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こちらから依頼差し上げて凄まじく素晴らしい絵を賜っておいて更新を一年弱腐らせる糞&糞&糞が私です。
橋の頂点で二人、向かい合う。
片や異国の風合いなお色も濃く、人ならぬ美貌の少女。
常ならば、人間の人足風情が関わり合いになることなどあるまい。しかし奇縁が、引き寄せた。星熊さんの仁徳が幸か不幸かこの仕儀をもたらした。
「……申し訳ありません。一向に、貴女の仰ることの主旨を、理解できませず」
「難しく捉えることないわ。言葉の通り、誰かの嫉妬が貴方を殺すの」
「それは、また……剣呑な」
「ふふ、そうね。剣呑剣呑。でもとても自然なこと。嫉みと憎しみと殺意はグラデーションで繋がってるから」
穏やかな微笑で、少女は実に危うげな条理を語った。条理、のような何かを。
「この身を
「ふふふ」
「それは、可能性として随分低いものかと思われます」
「あら、どうして」
「有体に申しますれば、我が身は嫉みとは無縁ゆえ」
嫉むとは即ち、相手の心身、境遇、其が所有する有形あるいは無形なるものを羨み、その果てに憎悪を募らせるという精神の作用。
俺が? この芥の如き男が誰かの嫉みを買うと?
それは考慮にも値しない。可能性などと口にはしたが、絶無と言い切って差し支えない事実だった。
「その価値を認めません」
「貴方の価値を決めるのは貴方じゃないわ」
こちらの断言をいともあっさりと覆されてしまった。
確かに、その通りである。自己の価値とは自己一身の判断で決するものではなかった。残念ながら、それは他者の想い願いの介在なくして成り立たぬ。少なくとも社会、一定規模のコミュニティに属する限り、他己評価とは実存の一要因に他ならない。
賞賛、嘲罵、憎悪……愛慕。この他にも多種多様、細分化され変質を繰り返して人は人を吟味する。人は人を己が想像の上でとある価値に置換する。
「……」
価値の定義などと、どの口が言えたことか。己がどれ程その勝手自儘な思索を弄んできたかを全くもって棚に上げている。
この自儘な想い。卑小なる……憧れ。
己にとっての星熊勇儀というひとがある。
片や、彼女にとっての己というものがある。
そして、誰かにとっての己という、もの。果たしてその価値とは如何に。
眼前の少女が見出し、予言しているのはまさしく、己が己では見付けること能わぬ己の価値。嫉妬、妬み嫉むあまりに殺害にまで至らねばならない何か。
信じ難い。だが、可能性とは常にして百も
「御忠告、有り難く頂戴いたします」
「忠告だなんてとんでもない。橋占いとでも思ってくれればいいわ。当たるも八卦、なんてね……」
「活かすか無為とするかは己次第、との仰せですか」
「さあ、生憎だけど、私に貴方を助ける気はないわ」
「……」
「私はね」
美しい。無慈悲なほどに。
少女はうっとりと微笑んだ。
「憎嫉に焼かれて死ぬ者を見るのが好きなの」
「……」
「貴方は、ふふふ、極めつけ」
忌憚なく言って、聞くだに悪趣味と断ぜざるを得ない。謂わばそれは他者の破滅を愉悦するが如き嗜好。尋常の精神性で求めるものではない。
しかし、と。己は己の常識を疑う。つい今しがた、そんなものは何の頼りにもならぬと教えられたばかりなのだ。
嫉妬に狂い、狂い切ったゆえの殺生。そこに一種の嗜好性を見出す。あるいは彼女なりの、彼女だけの……尊厳、なるものを観る。それも間違いなく、一つの価値。
彼女は人ならぬ妖なればこそ。
「それが貴女の
「性……そうね。そう。私は嫉妬で鬼になったんだもの。それが本分。それが本能。生き様。生き甲斐。生きる意味」
