ぽろり(墜落的な意味)もあるよ。
落ちる夢、というものを見たことがある。
それはただ階段や敷居といった段差を踏み外すような些末なレベルのものもあれば、断崖から奈落へ突き落されるような殊更心胆の冷えるものまで様々だった。
とはいえ、夢は所詮夢だったのだと。今、それを思い知る。
己が貧弱な想像力を凌駕し陵辱する現実。本当の墜落とは
雲すら掴んでしまえそうな高高度、空の高み。身体を下方から袋叩きにする暴風、否、空気にこの身自らがぶつかり、押し退けている。
高速で。
空から落ちて。
墜ちて。
「く……ッッ!」
姿勢制御は至難であった。スカイダイビングなど無論のこと経験はない。況して、空を翔ぶなどという行為は、尋常凡庸の只人に過ぎないこの身とは無縁の仕儀。
錐揉みし、前転側転を繰り返した末、身体は裏返って気付けば上空を仰いでいた。
背泳ぎでもするように、空を。身を切るほどに冴え、青々とした冬晴れを。
その只中を舞い踊る影。彼女らが。
「人間が気安く空に上がって来るんじゃあない……!!」
戦気を吹く。
鴉の黒翼が開く。
天狗の面目躍如、その手に握った五葉の羽団扇が一振りされた瞬間、風が吹き荒れる。明確な異能によって風が操作され、行使されている。質量を持つまでの密度で逆巻き、生まれ出でたるは竜巻。その数実に五柱。
天象を、射命丸文は事も無げに放った。
天地に亘って聳え立った風の柱が、削り取った地表の樹木や土砂、石礫を雲まで吸い上げる。そうして向かうは一目散。
空を飛翔するもう一つの影へ。白と黒のコントラストを押し包むように。
「……しゃらくせぇ」
霧雨魔理沙。彼女の手に器械が握られている。
刻一刻落ち続け高度を減じていく己にはもはやそれが何かを確かめる術はない。しかし、その用途だけは、次の刹那に知れた。
彼女は無造作に、その手掌を竜巻へ向けた。迫り来る暴風の渦へ。
光が溢れた。
極彩色の光流。光子の束。暴流。まるきり氾濫する河川が下流の全てを呑む様相で。
それは明らかな砲火であった。膨大な熱量と暴虐な破壊力を有した、あれは射出兵器なのだ。
光は竜巻を、天象を呑み下す。溢れ出るまま光線は軌跡を描き、野山の遥か向こうへ伸びる。果てしなく伸びる。
それを少女は手繰り、残り四柱の暴風すらいとも容易く薙ぎ払った。
現実離れした光景にただ呆然とするばかりの我が身に、不意に影が差す。
上空から、こちらに追い縋って同じく墜落、いや高速で降下する存在がある。
「さあ、手をっ。こっちに……!」
十六夜咲夜が、その手を伸ばして、己に手を。
「抜け駆けしてんじゃねぇぞメイドォォォオオオオオオオ!!?」
烈火の如き怨嗟が天空に轟く。
魔理沙さんの怒気が視線に乗って標的を、十六夜嬢を捕捉する。魔砲の砲門が彼女へ。
「い」
いけない。発音すら許されなかった。
魔理沙さんは躊躇しなかった。
光が瞬く。さながらマズルフラッシュ。先刻の非常識な極大ビームとは異なる。
八つの光流。八条に散華した光線が降り注ぐ。空中を空間を寸刻み、時に蛇行しながら、過たず十六夜嬢の背中に。
「ちっ」
舌打ち一つ。それが耳孔に届いた時には既に、ハウスメイドの彼女の姿は眼前から消失していた。
八つの光は虚しく虚空を過ぎ去り、己の横合いを擦り付け。
「!」
光が。光は────突如屈折する。
通過するかに見えたその寸前、軌道が変転する。明らかに不自然に。
それは再び天へ昇り、魔理沙さんの至近へ迫った。魔理沙さんの近接に
十六夜嬢が消える。距離を置いてまた現れる。そしてまた消える。
消失と出現を繰り返す少女の怪態、しかして八発の砲火は執拗にそれを追い掛ける。追尾する。
「小賢しい」
冷厳とした悪態が針のように鼓膜を刺した。
そうして瞬き一つ後────空には銀のナイフが満ちていた。
目の前で起こったありのままの事実を己の脳は理解し得ない。大量の、無数の、ナイフの群が、前触れもなく突如空間に姿を現した。そのようにしか見えない。
それらは明らかな指向性を持って魔理沙さんへ殺到した。
「鬱陶しいんだよ!」
純銀の刃は一人の少女を筵として串刺しにした。しようとしたのだ。十六夜咲夜の意のままに。
「魔理沙さんッ!?」
血達磨の赤と化す白と黒のエプロンドレスを覚悟した。その惨状を。
そうは、ならなかった。気息を吐いて安堵に胸を撫で下ろす傍ら、その光景に唖然とする。
星形の光が少女の体を四方八方で囲い、凶刃の到達を尽く防いでいた。
先刻承知の、今更に過ぎる理解が脳裏を過る。
即ち、魔法。そう呼ばわる異界の技術の実在を、ようやく目の当たりにした。
少女がこちらを見下ろしている。嬉しげだった。名前を呼ばれたことが嬉しくて堪らないと。
「父さま……待ってて、今行くから」
「妄言を吐かないでいただける?
