囁くような、轟くような、途切れなく続く音の川、音の瀑布。
草木を打ち、地を跳ねる。水の音。雨の調べ。
雨の匂い。嗅いだのはいつぶりだろう。いやに懐かしい。
旧都にも雪は降る。それが如何なる事象によるものなのか凡夫風情の己には知り得ようもないが、地中深くにある筈のあの街には冬の訪れと共に雪がちらつくという。
ならばここは地上であろうか。
雨の打楽。思いの外、それに飢えていたようだ。水の流れ、せせらぎ、
ふ、と目を開いた先、見慣れぬ木目の天井を仰いだ。己が平素寝起きする長屋のそれではない。
布団に寝かされていた。自ら床に入った覚えがないのだから、おそらく何方かがそう計らってくれたのだろう。
視線を泳がせると、丸い格子窓の雨戸が上げられていた。窓の向こうには、しとどに降り頻る雨の戟。
外はどうやら竹林であった。濃密な緑、噎せ返るような深緑の円風景をじっとりと雨が滲ませていた。
厚く暗く注ぎ垂れ込める帳。濡れそぼった世界に独り、己だけが渇いていくような気がした。瑞々しく色を深める世界に独り、無彩色の中に取り残されたかのような寂寞を覚えた。
孤独を、思い出した。それを一時とはいえ忘れていた自分に、愕然とした。
「…………ぁ」
不意に気が付く。
窓の傍らに人影が寄り添っていた。
竹編み細工の椅子に座り、窓の縁に頬杖をついて、ぼんやりと雨空を見上げるひと。青い着流しは陰雨を映し藍よりなお暗い。視線さえ打ち沈んでしまいそうな深い色をしていた。
星熊さん。
どうして今の今まで、それもよりによって彼女の存在に気付かなかったのか。遂にこの脳味噌めは呆けが極まったのだろうか。
金糸の艶やかな御髪に雨露の影が真実、濡れたように流れて落ちる。
額の一角の赤は、群青の怒涛の中に陰っていた。
寂の美しさ。いついかなる時も美しいひとだった。けれど今は、その精彩に変調が顕れている。どこか、その顔は物憂げに見える。どころか、その瞳は虚無を映すかのように深く、底知れない。
常の、烈日のような力に満ち溢れた星熊勇儀とは違う。
頼りなげで、儚く脆い。存在すら稀薄になってしまうほど。
彼女は────本当に星熊勇儀なのだろうか。
呆けは自問した。眼前の、歴然たる事実を疑った。
星熊勇儀のようにしか見えないのに、星熊勇儀ではないかのようなひと。
貴女は、何方ですか。
問いが喉笛までせり上がった。その時、窓辺の君が雨模様から視線を切り、こちらを見下ろす。
暗く深く虚のようだった瞳、その中心にふわりと灯が点る。熱が伝う。停滞した血が行き渡る。
「よう、目が覚めたかい」
瞬きを一つ。そうしてそこに座する人影は、星熊さんただ一人だけだった。彼女以外の何者もない。彼女は初めからそこにいた。
ずっと。
「……ずっと、そこにいてくださったのですか?」
「ん、まあね」
美姫は微笑して、曖昧に
その気遣いをしかし、押して。
「ありがとう、ございます」
仰臥しているのも忘れ、会釈を送ろうとした時、右腕が動かないことに思い至った。
見れば、添え木をされた腕は厚く包帯を巻かれ、床の傍らに立つ支柱に布で吊るされていた。
「莫迦、動くんじゃないよ。まあ動けやしないだろうが」
素早く椅子から立ち上がった星熊さんが、その手掌を己の胸板に添える。身動ぎを封ずる。無論、圧し潰すが如き真似はなさらなかった。おそらくは蟻を指の腹の下に押さえ付ける行為と同じか、あるいは下回る程の力加減で。同じ程の、注意深さで。
息を吐いて脱力する。彼女の言う通り、身体はろくろく自在にならない。皮膚の下を砂が満たしているようだった。ただただ重く、怠い。
