楽園の巫女様が根暗男に病む話   作:足洗

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※イラストを挿入しました。

かけるたろう様本当に本当にありがとうございます。ありがとうございます。



注★

 気付けば傍に彼女はいた。

 洗濯物を干す己を、縁側から。

 土間で調理をする己を、框から。

 境内を掃き清めている己を、鳥居に背を預けて。

 じっと見ていた。片時も目を離さず。

 無垢な瞳をしていた。物心もまだつかぬ幼児のような。

 

「何か、ありましたか?」

「別に」

「部屋で寛がれては」

「ここでいい。それとも邪魔? なんなら手伝おっか?」

「滅相もありません。しかし、これは自分にお任せくださった仕事です。叶うなら自分の領分として受け持たせて欲しい、と」

「真面目」

「融通が利かぬ性質で、はい。恥ずかしく思います」

「皮肉で言ったんじゃないってば……私は、その……あんたのそういうとこ、結構……す……気に入ってんの!」

「は……それは、恐縮です」

「……」

 

 ほのぼのとした日常の一幕。そのように深くも考えず構えていた。

 

「どこに行くの」

 

 勝手口の扉から外へ出ようとしたところを呼び止められた。

 否、()()()()、彼女は問うた。なんの事はない遣り取りである筈が、その語気は罪人への詰問じみて鋭い。

 

「……焚き付けに使う、手頃な小枝を拾いに」

「一緒に行く」

 

 身に覚えのない罪状に弁解をするかの心地で己がそう答えるや、語尾に重なる勢いで彼女は言う。既にして草履を履いて。

 

「いえ、ほんのすぐのこと」

「一緒に行く」

「博麗さん……?」

「…………ダメなの?」

 

 責め問うようだった声音が一変する。まるで叱責に身を縮めて怖々と伺うように、少女は言った。

 なによりその表情(カオ)があまりにも悲しそうで、反問を無用と飲み下すには十分だった。

 

「いいえ、駄目などとそんな筈がない。それはありえない。一緒に行きましょう」

「うん……うん」

「草履で林を歩くのは難儀でしょう。革靴を出してきます」

「ご、ごめん……面倒かけて」

「何も面倒なことなどありません」

「……えへへ」

 

 そろりと秋めいてきた空模様。幸いに、山の散策には打ってつけの日和であった。

 彼女がそれを望むというなら否やなどない。

 しかし。

 

「博麗さん」

「ん、なに?」

「…………いえ」

「んふふ、変なの」

 

 山林に敷き詰まった落ち葉を踏み、その感触を楽しむ少女に、曖昧な笑みを送る。

 彼女は朗らに無邪気な笑みを湛える。

 それが、どうしてか不穏だった。平穏の象徴のような光景であるのに、何か、何処か、致命的な歪があり、かつそれを見落としている。

 少女は笑った。それは安堵の笑みだった。

 幼子が親の姿を見付けた時に浮かべる表情をしていた。幼子……そう、それこそ、小さな子供のように。

 

「待って」

「はい」

「行かないで、遠くに。私もすぐ行くから……近くにいて」

 

 後追い。

 一人歩きを覚えた幼児が、常に目の届く範囲に親の姿を留めておこうとする。そして一度、少しでも視界を離れれば雛鳥のように何処へでも付いて行こうする。

 今の、彼女のように。

 

「……」

「傍に、いてよ」

 

 不安感、あるいは慢性的な無力感の再起を覚えた。

 少女の安息の為に微力を尽くしていながら依然何一つ――――報いることができない。できていないという、そんな焦燥。

 変化と呼ぶには些細な、油断すれば気にも留まらぬ、砂時計を落ちるただの一粒の時間。

 それでも、やはり、幸福に違いはなく。蒙昧で鈍愚なる男は、ただただ目の前の幸せを有り難がった。阿呆のように、白痴よりなお憐れなほど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……書簡?」

「はい、人里の上白沢さんから」

 

 麗らかな日差しを障子戸から透かし見る。朝晴れの冷えた空気が清々しい。

 冴え冴えと薄明な食卓で、味噌汁が湯気を立てている。

 卵焼きはふっくらと仕上がり、フキの炒め煮も我ながら良い色が出ている。山女の塩焼きには酢橘を添え、さっぱりと。香の物は糠が良質であるからだろう、よく漬かっていた。

 手前味噌、もとい自画自賛甚だしい朝餉の膳。どれもこれもが彼女の好物。いつものすまし顔はそのままに、旺盛な動きを見せる箸に微笑んでいた。

 しかしてそれが、止まった。

 