「うるせぇ。
「帰るのは
その時、天高くから高速で来る黒い機影。落下攻勢。
射命丸さんは進突する。単身であり、
城砦だ。
「ちっ!」
「糞!!」
それぞれに怨嗟を吐いて、二人の少女が蹴散らされ、彼方へ飛ばされていく。
その中央を突き破って鴉羽の少女は勢い、己を両腕に捕獲した。
「あ~やや危うい危うい! もう少しで地面に激突ですよ。はぁ、あの色惚け共、頭に血が上って貴方の身の安全なぞ度外視ではないですか。ま・さ・に、欲一念! 貴方を自己の満足の為の道具としか見ていない証拠。まったく救い様もありません。ねぇ?」
「……」
明るく朗らかな射命丸さんの言葉に、即座返答はしかねた。残念ながら同意もまたしかねる。
眼下には鬱蒼とした森の緑が広がっている。少女の言の通り、地表まではあと100メートルもなかろう。墜落は絶命と同義であった。
「さてさて、邪魔者が戻る前にさっさと」
「ッ! 射命丸さん!」
「え」
彼女の反応は敏速を極めた。が、如何せん、その視線も意識も完全にこちらを向いていた。
その銀鎖は彼女の真背後、死角から擲たれた。そうしてまるで意思を持った蛇の如き挙動で射命丸さんの細首に巻き付く。皮膚と首筋の肉を押し潰すまでの強さで鎖は食い込む。
「がっ、ふ……!?」
空中に浮かぶ少女の身体、そしてそれに抱かれる己もまた揺らぐ。傾ぐ。
苦しげな少女の呻き。焦燥する。内臓を掴み上げられるかの。
「お待ちを! 今……!」
「だ、ダメ、です……!」
制止の声は意図して無視した。少女の後背から伸びる鎖を掴み引き付ける。力の限り。彼女の首を絞め上げる力に対抗する。
それは拮抗、しなかった。
「?」
あっさりと引き寄せることができた。鎖は撓み、だらりと張力を失い、しゃらりと音を立てて射命丸さんの首から外れ。
次いで己の腕に巻き付いた。
「これ、は……!?」
「ぁ、あぁッッ!!?」
腕を締め上げた鎖が、さらなる力で引っ張られた。
はて、長竿で一本釣られた鰹の心持ちとはこのようなものであろうか。
叫び縋ろうとする少女の腕を抜けて、山なりに宙を踊る。
そう仕向けた釣り糸の主はすぐそこに。十六夜さんは銀鎖を巧みに操り、捕縛したこの無様な男を出迎える。
その表情、平素は努めて無を演ずる彼女の顔には今、千秋の待望が湛えられていた。
「さあ、こっちへ……」
光が奔った。
それは一陣の閃光。そして熱量。
純粋な光線熱によるヒートカッター。鎖が破断する。
同時に我が身は浚われた。
「ッ! ちぃぃいッッ!!」
物干しに吊られた洗濯物同然に去り行く己を、般若の形相で十六夜嬢が見送る。
箒であった。木の柄にコキアの毛先。それが己の衣服を引っ掻け、それ単体で飛翔していた。
誰の持ち物であるかは明白で、彼女が日頃これを愛用していることは周知である。
とはいえ。
「そ、そろそろ、いい加減に、して、いただきたい……!」
必死に箒の柄に手を掛け掴まりながら、精一杯に抗議を練る。誰も聞く耳を持つまいが。
「父さまは……私だけの! 父さまだぁっ!!」
「世迷言をほざくな妄想狂!! あの人は当館でお迎えする。貴様の出る幕などないッ!」
