてあげません」

「……何故」

 

 驚愕と戸惑いがその表情の中で明滅する。本当に意表外の出来事だったのだろう。

 確かに前触れなんてなかった。私が嫌っていた人間の爆竹めいた心の移ろいをまさしく体現している。私は今日つい先刻にこれを思い付き、然したる迷いもなく実行に移したのだ。

 

 ――考えられ得る可能性は二件。俺の抹殺、あるいは

「幽閉。監禁。拘束。禁固。投獄……は、そのままですね。ふふふ」

「…………」

 ――彼女は正気だ。これは理性に基づく行動だ。一個の決意の下に為された仕儀……なればこそ

「何故……」

 

 彼は否定しなかった。この行動の理不尽を承知しながら、それでもまだ私の理屈に耳を傾けようとしている。

 微笑んで、問いに応える。

 

「貴方が好きです」

「――――」

 ――――

 

 思考停止、本当に静謐になった声に、ますます笑む。

 言葉は潰えたけれど、その感情には色が溢れていく。どれもこれも激しい情動。弾けるような驚きの下地に、徐々に散見するのは……暖色の彩。

 

「貴方の声が好きです。貴方の静かな声が好きです。貴方の心が好きです。思慮深くて、自己犠牲的で、でも……甘やかさを捨てられない、脆くて優しい貴方の心が好きです」

 ――待て、待て、思うな、何も思うな、迂闊なこと、浅はかな、短慮を戒めよ。戒めよ。戒めよ。許さぬ。許すな。それは

「貴方が欲しいんです。貴方の声だけで満ちたいんです。貴方の心を私だけのものにしたい。だから」

 ――拒まねばならぬ。これは、つまるところ、終結。俺という人間の終着駅がここにて決する。この地の底深く、俺はこの甲斐もない芥のような生涯を終えることになる。間違えるな。俺は、(おまえ)は、拒絶せねばならない。この要求は受け入れてはならない。何故なら……駄目だ。考えるな。何故なら……ならぬ。駄目だ。やめろ、やめろ、やめろやめろやめろ

 

 乱れ散る思考の火花。彼は惑乱する。彼は彼自身を打ち据えるように、頭を抱え、心を殺す。殺そうと抗う。必死に。

 でも、無駄です。だって私はさとりですから。

 

 ――こんな幸福を、許してはならない!

「あはっ」

 

 わかっていた。彼が欲しているもの。彼が彼自身に許さないもの。

 相応しい終わりを求めて、それでも生きる、生きなければいけない彼に、私が与えてあげられるもの。

 

「ここに居てください。この洞穴で一生を終えてください。貴方の一生を、私にください」

「できないっ……そんな願いは、聞き入れられない!」

 ――安楽だ。安息だ。ここはまさしく俺が求めてやまなかった場所。相応しき末路。暗闇。けれど、一つだけ、相応しからぬ、分際を超えたものが、いみじくもここを、この場所を地獄と称すならば、存在してはならないものが、ある

「私も、一緒です」

「それは駄目だ!」

 ――さとりさん。このひとをこんな場所へは縛れない。俺如きに、この少女を。それではあまりにも

「あまりにも?」

「っ、不当だ。この仕儀は、容認できません」

 ――幸せで、安らぎだから

「あぁ、あぁ、好きです」

「お、俺は、その想いに応えられない」

 ――さとりさん、勿体ない。そんな想いは俺には、この身には過ぎたるもの。さとりさん、美しいひと。優しいひと。慈悲深いひと。俺には許されぬ。俺が手を触れることすら、触れたという事実すら厭わしい。さとりさん貴女を想う誰かは、たくさんいる。貴女が思う以上に、たくさん。俺でなくてもいい。俺などに御心を割かなくていいのです。さとりさん、貴女の心根の、儚さに惹かれた。違う。自儘な妄想だ。さとりさん。どうしてそんな顔で笑うのか。そんな愛らしい顔で。受け取れない。この人の、情を受けるに値しない。俺には、分不相応だ。さとりさん、俺も、違う、俺とて、否否否、さとりさん、貴女が

 

 満ちていく。彼の中が、(さとり)で満ち満ちていく。

 静かな暗黒の洞の淵、世界は結実した。彼と私、声と心、溶けあうように、同じに、一つに。

 同じ想いで向かい合う。

 

「好きです」

「………………………………………………………………………………はい。俺も、貴女が――」

 

 泣き笑いのような顔で彼は言った。

 自己嫌悪と罪悪への憎しみ。けれどそれらを押し退けて一片、響く。

 彼の楽器(オルゴール)が動き出す。ひどく静かで、不器用な、愛しいメロディを奏でて。

 

 

 

 

 

 

 

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