「……お口に合いませんか?」

「へ? そ、そんなことない。いつも通りよ。いつも通りの味…………おいしいです」

「よかった」

「………………むぅ」

 

 懸念が外れたことに安堵の息を吐く。

 対して彼女は、異なる風合いで不満げな呻きを上げた。

 

「……内容は?」

「は」

「手紙の」

 

 つまり中身を今確認せよ、と少女は仰せであるらしかった。

 急ぎの用でないからこその書簡と、暢気に構えていた己をどうしてか彼女は急かす。

 封を切り、折り畳まれた紙片を開く。

 

「……近く、寺子屋で催しがあるそうです。教え子とその親御さんを交えて親睦会を開くと。ああ、どうやら参加のお誘いのようで……博麗さん?」

「……ふーん」

 

 ふと見ると、いつの間にか卓を回って少女が己の隣に陣取っていた。視線は文面に走り、かと思えば己の手から素早く書面を引っ手繰った。

 

「慧音とあんたと、そんなに親しかったっけ」

「幻想郷を訪れたばかりの頃は、人里で厄介になっていましたので。その折は、何かに付け気遣いをいただきました」

「……違う、かな」

「? は」

「文章は慧音……でも思惑を働かせたのは……別の、気配……人里で? 誰が? 誰誰誰誰誰誰誰……本じゃない、花でもない……抹香……近いけど違う…………炭の臭い。あぁ……」

 

 囁きは風鳴りのようで言語としての体裁は薄かった。なるほど聴き取ることは容易だが、理解するのは難しい。

 その瞳。黒々とした宝石のような。新月に似てそれは深く昏い。光を嫌う漆黒の、(ウロ)

 異様な、そう表するのが正しいのやもしれなかった。けれど、呆れたことに、まずなにより先に――己はそれを美しいと感じた。

 気付けば、耳に痛いほどの静謐が部屋を充満している。小鳥の囀りは、はていつから止んでいたのだろう。

 くしゃりと、紙片が少女の手の内で握り潰される。久方ぶりの音は思いの外に強く鼓膜を引っ掻いた。

 

「――――妹紅か」

 

 色のない声だった。好も悪も宿らぬ、無色透明に近しいそれ。

 温度というものを持たぬ音だった。怒りや憎しみの如き熱も、悲しみや辛苦のような冷気も帯びぬ、無機質なそれ。

 能面のような無感情の貌で、少女はおもむろに手紙を破った。千切り、千々に裂いて、紙屑へと変えた。

 

「なにを!?」

「妹紅とは親しいのね」

 

 己の戸惑いなど意に介さず、彼女は手紙を屑籠に放りながら言った。

 

「……良くして、いただきました。人里での生活に不慣れな己を、上白沢さんと共に気遣ってくださいました。頂戴した配慮には今も感謝しています。しかし……」

 

 不遜を承知で言えば、それはつまりその程度の間柄。特別な親しみなどない。上白沢さんは無論、藤原さんもまたその純粋な善意を己が如き男にも働かせてくれる人格者である。

 それだけの。

 

「嘘」

「嘘ではありません」

「ふーん……じゃあ、あんたは知らないのね」

「知らぬ、とは……」

 

 少女は即答せず、卓に頬杖を突いてこちらを流し見る。

 それはまるで、何かしら隠された本心が彼女にあるかの言い様。

 

「……博麗さんは、何かを御存知と仰るのですか」

「知らないけど、当てられるわ。どんな話をしたのか、とか」

「それは」

「両親のこと、訊かれたでしょ」

 

 まさしく虚を衝かれた。

 特別な交流はない、そう口にした舌の根も乾かぬ内に、そんな常にはない問答をした記憶が想起される。

 確かに、いつか、何時かの折柄。宴席であったかもしれない、ただ道々で擦れ違いにした世間話だったかもしれない。しかし確かに、彼女と話をした。家族の、話を。

 

「……藤原さんは、知己の方とは折に触れて家族の話をするそうです。専ら聞き役に徹されますが、家族に纏わることならどんなことでも感興を持って、真剣に聴き入ってくださる、と。人里でもよく知られたことです」

「聞き役、ね。根掘り葉掘り尋問みたいに話を訊き出すのが聞き役?」

「いえ……そのようなことは」

「聞かれたんでしょ。お父さんのこと」

「――――」

 