するりと、その白い手が伸びてきた。それはしなやかな軌道で、実に自然な所作で、己の肩に触れる。撫で、擦る。
「妬み嫉みはひとの業。原初の罪と呼ぶそうね。私に言わせればそれは間違いだわ」
「とは」
「愛よ」
とっときの冗句を口にするように、桜色の唇は唄った。
「愛しているから妬ましいの。愛しているから憎らしいの。よく言うじゃない。好きの反対は嫌いじゃなく、無関心だって。すごいすごい、人間もよく解ってるのね」
「愛するゆえに妬み、殺す、と?」
「ええ、そのひと全部が愛おしいなら、そのひと全部を掌握したいと思うでしょう。想いも体も、優しい言葉も素気無い仕草も思い出も、視線さえ」
翠の眼が、己を射抜く。その奥底に笑み。優しい色の情を映して。
「愛し、欲し、奪い、喰らう。骨まで舐ぶらずにはおけない。あなたは私のもの、その表明、宣言。嫉妬は切な願いの叫びなのよ」
「願い……」
「純な願い。まるで透き通るように綺麗な闇……あぁ」
うっとりと少女は囁く。今まさに彼女曰くの純黒の闇に体を浸すかの、恍惚で。
「妬ましいわぁ」
「……」
「貴方に追い縋る闇。こんなにも、綺麗な闇を浴びることの出来る男……妬ましい。ふ、ふふふふふ、妬ましい妬ましい。あははっ」
花が咲き乱れるような笑みと笑声。た、た、軽やかなステップで少女が橋板の上を踊る。裾をふわりと翻し、身をくるりと一転して、彼女は右手を掲げた。
その白く細い指先に何かを、摘まんでいる。何か。目に見えぬほどに微細な、光の照り返しによって辛うじて捉え得るそれは────糸であった。
「蜘蛛の糸はしつこいわよ? 取っても取っても体中に纏わり粘りついて離れない。獲物を決して、放さない……ふふふふふふ」
「……」
「命が惜しいなら、とっとと
そのように締め括り、異装の少女は小首を傾げた。
答えなど決まりきっていよう。そんな言外の確信めいたものが見えた。
然もありなん。勘案の余地もなし。彼女曰くの、憎嫉の有無はさて置いても、何者か……
この地底で最初に出会った。誰あろうかの女妖、いや間違いなく恩人の、かの少女。
蜘蛛の化生──黒谷ヤマメ御方。己の命を文字通り拾い上げてくださったひとだ。
そのような方がいったい何故……などと。愚昧なことは言うまい。巣にかかった獲物を絡め捕らんと欲するは捕食者の摂理である。
彼女は今なお諦めていないのだ。己という生餌をどうにも諦められないのだ。
「……」
「何を迷うの? 命が惜しくないの?」
少女がなおも問うてくる。己の不明瞭なるを詰るようでもあり、それはひどく可笑しげでもあった。愉しげであった。ひどくひどく。
己の去就それ自体というより、迷い惑うその無様を、少女は心から楽しんでいた。
「いえ……迷いは、ありません」
「へぇ」
そう。己自身にしてからが不可思議を覚えるほど、迷いはなかった。
迷いなく。
「自分は、地底に留まろうと思います」
「あら、どうして? ただ道端で行き会った橋占い風情の易はお気に召さない? それとも……死ぬのが怖くないのかしら」
「いいえ、霊験の有無はともかく、御忠告の内容に否やを差し挟む余地はありません」
そして、死は恐るべきものだ。死を怖ろしくないなどと思ったことはない。己は超人でも、死生達観の境地に在る覚者でも、まして勇猛の二字からは程遠い紛うことなき弱者である。
死ぬのは怖ろしい。死に……
それでも。
それを握り潰してでも、俺はここにいたい。そう願う。
「ここで……」
あの方の傍に、いたいと願う。願える。
「卜占、いえ、頂戴した託宣を無為にする御無礼、申し訳ありません。ですが自分はここにいたいと思います。そう、願います」
