楽園の巫女様が根暗男に病む話   作:足洗

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明けましておめでとうございます。
星熊勇儀√これにて完結です。


嘘・黄金の髪(了)

 赤黒く燻る炭のような夕空を仰いだ。

 いっそ懐かしくさえ感じる。この寒々しさ。あの折は初春、あるいは晩冬の残り香のような冷気の中を歩いたのだったか。母の遺骨を抱えて、麓の霊園を訪れた日。

 この……虚しさ。

 気付けば一人、逢魔ヶ時の山中に立っている。枯れ木も沈黙する静謐の世界。傾いだ木々と敷き詰められた落葉が音と光と生き物の気配を枝葉に孕んだ薄闇の中へと吸収している。己自身の呼吸だけがいやに煩い。己こそが場違い者なのだと周り中の全てが無言にて訴えている。

 あの日、納骨を終えて、帰り路ではなく山に分け入った山道のさらに奥。ここはそう、俺が現世から逃げ去った場所であった。

 そうして今、俺は再び舞い戻って来たのだ。逃避し続けてきた現実。現人(うつしおみ)の御世へ。今更、のこのこと恥知らずにも。

 

「……何処へ、行こうか」

 

 口にしたとて浮かぶものはない。ただ途方に暮れて零れ出た空言だった。

 仕様もなく、ほとほと手慰みの心持ちで抱えていた風呂敷を開いた。

 風呂敷包みには、己が旧都を訪れた時に身に付けていた物が仕舞われていた。財布、携帯電話、喪服と革靴。幻想郷(あちら)では無用の品々だが、人界(こちら)においては必要不可欠なものだ。とうの昔にバッテリー切れを起こした携帯はともかく、保険証等が詰まった財布が無ければ己はただこのまま路頭に迷うだけだったろう。

 星熊さんの計らいには、幾重にも感謝しなければならない。その術がもはやこの手にはないことを承知で。

 それでも想う。あのひとを想う。想わずには、おれぬ。

 

「……」

 

 左手で首に触れる。その表層を抉る咬傷に。あのひとが残したせめてもの────(よすが)に。

 甦る記憶は痛みだった。

 我が身ではなく、彼女の。彼女が被った痛み。悲しいまでに純粋な彼女の嘆きが、悲壮が、この胸を圧し潰して止まない。

 星熊さんは、俺をして優しいと言ってくれた。何を馬鹿な。真の優しさを備えているのは貴女だ。貴女なのだ。貴女こそが。

 俺如きに心を痛めて、涙すら零して、この上まだ慈悲を与えようとするのか。

 

「っ……」

 

 握り込んだ指が包帯の上から首筋を圧する。指先が濡れる。出血の兆し。傷口が捩れ、肉が捲れる。

 その痛みの、なんと矮小なことか。なんて無価値なのだろう。

 自慰と同義の自傷を止め、左手を引き戻す。引き戻そうとしたその時、違和を覚える。

 指の先、爪の際、渇き割れ裂け、ささくれ立った皮膚に引っ掛かり絡むものがあった。

 絡み付いたそれはするすると包帯の隙間から抜け出てくる。眼前に晒した手に綺羅、一筋煌めく。

 

「ぁ」

 

 暮れの闇間でさえ眩く光る黄金。金糸の髪の毛。

 包帯から抜け去った髪はそれは長く、その毛先は掲げた手から優に己の腰元まで届いた。

 そんな暁のような輝きに、ふと見れば薄く赤茶けた汚れがあった。乾いて固化した血の紅。己の血、そしておそらくは彼女の血。その交ざりもの。

 傷口の肉皮に紛れ、気付かれぬまま包帯の下に隠れていたのだろう。

 鬼の姫御の髪であった。あのひとの、あの美しい髪。

 

「……く」

 