 今度こそ返す言葉を失う。辛うじて絞り出した反問が、気息と共に零れ出た。

 

「――何故」

「勘よ」

「か、勘、ですか」

 

 事も無げに少女は言い切った。会話の流れを思えばあまりに無体な返し。

 しかし、そう口にしてより、己は何一つ言い募ることが出来なかった。納得せざるを得ない。それほどの断言、疑う余地のない真理を、突き付けられた心地だった。

 博麗霊夢の“勘”は絶対なのだから。

 

「お父さんの、どんなことを訊かれたの」

「父のこと、というより、己の言葉遣いについて……」

「…………」

 

 無言は圧力すら伴って、強かにその先を促した。

 

「……何故、敬語なのかと問われ、父の真似事だと答えました」

「真似……?」

「父は昔から、こうした口調を使いました。誰にでも、老若男女を問わず。連なって父の人柄や、父母の思い出話を……ああ、確かに。殊の外に、藤原さんは喜んでくださいました」

 

 それがまさか彼女からの特別の懇意に繋がるなどとは到底思えぬ。

 あるいは、藤原妹紅という少女の生い立ちに、家族云々を求める何かしらの起因があるのやもしれぬ。だからとて気安くそれに触れることは躊躇われた。いや、禁じ得ることだ。己の如き凡夫には想像を絶する。

 彼女は紛れもない恩人。それに対する短慮は断じて戒めねばならぬ、と。

 そのような言い訳を、幾らも考えたろうか。

 

「――――私は、聞いてない」

「それは……」

「そんな話、私には教えてくれなかった。私が訊ねた時あんたは何も答えてくれなかった。理由も、思い出も」

 

 虚穴が己の目を覗き込む。少女の両瞳に、昏い深淵が開いていた。一片の光明も差さぬ無明の闇。黒曜石の如き眼球が。

 なにもかも吸い込まれてしまうような、浮遊感か、喪失感にも似た感覚が全身を襲う。

 それを――噛み潰して、少女の目を見た。丹田に気を練り上げ、今にもへたり込もうとする脆弱な心身に喝を入れる。

 口調も振る舞いも手前勝手な存念による投影……些末な、感傷に過ぎない。それを誰かに、誰あろうこの少女に、滔々と語って聞かせるという行為を厭うた故の端折だった。それを怠慢や無思慮と言われて弁解の余地などあろうか。

 ない。ないのだ。

 誠意を欠いた己に対し、少女は正当な怒りを発している。事実はそれ一つきり。

 

「申し訳ありません。あれは……」

「いいよ」

「は?」

「許したげる」

 

 無感情だった相貌に、ひどく優しげな色が戻った。灯のような暖かみが宿った。

 少女は柔く微笑む。とても愛らしかった。胸奥に激しく渦巻いた惑乱を一瞬にして忘れ去るほどに。

 

「……でも条件つき」

「条件とは」

「聞いてくれる?」

「自分に可能なことであれば、尽力を厭いません」

「そっか……やっぱり優しいね」

 

 見るからに喜びを滲ませて少女の顔が綻ぶ。

 そうして意を決して、というほどの気負いもなく彼女はするりと一言。

 

「どこへも行かないで」

「は……? しかし、それは」

 

 ここに置いてください――――。

 この地、彼女の家宅への滞在。それは誰あろうこの俺が、恥を忍んで彼女に願い出た儀である。

 

「もとより行き場の無い身の上。それは自分こそ、深くお願い申し上げねばならぬことです」

 

 なれば、それを少女の側に望まれるのではまったくの逆しま。

 

「うん、嬉しい。白状すると、そう言ってくれるの……期待してた」

「は……」

 

 少女は、謎めいたこと言って微笑を浮かべる。言葉それ自体の意味ではなく、意図が読み取れない。

 

「分かりにくかった?」

「……はい、恥ずかしながら、満足な理解が及ばず」

「いいよ。じゃあもっと簡単に」

 

 不出来な生徒に教えを呉れる教師、あるいは物分かりの悪い子供に優しい言葉で説き聞かせる母御めいて。

 慈悲の女神のような貌で少女は。

 

神社(ここ)から出ないで。もう二度と、一生涯、一歩も、永遠に」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは夢なのだろう。

 過去の記憶の焼き直し。恥多き我が生涯の恥の一部。

 ただの夢。甲斐の無い男の、詮無い自分語りだ。

 

 

 

 