「……ふぅん、愚かね」
「はい」
反論の余地は依然として絶無であった。
ここを危地と知りながら、私欲一念を以て居留に拘る。愚昧だった。自殺志願とそれとにどれほどの違いがあろうか。
善し悪しを問えばこれは間違いなく悪しきことだ。生存の為の努力を怠っているのだから。
けれど。
けれど、正しいことだと思う。俺という存在が真実劣悪であっても、この願いだけは正しい。そう思える。
今一度、橋占いの少女に向き直り、腰を折って辞儀する。
「ありがとうございます」
「お礼を言われる筋合はないけど」
「やもしれません。しかし、どうか御容赦願いたく」
筋違いなのかもしれない。しかし、眼前の少女の易は確かに、確実に、俺に一つの悟りを与えた。迷い惑うばかりのこんな男に、一つの道が拓けたような気がしたのだ。
「感謝を。貴女の御蔭で、迷いが一つ晴れました」
「……あらそう。それはそれはお宜しいこと。ただの普通の下らない事実をほんの少し自覚した程度で心晴れやかになれるなんて、ひどく妬ましいわ」
「恐縮です」
「…………本当に愚かな男」
先達ての愉しげな様は打って変わり、至極つまらなそうに少女は言った。こちらの愚物具合に、いい加減呆れを催したのだろう。
ふい、と彼女は顔を背ける。その金糸の髪がまたぞろ実り垂れた稲穂のように揺れる。
そのまま吐き捨てるように。
「妖怪の女の執着……侮らないことね」
「は」
うんざりと、まるで心底から嫌気が差すとばかり、少女は呟いた。
その時────天地が
「!?」
天地などと表したが、ここは地底の深く、旧くは正真正銘の地獄であった地の奥底。つまるところ巨大広大な地下空間そのものが揺れているのだ。そう確信できるほどの地響き。
川面は波立ち、橋が軋みを上げる。
欄干に手を掛けどうにか身体を支えた。
はたと、かの少女の様子に目を向けた。がしかしその可憐な異装の姿は既になかった。初めから存在などしなかったが如く。
橋の頂で白昼夢を見ていたのだろうか。間の抜けた想像を弄ぶ。
「っ!」
呆けの男を嘲笑うかのように依然として揺れは続いていた。揺れ、いやさ衝撃が。
空間と身体を強かに打つ振動に、ふと奇妙な違和を覚える。有り難くもないことだが生まれ育った土地柄ゆえに地震には慣れ親しんだものがある。その経験則に照らして足下より伝う感触は、過去肌身に覚えたそれに合致しないのだ。
これは、ただの地震ではない。
その直感に裏付けが為される。いや、証左そのものが現れた。
地下から。
岩盤を突き破り、土砂を巻き上げ、空間にその姿を晒す。巨大な、長大なるそれ。
ぎちぎちと顎肢の二本歯が開閉し、触覚がゆるく廻る。鈍くぎらつく複眼が旧都全てを睥睨する。
その下、胴体と思しい長い体躯に連なる足、脚、
そしてなおも巨大であった。蟲の特徴を遺憾無く顕すそれは、ひとえに、常識外れに、馬鹿に全てが巨大な。
黒い百足。それは巨威なる大百足であった。
──ひっ、ひぃぃいいいいいい
──変化だ! 化け百足が出たぞ!!
伝承に曰く、かの益荒男に退治されし大百足は、物語の舞台たる近江は三上山を七重半取り巻いてしまうほどの長大さを誇ったと。
今立ち現れた化け蟲がその名にし負う怪物と同一のものかはさて置き、それに劣らぬだけの巨躯であることは確かだ。土中よりその体躯を晒しただけで周辺の家屋建屋一切を捲き込み地面ごと薙ぎ払った。まるで紙屑の如くに。
そして、それはそこに住まう妖怪達とて例外ではなかった。
のたうつ巨体が地表を一撫でする度に各所で絶叫と悲鳴が上がる。ほんの身動ぎ一つが地形を変え破壊を為す。
──ヒャハハハ! 死んだ死んだ! どんどん死ぬぞ!
