「あぁん?」
「だからさ、あの人間だよぅ。ほぉらあんた拾ったって言ってたろ」
にやけた赤ら顔がずいと近寄り、そのようなことを
狒々のようなというか、助平爺のようなというか。顔だけは可憐な少女が如何にも下卑の下衆の下品面を浮かべている。
伊吹萃香、猛々しくも鬼の頭を張った我が輩は今宵、なんとも鬱陶しい酔い方をしていた。
その猫額を指で爪弾く。重い音と手応えが響いた。
「おぉ痛てて。まったくこの石頭は」
「ッッ、こっちの台詞じゃ!」
今度は涙を浮かべ
ととと、ゆらりゆらゆら揺らめく水面を童女、のような見た目のそいつは一息に啜った。
「たはぁっ! 惚けやがって。この前なんか『若い燕捕まえてやったぜこれから毎晩ぴーちくぱーちく可愛く鳴かせてやるからなー待っててね小鳥ちゃ~んガッハハハ』なぁんて調子づいてたじゃないのさ」
「言ってないよ」
言ったのは若い燕捕まえてやったぜ、までだ。たぶん。
赤漆の大盃を呷る。一升分の酒精を胃の腑に落とし込み、灼熱のような息を吐いた。
「なんだいなんだい辛気臭い息吐いちゃって。上手くいってないの?」
「悪かぁない。寝床置いてるだけの長屋住まいが一つあったから、そこに押し込んだ。したらまあよく働く。掃除洗濯炊事雑事万事手抜かりってもんがない」
「? 悪く聞こえないね」
「だから悪かぁないんだって」
「?? あぁー、じゃあれか。モノっ凄い性悪だったとか? 根性ひん曲がってる天邪鬼が腐ったようなヤツだとかそういう」
「真面目一徹。含むところもねぇ一本気な野郎だ。今時見ないね、あんな堅物。少なくともここ十年はない。一言い付けりゃ十にも二十にもして返ってくる。機微に聡いっちゅうか、ありゃあもう覚り妖怪の類なんじゃねぇのかってくらいよく気が回る。特に、家事万能なんて言ったが、飯がな。美味いんだよこれが。いや、ありゃ
「……なあ、もしかして、私は今自慢話だか惚気話だかを延々聞かされてたりするのかい? おい」
「そんなんじゃないよ」
「じゃあなんなのさ。一昔前の押し掛け女房かっての。待て、これ男の話だよな?」
苛立たしやとばかり、萃香は新たな酒樽の蓋を拳で叩き割った。柄杓を突っ込み、そのまま呷る。手水じゃあるまいに。
こちらも酒盃を差し出すと、柄杓でぞんざいに弾かれた。
睨み付ける。睨み返ってきた。
寄越せ。やだ。寄越せ。やだ。暫時、視線だけの攻防が続き。こちらの方が先に折れる。萎れた、といった心持ちだが。
「……あいつはいいヤツだよ。善人だ。いちいち慮りの深ぇ野郎で、心根の優しい
「けッ! こんの性悪!」
明け透けで捻りもないこんな皮肉が、この酒呑には覿面に効くから痛快だ。
真っ正直なヤツは長生きしない。人間なんざ嘘を吐いてなんぼだろうに。なんせ脆弱なのだから、そのくらい多目に見てやらねば可哀想ってもの。それでもこの御頭様ときたら、未だに懲りず、人を諦められないらしい。
しかし、愉快な心持ちもすぐに冷める。代わりに出てくるのは同じ、ここ暫く蟠ってる、燻ってる、虚しさ。
胡座の膝に頬杖をついて、呆と見詰める。虚空に漂うその姿の幻。
「気に入らないんなら放っぽり出しちまえばいいじゃん。もともと面倒見てやる義理だってないんだろ?」
「怪我させた手前、ってのはあるね」
「そんだけ働けてんならとうに治ってるだろうさ」
「あいつ自体が気に入らない訳じゃない。むしろ逆だ……はっ、いい拾いもんしたと思ったよ。使い勝手のいい召し使いだってな。それにまあ変わってるが、いい男だと思った。ああ世辞抜きに、そう思う…………気に入らないのは、腑が煮えっちまうほど、イライラすんのは……」