 握り締めたそれを額に押し付ける。込み上げるものを圧し殺す。

 悔悟、悲憤、呻吟、煩悶、痛惜と、なによりの未練。

 それらは溶銅のように胸奥から流れ出、全身を焼く。血も肉も骨も焦げ付いて、後には空虚ばかりが残留する。

 妄想である。

 そんなことにはならない。都合の良い未来など起こらない。これもまた愚昧な、浅慮な自己憐憫なのだ。

 

 ────(おまえ)はここにいる

 

 手の中で燦然と黄金の輝きがそう告げる。決して甘やかなものではなかった。あの言葉は容赦のない現実を手加減なくこの身に知らしめた。

 逃げるな、生きよ、と。

 厳なる叱責であり……切な願い。

 あのひとの願い。心からの、涙ながらの懇願だった。

 それをどうして蔑ろになどできよう。無為になど、させたくない。させはしない。

 俺は俺に能う全てで星熊さんに応えたい。

 行く当ても覚束ないこんな俺が、ただ一つ明確に、すべきことを知った。心からの(のぞ)みができた。

 黄金の髪をそっと懐紙に包み、畳む。大事に大事に、この証を懐に仕舞う。

 この証があれば俺はもう大丈夫だ。希みを忘れずにいられる。辛くとも、苦しくとも、生きていける。

 生きるということを、諦めずに済む。

 星熊勇儀に願われた。その事実だけで十分だったのだ。俺には十分過ぎたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 霊園の西側、整然と並ぶ墓石の最後列、山際に葉の落ち切った桜木を仰ぐ。

 父母の墓はそこにあった。

 一年近く手入れもせず放置した当然の始末だが、雑草は伸び放題、枯れ葉、塵埃は積もり放題。薄汚れた墓石に手を触れ、呆れに頭を垂れる。墓守の役を怠った己の不明以外の何物でもない。

 霊園に備え付けの竹箒を借り、堆積した屑を払う。雑草を抜き、枯れ葉と共に掃き清め、水桶で墓石と踏み石を流す。

 雑巾などないので、それは喪服のシャツで用立てた。拭い磨くと途端に蓄積した雨風の汚れが白いシャツを黒くした。

 片腕の不自由も手伝い、粗方の清掃が終わる頃には完全に日は没していた。暗く澄んだ闇が霊園を覆っている。ここからは遠く入口の門扉に屹立した外灯の明かりだけが薄ぼんやりと夜闇に漂って見えた。

 しかし闇の濃さの所為だろう。半月が煌々と明るい。格別夜目の利く性質でもない身にこの青白い月光照明は有り難かった。

 お蔭できちんと向き合える。父母の眠る、この廟に。

 吊った右腕は僅かに持ち上げるだけで鋭痛を発した。粉砕した骨を接ぐ為に、現在この上腕には固定具が埋められているそうだ。

 喉奥に呻き声を呑み、時間をかけながらようやくに、両手を合わせる。

 

「不孝な息子でごめんなさい」

 

 与えてくれた愛情に、何一つ報いることはできなかった。迷い、惑うばかりで。

 育ててくれた恩を、ずっと蔑ろにしてきた。今ここに、こうして生きて、ここに在る命を、軽んじていた。それが父母のこれまでの尽力を嘲弄する行為であると気付きもせず、恥を知らず、親の心を知らず。

 あのひとが気付かせてくれた。

 

「とても、素敵なひとに出会えたんです。真っ直ぐで、純粋で、綺麗なひとです。叱られてしまいました。心から……だから俺、頑張ろうと思います。ちゃんと生きて、生きた人間になれるように、頑張りますから」

 

 どうか、見守っていてください。

 彼岸の彼方に逝ってしまった父母へそっと祈りを捧げた。心が痛む。心から悼む。

 その時、ふと胸に落ちる。

 

 あぁ……

 

 やっと、実感できた。理解、できたような気がする。

 父も母ももういない。もう決して還らないのだと。それだけのことを。ただそれだけを納得するのに、随分時間がかかってしまった。

 月明かりを仰いだ。眩い蒼銀は目に染みる。思わず涙が出てしまうほどに。

 声もなく、さめざめと、涙が流れてしまうほどに。

 

 

 

 