 火葬が終わってすぐに納骨をした。

 四十九日に合わせてはどうか、という葬儀社の方からの勧めを断ったのは、なにより早く養父母を引き合わせたい。そんな己の我儘だった。

 霊園までの道中、母の遺骨を抱えた時、そのあまりの軽さに思わず箱の中身を確認した。当然、白い壷はしっかりと木箱の中に収まっていた。

 重い石の蓋を戻せば、それで納骨は終了する。感慨を抱くには呆気なく、さりとて平常を貫けるほど己は死生を達観できない。

 墓前に蝋燭を立て、線香を上げる。手を合わせてみても、やはり。

 ああ、やはり実感など湧いては来ない。しかし事実は厳然と目の前に横たわっている。

 

 俺はその日、孤独(ひとり)になった

 

 日が暮れていた。空は赤黒く、夜の闇と茜の残光が混ざり、雲の灰色が漂うことでさらに淀み、ひどく薄汚い。

 燻る炭のような景色であるのに、風は無遠慮に冷たかった。

 

「……はっ」

 

 喉奥から漏れたのは嗚咽ではなく、どうしてか乾いた笑声。俺は笑った。俺自身を嘲笑った。

 肩が落ち、膝が笑う。背骨を喪失したかのように全身を脱力感が襲った。

 今にも倒れ、倒れたが最後二度とは起き上がれない。そんな懸念を抱くほどに。

 自分が、殊更に心弱い人間だということを知っている。

 事故で父を喪った日、骨の髄から思い知ったのだ。

 白い布に隠された遺体の前に脆く泣き崩れる母の体を支えることすらせず、小さく震える背中をただ見詰めることしか出来なかった。

 おそろしかった。おそろしかった。父の死を理解するのが、母の極大の悲しみを理解するのが。

 それを理解してしまったら、きっと俺の心は死ぬ。死んでいた。

 そんな下らない恐怖に俺は支配され、悲しみに蓋をした。人としての正しい感情を受け止めず、処置を怠り、必死で無視を決め込んだ。

 家は子一人、長男は自分なのだからと、父の葬儀はほぼ一人で段取りを付けた。遺品の整理、相続、保険や証明書類等の死亡後手続きなど、率先して、むしろ奪うように整理した。母が仕事に出るのだからと家事一切を請け負い、家計の足しにと続けていたアルバイトの量も増やした。反面というか当然、学業が疎かになったので、通信制か高卒認定試験の受講も視野に入れて準備を始めた。

 母が、その深く重い悲しみを咀嚼する傍らで、俺はそこから目を反らし、感情を忙殺した。

 そして今。

 今も結局、それは変わらない。変われなかった。

 病がちだった母が、父の死後みるみる弱っていき、遂に床から動けなくなったのが丁度一月前。覚悟する、そんな暇もありはしなかった。

 ただ、ただ母は病床から、何度となくこんな俺に謝り続けるのだ。

 

 ――苦労させてごめんね

 ――丈夫なお母さんじゃなくて、ごめんね

 

 何度となく、何度となく。

 

 ――ごめんね

 

 最期まで。

 

「……」

 

 真に、謝罪の言葉を口にすべきだったのは誰だ。あんな言葉を母に口にさせたのは誰だ。

 現実を受け止める強さはなく、耐え忍ぶ(つよ)さもない俺は、雑事に(かま)けて傍らのただ一人の家族を放置した。

 その結果がこの有様。

 そしてまた、繰り返している。俺はまた、同じことを。

 歩く。霊園の裏手の山道から雑木林を抜け、叢を踏み、道とも呼べない道を歩く。歩く。歩く。

 革靴が泥濘に噛まれそうになる。構わず歩く。

 太い木の根が足を掴もうとする。それでも構わず、歩く。

 何も学ばなかった。自分の心との折り合いの仕方。母が必死で堪えたものから、俺は逃げた。今も逃げ続けている。

 喪った現実から。

 謝り続けながら死なせてしまった、この最悪の不孝から。

 歩く。歩き、去る。

 孤独という無味乾燥な事実から。

 

「……帰れない」

 

 子供の駄々同然に呟いた。

 

「……帰りたく、ない」

 

 もう誰も居ない、あの家へは。

 

 ――――誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か

 