──おい誰か止めろよ。俺ぁ御免だけどよぉ
──賭けだ! 賭けができる! 誰があのデカブツを殺すか当てようぜ!
──喧嘩にゃ酒だぁ! 酒持ってこぉーい!
……一部に、いや各所より囃し立てるかのような嬌声や怒鳴り声、笑声すら聞こえてくる。流石は旧地獄、荒くれモノ共の坩堝と呼ぶべきか。
天象の如き怪物さえ、彼らにとっては乱痴気騒ぎの肴になる。
とはいえ、被害は確実に広がってゆく。
川の両岸に縫い糸めいて出入りする蛇体。地表を掃き払う様などもはや草刈り鎌の様相だ。見物客を気取った者らも堪らずその刃先より逃げ散っている。
そして悠長に惨事を眺めやる愚か者は己とて同じであった。一刻も早く避難しなければ。
あるいは今更に過ぎるこちらの内心をまさか読み取られたのでもあるまい。が、しかし、我が身の不運は常のことなれば。
うねる百足、節足の一対が架橋の縁を掠めた。それで十二分だった。木製の欄干、橋板、支柱。太鼓橋の膨らんだ頂点が一瞬内側へ
「ぐっ、お……!?」
そこに立っていた暢気者を巻き込み、諸共吹き飛んだ。
「ッッ!」
意識の喪失から立ち返る。そう長くはない。ほんの数秒程度だろう。節々に響く痛みが我が身の生存をがなり立てた。
橋より投げ出され、河川敷の砂利の上に横たわっている。五体は満足。打撲はあるが骨折はない。架橋の頂点から落下したことを思えば奇跡的と言っていいほどの軽傷だった。
頭上を足の群が流れる。今もなおここは危地。依然として安堵を弄ぶ暇など無い。
立ち上がり、急ぎ岸辺から離れようとした。
「お、おぉい!!」
「!」
不意に、背中を叩く声に振り返る。
河川敷にはばらばらに破壊された橋の残骸が各所で山を作っている。
その小山の一つから、一つの目玉がこちらを見上げていた。先刻、普請場で行き会った入道であった。
「おいニンゲン、助けろ! いや、た、助けてくれぇ!」
七尺を優に超える大男が、涙を浮かべた必死の形相で砂利を掻いた。
頭上すぐそこに蛇体のうねりを仰ぐ。あれがもう一撫でもすれば、積み上がった材木は勿論、その下に埋まるものとて原形を留めまい。
駆け寄って状態を見る。端材が折り重なり、奇妙な噛み合い方をしていた。地面に突き刺さった支柱が合掌造りの様相で覆い被さっている。とはいえこの巨体にすれば重量は然程のものではない筈だ。
突き刺さった柱の一本でも除けば、這い出る隙間が出来る。
手近に転がっていた材木の棒切れを手に、残骸の山へ突き立て、梃子を加える。
「く、ぐぅ……!!」
「は、早く、早くしやがれ糞! もたもたすんじゃねぇ! ひ、ひぃ」
暖かな声援に急き立てられながら、全体重と筋力を総動員した。すると、ゆっくりと、木片同士が軋み合う悲鳴を上げながらに、支柱が動く。まんじりと積み木細工の間から伸び上がる。
僅かだが隙間が出来る。
その隙逃すものかと、水から揚げられた鯉のように跳ねながら入道は砂利を匍匐した。全身が出る。
筋肉が限界を訴え、作用点たる手を離す。それこそまさに積み木細工の如く端材の山が崩れ去る。
「はぁはぁっ、さあ急いで! あれに見付かる前に────」
叫び、見やった先には入道の姿が…………なかった。
より正確には視界に映るものがなかったのだ。黒く暗く、塞がれている。人間離れして巨大なその、手掌によって。
頭を掴まれた。無造作に、御手玉でも扱うように。
体が持ち上げられ、振り被られ、まさしく手玉に取って勢い、我が身は放り投げられた。
