子供の家出は世の常と言う。
実際、反抗期に差し掛かった彼や彼女はその思いの丈を御しきれず、あるいは発散の機会を逸して、ある日突然に
突然に、というのは家出を知った周りの人間の所感に過ぎない。軽はずみな癇癪による突発的な事案などはかえって少ない。子供のすることには、いや多感な年頃であればこそ、そこには必ず一つ二つの理がある。
その少年にもまた理があった。
どうにも繊細で、重い理が。
少年と少年の両親は、血の繋がりを持たない間柄だった。
養母の
嘗てかの夫婦が、縋る思いで八意医師の診療を頼り……得られた結論がそれだった。
その絶望、如何ばかりか。
博麗神社の境内と麓を夫婦連れで百度参りする様を今でも覚えている。何度も、何度もだ。
ところが転機は突如、神仏の
里に
それこそは巡り合わせ、字義通りの運命だったのだろう。
夫婦は孤児を引き取り、目一杯の愛情で以て育て上げた。本当に、あっという間の十年だった。
────良い教えをくれてやってください、慧音先生
そう言って確と、託された。七五三を越え、ようやく神の手から離れようという年頃の子を。だというのに。
物心がつき始めた彼に、折悪く先の事実が知れてしまった。それも父母の口からもたらされた告白ではなく、級友の心無い揶揄によって。
柔な幼心に、それは鑢を掛けられるに等しい痛みを伴なったろう。
そして遂に少年は痛みに耐えかね、姿を眩ませてしまった。
里中を隈なく周り、自警団や知己の親御らも総動員で捜索してなお、少年は見付からない。
焦燥ばかり募る中で方々を探し尽くし、そしてようやくその姿を見付け出したのは、夜更けの森の奥深く。人間が生存を許された安全圏から出、
少年と、“彼”はいた。
かの青年はその日、自警団と共に駆り出されていた。おそらく早期に、少年が壁外の森へ迷い込んだ可能性を模索していたのだろう。
獣除けに焚いた火を、少年と彼は肩を並べて見下ろしていた。
私はそれを遠巻きに見ていた。声を掛け、なんとなれば早々に森を出て里へ取って返さねばならなかったというのに。
……
気付けば私は物陰に身を潜め、少年を、どうしてか彼を、見ていた。
「貴方は正しい」
低く硬く、鉱石の振動めいた声が夜闇に響く。
「貴方の、不安や寂しさや恐れ……怒りは正しい。正しいのです」
それは優しい声音だった。慈しみと労りに満ちた言葉の綿入れであった。
そして、それは心からの────同情であった。
「生い立ち、血の繋がり……そういうことではないのでしょう。貴方はただそのことを隠されていたのが、悲しかったのですね。嘘を、信じてきたことが」
しゃくり上げて泣く声がする。焚火の爆ぜに混じり、幾度も幾度も。
それを包み込むように、一層の穏やかさで、彼が微笑する。
「間違ってなどいない。不安も寂しさも恐れも怒りも、貴方は想って当たり前です。ただ、その想ったことを抱えて、痛くても辛くても、何も言わずに消えてしまう。それだけは少し……いただけない。帰ったらそれを全てご両親に打ち明けましょう。隠さずに。己もお手伝いします。きちんと説明して、わかってもらいましょう。きっと、わかってもらえます」
啜り泣きは、いつしか喘鳴に、程なくわんわんと大泣きに変わった。
「お父さんお母さんも貴方のことを愛しておられる。心から。心の底から。貴方は間違いなくご両親に
それがきっと、少年の欲した言葉だった。誰かに明らかにして欲しかったのだ。誰か、たとえ他人であっても。証し立てて、認めて、信じさせて欲しかったのだ。
私では、与えてやれない。あの子の望む言葉を私はああも迷いなく紡ぎ得なかったろう。
憐れむことはできても、
そう、彼にしか。
無事、里へ連れ帰られた少年を父母は涙を流して抱き留めた。もはや放すまい。離れまい。強く強く己を抱く二人の両腕から少年は存分にそれを思い知るだろう。
一件落着に安堵する。