 

 

 夜が深まるにつれ山道の闇もまた濃厚に、濃密に満ちていく。暗中の下山はどう考えても無謀であった。

 山向こうの市街地へ辿り着く為には峠道を歩くより他ない。さりとて夜通しの強行軍でも到着は翌日の昼過ぎが精々だろう。ならば夜を明かし、始発の路線バスに乗り合わせる方が合理的だ。

 幸い、霊園には倉庫があった。先刻使用した掃除用具や水桶も普段はここに仕舞われている。

 木造、瓦葺、土壁と古色蒼然な佇まいの小屋である。霊園までの道中にも小規模だが田畑が耕されていた筈だ。おそらく元は百姓家だったのだろう。

 幻想郷にあってはむしろ馴染み深い。親しみすら覚えて、引き戸を開く。

 黴と土の匂いを浴びて奥へ。壁にも天井にも所々に穴が空いていた。為にというかお蔭というか、そこから月光が注ぎ、納屋の中は思いの外に明るかった。

 掃除用具、鍬や鋤、鎌を跨ぎ越え、顔にかかる蜘蛛の巣を払う。

 お(あつら)えなこと、奥は小上がりの畳敷きであった。中央の不自然な四角い板張りは囲炉裏を塞いだものだろう。

 風呂敷を置き、座敷に腰を下ろす。腕に絡んだ蜘蛛の巣を取りながら、湧き出るような疲労感に肩身はずしりと重みを増した。

 弱音など吐いている暇はない。母の生前、住居としていたアパートは長期に亘る留守となにより賃料の滞納で既に引き払われていよう。差し当たって住処を定め身の証を立てなければ働くことも出来ない。銀行口座の消滅時効は最短五年であったか。とはいえ口座が生きていることをまず確かめねばならない。いや、手始めに、己が失踪していたこの一年弱の間、怠ってきた私的・公的手続きを洗い出すべきだろう。

 やらねばならないことは山積みだ。一つ一つ虱を潰すように消化し、そうしたなら次は生活費の工面を考えなければ。未成年者が身一つで生きる為には、人間社会には通過しなければならない(しがらみ)が数多い。法や倫理と呼ばれる天網は集団を救うが一個人を然程に顧慮しない。

 全ては自己責任。独立独歩とはその繰り返しだ。天涯孤独ならばそれは尚のこと。

 

「……ふ」

 

 孤独を言い訳に逃げ続けてきた現実が一挙に襲い掛かってくる。全く以て、自業自得だ。笑うより他ない。指に纏わりついた蜘蛛の糸を弄ぶ。

 先行きの暗闇の深さに、心胆は軋む。不安が黒雲のように眼前を覆う。孤独(ひとり)で生きる。生きねばならない事実が、重い。

 辛いと泣き言を零しそうになる。苦しいからと心を閉ざしてしまいそうになる。

 けれど同時に、俺は安堵を覚えてもいた。

 何故ならこの辛さ苦しさを実感する限りにおいて、俺は生きているからだ。痛むなら、俺は生きている。生きて、この命に向き合っている。この痛みこそがその何よりの証明だから。

 あの方が知らしめてくれた覚悟だから。

 いつか……いつか、胸を張って、会いに行ける日を夢見ている。会いたいと希わずにおれない。

 会いたい、と。貴女を想うことを許して欲しい。

 目を閉じた。瞼の裏に艱難の明日と、想いびとを映して。

 目を開き、一吹き溜息を落として、草履を脱ごうとした。左手を伸ばす。

 伸ばした手が触れる。微かに粘り、擽る。蜘蛛の巣だった。

 

「え……」

 

 左腕を眼前に翳す。宙を泳ぐ白、白眉の束。月光に青白み、光る。

 蜘蛛の糸。大量の。腕を覆っている。分厚く。まるで一枚の布のように。

 これはなんだ。

 これは。

 

「やっと」

「!」

 