「頭の方は軽い切り傷と瘤で済んだが、腕の方は折れた骨が肉を裂いて飛び出ちまってた。その上そっから毒が入り込んだらしくてな、傷口が腐るわ熱は出るわの大騒ぎさ」
「その、ような」
しかし言われれば、確かに。炎で炙られるかのような苦痛にひどく魘された記憶が、朧気ながら過る。
「お前さんをここ、ああ永遠亭ってんだが。この邸に担ぎ込んでから三日二晩、ん……今は明け六つってぇとこか。ならそろそろ丸三日だ。よく寝たな。その珍しい寝顔、随分拝ませてもらったよ。ふふ、ふふふ」
過る……こちらを見下ろす不安げな、焦燥に歪む、痛む顔が。
今は、穏やかに微笑を湛えてこちらを見下ろす安堵の顔が、重なる。
「あぁ、よかった……よかった……」
雨音に消え去るほど微かに、溜息を漏らすかの儚さで、彼女は呟いた。己に向けての言葉ではなかった。半ば独り言の風合いで。
ならばこれも、雨の所為なのだろうか。
彼女の瞳の深紅が揺れ、滲むのも。その肩身を子供のように震わせ、怯えを押し殺していることも。
「星熊、さ……」
「なんでだ」
笑みが消え、代わりにその美相を彩ったのは辛苦。酷い痛みを必死に堪えた顔容で、彼女は繰り返す。
「なんで、だよ」
「……」
返答は何一つ浮かばなかった。問いの意味をどうにか読み解こうとするのだが、思考を回す以前にその回路たる脳髄が一向に働かない。熱病の熱量が過ぎて脳漿を沸騰させ皮質までも
お世辞にも聡明とは言えなかった己は、遂に痴呆を罹患したのだと説明を受ければ容易に信じたろう。
それ程の不明。頭脳に霞がかかる。意識が理路を見失う。
「……痛み止めの所為だ」
「あぁ」
得心いった。だからこんなにも酩酊するのか。夢と現の狭間のように、幻想の中で惑うが如く。
それでもちらとも不安を覚えぬのは、ここに貴女がいてくださるから。
「すまん。すまない。今訊いたところで詮無いことさ。下らねぇ、愚にもつかねぇ話だよ……あぁ、下らねぇ……」
片手で両目を覆って彼女は胡座へと俯いた。
左手を床から這い出させる。そんな些細な挙動さえ満身の力を必要としたが、幸い彼女の左手はすぐ傍にあった。
触れる。彼女の手は冷えていた。指も甲も芯から冷えて、凍えて。
暖めねばならないと思った。筋違いの義務感が、己を急いた。
「っ!」
触れ合わせた手先から震えが伝う。視線は虚を衝かれた驚きを映し、次第に和らぎ笑みを形作った。握り返された掌の、迷い子のような必死さが労しかった。
喜び、綻ぶ彼女の面相、それが────崩れる。
今度こそは見違えまい。彼女はその目に涙の兆しを浮かべていた。
「こんなっ、こんなことだって出来る癖に……!」
強かに彼女の手が己のそれを握り締める。そのまま潰してしまいそうなほど、強く。事実、それは容易かろう。彼女にとり人体などというものは紙屑と同様の脆弱さしか持たぬ。
今の彼女は
忘れる、までに。
「なんでだ!? なんで……」
「は、ぃ」
手骨が五本、一挙に軋む。罅くらいは入ったかもしれない。
痛みは然程のものではなかった。痛み止めが覿面に効き過ぎているからか、あるいは。
別の痛みが、遠ざけている。骨肉よりも、臓腑よりも深きところにあるものが。
「────なんで死にたがる!?」
彼女は絶叫した。
対して、俺は息を呑んだ。呻き声一つ吐けない。それが全く、寸分の誤りもなく過たずこの胸奥に据わる魂胆を、核心を、醜く浅ましい……欲望を抉っているからだ。
「何故……」
「……聞いたんだよ。野次馬連中ひっ捕まえてあの日の出来事子細に全部洗いざらいな。おかしいと思ったぜ。あの毒のえげつなさにこんな浅傷じゃ見合わねぇ。それで探ってみりゃ案の定よ」
御白洲の沙汰めいて容赦なく、彼女は動かぬ証拠を突き付ける。言い訳も詭弁も黙秘さえ許さぬと、己の明白なる罪を列べ鳴らす。