 俺は呼び続けた。誰ともなく、その“誰か”を定めることもなく、居もしない誰かを呼んだ。呼び、乞い、求め、(こいねが)った。

 助けて欲しかったのか、慰めて欲しかったのか。そんな都合のいい夢想も、微かに抱いていたかもしれない。

 しかし、違う。少し違う。これはおそらくもっと酷い。もっと醜い。もっと卑しい願望……欲望だという予感があった。

 逃避と後悔。それが頭蓋の内側で渦を巻く。脳漿がそういう汚らしい液体に成り果てる、きっと、もうあとほんの僅かで――――その瞬間。

 

「……あ」

 

 俺は現世から弾き出されていた。

 霊園の裏手に広がる山の、植えられた人工林とは明らかに異なる景色。

 墨汁を塗り込めたかのような純正の闇。濃密な闇。闇。闇。

 噎せ返る緑の臭い。其処彼処から捻じれ伸びた無数の木々が空を覆っている。けれどそれでも枝の隙間から、夥しい数の瞬きと、目を焼くほどの月光が降り注いでくる。

 

 『幻想郷』

 

 幽世の近縁。

 現世の外側。

 ここがそう呼ばれる世界なのだと後に教えられた。

 

 ――――貴方のような人間にこそ、ここは相応しいのでしょうね

 

 不意に、誰かが囁いた。

 そうして暗闇の奥の、そのもっと奥に、酷薄な微笑みが見えた気がした。

 

 

 

 

 

 

 これはいつかの、買い出しに出掛けた帰路のこと。

 

「ちょっと付き合わない?」

「は」

 

 人里の目抜き通りを離れて暫し、雨の道すがら、蛇の目傘の下から彼女はこちらに振り向く。

 白銀の髪が、微かに雨露を纏って煌めいた。

 藤原さんの細い指が差し示すもの。暮れも近い夕立の中で、赤々と燈る提灯。昔ながらの二輪屋台であった。

 

「……では一杯だけ、御相伴を」

「決まり」

 

 博麗神社から人里への道程は、武力に乏しい脆弱な人間にとって危険極まりない。

 それでもなお安全地を出、他所へ往き来したいと願うならこのように、何方か、種々数多の危険を退けるだけの力を持った誰か、その助けを請う必要がある。

 短く浅いその縁を、恥を忍んで手繰り引き寄せ、そうして依頼を申し込んだ相手が彼女――藤原妹紅さんであった。

 

「串二本と熱燗一本。お猪口は二つね」

 

 少女は実に馴れた調子で小気味良く注文を出す。己はともかく、彼女は間違いなくこの屋台の常連を名乗れよう。

 捌いた八目鰻を串に刺し、たっぷりとタレに浸して炭火で炙る。シンプルに、そして強烈に食欲をそそる香ばしい脂と醤油ダレの甘味。

 絶品を約束されたような蒲焼きの出来上がりを待つ。

 先んじて、熱燗の徳利が温まっていた。

 湯を拭き取って差し出されるそれを直接受け取り、そのまま藤原さんへ注ぎ口を向ける。

 

「ん」

「ありがとうございます」

 

 お返しとばかりに少女から御酌を頂戴し、猪口を掲げた。無言の乾杯。

 

「……ほぅ」

「……」

 

 酒精の香気を快いと感じるようになったのはいつからか。味の良し悪しを偉そうに講釈できるほどの舌も、知識もありはしないが。

 ふわりと全身を包む浮遊感にも似た熱。ほんの僅か、身から心から重みが消える。

 思うに、それは杯を交わす相手あればこそ。いや、紛れもなくそうだ。酒ではなく、この時間そのものを快いと感じられるのは、隣に座る彼女その人が快い人であるからに疑いない。

 

「……ふふ」

「? なにか?」

「んー? や……美味しいなって」

 

 なによりのことだった。

 彼女にとっても、そう悪くはない時の流れ方をしているなら……いや、そうであることを願うばかりだ。

 さて、こうして彼女と細やかな酒席を囲むのは幾度目か。

 偶の買い出しの度に彼女を頼り、帰路には必ず赤提灯を潜るのだから。多くはないが、少なくもないのだろう。

 

「ねぇ」

「はい」

「また、何か話して聞かせてよ。前みたいに。そう……貴方の家族の話」

「はあ……格別、面白い話はできませんが」

「いいよ別に。可笑しな笑い話が聞きたいんじゃないもの。私が好きってだけ。ダメ?」

 

 少女の紅い流し目と、細雪めいて囁かれては、断るのは如何とも難しい。至難と言って差し支えない。

 なにより、これまでに散々と御足労を掛けてきたのだ。酒肴にしては素朴に過ぎる味わいだが、己の細やかな思い出話一つ二つを披露することに否やなどない。

 細やか、そう、それはどこまでも細やかな。

 どこにでもある家族の風景。

 