 絹を撫でるような声だった。高く柔らかく嫋やかな調べ。少女の稚気(あどけな)さを含む声音。

 誰かが。何処かから。

 己が声の主を探すより早く、彼女は目の前に、頭上より降ってきた。

 白い(かんばせ)、赤い唇、ライトブランの瞳が暗中に輝く。天地逆様に美相は笑んだ。少女は歓び綻んだ。

 

「会えたね」

 

 女が笑う。妖の一字に倣う。

 両手を広げて彼女は己を包んだ。人がましい両の腕と、爆ぜるように解放された人ならぬ六脚、それは蜘蛛の節足。

 彼女は遂に(きた)る。女妖は断じて獲物を諦めてなどいなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ただの獲物であればここまで執着しなかった。

 憐れな人間、そんなものは巣の外にも、地獄の底にも、幻想郷の内にも外にもゴマンといる。

 どうして追い掛けた。どうして、この人を追い求めた。

 この人は自らに対する憎しみで進退を窮め、行くも戻るも死ぬことすらも出来なくなっていた。巣に絡め捕られ雁字搦めになった憐れな羽虫と同様に。

 興味が湧いた。最初はその程度の細やかさだった。

 獲物を逃した口惜しさも、勿論あったけれど、それ以上に。

 死にこそ惹かれ、死に依って立つ癖に、理性と義務感で必死に生にしがみ付く様が、不可思議だった。理解不能だった。

 妖怪の有り様とはあまりに違う。人が持つ、理解及ばぬモノに対する根源的恐怖、死滅(ほろび)に対する純然の恐怖を、魂を糧に存在する自分には彼の魂は殊更異彩を放って見えた。

 聖人や覚者のように死生達観の境地に至っているか、といえばそんなことまるでない。

 彼は徹頭徹尾人間で、死を怖れ、痛みを怖れ、尋常ならざる怪異を怖れた。

 しかし同時に、彼は死を求めていた。死に安息を見ていた。死の果てにある虚無を心底から渇望していた。

 そして死を夢見る己自身を憎悪していた。

 生と死に揺れる魂。一時とて鎮まらぬ異彩、昏く眩く極彩色に移ろうその深層。

 知りたいと思った。

 その魂の在り様の原点がどこにあるのか。どうして貴方は絶望しながらそれでも自罰を止めないのか。終わってしまえば楽になるのに、それを選べない愚かな人。可哀想な人。可愛い人。

 貴方のことが知りたい。

 

「この“糸”はね、貴方の心の臓に繋がってるの」

 

 青白い光の差し込む古びた納屋、大黒柱と天井の梁に幾重にも幾束にも巻き付けた糸の中枢、吊り上げた彼の胸板に触れた。

 その中心、胸骨の合間から伸びた細い細い“糸”が、月明りに照らされて光る。

 私とこの人を結ぶ、(きよ)らかな糸が。

 

「ふふ、糸電話みたいなものだよ。心の声が伝わってくるのサ。魂の想いが響いてくるの。ずっと、いつも、毎日毎日キミの声を聞いてた。静かで優しくて、悲しくて切ない声……全部聞こえたよ! キミが現世でなにをしたのか。キミの両親がどんな人達だったか。キミがどうして、()()なったのか」

 

 気付けば憐憫は愛しさに変わっていた。

 どうしようもなく不器用で、優しいこの人の生き様が、妖怪(バケモノ)の私にはどうやら心底堪らなかった。

 生の葛藤、死への切望、それらが並列し均衡した彼の魂にどうしようもなく惹かれる。

 だから。

 

「私が救ってあげる。もう苦しまなくていいんだよ。私がキミを────生きたまま殺してあげるから!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 晴れやかな笑顔で黒谷ヤマメは言った。

 俺は返す言葉を失くす。彼女の宣言の剣呑さに、ではなく。その笑顔に。

 少女の表情(かお)には優しさがあった。憐れみがあった。そして心からの……愛情があった。

 彼女は一切の害意なく、徹頭徹尾の愛で己を救済する気でいる。

 愚鈍の極みのような己の目にさえ、彼女の瞳に曇りはなく、その情の浄らかなるを認めていた。微塵の疑いも湧かない。

 黒谷ヤマメは真心で、純心だった。

 彼女は俺の心の声を聞いたという。今、この胸倉から伸びる一本の糸。それがただの蜘蛛糸などではなく彼女自身の妖怪としての異能による手妻ならば、その言に偽りはないのだろう。