「……」
すっくと立ち上がって、酒盃ごと清酒の水面へと沈める。飛沫など無視して、盃の中身を飲み干した。
この盃は特別製。中に注いだ酒を極上に変える呑兵衛垂涎の一品である。だのに。
それが矢鱈滅多に辛かった。
「────あの野郎の生き様が気に入らねぇ。むかっ腹が立つ。ああ、大ッ嫌いさ」
今更。
そうとも、今更だ。
人間という生き物に、然程の興味はなくなった。昔はそうでもなかったが、今では感慨すら湧かない。
まあ、愛想が尽きたなんて言えるほど親しんだこともない。萃香じゃああるまいし。
弱いわりにしぶとい奴等。弱いから群れを成す。そして、数が多いくせに十人十色でどうも一様には数え難い。蟲や魚とは違う獣。獣にしては賢しく、しかして時に驚くほど愚かな。
もう会うことはないだろう。向こうが勝手に来るってんならいざ知らず、少なくとも自分から関わり合いになどなるまい。
だからこれは随分な例外だ。偶然でもある。恒例となった酒盛りの帰り路、旧地獄に堕ちる縦穴の只中でそれを見付けた。
蜘蛛の巣に捕り込まれ、喰い殺されるを目前にした人間。
無視してもよかった。他人様の飯種にケチを付けるというのは実に見っとも無い。なにより蜘蛛化けがその巣に掛かった獲物を喰らって何を咎めよう。どこぞの閻魔様だって殺しの罪を唱えはすれ妖怪の営みまでは弾劾すまい。
だのに、それでも、見捨ててしまわなかったのは。気紛れに命を拾ってやったのは。
────俺は、死ねない
白い糸を赤く染めて、反吐でもひり出すみたいにヤツは言った。
岩壁を震撼するような、妙に物悲しい響きの声で。
「……おぅい、気を付けなぁ」
糸塗れの人間を蹴り落とす。ヤマメの糸は鋼の粘りを凌ぐが、
とはいえ、早まった。
勢いでやっておいて後悔するというのは如何にも、それこそ見っとも無いが。けれどやはり、思わずにはおれない。
助けるんじゃあなかった。
頼まれもしないことをやっちまった。
そうだ。ヤツは無論のこと懇願などしていなかったしそもそもこちらの存在を認識すらしていなかったが問題はそんなことではなく。
ヤツは、死ねない、と言った。『助けてくれ』でもなく。『死にたくない』でもなく。まして『生きたい』、でもない。
死ねない──まるで死にたいのにできないとでも言うような。死にたいがそれは許されないと諦めているような。
ああ、だから、ヤツのあの声はあんなにも物悲しく、うら寂しく、虚しかったのだろう。あれは全身全霊の、心の底から発したただの……
くっだらねぇ。
気に入らねぇ。
そんな糞莫迦野郎を助けちまったことが……じゃあなくて。
腹の底から糞莫迦だと罵ってやりたいような野郎が、あいつが、その糞莫迦さ加減に見合った糞野郎だったならよかった。そうなら、ぶん殴るか放り捨てるだけで済んだ。簡単な話。三歩と要らぬ、半歩で仕舞いだ。
嫌なヤツであってくれたなら、よかったのに。
そうじゃあなかった。そうじゃなかったんだよなぁ。
「かぁえったぞぉ~!!」
上界で日はとっくのとうにとっぷり暮れて、真夜中と呼ぶのも烏滸がましい早も早明け方近く。
酒焼けの臭い大声で戸を開けっ広げると、茶の間に座する青年の姿があった。
行灯に照らされた文机には和綴の書物。しかし明らかに読み物をする時刻ではなかった。
つまるところ、待っていたのだろう。
誰を?