傍らで同じようにして、親子三人を穏やかに見詰める青年を見やる。その時点で私の彼に対する評価はほぼ手放しに近かった。もともと謹厳実直な人柄には、自身の堅さ頑なさを自覚する身として親しみを覚えていたし、それが一個の人として純粋な好意に結び付いたとて、なんら不思議はなかった。
快い青年を。青年の、その目を見て。
「────」
あの時、私はそこに宿るモノを理解できなかった。いや違う。
しかし後に、彼の生い立ちと境遇を知ることでその不可解は実に円滑に氷解した。それは十分に理解の及ぶものだった。人として、瑕疵の無いものだと感じる。無理もないのだと納得できる。そう思う。一個人として、一教師として。そう……思うのに。
それで済む筈だ。それだけのこと。それだけ。
だのに私はひどく当惑した。
彼を理解した途端、胸に湧き出た感情の色に。煮立ち泡立ち、甘く匂い立つ。
その、淀みに。
重い重い闇が眼球を圧している。
沼の淵に、身を浸すような。
目蓋を持ち上げても、見上げた頭上にはそればかりが覆い被さり、果たして目蓋が本当に開いているのかはたまた開いたつもりで実のところそれは閉じられたままなのか、一向に判然としない。
愚昧な発想と、無意味な思考ばかりが巡る。
脳は万全とは程遠かった。失血が予想より酷いのやもしれない。先生は確かそう言われていた。
先生が────
「……!」
泥土のように遅滞する意識が急速に回復する。
意識喪失までの顛末が、早回しの活動写真めいて脳裏を走る。
少女ら三人。激しい空中戦の末、射命丸さんの風力操作が戦場そのものを吹き飛ばした。
その後、彼女らはどうなった。
魔理沙さんの箒によって己は単身での墜落だけは免れたが、木々の枝葉末節に強か全身を打たれ、随分遠く飛ばされたように思う。
それから、俺は、あの方に。
そう、上白沢さんに背負われて。
背負われて……どうしたのだ。
一言二言を夢現に交わし、それから記憶は断絶している。またしてもこの劣弱な脳髄めは
ならばなおさらに状況の把握こそは急務であった。
「ここは……」
「おはよう」
呟きに、まさか応えがあるなどとは思わず、驚きを以て声の方を見やる。
そこには相も変わらぬ暗闇が広まるばかり。
が、しかし、その只中に、うっすらと。
闇に依らぬ陰影が、ある。
それを確かめようと目を眇めた時、突如、光が眼球を焼いた。
燭台に一本、蝋燭が立てられている。暗順応した視神経を直に炙る、灯。
その傍らに彼女はあった。淡い橙の
畳に横座りしてこちら見下ろす白い
「上白沢さっ、ぐっ、ぉ……!?」
「あ、こら! 無理に動くんじゃない」
反射的に仰臥から上体を起こそうと試み、それは見事に失敗に終わる。
左
す、と頬に手が触れる。女生の冷えた指は、ガーゼ越しにも熱を持った傷口にひどく心地よい。
「気分はどうだ? 痛みは酷かろうが、吐き気や目眩はあるか?」
「いえ……」
「そうか」
微笑する。彼女は実に、喜悦に満ち溢れた顔をしていた。
頬にあった掌がそのまま額に当たる。
「ん……熱も下がったようだ。傷口はすぐに洗って処置したが、破傷風にでも罹ったかと心配したよ」
「お手数を、お掛けします」
「ふふ、したくてしていることが手数なものか。さ、喉が渇いたろう。少し水を飲みなさい」
そう言うと、彼女は枕元の小抽斗の上から硝子製の急須……病人用の吸飲みを手に取った。
「い、いえ、そこまでしていただく必要は……そう、それより、なによりも上白沢さん! あれから彼女らは……!」
「まずはこれを飲みなさい。話はそれからだ」
「…………器を。身を起こす程度は可能です」
痛みを無視すれば、少なくとも上半身は脳髄からの伝達指令に従う。
掛布団を払い、軋む筋骨を引き上げ、彼女の手から改めて差し出された青竹の水筒を受け取る。
心なしか、不満げな視線を頬に感じた。
「あの暴風……あれから彼女らは、皆さんはご無事なのですか?」