 彼女は確かに聞いたのだ。己の想念、汚らわしい妄念を。

 

「んっ」

「ッ!?」

 

 事も無げに、いや事も有ろうに、少女は不意に己に口付けた。

 咄嗟のこと。身体は硬直した。そもそも糸束によって雁字搦めになっている現状、逃げるも避けるも叶うまいが。

 少女は己の唇を啄ばんだ。時には舌先で舐め、裏側にまで侵入を図って。

 数分の後、少女の顔が離れる。青い月光の中、その白い頬は淡く朱に染まっていた。

 

「汚らわしくなんかない」

「!」

「キミの想いは優しくて、とっても穏やかで、綺麗だよ」

「……」

 

 ひしと、彼女の腕が己に縋る。胸に耳を寄せて、その奥に埋まるものの鼓動を聞かれている。

 

「自分を責めないで。自分を憎まないで。許してあげておくれよ。楽に、なってよ。もし、自分じゃできないんなら、私ができるようにしてあげる。私の能力なら、キミの苦痛を終わらせてあげられる。生きることも死ぬことも許せないなら、どっちも選ばなくていい。ただ、一緒に……私と一緒に、微睡んでて欲しいんだ。そう、そうだよ、私の作った糸繭の中で、ずっと、ずぅっと。それだけでいい。それだけを、ずっと夢見てた。キミと永遠に、私の糸に包まれて、私の腕の中で」

 

 縋る手は震え、怖々とした声は強かに胸を締め付けた。

 それはいつかの続き。紛うことなき彼女の慈悲。

 地獄へ続く洞穴の、暗黒の中で初めて出会った蜘蛛の化生の少女。

 その優しさを疑わない。安らぎを、救いの手を差し伸べてくれている。あの時と同じように。あの時からずっと、想い続けてくれたのだ。

 この愚かな男の懊悩を、心から憐れんで、慈しんでくれようとしている。

 感謝以外の何を思える。

 少女が顔を上げた。花咲くような笑顔が浮かぶ。

 

「ありがとうございます、黒谷さん」

「あはっ、なら……」

「ですが自分は応えられません」

 

 笑顔が、凍る。

 美しい少女の笑顔が、美しい彫像と化して、ただ内包するものだけが変転し混淆する。

 彼女は反問しなかった。何故、とは頑として口にしなかった。

 当然だ。彼女と己は今もなお異能の糸で繋がっている。

 彼女は聞いているのだ。己の声を。声なき想い。

 この胸に抱く、かのひとを。

 

「勇儀」

 

 少女は呟いた。想い人の名を。

 

「勇儀、勇儀ッ、勇儀ぃぃいイイイイ……!!」

 

 呼ばわるほどに、己は想う。想いは留まらない。湧き出る泉の如くに、俺は星熊勇儀への想いを止められない。

 残酷なほど。

 少女は聞くのだろう。こんな己を、愛を以て慈しんでくれる少女に、己は聞かせるのだろう。

 俺には好いたひとがおります。心の底から惚れ抜いたひとがおります。ゆえ。

 貴女の想いには、応えられません。

 

「知ってたサ。わかってた。ク、フフ、フフフフフフフ……でも、諦めるなんてできなかった」

 

 泣き笑いの顔で少女は己を見下ろした。

 慈愛の貌が歪む。それは初め瞳から顕れ、奥底から湧き出、顔面の半分を染めていった。憎悪が。

 

「あの女、あの女、あの女、あの女がぁ! 浚っていきやがった!! 私がッ、私が最初に見付けた! 最初に出会ったのは、私なのにぃッ!!」

 