罪……そう。これは紛うことなき罪だ。
「普請場であの一つ眼があんたを喰らおうとしたことも、その後、性懲りもなくあんたを尾けてったところを
低く、雷鳴のような声で鬼が唸る。室内の気温が上がっていた。その赫怒が、肩から背中から立ち昇り、燃える。
そしてやはりその覇気もまた雷光の速さで失せる。
彼女は短い気息と共にそれを吐き捨てた。
「……あの外道は死んだ。相応の末路だ。死んだ奴なんざ今更どうだっていい。死人に口なしさ。死んじまえばそれで仕舞いなんだ。なにもかも。でもあんたは……生きてるじゃないか。生きてここで、こうして」
こちらとあちら、握り合わせた左手を彼女は自身の頬に添えた。
「こんなに優しくしてくれるじゃないか。こんなに、暖かい……生きてるんだ。今も、生きてるんだよ」
「……」
握り、包み、手触りで手応えで頬の皮膚感覚で、温度で匂いで霊魂の気配で。その存在を確かめられている。己の実在を。我が身の生存を。
手の中で脈打つ俺の命の鼓動を彼女はひしと掻き抱いていた。逃すまいと、放すまいと。
「なのに」
怒りと悲しみにもはや堪えかねて、彼女もまたその霊魂から噴気する。
「
仄暗い笑みと虚しい笑声。それは侮蔑であり、切なげな諦めだった。善因に対する絶対の善果はなく、悪因に対する不断の悪果もまたない。
正道はややも踏み躙られる。邪道は往々にして安易であり安逸だった。
この世の理とは、
この気高いひとの悲哀を置き去りに。
「そうだ。でも、そうだってんなら……あんたみたいな奴が生きなくてどうするんだ! 外道が他の者を贄に生き永らえ善人は粛々死出の山道か? っざけんじゃねぇ」
苦悶にその美しい顔が歪んだ。この世の不条理を鬼神の姫御前は嘆き、悲しんでいた。
「そんなに自分が憎いのか。生きてるのが許せねぇくらい、憎いのかよ」
「憎い」
「っ……!」
逡巡の間なく己は頷く。
俺は俺の醜悪を疑わない。俺は俺の招いた悪徳を覚えている、断じて忘れまいぞ。
向日葵の見下ろす歩道に乗り上げひしゃげる車と焼けたアスファルトに散逸する父だったモノ。そして俺は組み敷いた運転手の男の頸骨を縊る。殺す。殺してやろうと思った。殺さねばならないと信じた。殺してしまいたいと切望した。
殺人未遂。復讐。報復。報仇雪恨の為の殺戮。俺の憎悪を晴らす為、あの日あの真夏日、突然に強奪された父の生命に対する贖いを。贖いを。贖いを!
許さない。許すまい。心臓に灯った怨嗟の火。その鎮めを求めて。贄を求めて。
つまりは私心。私欲だ。
俺は俺の憎悪一念を満たしたいが為に他者の命を戮殺しようとした。
なにより、なによりも、俺は父を、父の死を、殺人の正当化に、言い訳に使ったのだ。
父の死と、俺の犯罪行為。それにより病弱だった母は心身を傷めた。事故の日、霊安室で父との無言の再会を果たしてから、母の肉体と精神は衰弱の一途を辿った。
────ごめんね
母は、病床からずっと謝って、謝って、謝って、謝りながら逝ってしまった。逝かせてしまった。
俺の軽挙が、妄動が、あの日あの時初めて抱いた殺戮衝動が……罪が、母を殺した。
俺は、俺が憎い。
それはもはや揺るがし難い事実であり、歪曲し固着した信念だった。
異音。ぎしりと鳴り響いたのは、彼女の喰い縛られた奥歯の軋みだった。
認め難いものを見下ろして、星熊さんは眼を見開く。俺というもの。俺のこの、有り様を。
「あんたの過去に何があったかは知らねぇ。でも過去は過去だ。もうどうにもならねぇ。どうすることもできねぇ。そりゃ、儘ならねぇけどよ……だがな、
「……変わらない」
「! そう、そうだよ。もう変えられねぇ。そして変える必要もねぇ。だから」