人体各部の重量バランスの都合上、宙を踊った己は比重の寄った頭部から落下した。砂利を顔面で削り、肩口を強かにぶつける。
瞬間的衝撃は並ならず痛みさえ出遅れた。平衡感覚が遠退き、三半規管が惑乱する。確実に脳髄が揺れていた。
その千々に乱れた視界の端で、巨躯の黒い僧衣が背を向けている。一心不乱、走り去っていく。
「ひひゃははは! 馬鹿が! てめぇは百足の餌役だぁ!!」
飛ぶような速さ。やはり人間とは物が違う。早くも入道は土手に差し掛かり、大きな歩幅で草地に足を掛けた。
その足が、沈んだ。
「あ?」
土中にすっぽりと足が膝まで沈んでいた。沈んだかに、見えた。
違う。そうではない。
入道の膝から下が失くなったのだ。
泥中にずぶずぶと沈み込むかの様相で、ぐずぐずと
「ぎ、ぎぇひぃ」
頭上、広大な地下空洞の天井を覆い隠す巨大な影、黒い威容、百足の頭、複眼が。百足はとうに己が眼下でちょろちょろと動き回る矮小な者共に気が付いていたのだ。
獲物、いやそこまでの価値すら認めているかも怪しい。ただ目障りゆえ、あるいは全き無邪気に、潰して楽しむ為だけの蝨か朝霜として。そのような認識が精々。
そうして左右に開いた
その効能は、一目にして瞭然。
触れたもの、肉、骨、衣類、土手に生えた草花、岩土さえも。
全てが溶けた。それを頭から浴びせかけられた一つ目入道はその原形をどろりと失った。一瞬、一吹き、であった。
死。こんなにもあっさりと、そしてひどくねっとりとした死が地面を今なおぐつぐつと煮立たせている。
「…………」
恩を売るというような心積もりなどなかった。返礼などは望むべくもない。求められたので己に出来得るレベルの助勢をしたまでのこと。自己満足、この四字に納まる。
仇で返されたとて恨み辛みも格別、湧いてはこない。ただ、虚しかった。目の前で甲斐もなく失われた生命が。
己を囮にして逃走を図る、それもまた一つの生存戦略だ。非道ではあるかもしれないが、生き永らえる為の当然の、必死の努力には違いなかった。
それが報われなかったことが、残念でならない。
そして今、己もまた彼と同じように、巨大な死の影を仰ぐ。
「カロロロロロロロロロロ」
外骨格に鎧われた蟲の姿。桁違いのスケールと、そして禍々しいまでの凶悪な造形に生理的な恐怖を禁じ得ない。
先の彼同様に骨肉を溶解され死ぬか。はたまたごく単純に挽き潰されて死ぬか。あるいは喰われて死ぬるか。
いずれにせよ、死ぬ。その近未来を疑わない。実にいとも容易く俺は死ぬのだろう。
視界の右半分が赤く染まる。額から血が滴っていた。
右腕が上手く動かない。肩か肘か、その筋か骨を傷めたのかもしれない。
九死が揃い踏み、一生は遠退いていく。
しかし、心は軽かった。現実が単純明快化してゆく。死という一事実に、ひた進んでゆく。恐怖が極大化する一方で些末な不安のほとんどは取り除かれていった。
不思議なものだ。絶命を目前にした呆けは我が身の運命にほくそ笑んでいる。不遜に。無恥に。
恥を知らねばなるまい。
死に────安堵を覚えるなど。
「……」
恥を知ろうと言うならば、今の己が為すべきことは一つ。
抗うのだ。無駄であっても、不可能と理解しようとも。
最期まで生きる。生きようとすべきだ。
諦めなど俺には勿体ない。泰然と死を甘受するが如き高潔さは俺に相応しくない。
最期まで生き足掻き、生き汚く、今生に執着し続けるべきなのだ。そうしなければならないのだ。
あの方は
