楽園の巫女様が根暗男に病む話   作:足洗

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霧雨商店周りの実に人間的な確執を妄想するのが楽しい。



父娘(霧雨魔理沙)

 

「よくもまあ熱心に続くものじゃ。大商店ともなると財貨が余って仕様がないと見ゆる」

「霧雨の御当主は謹厳な御方です。どのような理由であれ不用意な支出を良しとはされません。その厳しさゆえに本心を、御家族についてを語られることも極々少ない。しかし、いつ何時であってもその心中で御息女を慮っておいでだ。間違いなく」

「ならば自ら出向いて行くのが道理であろう。店の手代を、それもただの人間をあんな場所に送り込む危険、わからぬ筈もなかろうに」

「己如きを遣わされるのは、御息女の機微を悟られればこそ」

父親(てておや)が実の娘と面と向かう度胸もないとは、嘆かわしい時代じゃのう」

 

 白銀糸の髪の下から、その深い青海色の目がこちらを流し見る。少女は呆れと侮蔑を隠さなかった。

 霧雨商店から程近い団子屋。店前の縁台に、物部布都(もののべのふと)さんと座を同じくしている。

 冬晴れの午後。納品を終えた帰り。いつからかこうして甘味処での休憩を()()()るようになった。

 店には必ず物部さんが待ち受け、世間話のついでにとある品の売買を行う。店の従業員には内密に、そう霧雨商店主人直々の言い付けで……と言って、半ば公然の秘密ではあるが。

 白い水干の袖口に、みたらしのタレが付かぬよう細心の注意を払いながら彼女は団子を頬張る。

 

「まむまむ……汚すと屠自古が怒るのじゃ」

 

 小柄な背恰好と幼気な面差し、なによりその所作が童女のようだ。しかし彼女もまた幻想郷の一廉の仁。断じて只人ではない。積み重ねられた歳月も、その力にしても。

 比類なき道術への精通。忌憚のない人物評を(うた)う古めかしい言い回しからも、それは窺える。

 

「甘々じゃ~」

 

 ……口の周りをべっとりタレ塗れにする様は、やはり童女の頑是無さだったが。

 懐紙を一枚差し出す。

 暫時、紙とこちらの顔を見比べ、気恥ずかしげに少女はそれを受け取った。

 

「……これでは、ぬしこそ父上様のようじゃな」

 

 少女は神妙に呟き、己の面相を見上げた。どうしてかひどく和らいだ視線で。

 無垢な瞳を前に、堪らず面を伏せる。訳知り顔で世話焼きを気取る我が身にこそ羞恥を覚えた。

 その時、ふと思い至る。

 

「もし、ご亭主」

 

 店主の老爺は、店脇の椅子に座ってのんびりと煙管を吹かせている。客は我々二人のみ。一日の繁忙の山を過ぎてしまえばあのように、かの老爺は優雅に構えて日暮れまで道行く人々や里の営みを眺めている。新参の己にとっても、すっかりと見馴れた姿だ。

 そしてもう一方(ひとかた)、この団子屋では見馴れた姿が────しかして見えぬ。

 

「今日は、お孫さんが居られぬ様子」

 

 平素、この店には老爺に加え、彼の孫娘が手伝いに駆り出されていた。覚えている限りほぼ毎日店に出て一所懸命に働いていた看板娘の姿が今日に限って見当たらない。

 

 ……

 

 問われた老爺は一瞬、声を詰まらせた。

 思わぬ反応にこちらが戸惑うのを察したのだろう。老爺は片手を上げ、待ったを掛けた。そのまま顔を俯かせ眉間を揉む。

 もう一瞬後、こちらを向いた老爺の目には、僅かに涙が滲んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔法の森の瘴気は身体を蝕む。五感を惑わす。精神を侵す。

 まず以て人の踏み入るべき領域ではない。幻想郷に住まうなら、この地の理を弁える者ならばこの事実は常識以前のもの。

 無知は罪であった。人の法理を呑み下す神の原理を前にしては特に。知らぬ存ぜぬと嘯くは勝手だが、その教訓の代償は身命一つ。事程左様に、重い。

 それを承知で森を潜る愚物がここに一人。

 背負い葛籠(つづら)を担いで歪曲した木の根を踏む。うっかり気を抜けばそのまま足を取られ、側近くの奥深く密な草叢に身を呑まれたろう。その奥底で果たして何が待ち受けているのか。生命を脅かすナニかであることは疑いない。