「俺の罪は、変わらない」
「つ、罪なら、償えばいい」
「母を死なせました」
「────」
「父はもう居りません」
この世にはもういない。俺に相応しき罰を求刑し、糾弾する権利を有した人はそも、既に亡い。
俺の罪は俺の中にただ死蔵され、ひたすらに腐っていく。この魂と共に、甲斐も価値もなく終わる。
「死に場所ならば何処でもよかった」
「……」
「死ぬ理由を、いつも探していました」
「…………」
「父母に会いたいと、ずっと思っています」
しかし死後、彼岸の彼方に在るあの人達と俺はきっと再び出会うことはない。何故なら俺は地獄へ行くからだ。この、既に過去役目を終えた旧き都ではなく、正真正銘現行現役の地獄へ。
かの地に、人殺しを夢見た業人への相応しき呵責が待ち受けている。
それでいい。
父母に会えぬことはひどく悲しいが、それで正しい。それこそが正しい末路だった。
求めて止まなかった。正しさを。正しく在るということを。
間違いばかりの人生だった。生まれてすぐ、生みの親により養育はもとより、身柄と親権を放棄されたのだから。生まれたことがそも間違いだったのだ。少なくとも、俺と血を分けた誰かにとって俺の存在は過ちだった。
とはいえ自己の出生を嘆いたとて詮無いことだ。選べるものでもない。ただ、選ばれなかった、それだけのことなのだから。
過失というなら、その後。今この瞬間までの、俺の生き様。恥の多寡で推し量るにはあまりにも罪深い生涯こそ。
良い養親、良い教育、良い環境。与えられたそれら全て
父母亡き後、今も。
生きるという、人として、生物として当然の義務から虎視眈々と逃げる道を探して探して探して、探し求めている。
そのなんと、醜いことか。
「ち、違う…………あんたは、そんな……そんなこと」
今ここにこうして、現に己は存在する。彼女がそう認めてくれた。誰あろうこのひとに、星熊勇儀に認められたのだ。それなのに。
それでもなお、俺の性根は腐蝕を止めない。病み腐った魂は今以て死への逃避に腐心していた。
嫌悪が募る。憎悪が深まる。しかしそれすら慰みだ。己を嫌い憎むという行為がそれ以上の価値を持たない。変性しないからだ。何一つ。死にもせず、況してや生きさえしない、ただそこに留まるだけの人形の肉と骨。それが俺だ。
生ける屍。それが、俺だった。
「違うッ!!」
咆哮は鼓膜を強かに叩いた。裂帛の音声はけれど、まるで子供の啜り泣きのように切ない。
泣き崩れる寸前に押し止めた憤怒の面。鬼の貌を繕った彼女が己の上に乗り上がる。馬乗りになって己を睨み下す。
「う、嘘だ。
「……」
「ッッ……そ、それ、なら」
彼女の右手が己の首を包む。しなやかに指が絡み付き、絞め上げる。きっと、茶巾を絞るよりもずっと柔らかな手付きで。
なにせ首と胴が離別していない。あるいは力を込めるという意識すらない。
それでも無意識の、惰性の握力だけでも気道と頸動脈を閉塞させる程度は造作もなかろう。己の素っ首の強度などは、鬼の前では赤子の手のそれを下回る。
容易い。俺を殺すことなど、斯くも容易い。
「こうすりゃ、どうだ」
だのに彼女の顔は、全身全霊で苦悶していた。行き過ぎた筋骨の力み、額には青筋が浮かび、血走った眼は爛々と光る。彼女は耐え忍んでいた。その身の内より爆ぜ飛ぼうとする感情と、その
微かに、一瞬前よりほんの少しだけ、首が締まる。呼吸が十全の内の六割に縮減する。それだけで人体は悲鳴を上げた。脳髄ははっきりと死の肉薄を予感し、肺と心臓の総力で酸素の確保に励む。ただ、この魂だけが愚鈍だった。如何ともし難いほど。
「苦しいだろ!? 痛ぇだろ!? 恐ぇだろ!?