「おかえりなさい、星熊さん」
……そりゃ私だよな。
「……また起きてたのか。寝てりゃいいのに」
寝てて当然の時刻に押し掛けておいてどの口が言うか。まあ旧都に昼夜の別などあってないようなものだが。
「お構い無く。うっかり読書に身が入りましたもので」
見え透いた嘘、というかこちらを気遣った
ここを訪れた時、この男が寝床に入っていたところなど見たことがない。いつも起きて、なんとなれば張りのよい座布団まで用意されている。別に己とて毎日毎日顔を出す訳ではない。気が向いたなら気紛れに勝手気儘に、ふらりと現れて小一時間暇を潰すだけの時もあれば数日居座るなんて日和もある。
通い猫よろしく来る日も来ぬ日も気分次第な己の来訪をまさか見越しているとも思えない。すわ、見張られているのではあるまいかと勘繰ったりもしたが、どうやら違う。ただ本当に、いつも、いつも、来客の用意を怠らないだけなのだ。
私がいつ来てもいいように。
「…………」
むず痒いような、
どっかり腰を下ろした座布団の上で、妙に尻の据わりが悪い。
だが不思議と、悪い気はしなかった。
囲炉裏では既にして土瓶が沸いている。すぐに淹れたての茶が差し出された。
「今夜も大変召された様子で」
「ん……召した召した。存分に召させていただきましたよ~ぅ。なにさ、飲み過ぎるなってかい? そいつぁ到底無理な相談だね」
「いいえ、喫される酒量について己がとやかく申し上げることはありません。貴女方に人間のアルコール分解能力などはものの尺度にもなりませんゆえ。毎度見事な飲みっぷり、ただ感服を覚えます」
「そりゃどーも」
「ただ、お願いの儀が一つ」
「んん? なんだい。お願いと来たか。はは、お前さんにしちゃ珍しい言い回しだ」
こっちがあれこれ言い付けることはあっても、あちらから何かを求められることなど殆んどなかった。そしてそれはそれで、なにやら寂しいものがある。
己が度量に期さるるもの無しなど矜持に
あとはそう……共にする時間は増えていく。一つ屋根の下、席同じうして幾度数えよう。席といっても食卓囲んでるだけだが。とはいえだ、この男からは一向に、素振りすら見えない。なんというか、いやそうあからさまにあってもらっても困るのだが、こちらとて
「肉体的に優れたりとはいえ、女性に、このようなことを申し上げてよいものか」
「ぉ、おう、別に気にしやしないよ。言ってみなよ」
思わぬ話運びについ声がつんのめった。
一応こっちは女な訳だ。日々平穏世は総て事も無し万事平和なりと続く。結構なこと。しかし、なれど、すると揺らいで来る訳だ。沽券的なものが。
以上何一つ関わりなどないが、求めるというなら聞こうではないか。うん。話くらいは。
「お酒を召される時は、一緒に何か食べていただきたい、と」
「…………あぁ?」
身構えたところに、石ではなく綿でも放られた心地だった。肩透かしというやつ。
「酒豪の方々にとって、酒肴などは清酒の味を損なう不純物なのやもしれません」
「いやまあ、そこまで言わないけど」
実際、当てなどなくとも大いに飲むが。
青年は目礼気味に顎を引き、恐縮した体を見せる。
「口幅ったいことを申しますれば、やはりお身体を労って欲しいと、そう思います。どれほど強靭で、限界が遠大であられたとしても」
「くははっ、確かにこりゃ口幅ったいね。小姑か
「失礼いたしました……」
「謝るこっちゃないさ。けど、いざ呑もうってたんびに食うもん用意するってなぁ、なかなか面倒なんだよねぇ……そうだ。お前さんが作ってくれりゃいい」
わざとらしく手を打って、にやりと笑って見せる。さながら仕返しの心持ちで。