 肥大する。サロペットスカートの下から這い出し、露わとなったのは丸々とした蜘蛛の腹。美しい少女の半身に、黒く光沢を放つ異形の下半身。

 まさしくそれは妖怪の、土蜘蛛の変化であった。

 

「ハハハハハハハハハハッ! でも間違えた! あの女は選択を誤った。馬鹿な女。現世に逃がせば追えないと、幻想郷の外ならば木っ端な妖怪は存在を保てないと勘違いした。驕ったのサ! 天下の星熊童子様が詰めを誤った! 土蜘蛛(わたし)は人であると、(まつろ)わぬ民草に列なるモノだということを忘れよった! アッハハハハハ! だから会いに来られたよ。こうしてこの人に……ザマぁ見やがれぇ!!」

 

 嗤った。彼女は声の限り、憎しみの限りに星熊勇儀を嘲弄し、罵倒した。

 化物は咆哮する。憎き女に、そして、愚かな男に。

 笑声はしかし次第次第に弱まり、切れ切れに掠れ、程なく喘鳴に変わった。

 

「あなたが欲しい……」

 

 涙を滂沱させ、瘧のように肩身を震わせながら少女は囁いた。

 

「歪で、優しくて、憐れで、綺麗なあなたの(ココロ)が欲しい……欲しかった」

 

 化物は、泣いていた。月光に青く光る涙を流して、己に縋った。

 

「お願い、お願いだよ……私と、一緒になっておくれよぉ……」

 

 彼女は知っている。知りながら、それでも求めて、欲して、手を伸ばさずにおれないのだ。

 その情の深さゆえに。真心の純粋さゆえに。

 俺はこの少女を嫌わない。厭う心持ちなど微塵と覚えない。どうして、こんなにも必死で、直向きな想いを否定できる。この少女は何も間違っていない。ただ慈悲をくれた。憐れな男に、優しくしてくれようとした。

 ただそれだけ。ただ、それだけなのだ。

 

「ねぇっ……嘘でも、いいから……!」

 

 真心であると、純心であると知っている。

 この少女の想いに一欠片の瑕疵もあらぬと確信する。

 だから。だからこそ。

 

「嘘は、言えません。決して」

「────」

 

 少女は項垂れた。

 沈黙が下りた。暗い納屋に重く垂れ込める。満ちる。

 その静謐、鉛のように空間を充満する、想念。

 愛憎、そう呼ばわれる呪詛(ノロイ)

 不意に持ち上げられた少女の顔、少女のようなモノの貌が、向き合う。虹彩のないライトブラウンの複眼が己を見た。見据え、捉え、捕らえ。

 

「わた、さない」

 

 止め処なく涙の溢れるその眼が、この身に縋り離れない。

 

「あなたガ、わタシのモノにならナイノナラ。あなたのココロがワタシのモノニナッテクレナイナラ」

 

 顎が左右に開く。鋏状の上顎、その奥に赤々と口腔を晒す。

 少女は異形に変じてゆく。その憎悪が彼女を彩っていく。止め処なく、終わりなく。

 

「あなたノ精モ肉モ骨モわたしガ貰ウ。わたしガ犯ス! わたしガ喰ラウ! 誰ニモ、誰ニモ渡スモンカッ!!」

 

 化物は吼えた。

 少女は泣いた。

 こんなにも細やかな願いが叶わない。叶えてやれない。

 しかし、嘘など吐けない。断じて。

 それは全てに対する裏切りであるから。この少女への。星熊さんへの。そして、己自身への。

 少女は己を喰らうだろう。骨も残さず、血の一滴も余さず。

 抗う術はない。ならば、命乞いでもしてみるか?