「父は、誠実な人でした。誰にでも、老若男女の区別なく他者に敬意を以て接するを旨とするような」

「くふふ、それはまあ、貴方を見てると分かるね。堅物だった?」

「滅相もない。とても柔和で、道理を重んじても決して心理を蔑ろにはしない、柔軟な人でした。自分などとは違って」

「……」

「あの人を目標に、誠実でいようと努めてきましたが、なかなか上手くは行きません。この口調もその一環でした。しかし……所詮は真似事ということなのでしょう。内側に誠心も何も、宿してはいないのだから」

 

 誰かに優しく在ろうと努めた。けれどそれは、純粋な利他精神に基づく行為ではなかった。

 ただの模倣であり、一種の強迫でもある。

 父のように在らねばならない、と。

 

「その存念は、父が亡くなってからより顕著でした。そうすれは幾分かでも、母の助けになれぬものかと」

「……」

「しかし、自身の瑕疵に囚われるばかりで、肝心なことは何一つ、果たせない。果たせぬまま結局、母も……独り善がりにもならなかった……」

「私は」

 

 独白を遮るようにして少女が呟く。ふと気付けば、酒杯は乾いて久しい。

 彼女は自分の猪口を空にすると、自分とこちらとに酒を注いだ。

 

「私は確かに助けられたよ。貴方の誠意ってやつでさ」

「そのようなことは……」

「そのようなことがあるの。特にほら、毎回のお小言が効いたわホント」

「それは、なんとも……差し出口を申しました」

「ぷっふふふ! ま、だらしない生活してた私が悪いんだけどサ。『このだらしなさはもはや頑是無いと表さざるを得ません』なーんて。くふっ、頑是無い! 頑是無いだって! そんな文句、百年遡ったって言われた(ためし)ないよ!」

 

 噴き出して少女は笑う。揶揄いの色も少し。

 ……いや、気を遣われたのだ。刻一刻空気を重くしていくこの男に対して。

 思えば何を滔々と。手前勝手な自嘲か自罰を、誰を捕まえて語り聞かせているのか。

 聞くに堪えぬとはまさにこのこと。

 

「……申し訳ありません。御耳汚しを」

「どうして? 汚すも何も強請(ねだ)ったのは私なのに」

「しかしこれではただの愚痴か……」

 

 不幸自慢。他人の憐れみを強請る卑しさ。

 虫唾が走る。自己嫌悪という名の冷たい汚泥が背筋に流れ込んでいた。

 

「……あまりにも酷い。お聞かせするには忍びない……あぁ、やはりまだ、飲酒に慣れていないようで。酔いが回って……」

 

 己の感じる以上に肉体は酩酊しているらしかった。呼気に篭る熱が不快だった。

 

「結構なことじゃない。貴方はもっと楽に生きた方がいいよ。そりゃあ、生き方は自由だろうけど……御父君と貴方は違う。そこに血の繋がりの有無なんてのは関わりない。父と子は、ううん親と子は、違うものなんだよ。どうしようもなくさ」

「…………痛感します。どうしようもなく」

「でしょ。私にも……覚えがあるよ。痛くて痛くて、痛みで死にたくなるくらい」

「……?」

「……でもそれは悪いこと? 過去は離れていくほど綺麗になってく。熱砂の陽炎だ。追い付けるものじゃない。追い付く必要なんてない。貴方は貴方のままで生きていけばいい。少なくとも……私はそのままの貴方が好ましいよ」

「勿体ないことです。お心遣い、ありがとうございます」

「……」

 

 心ばかりでなく、軽くなったのは己の口先も同じということか。

 このままではまたぞろ何をとち狂って口に出すか分かったものでは。

 

「……その為に飲ませてんのよ」

「は……?」

「雨足、弱まりそうにないね」

「……はい、そのようで」

「じゃあさ、酔ってんならさ……うちで雨宿りしてかない?」

 

 今更に雨音の強さに気付く。今の今まで忘失していたけたたましい地面の連打。

 熱の篭った瞳。熱の浮いた頬。酒精がそうさせるのか。それとも別の要因か。

 提灯の淡い光の中で、彼女はひどく艶やかだった。

 

「……ありがとうございます。ですが、その必要はありません」

「……日も暮れてきた。雨の夜道は危険だし、一晩明かしてからの方が安全だと思う。それでも?」

「はい、それでも」

 