「おぉ我ながら名案だ。胃の腑も荒らさず酒も益々進む。しかし、くくく、いやはや残念。これじゃ本末転倒だね」
無論、冗談である。日の二食、三食を飯炊きするならいざ知らず、鬼の酒盛りに人間を付き合わせるなど無茶な話。
「よろしいのですか」
「あ?」
「相分かりました。謹んでお役目拝領いたします。己の拙い手妻で、果たしてお口に合うものが用意できるか……精一杯、力を尽くします」
「おいおい真に受けるんじゃあないよ。二、三日なんてのは方便さ。実際はもっと長くなるし量だって樽酒が指折り消えてなくなるんだ。鬼の酒宴に人間が出しゃばって過労で死にました、なんて笑い話にしかならないよ」
「適宜に小休止を挟めば、二週間程度の連続労働は人間の身体能力でも十分に可能です。実際、現世でもそうした労働環境は珍しくありません。なお一層苛酷な勤務内容、拘束時間、数分の休憩すら与えられないなどという業種も、枚挙に暇なく」
「病んでんな現世」
それは私でも鬼だと思う。
「人間の脆弱さを厭われる御心境は、少なからず理解及びます。しかし憚りながら、人間とはなかなかにしぶとい生物です。ですからどうか御遠慮なく、この身を御存分にお使いください」
「あのなぁ」
謙り極まって、いっそ不気味なくらい、この男は自分自身の扱いが露悪だ。そうすることに悦びでも覚えている変態なら物笑いの種だが、こいつのそれはそんな血の通ったものではない。実に義務的で、機械的で、無慈悲。法の執行。処刑人の断罪めいて無機。それこそ閻魔の裁きが如く、非人間的なのだ。
自縄自縛に自罰を科し、自己の悪性を妄信する愚か者。
そんなものに付き合ってられるか。こいつの────思惑通りになどさせて堪るか。
片膝立てて青年に向き直る。睨みを呉れて、この苛立ちを顕す。
「お前さんはどうも私に借りがあると思い込んでるらしいが、私の方にゃそんな鬱陶しいもん貸した
────そこにお前の
「は……それは、大変な、御無礼を」
「ふんっ」
「ですが」
「?」
今一度頭を垂れて謝罪を口にした矢先、青年はこちらを真っ直ぐに見返す。
「自分は決して、義務感からこのような申し出をしている訳ではありません」
「嘘は好かない」
「嘘ではありません」
「じゃあなんだってんだい」
自分の声音の険に顔を顰める。何を独りで血を熱くしているのやら。
しかし、譲れぬ。嘘だけは許せぬ。この身を鬼と知ってなお、虚実を口にするようなら。
こいつとは、これ切りだ────
「……酒を、飲んでいる貴女が」
「あん?」
「御酒を召される星熊さんは、爽やかで、快く、そして幸せそうで……とても素敵だと、綺麗だと、思いました」
「………………あい?」
「その様、お姿を、傍近くでまた見られぬものか、と……
「…………」
「…………」
暫時、時の移ろいが止まった。
いや時間は動いている。確実に。現に外からは
青年は何も言わずじっと、恥じ入るように面を伏せている。
己とても何を言えばいいやらわからぬ。
悪戯に沈黙ばかりが部屋に落ち、時はただ過ぎていった。
「……そ」
「は」
「そういうことも言えるンじゃねぇか!!」
べちん、とその左肩を叩く。
すると青年は視界から失せた。左隣の襖が吹き飛び、どんがらがっしゃんと奥間の押し入れが弾ける。
どうも、今度こそ手心を誤ったようだ。
「ぉ、おぉっ!? ごめん!? ごめんよぅ!」
「いえ……問題、ありません……御心配、なく……」
歪んだ襖と家財の下から片手が出てきて左右に揺れる。とりあえずそれを引っ張り上げ、元の場所まで手を貸した。