 それこそ、まさかだ。

 この直向きな少女が今更その程度のことで止まる筈がない。奇妙な信頼さえ抱いて。

 だからこれは、生存の為の努力ではなかった。

 左腕は糸の束が巻き付き、完全に拘束されている。びくともしない。初対面の際のような、身を捩る()()が一切ないのだ。

 それは残りの両足や胴回りも同じこと。

 絶対の絶命である。それは揺るがない。まあ今やそれはどうでもよいのだ。

 俺は、俺に能う全てで報いる。そう誓った。一方的で、自己満足甚だしい、当の彼女にしてからこんなもの望みはしまい。

 それでも。

 右腕は首から提げた布に吊られていた。元より折れた上、接ぎ目の金属板が馴染み切らない腕など何の役にも立たぬ。

 そう思った。黒谷さんは、そう思ったゆえ、右腕の拘束の糸を加減した。その手妻を(ゆる)めたのだ。

 慮ってくれたのやもしれない。怪我の具合を、己の苦痛を和らげようと。

 その優しさを利用する。卑劣に、卑怯に、醜悪に。

 

「ぐぉおお……!!」

「!」

 

 弛められたりとはいえ、蜘蛛の糸の強靭さは変わらない。隙間があろうと抜け出せるような代物ではない。

 抜け出す為には、こうする他なかった。

 身を捻る。上腕を胸倉に引き込む。

 すると、腕の外側で肉が()()()。骨と金具が肉を破って外に飛び出したのだ。

 

「アァ……モッタイナイ」

 

 蜘蛛の化生は言うや、傷口にしゃぶりついた。断面を覗かせる骨を頬張り、舌を出鱈目に突き入れる。

 痛覚神経に受容可能な刺激量を優に超える痛み、のような激流。

 脳の裏と表で何かが焼き切れたような気がする。鼻の奥で鉄錆の臭いがした。

 意識が流転する。覚醒と暗転と明滅。それが二周した時、右手は懐に届いていた。

 懐に仕舞った、懐紙を。

 まさぐり出し、口へ────

 

「……!」

「ちゅ、ぢゅ……ハァ」

 

 女怪は熱く吐息した。

 そうしてこちらを再び見上げる眼。獲物を品定めするような眼が、不意に俯く。

 縋るような瞳が俺を見上げる。

 

「……ダメ、なんだね」

「……」

「そっか…………そ、っか」

 

 涙は止まらない。もう永遠に、この少女は泣き止むことができないのではないか。

 筋違いな心配が過った。その悲しみを背負わせた張本人が。

 愚物は愚物らしい蒙昧さで最期を遂げる。

 そんな風に思っては────また、叱られるかもしれないな。

 

 莫迦者は最期まで莫迦なままのようです、星熊さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 報せは唐突だった。

 塒に濛々と立ち込めた霧より出で、鬼の頭目は冷厳と言った。

 

「てめぇの不始末の片をつけてこい」

 

 跳ぶ、跳ぶ、跳ぶ。足場とした岩を幾度、幾度にも踏み砕いて、穴の底へ。

 暗い穴蔵の奥底、蜘蛛の巣の只中へ飛び込む。

 白い糸が暗がりという暗がりに渡り、覆い尽くした暗黒の空間。

 その中心に、いる。鬼の凶眼には無明すら白日と同等だ。

 ゆえに見えた。

 それの色、形、有り様、全て、すべて。

 見えていた。

 

「ちゅ、ちゅ、ちぅ、ハァ……」

 

 蜘蛛の女妖が下品な音を立てながら一心に舐ぶり、啄み、口付けるソレ。

 腕に抱えた小さなソレ。

 黒い髪、精悍な(おとがい)、今は微睡むみたいに薄く開いた目。

 優しくて、優しくて、優しくて、優しくて優しくて、あんまりにも優しいから。

 莫迦みたいに、優しいその、目、が。

 あいつの、首だった。

 

「────」

 