苦痛は怖ろしい。苦痛は常に鮮やかだ。色褪せることがない。慣れもしない。己の生物的本能も理性もそれには決して抗えない。疑いなく怖ろしいと思う。
死は怖ろしい。死を怖ろしくないなどと思ったことはない。あの橋占いの少女の予言する死、未だ見ぬ想像の死ですら心胆を震わせるほどに怖ろしいと思う。
「怖ろしいなら、言えよ……」
「は、ぁ、っ……」
「死にたくねぇ、って……生きてぇって、言えよ! 言えッ!!」
指が、首筋に沈む。頸骨の接ぎ目が軋む。死がまた半歩、にじり寄る。
そうして依然この男は鈍麻だ。首筋に掛かる死神の鎌、その刃先の冷えを肌身で感じながら、呆と見上げる。
彼女を見上げる。揺れ動く深紅の瞳から目を逸らすことができない。
「さ、さもねぇと……てめぇ、てめぇ、こ、こ、こ、殺す、ぞ」
瘧のように震える手先、唇。突発性の吃音症が彼女の舌を襲っていた。それを口にすることが、怖ろしくて堪らないのだろう。
鬼の姫、力の星熊、酒呑童子が四将の一、武威の化身のようなひとが、それに恐れ慄いている。
「喰い、殺すぞぉ!?」
殺意に。彼女は彼女自身の殺気にその一身で戦慄している。
矛盾。
為に、その武力の並みならぬは疑いもないが、脅しの言葉にも行為にも一向に真実味が乗らなかった。
躊躇が、迷いが、はっきりと透けて見える。なんとなればその殺意すら彼女は自ら否定している。その揺れ動く瞳で、震える手で、掠れる声で。
そうだ。虚実など、この方に許せるものか。このひとに嘘など吐ける筈がない。
力ある者として、正しく在り、真っ直ぐに生き、純一を貫く仁。謂わば
貴く思う。その在り方。憧憬が止まぬ。崇敬がひたすらに募る。己には無いものを持ち、己の対極のさらに頂に立つ彼女は眩かった。とても、美しかった。
今も、苦しげに己を見下ろすその顔、その姿すらも。
あぁそうか俺は、どうも────このひとが好きだった。滅多に滅法好きだった。憧れに並び立ち、あるいは超えてしまうほどに、星熊勇儀というひとが好きだったのだ。
己という奴はまったくもって愚昧で、心底の阿呆であった。今更に気付くとは。そんな不遜に、そんな当たり前に。
だから、傍に居たいと願った。身の程知らずな望みを抱いた。死を
「嘘、は、言えま、せん……」
「…………」
貴女にだけは決して。
それがどんなに矮小で取るに足らない、無価値な、無意義なものであっても。嘘は吐けない。真相は曲げられない。
このひとにだけは、断じて、偽りたくない。
徹頭徹尾の自己満足。これこそは紛うことなき我欲。いや、ただの我が儘だ。子供の駄々同然の。
自業には自得が付き纏う。
己の下らぬ拘泥に対する報い。
「く、か……がぁぁああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
救いようのない男のあまりの御し難さに、遂に鬼は憤怒した。
阿修羅の形相。剥かれた牙が茎根よりさらに迫り出す。人のそれに近しい形をしていたものが変化変態する。まさしく鮫の乱杭歯。獲物の肉を殺ぎ取る為に最適化し特化した、捕食者のそれ。
獣と化した女怪の
そのまま存分に食い込んだ牙が肉皮を抉る。一級の刀剣の如くそれはいとも容易く繊維を切り裂き貫く。もう一噛み、それで骨に達する。彼女の首が、口唇が僅かにでも身動ぎすれば、血管は断絶し頸椎は破砕される。
死が、もうこんなにも近しい。
晴れて、冥府の戸口に佇立した己を、深紅の目が睨め上げた。
どうだ。どうだ。どうだ、と。
声なく問うてくる。必死に詰問する。今も握り合わされたままの左手が、ひしと己に掴まる。
それを握り返して、その目を見詰め返して、俺は微笑んでいた。
「貴女にならいい」
殺されるなら。殺してもらえるなら。
その糧に、喰らってくれるという。なら。
「貴女がいい」
他の誰でもない星熊勇儀にこの命を捧げられる。
それに勝る喜びなどなかった。至上の。完璧な。最期。
「貴女が、いい……」
絶大の威力を秘めた牙の下、死の淵で、今際の際に在ってしかし、不思議なほど
俺の幸福はここにある。俺は遂に見付けてしまった。
────好きなひとに喰われて死ぬ。
そんなどうしようもない末路が俺の、たった一つの救いだったのだ。
「……………………」
深紅の瞳が己を見下ろす。揺らぎすら消え、微動だにせず、静止画のようにじっと、魂が抜け出てしまったかのようにずっと。
薬と失血が重なり、意識が遠ざかっていく。水底に沈んでいくような穏やかさで。これが死なのだろうか。こんなにも、優しいものが。
色が消え失せ、あらゆるものの輪郭線がぼやける。刻一刻形を解かれていく景色の中で、二つ。彼女の両瞳だけが燦然としていた。
そうして一筋、闇の向こうに流れて落ちる、光。
それが何なのか確かめるより先に、俺の視界は暗黒に没した。