 怪我など負ってはなお危うい。血の臭いを嗅ぎ付けた獣、化物(ケダモノ)が林の合間から木々の裏から、一気呵成に襲い掛かってくるやもしれぬ。

 幻想郷一との呼び声名高い薬師謹製の毒散らしを覆面に織り込み、特殊な火炎の術法にて燻した退魔の護符を体中に貼り合わせておらねば、森に分け入って十歩を数えずそうした末路を辿っていただろう。

 

「!」

 

 今ほど通り過ぎた草叢で音が立つ。枝を踏み折り、枝葉を掻いた残響。動くものの気配。

 

「……」

 

 こんなところで行き会うのだ。十中八九それは人ならぬ化生であろう。

 

「────」

 

 薬は無論のこと、護符にしても効能は永遠ではない。

 退魔の符呪術に秀でた物部さんによれば、札が十全に力を発揮するのは一両日が限度。それを過ぎれば鼻の過敏な獣化け相手であっても安全の保障はできぬ、と。

 往路はともかく、要件を済ませて復路を歩く時間までを念頭に置かねばならない。

 以上鑑みて、可及的に道を急ぐべきであった。

 

「────」

 

 こちらを見張るモノの影、有るか無きかも定かならぬ。人は怯えるべきなのだ。目に見えぬモノを怖れ、見通せぬ闇を怖れ、それでも一歩また一歩。注意深く、噛むような足取りで進む。命を惜しむほど磨かれる慎重さ。なるほどそれは実に健全だ。

 紛れもなく死の恐怖は生の実感を強める。己のような落伍者には、なんともはや身に詰まされる話だった。

 とはいえ、この魔の地を訪れたのは、なにも稀少な臨死体験を得る為ではない。

 不意に、木々の折り重なった帳が晴れる。

 その先で陽射しを浴びる一軒の家屋。煉瓦造りに漆喰の壁、硝子窓が嵌められ、石組みの煙突が一本伸びている。古風な西洋建築の小屋であった。

 そしてそれこそがまさしく目的地。

 前庭に入る。飛び石の両側の土は耕され畝が盛られ、整然と何かが植えられている。葉の形は南瓜に似ているが今時分に生長するものとなれば時期が合わない。

 ガーデニングというより家庭菜園といった牧歌的な風情醸す庭を通り過ぎる。

 玄関扉には鋲が打たれ、そこに木板が一枚ぶら下がっていた。

 『霧雨魔法店』

 屋号を記した看板であった。

 ノックをしようと腕を持ち上げた時、背後に足音が立つ。敷き石を革靴の踵で打つ硬質な音色には、はっきり覚えがあった。いつ耳にしても、それは少女の闊達さを顕すようで小気味良い。

 

「まーた来やがった。性懲りもない」

「こんにちは、魔理沙さん。本日はお日柄もよく」

 

 振り向いた先、噎せ返るほどの緑を背景に黒白(モノクローム)の色彩が穿たれる。エプロンドレスであった。しかし十六夜さんの装いがハウスメイド然としていたのに対し、彼女の纏うそれはより活動的(ビビッド)に映えた。黒地のワンピースと白い腰巻のエプロン。袖口、スカートの裾、エプロンの縁に繊細で精緻なレース編みが施され、衣装の随所にふんだんに白いリボンをあしらっている。

 黒い鍔広の三角帽子などは特に、丸く大きく()()()リボンを結び、少女にとってのトレードマークをそれは十全の愛らしさで担っていた。

 

「あ゛ぁーいぃいぃそういう時候のアイサツ。会う奴会う奴にやってんだろ? 体よく引っ張り込まれたとはいえ、商人の癖にいつまで経っても馬鹿みたい堅っ苦しいまんまだし。いい加減こっちの肩が凝っちまうぜ」

「商人なればこそ、礼節は重んずるものでは?」

「んなわけあるかい。あいつら慇懃無礼の権化だぜ。行儀のいいこと口から吐いて黒いもの腹に溜め込んでるのさ。勿論そいつを吹き出すのは、銭が絡む時だけだ」

 

 指で作った銭の輪を心底嫌そうに眼前で揺らす。

 威勢の良い口調も相俟って、まるで少年のような印象を振り撒く。当人の性質なのかあるいは、意図してのものか。

 否、霧雨魔理沙は紛れもない少女であった。白百合の花弁めいて可憐な少女であった。

 少女はぶっきら棒に鼻を鳴らす。

 