 間境。空間を跨ぎ越し、蜘蛛は眼前。

 振り上げた拳を、腕を拘束する百ないし千あるいは万に及ぶ糸の束が撃拳の進行を阻む。皮膚を裂き、肉を潰し、骨に達する。鬼の肉体を抉るなど土蜘蛛如きの為せる業に非ず。

 何故か。

 答えはその腕の中に。

 喰ろうたのだ。男を喰らい、力を増したのだ。概念に依って立つ妖怪が、愛する者を喰らう。その行為、狂気、罪業が魂の位階を底上げした。

 目前の土蜘蛛はもはやただの土蜘蛛に非ず如何に伝承に名を列ねる童子といえども────しったことではない。

 蜘蛛の左顔面に拳が埋まる。頬骨を砕き、顎を抉った。

 その手より首を奪い取ったのと、化生が吹き飛んだのは同時だった。

 遠く、洞穴の崩れる音を聞く。興味はなかった。

 

「……」

 

 (かいな)に抱き寄せた男の頭を撫でた。

 額を撫で、頬を撫で、唇を撫でた。

 口が閉じたまま動かない。顎骨を食い縛り、噛み締めるあまりに歯の根がかち合ってしまったようだ。

 耐え忍んで逝ったのか。苦痛に、恐怖に、死に。

 それとも、またお前は莫迦な気を起こしたのではあるまいな。死に幻想を抱くあまり、かの女妖に、その身を…………。

 

「ぇ……」

 

 ふわりと柔らかに、男の顎から強張りが抜ける。鍵の掛かった箱のようだったその口が、開く。

 まるで見計らったかのように。

 口、口の中に何か。何かが。

 懐紙であった。小さく折り畳まれたものが、血反吐に塗れながら口腔に収まっている。

 取り出し、包みを開く。指先も、手も、震えっぱなしだった。

 中に入っていたのは髪の毛だ。黄金の、薄汚れた長い髪。

 震えが止まった。呼吸すら忘れた。

 こんなものを。死の際に、後生大事に、噛み締めていたのか。こんな、薄汚いただの、髪。

 

「はっ、はは、こんなことも……できるんじゃあないか……」

 

 男を胸に抱き締めて、その操を胸に(うず)めて、暗い洞の天井を仰いだ。

 

 アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア

 

「うるせぇぞ、蟲ケラ」

 

 土砂を巻き上げ、塵埃の帳の向こうから、巨大な蜘蛛の怪物が這い出す。言葉も、人の姿すら忘れた真性の化物。

 しったことか。

 

「来いよ、ぶっ殺してやる」

 

 暴れ川の如くに迫る蟲化。不動にて迎える。

 愛しきは腕の中に在り。

 そうして強く、拳を握った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 地底の奥底から月を仰いだ。随分増えて、広がった穴から煌々と照り付ける。

 青白くて冷たい光。火照った体には丁度よい塩梅だ。

 

「けっ、蟲ケラめ、粘りやがって」

 

 ぐずぐずと煙を上げて溶けていく右腕。その上腕辺りを咬み千切り、吐き捨てた。

 左腕に抱えた首に頬を寄せる。

 

「やっとふたりだ」

 

 二人きり。他には何もない。

 そのことがひどくうれしかった。

 それだけで本当は十分だった。十分過ぎた。

 

「大丈夫。これからはずっと一緒さ。ずぅっと、ずぅ~っとな」

 

 はい、ずっと貴女のお傍に

 

「ははっ、ああ、そうだよ……」

 

 なんだかえらく満ち足りている。

 酒も飲まぬというのに愉快だ。暖かだ。

 お前と一緒なら、どこだって暖かい。

 暖かい。

 

「はぁ、あたたかいなぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼の胸元には髑髏(しゃれこうべ)

 そんな画図を最初に描いたのは、さて誰だったろう。

 

「勇儀、貴女はとっても幸せよ」

 

 武功を謳ったのか、それとも己の恐ろしさを標榜したかったのか。

 

「愛しい者に魂から愛されている。愛されていると知っている。まったく……」

 

 あるいは、死骸すら手放せないほどに愛しい者と、ずっと一緒にいたいから。

 

「妬ましいわぁ」

 

 太鼓橋の頂。赤漆の欄干から少女は唄う。想いの成就に言祝(ことほぎ)を。

 鬼の輩の愛を、心から祝福した。

 

 

 

 

 




やっとオリ主をぶっ殺せました(達成感)
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