「くくくっ……」
最期の最期まで情けなし。生きようする意志すらも他者のそれに仮託するか。嘲笑うより外にない。ひどく恥ずかしく思う。
懐から匕首を取り出し、鞘を払う。血糊の一片も浴びぬ無垢な刃に唾を吐き付ける。
俵藤太の逸話に
「お手向かい、ご容赦」
そうお道化て笑い掛ける。
果たして応えてくれたものか、百足は咆哮し襲い来た。
左手に握った儚げな小刀を突き上げる。この命と同じほどに小さな、小さな反抗声明。
星熊さん、俺は生きて、抗い、そして……死にます────
負うべき責めを擲ち、心中に愚かな祈りを捧げる。届くことなき想いを唱う。
想いは────
「莫ぁ迦」
「!?」
それは空気を引き裂きながらに、撃ち込まれた砲弾さながらに、百足の頭を貫徹した。
降り来たる。想いびとの彼女。
落ちる。黒い
蟲の頑強な兜を打ち破ったのはその拳。しなやかで優美な、武威の象形。鬼神の揮う武力の塊。
一撃であった。巨大長大凶悪の権化たる大百足は、ただの一撃にて屠られた。
塵埃の向こうで立ち上がる。青い着流しの姿、赤い一角に星型をあしらう美鬼。星熊勇儀が、化け蟲を踏み付けてそこに在る。
期せず、伝説、武勇譚の一幕に立ち会っていた。こちらを見下ろすその方は、なんとも事も無げであったが。
百足から跳び降りた彼女が間髪入れずこちらへ近寄り、己の右頬を撫でた。顔の半分近くを覆う血化粧でまたぞろ彼女の白い手が穢れた。
「額の傷は大したこっちゃない。頭の血は派手に出る」
続いて右肩と上腕に彼女の手が触れると、電撃のように痛みが走った。
「腕は……あぁあぁ折れてるねこりゃ。まったく、無茶しやがる」
「はい、返す言葉もございません」
「お前さんに言ったんじゃあないよ」
呆れに吐息しながらに優しげな笑みが湛えられる。
優しげで……痛ましげな。
幼子にでも戻ってしまった心地だ。彼女の目はまるで母御のそれであったから。母の……想像を、想起しようとした記憶を脳の奥深くへ仕舞い直す。彼女に対して、彼女の姿に、彼女の瞳にそれを見ることが、罪深く思えて、あまりにも破廉恥に思えて。
逃げるように背けた顔は、しかし白魚の手によって捕まえられる。そっと顎を引かれ、己の右頬に彼女は自らの頬を寄せた。
途端、美鬼の
「星熊さんっ……!?」
「暖かいねぇ。暖かい」
「汚れます」
「構わない」
「いや、しかし」
「これがいい。いいんだ。ダメかい……?」
怖々と訊ねる声音は、さながら叱られやしないかと縮こまる童女だ。それが触れ合った肌の向こうから感じた印象だった。
我が身の血と皮肉に宿る熱に彼女は今、安堵を覚えている。命に。
己の命などに。
「……まだ動くか」
「!」
彼女の背後に影が上る。黒い威容が身を擡げ、起き上がる。
頭部外骨格を陥没させながら、大百足は絶命していなかった。
「存外に丈夫じゃねぇか。ああ、その方が殴り甲斐もある────」
「キシャァアアアアアアアアア!!」
奇声を上げたかと思えば百足は口腔から溶解液を噴出させた。大量に、川辺全域に満ち溢れるまでの暴流を。
気付けば、星熊さんは己を抱えてその場を跳び退がっていた。もう一瞬遅ければ彼女はともかく、己は溶け崩れていただろう。
「ちっ! 逃げるかよ!? 玉無しがぁ!!」
彼女の小脇から眼下を見やる。百足は蛇体をうねらせ、大地を抉り、土中へ潜り込んでいる最中であった。先刻の入道に劣らぬ一所懸命さで逃奔せんとしている。