「お前さんに商人の才能なんてないぜ」

「ありがとうございます」

「……褒めてないっての」

 

 帽子の鍔を引き下げ、彼女は顔を隠した。

 

「ッ~! えぇい! 今日も掃除してくんだろ!? やりたきゃとっととやりやがれ!」

「はい、では早速着手いたします」

「ふんっ」

 

 少女の怒り顔に笑みと会釈で返し、玄関扉を開いた。差し当たり書棚の方から手を付けようか、などと思い馳せて、一歩。一歩も、踏み出す余地がなかった。

 壁があった。

 

「…………」

「あ」

 

 厳密には壁ではない。平積みされた本であり、薬瓶の詰まった袋であり、植木鉢を粉砕しながら生育する謎の植物である。

 玄関があり、扉がある。しかし、ここに入り口はなかった。

 ぽん、と魔理沙さんは手を打つ。得心の響きで。

 

「……そういえば最近は裏の窓から出入りしてるんだった」

 

 

 

 少女の一人住まいに、こうして家事代行サービス紛いを押し売るようになって早どれほど経とう。瑣末な荷役人足風情の身から、気付けば霧雨商店の末席をその身を以て汚していた。我が事ながら踏むべき段階と尽くすべき時間を逸している。

 新参、若輩、孺子。陰で実際に上役同僚からそのような謗りを受けていたかどうかは定かではないが、己自身にしてからが己自身をそう嘲罵せずにおれぬ。

 そうして現在。果たして如何様な値踏みの末の沙汰であろう。霧雨の大旦那は、出自の知れぬこの馬の骨にどうしてか特命を任ぜられた。

 

「今にして思えば、内々にとの仰せも頷けます」

「なんだよ」

「あまりに惨い」

 

 足の踏み場もない、とは言うが、まさか身を差し入れる隙間すらない部屋などというものがこの世に存在しようとは。いや、部屋と呼ぶことすら憚る惨状であった。

 

「うっせ」

 

 こちらと目も合わせず尖らせた唇の先から漏らす。どうやら多少悪びれてくれている。ならば己もこの上苦言を重ねるようなことはすまい。

 物の配置が乱雑煩雑複雑怪奇極まった有り様なだけで、たとえば飲食物をそのまま放置するような真似は決してしない。

 この少女なりの、線引きのようなものが確とあるのだ。

 

「……あいつの」

「は」

 

 羽織を脱ぎ袖を襷で絞る己に、少女は言った。

 

「雇い主の命令だからって、無理して来るなよな。め……迷惑なんだよ。こんな辺鄙なところに異能持ちでもない人間送り付けやがって……あんただって、ホントは……」

 

 半拍か、さらに刹那の間。彼女は躊躇を噛んでから。

 

「嫌々、来てんだろ……」

「自分の態度はそのように御覧じられるものでしょうか……?」

「や、そんなことないけど……ない、と思うけど……」

「こちらへの訪問を厭うたことはありません」

「……どうだか。異邦の土地でやっとこありついた勤め先の、その総元締の言い付けとあっちゃ、下っ端の首は()()()しか出来なくなるからな」

 

 切れのある皮肉だった。心底の嫌悪が言葉の刃先を研ぎ上げ、触れるだに肉皮を裂く鋭さ。

 そしてそれはきっと、彼女の胸の内に秘めたる恐れと表裏の感情であった。

 父親への失望を恐れ、なお募る期待すらも恐れ。

 ……心から労しいと思う。思わずにはおれない。

 

「大旦那様の御意向に対する顧慮も確かにあります」

「……」

「ですがそれのみで通いのハウスキーパーを請け負うには、ここは少々遠すぎる」

「命の保証もないときた。益々(いかれ)てやがる。なまじ金が余ると、奴さんには周りの人間が顎で使える奴隷に見えてくるらしいや。はっ、痴呆(ボケ)るのも大概にしやがれってんだ……糞」

 

 罵詈の限りの悪態は、しかしどこか必死さばかりが窺える。眉をひそめる代わりに、いつの間にか己は微笑んでいた。

 

「ご心配をお掛けします」

「別に……」

「しかしこれは自分が望んだ仕儀。御憂慮は無用です」

「望まされてる、の間違いだろ」

「いいえ」

 