 至極正しい忠告を、しかし拒む。事もあろうに、その危険な夜道を護衛させようとしている彼女に対して。

 身の程を弁えぬ物言いであった。

 けれど。

 

「己なぞの帰りを、待ってくださる方がいますから」

「……………………そっか」

 

 重い、重い沈黙の後に、藤原さんはそれだけ口にした。

 代金を支払い席を立つ。

 

「行こう」

「はい」

 

 先程と同様に少女が道の先を歩く。己はそれに付いていく。

 先程と違うのは、傘越しに見る彼女の背中が、何故だか無性に寂しげで、雨までもが重みを増したこと。

 滲む帰路を行く…………その最中。

 不意に、頭上を仰いでいた。それは予感であったかもしれない。ただ何かの気配を覚えたのやもしれない。あるいは己のあまりの無思慮に仰天して。

 あるいは――――その視線が針となって、この身を刺し貫いたから。

 天高く真っ直ぐに伸びた大杉の、その頂に。

 佇む紅い姿を見た。

 鮮やかな紅、そして夜闇を退ける純白。華やかな巫女装束。

 そうして、彼女が見ていた。

 じっと、夜空より深い黒曜の瞳が片時とて離れず、こちらを見ていた。

 

「――――」

 

 これは夢だ。今度こそは明晰に自覚する。

 あたかも記憶の再現であるかのように流れゆく映像は、しかし現実に起きた出来事とはやや異なっている。

 雨の帰路、屋台の赤提灯、夕立と蛇の目、父のこと、母のこと、藤原さんとの酒宴、彼女の……寂しげな小さな背中。確かにそれらは紛れもない己の実体験であった。しかしてそれらは一連のストーリーではない。それぞれが個別に起こり、また時系列すら前後している。

 夢は記憶を無作為に抽出し貼り合わせた謂わば切り絵である。意味などない。少なくとも、異能持たぬ我が身が見る夢には、何の示唆も予兆もありはしない……筈である。

 兆しなど、なかった。

 この日この時、博麗霊夢がこの場に居合わせたなどという事実はない。夢特有の、記憶の混淆が起こしたこれは妄想の光景である。

 だから、その瞳の色にも意味はない。

 瞳に宿った――――憎悪の漆黒。

 

 おのれ、おのれおのれおのれ

 ゆるさないゆるすものか

 わたさないわたさないわたさないわたさないわたさないわたさない

 

 針のように、剣のように鋭く研がれた視線は、しかしどうやら己を射貫きながらもこの肉体を素通りしていた。ゆるさぬと静かな絶叫を刻む情念が真に襲うのは、彼女の燃え盛る憎しみに晒されているのは……あろうことか藤原さんだった。

 何故。疑問が脳内を駆け巡る。彼女らは、己がこの地を訪れるより以前から交流があったという。馴染みの旧さで言えば己など比べるべくもない。それなのに、何故。

 何故。

 俺は繰り返す。鈍愚らしい不敏さで何一つ気付けぬまま。

 分かり切っていたことだ。俺にそんな性能は無いのだと。備わっていないのではなく、育むことを怠ったのだ。感じ、考え、受け入れ、我が心身の一部と為す。

 心の育成とは外部からの干渉と内部からの反応、即ちその繰り返しに他なるまい。優しく暖かな触れ合いばかりでなく、痛みを伴う傷すら、その糧。

 俺は逃げた。

 人として当たり前の行為から。

 怖れから、悲しみから、寂しさから。全て受け止めず、知らぬふりをして、目を背けて。

 嫌だ嫌だと泣き喚いている。声も出さず身を縮め、心を石に変えて。

 孤独という一事実を、自身の傍に置き捨てたまま。

 故に、これはその()()なのだろう。

 

 美しい人だった。幾度目かも忘れてその思いは耽り、底を知らず深まるばかり。

 博麗霊夢という少女の在り方に、どうしようとてもなく心惹かれる。

 純粋な憧れ……そこからは遥かに程遠い、醜い感情を以て。

 俺は、彼女に。

 彼女に――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 板張りの、見知った天井を仰いでいる。

 つい昨日も梁に積もった埃を払塵(はたき)で落としたのだ。天井の細かな染みにすら見覚えがある。

 博麗神社には社とは別に住居の建屋が併設されている。当然と言えば当然だが。ここはそんな家宅の客間、それも今現在は己に宛がわれている一室であった。

 布団に寝かされていたようだ。

 

「……」

 