対面を改めて、しかし一向言葉は出ない。どうしてか酒精が沁みたかのように、顔は熱を帯びていた。
「……小腹が空いた」
「は」
頭の中を探しあぐねて、結局胃袋と相談してそのような文句を絞り出す。
青年の目が瞬く。しかしすぐに、そこには柔く笑みが浮かんだ。
その微笑の、この手触りを何と呼ぼう。居もしないし見たこともないおっ母だかおっ父だかはこんな感じかなんて、愚にもつかない想像をしてみたりもした。
「冷や飯ですが、茶漬けにでもしましょう。作り置きの出汁もよろしければ。ミョウガ、大葉、野沢菜、梅肉……ええ、お好みの薬味があれば仰ってください。昼に煮染めた貝の佃煮もございます」
「なんでもいいよ。あぁ、でも」
「はい、山葵は多めで」
「……おう」
先刻承知といわんばかり。実際、己の好みの味も食い方も、此奴には殆ど
いいヤツ。優しい人間。自分以外の誰かを想い遣れる善人。世に呼ばわる鬼の像、その対極のような人物像。その癖、聖人君子ってほど潔癖でもなく、物腰は柔らかだ。堅物だが、穏当だ。
小言が増えたのは玉に瑕だ。酒の飲み方にあれこれケチをつけやがる。鬼が酒浸って何が悪いってんだまったく。
ああ、まったく。
悪くない。こういうのは、嫌いじゃない。
だからこそ、腑に落ちない。承服できない。
そんなヤツがどうして────死にたがる。死にたいと希念するほどに、今生を厭う。
茶漬けというか冷や汁と呼ぼうか。残り物の有り合わせをそれでも三杯ほど平らげて、星熊さんは座布団を枕に転寝した。
腹が満ちて眠気に負ける。まるで幼子のようだ。その居姿はどの角度から望めど絶世の美姫、美鬼であるのに。
「……」
寝息は穏やかで、寝相も頗る静謐。一流の彫刻家が削り出した彫像のように彼女の寝姿は美しい。
そっと毛布を掛け、囲炉裏に薪を加える。風邪どころか病と無縁の彼女に、暖かく、などという配慮はそれこそ余計な世話であろうが。
豪気にして不敵、懐には深なる大器を持つ。その精神性は尊敬に値する。
しかし同時にこのひとは、快活で、朗らかで、子供のように無邪気だった。その在り方に、思慕が募る。惹かれる心を自覚する。
「ん……」
「……」
はらりと、その金糸の髪が女生の額を流れ落ちた。それを見て取ってほぼ反射的に、手櫛で前髪を払う。
絹のような手触り。凡庸な感動が湧いた。
望蜀。先程口にしたそれが今まさに
もっと触れたい。労わりたい。
小動物に対する庇護欲に似ているか。いや、今少し、違う。
愛欲と言うには力なく、恋情と嘯くには不誠実で。
ただ、愛らしくて、俺は彼女の頭を撫でた。宝物でも手入れするような心地で。大切で、大切なものの実存を確かめるように。
そうして、この手が幾度目かの往復を経た時。
「……ふふふ」
「っ!?」
彼女と目が合う。赤い瞳が細く、こちらを見上げていた。
「なんだ。やめちまうのかい……?」
「失礼いたしました。本当に、迂闊な、不届きなことを」
「なんでさ。私は嫌がっちゃいないだろ。むしろ安心したよ。木石みたいなお前さんがこういうことしてくれるんだって。私の女っぷりも捨てたもんじゃあないねぇ。ふ、ふふふふ」
「は……」
後方へ退こうとする己の手を彼女は握る。そのままそれを引き寄せ、再びその頭に置いた。
「いいから、撫でとくれよ。いい気持ちで眠れそうなんだ」
「……はい」
「んっ、ふふふ……あ、それとも」
「? っ!」
言うや、彼女の手は己の二の腕に這い上り掴む。そうして何程の苦も無く、この身は引き倒された。膂力の差を実感する暇すらなく。
「一緒に寝る?」
「…………」