川から脱し、安全圏と思しい土手に着地した星熊さんが己を下ろす。牙を剥き戦気を吹く様、追撃の腹積もりは疑いもない。
巻き上げられた土砂が空を舞う。家々の材木、河川の岩石、周辺住人の死骸、それらが一挙に降り注ぐ。
その一片、屋根瓦が一枚、ふと頭上に過った──そう認めた直後に衝撃。
「あ」
目が眩む。視界が傾く。
「お、おい!? 大丈夫か!? ちょっ、おいってばぁ!?」
常にない慌てふためき様で両手をおろおろさせた彼女が己を見下ろしている。
それがなにやら無性に愛らしい。阿呆のように、ふと物思う。
段々と遠ざかり、暗闇の向こう側に消えていく彼女の顔を、俺はずっと見上げ続けた。消えてしまうまで、ずっと。
暗い。暗い穴倉の奥底で蠢く巨大な蛇腹。蛇、ではなく、無数の節足が対を為す虫体。蟲。巨大なる百足。
それは明確に痛みに悶え苦しんでいた。頭部の外骨格を文字通り打ち破られ、内部の重要な組織が損傷している。死に至らなかったことが不可思議なほどの深傷であった。
いや、真に不可思議なのはむしろ、深傷で済ませたあの鬼熊の方だ。称して怪力乱神。ただの一撃で殺し切るなど造作もなかろうが。
そうしなかった。何故か。
理由は知れている。わかり切っている。わからいでか。忌々しいほどに。
あの人がいたからだ。だから加減した。大事に大事に、傷付けたくなくて。
暗闇に降り立つ。蟲の巨躯を仰ぐ。
「
百足は何事かを呻く。人語を解さない、本来解す要すらない太古の化け蟲の奇声は言い訳であり泣き言だった。
耳に入れてやる必要もなし。
「ちょいと騒ぎを起こすだけでよかったものを。囮も足止めも満足にできない。鬼一匹殺せない。人一人
指を振るう。指先で揺蕩う“糸”を手繰る。
右手の五指から伸びたそれらは洞の岩肌、岩土を支点として張り巡り、百足の虫体を押し包んでいる。包み、絞り、裂いていく。外骨格の隙間、露出した筋肉組織と神経節をじわじわと押し切る。
悲鳴が木霊した。蟲の語彙で命乞いをしている。叫ばずとも聞こえている。蟲妖たる己に聞こえぬ筈もない。
ただ、知ったことではないというだけの話。
「なによりサァ。お前……お兄さんを殺そうとしたろう」
百足がのたうつ。巨躯が洞穴を叩き、打ち、揺らす。
体を糸で縊り切り裂かれる痛み……だけではなく。
顎肢が開き、口から煙が立ち上った。裂かれた傷口からも黒々とした瘴気が溢れ出ていた。
「私への意趣返しかい? やり口を間違えたネ。それも最悪の方法でサ」
身の内から肉を内臓を
溶解した体液が熱気を放った。穴倉を悪臭が充満した。
「あぁ最悪」
百かそこらに分割された百足が穴の底の暗がりにぐつぐつと沈んでいく様を見限り、糸の道に脚を掛ける。
考えることは一つ。ここ数ヶ月考え続けていることはたった一つ。
お兄さん。
お兄さん。お兄さん。お兄さん。お兄さん。お兄さん。お兄さん。
どうすれば戻ってきてくれるだろう。どうやって取り戻してくれよう。どうして────そんな女のところに。
行ってしまった。奪われてしまった。
許さぬ。
奪い返さなければ。必ず、どうしたとて、何をしてでも。
「……お兄さん」
呼ばわるほど、近頃は悲しみが募った。
左手の薬指に結び付けた一本の糸。ただの蜘蛛糸に非ぬ
遠い。ひどく。こんなに想っても、貴方は遠い。
遠くへやられてしまった。横合いから、いやさ上から掻き攫われた。
「勇儀ぃ……」
地の底から響かせる。愛しきを奪った憎き者の名を。
万感の憎悪を込めて誓った。奪還を。