 語気の強さとは裏腹に、少女は俯いたまま決してこちらを見ようとはしなかった。己の表情の中に、見たくはないものが宿るやもしれぬ、そう恐れておいでか。

 俺は肩を竦めた。努めて、お道化て。

 

「放ってはおけません。このような汚部屋を」

「ぐっ」

「蒐集家を自称なさるならば、是非とも物品の管理、整頓までを会得されるべきかと意見具申いたします。現状、他称の“号”を受けるのは大変難しい様子」

「う、うるへー!」

「前回から三日を空けずこの惨憺たる光景……まさか、この期に及んでまさか、異存がお有りと仰るか」

「ふ、ふぐぅ」

 

 ぐうの音なのか不平の鳴き声なのかもよくわからぬ呻きを上げながら少女は蹲った。その拍子に、不安定に積み上がっていた羊皮紙の束が雪崩を起こしてその身に降り掛かる。

 僅かに覗く三角帽の先端が、不満そうに自己主張した。

 

「……なんか最近お小言が増えた気がするんだが」

「森近さんより『どうか徹底的に、くれぐれも容赦なく』とアドバイスを頂きましたので」

「こーりんッ、あんにゃろう……!」

「魔理沙さんの気さくなお人柄が、あるいは己の口舌から忌憚を取り払ってくださったのやもしれません。他の何方かを相手取る際は、今少し慎みが働きますゆえ」

 

 少女の愛らしい発憤(リアクション)に冗句も思わず(まろ)び出る。迂闊なほどに。

 打てば響くようだった反応が、突如止まった。

 少し、調子に乗り過ぎたか。

 

「私、だけ……?」

「?」

「私は……と……さま……の、特別……?」

 

 折り重なった荷物書物の障壁が音を吸収する。少女の声はくぐもり、遮られ、とても満足に聞き取ることはできなかった。

 

 

 

 室内の清掃は約二時間で完了した。もともと多種多様多量の物品が整理されず放置されるままになっていた、言ってしまえばそれだけなのだ。

 床や壁に頑固な汚れが染みつき、塵埃が積もり、黴が侵蝕し、食べ物が腐り、鼠や黒蟲が無数に床を這い回っている……などということもない。

 形ばかり箒で板間を掃き、どうしたものかと逡巡する。

 魔理沙さんは窓際のソファに胡坐を掻いて、終始作業する己の様子を眺めていた。格別、提供できるほどの面白みもないのだが。

 彼女の視線は熱心だ。思えば、以前から。己の家宅訪問が始まってより、いつも、いつも。

 彼女は食い入るように、こちらを見ていた気がする。

 

「想定よりも手早く済みました。庭の方も少し手入れをしましょう。薪の備蓄を増やしても構いませんか?」

「ん……」

 

 少女は了承であろう頷きを呉れる。

 今度こそ玄関を通って前庭に出た。菜園の雑草を抜き、切り株を斧で細分する頃には、陽は完全に南の空へ昇り切っていた。

 

「物好きめ」

「は」

 

 嫌味と共に差し出された手拭を受け取る。冬の木漏れ日も馬鹿にならぬ。有り難く、額に浮いた汗を拭った。

 

「ありがとうございます」

「人の世話焼くのがそんなに楽しいかよ」

「是か非かでお答えするなら……(はい)、とても楽しんでおります」

「私には全っ然わかんない趣味だぜ」

「僭越ですが至極一般的、かつ真っ当な趣味かと思われます」

「あん?」

 

 腕組みしてこちらを胡散臭そうに見上げる少女に、したり顔の笑みを送る。

 

「手の掛かる子ほど可愛いものです」

「…………」

 

 少女は顔を赤くしてそっぽを向いた。

 宅に戻ると、魔理沙さんは茶を淹れると言ってキッチンへ入った。ソファから腰を上げかけた己に「大人しく座ってろ」としっかり釘を刺すことも忘れず。

 アンティーク調の丸テーブル。花のレースのテーブルクロス。キルトのソファカバーはどうやら手縫いであった。

 ソファに置かれた丸いクッションにも大きな白いリボンが結われている。

 ふと見れば随所に、少女らしい趣の室内。今更に、身の置き所をわからなくなる。

 ティーセットを携えて戻って来た魔理沙さんは、二つのカップにハーブティーを注いだ。

 ソーサーを受け取る。澄んだ赤橙色の水面。口にすると、ローズヒップの程よい酸味が疲れた体に沁みた。

 少女は己の隣に座り、同じくカップを傾ける。

 