再び赫怒も露わに対峙する両者。歩み寄りの余地は絶無。目的を遂げるまで、彼女らは断じて眼前の妨害者を許容しない。その存在すら。
目的。目的とは。
事ここに至っては阿呆に徹して知らぬ存ぜぬと嘯くような真似は叶うまい。あるいはその不遜で少女らが心底この男に愛想尽かしてくれるなら、幾らでもそうしよう。
……無駄だ。己の悪足掻きも、浅知恵も、全て。
まさか。まさかだ。こんな、馬鹿げた話があるのか。
あろうことか彼女らは。事も有ろうに彼女らは。俺を、この俺を? 俺如きを?
こんな塵屑を取り合って────殺し合いを始めたのだ。
馬鹿げている! 間違っている! 常軌を逸している!
こんな、こんな割に合わぬ話があるか。芥の為に血を流し、埃の欠片で心を騒がせ、無価値なこの魂を懸けて、命を殺ぎ合うだと。
狂っている。ここは今、なにもかも狂っているぞ。
「お止め、を……! やめ……」
「消し炭にしてやる……!」
「ずたずたに切り裂いてやる」
憎悪の言霊が空を満たす。
己の声など風に浚われた。届きはしない。そんな力は俺にはない。器ではないのだ。俺に誰かの心を平定する能力など、一片とてありはしない。資格が、ない。
俺は弱者だった。
何事かを為し、人心に感動と変貌をもたらすこと能うのは傑物のみ。彼女らのような。この地に在る、幻想の少女らのような。
俺ではない。凡愚として埋没するより他ない己では、ない。己には、何もない。
何もないのに。
貴女達のような価値などないのに。
そんなものの為に。
「ッ……やめろォ!!」
声は消え去る。風に掻き消える。逆巻く風に。縒り集まる風に。収斂する
颯が────
「戯言を……言うな」
空が眩む。突如、黒雲が青空を覆う。
風が束ねられていく。際限もなく。そしてその目、その中心には黒翼を広げた少女が静止する。
嵐の主。
「事実は覆らない。もう、彼はこの射命丸文のものだ。もう遅いのだ。だから……お前達などお呼びではない!」
大気が満ち満ちて、遂に許容し得る圧力の限界を超え、空間が爆ぜた。
全てが。
消え。
失────
「ッ!」
急激な意識の再起動は脳の中枢を弾けさせた。
立ち戻った筈の視界が白化し、身体はそんな宿主になど取り合わず正常な血液循環に躍起になる。
酷い吐き気がした。
全身が揺動するようだ。
「大丈夫か」
「ぁ……」
違う。確かに身体は揺れている。
誰かに背負われて、揺れながら進んでいる。
誰かに。
最初に目に入ったのは、その銀糸の長い髪。肩越しに見上げた美しい横顔は、よくよく見知った御方のそれ。
「上白沢、さん」
「ああ、気が付いてよかった。随分ぐったりしていたから」
「自分は……」
「あぁいや、無理に喋らなくていい。意識喪失は軽い脳震盪の為だとは思うが、足が折れていてな。そこから出血もしていた」
足……なるほど。言われた途端、
「もう少しの辛抱だ。じきに隠れ家に着く」
「は……」
優しげな声は強かに瞼を重くした。頭を押さえ付けられるような眠気。痛みを忘れるには丁度良いが。
「申し訳、ありま……せん……」
「……いいんだ」
最後の気力を謝罪に費やし、己の意識はまた暗転した。
「…………すまない」