 掛け布団を退けて身を起こす。

 寝覚めは良好。微睡の名残すらない。意識は至極はっきりとしていた。

 裏腹に、判然としないのは記憶。経緯。

 己はいつ寝床に入ったのだ。障子越しに見える外光の明るさから今が睡眠を取る時刻としては甚だ非常識であることを窺える。

 覚えているのは。

 

「!」

 

 跳ね起き、居間へと向かう。

 いつの間にか、身に帯びていたのは浴衣であった。

 彼女が着替えさせてくれたのだろうか。

 彼女が……。

 記憶には、彼女の笑み。そして、己の額に触れる白魚のような細い彼女の指。

 その冷えた感触を最後に我が意識は暗転している。

 

「何故……」

 

 また繰り返す。無知な阿呆同然に。

 真実そうだ。己は無恥なる愚物に他ならない。

 縁側を巡り、居間に辿り着く。障子戸を開け放った先に、しかし少女の姿はない。

 次は神社の境内を目指す。別段、何か閃くものがあった訳ではないが。

 果たして、彼女はそこに居た。

 大棟の拝殿と朱の鳥居が見下ろす白い石畳の境内、その只中で。

 

「……」

 

 紅白の鮮やかな巫女姿が秋晴れの下で踊っている。

 舞っているのだ。現実に。その軽やかさを表した比喩表現などではなく。

 一歩、また一歩。足を踏み変え、くるりと転身し、また一歩を踏む。手にした白木の大幣で地を払い、天を払う。

 それは文化芸能的な舞踊ではなかった。

 神楽。神への奉納品(ささげもの)。あるいは神威の体現儀式。

 神道はおろか、あらゆる修道に造詣を持たぬ己には、その舞が顕すものなど理解できなかった。

 ただ感じ入るものはある。蒙昧な男は、ただただ舞の美しさに、荘厳なる有様に慄く。

 また、大幣が天地を払う。これで五度五ヶ所。そうして、少女はふわりと風のように浮き上がり移動した。彼女が飛翔能力を有していることは周知の事実。

 ふと、それを見て取る。まったく偶然の気付きであったが。

 少女が佇む位置。それは丁度、大幣が触れた五ヶ所の、中心に相当していた。

 

「はっ……!」

 

 一喝が大気を叩く。

 少女は白木の柄で石畳を打った。

 その瞬間。

 

「!?」

 

 境内に、突如として光が湧き上がる。赤い閃光。火よりもなお紅い光が線として地を奔る。

 それが形作ったのは星。巨大な紅の五芒星。

 巨大と、内心に驚愕した矢先、その光はさらに拡大し、肥大した。境内を越え、社を過ぎ去り、本殿と住居の建屋すら置き捨てて、光は容易く己の視界の遥か外へ行ってしまった。

 だが消え去った訳ではない。淡い紅の残光が今もって周囲を照らしている。

 五芒星は博麗神社はおろか、この神社が居を構える山を覆ったのだ。

 拡大を極めてなおその光は弱まるどころかさらに強まり、山を焼き尽くさんばかりに烈しさを増していく。

 これはなんだ。

 これはなんだ。

 これはなんなのだ。

 これは始まりなのか? それとも、何かが終わろうしているのか。

 光の中に全てが没する。山も神社も己の身体も。

 博麗さんは。

 かの少女はどこだ。

 湖に沈んだ羽虫めいて為す術なく、藻掻くようにして手を伸ばす。

 守るのだ。この身を潰してでも。命に代えても。あの子だけは。絶対に。

 惑乱の中で見当違いな使命感が暴走する。

 伸ばした手は届かない。少女はどこまでも遠い。鈍愚に掴めるものはない。

 ない。

 なにもかも、消えて失せ。

 

「つかまえた」

 

 その手を取られる。光の中から、光より眩い笑みが己を照らす。

 気付けば博麗霊夢はそこに、我が目前に在った。美しい顔に美しい微笑を湛えて。

 

「もう、大丈夫」

 

 それは救いの御手のようでもあった。

 

「もうどこへも行かせない」

 

 それは喰らい付いた龍の(あぎと)のように、あらゆる終焉(おわり)を想起させた。

 

「ずっと……ずっと一緒だよ」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 そしてそれは――――ただの、泣きじゃくる迷い子だった。

 光が徐々に弱まり、霞のように五芒星は消失する。

 残されたのは俺と彼女。二人だけだった。

 二人、だけに。

 

 

 

 

 

 

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