「今年の白菜はとても甘く肉厚です。次回は鍋でも拵えましょう」

「ホント? やった。楽しみ……」

「綿入れはもう出しておられるでしょうか。本日は季節柄もない日和でしたが朝夕の冷え込みは例年に劣りません。もっと暖かくなさいませ。マフラーか、何か羽織るものを。そう、以前お贈りしたストールでも。如何な風の子とて風邪を召されては一大事」

「えへへ……」

「万が一体調を崩されるようなことがあれば、すぐにお報せください。いつ何時、どのような状況でもお召し出しくださって構いません。そしてその際こちらの都合を顧慮される必要もまた一切ありません。即時伺います」

「……いつでも?」

「はい。いつでも必ず馳せ参じます」

「………………」

「しかし、となれば……幾つか連絡手段を勘案せねばなりません」

「……うん……うん」

 

 清掃と雑務を終えた後、こうして彼女の淹れてくれたお茶を相伴する。世間話の一つ二つは交わすものの、大抵の場合、魔理沙さんは黙ってカップの水面に視線を落としている。ここ数ヶ月、同様の、近似の時間を繰り返してきた。

 今も、頻りに頷いていたかと思えば不意に、少女はどこか上の空になる。ぼんやりと視線は宙を彷徨っている。あるいは、まるで……うっとりと、夢を見るように。

 この、苦を覚えぬ沈黙は稀少である。少なくとも今、己にとってこの時間は得難く、穏やかだった。

 傍らの彼女にとってもそうであってくれたなら。それは無上の幸いなのだが。

 そうしてまた間を埋める程度の零れ話をする。

 

「────と、まだ年若い方ですが、職人としての腕前は当代一との評判で。ああ、そういえば」

「……ん」

「人里の団子屋をご存知でしょうか。商店から呉服屋へ、通りを真っ直ぐ行った途上にある。そこに勤める娘さんと」

「うん……」

 

 応えは曖昧で、声音はどこか舌足らず。眠気に抗う子供のようだ。話の半分も耳に届いているか怪しい。

 構わない。子守唄を聞かせるような心地で益体もない話をする。そうそれこそ、お話、寝物語で十分なのだ。

 どうかこの子が安らかに、眠りの世界へ行けますよう。

 そんな夢想を抱いた。

 

「祝言を上げるのです」

「────今、なんて」

 

 脱力弛緩していた仄暖かな気配が、その刹那、凝結した。

 気配の主たる魔理沙さんがカップの水面から顔を上げてこちらを見ている。見開かれた目は大きく、瞳の輝きは真実宝石のそれを凌駕するだろう。

 それが消える。

 欠片、粒さえ残さず、消える。光が消える。輝き、煌めき、明るみをもたらすあらゆる光子が、消失する。

 代わりに浮上したのは底の見えない黒。沼の淵のような闇の溜まり。光の消失は決して他のものの喪失を意味するのではない。そこには確かに満ちている。感情が、混淆の果てに色を失くす様に似て、渦巻いている。ただもう一つ、溢れてくる。それはどうしてか涙だった。おそらくこの世で最も清らかな液体を少女は無闇に費やすのだ。

 

「魔理沙さん……!?」

「ど、ど、ど、ど、どうし、どうして、どうして? ねぇどうして? しゅっ、祝言? なんで、なんでぇ!?」

 

 ソーサーを取り落とし、カップは転落した。中身がぶち撒かれ澄んだ赤色を浴びる。着物などどうでもよいが、少女手製のソファカバーが気掛かりだった。

 さても捨て置く。

 少女は両手で己に縋り、この目を見上げた。奈落の底から決して届かぬ天上界を仰ぐような、絶望が彼女の目には宿っていた。

 

「一体、如何されっ……いえ、はい、どうとは。何故、とは」

「はっ、はぁっはぁっ、わたし、だけ、はぁはぁはぁっ! わたしの……わたし、のぉ……!!」

「はい、魔理沙さんは、何をお尋ねになりたいのですか? どうぞゆっくり、お聞かせ願えますか」

 

 手を取り、肩を抱く。すると少女は己の胸に顔を埋めた。一心に額を擦り付けた。まるで胸倉を抉るように、胸骨を割り除け、さらに奥底へ這い入ろうとするかのようだった。

 背中を擦った。細い背骨の奥で、しゃくり上げ、乱れる小鳥の鼓動を感じた。

 