囁きが耳を撫で、眼前には柔らかな微笑。横になって向かい合った彼女は、この上もなく蠱惑的で、この世のものとは思えぬほどに色と艶に満ち満ちていた。
優しげな形に細められる目。薄く唇は開かれ、まるで何かを待ち受けているように見えた。それは己の錯誤であろうか。
「……いいよ」
正気のまま魅入られていく。星熊勇儀というひとは、それほどに、あまりにも美しくて。
髪を撫でた手が、白い頬へと落ちる。赤子めいて滑らかな柔肌に、筋張ったこの親指を這わせるのは罪悪感すら伴った。
桜色をした唇。視界が狭窄し、ただそれだけしか見えなくなる。美しい色艶と形の、彼女の、唇だけが。
「っ」
不意に、鋭く。
それは指の腹を走り奔り、指の根元までを存分に裂いた。痛みが。
切って裂けた親指から血が滴り、美鬼の頬に赤い玉を落とす。白い肌を、赤が穢した。
「! 今拭くものを」
「待て。見せてみな」
即座に立ち上がろうとしたところをまたしても捕らえられる。
掴まれた手首は無論のことびくともしない。こうなれば己などにそれを振り解く手段はなく、大人しく彼女の言に従う。
座して、星熊さんはじっと己の手を見詰めた。新たに穴でも穿たれてしまいそうなほど、それは繁々と。
「……………………」
「星熊さん、お顔に血が付いております」
「ん? ああ……」
彼女は無造作に手の甲で頬を拭った。しかしそのようなことをしても、血の紅は掠れながら伸び広がるばかり。
頬紅というにはあまりに醜い汚れ、己が垂れ流したものが、美鬼を穢す様は心をざわつかせた。
やはり手拭を。なんとなれば湯を沸かし、彼女に付着した汚物を洗いたい。
こちらの慌てふためく心中を、あるいは察したのやもしれぬ。彼女は呆れたような笑みを浮かべ、次いでこの手を引き寄せて。
「ん、ちゅ」
「!? なにを!?」
親指に、舌を這わせた。
暖かで、柔らかで、ざらりとした感触が指の腹を舐る。丹念に、丁寧に。
彼女の舌は長かった。指に巻き付いてしまうほど。
「星熊さんっ、いけません……!」
「は、ぁ、ん……ちぅ……んふ」
こちらの抗議に、彼女は妖しい笑みを返すだけだった。
流れ出た血を粗方舐め終えると、その唇が開き、指が没す。口の中はさらに暖かく、いや熱かった。火傷を錯覚するほどに、彼女の中は熱く。
「ち、ぅ、ぢゅる……」
「ぐっ」
指が吸われた。舌が吸着し、頬が窄まり、口腔全体の肉が指を圧迫する。
傷口が発する痛みなど僅かで、というよりそれ以外の刺激があまりにも強過ぎた。
指先を支配する快感に、己はただ身を固めて堪えることしかできなかった。
「……ん、はぁっ。血は止まったかね」
「…………」
「……ははっ、ふふ、くふふ、びっくりした顔」
「至極、当然の反応かと思われますが……」
非難がましいこちらの言に、美鬼は実に愉快げな笑みを見せた。
「ま、いいじゃないか。お互い様ってやつさ。それよりこの傷、何かで塞がにゃ」
「は、
久方振りに手首を解放され、奥間から救急箱と手拭を持ってくる。
親指の切り口は広く、深い。いつ、どこで、どのようにして切ったものか、どうにも思い当たる節がない。
「……」
星熊さんは白布で顔を拭いながら、やはりじっと己の手先を見ていた。
その血は甘露であった。否応もなく、
あるいはこのまま喰い殺せば、この男は幸福になるのだろうか。
それは欺瞞だ。言い訳だ。
これが、この血潮の味が気を迷わせる。違わせる。狂わせる。私を。
「……」
あの傷。傷口の鋭さは、刃物のそれではない。ただ鋭利なだけの刃では、あのような
もし、あるとすれば────糸。
極細の糸でも滑らせたなら、斯くも精妙なる切断が能おう。
「…………まだ、諦めちゃいないってか」