「……生きている。台風の目、というか張本人の文は言うに及ばずだが。咲夜の能力は逃げに徹して逃げ切れぬ道理はないし。魔理沙はまあ、多少手傷を負ったようだが、ぴんぴんしている。普段よりむしろ喧しいくらいさ。君がいないからな」
どうしてか囁くようなその語気に、言い知れぬ険が孕んだ。刺の質感を覚えた。
不可解な印象を、しかし一旦頭の片隅に退け、ともかくもその報に己は安堵した。
最悪の事態だけは回避されたのだ。
溜め息一つで胸中の含みを取り除いた上白沢さんは、柔らかな笑みを己に呉れた。
「安心したかい」
その笑みにもまた安堵を、覚えて。
────しかし、これが完全な終結などとどうして迂闊に宣えようか。否である。断じて否である。
「行かねばなりません」
「……」
布団から這い出て、手近な壁を支えに片足で立つ。乾き、ややも朽ちた土壁が掌にこびりつく。
歩行に支障はあるが最低限の前進移動力があるならば問題ない。
「どこへ」
「十六夜さん、魔理沙さん、射命丸さん、各々方の許へ」
「行って、どうするんだ」
「話し合いを」
女生は吹き出し、笑った。嘲弄の調べを隠しもせず。
「ふふっ、くふふふ、さぁて聞く耳を持つかな。あれらも余裕が無いゆえ、あのような騒ぎになったのだろう?」
「持っていただく、如何様にしても」
「どうやって」
「…………」
試すように、あるいは揶揄すら込めて、彼女は問うた。
思えぬが、だからとて。
何もせず、安穏を貪る権利とて、己には無い。断じて、ありはしない。
「話し合い、ね。奴輩がそんな行儀を弁えた連中かどうか、君とて容易にわかるだろうに」
「激しい血をお持ちなのだと、先達て痛感を得ました」
「なら」
「しかし幸いにも、どうやら己の手の内には有効な交渉材料が存在します」
「……それは」
「この身命を。
「…………」
到底信じ難いことだが、かの少女らの求めるものとはあろうことかこの身である。ゆえにこそ先の折は、三者入り乱れての争奪戦が幕を開けた。
もし、対話に応じられぬと仰せならば。
「
「────」
道義という観点でそれは卑劣を極めるが、方策としてこれ以上無く有用だ。
争いを止める。その一点における最大抗力。
「君は……本当に、どうしようもないな」
「……申し訳ありません」
返す言葉はなかった。
現在進行形で上白沢慧音という女性は俺にとって命の大恩人。その厚意に泥を塗るが如き所業を働くと、己は厚顔にも今この瞬間宣言したのだ。
忘恩の謗りは免れない。如何にしても。
無責任な謝罪を言い置いて、己のすべきことを行う為に。
俺は踏み出す。
不恰好に踏み出そうとして、はたと気付いた。足を止めて、片足で立ち尽くす。
「どうやって?」
「…………」
彼女は問うた。同じ文言、同じ調べ。試すように、それでいて子供を
最初から、そう。己がここで目覚めた時から。
俺は、今更に過ぎる違和を覚えた。
上白沢慧音、思慮深く、慈悲深く、生真面目なひと。だのにそれは匂い立った。そんな彼女にあるまじきものが、甘く、絡み付くように鼻腔を満たし脳を痺れさせる。
この、姦悪。
目を開き、彼女を見付けたその瞬間にも問うべきだった。遅きに失した。失念と呼ぶのも躊躇うほどの間抜け。
「上白沢さん」
「んふふ」
「お訊ねしても、よろしいか」
「どうぞ」
背後より灯りが近寄る。
手燭を携え、彼女はそっと己の背中に寄り添った。己の背筋に、おそらくはその額を押し当てて。
横合いから蝋燭が差し出される。
真なる闇の中では、その儚げな光さえ一際強く周囲を照り付けた。
明るむ。目の前が。
まず真っ先にこの目が捉えたのは、太い木枠であった。
木製の格子が組まれ、それは壁と床と天井に刺さっている。内界と外界の往来を阻んでいる。とりわけ中から出さぬ為の、強固な遮蔽物。檻。
牢。
「ここは何処なのですか」
「教えてあげなぁい。あはははははははははははははははははははははははははははは」
教職を奉ずるその女性は、明け透けなまでの姦悪さでこの身に対する教授を拒否した。