「やだ。やだぁ!」

「なにがお嫌でしたか。よければ、教えて欲しい。魔理沙さんの気持ちを聞かせてください」

「結婚、やだ……しないで、誰とも……いかないで……置いていかないでッ!」

「結婚……? あっ」

 

 文脈を顧みて、得心する。

 

「団子屋の娘さんと祝言を上げられるのは、里の大工組の若衆のお一人です」

「…………へ?」

「自分ではありません」

 

 先日の、麗らかな午後の出来事を思い起こす。

 団子屋の老主人は、孫娘の祝報に涙を流して歓喜していた。

 一時、かの女性との見合い話などが持ち上がったこともあった。持ち上がった、と言って酒屋の店主が一人盛り上がっていただけなのだが。そこへきてこの華燭の儀、見事な立ち枯れであり、蓋し幸いであった。

 罷り間違って縁談の運びとなり、良い仲の二人に水を差さずに済んだ。

 斯くありて、話半分が耳に入ったことによる少女の勘違いは、あっさり氷解した。

 胸板に拳が落ちる。二度、三度、然して痛みはないが、少女の怒りと烈しい羞恥が如実に響いてくる。

 

「べっ、べつに! お前さんがどこの誰と夫婦になろうが私にゃ関係ないけどなッ!!」

「はい」

「はいじゃねぇよ!!」

 

 真っ赤に燃える憤怒の形相を前に、それをどのようにして宥めたものか考えあぐねた頃。

 はっとして、魔理沙さんは己の小袖の裾を摘まむ。老松色の木綿地に赤銅色の黒々とした染みが出来ている。先程のローズヒップだ。

 眼下で、金色の形の良い旋毛がこちらを向いた。

 

「ご、ごめんなさい」

「どうということはありません。どのみち森を歩けばこれ以上に汚れるのですから」

「着替えないと……」

「いえ、放っておけばいずれ乾く」

「ダメ! 風邪ひいちゃう!」

 

 思いの外に押し強く語気の迫力なお増して、急き立てられながらソファを立たされた。

 帯を解かれ、小袖を脱がされ、魔理沙さんはそれを持って慌ただしく奥の部屋へ入っていった。股引に半襦袢という放置されるには少々見っとも無い恰好で約一分ほど待ち惚ける。

 そうして彼女は戻って来た。その手に黒い生地を載せて。着物であった。

 

「ん……」

 

 少女は着流しを広げ、掲げる。袖を通せということらしい。

 指図に従い、腕を入れ、肩身に羽織る。前を合わせて帯を結び、衿を正す。

 身幅も身丈も見事にぴたりと嵌った。

 

「これは……」

「……」

 

 見れば左肩から足元へ、衿に沿って金と白の糸が織り込まれている。墨か夜空のような黒地に走る流線は、空を真っ直ぐに飛翔するとある少女を想起させた。

 目の前の少女を。

 

「魔理沙さんが、これを」

「悪いかよ」

「……」

「日頃の、その、礼だよ。有り難く思えよな!」

 

 またしてもぶっきら棒に、仏頂面を作って悪態吐く様。それはひたすらに微笑ましい。事実、頬は笑みを浮かべずにおれない。笑っている、その筈だった。

 だのに、目頭が熱い。

 

「お、おい。なんだよ……泣いてるの……?」

「ふ、ふふっ……いえ、これは不覚……不意を打たれました」

「……もぉ、恥ずかしいなぁ」

「はい、申し訳ありません」

「いいけど……ぷ、ふふ、いいけどぉ」

 

 有体に言って感激であった。感無量であった。

 この娘の心優しさが、ただただ嬉しくて、心優しく在ってくれることが、喜ばしくて。

 

「ありがとうございます」

「どういたしましてっ」

 

 輝くような笑顔に、この胸は満たされる。身の程知らずに。分際を忘れて。

 ────本来、誰よりもこれに浴すべき人を、差し置いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋の奥は寝室だ。ベッドがありサイドチェストがあり衣装箪笥がある。

 あるのはそれだけ。それだけだっていうのに、あの人は気を遣ってか、大掃除の最中でも決して無断でこの部屋の扉を開けることはしなかった。別に構わないのに。あの人になら、構わないのに。

 この家にはあの人に見られたくないものなどない。見て欲しい。全部、余すところなく。私を見て欲しい。ずっと見ていて欲しい。

 ただ、そう一つ。一つだけ、見られると困ってしまうものは。

 

「■■■」

 

 開錠の呪文を唱う。人語ではない、魔術の呪詞(コトバ)である。

 ベッドが空間の裏側に折り畳まれ、床板が丸く消失する。ふわりと湖中で水底に落ちるように、地下へ降り立つ。

 入り口に蓋をする。

 無明、闇黒の空間が居座ったのも一瞬のこと。

 入室と共に主の魔力を感知して魔石の灯が点る。照らし出す。

 あの人、あの人、あの人、あの人、あの人。

 無数のあの人、数多のあの人、万化のあの人。

 優しく微笑む顔が好き。お包みのようにやわこくて、暖かくて、切なくなるくらい、心地よくて。

 困ったように眉尻を下げる顔が好き。慮ってくれるから、呆れたり、叱ったり、どう言ったものかなんて逡巡するのも、私を想ってくれているから。その証のような苦心が、愛しかった。

 真剣に思い悩む顔が、好き。考えてるのは私のこと? それとも料理の出来栄え? それとも、私のこと? 私のこと。私を、想って。私だけを想って。もっと考えて。ずっと私のことで頭を一杯にして。して欲しい。してください。してくれなきゃ……イヤ。

 薄い色ガラスの表面に焼き写された画。あの人の画。

 理屈は念写に近い。違うのは、写し取るのが脳裏に映したものではなく、この目で実際に見たものであること。

 眼球に貼り付けた薄い硝子体(レンズ)が、肉視したあらゆる像をこの地下室にある石のフィルムに焼き付ける。任意に、いつ、どこであっても、いくらでも。

 傍らの書棚から一冊、アルバムを手に取る。

 開き、最新の項に、今日の日付に()()()を貼り付ける。

 ソファにあった。あの人の髪の毛だ。これで128本目。

 彼が口を付けた47杯目のカップを保管棚に仕舞う。

 彼が腰を下ろしていた丸クッションを胸に抱き、彼の汗が浸み込んだ手拭を口に含む。

 彼の小袖を羽織って床に蹲る。

 

「ふ、ん、ぐ、む……んんっ……」

 

 至福だった。安堵がじわりと胸に満ちていく。満ち足りていく。

 あの人の匂いで一杯だった。

 けれど。

 やっぱり。

 本物にはまるで、まったく、どうしたって敵わない。

 本物、本物の。

 

「父さま」

 

 私の父さま、私だけの父さま、本物の父さま。

 私を作ったあんな偽物とは違う。私を想ってくれる。私を心から、愛してくれるのは、あの人だけ。

 

「父さま……父さま……」

 

 この部屋の中のものは慰めに過ぎない。あの人が訪ねて来てくれるまでのただの繋ぎ。

 でもそれなら、できるだけ濃くて、強い方がいい。皮脂や垢でも、唾液や尿や血、それ以外でも、それ()()でも、イイ。

 より色濃くあの人を感じられるものがいい。

 いつか、本物を手に入れるその日まで、我慢する。いい子にして待ってる。

 だからいつか、“その日”が来たら。

 

「いっぱい褒めて、父さま」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女の変調に、不安定な情緒に、気付かぬ道理はなかった。

 それが彼女の出自に関わるだろうことも。父と娘、親子の深い深い確執が。

 大商店の娘御に、御店の主が嘱望を抱かずにおれようか。それを家の都合の一語に断じてしまえようか。

 彼女が跡取りを設けてくれること、いやさ彼女自身が跡取りとなってくれること。

 しかし父御、それに留まらず膨らむ周囲の期待という重圧が、幼子にとって安らかであった筈がない。なにより少女には夢があった。魔道という一廉の道が。

 夢にひた向かう。夢の為にあらゆる努力を惜しまぬその姿を尊く思う。

 少女の夢が叶うことを、心から願っている。願うことしか、祈ることしかできない。

 だが同時に、少女が、彼女の父御と、再び解り合える日が来ることを己は(こいねが)っていた。親子なのだ。この世に一人と一人の、唯一の関係性。二つとない、絆なのだ。

 代わりなどない。

 喪われれば、もはや。

 

「…………」

 

 人里の夕空、物見櫓の落とす黒く長く深い影に埋まりながら、俺は夢想した。娘を想う父の心がいつか届く、その日を。

 

 

 

 

 

 

 

 

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